「賄賂は腐敗ではない」民本主義と法治主義(続)―趙景達2014/03/02

http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2014/02/28/7233914  前回で趙景達さんが論じる、朝鮮民族の政治文化の「儒教民本主義」というのが、実は賄賂を肯定するものであることを論じました。 この伝統は今の韓国の政治にも受け継がれていると考えられます。

 古田博司氏は韓国の歴史を振り返って、「韓国の歴代大統領は、亡命・暗殺・不正蓄財・親族の汚職・自殺などで不吉な末路を遂げた」と言っておられますが、正にその通りです。 このうちの「不正蓄財・親族の汚職」というのが「儒教民本主義」の結果でしょう。

 全斗煥大統領(第11・12代)は退任後、不正政治資金・不正蓄財で収賄罪に問われ、2900億ウォン(約290億円)の追徴金を命じられました。

 盧泰愚大統領(第13代)も退任後、不正政治資金隠匿が発覚し、追徴金2200億ウォン(約220億円)が課せられました。

 盧武鉉大統領(第16代)も退任後、親族・側近が不正献金や贈収賄罪で逮捕され、さらに本人へも収賄罪容疑の捜査を受け、逮捕間近の時期に自殺しました。

 以上は事件となって公にされたものですが、それ以外の大統領も暗殺や亡命などで追及されなかっただけで、おそらく似たり寄ったりと見てもいいでしょう。 最高権力者がこうですから、取り巻き連中から権力末端に至るまでどういう状態であったか、想像できます。

 趙景達さんが「独裁時代には賄賂で交通違反を許すことが結構あった」と回想されていることは事実であり、独裁時代が過ぎて民主化されてからも続いてきたと言えるでしょう。 しかしそんな韓国も西欧近代の法治主義(規律主義)を目指しつつあるからこそ、大統領の賄賂は事件として立件され、明るみになったものと思われます。

 しかしながら趙さんは「それは、単に腐敗というものではなく、違反者の事情を斟酌してのことでもある。 韓国社会というのは、本来規律よりも教化を重視する社会なのだ」として、賄賂を肯定的に見ています。 この考え方は、彼の大学教授という立場上いかがなものかと思います。

 ところで北朝鮮ではどうなのでしょうねえ。 脱北者や北を訪問した総連関係者の手記などを読むと、賄賂は当然のことで何ら罪意識がないようです。 趙さんの言う「儒教民本主義」は北朝鮮でもっと力強く生きているのかも知れません。

私がコメントしない訳2014/03/06

1、 以前は議論が大事だろうと思って、本ブログで投稿いただいたコメントに対して、こちらもコメントしてきましたが、このようなことすることが無駄だと悟り、昨年10月よりこちらからコメントをしないこととしました。

2、 コメントの投稿の全てではありませんが、レイシズムや不勉強のもの、およびこのブログを利用しての自己宣伝のようなものが多く、議論が生産的でないからです。

3、 あるコメント投稿者は韓国・朝鮮に対して批判的な文章ばかりを見つけようとする傾向があります。 いわゆる嫌韓・反韓です。 

4、 私は韓国・朝鮮をトータルに理解せねばならないと考えています。 以前はその妨げになっていた左翼・革新系の人たちの主張を批判してきましたが、今は逆の嫌韓・反韓の動きが大きく、これが韓国・朝鮮をトータルに理解するのに大きな妨害者となって現れています。 その弊害は左翼・革新系よりはるかに悪質と言わざるを得ないほどのものです。 嫌韓・厭韓投稿者を「レイシスト」「レイシズム」と呼ぶ所以です。

5、 嫌韓・厭韓コメントを投稿する人は、ほとんどすべてが具体的な体験を持たず、また研究や研鑽をすることもなく、インターネット上で得た知識や嫌韓雑誌・嫌韓本の記事だけに安易に拠っています。 こういった知識を得たならば、それが正しいのかどうか、その根拠は何かについて、図書館へ行くなりして資料や論文を探して読んで検証しなければいけないものを、そんな努力を全くしようとしない人たちばかりです。

6、 例えば特別永住資格を問題にするのなら、126-2-6、4-1-16-2、4-1-16-3が何の数字かを当然知っていなければなりませんが、全く知らないし、知ろうともしません。 あるいは特別永住と協定永住についてインターネットで間違いの解説がされているのですが、それをそのまま信じている人もいます。 これで「特別永住反対!」を叫んでいるのですから、呆れるしかありません。 昔、安保条約の条文を全く読まないで「安保反対」を叫んだ左翼・革新系のレベルと変わりません。

