30年前の在日韓国人論―四方田犬彦 ― 2018/01/05
1980年代の『朝日ジャーナル』を読み返していると、30年前のあの当時、こんな議論が真剣にされていたんだなあと思い出されて、参考になります。
今度は四方田犬彦「われらが〈他者〉なる在日韓国人 日本文化を攪拌することの豊穣」(『朝日ジャーナル1987年3月6日号』92~95頁)を紹介します。
韓国では在日韓国人のことを在日僑胞(チェイルギョッポ)、略してギョッポと呼ぶ。だがあらゆる場合において彼らに親密な同胞意識を抱いているかというと、かならずしもそうではない。 かつての力道山や張本勲(チャン・フン)のように英雄視されるか、でなければひどく冷淡に扱われるかのいずれかである。 たとえばこんな紋切り型がソウルでは広く信じられている。 韓国人のくせに日本でタクワンばかり食べていたので、ロクに母国語(ウリマル)も喋れない。根性まで日本人になってしまって、隙さえあれば騙そうとする。 政治的にも総連系の人士が多数存在していて、けっして気を許すことができない‥‥。わたしは知人の韓国人の大学教授が次のようにいったことを憶えている。ギョッポというのは全員こちらに送り帰して、精神を叩き直したほうがいいんですよ。
1980年であったが、韓国政府高官の位にあった金鐘泌(キム・ジョンピル)が日本の『諸君!』誌上で在日韓国人に向かって「もう日本人になり切りなさい」と発言し、在日社会に大きな波紋を投げかけた事件があった。 韓国のプロ野球界で在日僑胞出身の選手たちは、「外人選手(エインソンス)」という恐ろしいレッテルで呼ばれる。要するに在日韓国人とは、当の国家のみならず、本国からも二重に見捨てられ、放逐された存在なのである。
在日韓国人、とりわけ二世・三世の自己同一性はきわめて決定困難な、微妙な状況にある。 ‥‥一世と違って韓国文化を自然環境として体験することのない二世、三世は、あくまで知的選択としてそれに接近せざるをえない。 政治的被差別意識がかろうじてその自己同一性の輪郭を形作っている。 では、仮に彼らが闘っている差別の陋習が消滅してしまったとすれば、彼らはどうなってしまうのか。 実存の核を喪失して、日本の市民社会に同化してしまうのか。 はたしてそれで在日韓国人の問題は解消されたことになるのだろうか。
彼ら(在日韓国人)が二つの文化(韓国文化と日本文化)に対して抱いている批判的距離こそが、わたしにはきわめて魅力的なモデルであるように思われる。 在日韓国人が日本に存在することで文化が結果的に攪拌され、掘り崩されてゆくとき、わたしはそこに豊穣の一語を与えたいと思う。 その結果、日本という社会がいささかなりとも生硬な自己同一性の神経症(単一民族による単一文化)から解放されることになれば、われわれはそこに希望の一語を与えてもいいのではないだろうか。
前半部分では、在日韓国人は本国韓国人と大きな隔絶があることを論じています。
「韓国の大学教授が‥‥在日韓国人(ギョッポ)というのは全員こちらに送り帰して、精神を叩き直したほうがいい、といった」 「金鐘泌(キム・ジョンピル)が日本の『諸君!』誌上で在日韓国人に向かって『もう日本人になり切りなさい』と発言」 「韓国のプロ野球界で在日僑胞出身の選手たちは、「外人選手(エインソンス)」という恐ろしいレッテルで呼ばれる」 「要するに在日韓国人とは、当の国家のみならず、本国からも二重に見捨てられ、放逐された存在なのである」
ならば「在日韓国人」の自己同一性(アイデンティティ)は何か?といえば、
「政治的被差別意識がかろうじてその自己同一性の輪郭を形作っている」
とあるように、日本では外国人であるが故に日本国民と違う取扱いをされる点に求めています。 つまり文化の違いではなく、帰化すれば全てが解決する「政治的被差別」のみにアイデンティティの根拠があるということです。
ここまでは四方田は正確に分析しているのですが、最後の所で急に論点を変え、「文化」が出てきます。
「在日韓国人が二つの文化(韓国文化と日本文化)に対して抱いている批判的距離こそが、わたしにはきわめて魅力的なモデルである」 「在日韓国人が日本に存在することで文化が結果的に攪拌され、掘り崩されてゆくとき、わたしはそこに豊穣の一語を与えたい」
