韓国密航者の手記―尹学準2015/12/03

 朝鮮南部は1945年の解放(光復)後アメリカ軍政下になりますが、労働党などによる反乱・闘争が相次ぎ、更には大韓民国建国後の1950年に北朝鮮による戦争勃発などで大混乱に陥りました。 この時期に多数の韓国人が日本に密入国しました。 今から見れば「難民」になるかも知れませんが、当時は「密航」と呼ばれて取締り対象でした。

 来日した密航者の多くは日本に親戚などの縁故ある人がいたり、共産党・民戦などの組織支援を受けたりするなどして、日本で働く場所を確保し生活することが出来ました。 それでも取締り対象ですから、いつ何時警察や入管に摘発されるか分からない身分でした。

 そんな人たちも多くはその後、警察や入管に出頭・自首して取り調べと裁判を受けて、法務大臣から貰う「特別在留」許可によって合法的身分を獲得することになります。 このことは拙稿で論じたことがあります。 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2013/06/23/6874269

 在日韓国・朝鮮人のうちで、このような経過を経た人はかなり多いです。 在日一世の体験談を集めた『在日一世の記憶』(平凡社 2008年10月)によれば、密航者の割合は52人中11人です。 自分が密航者だったと明らかにしていますので、今は合法的身分になっていると思われます。 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2008/12/31/4035996

 密航者が日本で生活するに当たりどのような気持ちでいたのかについては、想像は出来ますが実際に当人から聞くことは難しいものです。 おそらく他人には喋りたくないし、忘れてしまいたい過去なのであろうと思います。 そういう中、著作家の尹学準さんが自らの体験を書いた「わが密航記」(『朝鮮研究190』所収 1979年6月)は貴重な記録です。その一部を紹介します。

私は今から三年ほど前の七月のある日、品川にある東京入国管理事務所に自首した。二十数年前、不法に入国をしたことを告げたのである。      自首に踏み切った最大の理由は子どもだった。 ある日、小学校三年になったばかりの長女が私に「アッパ、アッパは尹でしょう? なのにどうして私たちは李なの?」と真剣になって問いただしてきた。私は一瞬言葉につまった。 小学生相手に父親のややこしい半生を説明してわからせることは至難のわざに思えた。 もし、私が自首して尹学準こそがわが本名なりと人前に言えるようになれば、こうした子供の疑念を晴らすことができるはずだ。 こう思って私は少しずつ準備を進めた。(4頁)

自首してからは、二日ほどかかって調書を取られた。 なにしろ二十三、四年も前のことで失念したことも多く、また、なかには私の知らなかった事実も教えられたりした。 取調べが一段落してから、入管の三階にある留置場にも入れられた。あらかじめ手はずが説明され、三〇万円の金を用意するように言われた。 そして家内が入管から払込み用紙をもらい、新橋にある日本銀行支店に保釈金を積んで来る間の小一時間、ズボンのバンドやネクタイをほどかれ、形通りの身体検査を受け、持ち物を領置して鉄柵のなかにほうり込まれたのである。 すべからく貴重な体験だった。 法務大臣による特別在留の許可が出て、「外国人登録法違反」で一金、三万円の罰金を払い一件落着するまでは、まだしばらく時間がかかるのだが、ともあれ、もうなにはばかることはなかった。 <おれは密航者だったんだぞう!>と町中を大声で叫び回りぐらいだった。 かつて警官の姿を遠くから見ただけでもつい逃げだしたくなったり、電車の中で制服姿の車掌に出合ってもどきりとしたのを思うと、まるで夢のようだった。(4~5頁)

(密航して)日本に着いてみるとまず外人登録証の問題にぶつかった。 釜山で得た知識でも登録証の入手は困難で、それがなくては捕まえられる。 そうなれば即座に送還されるということだ。 しかしなんとしても韓国を脱出しなければならないというせっぱつまった事情が先立って、この問題には神経を使う余裕がなかった。(10頁)

私はパチンコ屋で私とおなじような境遇の人に出あった。 同じ年ごろで日本に来たのは私よりは一年ほど早く、いわば先輩格だった。 密航者同士はにおいでわかる。私たちは急速に親しくなった。 ‥‥ところがその日、くしくも私のいる店で大事件が起きた。 地元の暴力団員と岡山から来た暴力団員との間でけんかがはじまり、三人も即死したのである。 ‥‥私はいわば経営者の名代でもあったので事情聴取されるのは目にみえている。 私は友人と一目散に逃げた。(10頁)

