HP開設16周年2015/09/06

 HP「『歴史と国家』雑考」を開設したのが1999年8月でしたから、丸16年になります。 そしてこのブログの開設は2006年6月ですから9年です。

 アクセスがあったからといってお金が貰えるわけでもなく、全くの無報酬でやってきました。 こちらに訪問して下さる方は拙文を読んでいただいて有難いという関係であって、それ以上でもそれ以下でもありません。 お金を頂いているなら私にとって大切なお客様ですが、そんなことはありません。 ですから訪問者に左右されることなく、自分の思いつくままに書いてきました。 

 訪問者によるコメント投稿のことについては、昨年の15周年時にはそれまでの経過を記していますので、ご参考下さい。  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2014/08/08/7408861

 それから1年です。 その間更に進めて、レイシズム的傾向の文言のある投稿だけでなく、自己宣伝・自己満足にしか過ぎないような投稿、即興的な反応でしかないような投稿、自分は何もしないで他人に何かをさせようとする投稿なども公開しないようにしてきました。

 拙論に対する批判・賞賛は多いですが、根拠とした資料を出来る限り呈示しているのですから、図書館に行くなりして資料を探して検証する努力ぐらいはして欲しいと思います。 そんなこともせずに私をヨイショ=賞賛する人は気色悪いだけです。 またインターネットの検索だけで批判するような人はいかがなものかと考えています。

 不勉強な人の投稿は読んでも無駄なだけだと悟りましたし、一旦公開すればなかなか削除できないので、投稿者はいつまでも自分の投稿が残ることを喜んでいる実態も知りました。 こういうものも最初から公開しないほうがいいと判断しています。

 アクセス数や投稿数でブログを格付ける傾向があるようですが、拙ブログに関しては無意味です。 お客様でもなく、また教師・学生という関係でもなく、たまたま拙論を読んで頂いたという関係にしか過ぎません。

 そういう関係のなかで、拙論が参考になり何処かで役に立ってくれれば嬉しいものです。

再録・主催者発表3倍の法則2015/09/06

 産経新聞で、この前の8月30日にあった安保法制反対デモの参加人数について、花田紀凱が主催者発表の数の「インチキ」について書いています。 http://www.sankei.com/premium/news/150906/prm1509060020-n1.html

   これについては7年前に拙論で論じたことがありますので、再録します。 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2008/03/21/2803511

この頃は知りませんが、1970年代に「主催者発表の数字は警察発表の数字の3倍」の法則があると言われていました。      何かの集会で、主催者が発表する参加人数は、警察が発表する参加人数のほぼ3倍となる傾向が強い、という意味です。 それで気になって、そのような集会の新聞記事を見るたびに数字を見比べていたのですが、「法則」がよく当たっているのに成程と感心した記憶があります。       昨年9月に沖縄で行われた教科書検定問題の集会で、参加者が主催者発表で「11万人」、警察情報では「4万人」とされていましたので、この「法則」は21世紀になっても適合するものと思われます。       ところで、どちらが正しいかですが、一般的に言って主催者発表は自分たちの成果をアピールするために人数を多めに出すのが普通です。       一方の警察発表は、参加者人数によって警備する警官の数を決めねばなりませんし、議会等で人数の根拠を質問される可能性がありますから、実態からかけ離れた数字を出すことはありません。       従って警察発表の数字が大体正しいと見ていいものです。とすると、主催者発表は水増し率3倍ということになるわけです。        これ以上数字を大きくすると嘘臭さが強くなるし、少ない数字だと元気が出ないし‥‥3倍が適当なところということでしょう。         マスコミが主催者発表数字をそのまま報道することは、水増し記事となりますので感心できるものではありません

 今回の安保法制反対デモは、主催者発表12万、警察発表3万3千だそうですから、3.6倍です。 2割の違いですから、まあ誤差の範囲に入るでしょう。 主催者発表3倍の法則はここでも通じたというわけです。

 これは「インチキ」というものではなく、それが当たり前です。 だから主催者発表数を信じる方がおかしいのであり、この数字をそのまま記事にするマスコミが異常なのです。

【関連拙稿】

韓国でも主催者発表3倍の法則 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2011/07/02/5939443