ここでは、日本とも本国韓国とも違う在日韓国人の存在そのものが、自分にとって「魅力的なモデル」「豊穣」であるとしています。 その理由は次に続きます。
「日本社会が生硬な自己同一性の神経症(単一民族による単一文化)から解放」
してくれるからだ、ということです。 すなわち日本の単一民族感情を撃つものとして、在日の存在意義があるという考え方です。 これは政治的被差別感(国籍による制限)で「かろうじて」アイデンティティを維持している在日には、重荷でしかないでしょう。
今この文章を読むと、30年前はこんなことが真剣に議論されていたことを思い出します。 だから当時は左翼・革新系(今は良心的日本人とも言われます)の間で、在日はそれだけで‘ちやほや’されていたのです。 結局は彼らは日本社会への異議申し立てをするために、在日を賞賛して利用しようとした、ということです。 だからそれを知る一部在日活動家が日本の左翼・革新思想を獲得して、日本社会・日本文化の批判を繰り返すという経過になりました。 これが1980年代の大きな流れでした。
この流れの名残りが今も残っていますね。
21世紀になって日本社会を「豊穣」にしてくれた韓国人は、在日ではなく、「冬のソナタ」のペ・ヨンジュンはじめ韓流ブームの人たちであると考えています。 在日に「文化」を期待する時代ではなくなっていると思います。
韓国政府の慰安婦合意に対する方針 ― 2018/01/10
昨日、韓国の康京和外相が慰安婦合意に対する政府の立場を明らかにしました。 内容はマスコミに報道されている通りですので、繰り返すことはないでしょう。
なお中身にちょっと気になることがありましたので、これを書きます。
① 「協議」と「協商」
향후 처리 방안에 대해서는 일본 정부와 협의하도록 하겠습니다. (今後の処理の方案については日本政府と協議するようにします)
일본 정부에 대해 재협상은 요구하지 않을 것입니다. (日本政府に対し再協商を要求しません)
「협의(協議)」と「협상(協商)」は同じ「話し合う」の意味だと思うのですが、一方では「協議する」、他方では「協商を要求しない」となっています。従って韓国政府は日本政府に対して、「協議する」が「協商しない」というちょっと理解し難い対応をするようです。
② 「日本政府」ではなく、「日本」
일본이 스스로 국제 보편 기준에 따라 진실을 있는 그대로 인정하고 피해자들의 명예, 존엄 회복과 마음의 상처 치유를 위한 노력을 계속해 줄 것을 기대합니다. (日本が自ら国際普遍基準に従って、真実をあるがままに認定し、被害者らの名誉、尊厳の回復と心の傷の治癒のための努力を続けてくれることを期待します)
ここで主語が「일본(日本)」となっていて、「일본정부(日本政府)」でないことに注目されます。日本政府には期待しない、日本人や日本社会に期待する、というように読めます。
マスコミで報道されなかった部分で、気になったところは以上です。
韓国政府は、慰安婦合意は履行しない、日本政府とこれについて話し合いはしない、しかし新たに話し合いたいところもある、という態度を取ることにしました。
実際には日本政府は反発していますから、韓国政府は何もできずに放置することになるでしょう。 内心では元慰安婦たちが世を去るのを待つつもりなのだろうか、などと邪推しています。
光州事件のほうがましだった―朝日ジャーナル ― 2018/01/15
革新・左翼系雑誌といわれた『朝日ジャーナル』(1992年廃刊)を読み返していますと、へー! こんな記事があったんだ!と驚くものがあります。その一つを紹介します。
『朝日ジャーナル1989年6月16日号』に、編集長の伊藤正孝が書いた「光州事件の方がましだった」という一文です。
人格とか人間性とかいわれるものが、極限状態に陥って初めてわかるように、権力者や政権の資質も、危機のなかで初めて露呈する。 しかし中国政府が韓国の全斗煥政権より残忍だとは思ってもみなかった。 四日の天安門制圧に伴う死者は二千人といわれる。 事実なら1980年の光州事件の公式犠牲者の10倍である。
中国人民解放軍の兵士一人の殺傷力は、古代の暴君を何倍も上回る。 兵士の持つカラシニコフ突撃銃は数秒間で30発の弾丸を発射できる。 一方のデモ隊は非暴力主義を貫いていた。
