西川清『朝鮮総督府官吏 最後の証言』2014/10/06

西川清『朝鮮総督府官吏 最後の証言』(桜の花出版 2014年8月)を購読。

 出版社名は右っぽいものですが、中身は朝鮮総督府官吏だった人の当時の追憶を文字化したものです。真面目そうな内容だったので、役に立つかも知れないと購読しました。

 朝鮮総督府の官僚たちがどのような生活を送り、またどのような職場環境だったかについては証言が少ないもので、これも貴重な資料です。読んでみて、成程そうだったんだと思ったところが幾つかあります。

 朝鮮総督府の官僚といえば、上層部が日本人で占められて朝鮮人は下層部ばかりにいる、というイメージがあったのですが、実際は違っていたのですね。

(江原道庁任官時) この時の係長は日本人、課長は日本人、部長は朝鮮人でした。知事は日本人ではないかなと思っていましたが、今になって記録を見ると朝鮮人かも知れません。  でも当時は、日本人とか朝鮮人とかそんなことは、どうちらでもよくて、あんまり意識していなかったので、記憶に残っていないこともあります。(44~46頁)

(江原道寧越郡庁勤務時) 私は朝鮮人の郡主の下で内務課長として働いていたことになります。(52頁)

私は朝鮮人の上司の下で働き、時に朝鮮人を部下につかいました。当然のことながら、お互いに民族の違いは認識しておりましたが、それ以外のことは何ら変わりがありません。日本の朝鮮統治というのは、欧米の植民地とは根本的に異なります。(55頁)

 朝鮮総督府は日本の朝鮮植民地統治機関ですが、そこの職員には植民地支配されている朝鮮人が多数勤務しており、出世する人も少なくなかったのです。 朝鮮人上司の下で、支配者側であるはずの日本人が部下として働く場合が往々にしてあったのです。

 これは確かに西欧の植民地支配とは違っているようです。西欧の植民地はアジア・アフリカなどにありましたが、植民地政府の構成は基本的には本国人上司と現地人部下というものです。 現地人が上司となって本国人を部下として使うことは、あり得ませんでした。 それが20世紀前半までの西欧植民地です。

 アメリカでもこの時代の政府や軍隊では白人上司と黒人部下が基本で、黒人が上司の場合は部下も必ず黒人です。黒人上司と白人部下という組み合わせは、想像すら出来なかった時代です。

 このことを考えるならば、日本の植民地支配は西欧とかなり異なっていたと見ることができます。 当時の言葉で「内鮮一体」といっていたように、日本人と朝鮮人との間における差別的取り扱いは少なかったと言えるでしょう。

 しかしこのように差別的がなかったことが、逆に「日本に同化させて民族性を抹殺した」という批判を浴びることになります。 確かに欧米のように徹底して差別する方が民族の違いを際立たせるので「民族性の抹殺」にはならず、むしろ「民族の覚醒」になるのでしょうね。

 上野千鶴子さんは毎日新聞の書評欄で、

在日の姜さんが朝鮮半島の不幸は、日本という「二流の帝国主義」国に支配されたことにあるという指摘は、日本人の胸を刺し貫く。

http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2010/01/17/4818847

と書いています。差別の徹底した欧米が「一流帝国主義」で、差別の少なかった日本が「二流帝国主義」という考え方は、彼女のなかでは筋が通っているのかもしれませんが、いかがなものなのでしょうかねえ。

北朝鮮の宋日昊が日本を脅迫2014/10/10

 先月の29日に中国瀋陽で、日本外務省の伊原アジア大洋州局長と北朝鮮の宋日昊朝日国交正常化交渉担当大使が、拉致問題について協議したことは既に報道されています。

 この協議が終ってから、北朝鮮の宋日昊は日本の記者団と酒席を設け、その席で拉致問題はごく少数の人間のことに過ぎない、1億2千万人の命のことを考えれば些細なことだ、と発言したそうです。

 「1億2千万人の命のことを考えれば」とは即ち、我が北朝鮮は核兵器とミサイルを持っており、日本に落とすことが出来るんだぞ!という脅迫です。 

 つまりは日本国民の生命を奪うことが出来る能力を有していることを誇示して、日本側に譲歩を要求しているのです。 日本は拉致問題にこだわらないて、こちらの言うことを聞け!と言っているのです。