ある日叔母がどこからか幽霊の登録証を一つ手に入れてきた。 三万円もだして買ったそうである。 「李継栄」という名前で、年は私より少し若く、本籍は慶尚南道だった。 しかしそこにはつめえりの学生服を着た私とは似ても似つかぬ若者の写真がぺったりと付いていた。 しかも張りかえができないように裏まで刻まれる刻印が押されている。 これではどうしようもないとしぶい顔をしたが「それでもないよりはましだ」と叔母に言われてポケットにしまった。(11頁)

自転車を利用して‥‥ペタルを踏みしめながら帰途についたときのことである。 突然警官に呼び止められた。 無灯をとがめられたのである。 私はとっさに自転車をほうりなげ、狭い露地に向って一目散に駆けこんだ。ピーッと笛がなり、白バイのサイレンが鳴ったかと思ったらたちまち私の首根っこは押さえこまれていた。 ‥‥「きみ、あちらだね?登録証は?」と問いかけてきた。 ぎくっとしたが私は例のやつを取り出した。 写真と顔を見比べていた警官はにやりとして「これあなたのものかね」と言った。 「も、もちろんです」と答えたものの言葉がふるえた。 警官は登録を見ながら本籍、住所、生年月日と聞いた。 そこまではどうやら憶えていた。 ‥‥「お父さんの名前は?」と聞かれて、はたと困った。 そこまでは憶えていなかったのである。 しかし答えないわけにはいかない。 とっさに「李○○です」 「なに?これはますますおもしろくなってきたぞう。 てめえの親の名前も知らないとは」 「いえ、ほんとうです。戸籍の名前はどうか知りませんが、ふだんは皆さんそう呼んでいるんです」 戸籍の名をもちだしたのにはわれながら名答弁だと思った。 ‥‥私はとっさに登録の世帯主の欄を盗み見た。 そこには「李振玉」と書かれてあった。(11~12頁)

 これ以外にも密航直後にどのように取締りから逃れたのか、あるいは外国人登録証の切り替えをする際にどのようにして役所窓口の職員を騙したのか、登録証の「李」の本当の父親が何かの事件に関わったために警察からその父親の行方の問い合わせが来たことなど、他人に成り代わった「幽霊登録証」を持っているが故に生じた密航者のエピソードなどが記されており、大変興味深いものです。

 このようなことは全ての密航者が何がしかの形で体験していたはずですが、その体験談はなかなか表に出ません。その意味で、この尹さんの手記は貴重な資料でしょう。

【関連の拙稿】

在日の密航者の法的地位      http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2013/06/23/6874269

集英社新書『在日一世の記憶』(その3) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2008/12/31/4035996

金時鐘さんの出生地        http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/07/05/7700647

金時鐘『朝鮮と日本に生きる』への疑問  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/07/28/7718112

金時鐘さんの法的身分(続)    http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/08/13/7732281

金時鐘さんの法的身分(続々)   http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/08/26/7750143

金時鐘さんの法的身分(4)    http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/08/31/7762951

伊地知紀子『消されたマッコリ』(1)2015/12/08

 伊地知紀子『消されたマッコリ―朝鮮・家醸酒を今に受け継ぐ』(社会評論社 2015年5月)を購読。 マッコリについては、4年ほど前に私自身の思い出話を書いたことがあります。

タッペギ(マッコリ)の思い出    http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2012/03/04/6359741

マッコリは、元々は朝鮮の各家庭で醸造していた伝統酒で、日本でも在日朝鮮人家庭で醸造され、時には販売されました。 在日社会ではマッコリではなく、「タッペギ」と呼ばれていました。 しかし密造ですから、よほど親しくならないと出しくれないものでした。 私にはそういう思い出がありますから、こういう類の本には関心があります。 だから本屋でこの本を見つけると、すぐさま購入したのでした。