光州事件の方がまだ人間的だった。 第一に韓国政府は報道陣を排除して密室状態のなかで殺害を続けた。 全氏には人殺しを恥ずかしいと思う神経があったのであろう。 第二に学生側を武装しており、部分的ではあるが銃撃戦が行われた。 治安部隊の武力行使の名目は、立たないではなかった。
それにひきかえ天安門はどうだったか、私は大規模な武力行使はないと楽観していた。 その大きな理由は、天安門広場は各国の記者がつめかけていた劇場だったからだ。 衆人環視のなかで人をわが手にかけるのはむずかしい。 ところが中国政府は、獣性ぶりを世界にみられて恥じなかった。
中国共産党が五日発表した「全共産党員と全国民に告げる書」は、たくまずして党の恐るべき体質を告げている。 ‥‥‥ つまり学生たちを指導したのは少数のスパイであり、売国奴だったというわけだ。 あちこちの共産党が、同志の粛清に使った古典的名目ではないか。国を外に開いているのに、こんな釈明が通用すると思っている時代錯誤ぶり!マルクスの『共産党宣言』に誇るべき妖怪として登場した共産主義は、冷血の妖怪となった。
天安門事件は人民軍が無抵抗の若者を弾圧して、多数を殺害しました。その数は共産党の公式発表では300人余り。共産党のことですから、この数字は信じられるものではありません。 ここでは二千人だろうとしていますが、その以上の可能性もあり、確かなことは分かりません。 なお人民軍の方に犠牲者がなかったのは確実です。
一方の光州事件は弾圧された市民・学生が武器庫を襲撃して武装し庁舎を占拠しましたから、無抵抗ではありません。 銃撃戦となりましたので、双方から死者が多数出ました。 その数は不明者を含めて220人ほどで、この数は確実なようです。
『朝日ジャーナル』の編集長はこの二つの事件を比べて、「光州事件のほうがましだった」と書きました。 これに対し、この雑誌の読者から多くの反発がありました。 次回はこの反発に対する編集長の回答を紹介します。
【拙稿参照】
「5・18光州事件」小考 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2017/10/25/8712337
光州事件の方がましだった―朝日ジャーナル(2) ― 2018/01/20
前回の「光州事件の方がましだった」 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2018/01/15/8769881 の一文に対し、読者からかなりの批判があったようで、『朝日ジャーナル1989年7月7日号』に筆者である編集長の弁明というか回答が出ています。 かいつまんで紹介します。
「光州事件の方がましだった」(6月16日号本欄)に対してたくさんの人から抗議の面会要求、手紙、電話があった。 ‥‥抗議の主な内容は、「光州事件の方がまだ人間味があったという表現は、全斗煥政権を免罪してしまう。 光州事件を軽んじることで犠牲者や関係者の心をひどく傷つける」「一人殺すも千人殺すも同じ。 権力による人民虐殺が問題で、比較するなどもってのほか」という二点である。
いまも光州事件の責任追及と、犠牲者の救済運動にかかわっている人々には心外な表現だったに違いない。 ‥‥私の真意は「光州の虐殺も残忍きわまる犯罪だったが、天安門虐殺は規模といい、凶行を見られて恥じない政府の神経といい、それ以上だ」ということである。
抗議の人と話し合いながら、私は感覚のずれを痛感した。 虐殺を絶対視し、犠牲者を聖域としている人々と、ともすれば相対化、客観化しがちな自分との差である。 このずれはどこからきたのか?アラブ・アフリカの特派員として、私の主な仕事は戦場から戦場へ、虐殺の現場から現場へと移動することだった。 この間に私が学んだことは、政府も人民を虐殺するが、解放勢力も人民も、時には人民が人民を虐殺するということである。 ‥‥さらに学んだことは、虐殺の被害者が歳月とともに加害者になり得ることである。
虐殺の記憶は私のなかで重く明滅する。 虐殺の規模や、動機、虐殺に至るまでの経過などを、私はどうしても比較する。 そうしなければ人民対人民のような虐殺の多様さに対応できない。 また私は犠牲者に同情こそすれ、聖域にまつりあげる気にはならない。
