古田博司 『醜いが、目をそらすな、隣国・韓国!』(7)2014/04/05

車は西洋文化が流入するまではない。 木を曲げる技術がなかったからである。だから李朝には樽もない。 液体を遠方に運ぶことすらできなかった。(86頁)

曲げ物の技術がなく、車輪も樽もない。(93頁)

 樽は長方形の板をにカーブを持たせ、これを10~20枚くらい並べて箍(たが)を締めて作ります。 これは板を削ってカーブをつけることが多く、木を曲げて作る例は少ないようです。 日本では江戸時代以降に盛んに作られました。 酒樽、醤油樽、肥樽などに使われます。 しかし朝鮮史では樽は出てこず、液体を溜めるには陶器を使います。

 車も朝鮮史ではなかなか出てきません。 古田さんは木を曲げる技術がなかったから車が作れなかったといっておられるのですが、これがどうも理解できません。 おそらく誤解しておられるものと思われます。

 古田さんは「車輪」と書いていますので、車体ではありません。 車輪には「車軸(ハブ)」と外側に丸く一周する「輪(リム。輪木とも言います)」と車軸と輪を放射状に繋げる「輻(スポーク)」からなります。 日本では古代から貴族が乗った牛車があり、江戸時代以降は大八車がありますので、車の歴史は相当古いものです。 なお関西では大八車はなく‘ベカ車’で、車輪には輻(スポーク)がありません。 何枚かの板を並べて固定した円盤を作って車輪としました。

 しかしこの大八車やベカ車の製作に「木を曲げる技術」が必要だったのかのどうかというと、そんなことはありません。 大八車の「輪(輪木)」は五あるいは七枚(奇数)の細工した部材を組み合わせて作るのであってわざわざ木を曲げて作らないし、「輻」は真っ直ぐでなければなりません。 ベカ車も当然木を曲げることはありません。 つまり車輪の製作には木を曲げる技術は必要ないということです。

 次に古田さんは木を曲げる技術のことを「曲げ物」としておられます。 曲げ物は檜もしくは杉の木を数ミリの薄い板にして曲げるもので、日本では奈良時代から確認され、平安時代以降現在に至るまで盛んに作られた日用品です。 桶として使われ、絵巻物に多く描かれているので、形や使い方がすぐに分かるものです。 井戸枠にも使われましたので、遺跡の発掘調査でよく出土します。 曲げ物は方言では「わっぱ」「めんぱ」とも言います。

 このような曲げ物は車の製作とは関係ありません。 ここは古田さんの間違いと言わざるを得ません。 なお朝鮮では曲げ物はないのは確かなようです。 これは木を曲げる技術ではなく、おそらく薄い板を作る技術がなかったからと思われます。 なぜなら薄い板さえ作れれば、後は刻み目を入れて曲げるだけですから、そう難しくないからです。

 ところで今流行りの嫌韓雑誌記事のなかで、日本では江戸時代に大八車があって、まるで流通手段となっていたかのような発言がありました。 特に李朝には車がないことと対比して、我が日本の自慢として溜飲を下げるようです。

 実は、江戸時代に車(大八車やベカ車)はそれ程普及していません。 なぜならこれで橋を渡れなかったし、道には急坂や段が多くて通れなかったからです。 江戸時代の橋は木製ですから、非常に傷みやすいものです。 特に大八車のようなものが通ると、傷みが激しくなります。 だから奉行所は車で橋を渡ることを禁止しました。 また急坂や段のある道は、車で運送するには非常に不便です。

 橋を渡れず、急坂や段を越せない車は行動範囲が限られますので、流通の主役にはなり得ませんでした。 江戸時代の陸上輸送手段の主役は、やはり馬であり人でした。