この酒はどんな材料を使ってどのようにして造っていたのか、この本では次のように記されています。

外祖母(母方の祖母)から母へと伝わったマッコルリの製造法を、尼崎市在住の李惇玉さん(1955年生)が語ってくださった。 ‥‥李惇玉さんの母(1930年生)は、自分の母の造り方を見習い、父と結婚後も20年ほど篠山に住んでいた間マッコルリを造り続けた。 外祖母はマッコルリではなく「タッペギ(濁白)」といっていた。   外祖父は器用にオンドルの家を自ら建てたので、これがマッコルリ造りに必要なヌルッ(麦麹のこと)を乾燥させるのに役立った。 大麦の収穫後、外祖父が一俵購入して担いで戻ってくると、その大麦を荒くつぶして蒸し、練ってオンドルの上で乾燥させながらカビを付ける。ツルニンジンを入れるときもあった。   マッコルリは、結婚式や葬式のときに客人に振る舞うには欠かせず、1回の宴会に必要な材料は米2升、米麹2升、円盤型のヌルッを半分、水を入れて全体で約60リットル容器にいっぱいとなる程度だ。   李惇玉さんの母はイースト菌を小さじ1杯くらい足していた。 発酵を促すために砂糖を入れるという手もあるが、それよりも夏場は材料をすべて冷まして水を入れ紙でフタをして発酵を待つときに、「呼び酒」として焼酎か純米酒を入れるとうまくいく。   冬場は、蒸した熱い米、米麹、ヌルッを混ぜたとことへ水を入れていくなかで温度を下げていくが、適温の目処は上腕の内側で計る。 この部分が気持ちよく感じる温度が36°Cくらいなので、そこで差し水を止める。(146~147頁)

大阪市西成区在住の尹美生さん(1954年生)が思い出す光景は、和歌山県有田川上流で飯場をしていた父の雇う人夫70名が飲むタッペギのために、母が長い板に乗せた蒸し飯に種麹を混ぜるところだ。   人夫の食事の材料すら事欠く現場でのタッペギづくり。生の小麦が入手しにくいことも影響したであろう。 代替としての米麹は日本の酒造りでは欠かせないものであり、麹屋が商売として成り立ってきたので購入も可能だ。  しかし、できるだけ経費を節約すべく、種麹を仕入れて米麹をつくる場合もあった。(148頁)

料理研究家の韓京孟さん(1948年生 仮名)が、母のマッコルリづくりを語ってくださった。 ‥‥母は商売用のマッコルリをつくるときはイーストを使った。 全て麹でつくると経費が高くつく。つくったマッコルリは、上澄みを「清酒」、下のドロッとした部分を「タッペギ」と売り分けていた。これは、高麗時代には記述も残る酒の区分である。  近所の人に配達を頼んで、在日朝鮮人が働く西陣織工場へ卸してもいた。   最初は水マクラに入れ、次に一升瓶を使うようになっていった。 小麦麹は使っていなかった。 小麦の入手が難しいなか闇米で流通する、「サレギ」(「砕け米」を意味するサラギの方言:慶尚道・全羅道・忠清道・平安道地方で用いる)が米麹づくりに一役買っていたのではないかと、韓京孟さんは推察した。    この時代は米麹やったと思います。京都の場合はね。‥‥このときは、統制からあったと言いながらも闇の米がなんぼでも出回っていたし、精米所から出るサレギという潰れた米を安く買って流用してマッコルリをつくることも可能やったわけね。 ‥‥自分とこでも家庭用で、夫のためのマッコルリづくりはけっこうやってたみたいやし。 お酒買うと高いからね。自分とこでやったら安い安い、麹と米と水だけやから。(152~155頁)

大阪市東成区在住の高始宗さん(1928年生)の母は、解放後の鶴橋に生まれた闇市で白飯と汁物を出す屋台を始め、マッコルリも出すようになった。   そのなかで、焼酎に専念したほうが儲かると判断し、当時住んでいた東成区二丁目の長屋のなかで焼酎づくりを始めた。 1948年頃のことである。 奈良から種麹を郵送で送ってもらっていたことを高始宗さんは覚えているが、母がどのようなやりとりで郵送という手段へ行き着いたのか定かでない。    蒸した飯に種麹をばらまいて、その上に毛布をかけて温度調節して麹をつくっていた。 母は父と2人で焼酎づくりと養豚だけで生計を立てていた。 ‥‥養豚に経費をかけないよう、焼酎づくりでできた滓をエサにすることはもちろん‥‥(148~149頁)