 北朝鮮は自分たちの本音を公式の席では発言できないので、このような記者団との酒席で発言したようです。 そうすれば万一大問題になっても、酒席でのことだからと言い逃れが出来るからです。 

 日本の記者たちはこれに対して、どう反応したのかが分かりません。オフレコなのか、報道されていないようです。 

 このような脅迫に対して、日本はどのように対処していくべきか? 少なくとも憲法9条では何の対処も出来ないことは明らかです。

アンダーウッドの墓2014/10/13

 最近ソウルを旅行した際、楊花津外国人宣教師墓地にあるアンダーウッドの墓を見学しました。

 以前にアンダーウッドについて書きましたので、実際に行って見ると、感慨深いものがありました。

http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2014/09/28/7444735

 なお写真の墓石の碑文では下半部に、アンダーウッドの生没年等が刻まれています。

曽田嘉伊智2014/10/15

 ソウルの楊花津外国人宣教師墓地には500近くのお墓があります。 そのなかで日本人のお墓は一つだけで、それは曽田嘉伊智です。

 山口県の出身。 植民地時代の朝鮮で1000人以上の朝鮮孤児を育てました。 戦後日本に帰国したのですが、韓国側の招請で再訪問。 そのままソウルで客死しました。

 朝鮮で孤児を育てたといえば、田内千鶴子が有名ですが、もう一人、曽田嘉伊智を挙げねばならないと思います。 

 しかし曽田は有名ではなく、忘れられた存在となっているようです。

 一人静かに参拝しました。

「君が代」の作曲家 フランツ・エッケルト2014/10/17

 韓国ソウルの楊花津外国人宣教師墓地の話は、今日で終わりです。

 日本の国歌「君が代」の作曲に、フランツ・エッケルトというドイツ人が関わっていたことは、わりと知られています。 しかしエッケルトの墓がソウルにあることは、ほとんど知られていないようです。

 エッケルトは明治時代に来日。 海軍音楽隊や音楽取調掛(現在の東京芸大音楽学部)等で約20年間西洋音楽を指導しました。 日本国歌「君が代」作曲の最後の段階で編曲し、楽譜を付けたという功績が有名です。 1899年頃大韓帝国に渡って西洋音楽を指導し、韓国最初の国歌(今の愛国歌とは違うもの)を作曲しました。 ただしこの時の国歌は現在残っておらず、不詳です。 植民地時代の1916年ソウル(当時は京城)でガンを患い客死。

 日本に深い関わりのある人ですので、ここも参拝しました。

西川清『朝鮮総督府官吏 最後の証言』 (続)2014/10/21

創氏改名は強制ではありません。強制ならば、総督府からの指令があったはずです。これについて、総督府がはっきり言っているのです。     「創氏改名は自由である」と。    むしろ、朝鮮人が日本名を欲しがったという話も聞いたぐらいです。道庁の朝鮮人管理の人でも、創氏改名しない人は沢山いました。はっきりとは覚えていませんが、私のまわりでは半数以上といったところでしょうか。「創氏改名しろ」という命令があったのなら、朝鮮人の官吏は、真っ先に改名しなければならなかったでしょう。       総督府の組織の人間である官吏の朝鮮人が、国の言うこと聞かないということはできません。それが名前を変えなかったということは、創氏改名は自由だったということです。

http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2014/10/06/7451338

 著者の西川清氏は戸籍関係の部署にはいなかったようです。だからと思われますが、この方の「創氏改名」に関する説明は間違いだらけです。彼のような総督府官吏でも、部署が違えば間違いの噂話を真実と思い込んでしまっているようです。創氏改名とは日本名をつけることというウソの噂話は当時から広まっていたのですが、当時の総督府関係者も誤解していた情況だったということでしょう。

 創氏改名に関するこのような誤解は朝鮮史研究者にも今も残っています。例えば平凡社『新版 韓国朝鮮を知る事典』(2014年3月)の「創氏改名」項目では

朝鮮人から固有の姓を奪い、日本式氏を名乗るように強いた政策。‥‥<日本式氏をつけることは任意>とされたが、末端では凄まじい強制があった。‥‥日本の氏を名乗らされたという屈辱の思い‥‥

