今の桜風景は数十年後になくなる?2015/05/01

 桜の季節が終わってしばらくが経ちます。 韓国ではソメイヨシノの原産地が済州島起源だという珍説・奇説が出てきて、ちょっとした話題になっています。  http://www.sankei.com/west/news/150501/wst1505010001-n1.html

 ソメイヨシノは周知のように挿し木で増殖する植物です。自然界に普遍的にあるような、♂と♀が交配して実を結んで種を作って芽を出し‥‥というものではなく、挿し木という全くの人工的なやり方で増えていきます。 挿し木ですから、すべてクローンです。 だから世界中にあるソメイヨシノはすべて同じDNAを持っています。

 ある樹木専門家の方から、「ソメイヨシノは挿し木という自然界にないやり方で増えてきた、そのためにDNAがくたびれてきている、もう間もなくしたら挿し木してもソメイヨシノは育たなくなる、今のソメイヨシノの寿命がきたら、新たなソメイヨシノはできないだろう、それは数十年後にやってくる、その時は世界中の桜風景が変わるだろう」 という話を聞きました。

 なるほど、そういうこともあり得るだろうなあ、と思いました。ソメイヨシノの原産地で議論するよりも、この桜の将来を議論すべきだろうと思いました。

 韓国は原産地が我が韓国だとか言う前に、ソメイヨシノに代わり得る新たな桜の品種を開発すべきでしょう。

韓国の小説の翻訳に挑戦2015/05/04

 韓国語の実力を高めるために、韓国小説の翻訳にチャレンジしました。 あくまで個人的な語学勉強の一環です。

 韓国の新聞やニュース等の記事は、日本語由来の漢字語が非常に多いです。 一説では70%とか。だからハングルで書かれていても、漢字に置き換えることができれば、大体の意味は分かります。 漢字の音読み・訓読み以外にもう一つハングル読みを習得すればいいのです。 それだけで韓国の新聞はかなり読めるでしょう。

 しかし小説はそうではありません。 漢字語が少なく、また当然ながら文学的表現が出てきます。 これを日本語にしようとしたら、どのような日本語が適当なのかを調べ考えるのに、かなりの時間と努力が必要です。 逆に言うと、小説の翻訳は非常に勉強になるということです。

 今回は殷熙耕の短編小説「私が暮していた家(내가 살았던 집)」です。

【殷熙耕の略歴】

1959年全羅北道生まれ。 1995年、中編小説「二重奏」でデビュー。 以降ベストセラーを出し続ける。  ウィキペディアでは、 「殷の作品は、何気ない日常を精緻な描写を通じて生々しく形象化し、人生の真実を描くという特徴がある。穏やかな文体と叙情的な雰囲気ではあるが、その中で人生の真実を掴み取る鋭利な視線を持っている。 殷の作品世界は、女性作家にみるフェミニズム的な視線からは離れ、自分なりの人間探求を見せている。」 と評価されている。

「私が暮していた家」 http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/watashigakurashiteitaie.pdf

「私が暮していた家(横書)」 http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/watashigakurashiteitaie

 外国の話ですから、例えば飲酒運転が当然であったり、アパート(マンション)のベランダに出て窓を開けて外気に当たった、というような日本では考えられないような場面が時々出てきます。

「韓」という国号について(1)2015/05/09

 我が国の隣国である「大韓民国」の国号は「韓」であり、「朝鮮民主主義人民共和国」の国号は「朝鮮」です。

 「朝鮮」という国号は、紀元前の中国の歴史書『史記』に記された「箕子朝鮮」「衛氏朝鮮」に由来するものです。 この時の「朝鮮」は満州遼東地方から朝鮮半島北西部にかけての地域と推定されています。 1392年に李成桂が高麗を滅ぼして新たな王朝を樹立した時に、宗主国である明から国号を上述の歴史的由来のある「朝鮮」と定めてもらい、1897年の「大韓帝国」まで続きます。

 1910年の日韓併合後は国号ではなく日本の植民地名として「朝鮮」が使われ、解放後に金日成が朝鮮半島北部で樹立した国家の国号に採用されました。 「朝鮮」はその由来が比較的はっきりしており、議論の余地はありません。  ただ「朝鮮」が半島全体を意味するようになったのは14世紀末からであって、本来は遼東~半島北西部の領域であったことは記憶に留めてほしいと思います。

