ノーベル賞は韓国を拒否してきた?2014/12/05

 韓国の新聞や本を読んでいると、時々ビックリするような表現が出てきます。 最近読んだ中ではキン・ジョンヒョン著『20世紀の話 1990年代』(2014年9月 タプタ)に、2000年の金大中大統領のノーベル平和賞受賞について、次のような記述がありました。

이를 두고 남북 정상회담은 김정일에게 돈을 준 대가로 성사된 것이고 따라서 노벨 평화상도 돈을 주고 얻은 것이라는 비판이 없진 않으나 그래도 100여 년 동안 한국을 거부해온 노벨상의 물꼬를 처음 텄다는 점에서 함께 축하하고 자랑스러워할 경사 중의 경사였다.(554ページ)

直訳すれば次のようになります。

これをめぐって南北首脳会談は金正日にお金を渡した対価として成し遂げられたもので、だからノーベル平和賞もお金を出して得たものだという批判がないことはないが、それでも100年余りの間、韓国を拒否してきたノーベル賞の水口を初めて開けたという点から共に祝って、誇りを持つことのできる慶事の中の慶事であった。

 この中でさり気なく挿入されている「100年余りの間、韓国を拒否してきたノーベル賞」という記述にビックリ。 「거부(拒否)」という言葉はどの韓国語辞典を調べてみても、やはり日本語と同じ意味でしか使われていません。 そしていくら調べてみても、ノーベル賞の選考において「韓国を拒否してきた」というのは出てきません。

 韓国人にノーベル賞が受賞されてこなかったのは、評価されるだけの業績がなかったからとしか言い様がありませんが、韓国では何故かノーベル賞側が「韓国を拒否してきた」という表現になっています。

 ひょっとしたら韓国人は、本当は受賞するだけの功績があったにも拘らず韓国だということで受賞できなかったと、心の奥底では思っているのかも知れません。

 韓国ではこのような根拠のない被害者意識の表現がごく自然に出てきます。 そしておそらく韓国人たちはこれに何の引っ掛かることなく読んでいるものと思われます。 被害者意識が血肉化してしまっているのではないかと考えているのですが、いかがなものでしょうか。

金銅弥勒菩薩半跏思惟像(2)2014/12/11

 『新版 韓国・朝鮮を知る事典』(平凡社 2014年3月)を読んでいて、あれ?!と思ったのが、ソウルの国立中央博物館に所蔵・展示されている金銅弥勒菩薩半伽思惟像の説明です。 254頁の新羅文化を紹介する写真のなかに、この仏像があります。 キャプションは

⑤金銅弥勒菩薩半伽思惟像。日本の広隆寺弥勒像(木彫)との関連が注目される。7世紀。韓国中央博物館蔵。

となっています。 本文では次の通りです。

7世紀初期から中期にかけて造立されたと考えられている半伽思惟像は、三国の統一をめざした新羅の支配階層、とりわけ、花郎徒の熱烈な弥勒信仰を背景として制作された(256頁左段)

 このようにこの半伽思惟像は新羅の仏像として扱っています。 ところがこの事典の「百済」の項では、この同じ半伽思惟像について次のように説明しています。

百済の仏教美術の特色は、優雅で気品に富むところにある。国立中央博物館所蔵の金銅弥勒菩薩半伽思惟像や瑞山(ソサン)の磨崖三尊仏像などは、優雅な百済彫刻の代表である。(132頁左段)

 つまり一つの事典のなかで、同じ仏像が一方では新羅の典型例、他方では百済の代表作と全く矛盾した説明をしているのです。 この仏像は非常に有名なもので日本から多くの人が観覧しているし、日本の学生ではこの仏像についてレポートや論文を書いた人も多いと思います。 その時にこれを新羅仏としたのか、それとも百済仏としたのか、気になるところです。

 この半伽思惟像、新羅仏なのか百済仏なのか?一体どっちが正しいのか? と問われれば‘分からない’とするのが正解です。 つまりこれに関する研究は進んでいないのです。 だから最新の事典でも全く矛盾した記述が出てくるのです。 

 だったら「優雅な百済彫刻の代表」とか「花郎徒の熱烈な弥勒信仰を背景として制作」とか、断定して書くべきではないと思うのですが‥‥。 事典の監修者はこの矛盾を当然知っているでしょうから(気付いていなければ監修者として失格です)、事情を丁寧に説明すべきだと思います。

今回は8年前の拙論である「金銅弥勒菩薩半跏思惟像」http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2006/10/09/553649  の続編です。

韓国メディアの反日ネット・ビジネス2014/12/18

 最近出た黒田勝弘『韓国人の研究』(2014年11月 角川oneテーマ21)を購読。このなかで、成程そうだったのか!と思った記事がありました。

日本の反韓は当初は当然、韓国における執拗な反日現象(反日報道!)に刺激されるかたちで始まった。‥‥韓国の反日に対する報復としての反韓だが、そのネタ元のほとんどは韓国メディアというところが興味深い。‥‥日本の反韓感情は、実は韓国メディアの過剰な反日情報に刺激されたものであると同時に、一方で同じ韓国メディアが精力的に伝える韓国社会のマイナス情報をいただいて楽しむという構造なのだ。(29頁)