というように間違いをそのまま記しています。

 間違いの要点を説明しますと‥ 「固有の姓」は創氏改名後では朝鮮戸籍の本貫欄に記されることになり、消えて無くなることはありませんでした。 だから総督府は朝鮮人の固有の姓を証明する文書(戸籍謄本等)を発行することができました。 「朝鮮人から固有の姓を奪い」は間違いなのです。

 ところで「日本式の氏」というのが家族名称であるなら、これを強制したのは間違いありません。 これはその通りです。 それまでの朝鮮の伝統には存在していない家族名称を作れ! というのが創氏改名の目的だからです。 何故なら朝鮮社会では家族で共通する名称というものがなかったのです。

 そして「作れ!」と強制された家族名称として日本風の名前で創氏するか、それとも金、朴、李などの先祖伝来の民族名で創氏するかは任意だったのでした。 だから民族名をそのまま家族共通の名前として創氏することが出来たし、実際にそのようにした朝鮮人も少なくありませんでした。 創氏改名は日本風の名前を強制するものではありませんでした。

 今私の手元に1944年(創氏改名令の4年後)の朝鮮銀行職員名簿がありますが、朝鮮名の方が結構います。なかには日本人部下がいる朝鮮名の主任もいます。

 このように日本風の名前をつけるかどうかは任意でしたから「日本の氏を名乗らされた」というのは間違いです。 創氏改名は、家族名称がないという朝鮮の伝統に家族名称を新たに付け加えるという政策なのです。

 ところでこの『事典』の「創氏改名」を執筆した宮田節子さん。朝鮮史研究では有名な方なのですが、何故このような説明をしたのかに関心を持ちます。 かつて「創氏改名は日本風の名前を強制することによって民族の抹殺を図った政策」という説が広まっていましたが、この考えを未だに引きずっておられるようです。

在韓米軍の慰安婦の話(1)2014/10/25

 ホームレスの自立に貢献することを目的とする雑誌『ビッグイシュー』は日本では11年前から始まっていますが、韓国でも4年前に創刊されました。

 この10月に韓国旅行した際に、どんなものなのか?と関心があって購入しました。 そのなかに、在韓米軍の慰安婦だった方の話が記事となって出ています。 ちょっと興味深いものだったので、訳してみました。(第93号 2014年10月発行)

基地村(米軍基地周辺にある遊興街のこと)女性の人生、そして夢

米が無くなっていた。誰かが盗んでいったのだ。 何日間、いや何週間のあいだ、家の中のものが無くなっていった。 家に鍵をかけても、隙を狙って入り込み、米や調味料、果ては化粧品まで持っていった。‥‥彼女は長い間糖尿病、関節炎を患っていた。 すぐにでも死んでしまいそうだった。 電話する人もいなかった。 周りは、お互いが敵のようになって心を開いて生きることの出来ない人たち、世の中すべてが敵ばかりの中を生きてきた人たちばかりだ。心を開いたならば、その隙を狙って入り込み、傷を負わせる。 文字を知らないという弱みにつけ込んで、一生懸命に稼いだお金を盗んでいくのである。

「病気になっても病院に連れていってくれる人は一人もおらず、米を買う金がなくて飢えても水すらくれる人はいなかったよ。 南山の八角亭(ソウルの南山頂上の手前にある)に登って『あの広いソウルに、自分の兄弟・親戚が一人もいないなんて、どういうことか』と、どんなに泣いたことか」

1948年生まれの彼女は今年67歳だ。両親はソウルで裕福な暮らしをしていた。 1950年、その日も乳母が子供をおぶって散歩に出かけた。 その間に北朝鮮人民軍が家を襲撃し、家族は殺された。 両親とも兄弟とも別れた。 両親の顔も兄弟の顔も覚えていない。 貧しくて人の家の子供の面倒を見ていた乳母はその子供をかわいがったが、責任を持つことはできなかった。 戦争中であり貧しくもあり、何よりもその子供の責任を持つ理由がなかった。 子供は物のように、この家あの家と転々とし始めた。 子供は何も言えなかった。 幸いにも、子供は可愛かった。 人は可愛い子供だから育ててあげようと気軽に言ったが、すぐに捨てた。 戦争は子供から父母と兄弟を奪い、家に帰る道までも永遠に断ち切ってしまった。