産経新聞がバーバリーマン(露出狂)になった2015/09/10

 韓国の朝鮮日報に、日本の産経新聞を皮肉る記事が出ました。紙上では9月7日付けですが、この新聞の日本語版では9月8日付けです。 http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2015/09/08/2015090800517.html

 この日本語版を見て私はビックリしました。 このタイトルが「産経新聞対処法」となっているからです。

 実際の紙上ではそんなものではなく、「バーバリーマンの対処法 ('바바리맨' 대처법)」 となっています。 つまり、紙ベースではタイトルが「バーバリーマン(性的露出狂)」であるものが、インターネットの日本語版では「産経新聞」に替えられていたからです。

 朝鮮日報は自国内向けには、産経新聞は「バーバリーマン」であるという位置付けなのにビックリした次第です。

 産経新聞は、韓国ではついに露出狂というレッテルが貼られたのですねえ。

露出狂はやり過ごせ―韓国の専門家2015/09/10

 朝鮮日報の東京特派員である金秀恵記者は、産経新聞をバーバリーマン(露出狂)に比喩しました。

 それでは実際のバーバリマン(露出狂)に対しては、どう対処すべきだと言ってるのでしょうか。

痴漢対処法の専門家たちも同様のアドバイスをする。「『バーバリー・マン』(裸でトレンチコートなどを着用し、人前でコート広げる露出狂のこと)に会ったら悲鳴を上げずに、透明人間扱いをしてやり過ごせ」。一理ある話だが

http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2015/09/08/2015090800517_2.html

 韓国の専門家は、露出狂に出会ってもそのままやり過ごして放置しろというアドバイスしており、金記者はこれを「一理ある」と同意しています。

 こんな犯罪があれば、すぐさま警察に連絡して速やかに逮捕してもらうのが当然だと思っていたのですが、韓国の専門家はそんなことをせずに「やり過ごせ」というアドバイスです。

 そして朝鮮日報の女性記者である金記者は、これが「一理ある」と賛成しているところにビックリしました。

韓国の小説の翻訳に挑戦 (3)2015/09/15

 これまで殷熙耕の「私の暮らしいた家」と申京淑の「伝説」の翻訳をしました。

 今回は申京淑の「ある女」です。 ここで出てくる会話文は全羅道方言です。 しかもかなりきつい方言です。 だからこの小説には方言を味わうという趣旨があります。

 しかし、こういうものは非常に訳し難いものです。 日本のどこかの方言に似せて訳すことは可能でしょうけど、それでは誤解を生むように思えます。 結局は標準語の口語調にしてみました。 従って方言の味わいというこの小説の重要な部分がなくなってしまいました。 外国の方言はやはり翻訳不可能としか言いようがありませんねえ。

申京淑「ある女」 http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/aruonna.pdf

【これまでの韓国小説の翻訳】

韓国の小説の翻訳に挑戦  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/05/04/7626475               殷熙耕 「私の暮らしいた家」http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/watashigakurashiteitaie.pdf

韓国の小説の翻訳に挑戦(2) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/08/02/7722604               申京淑 「伝説」 http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/dennsetsu.pdf

「朝鮮」という国号2015/09/21

 「朝鮮」という国号の淵源は二説あって、一つは紀元前24世紀(?)に天から下った桓雄と人間の女に変身した熊とが結婚して生まれた檀君が「朝鮮」を建国したという説話です。 この説話は13世紀の高麗期の歴史書に初めて記載されたもので、内容はお伽噺と言っていいものです。しかし朝鮮(韓)民族の祖として尊崇されてきました。

 そしてもう一つは中国の殷の末期(紀元前12世紀頃)の時代に紂王の暴政を諌めた箕子が東夷の土地に移って「朝鮮」を建国したという説話があります。 この場合の「朝鮮」は中国人が建国した国となります。 箕子は後に孔子が仁者と称賛したので、14世紀以降の朝鮮の儒教全盛時代では尊崇されました。 この箕子朝鮮は後に同じく中国人による衛氏朝鮮に代ります。 檀君・箕子・衛氏の三つの朝鮮を「古朝鮮」と呼びならわされています。

