朝日の反「アジア女性基金」キャンペーン2014/12/28

 小倉紀蔵・小針進編『日韓関係の争点』(藤原書店 2014年11月)のなかで、そう言えばそういうことがあったなあと思い出させてくれたのが、従軍慰安婦問題解決のために設けられた「アジア女性基金」に対する朝日新聞の執拗な反対キャンペーン報道です。 編者の小針さんが次のように論じています。

(朝日新聞の誤報)以上に問題だと、私は感じてきたことがあるので、ここで触れておきたい。それは財団法人・女性のためのアジア平和女性基金(アジア女性基金)発足前後の、同紙による「反基金」への世論「誘導」である。    同基金運営審議会委員であった橋本ヒロ子さんは、かつて「確かに1994~1997年の半ばまでの朝日新聞データベースを検索してみると、基金に関する否定的な見出しと報道内容がほとんどです。フェミニストの多くは同紙の読者であるとすれば、このような記事は読者に対する『反基金』のすり込みの役割を果たしたと言えるでしょう」と指摘した。(232 頁)

実際に、同基金発足が決まったことを報じた同紙(1995年6月15日付)の第三面を見ると、「『灰色決着』見切り発車」「『筋通らぬ金』元慰安婦」「『個人補償』で対立・与党三党」という否定的な見出ししか並んでいない。 また、他の日付に目を通しても「戦後50年・ごまかしの“民間基金”に反対する集会」が「会と催し」欄(同年3月10日付夕刊)に」載り、こうした集会の様子が「元慰安婦に対する民間基金構想の撤回求め集会 千代田」(同3月18日付)、「『民間基金は許せない』元慰安婦らが都内をデモ行進」(同7月4日付)、「『女性のためのアジア平和国民基金』に市民団体が抗議行動」(同7月19日付)などと、社会面で小まめに報じられている。 オピニオン欄も「すじが違う民間基金の『見舞金』」(1994年8月30日付「論壇」)、「元慰安婦への民間基金に反対」(1995年6月21日付「声」)、「『慰安婦』基金事業の抜本的見直しを」(同7月17日付「論壇」)といった「反基金」の論稿ばかりが目につく。(232頁)

報道による結果責任もメディアは問われるだろう。 これはリベラル紙誌も、右派的な紙誌も同じである。 極めてデリケートなテーマを扱う時はなおさらだ。 同基金の呼びかけ人であった大沼保昭さんは、「慰安婦」問題をアクターとして‥「自らの言動が結果責任を問われる」という意識が日韓のNGOとメディアに希薄であるという的を得た指摘をしている。(233頁)

朝日新聞は2014年8月の「点検」記事では、「反基金」への世論「誘導」には一切触れていない。 8月6日付の「日韓関係 なぜこじれたか」では「アジア女性基金に市民団体反発」という見出しの記事を掲載したが、「自ら言動が結果責任を問われる」という自覚がまったくないものだった。‥自ら「反基金」をすり込んだことへの「点検」は皆無だ。(233頁)

韓国大手メディアのほとんどが同基金を「法的責任を回避する隠れ蓑」「ごまかし」と批判的に報道してきたのは、在京韓国メディア特派員への影響力が強い朝日新聞が同基金を非好意的に報じてきたことと無関係ではない‥‥日本のメディア報道(とくに日本政府の「陰謀論」につながる内容)をそれほどの検証もなしに韓国メディアがそのままキャリーし、結果的に誤った日本像がすり込まれてきた。(234頁)

 確かに朝日はそういう報道だったなあと思い出しました。 アジア女性基金は日韓双方の国民すべてが満足するものではありませんでしたが、慰安婦問題を解決するにはこれ以外にはなかったものです。 だから当初は韓国政府も同意していたものです。 しかし朝日の反「基金」報道が日韓の市民団体を煽り、市民団体はさらに激しい主張と行動に走り、それをまた朝日が報道するということが繰り返されて韓国政府が反「基金」側に態度を変え、ついに解決不能な情況になってしまったということです。

 この本では朝日新聞元主筆の若宮啓文さんは、これについて次のように記しています。

吉田証言だけでなく、朝日による初期の慰安婦報道に得てして過剰な正義感や思い込みに基づくミスがなかったとは言えまい。 アジア女性基金に対しても、当初、これを批判する声を積極的にとりあげて韓国での反対を煽る結果となった。 待ったなしと思える慰安婦問題だが、今度はその解決を遅らせることに朝日新聞が利用されるのは見るに忍びない。(256頁)

 最後の「朝日新聞が利用される」というのは、朝日が慰安婦問題で過去の記事を取り消したことに始まるいわゆる朝日タタキですが、若宮さんはこれが慰安婦問題の「解決を遅らせる」と評価しています。 彼は自紙が女性基金というほとんど唯一の解決策を否定して、わが国をもはや解決できない情況に追い込んでおきながら、今度は自分らが厳しく批判されると「見るに忍びない」とは一体どういう了見なのだろうかと疑問に思わざるを得ません。

 つまり朝日はこういう結果をもたらしたことへの責任を何ら感じていないということです。 日本がどれほど困ろうが自分には関係ないと思っているようです。 むしろ日本が困る姿を見て快感に浸っているのではないかと邪推したくなります。