 一方の「韓」については、その由来がかなり複雑です。現在の国号の「韓」が古代の「三韓」に由来するところまでは明確ですが、この「三韓」というのが実にややこしいのです。

 『広辞苑』で「三韓」は次のように説明されています。

①古代朝鮮南半部に拠った馬韓・辰韓・弁韓の総称 ②新羅・百済・高句麗の総称

 馬韓は後に「百済」となり、辰韓は後に「新羅」となり、弁韓は後に加羅国になって結局は新羅に滅ぼされます。 従って①の「馬韓・辰韓・弁韓」の領域は「百済・新羅」の二国の領域の意味になります。 ところが②では「新羅・百済・高句麗」の三国です。 従って①と②との違いは、「三韓」に高句麗が入っているかどうかという点になります。別に言えば、①は朝鮮半島南部のみ、②は朝鮮半島全体と範囲が違っているのです。

 邪馬台国が登場する3世紀の歴史書『三国志』魏志東夷伝には馬韓・辰韓・弁韓は記載されていますが、百済・新羅がありません。 百済も新羅もそれから百年ぐらい後の4世紀に成立します。 だから①の馬韓・辰韓・弁韓という意味の「三韓」は3世紀までは確実にあり、②の新羅・百済・高句麗という意味の「三韓」は4世紀以降のことになります。 ①と②の違いは、時代差を表しています。

 つまり「三韓」とは当初は半島南部の馬韓・辰韓・弁韓でこれが百済・新羅となったが、4世紀以降のある時代に半島北部の高句麗が加わったということになります。 従って最初「三韓」は半島南部だけであったのが、後に半島全体を指称するようになったと言えます。

 「三韓」はこのように意味が変わったのですが、それが何時でどのような経緯なのかを示す史料がありません。 ここに複雑さというか、ややこしさがあります。 韓国の歴史書でも複雑さがそのまま現れています。 徐毅植・安智源・李元淳・鄭在貞著『日韓でいっしょに読みたい韓国史』(君島和彦ほか訳 明石書店 2014年1月)から該当部分を紹介します。

多くの小国が地域ごとに辰韓、馬韓、弁韓の三韓としてまとまり(29頁)

高句麗と百済の遺民が新羅と力を合わせて唐を追い出す過程で、3国は1つの民族であり、1つの統一国家となって暮らさねばならないという‘三韓統一意識’が高まった。(45頁)

 このように7世紀に新羅が百済・高句麗とともに統一国家を樹立した時の意識が、その数百年前の辰韓・馬韓・弁韓の「三韓」の統一であったとしています。

 つまり半島全体である三国統一を、半島南部だけの「三韓」の統一と表現しているのですが、その理由について説明がありません。

【拙稿参照】       矢木毅『韓国・朝鮮史の系譜』(1)~(5)

http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2013/05/02/6796822

http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2013/05/04/6798932

http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2013/05/07/6803186

http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2013/05/10/6805823

http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2013/05/13/6809067

「三韓」は朝鮮の国家と民族を表す http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2013/09/10/6977764

「三韓」は朝鮮でも使っていた   http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2007/05/25/1533306

「韓」という国号について(2)2015/05/14

 中国史では「中華」と「夷狄」の区別が明確にあります。 文明の中心たる「中華」の世界と、その周辺に未開である「夷狄」の世界の二つが共存しているのが中国の歴史です。

 歴史上の国号にも中華と夷狄とでは違いがあります。 中華の国号は「秦」「漢」「唐」「宋」「明」「清」など、漢字一字の国名です。 一方夷狄の方は「日本」「朝鮮」「高句麗」「扶余」「新羅」「粛慎」などのように漢字二字以上か、もしくは「倭」「濊」「貊」などのように漢字一字でも卑字になります。 つまり国名は、漢字の字数あるいは卑字か否かで中華か夷狄かの区別がつきます。 だから国名を一目で見ただけで、この国は中華の国なのか夷狄の国なのかの判断が出来るのです。

 このような歴史事実を知ると、「韓」という国号はこの漢字を見ただけで中華に属するものであることが分かります。 中国の戦国時代の七勇の一つに「韓」があります。紀元前230年に秦の始皇帝によって滅ぼされましたが、漢字一字の「韓」という国号は中華の国であることを示しています。