 古朝鮮の最後の衛氏朝鮮が紀元前2世紀に漢の武帝によって滅されてから千数百年の間「朝鮮」という国名は東アジアには出て来ず、14世紀の中世になって再び登場します。 今回はこの再登場した「朝鮮」についてです。

 1392年に李成桂が高麗を滅ぼして新たな王朝を建設した時に、中国の明に新しい国家の樹立を報告し、国号の決定を依頼しました。 そしてその時に国号は「朝鮮」と決まったのです。 それはどのような経過だったのか、『朝鮮王朝実録』を調べてみました。 原文(漢文)はインターネットで確認して頂くとして、私なりの現代語訳を紹介します。

太祖元年11月29日条          芸文館学士である韓尚質を中国の明の都に送り、「朝鮮」もしくは「和寧」のどちらかにに国号を定めてくれるよう要請した。 ……近頃皇帝におかれましては私に権知国事(その地域の国政を任せる地位)の職をお許しになり、国号をお問いになられましたので、私は国中の者たちとともに歓喜極まりました。 私が熟考するに、国を治め国号を立てるのは取るに足りない私のような者が勝手に決めるべきものではありません。 朝鮮と和寧などの称号をもって皇帝陛下のお耳に入れられ、どうか皇帝陛下におかれましてご高裁いただくことをお願い申し上げます。

 このように高麗を滅ぼし新たに建国した李成桂は中国(当時は明)の皇帝に、自国の国号を「朝鮮」にするか「和寧」にするかの裁可を求めました。これに対する中国皇帝の回答は次の通りです。

太祖二年2月15日条          洪武26年2月15日に韓尚質が明朝廷の礼部の咨文(皇帝の返答が入った下達文)を持って来たので、その咨文には「本部の右侍郎の張智らが洪武25年閏12月初9日に慎んで陛下の聖旨を奉り、その詔勅で‘東夷の国号は「朝鮮」の称号が美しく、またこの称号が伝えられてから久しいのでこの名称を物事の根本と考えて使い、天を祭り民を治め、後孫に至るまで長く繁栄するようにせよ’ と仰せられている」とある。

 中国皇帝の回答に対し、李成桂は謝意を奉ずる使者を送りました。

太祖二年3月9日条           門下侍郎賛成事である崔永沚を中国の都に派遣し、皇帝の恩恵に感謝する表文を奉った。 その表文は、「……切に思うに、昔の箕子の時代においてもすでに「朝鮮」の称号がありますので、これを申し上げて敢えて陛下の耳にお入れ頂いたところ、有難くも兪音をお下しされました。……

  「朝鮮」という国号は、新たな王朝を作った李成桂が中国の明王朝との以上のような経過を経て決まりました。 ここで注意しなければならないのは、この時に決まった「朝鮮」は中国の殷時代に箕子が東夷の地に開いたという「箕子朝鮮」に由来があるのであって、朝鮮民族の祖とされる「檀君朝鮮」ではないということです。

 ところが、13世紀の『三国遺事』に初めて登場する檀君神話は14世紀末の李成桂の時代には朝鮮半島内ではすでに広く知られており、李成桂が国号候補として「朝鮮」と「和寧」を挙げた時には「檀君朝鮮」を念頭に置いていた可能性が高いのです。 なぜなら『朝鮮王朝実録』には、それより3ヶ月前に次のような檀君記事が出てくるからです。

太祖元年8月11日条         礼曹典書である趙璞が上書して言うには‥‥朝鮮の檀君は東方で初めて天命を受けた主であり、箕子は初めて教化を興した君であるので、平壌府で国家の祭祀を執り行うべきである。

 趙璞は、最初に檀君が天命を受けその後に箕子が教化(儒教のこと)をしたのであるから、檀君に縁のある平壌で国家祭祀をするように提議しています。 この3カ月後に、上述のように李成桂は中国に「朝鮮」か「和寧」のどちらにするかの裁可を求めているのですから、国号候補の「朝鮮」には檀君朝鮮も含めていたと推察することができます。