7、 また韓国での取引で10ウォン以下単位の差額支払いを「ケンチャナヨ(結構です)」として断わられたことでもって 「韓国人はいい加減」の根拠として、まるで鬼の首を取ったかのごとく特書大筆する人もいます。 しかし韓国は20年以上前から10ウォン以下の硬貨は通用していません。 だから現金取引で10ウォン以下のやり取りは、例え銀行でも物理的に不可能なのですが、それを知らずに 「だから韓国はいい加減なのだ!」という主張を声高く言うような人にはうんざりします。レイシストだからそうなんだと納得せざるを得ませんでした。

8、 レイシストでも在特会とかに関係する人、あるいはその傾向の人のコメント投稿が多いです。 在特会は街頭で「死ね」「殺せ」「ゴキブリ」などと叫ぶ集団です。子供がこんなことをしたら、周囲の大人たちが ‘そんなバカなことをするな’ と、たしなめねばならないものですが、子供ではなく、いい年をした大人がやっています。

9、 彼らはこれまでどんな教育や躾を受けてきたのでしょうか。 そして彼らはこの醜悪な言動を確信犯的にやっていますので、単に叫ぶだけでなく実践に移す可能性が十分にあります。つまり在特会は犯罪者集団化への道を歩んでいるレイシスト集団と判断できます。 このような集団とは、これに同調・同情する人も含めて、一切関わるべきではありません。  公安当局が介入して、彼らが行動に移すことを事前に阻止することを祈るのみです。

10、 レイシストたちは大言壮語=法螺が多いです。「韓国にものを言わせてやる」なんて言っても、韓国語ができないでどうして「ものを言わせる」ことができるのでしょうか。ただ日本国内で日本人相手に日本語で吼えているだけです。

11、 レイシストですから自分たちのことは棚上げにして他民族への悪罵ばかりが出てきます。自分の本名を明かさずに匿名ばかり使いながら、他に対して「通名禁止!本名を名乗れ!」と迫るのは頭の構造がどうなっているのか疑わざるを得ません。これもやはりレイシストだからと納得しました。

12、 不勉強な人の投稿が多いのにも困ったものです。以前でしたら、それは間違いですよ、と指摘したり議論したりしてきたのですが、これもバカバカしくなりました。

13、 私とコメント投稿者との間は、教師と学生という関係でもなく、またお金を頂くお客様という関係でもなく‥‥そんな人の投稿をこちらが無理に読む義理はないと悟りました。こちらに役に立つものだけを読むようにします。

14、 以上により投稿されたコメントは、悪質なものや役に立たないものは公開しないようにするとともに、これからも私からコメントして議論することを控えることにします。私の意見は本文記事で出すようにします。

漢字を廃止した韓国で「知的荒廃」?-呉善花(12)2014/03/09

 本ブログで「漢字を廃止した韓国で『知的荒廃』?」と題する論考を発表しました。     漢字を廃止した韓国で「知的荒廃」?-呉善花(1)~(11) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2014/01/10/7183064 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2014/02/10/7218555

 これに対して批判的投稿がありましたので、ここでお答えします。

呉善花さんが指摘するとおり、これによって日本理解が曲げられるのであれば、やはり日本人が憂慮すべき問題です。

 呉善花さんの『漢字廃止で韓国に何が起きたか』では、漢字の廃止が日本理解を曲げているという指摘はありません。 他に呉さんのいくつかの本に当たってみましたが、そういう指摘はありませんでした。呉さんの考えを勝手に憶測した上で「日本人が憂慮すべき問題」とまで論じるのは、いかがなものでしょうか。

ハングル、英語いずれも「表音文字を使いながら」とありますが、ハングルに相当するのは、英語では発音記号ではないですか。 カナは英語の発音記号に相当(同じとは申しませんが)する

 日本で発行されている主要な韓国語辞典では、ハングルで表記された見出し語の後に発音記号が付されています。 従ってハングルと発音記号とは別物です。 これは韓国語の初歩ですねえ。

 なお呉善花さんは「ハングルは表音文字ということで西洋語と同じ」(28頁)と明記しておられます。

ハングルにも英語の綴りのようなものが、あるのでしょうか?

