古田博司 『醜いが、目をそらすな、隣国・韓国!』(1)2014/03/15

 最近出た古田博司『醜いが、目をそらすな、隣国・韓国!』(WAC 2014年3月)を購読。

 古田さんもついに嫌韓本の著者となられたようです。 今のご時勢ですから、かなり売れるでしょうね。 しかし彼は実証的な歴史研究をして来られたし、経験も豊富な方ですから、扇情的な部分を除けば、勉強になる内容です。 少しずつ読みながら感想を書いていきたいと思います。

最近、朝鮮が好きか嫌いかという質問をよく受けるようになった。もちろん、民衆は好きだが、支配層・知識層は大嫌いである。前者は「率直・単純・端的・直入・きんきら・のびやか・あっけらかん」だが、後者は「ウソつき・ほら吹き・卑劣・ごますり・ふまじめ・エラそうな・見栄っ張り」である。好きになれるわけがない。(4頁)

教育程度の高いものほど日本や日本人を敵視する。月町(タルトンネ 下町のこと)のおばちゃんほど日本人のことが大好きである。(182頁)

 これと同じ体験は私もあります。 私の場合は本国の韓国人ではなく、いわゆる在日韓国・朝鮮人です。 数十年も日本で生活して来られたハルモ二(おばあさん)たちは、字の読み書きもできないまま家庭を守り、子供を育ててこられました。 彼女たちは、まさに「民衆」であり「率直・単純・端的・直入・きんきら・のびやか・あっけらかん」です。 在日の若い民族活動家たちに 「そんなに日本が悪くて嫌いやったら、はよ韓国に帰らなあかんで。」 「うちら日本に住まわせて貰っているんやから、指紋ぐらい押したらええねん。」 「日本に来て苦労したけど、住めば都で、日本もなかなかいい所や。」 と堂々と言っておられました。

 先ほどの若い民族活動家というのが「支配層・知識層」にあたる人で、これこそ「ウソつき・ほら吹き・卑劣・ごますり・ふまじめ・エラそうな・見栄っ張り」でした。 ある活動家は講演で「私の親は強制連行で来ました」と言ったので、後に私的に会った時に、あなたの親は戦後の来日なのに何故強制連行なのかと問うたら、「それでも強制連行と言わなければならない」という答えでした。

 「日本は我々に日本名を強制している」などと言う活動家に、あなたの実家を訪問したら家族中で日本名を使っていたし、民団などでの集まりでもみんな日本名をお互い名乗り呼び合っているじゃないの、日本名は強制されていないじゃないの、と問うたら「そんなこと日本人が言うもんじゃない!」と凄まじく怒られましたねえ。

 産経の黒田勝弘さんが次のようなことを書いておられます。

以下はその後に、さる韓国人の主婦から聞いた話だ。ソウル近郊に住んでいるのだが、週末には近所の教会に通っている。       大震災の後、牧師はそのことに触れて「日本の災難は過去の歴史的罪による天罰だ」と説教したという。          ここまでは当時、ネットでもあったことだ。ところが教会では説教を聴いていた主婦たちが「あまりにひどいことを言う!」と騒ぎだし、多くの信者が退場してしまった。一般の韓国人のほとんどはきわめてまともな感覚の持ち主なのだ。それを「反日」とか「歴史」などという観念に汚染(?)されたマスコミや牧師(つまり知識人)がしきりに民を扇動するというのが韓国の反日の構造である。

http://sankei.jp.msn.com/world/news/140301/kor14030103340000-n1.htm

 ここで出てくる牧師さんは「支配層・知識層」で、説教を聴いていた主婦たちは「民衆」でしょう。

 古田さんの「(韓国の)民衆は好きだが、支配層・知識層は大嫌いである」は、私も含めて多くの人が共感できるものではないかと思います。

コメント

_ 健介 ― 2014/03/15 12:41

私も仕事で少し行ったが、庶民は別に反日の要素はなかった。また親切ではあった。所が焼肉屋で、明らかに反日の風情がありありの3人組みがいた。風情を見ると庶民という感じではなかった。
 宿で、ボスが<女、女>というと、店屋の女将は、<日本へ行って見つけろ。>といった。
 日本語を自由に扱う老人がいたが、<日本時代に日本語を習ったから、できる>といい、流暢な日本語だった。1999年だったか。別に反感をもっているかんじではなかった。
 また顔だけを見ると俺たちと同じで、しぐさなども似ていた。
 川沿いを北上したが、景色、気候、など日本とそっくりだと思った。
 洛東江を北上した。ある日は、さんげたんという食べ物を食べる日で、鳥のスープのようなものだった。うまかった。現地の労働者は貧しいと思った。そとめは、日本人と変わらず、まあ親切だった。飲み物を昼時、もって来てくれた。
 その後いろいろ調べたり、読んだりして、それでも、朝鮮とは付き合わないほうがいいと判断している。
 その根拠は簡単ではなく、大きく言えば朝鮮文化及びその歴史における行動をみると、付き合わないほうがいいと思う。それは朝鮮人自身にとってもいいことだと見ている。このわけも簡単ではないが一言で言えば自然科学を受け入れる生地が伝統的に無いことです。それを学べるかというと大きな疑問が朝鮮社会にはある。

 韓国におけるキリスト教会の行動は目に余るものがあると思う。その背後に日本での布教がうまくいかないことでの複雑な思いがあると見ている。
 国内の教会において、ある女性の必死な勉強姿勢に驚いたことがあるが、彼女はどうも在日朝鮮人で、自身の心の置き場がなく、キリスト信者としての自己をもとうとしているようで、一種気の毒な気持ちを持ったことがある。私は聖書について聞きたいことがあったので、いろいろ訪ねたが、その返事は納得がいかないものが多く、やめた。しかし彼女の姿は忘れられない。
 国内で朝鮮人が朝鮮人として普通に存在できることが理想だと思うが、それは歴史的にはもはや難しいと思う。いい悪いではなく。
 先は困難な状態が待ち受けている。

コメントをどうぞ

※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。

※なお、送られたコメントはブログの管理者が確認するまで公開されません。

名前:
メールアドレス:
URL:
コメント:

トラックバック