 しかしこの檀君朝鮮は中国側史料に全く出て来ず、高麗時代の私選の史書である『三国遺事』に初めて出てくるだけですから、明の朝廷には全くの認識外のものです。 従って明の皇帝は「箕子朝鮮」だけを念頭に置いて国号を「朝鮮」にせよと命じ、李成桂はこれを受け入れたということになります。 このように朝鮮側も中国側も、古代に中国人が建国した「箕子朝鮮」に由来して「朝鮮」を国号に定めることで合意しました。

 ところが朝鮮側はこのような表側の顔と違って裏側では、「朝鮮」というのは中華王朝よりはるか以前に成立した「檀君朝鮮」であるという認識を密かに持ち続け、民族主義を高揚させていたと言えるでしょう。

 つまり「朝鮮」という国号においても、朝鮮側は中国人が作った「箕子朝鮮」という事大主義だけでなく、それよりもずっと昔からあった「檀君朝鮮」という民族主義との相矛盾する考え方を同時に有していたのです。

 現在の韓国史では、民族主義の象徴たる檀君説話は史実扱いされています。 そして事大主義の象徴だった箕子説話は中国と関係ない民族独自のお話に変造されて民族主義的に扱われているのです。

 韓国史の本を読む時には、こういったことに注意しながら読む必要があります。

【拙稿参照】

檀君神話はお伽話  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/03/15/7590818

韓国・朝鮮の民族の歴史は新しい http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2010/11/20/5521495

韓国・朝鮮の民族の歴史は新しい(2)http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/03/21/7594644

民族名での人探し三行広告2015/09/24

朝日新聞(昭和19年7月9日付)最下段の広告

 韓国の民族問題研究所が、政権与党であるセヌリの金武星代表の父親が植民地時代に親日派であったとする資料を公開して糾弾したというニュースがありました。 http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2015/09/18/2015091801371.html

 この資料というのが「41年7月9日付の朝日新聞4面下段」というもので、ちょっと興味があって早速図書館で朝日新聞の昭和16年の縮刷復刻版を探してみました。 ところが、これが見当たりませんでした。 前後の日付のものや他年度の7月9日付のものも探してみましたが、やはりありませんでした。 どうやらこのニュースには錯誤があったようです。 こういったことはこの新聞の信頼性を失わせるものなので、残念なことです。

 ついでにこの朝日新聞の他の記事を見ていたところ、上記の図のような人探しの三行広告を見つけました。

朝鮮慶州郡内東面出身 父 崔金石 居所ヲ至急知ラセ 炳閏公用ニテ近クタツ 川崎市渡田山王町一〇一 松山方 炳龍  (朝日新聞 昭和19年7月9日付け、第三面最下段)

 昭和19年ですから創氏改名の施行から4年も経っており、軍国主義真っ盛りの時代です。 そんな時に、朝日新聞紙上で民族名の人探し広告が堂々と載っているのです。

 日本は戦前の創氏改名で朝鮮人に日本名を強要し民族を否定したというデタラメ説を今なお唱える人がいますので、そういった人に是非見て頂きたいものです。

 ついでに、朝鮮で徴兵が施行された1944年以降に民族名で応召した朝鮮人の資料も以前に拙ブログで紹介しましたので、合わせてご覧くだされば幸いです。

民族名で応召した朝鮮人 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2014/11/14/7491817

【拙論参照】

創氏改名とは何か   http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daijuunidai

創氏改名の残滓    http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daijuunidai

創氏改名の手続き   http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/dainanajuudai

アルメニア人の興味深い話―在日に置き換えると2015/09/26

 毎日新聞の前川恵さんが、トルコからフランスに1920年代に亡命したアルメニア人のアンリ・ベルヌイユについてコラムに書いています。(2015年9月25日付)  このアルメニア人を在日韓国・朝鮮人に置き換えてみるとなかなか興味深いものだと思いましたので、紹介します。