 こんな程度のことを調べる手間を惜しんではいけません。 まずは韓国語辞典か韓国語教科書かを取り出して、철자をご自分でお調べください。こんな初歩のことすら、しないとはねえ。

ハングル一覧表を見る限り、その意味ではハングルも同じ

 ハングルは40個の字母からなる文字で、理論的に1万1千字、実際には5千字足らず、日常生活で使用するのは2千数百字ほどになります。 30年以上前のワープロがなかった時代には、活字を拾う関係上このような数千文字のハングル一覧表があったようですが、今はないでしょう。

 身近にあるとしたら日本語話者用の五十音対応ハングル表ぐらいです。これはたった50文字です。 こんなことでハングルを分かったつもりになるのは、いかがなものですかねえ。 いくら無知とはいえ、ちょっとねえ。

仮名交じり文体を作り上げた、私たち日本人の祖先の知恵に驚嘆すると同時に、過謝しております。  韓国の人も、中国から多くを学んだことを尊重して、漢字とハングルが融合した、朝鮮言葉に固有の美しい文体を作り上げてはどうでしょうか。 韓国も日本に倣って、美しい韓国語の表現を開発されてはいかがですか

 我が日本語は「美しい」から韓国はこれに「倣って」言葉を変えよという主張は、今の韓国語が「美しくない」ということです。 このような他国・他民族を見下すような言い方は、果たしていかがなものでしょうか。 韓国語の知識がなくて韓国語を蔑むというのは、到底理解できるものではありません。

私は韓国語がわかりませんので      ご指摘の通り、韓国語は存じておりません      言葉について素人なので      私は言語に精通したものではありまあせんが      英語のように、もともと音標文字では      「love」という英語の単語を「ラヴ」と読むのが音読み、「あい(愛)」と読むのが訓読みに相当する

 韓国語が分からないと言いながら韓国語を論じること自体がどうかと思えるのに、さらに全く関係のない英語の例を持ち出してくるのは、いかがなものですかねえ。 これを機会に韓国語を勉強した上で、改めて論じてもらいたいものです。 無知であるなら、まずは勉強すべし、です。

 無知な人が自分の無知を恥じずに意見を言うというのは、厚顔無恥という言葉が当てはまります。リアリティのない憶測が繰り返されると、空想・妄想となります。  

韓国語知らない者を論破されるのが王道

 無知に基づく空想をする人を相手に、「論破」「王道」はあり得ません。

こんなメールが来ました2014/03/12

 拙HPを訪問して『第17題「朝鮮人は朝鮮に帰れ」考』を読んだ方が、自分の意見をメールで送ってきました。 今なお、こういうことを言う人がいるんだとビックリ。その方は自分のメールは公開しないようにと要望されたので、こちらの返事メールを公開します。

「朝鮮人は朝鮮に帰れ」考 http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daijuunanadai

 メールありがとうございます。

つまり、「強制連行」で「やむにやまれず」日本に居住していると主張している人はほとんどいないはずです。在日韓国朝鮮人が「『自分たちは強制連行された』と主張している」というのは、客観的裏付けのない、日本人が作り上げたステレオタイプなイメージに過ぎないのではないでしょうか。

 これについては、鄭大均さんの『在日・強制連行の神話』(文春新書)が明瞭に論じておられますので、お読みになることをお勧めします。強制連行説を最初に唱えたのは朴慶植氏であり、それ以降在日だけでなく、日本人にも広まり、今は教科書や辞典に至るまで「強制連行説」が記されています。

彼らに「帰る」場所など存在しないのではないでしょうか。

 在日が主観的に「祖国に帰る場所はない」と考えていても、外国籍である以上、帰属している国家は日本ではなく、韓国・北朝鮮です。在日は韓国にも北朝鮮にも、いつでも帰る権利を有しています。

アメリカの黒人が、アメリカで差別を受けているからといって、行ったこともないアフリカの「祖国」に「帰」れますか? 奴隷解放後アフリカにもどってリベリアを建国したような連中もいましたが、ほとんどの黒人は激しい差別を受けながらもアメリカに残りました。それを考えれば、そんな簡単に「祖国」に「帰」れなどしないことは、お分かりいただけると思います。

