「三韓」の用例(2)―朝鮮古代2015/06/13

 朝鮮古代史を記録した『三国史記』と『三国遺事』から、「三韓」の用例を探してみました。

[1]『三国史記』新羅本紀第八        「(太宗武烈王は)生前は良臣の金庾信をえて、心を一つにして政治をし、三韓を一つに統合しました。」(258頁 平凡社東洋文庫『三国史記1』)       (原文)生前得良臣金庾信同心為政一統三韓

[2]『三国史記』百済本紀第四       「[南斉の武帝は次のようにいった。]‥‥しかるに、『三韓古記』には、牟都を王にしたことがない。(363頁 平凡社東洋文庫『三国史記2』)

[3]『三国史記』百済本紀第六        「(唐の)高宗は璽書(親勅)を与え、(百済の義慈)王を諭して、‥‥その結果、三韓の民の命を俎板にのせ[るような不安におとしいれ]、戈を用いて憤懣をほしいままにする日々がつづいている。」(399頁 平凡社東洋文庫『三国史記2』)

[4]『三国遺事』紀異第一 太宗春秋公        「王は金庾信とともに、すぐれた謀と力をつくして、三韓を統一して 国家の大功をたてたので」(109頁 三一書房『三国遺事 上』林英樹訳)       (原文)王與庾信神謀戮力一統三韓有大功於社稷

[5]『三国遺事』紀異第二 万波息笛       「(神文)王はこれを怪しみ、天文官の金春質に命じて、これを占うと『父王が今 海龍となって 三韓を鎮護し また 金庾信が三十三天[忉利天]の一子として 今 この世に生まれ変わって大臣となりました。』」(128頁 三一書房『三国遺事 上』)      (原文)王異之命日官金春質占之曰聖考今為海龍鎮護三韓抑又金公金庾信乃三十三天之一子今降為大臣

[6]『三国遺事』紀異第二 孝昭王代 竹旨郎        「はじめ述宗公が朔州都督使になって 任所に行くようになったが 当時三韓に兵乱が起っていたので 騎兵三千騎で護送した。」(131頁 三一書房『三国遺事 上』)       (原文)初述宗公為朔州都督使将帰理所時三韓兵乱騎兵三千護送之

[7]『三国遺事』紀異第二 孝昭王代 竹旨郎         「彼(述宗公)は金庾信とともに 副師になって三韓を統一して 真徳・太宗・文武・神文などの四代の王朝に大臣として使え 国家を安定させた。」(131頁 三一書房『三国遺事 上』)         (原文)與庾信公為副師統三韓真徳太宗文武神文四代為蒙宰安定厥邦

[8]『三国遺事』紀異第二 南扶余 前百済 北扶余         「『後漢書』には「三韓はおよそ七十八国で、百済はその一国である」と書いており」(159頁 三一書房『三国遺事 上』)        (原文)後漢書云三韓凡七十八国百済是其一国焉

[9]『三国遺事』紀異第二 後百済と甄萱         「しかるに さきに 三韓が災厄に会い 九土[新羅九州の地]が凶荒して」(168頁 三一書房『三国遺事 上』)        (原文)頃以三韓厄会九土凶荒

[10]『三国遺事』紀異第二 後百済と甄萱        「必ずや 三韓の主になるだろうから」(172頁 三一書房『三国遺事 上』)       (原文)必為三韓之主

[11]『三国遺事』塔像第四 皇龍寺九層塔        「この塔を建立した後、天地が安泰となり 三韓の統一がなった」(43頁 三一書房『三国遺事 下』)        (原文)樹塔之後天地開泰三韓為一

[12]『三国遺事』義解第五 円光西学         「唐の『続高僧伝』第十三巻に「新羅の皇龍寺の僧 円光の俗姓は朴氏で 本籍は三韓―卞韓・辰韓・馬韓―で、円光は即ち辰韓の人である。‥‥」と書いてある。」(103頁 三一書房『三国遺事 下』)          (原文)唐続高僧伝第十三巻載新羅皇隆寺釈円光俗姓朴氏本住三韓卞韓辰韓馬韓光即辰韓人也

[13]『三国遺事』義解第五 宝壌梨木         「新羅時代以来 当郡の寺院と鵲岬以下中小の寺院が三韓の戦乱の間に」(112頁 三一書房『三国遺事 下』)         (原文)羅代為已来当郡寺鵲已下中小寺院三韓乱亡間

 以上の通りで、[1]~[3]は『三国史記』、[4]~[13]は『三国遺事』です。これを見ると「三韓」の用例は結構あります。

 このうち[1][4][7][11]は「三韓の統一」等、[6][9][13]は「三韓の兵乱」等、[5]は「三韓の鎮護」等ですから、以上の「三韓」は新羅・百済・高句麗の三国の領域であることは明らかで、朝鮮全体のことになります。 しかも三国の統一が最終目標であるかのような表現となっていますから、三国を一体視していることが分かります。

 しかし[8]と[12]の「三韓」は『後漢書』系統の資料となるもので、馬韓・辰韓・弁韓の意味になります。朝鮮半島南部だけを指しますから、他とは違っています。

 なお『三国史記』には三韓に関連して次のような記述があります。

『三国史記』列伝第六 崔致遠         「(崔致遠の)文集に『上大師侍中状』があり[次のように]いっている。 『伏して聞きますに、海東の外に三国があり、その名は馬韓・卞韓・辰韓で、馬韓とはすなわち高[句]麗、卞韓はすなわち百済、辰韓はすなわち新羅[であります]。』 (134~135頁 平凡社東洋文庫『三国史記2』)

 馬韓=高句麗、弁韓=百済、辰韓=新羅という特異な見解です。おそらくは、崔致遠は「三韓」が朝鮮半島南部だけを指す場合と朝鮮全体を指す場合があるという矛盾に気付き、これを何とか説明しようとしてちょっと無理したという感想を抱きます。

「三韓」の用例(1)―中国古代   http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/06/08/7664404

「韓」という国号について(1) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/05/09/7630067

「三韓」は朝鮮の国家と民族を表す http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2013/09/10/6977764

「三韓」は朝鮮でも使っていた  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2007/05/25/1533306

矢木毅『韓国・朝鮮史の系譜』(2)http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2013/05/04/6798932

矢木毅『韓国・朝鮮史の系譜』(3)http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2013/05/07/6803186

矢木毅『韓国・朝鮮史の系譜』(4)http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2013/05/10/6805823