 ところが朝鮮半島で過去にあったし現在もある「韓」は、中国から見ると東夷すなわち夷狄に属するにも拘らず、漢字一字の中華の国の名前なのです。 だからこの「韓」は、中国を含む東アジア史においては極めて異例な国号と言うことが出来ます。 何故このようなことが起きたのか、明確に語ってくれる史料がなく、また研究もほとんどないようです。 それでも、このことに何とか迫れないだろうかと調べてみました。

 大韓民国の国号の由来である「韓」の初見は中国の『三国志』の「魏志東夷伝」です。 これは邪馬台国や卑弥呼の話があるので、我々には馴染みのある史料です。 なお『後漢書』にも「韓」のことがありますが、これは『三国志』に拠って記述されていますので、『三国志』をオリジナル史料とした方がいいでしょう。

 この『三国志』で「韓」は次のように記されています。 分かりやすいように、平凡社東洋文庫『東アジア民族史1』にある現代語訳と原文を紹介します。

韓は帯方[郡]の南にあって、東西は海をもって境界とし、南は倭と[境界を]接している。[韓の]広さは四千里四方ほどである。[韓には]三種があり、一を馬韓、二を辰韓、三を弁韓といい、辰韓は昔の辰国である。(196頁)    (原文)韓在帶方之南,東西以海爲限,南與倭接,方可四千里。有三種,一曰馬韓,二曰辰韓,三曰弁韓。辰韓者,古之辰國也。

 帯方郡は卑弥呼の使者が往来した所ですから、我々日本人には馴染みの深いものです。 黄海道鳳山郡沙里院(現在は北朝鮮領内)で「帯方太守 張撫夷」と刻まれた古墳が発見されており、この墓の近くにある唐土城がここの郡庁であることはほぼ確実です。 ところで『三国志』における「韓」はこの帯方郡の南に位置しています。 従って「韓」は朝鮮半島南部であり、今の大韓民国の領域とかなり重なる位置にあることが分かります。

 次にこの朝鮮半島南部地域は夷狄の地であるにもかかわらず、何故「韓」という中華風の名前を付けたのかです。 これについては上述したように史料が皆無と言っていいもので、状況証拠から推測を重ねるしかありません。

 同じく『三国志』の「東夷伝」に、現在の遼寧省~朝鮮北部にあった「朝鮮(箕子)」の準という王が衛満(中国の燕の人)によって追放されて、「韓」に逃れて「韓王」になったという説話があります。

[朝鮮]候の[箕準]は以前から勝手に王を称していたが、燕からの亡命者である衛満に[国を]攻め奪われてしまった。(魏略引用部分は省略)  [朝鮮王準]は身近に仕える宮人たちを率いて逃れ、海に出て韓族の地域に[入り、そこに]住みつき、みずから韓王を称した。(197・200頁)    (原文)侯准既僭號稱王,爲燕亡人衛滿所攻奪。(省略)將其左右宮人走入海,居韓地,自號韓王。

 この箕準説話は『三国志』の時代より500年も前の秦の始皇帝頃の話とされて、裏付け資料がないことから史実かどうか不明です。 しかし朝鮮南部を「韓」と呼ぶのはかなり古くから始まっていると言えそうです。 箕子は中国の殷の時代の暴君である紂王から逃れて東夷の地に「朝鮮」を建国したという伝承があり、準はこの箕子の子孫ですから中国人です。少なくとも夷狄の人ではありません。

 だから準が中華風に「韓王」を称するのは理屈に合うのですが、準が海に出て目指した朝鮮南部が既に「韓」となっていたのかどうかが不明です。 もしも準がこの地を自分で「韓」と名付けて自分が「韓王」となったとしたら、これが一番うまく説明できるのですが、これは上述したように推測を重ねた憶測でしかありません。 それでも「韓」という中華風の国名は中国人の国だからそのようにつけられたということで理屈は通っているので、私には魅力を感じています。

【関連拙稿】

「韓」という国名について(1)  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/05/09/7630067

「韓」という国号について(3)2015/05/19

 現在の大韓民国の国号である「韓」の直接的淵源は1897年に成立した「大韓帝国」です。 それまで「朝鮮国」として中国の清の属国であったのですが、この年に正式に独立して「大韓帝国」となり、朝鮮の王であった高宗は「皇帝」を名乗ります。