 アメリカの黒人はアメリカ国籍を有しています。アメリカ黒人を保護する義務がある国家はアメリカです。            在日は日本国籍ではなく、韓国・朝鮮籍を有しています。在日を保護する義務がある国家は日本ではなく、韓国・北朝鮮です。韓国や北朝鮮は自国民である在日について、日本に対して要求することができますし、また彼らを引き取ることもできます。           これは大きな違いですので、同等に取り扱うべきものではありません。

あなたの理論は、「朝鮮人は朝鮮に帰れ」という差別発言について、そのように言われる原因は在日朝鮮人側にあると受け取れるもので、差別を助長する意見のようにしか思えません

 自分たちは自らの意に反して強制的に連行されてきたという主張に対して、だったら元いたところにお帰りになるのが一番いいのではないか、という疑問ですねえ。この疑問は自然に出てくるもので、差別とは関係のないものです。

同化か排除かしか認めない日本社会にも問題があるのではないでしょうか。

 「日本社会にも問題がある」とあります。 「にも」とあるからには、在日「にも」同じように問題があるということですね。これを詳しく考察してほしいですね。

普通に日本社会で暮らして普通に税金も払っていて、これ以上何を求めると言うのでしょうか。

 「普通に税金も払っていて」というご意見は、税金を払っていないどころか、税金を貰って生活している生活保護の在日に対して「帰れ」という主張に繋がりますのでご注意ください。

 「やむにやまれず論」「強制連行説」は在日に被害者意識を植え付けるものであり、これに基づく様々な在日問題の運動が展開されてきました。この運動には在日も日本人も関わってきており、今なお大きな影響を及ぼしています。

古田博司 『醜いが、目をそらすな、隣国・韓国!』(1)2014/03/15

 最近出た古田博司『醜いが、目をそらすな、隣国・韓国!』(WAC 2014年3月)を購読。

 古田さんもついに嫌韓本の著者となられたようです。 今のご時勢ですから、かなり売れるでしょうね。 しかし彼は実証的な歴史研究をして来られたし、経験も豊富な方ですから、扇情的な部分を除けば、勉強になる内容です。 少しずつ読みながら感想を書いていきたいと思います。

最近、朝鮮が好きか嫌いかという質問をよく受けるようになった。もちろん、民衆は好きだが、支配層・知識層は大嫌いである。前者は「率直・単純・端的・直入・きんきら・のびやか・あっけらかん」だが、後者は「ウソつき・ほら吹き・卑劣・ごますり・ふまじめ・エラそうな・見栄っ張り」である。好きになれるわけがない。(4頁)

教育程度の高いものほど日本や日本人を敵視する。月町(タルトンネ 下町のこと)のおばちゃんほど日本人のことが大好きである。(182頁)

 これと同じ体験は私もあります。 私の場合は本国の韓国人ではなく、いわゆる在日韓国・朝鮮人です。 数十年も日本で生活して来られたハルモ二(おばあさん)たちは、字の読み書きもできないまま家庭を守り、子供を育ててこられました。 彼女たちは、まさに「民衆」であり「率直・単純・端的・直入・きんきら・のびやか・あっけらかん」です。 在日の若い民族活動家たちに 「そんなに日本が悪くて嫌いやったら、はよ韓国に帰らなあかんで。」 「うちら日本に住まわせて貰っているんやから、指紋ぐらい押したらええねん。」 「日本に来て苦労したけど、住めば都で、日本もなかなかいい所や。」 と堂々と言っておられました。

 先ほどの若い民族活動家というのが「支配層・知識層」にあたる人で、これこそ「ウソつき・ほら吹き・卑劣・ごますり・ふまじめ・エラそうな・見栄っ張り」でした。 ある活動家は講演で「私の親は強制連行で来ました」と言ったので、後に私的に会った時に、あなたの親は戦後の来日なのに何故強制連行なのかと問うたら、「それでも強制連行と言わなければならない」という答えでした。

 「日本は我々に日本名を強制している」などと言う活動家に、あなたの実家を訪問したら家族中で日本名を使っていたし、民団などでの集まりでもみんな日本名をお互い名乗り呼び合っているじゃないの、日本名は強制されていないじゃないの、と問うたら「そんなこと日本人が言うもんじゃない!」と凄まじく怒られましたねえ。