李乙松さん(1925年生)は、山口県徳山市でしばらく生活していたときに焼酎を造っていた。 ‥‥生活する糧として焼酎を造ったのである。   朝鮮半島で製造する焼酎は米を原料とするが、火山島であるため水稲の収穫が望めない済州島で造る焼酎は粟、大麦、唐黍などの雑穀、あるいはサツマイモである。 この焼酎を「コソリ酒」という。「コソリ」とは蒸留器を指す済州語である。   李乙松さんが徳山にいたとき、近所に住む済州島出身の人から「コソリ」を購入し、焼酎を製造し売ることで収入を得ていた。 ただ、この当時は米麹と米で造ったという。これも日本の米麹と異なるのは、朝鮮の麹を作る際にいれる薬草を7種類入れたところだ。   手にある技術で、有り合わせの材料からたまたま入手できた済州島の道具で製造したものが、李乙松さん作の焼酎だった。(141~142頁)

 マッコリ(タッペギ)や焼酎の造り方についてはそれほど詳しくは書かれておらず、以上のように簡単に触れられている程度でした。 焼酎はいわゆる「カストリ焼酎」のことでしょう。

 伊地知さんはおそらく自分でこれらのお酒を造ったことはないようです。 せっかく多くの人を取材し、副題に『朝鮮・家醸酒文化を今に受け継ぐ』とする本まで出すぐらいですから、在日朝鮮人女性たちがどのように酒造りしたのかを追体験して、その体験記を書いてほしかったと思います。

伊地知紀子『消されたマッコリ』(2)2015/12/13

 朝鮮人は日常生活のなかでマッコリ(タッペギ)や焼酎を造って飲んできたという長年の慣習がありましたから、日本に渡って来てもその慣習が続くことになります。 しかしやはり当局の許可を経ないでの酒造りは違法ですから、取り締まりの対象となります。 『消えたマッコリ』では、戦前の在日朝鮮人の密造酒摘発について、次のように記しています。

戦前の密造酒摘発について、朝鮮史研究者の堀内稔は、「この密造酒摘発がもっともはやい時期に新聞報道されたのは、知り得る限り、1923年2月の下関においてであった」と指摘している。 阪神地域では1925年11月が最初であり、この記事を発掘した堀内の論文には、「西宮税務署では今秋酒の値が上がると同時に、阪神沿道へ入り込んで居る多くの朝鮮人が、高く酒が買へないのと日本の酒は口に合わず矢張り朝鮮酒がよいので、密にこれを醸造して居る者が多いのを探知し、(中略)自家用とし或は他の者に売っている事実あり」、「是れ等朝鮮人の内地移住とともに惹起した珍しい現象である」という内容が紹介されている。 堀内によれば、「その後密造酒の記事は年を追って増え、大がかりな摘発でなければ一段見出しの短信のようになってしまう」ほどであった。  酒は飲みたいが日本酒は高く口には合わず、やはり慣れ親しんだ味を求めるというところは誰でも頷けよう。(57頁)

 朝鮮人は長年に渡って慣れ親しんできた慣習や感覚を、日本にやって来てもそのまま持続しようとします。 マッコリもそれまで家庭内でごく普通に造って飲んできたし、しかも合法的に購入した米や麹を使って造るものですから、何故これが密造で違法となるのかが当初は理解出来なかったものと想像されます。

 在日朝鮮人は最初のうちは男性が渡日する場合がほとんどですが、日本での生活が安定するにつれて家族を呼び寄せることになり、女性の数が増えていきます。 マッコリは家庭内で女性が造るものでしたから、在日朝鮮人社会では女性の増加とともにマッコリ造り(=密造酒)が増加していったものと思われます。 それでも家庭内で造るのですから、ごく小規模です。 摘発されることはあっても「朝鮮人の内地移住とともに惹起した珍しい現象」という程度の認識でしたから、大きく問題化されなかったようです。

 これが日本の大きな社会問題となったのは、戦後です。 『消されたマッコリ』では、次のように記しています。

こうした密造酒づくりは、解放後の一時期大規模化した。戦後の日本では酒は配給制であったため、需要を満たせず密造酒が出回ることになった。(57頁)

 在日朝鮮人が戦後になって密造酒をつくり始めたという話は、しょっちゅう出てきます。 同じく『消されたマッコリ』です。

尼崎在住の池有吉さん(1939年生)は、解放後に長兄が焼酎を造っていた様子を語ってくださった。 ‥‥しかし、解放後に職がなく空襲後の片付けや建築現場にもいっていたが、家族で借りていた長屋をもう一軒借りて焼酎造りを始めた。(139~140頁)

