アルメニア人の興味深い話―在日に置き換えると2015/09/26

 毎日新聞の前川恵さんが、トルコからフランスに1920年代に亡命したアルメニア人のアンリ・ベルヌイユについてコラムに書いています。(2015年9月25日付)  このアルメニア人を在日韓国・朝鮮人に置き換えてみるとなかなか興味深いものだと思いましたので、紹介します。

金言:受け入れ国への感謝=西川恵          (略)  かつてパリ特派員をしている時、企画などで多くの元難民にインタビューした。それぞれに印象深い体験を語ってくれたが、その一人にアルメニア人のアンリ・ベルヌイユ氏(1920〜2002年)がいた。映画監督、脚本家で、「地下室のメロディー」「牝牛と兵隊」などは日本でも知られている。        同氏はトルコのアルメニア人家庭に生まれた。父は漁業会社を手広く営んでいたが、1915年に始まったアルメニア人弾圧で多くの犠牲者が出るに及び、亡命を決意した。24年、同氏4歳の時である。「困窮からではなく、生命が脅かされての亡命だった」と同氏は語っている。いまのシリアと同様だ。         出国時、トルコ政府は身の回り品の携帯しか認めず、母はお金を小さな金塊に換え、一つひとつ布で巻いて服に縫いつけ、ボタンに見せた。これがフランスのマルセイユ港に着いた時の一家の全財産だった。         「入国事務所での光景はいまも鮮明に覚えている」と言った。一家の書類を精査する係官の持ったゴム印が宙で止まっている。それを不安げに見守る両親。印が押されると入国可。そうでないと不可でトルコに戻される。「ゴム印が押された時、両親の安堵(あんど)のため息が聞こえたと思った」とも。後に字が読めるようになって分かったが、印は「無国籍」とあった。         自由の地のイメージがあったフランスだが、理想郷ではなかった。いじめもあった。しかし父は常に「先住の人に優先権がある。ぶつかった時は我々が譲るべきなのだ」と諭した。家でアルメニア語を話し、アルメニア料理を食べても、外ではフランスの習慣に従った。母も料理する時、強い香辛料のにおいが漏れないよう窓を閉め切った。同氏がフランス国籍を取得したのは22歳の時だった。         私がインタビューしたのは93年。すでに脚本家として名をなし、難民への国籍付与の条件変更を検討する政府の審議会委員をしていた。「アルメニア人としての誇りを一日も忘れたことはないが、受け入れてくれたフランスへの感謝も忘れたことはない」と語っていた。(客員編集委員)

http://mainichi.jp/shimen/news/20150925ddm003070166000c.html

 このなかででアンリ・ベルヌイユは、「しかし父は常に『先住の人に優先権がある。ぶつかった時は我々が譲るべきなのだ』と諭した。」という発言と、「アルメニア人としての誇りを一日も忘れたことはないが、受け入れてくれたフランスへの感謝も忘れたことはない」との発言があります。 こういう発言はフランス人にもおそらく心に響いたのではないかと思いました。

 実は私も在日韓国・朝鮮人からこれと同じような発言を何回も聞いたことがあります。 もう30年以上前の話になりますが、在日一世の方々からお話を聞かせてもらった時、「私ら日本にいさせてもらっているのだから‥‥」、「住めば都で、日本もなかなかいいところや」、「日本には有難いと思っている」という言葉を繰り返し聞いてきました。 この方々はもしご存命ならば、今はもう80代後半から90代になっておられます。

 在日のお年寄りからこれを聞いた時、在日の若い活動家たちが「強制連行されてきた」とか「厳しい差別を受けてきた」、「在日を生かすも殺すも日本がどう変わるかということだ」、「日本が真に国際化しない限り在日は人間らしく生きられないのだ」などと日本人に迫ってきた発言が、すべて色褪せて見えました。

 ある在日活動家と話をした時、彼が一世のお年寄りを行政闘争などに動員させるとか言ったので、私が「人生の大先輩である一世の方が『日本にいさせてもらっている』とか『住めば都で日本もいいところ』と言っておられるのだから、そういったことをじっくり聞いてあげるべきであり、我々若造がお年寄りの考えを改めさせるなんて傲慢なことを言うものではない。」と言ったところ、その活動家氏は激しく反発したものでした。 曰く「一世が言ったとしてもそんな言葉に振り回されてはいけない。そんなことは聞く必要はない。」と言うのでした。もう30年以上も前の話です。

 その時以来私は、在日活動家や在日を煽り立てて利用しようとする日本の革新・左翼系への不信感が始まりました。