 産経の黒田勝弘さんが次のようなことを書いておられます。

以下はその後に、さる韓国人の主婦から聞いた話だ。ソウル近郊に住んでいるのだが、週末には近所の教会に通っている。       大震災の後、牧師はそのことに触れて「日本の災難は過去の歴史的罪による天罰だ」と説教したという。          ここまでは当時、ネットでもあったことだ。ところが教会では説教を聴いていた主婦たちが「あまりにひどいことを言う!」と騒ぎだし、多くの信者が退場してしまった。一般の韓国人のほとんどはきわめてまともな感覚の持ち主なのだ。それを「反日」とか「歴史」などという観念に汚染(?)されたマスコミや牧師(つまり知識人)がしきりに民を扇動するというのが韓国の反日の構造である。

http://sankei.jp.msn.com/world/news/140301/kor14030103340000-n1.htm

 ここで出てくる牧師さんは「支配層・知識層」で、説教を聴いていた主婦たちは「民衆」でしょう。

 古田さんの「(韓国の)民衆は好きだが、支配層・知識層は大嫌いである」は、私も含めて多くの人が共感できるものではないかと思います。

古田博司 『醜いが、目をそらすな、隣国・韓国!』(2)2014/03/19

朝鮮の城は石垣が真っ直ぐだ。日本の城は忍び返しになっている。忍者などが入ってくると落ちてしまう仕組みだ。(33頁)

 これにはビックリ仰天。「忍び返し」というのは、侵入者除けのために塀の上などに取り付けている装置です。昔は逆さにした釘やガラスの破片を立て並べたりしていましたが、今はしゃれたデザインの「忍び返し」が販売されています。

 古田さんはおそらく勘違いして、オーバーハング(或いは「持ち送り」とも言います)という意味で「忍び返し」を使ったのかなと思うのですが、日本の城の石垣でオーバーハングのものはありません。

 日本の城の石垣は単独で立っているのではなく、高台に作られたお城の斜面、あるいはお堀の斜面に石を積み上げています。石垣の下部は横方向の土圧が相当にかかりますから、これに耐えるためには石垣の勾配を緩めて広がるようにしなければなりません。だから日本の城の石垣は斜めか八の字に広がっています。上に行くほど土圧が少なくなりますから垂直にすることができますが、持ち送ってオーバーハングにすることはありません。

 朝鮮の城の石垣が真っ直ぐなのは、高さが低いので土圧がそれ程かからず垂直でも耐えられるからと思われます。あるいは石を積み上げた塀なのかも知れません。これなら土圧が全くなく、石自体の重みで維持できますので、真っ直ぐな石垣になります。

 ところで石垣は手や足を引っ掛ける隙間がありますから、登るのは比較的容易です。敵の侵入を防ぐのであれば、石垣はないほうがいいです。素掘りの堀で、手足の引っ掛けるところがないように滑らかな急斜面を作るほうが実戦的です。ただしこの場合は、草が生えたり雨で斜面が抉れたりすると簡単に侵入されますから、ごく短期間の戦闘にしか使えません。従って敵と遭遇することが予想される場所で、その時の戦闘のみに使おうとするならば、素掘りで築いた堀の方が短時間で築造できることもあり、優れているのです。

 築城する際に素掘りの堀ではなく石垣を築くということは、この城が一時的なものではなく、かなり長期間維持しようとする意図があります。つまり城に石垣を築くのは、単に敵との戦闘をするだけのためではなく、その一帯の領地を経営しようするからです。

 韓国には豊臣秀吉の朝鮮出兵(壬辰・丁酉倭乱)の際に日本軍が築いた倭城がいくつかあり、日本風の石垣が残っています。これについて古田さんは、

(日韓歴史共同研究の)会議の際に豊臣秀吉の朝鮮出兵の話題が出た。最近は研究が進んできて、日本の占領地にどんどん朝鮮農民が逃げてきていたことが分かっている。朝鮮の李朝はひどくて、日本のほうがずっといいから、占領地に城下町もできてしまった。(32頁)

と書いていますように、それは日本軍に石垣を持った城を築いて領地経営しようとする意図があったからと言えます。

 ところで最初の話に戻ると、石垣をよじ登る敵を撃退するのは「忍び返し」ではなく、「石落とし」です。これについては以前に論じたことがあるので、ご参考ください。歴史の雑学にしか過ぎませんが‥‥。

「石落し」は石を落とすものではない http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2010/11/13/5499534