姜斗名さん(1938年生)も、解放後に父親が焼酎を造っていたことを覚えている。両親と長兄・次兄は、1932年頃に慶尚南道から渡日し、大阪港で石炭運搬の船で働いていたが、解放後に同郷者のツテで尼崎に移り住んだ。 そこで父親が借りた長屋3軒のうち1軒を焼酎づくりにあてた。父親は麹も自分でつくり、長男が自転車で大阪市西淀川区の佃や御幣島まで配達に行った。(140頁)

李乙松さん(1925年生)は、山口県徳山市でしばらく生活していたときに焼酎をつくっていた。‥‥大阪で暮らし始めたときに、徳山での儲け話が伝わってきた。 空襲などで落ちた「ポッパルタン(爆発弾)」の破片を回収して売買するというものだった。 しかし、仕事の許可が下りず、李乙松さんは一緒にいった人たちと何ヶ月も許可が下りるのを待つ間に、そこで生活する糧として焼酎を造ったのである。(141頁)

宮城県大崎市松山町で焼酎製造・販売をしていた玄従玟(1928年生)は、その作業を「焼酎絞り」と読んだ。 解放前父を亡くし、母が日本と行き来しながら子どもを育てていたが、解放後に日本にいる母を追って玄従玟さんも渡日した。 ‥‥1949年に仙台へ、「焼酎絞り」をしている母の知り合いを頼って行き、そこで結婚、自らも焼酎を製造販売した。鳴子温泉や川渡温泉まで、湯たんぽに入れて焼酎を運んだ。(142頁)

 ここに出てくる「焼酎」とは、いわゆる「カストリ焼酎」と思われます。 こっちの言葉の方が年配に方には馴染みがあるでしょう。 マッコリ(タッペギ)は発酵酒ですから造りたては美味しいですが数日もせずに酸っぱくなってしまいます。 保存がきかないので、蒸留酒にして焼酎として販売したと考えられます。

 以上の話では酒の密造を始めた時期が戦後(=解放後)であって、戦前から引き続き密造してきたという話がありません。 戦前・戦中に全く造らなかったことはないでしょうが、大々的にあるいは本格的に密造・販売を始めたのは戦後になってからと言っていいでしょう。

 この理由はやはり、戦前・戦中の日本は治安が行き届いていたが敗戦後は社会が混乱し、これに乗じて密造という違法行為が横行したからだと思います。 また戦後の在日朝鮮人は、自分たちは日本から解放されたのだから日本の法律を守る必要はないという意識が高揚していたことも関係があったと考えられます。 だからこそ戦後の日本の当局は在日朝鮮人の密造に対して厳しく取り締まったのでした。

 ところで伊地知さんの『消されたマッコリ』では、密造の理由が「生きんがため」「生活の糧」だったとして肯定する言葉が繰り返され、さらには「酒造りを『密造』させた日本社会」(112頁)、「住民が汗して造る焼酎を理由に弾圧する警察と税務署、その背後にある日本社会」(136頁)と日本に責任を振ろうとしています。 ここに私との見解の違いがありそうです。

 密造酒は酒税を払わず、また儲けたお金にも税金を払いませんので、安く売っても利益率が非常に高い商品です。 しかも何もわざわざ勉強しなくても普段の日常生活のなかで得た知識と技術だけで製造できる商品でもあったのです。 ですから酒を密造する在日朝鮮人は字の読み書きが出来ないような人でも大いに儲けることが出来たのです。

 戦前に来日した在日朝鮮人の女性は、今は80代後半以上の高齢者となりますが、彼女らの大半は字の読み書きが出来ませんでした。 彼女らが現金収入を得る手段は極めて限られ、その一つが密造酒だったということになります。 そして戦後に密造が大規模化するにつれ、男性も参加するのでした。

 しかし、やはり違法は違法です。 生活のためとはいえ、違法行為に手を出してお金を儲けるのは悪いことに決まっています。 違法行為の取り締まりを「弾圧」と表現する伊地知さんの考え方はいかがなものかと思います。 

【拙稿参照】

伊地知紀子『消されたマッコリ』(1) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/12/08/7940574

張赫宙「在日朝鮮人批判」(1)   http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2013/10/27/7024714

張赫宙「在日朝鮮人批判」(2)   http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2013/11/01/7030446

権逸の『回顧録』         http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2013/11/07/7045587

終戦後の在日朝鮮人の‘振る舞い’ http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2013/11/14/7054495