 「朝鮮」から「韓」に国号を変えたのですが、この時に朝鮮内ではどのような議論がなされたのでしょうか。 ちょっと調べてみました。

 木村幹『高宗・閔妃』(ミネルヴァ書房 2007年12月)の274頁では、次のように記されています。

(1897年)九月三〇日には総理大臣から名称を改めた議政大臣沈舜沢が、古代における馬韓・弁韓・辰韓の三韓統一の大業を受けた朝鮮半島の支配者が皇帝と称することは当然である、と発言する。 ある者が皇帝に就任するためには、その支配する王朝が「帝国」に相応しい歴史を有していなければならない。 沈舜沢はそれを遠く古代の新羅による三韓統一に求めたわけである。 そして、その新羅の「統」を高麗を通じて受け継いだ朝鮮王朝は、帝国たるに十分な存在だと主張したのである (『朝鮮王朝実録』高宗三四年九月二五日、九月二六日、九月三〇日)

 そこで『朝鮮王朝実録』の該当日付けの記事を探したところ、このような内容は書かれていませんでした。 木村幹氏に直接お尋ねしたところ、菊池謙譲と承政院日記だったという回答をいただきました。 それから直ぐにこれらの資料を探し求め、該当部分を得ることが出来ました。 先ずは菊池謙譲『近代朝鮮史』を紹介します。

大韓国号  皇帝式(皇帝即位式のこと)は滞りなく挙行され、慶雲靄々として溢るの状あった。 文武百官未だ退辞せず、重臣等侍座せるを見て皇帝曰く朕は今ま卿等と議定せんと欲するもの一つ残れり是則天下の号である。 大臣諸卿宜しく議を定めよと、沈舜沢、趙秉世は答ふるに天下の名を新に定むるは今日にありと、帝いわく我邦は乃ち三韓の地にして我国初命を受けて統合一とした今其号を名づけて大韓と称しても不可ならずと、沈舜沢は大韓の国号は之を稽ふるに帝繞の国旧統を襲ぐものに非ざれば聖旨切当にして敢へて賛辞を陳奏せずと述ぶるや、趙秉世も一言陳して曰く各国人は朝鮮を以て韓と称し居れり、其祥兆已に平昔よりあるを以て今後政治は天命維新の覚悟で行はねばならぬと、皇帝には恰かも集議に於ける議長の如く天下の号は已に定った、大韓を以て之を書せをあった。   皇帝号も、大韓の名称も、一瀉千里の勢を以て進行し、朝鮮有史以来の慶典も滞りなく挙行されて目出度限りである。 (菊池謙譲『近代朝鮮史 下』大陸研究所 昭和12年12月 クレア出版復刻 484頁)

 『承政院日記』の方は「光武元年丁酉九月十八日 陽暦十月十三日」付けの記事にあります。 これに基づいて正史である『朝鮮王朝実録』が作成されますので、こちらの方を紹介します。 「高宗 巻36 丁酉光武元年10月」条です。 『朝鮮王朝実録』は韓国の国史編纂員会がインターネットで公開しており、原文(漢文)の入手は容易ですのでご参照ください。私なりの現代語訳をしてみました。

十月十三日‥‥皇帝は次のように詔を下した。  朕が思うに、檀君と箕子以降に領土が分かれて、それぞれが一つの地域に拠って互いに覇権を争ったが、高麗の時代になって馬韓・辰韓・弁韓を一つにした。これを三韓統合(統一)という。 我が祖先である太祖が王位に就いた最初の時は国土をさらに広げて、北方では靺鞨の境界まで至り、歯牙や皮革、絹糸を得るようになり、南の方では済州島を併合して蜜柑や柚子、海産物の貢納を得るようになった。 四千里の広さの国土を統一するという王業を成し遂げ、礼楽や法律は唐繞や虞舜を引き継ぎ、国土を強固に固めて、我が子孫に万世を長く伝える盤石の基礎を残してくれた。  朕に徳がなく、難しい時代に遭遇したが、上帝の残してくれた徳のおかげで危機を脱し、安定したので、独立の基礎を作り、自主の権利を行使することとなった。 これに全ての臣下や百姓たち、軍人や商人たちが声を一つにして数十回も朝廷に上訴して、必ずや皇帝の称号を上げようとした。 朕は何度も辞退してきたが遂に辞退することが出来ず、今年9月17日(新暦では10月12日)に白嶽山の南で天地を祭って奏上し、帝位に就いた。国の号を定めて「大韓」といい、この年を「光武元年」とし、宗廟や社稷を「太社」「太稷」と改め、王后の閔氏を「皇后」に、王太子を「皇太子」とする。