古田博司 『醜いが、目をそらすな、隣国・韓国!』(3)2014/03/21

(朱子学によると)聖人・君子・小人・禽獣・草木の差別があり、より優れたものがより劣ったものを統治する。 この階梯を昇るために儒教の古典を読み、心安らかに徳を鍛え、中国の礼教に則って冠婚葬祭の礼法を実践し、磨くのである。そうすると濁った気が晴れて次第に澄んでくる、とした。 三年間の喪に服さなかったり、再婚した女性を棍棒でうちすえる行為を「民の濁気を払う」としていた。(69~70頁)

 古田さんによると、朝鮮朱子学ではこの世にある存在には「聖人・君子・小人・禽獣・草木」の五つの階級があるそうです。 ここでは五つですが、朝鮮中世史の長森美信さんによれば少し違います。 まずこの世は「人間・禽獣・草木・器物」の四種類であり、さらに人間は「聖人・賢者・君子・小人・夷狄」の五種類に分かれて、この順番で階級差別を成します。 これをもう少し、私なりの説明をします。

 「聖人」とは孔子や孟子、朱子のような儒教の大家で、人類史上数人しかいません。

 「賢者」は儒教を極めた偉い学者さんのことで、これは数十人ぐらいになるそうです。 韓国では以上の「聖人」と「賢人」の位牌を祀る廟が今もあります。 ここまでは言わば儒教のノーベル賞級の人たちですから、普通の人間がなれるものではありません。

 次が「君子」。これは儒教の学問と徳を備え、礼法を十分に守っている人です。 これは中世の朝鮮では、いわゆる支配階級あるいは知識人と同じ意味で、「両班(やんぱん)」階級とも言ったりします。 この両班階級の実態については、尹学準さんの『オンドル夜話』(中公新書)や『歴史まみれの韓国』(亜紀書房)などに分かりやすく書かれています。

 その次が「小人」。儒教を知らず、徳というものから程遠く、礼法をわきまえない人たちです。 下層階級あるいは庶民、民衆に当たるもので、朝鮮史上では「常民」「常奴」(サンノム)という用語になります。これは沢山います。 小人は君子から支配されており、服従して当然の人たちです。 しかし小人でも儒教を修めて礼法を守っていけば、君子になることができます。

 以上の「君子」と「小人」という階級差別思想は、今の韓国にも色濃く残っていると考えられます。 古田さんは 「民族の行動パターンは李朝と同じ。財閥企業のエリートが両班であり、一般人は常民だ」(118頁)と喝破しておられます。

 その次が「夷狄」です。これは未開・野蛮の世界の人々のことで、「化外の民」とも言い、人間では最低のランクです。 ここになると文化・文明とは縁のない世界になります。 夷狄であっても一応人間ですから、話は通じるとされます。もし夷狄に文化というものがあったとしたら、それは文明人である我が韓国人が教えてやったものだというような考えになります。 韓国人が日本人を夷狄扱いするのは、現在も続いていると見ていいでしょう。

 以上までが人間の階級秩序です。 ところが19世紀になると欧米の勢力が朝鮮半島にも押し寄せてきました。 このとき朝鮮の「君子」たちは、西洋人を夷狄どころか「禽獣」扱いしました。 人間ではなく、犬馬と同様の動物としたのです。 言葉すら通じない獣だったのです。しかし今では韓国人にとって欧米の文化は憧れの対象となっていますから、西洋人は禽獣から脱し、夷狄・小人を飛び越して、君子の扱いをされていると言っていいでしょう。

 しかしアジア・アフリカは今なお禽獣のようです。東南アジアから韓国に嫁に来た女性が、夫だけでなく家族すべてから「猿」と呼ばれて人間扱いされなかったと涙ながらに訴える韓国語ニュースがありました。 猿は日本では可愛い動物ですが、韓国では嫌われる獣です。

 以上のような差別意識を「華夷思想」と言います。問題は韓国がこの華夷思想を引き継ぎ、そして今なお根強いことです。

 朝鮮史の山内弘一さんは次のように言っています。

自国中心の独特な文明意識は、歴史の研究者も無意識にもっている‥‥ある高名な国史(韓国史)の研究者は、日本人に向けて書いた文章のなかで、日本の植民地支配にかんする「当時は帝国主義の時代であり、ほかの西欧列強も同じことをやったのだから、日本だけが問題にされるのはおかしい」というある日本人の見解について、韓国をアフリカや東南アジアの諸国と同列におくという事実にたいして、韓国人は強い不快感を感じていると述べている。 ここにはアフリカや東南アジアの諸国の人びとが、これをみてどう思うかという発想はなさそうである。 (山内弘一『朝鮮からみた華夷思想』山川出版社 2003年8月 4頁)