伊地知紀子『消されたマッコリ』(3)2015/12/17

 この本の中でもう一つ違和感を持ったのは、朝鮮人の飲酒文化に対して肯定的評価だけがあって、その否定的側面について言及していないことです。

(韓国の済州島の)村の暮らしのなかでは酒の席は飲むことがまず目的であることよりもその場に居合わすことが大切なのだと感じたのである。 地域の歴史と文化が培ってきた集いをつなぐものとしての飲食がある。(8頁)

マッコルリは、結婚式や葬式のときに客人に振る舞うには欠かせず(146頁)

来客をもてなす大切な酒を近所で助け合って用意する。 もちろん宴会で用意したおかず類を分配するのは常である。 こうしてマッコルリを通して支え合う姿が見られた(151頁)

 酒が付き合いや冠婚葬祭などに必要なものだという点は、朝鮮だけでなく日本でも世界でも共通するものです。 しかし酒にはそのような肯定的な面だけでなく、暴力に直結するという否定的な面があります。 特に在日朝鮮人家庭の多くでは夫の妻への暴力(DV)が甚だしかったのですが、この暴力のきっかけとなったのが酒です。 これについては10年以上前の拙論で触れましたのでご参照ください。

在日一世の家庭内暴力 http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/dairokujuugodai

そしてそのDVのきっかけとなる酒を造ったのが、他ならぬ妻だったのです。 これについてもかつての拙稿で論じました。 その部分を再録します。

タッペギ(マッコリ)の思い出  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2012/03/04/6359741

在日1世の女性(今はもう80歳以上になります)の多くは、主人に飲ませるために、家でタッペギを作っていました。 これは、ご飯と麹とイーストさえあれば簡単に作れるとのことでした。 ただし昔も今も密造にあたりますので違法です。 イーストは、それ用のものが朝鮮料理材料店などで売ってあって、さすがに酒造り用とは書いてなくて、「栄養の素」というような名前の商品だったそうです。     在日1世の男性は、家庭内暴力の凄まじかったことが知られています。(拙論http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/dairokujuugodai参照)    この暴力の契機あるいは源となったのがタッペギです。在日2・3世の女性が、タッペギに対して良く言わないのは、この体験からです。        「お父ちゃんが酒飲んで暴れてた。 またお母ちゃん殴ってた。」という時の酒は、大抵の場合タッペギです。 そして、母親に「お父ちゃん暴れるの知ってて何でタッペギ作って飲ませるの?」と詰め寄ったことがあるという在日女性の話も聞いたものでした。 「あれは気違い水や!」と吐き捨てるように言う人もいました。     だから在日社会ではタッペギはかなり低級な酒というイメージでした。 私がタッペギを飲んでいたら、「そんな酒飲んでたら、頭悪なるで。」と、よく言われたものでした。

 マッコリ(タッペギ)は、元々は朝鮮人の主婦が夫らの男性等のために造るものでした。 女性が造り、男性が飲むというのが基本スタイルです。 そして在日朝鮮人の夫は妻が造るマッコリを飲んで暴れ、妻を殴るという日常生活風景が見られることになるのでした。

 そんな在日朝鮮人家庭はごく一部のことで日本人と変わらない、と主張する方もおられるようです。 しかし、かつての在日朝鮮人家庭のDVは調査研究されることもなく従って統計資料もありませんが、私の感覚では日本人よりもはるかに頻繁で激しいものでした。 こういう話にすぐに共感される方は私と同世代以上で、在日朝鮮人自身か或いは在日朝鮮人が近所に住んでいた日本人ぐらいでしょう。

 伊地知さんは1966年生まれとありますから、もうこの年代ではこんな話は実感できなかったようです。 この本には「酒を飲んだアボジがまた暴れている」というかつての在日朝鮮人家庭の日常風景が全く記されていません。 これは戦後~1960年代の「在日朝鮮人と酒」をテーマに取材すれば当然のごとく出てくる話だと思っていたのですが、それが出てこないところに私の違和感があります。

伊地知紀子『消されたマッコリ』(1) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/12/08/7940574

伊地知紀子『消されたマッコリ』(2) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/12/13/7947408

伊地知紀子『消されたマッコリ』(4)2015/12/21

 この本で気になったことは「強制連行」という言葉の使い方です。 この言葉はこの本では、「大阪府朝鮮人強制連行調査団」のような市民団体名や、岩波新書『朝鮮人強制連行』のような引用本の題名にも出てきますが、今は著者の地の文や人の会話文に出てくるものを拾ってみます。