 この時の「三韓」についての高宗の歴史認識は、三韓は馬韓・辰韓・弁韓であり、これを統一したのは「高麗」だとしている点が注目されます。 すなわち「三韓統一」は7世紀の新羅による統一ではなく、10世紀の高麗による統一の意味だと考えられていたということです。 しかし古代の正史である『三国史記』の新羅本紀では三韓を統一したのは「新羅」だとしていますから、高宗の歴史認識は自国の正史と矛盾していることになります。

 また馬韓・辰韓・弁韓は4世紀までには実質的になくなり、消滅してしまいます。 ですから高宗が馬韓・辰韓・弁韓の「三韓統一」を10世紀の高麗による統一としたとする歴史認識自体が、歴史事実と矛盾することになります。

 高宗ばかりを批判したように思われるかも知れませんが、これは李朝時代に当時の知識人たちの共通の認識であり、高宗はそれをなぞったものです。 李朝時代の知識人たちは、これを矛盾とは考えていなかったということです。

「韓」という国号について(1)   http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/05/09/7630067

「韓」という国号について(2)  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/05/14/7633517

「韓」という国号について(4)2015/05/24

 ところで「韓」という国号の採用について、矢木毅『韓国・朝鮮史の系譜』(塙選書 2012年3月)では、「二字(朝鮮)から一字(韓)へと格上げ」と評価しています。 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2013/05/10/6805823

 矢木さんによると、国号は中華の国では漢字一文字、夷狄の国では二文字もしくは卑字という差別があります。 従って、大韓帝国成立の際に国号が「朝鮮」の二文字から「韓」の一文字へ変更したことは、夷狄から中華への「格上げ」であったとなるわけです。 そうであるなら、当時こういうことが議論されただろうと予想できるのですが、史料としてはなかなか出てきません。

 関係ありそうなところでは『朝鮮王朝実録』の「高宗 巻36 丁酉光武元年10月11 日」条があります。大韓帝国の皇帝即位式が1897年10月12日ですからその前日です。私なりの現代語訳で紹介します。原文(漢文)はインターネットで確認してください。

王が言うには「大臣たちと議論して決めたいことがある。政事を新しく始めようとする今、全ての礼が新しくなったが、円丘壇で祭祀(皇帝就任式)を執り行う時に、国号を定めて使わねばならない。大臣たちの意見はどうか。」   沈舜沢が言うには「我が国は箕子が中国皇帝に封じられて『朝鮮』の名前を称号としましたが、最初から適当ではありませんでした。今我が国は古くからの国ですが、天命を新たに受けることになりますので、国号を定めて、理に適うようにせねばなりません。」   趙秉世が言うには「天命が新たになり、制度もみんな新しくなりましたので、国号もまた新しくせねばなりません。今から何万何億年の永遠の根本がここにあるからです。」   王が言うには「我が国は三韓の地である。我が国が初めて天命を受けた時、統合して一つとなった。今国号を『大韓』と定めてもさしつかえない。また世界各国の資料を見れば、『朝鮮』とはしないで『韓』としていた。これは前もって定められていて今日を待っていたかのようである。世に公表しなくても、世の人々はすべて「大韓」という名前を知っているのである。」   沈舜沢が言うには「三代以降は、国号は以前のものを踏襲することはありませんでした。ところで『朝鮮』は箕子が中国より封じられた時の称号です。堂々たる帝国の名前に使うにはよくありません。『大韓』という称号は、これから皇統を継ぐ国と思えば昔を踏襲するものではありません。王のお言葉は誠に当然のことで、敢えて賛辞を加えることもありません。」    趙秉世が言うには「各国が『朝鮮』を『韓』というのは、その目出度い兆候が昔からあって、天命が新たになることを待っていたのです。また『韓』の字の扁が『朝』の字の扁と同じなのは偶然ではありません。これは万世の太平を開くものです。私は王の仰せに賞賛の心を禁じ得ません。」    王が言うには「国号が定まったので、円丘壇での祭祀に告由する祭文や詔文には『大韓』と書くようにせよ。」

 このなかで、議政大臣(総理大臣に相当)の沈舜沢が、「朝鮮」は箕子が中国から服属を認められた時の名前だ、だから帝国として出発する国の名前として適当でないと主張しています。 ここに「朝鮮」の二文字の国名は夷狄を表すものだという意味が含まれているのかも知れません。