彼女は制服がかっこよく見えた。 軍人になりたかった。 しかし彼女は学校に行ったことがなかった。 誰も彼女を学校に行かせてやらなかった。 彼女が生きている痕跡は、この世のどこにもなかった。 50年の間、彼女はこの国で生きたが、無いのと同じ存在だった。 動物たちは彼女に付いていった。 彼女もやはり道端で捨てられた動物を、そのまま通り過ぎることは出来なかった。 だから獣医とか動物の調教師とかになって、動物と一緒に暮らしたかった。3匹の犬と共に暮らしている今、犬たちは彼女の唯一の家族だ。 名節(節句などの祝祭日)は、彼女には最も悲しく、寂しい日である。

在韓米軍の慰安婦の話(2)2014/10/30

食堂で下働きの仕事をしていた時、店の女主人がクラブに出入りする女性を一人紹介してくれた。彼女が17歳の時であった。 彼女は女主人が自分を自立できるようにしてくれたものと信じた。 それまで一度も、その意図を疑って見たことがなかった。 梨泰院のクラブに通い始めた。 幸いと言っていいのか、女主人のくれたお金で部屋を借りることが出来た。 客は多かった。 年が幼く見える彼女はテキーラを飲んだ。 酒を飲むと寝てしまうのが彼女の癖であった。 クラブの社長はテキーラの代わりに麦茶を与えた。 彼女は米国軍人に人気が高かった。 しかし彼女は誰も愛することができなかった。米国軍人たちは1年一緒に暮らしても、別れると蛇のように冷たくなった。

死んでしまいそうだった。 夢であの米国軍人が出てきたりしてね。 おそらく今生きていたら63歳になってるだろうね。

12年の間、ある男と暮らした。 そのうち彼が日本で勤務した時と本国に行って来た時が10年余りだ。 除隊した彼と暮らしたかった。 ところが結婚しようとすると住民登録証が必要だった。住民登録証を作ろうと依頼していた事務所の男が、金だけ持って逃げていった。 二回もそのようなことがあった。 彼女は、結婚は天の定めではないと諦めるようになった。男は気を落として本国に帰っていった。お金のために、そして生きていかねばならないために米国軍人と暮らした。 梨泰院から松炭へ、松炭から大邱へ、そしてまた松炭へと回ってくるなどして、彼女は年を取った。 身体は傷つき、男といえばうんざりした。 クラブの社長たちは、人気の高かった彼女に偽の検診カードを作ってくれた。 米軍が出て行かないようにするために、韓国政府は米軍を相手とする女性たちに定期的に性病検査をした。 性病にかかった女性は治療のために検査不合格者収容所に収容した。 ペニシリンショックで死んだ女性もいたし、逃げて死んだ女性もいた。 運よく彼女は一度も検査に引っ掛かったことがなかった。 彼女は朝鮮戦争でも生き残り、他の多くの女性が米国軍人の暴力の犠牲となって収容所で死んでいったなかで、運よく生き残ったのだった。

早く年取ればいいなあと考えていたよ。毎日クラブに出かけて酒を飲んでたから。 米国軍人と一緒に暮らす時も、ショートタイムでクラブに出かけたよ。 本当にうんざりだね。

彼女は神が自分にそうさせたのだと考えている。 11歳の時に、自分が他人とは違うんだということを知った。 しかし神のネリムクッ(神が憑依する)はなかった。 どうせ荒っぽく生きるだけが天の定め、神のネリムクッを受けても何の意味があるのか、彼女は何も信じなかったのである。小さいものでも分け合って暮らした。 そうやって生きればいいと信じた。 彼女は、神がネリムクッを受けない自分の身を傷つけることはあっても、殺すようなことはしないと信じた。 そのようにして彼女は年を取った。 今家族同様に一緒に暮らす犬と平穏に過ごしたいと思うだけである。 誰かの干渉も受けたり、米やおかずが無くなったりするようなことさえ無ければいいと思っている。 しかし引越しする所も金もない。 彼女たちに、愛国者なんだからたくさんの米国軍人と出会ってにこやかに優しく接してあげろと言って回った人たちは、病気になって老いていく彼女たちの人生を振り返って見ようとしない。 責任を取るべき人は、彼女たちに一生「米軍に体を売った女」という烙印を深く刻み込んだ。 ただ彼女たちは生きていかねばならなかったし、生き残った人たちであるだけだ。 彼女は、人は誰でもちょっとの間この世に言ったり来たりするお客であるだけだと信じている。 (以上、イ・ソンジュ記)