軍需産業が地域の暮らしに与えた多大な影響、多奈川への朝鮮人強制連行労働者の存在を知り(19頁)

センターさん(戦争中に多奈川捕虜収容所にいた米国人)が当時「強制連行された朝鮮人2人とトンネルの先端で掘削した」と発言した。(21頁)

泉州地域では、先述した多奈川への朝鮮人強制連行史に加え(21頁)

こうした学びの場は、日本全国に残る朝鮮人強制連行の歴史を掘り起こす草の根運動によって築かれ(22頁)

田口さんの悔恨が語られている。   この強制連行された朝鮮人たちとのふれあいの中で忘れることができないのが(36頁)

金在讃さんの家に来た朝鮮人は「北朝鮮から強制連行という格好で連れて来られた」が日本語はしゃべれなかった。(38頁)

解放直後から多奈川に住んでおられた文申吾さんにインタービューした資料によると、「強制連行された人たちは忠清道、慶尚道、全羅道の人たちだった」とのことだ(39頁)

成培根さんの見る限り、強制連行されてきた中学生は解放後に多奈川には残っていなかった(48頁)

大日本工機株式会社や東亜勤続(ママ)工業株式会社には強制連行、徴用された朝鮮人が働いていた。(129頁)

多奈川での「岬町地元まとめの会」による地域史の掘り起こしは、川重泉州工場への米軍の空襲により強制連行された朝鮮人のうち約20人が死亡したという事実を明らかにし(172頁)

 このように「強制連行」という言葉はこの本に頻繁に出てきます。 ところがこの本において具体的な個人名を挙げて来日の経緯が書かれているのは次の二人ぐらいで、どちらも「強制連行」からほど遠いものです。

金在讃さんは、1928年に朝鮮で生まれ32年に両親につれられて渡日した。(25頁)

成培根さんは1914年生まれ、18歳のときに進学のために朝鮮から大阪に渡るが、経済的事情もありメリヤス工場で働いていところ親が病気になり、故郷にいったん戻った後、40年に再度日した。2度目は渡航許可証をもらえず密航で長崎県北松浦郡に着き、現地の土木工場の飯場に連れていかれた。(27頁)

 他では「日本による植民地支配によって生活が困窮し、生きるために朝鮮から渡日してくる人々‥‥先に渡日した親族や知人を介して来る」(25頁)や、「日本による植民地支配によって、朝鮮半島の人びとは生活の場を求めて、あるいは学ぶ場を求めて渡日するようになった。」(31頁)というような抽象的なものがありますが、いずれにしても自らの意志に反して無理やり引っ張られたという文字通りの「強制連行」はありません。

 この本には「強制連行」をこのように定義する、というものがありません。 とにかく朝鮮人が戦前・戦中に来日したら無条件に「強制連行」と表現したのではないかと思われます。

 「強制連行」については、金英達さんの『朝鮮人強制連行の研究』(明石書店 2003年2月)では、次のように呼びかけています。

「強制連行」は、その定義が確立されておらず、人によってまちまちな受けとめ方がなされている。 ‥‥もともと、強制連行とは、「強制的に連行された」という記述的な用語である。 そして、「強制」や「連行」は、実質概念であり、程度概念である。その実質や程度について共通理解が確立されないまま、強制連行という言葉だけがひとり歩きして、あたかも特定の時代の特定の歴史現象をさししめす歴史用語であるかのように受けとめられている ‥‥したがって「強制連行」という言葉を使う人は、それぞれに、あらかじめ用語の意味と範囲をはっきりと示さねばならない。(45頁)

 伊地知さんはその著作の中でこの金英達さんのことを記しています(48頁)ので、この一文も当然読んでおられると思うのですが、「強制連行」の定義については全く触れられていません。

伊地知紀子『消されたマッコリ』(1) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/12/08/7940574

伊地知紀子『消されたマッコリ』(2) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/12/13/7947408

伊地知紀子『消されたマッコリ』(3) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/12/17/7951241

伊地知紀子『消されたマッコリ』(5)2015/12/26

 この本では在日朝鮮人について、次のように簡潔に書いています。

そもそも朝鮮人は日本による植民地支配によって異郷での生活を余儀なくされたのであり、解放後の日本政府による在日朝鮮人への生活保障という最低限の対応すらなされず、さらには不当な処遇によりいつでも強制送還される危機的状況へ追いやられていた。(92頁)