 現在の韓国内では自分たちが有しているこの華夷思想について、分析・究明そして自省しようとする社会的な動きがなかなか出て来ません。 日本人には華夷思想の不条理さに気付き指摘する人が多いのですが、韓国人がこの批判に耳を傾けることはないです。

 華夷思想はレイシズムそのものなのですが、韓国人から離れられないのです。 華夷思想は韓国人にとって余りに当然と考えられていて、自分たちではその問題の深刻さに気付かないのではないかと思われます。

古田博司 『醜いが、目をそらすな、隣国・韓国!』(4)2014/03/26

 先に朝鮮朱子学の階級差別思想を概説し、華夷思想を説明しました。 華夷思想は異民族への差別思想ですが、国内では同一民族でも「君子(両班)」「小人(常民)」という階級差別思想があることは既に触れました。今度はこの階級差別の実態がどういうものだったか、李朝末期に朝鮮を旅行した英国人女性旅行家イザベラ・バードの記録がありますので紹介します。

朝鮮の災いのもとのひとつにこの両班つまり貴族という特権階級の存在がある。 両班はみずからの生活のために働いてはならないもので、身内に生活を支えてもらうのは恥とはならず、妻がこっそりよその縫い物や洗濯をして生活を支えている場合も少なくない。 両班は自分では何も持たない。 自分のキセルすらである。両班の学生は書斎から学校へ行くのに自分の本すら持たない。 慣例上、この階級に属する者は旅行をするとき、おおぜいのお供をかき集められるだけかき集めて引き連れていくことになっている。 本人は従僕に引かせた馬に乗るのであるが、伝統上、両班に求められるのは究極の無能さ加減である。 従者たちは近くの住民を脅して飼っている鶏や卵を奪い、金を払わない。‥‥(イザベラ・バード『朝鮮紀行』時岡敬子訳 講談社学術文庫 137頁)

非特権階級であり、年貢という重い負担をかけられている夥しい数の民衆が、代価を払いもせずにその労働力を利用するばかりか、借金という名目のもとに無慈悲な取り立てを行なう両班から過酷な圧迫を受けているのは疑いない。 商人なり農民なりがある程度の穴あき銭(銅銭)を貯めたという評判がたてば、両班か官吏が借金を求めにくる。 これは実質的に徴税であり、もしも断ろうものなら、その男はにせの負債をでっち上げられて投獄され、本人または身内の者が要求額を払うまで毎日鞭で打たれる。 あるいは捕らえられ、金が用意できるまで両班の家に食うや食わずで事実上監禁される。 借金という名目で取り立てを装うとはまったくあっぱれな貴族であるが、しかし元金も利息も貸し主にはもどってこない。 貴族は家や田畑を買う場合、その代価を支払わずにすませるのがごく一般的で、貴族に支払いを強制する高官(警察)など一人もいないのである。(同上 138頁)

 この本はイザベラ・バードが120年前の日清戦争の頃に朝鮮を実際に旅行して見聞したことを書いたものです。 彼女は鋭い観察力、事実の正確さ、推論の適切さに秀でており、両班と常民を描いたこの部分も事実と見ていいものです。

 両班(君子)は「学問と徳を修め、礼法を守る」という自らを課している道徳に反しているのではないかと感じたならば、それは現代人の発想です。 儒教礼学を実践する両班は、儒教を知らない常民(小人)とは対等ではあり得ず、一方的に支配し服従させるものなのです。 買えばお金を払う、借りたものは返す、という現代では当たり前の倫理は、両班と常民との間では成立しなかったのです。 常民は両班の無理難題に黙って従う、それが朝鮮の中世社会です。