「韓」という国号について(1) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/05/09/7630067

「韓」という国号について(2) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/05/14/7633517

「韓」という国号について(3) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/05/19/7636889

「韓」という国号について(5)2015/05/29

 現在の大韓民国は解放後(戦後)3年経った1948年8月15日に建国されましたが、この際に国号についてどのように議論されたのでしょうか。 資料を探したところ、任文恒『日本帝国と大韓民国に仕えた官僚の回想』(ちくま文庫 2015年2月)に次のような記述を見つけました。

憲法を起草している間に、いろいろな意想外の出来事もあった。‥‥「大韓民国」という国号と、年号に「檀紀」を使用するという前近代的決定とは、ともに起草委員会で可決された。 国号として「高麗民国」或いは「韓民国」を主張する側もあり、年号は西紀をという声もあって、決しかねるところへ、或る日突然、臨時政府側の池青天将軍が、起草委員でもないのに会議場に姿を現わし、国号は「大韓民国」、年号は「檀紀」を使用すると、即刻決定しないのなら、その場で割腹自殺すると頑張ったので、その主張通りに決まった。‥‥こうして起草された憲法草案は、無修正で国会を通過した。(325~326頁)

 なお直接は確認していませんが、2014年2月2日付けの朝鮮日報では次のような記事があったといいます。

1945年8月15日に光復が実現すると、人々は「大韓民国万歳」を叫んだ-と信じている多くの人々にとって、1948年6月に憲法起草委員会の徐相日(ソ・サンイル)委員長が国会本会議で行った報告の内容は意外なものだろう。 「国号問題をめぐっては多数の意見がある。大韓民国、高麗共和国、朝鮮、韓…」。当初、兪鎮午(ユ・ジンオ)が起草した韓国憲法草案の第1条は「朝鮮は民主共和国である」となっていた。結局、起草委で審議した結果、全体の63%に当たる17票を得た「大韓民国」が国の名前に決まった。

 これの根拠となった資料は、おそらく国史編纂員会『資料 大韓民国史7』と思われます。 その資料集の1948年6月7日(日)付けに、下記の資料が載っています。原文は漢字ハングル混合文です。直訳しますので、日本語としてはちょっと変なところがあります。

憲法起草委員会、憲法逐条討議で国号を大韓民国と決定する     憲法起草委員会では、8日まで本会議に提出する草案作成がこれから約10日間をさらに要するようになって、8日の本会議に提出の日時延期を要請したが、去る7日には午後から夜半まで兪氏の草案を基にして、これに司法内示を技術的に斟酌しながら逐条討議を開始、第一章七条まで完了したという。 即ち、第一章の総綱において最も注目される点は、国号問題であるところ、当日同問題で、各委員間で激論が展開されたが、結局票決した結果、大韓民国17票、高麗共和国7票、朝鮮共和国2票、韓国1票で、大韓民国に落着したという。 ここで国号決定をめぐる憲委(憲法起草委員会)の動向を見れば、李青天を始めとして独促(独立促成中央協議会)系では、議長の李承晩が開会当日の式辞でも大韓民国を闡明にしてその時異議がなかっただけにそのまま推進させるのが当然だと李博士の主張を支持したといい、韓民党出身議員は高麗共和国を力説したものという。 いずれにせよ憲法作成において、その行方が注目されるこの時、憲委で大韓民国の国号決定を見たのは、これから憲法構成基準をかなり推測することができるといい、したがって大統領制と責任内閣制についての論戦が一層白熱化するものと観測される。(朝鮮日報 1948年6月9日、京郷新聞1948年6月9日)  (258頁)

 以上のように、国号について様々な意見や案が飛び交って議論されました。 ということは1948年の大韓民国建国は新たな国家の始まりであるということです。 なぜならば、もし1919年設立の大韓民国臨時政府の継続であれば、「大韓民国」という国名は議論の余地なく前提となっていなければならなかったからです。 実際はそうではなくどんな国名にするか議論されたというのですから、大韓民国はかつての臨時政府とは断絶していることを示しています。

「韓」という国号について(1) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/05/09/7630067

「韓」という国号について(2) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/05/14/7633517

「韓」という国号について(3) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/05/19/7636889

「韓」という国号について(4) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/05/24/7645246