 1945年の解放時の朝鮮人の人口は大雑把にいって約3,000万人。うち朝鮮本土に2500万人、日本に200万余人、満州に200万余人、その他50万人と言われています。 つまり朝鮮人で「異郷での生活を余儀なくされた」人の割合は6分の1、そして「日本での生活を余儀なくされた」人の割合は15分の1です。 果たして「そもそも朝鮮人は日本による植民地支配によって異郷での生活を余儀なくされた」と言えるものなのか疑問です。

 大多数は朝鮮内に留まり、一部は朝鮮外に出た、それは植民地支配下という当時の社会状況においてそれぞれの個人が最善と考えて選んだ道だった、と考えるべきではないかと思います。

 次に「解放後の日本政府による在日朝鮮人への生活保障という最低限の対応すらなされず」とありますが、これは間違いです。 戦後の在日朝鮮人は日本政府の生活保護の対象となっています。 その対象者数は1951年からの統計数字があります。

 1951年   62,496人  1952年   76,673人  1953年  107,634人  1954年  129,020人  1955年  138,972人

 当時の朝鮮人の外国人登録者数は、1952年535,065人 1953年556,084人、1954年564,239人、1955年577,682人です。 この本の主題である多奈川事件の発生年である1952年を例にとると、登録人口53万5千人、生活保護対象者数7万7千人ですから在日朝鮮人の14.4%、つまり7人に1人の割合で生活保護を受給していたのです。 その3年後の1955年は24.1%で4人に1人の割合となります。 従って伊地知さんが「生活保障という最低限の対応すらなされず」としたのは、明白な間違いと言わざるを得ません。

 だから「生活のため」「生活の糧」として、やむを得ず酒の密造という違法行為を行なったという伊地知さんの捉え方は、疑問なのです。

伊地知紀子『消されたマッコリ』(1) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/12/08/7940574

伊地知紀子『消されたマッコリ』(2) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/12/13/7947408

伊地知紀子『消されたマッコリ』(3) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/12/17/7951241

伊地知紀子『消されたマッコリ』(4)  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/12/21/7956212

伊地知紀子『消されたマッコリ』(6)2015/12/29

 この本には「正誤表」がついています。       インターネット上でも、その正誤表が公開されています。

http://exploredoc.com/doc/6045681/%E3%80%8E%E6%B6%88%E3%81%95%E3%82%8C%E3%81%9F%E3%83%9E%E3%83%83%E3%82%B3%E3%83%AA%E3%80%82%E3%80%8F%E5%88%9D%E7%89%88%E7%AC%AC1%E5%88%B7%E6%AD%A3%E8%AA%A4%E8%A1%A8%EF%BC%88pdf%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB%EF%BC%89

 誤りはこの正誤表以外にもう一つあります。 172頁に振られている注(8~12)が、176頁にある注と一致していません。

 この本に限りませんが、出版物には誤りが多いという気がします。しかし出版業界では正誤表を出すだけで終わってしまうところに、違和感があります。

 例えば食品では、間違ったものを出せば大騒ぎになります。 また他の商品でも、欠陥商品は交換してくれるか、返金してくれるのが普通です。 

 しかし出版物は正誤表を出すだけで終わります。 書籍の品質管理は一体どうなっているのか? いつも不思議に思います。

 『消されたマッコリ』に戻りますと、取材に協力してくれた人の名前の間違いや、この本の主テーマである多奈川事件を報道した新聞記事の図版キャプションの年代の間違いなどは、およそあってはならない間違いでしょう。 特に新聞記事の年代の間違いは、掲載されている図版のなかに「昭和27年」と明記されており、キャプションにある年代(1956年)との違いは誰でもがすぐに気が付くレベルのものです。

 安くないお金で買ってもらう商品なのに、その品質管理はいかがなものかと思います。

伊地知紀子『消されたマッコリ』(1) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/12/08/7940574

伊地知紀子『消されたマッコリ』(2) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/12/13/7947408

伊地知紀子『消されたマッコリ』(3) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/12/17/7951241

伊地知紀子『消されたマッコリ』(4)  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/12/21/7956212

伊地知紀子『消されたマッコリ』(5) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/12/26/7961704