金言:受け入れ国への感謝=西川恵          (略)  かつてパリ特派員をしている時、企画などで多くの元難民にインタビューした。それぞれに印象深い体験を語ってくれたが、その一人にアルメニア人のアンリ・ベルヌイユ氏(1920〜2002年)がいた。映画監督、脚本家で、「地下室のメロディー」「牝牛と兵隊」などは日本でも知られている。        同氏はトルコのアルメニア人家庭に生まれた。父は漁業会社を手広く営んでいたが、1915年に始まったアルメニア人弾圧で多くの犠牲者が出るに及び、亡命を決意した。24年、同氏4歳の時である。「困窮からではなく、生命が脅かされての亡命だった」と同氏は語っている。いまのシリアと同様だ。         出国時、トルコ政府は身の回り品の携帯しか認めず、母はお金を小さな金塊に換え、一つひとつ布で巻いて服に縫いつけ、ボタンに見せた。これがフランスのマルセイユ港に着いた時の一家の全財産だった。         「入国事務所での光景はいまも鮮明に覚えている」と言った。一家の書類を精査する係官の持ったゴム印が宙で止まっている。それを不安げに見守る両親。印が押されると入国可。そうでないと不可でトルコに戻される。「ゴム印が押された時、両親の安堵(あんど)のため息が聞こえたと思った」とも。後に字が読めるようになって分かったが、印は「無国籍」とあった。         自由の地のイメージがあったフランスだが、理想郷ではなかった。いじめもあった。しかし父は常に「先住の人に優先権がある。ぶつかった時は我々が譲るべきなのだ」と諭した。家でアルメニア語を話し、アルメニア料理を食べても、外ではフランスの習慣に従った。母も料理する時、強い香辛料のにおいが漏れないよう窓を閉め切った。同氏がフランス国籍を取得したのは22歳の時だった。         私がインタビューしたのは93年。すでに脚本家として名をなし、難民への国籍付与の条件変更を検討する政府の審議会委員をしていた。「アルメニア人としての誇りを一日も忘れたことはないが、受け入れてくれたフランスへの感謝も忘れたことはない」と語っていた。(客員編集委員)

http://mainichi.jp/shimen/news/20150925ddm003070166000c.html

 このなかででアンリ・ベルヌイユは、「しかし父は常に『先住の人に優先権がある。ぶつかった時は我々が譲るべきなのだ』と諭した。」という発言と、「アルメニア人としての誇りを一日も忘れたことはないが、受け入れてくれたフランスへの感謝も忘れたことはない」との発言があります。 こういう発言はフランス人にもおそらく心に響いたのではないかと思いました。

 実は私も在日韓国・朝鮮人からこれと同じような発言を何回も聞いたことがあります。 もう30年以上前の話になりますが、在日一世の方々からお話を聞かせてもらった時、「私ら日本にいさせてもらっているのだから‥‥」、「住めば都で、日本もなかなかいいところや」、「日本には有難いと思っている」という言葉を繰り返し聞いてきました。 この方々はもしご存命ならば、今はもう80代後半から90代になっておられます。

 在日のお年寄りからこれを聞いた時、在日の若い活動家たちが「強制連行されてきた」とか「厳しい差別を受けてきた」、「在日を生かすも殺すも日本がどう変わるかということだ」、「日本が真に国際化しない限り在日は人間らしく生きられないのだ」などと日本人に迫ってきた発言が、すべて色褪せて見えました。

 ある在日活動家と話をした時、彼が一世のお年寄りを行政闘争などに動員させるとか言ったので、私が「人生の大先輩である一世の方が『日本にいさせてもらっている』とか『住めば都で日本もいいところ』と言っておられるのだから、そういったことをじっくり聞いてあげるべきであり、我々若造がお年寄りの考えを改めさせるなんて傲慢なことを言うものではない。」と言ったところ、その活動家氏は激しく反発したものでした。 曰く「一世が言ったとしてもそんな言葉に振り回されてはいけない。そんなことは聞く必要はない。」と言うのでした。もう30年以上も前の話です。

 その時以来私は、在日活動家や在日を煽り立てて利用しようとする日本の革新・左翼系への不信感が始まりました。