 そして儒教を修め礼法を実践する両班らは、常民たちに儒教を教えてやらねばならないと使命感に燃えます。 古田さんは次のような歴史事実を記しています。

朝鮮では‥‥15世紀から中華の「礼」を核とする朱子派の儒教を全幅に受容し、その実践を始めた。その過程は‥‥人為強制的で直接身体に暴力の及ぶ思想教化であり、排他的な社会改造であった。     ある日、突然、捕縛吏がやってきて、親の三年の喪に服していないといっては彼を棍棒で打ちすえる。良い墓地を探そうと骨を安置しておけば、不葬者として一族絶島送りになる。良婦二夫にまみえずという節婦道徳を強制され、前朝の風習通りに夫の喪をといて再嫁していた女性は捕らえられて、拷問された。‥‥商人などは身を濁世に処し利をもとめる俗人であるとされ、ことごとく弾圧された。‥‥そして仏教を徹底的に否定したため、従来の葬儀や招魂を司っていたシャーマンや僧侶は弾圧されてソウルから放逐、山野を彷徨するなど、土木工事の人夫になる物以外は盗賊として処罰された。(67~68頁)

 今の我々には想像もつかないような社会が、お隣の朝鮮で何百年か前にあったのです。

古田博司 『醜いが、目をそらすな、隣国・韓国!』(5)2014/03/29

 李朝時代において、支配階級の両班と被支配階級の常民との間には、厳しい差別関係にあったことを論じました。 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2014/03/26/7254093

 常民は非常に苦しい生活を強いられました。 もし両班がいなければそんな苦労はしなかっただろうに、と思った人は正解です。 古田博司さんは次のように記しています。

豊臣秀吉の朝鮮出兵の話題が出た。 最近は研究が進んできて、日本の占領地にどんどん朝鮮農民が逃げてきていたことが分かっている。 朝鮮の李朝はひどくて、日本のほうがずっといいから、占領地に城下町もできてしまった(32頁)

 これは16世紀末の話ですが、19世紀になっても同じです。英国人旅行家イザベラ・バードは日清戦争前後の時期に朝鮮半島から沿海州(ロシア領)を旅行しました。 沿海州には19世紀半ばからに多くの朝鮮人が移民・入植してきました。 その朝鮮人の村を回ったイザベラ・バードは、次のように記録しています。

朝鮮本国でよく目にする(朝鮮人の)あのおどおどした態度が消えている。 本国朝鮮人の特徴である猜疑心、怠惰と慢心、目上への盲従は、きわめて全般的に、アジア的というよりはイギリス的な自主性と男らしさに変わってきている。 きびきびした動きも変化のひとつで、両班の尊大な歩き方や農夫の覇気のないのらくらぶりは無くなっている。 金を儲けるチャンスはいっぱいあり、儲けてもそれを搾り取る官僚や両班はいない。 ゆとりのあることが外見からばれても、強欲な役人に見つかることもない。 儲けがあっても、それは不安材料ではなく、人の信用となるのである。 働き者は必ず暮らしが楽になる。 農夫の多くは裕福で、商売に従事し、手広く契約を結んでいる。(イザベラ・バード『朝鮮紀行』時岡敬子訳 講談社学術文庫 307頁)

朝鮮にいたとき、わたしは朝鮮人というのはくずのような民族でその状態は望みなしと考えていた。 ところが沿海州でその考えを大いに修正しなければならなくなった。 ロシア人警察官やロシア人入植者や軍人から勤勉で品行方正だとすばらしい評価を受けている朝鮮人は、なにも例外的に勤勉家なのでも倹約家なのでもないのである。 彼らは大半が飢饉から逃げだしてきた飢えた人々だった。 そういった彼らの裕福さや品行のよさは、朝鮮本国においても真摯な行政と収入の保護さえあれば、人々は徐々にまっとうな人間となりうるのではないかという望みをわたしにいだかせる。(同上 307頁)

警察署長が数ヶ所の朝鮮人集落へ連れていってくれた。 私の見聞したかぎりでは、この周辺の全農民が朝鮮人で、暮らし向きはとてもゆたかである。 このあたりや朝鮮国境付近では入植者の大半がよい生活を送っており、ロシア軍への肉と穀物の納入を請け負って資産を増やしつつある人もいる。 そういった点では朝鮮人は隣人の清国人に勝っており‥‥朝鮮本国でしか朝鮮人を見ていない人々にこのようなことを話しても、容易に信じられないに違いない。(同上 292~293頁)

(朝鮮人)農夫も、朝鮮本国ではどこへ行ってもその特徴だったおどおどして猜疑的なところや卑屈なようすがなく、とても気持ちのいい率直で男らしく自立した態度に変わっていた。(同上 294頁)

 両班と常民という階級差別がある朝鮮本国と、その差別のない異国ではどれほど人間が違ってくるか、イザベラ・バードは鋭く観察しています。