ネット王国の韓国では近年、新聞、放送、通信をはじめあらゆるメディアが日本向けに日本語のネット情報を精力的に送り込んでいる。彼らは日本で関心を引く情報でヒット数をかせごうと日夜激しく競っている。その中心になっているのが日本でもっとも関心を引くいわゆる反日情報である。(29~30頁)

韓国のネット・メディア(そのおおもとは韓国マスコミ)のいわば“反日ビジネス”(30頁)

韓国メディアの「あることないこと」取り混ぜた突出した過剰な反日扇動(35頁)

 韓国メディアが日本語版で、日本の嫌韓が喜ぶような記事を書くとアクセス数がぐっと伸びるという現象があるようです。 確かに日本の嫌韓の人々は韓国メディアの日本語版をよく読み込んでいます。 逆に言えば、韓国メディアは日本の嫌韓をお得意様としているということです。

 黒田さんは、日本の嫌韓は韓国メディア日本語版にせっせとアクセスして韓国メディアに貢献しており、別に言えば韓国メディアに踊らされていると言いたいようです。 成程そういう面もあるのかな、と思いました。

嫌韓は「日本の韓国化」である―小倉紀蔵2014/12/23

 小倉紀蔵・小針進編『日韓関係の争点』(藤原書店 2014年11月)を購読。 筆者は、編者以外では小倉和夫(元駐韓大使)、小此木政夫(慶応大名誉教授)、金子秀敏(毎日新聞元論説委員)、黒田勝弘(産経新聞元ソウル支局長)、若宮啓文(朝日新聞元主筆)と錚々たるメンバーです。 内容はレベルの高いもので、成程と納得したり、よく勉強しているなあと感心したりする部分が多かったです。 ちょっと違うんじゃないかと思える部分も当然あるにはありましたが、全体的によく出来た本だと思います。

 このなかで、これは鋭い分析だと思ったところを紹介します。 小倉紀蔵さんは冒頭で、日韓に関する言説は「嫌韓」と「左」の枠組みにきれいに分かれているとして、次のように論じています。

たとえば「韓国は伝統的に中国の属国であった。だから韓国人は独立心に乏しく模倣と権謀術数のみに長けている」という「枠組み」にのっとって韓国を叙述しようとするなら、それなりの「韓国論」をいとも簡単に書くことができるだろう。この「枠組み」に都合のよい事実のみを拾い上げてきて羅列し、都合のよくない事実は排除すればいいのである。材料は日本語による二次資料だけを使えばよいので、おそらく高校生でもいっぱしの「嫌韓本」を書くことができる (1頁)

 「材料は日本語による二次資料だけを使えばよい」というのは、嫌韓派は韓国語ができないことを遠回しに皮肉るものですね。

これは嫌韓とは反対の陣営である左派の世界認識と、さして異なるものではない。むしろ左派とは相似形をないし対称的な関係にある。戦後の長いあいだ、左派は強力なヘゲモニーを日本社会で握りながら、心地よい「左派の枠組み」のなかで朝鮮半島を認識してきたのである。 嫌韓派はこれに叛旗を翻した。この抵抗運動は高く評価できるであろう。しかし結果として嫌韓派がつくりあげたものは、左派とまったく同型の閉鎖的な「枠組み」でった。(2頁)

さらにいうなら、このような「枠組み」づくりを国家レベルで営々とやってきたのが韓国および北朝鮮である。韓国・北朝鮮の日本認識は、ほぼ完全に「枠組み」のなかに閉ざされている。その「枠組み」のなかで道徳志向的感情の共同体を強力に形成し、永遠に続くかと思われるような同語反復の回路のなかで快く自足している。‥そこには「イデオロギー」はあるが「思考」は存在しない。‥「枠組み」とは「思考停止装置」なのである。(2頁)

日本における嫌韓派の運動に対する正確な解釈は、「日本の韓国化」である。‥‥日本の「右」は日本社会を「韓国化」しようとしている。そして「日本の韓国化」とは、「日本の思考停止化」と同義なのである。(3頁)

 小倉さんは日本の嫌韓派について、左派と同型の「閉鎖的枠組み」を有し、韓国と同様の「思考停止の枠組み」にはまって「韓国化」していると分析しています。 これはなかなか鋭いというか、うまく表現したものだと感心しました。

 嫌であれば無視すればいいだけです。 しかし嫌いで相手の悪口ばかり言っていると、相手方の醜い姿を想定して自分の心に常に留めることになります。 だから今度は自分の姿が相手方に似て醜くなるということですね。

朝日の反「アジア女性基金」キャンペーン2014/12/28

 小倉紀蔵・小針進編『日韓関係の争点』(藤原書店 2014年11月)のなかで、そう言えばそういうことがあったなあと思い出させてくれたのが、従軍慰安婦問題解決のために設けられた「アジア女性基金」に対する朝日新聞の執拗な反対キャンペーン報道です。 編者の小針さんが次のように論じています。

(朝日新聞の誤報)以上に問題だと、私は感じてきたことがあるので、ここで触れておきたい。それは財団法人・女性のためのアジア平和女性基金(アジア女性基金)発足前後の、同紙による「反基金」への世論「誘導」である。    同基金運営審議会委員であった橋本ヒロ子さんは、かつて「確かに1994~1997年の半ばまでの朝日新聞データベースを検索してみると、基金に関する否定的な見出しと報道内容がほとんどです。フェミニストの多くは同紙の読者であるとすれば、このような記事は読者に対する『反基金』のすり込みの役割を果たしたと言えるでしょう」と指摘した。(232 頁)

実際に、同基金発足が決まったことを報じた同紙(1995年6月15日付)の第三面を見ると、「『灰色決着』見切り発車」「『筋通らぬ金』元慰安婦」「『個人補償』で対立・与党三党」という否定的な見出ししか並んでいない。 また、他の日付に目を通しても「戦後50年・ごまかしの“民間基金”に反対する集会」が「会と催し」欄(同年3月10日付夕刊)に」載り、こうした集会の様子が「元慰安婦に対する民間基金構想の撤回求め集会 千代田」(同3月18日付)、「『民間基金は許せない』元慰安婦らが都内をデモ行進」(同7月4日付)、「『女性のためのアジア平和国民基金』に市民団体が抗議行動」(同7月19日付)などと、社会面で小まめに報じられている。 オピニオン欄も「すじが違う民間基金の『見舞金』」(1994年8月30日付「論壇」)、「元慰安婦への民間基金に反対」(1995年6月21日付「声」)、「『慰安婦』基金事業の抜本的見直しを」(同7月17日付「論壇」)といった「反基金」の論稿ばかりが目につく。(232頁)

報道による結果責任もメディアは問われるだろう。 これはリベラル紙誌も、右派的な紙誌も同じである。 極めてデリケートなテーマを扱う時はなおさらだ。 同基金の呼びかけ人であった大沼保昭さんは、「慰安婦」問題をアクターとして‥「自らの言動が結果責任を問われる」という意識が日韓のNGOとメディアに希薄であるという的を得た指摘をしている。(233頁)

朝日新聞は2014年8月の「点検」記事では、「反基金」への世論「誘導」には一切触れていない。 8月6日付の「日韓関係 なぜこじれたか」では「アジア女性基金に市民団体反発」という見出しの記事を掲載したが、「自ら言動が結果責任を問われる」という自覚がまったくないものだった。‥自ら「反基金」をすり込んだことへの「点検」は皆無だ。(233頁)

韓国大手メディアのほとんどが同基金を「法的責任を回避する隠れ蓑」「ごまかし」と批判的に報道してきたのは、在京韓国メディア特派員への影響力が強い朝日新聞が同基金を非好意的に報じてきたことと無関係ではない‥‥日本のメディア報道(とくに日本政府の「陰謀論」につながる内容)をそれほどの検証もなしに韓国メディアがそのままキャリーし、結果的に誤った日本像がすり込まれてきた。(234頁)

 確かに朝日はそういう報道だったなあと思い出しました。 アジア女性基金は日韓双方の国民すべてが満足するものではありませんでしたが、慰安婦問題を解決するにはこれ以外にはなかったものです。 だから当初は韓国政府も同意していたものです。 しかし朝日の反「基金」報道が日韓の市民団体を煽り、市民団体はさらに激しい主張と行動に走り、それをまた朝日が報道するということが繰り返されて韓国政府が反「基金」側に態度を変え、ついに解決不能な情況になってしまったということです。

 この本では朝日新聞元主筆の若宮啓文さんは、これについて次のように記しています。

吉田証言だけでなく、朝日による初期の慰安婦報道に得てして過剰な正義感や思い込みに基づくミスがなかったとは言えまい。 アジア女性基金に対しても、当初、これを批判する声を積極的にとりあげて韓国での反対を煽る結果となった。 待ったなしと思える慰安婦問題だが、今度はその解決を遅らせることに朝日新聞が利用されるのは見るに忍びない。(256頁)

 最後の「朝日新聞が利用される」というのは、朝日が慰安婦問題で過去の記事を取り消したことに始まるいわゆる朝日タタキですが、若宮さんはこれが慰安婦問題の「解決を遅らせる」と評価しています。 彼は自紙が女性基金というほとんど唯一の解決策を否定して、わが国をもはや解決できない情況に追い込んでおきながら、今度は自分らが厳しく批判されると「見るに忍びない」とは一体どういう了見なのだろうかと疑問に思わざるを得ません。

 つまり朝日はこういう結果をもたらしたことへの責任を何ら感じていないということです。 日本がどれほど困ろうが自分には関係ないと思っているようです。 むしろ日本が困る姿を見て快感に浸っているのではないかと邪推したくなります。