最後の「犠牲者に同情こそすれ、聖域にまつりあげる気にはならない」とあるところは、私も共感します。
国賓晩餐に招待された脱北青年 ― 2018/01/25
昨年米国のトランプ大統領が韓国訪問をした際、青瓦台(韓国の大統領官邸)で開かれた晩餐会に、米国側の要請で脱北青年が招待されて出席していました。 この晩餐会は日本では「独島エビ」や元慰安婦ばかりが取り上げられて、この青年のことはほとんど全く報道されませんでした。 また韓国でもそれほど注目されませんでした。 ちょっと遅くなりますが、約2ヶ月後の1月15日付け『朝鮮日報』にこの青年のインタビュー記事が掲載されました。 日本語版にはありませんが、ちょっと興味深かったので、抜粋して訳してみました。
『朝鮮日報』2018年1月15日付け 「トランプ訪韓当時、国賓晩餐に招待され‥‥“コッチェビ”(北朝鮮で孤児となった浮浪児)出身のイ・ソンジュさん」
昨年11月、ドナルド・トランプ大統領の訪韓当時、青瓦台の公式晩餐に各界の有力人士たちと共に、ある脱北青年が招請された。これまで国賓晩餐に脱北民が出席したことはなく、初めてであった。主人公は「コッチェビ」出身のイ・ソンジュ(31)さんであった。
―彼の父親は、北朝鮮の護衛局所属の少尉だった。1994年、金日成死亡直後に酒の席でしゃべった体制批判的発言が当局に摘発された。ピョンヤンに暮らしていた彼の家族は咸鏡道の鏡成に下放された。飢死する住民らが続出する「苦難の行軍」の時期であった。 1998年、父親は「中国に渡ってお金を工面してくる」といって出かけた後、消息を絶った。そうすると母親が食料を求めて元山にいる妹の家に出かけた。「お腹が空いたら水を飲んでから、塩を必ず舐めろ。一週間したら戻ってくる」という手紙一枚を残して、そうやって出かけた母親は行方不明になった。
―どうして両親は11歳の息子を一人残して、二人とも出ていけるのか?
両親をずっと恨みました。しかし、当時食べるものが尽きた北朝鮮では自然なことでもあります。捨てられた子どもたちは市場で乞食をして、騙して、盗んで、喧嘩する“コッチェビ”として転々としていました。私は同じ年頃の7人と一緒に仲間を組みましたが、二人はぶん殴られて死にました。こんなコッチェビ生活を4年ぐらいした頃。母方のお祖父さんに会いました。ある日、ブローカーがやって来て、「お父さんが中国で待っている」と言いました。
―2002年の冬に、彼はブローカーと一緒に豆満江を渡った。中国のある村に到着すると、直ぐに彼を風呂に入れ、写真を撮った。その後、他のブローカーに彼を引き渡して「遠い所に行かねばならない」と言った。
気配がおかしいので「お父さんはどこにいるのか」と尋ねると、「韓国にいる」と言いました。「韓国はどこか」と言うと、「大韓民国」と言いました。当時は「南朝鮮」とばかり言っていましたから、「韓国」だなんて、どこにあるのか分からなかったのです。ブローカーが「延吉のように朝鮮族が集まっている所」と説明しました。彼が「南朝鮮」と言ったら来なかったです。南朝鮮に行けば、たくさん食べさせてたくさん着せてから、情報を探り出しては血を吸い、肉は犬にくれてやると言われていましたから。
―彼は中国の延吉から汽車に乗って大連に行った。そこでまたブローカーが替わった。
大連の空港まで連れてくれたブローカーは、航空券と偽造のパスポート韓国旅券を渡して、「検査台を通過し、何番出口に行って飛行機に乗ればいい」と言いました。その時はまだ、大連空港は電算化しておらず、偽造旅券が受け付けられたようです。
―仁川空港でお父さんに会いましたか?
入国審査で偽造旅券がバレました。その時まで、私が中国のある年に来ていると思っていました。南朝鮮であることを知って、ひざまずいて「元に返してくれ」と頼み込みました。国情院に引き渡されてから、やっと父親に会いました。
―父親は京畿道平沢で小さなレミコン会社を共同経営いた。彼は中学校に入学し、同級生より3歳年上だった。しかし人民学校4年を終えてコッチェビ生活をしたために、授業についていけなかった。
その頃、私はいつも怒っていました。自分自身と全ての状況が不満だったのです。そうしたら上級生たちと喧嘩になりました。校長先生が「北朝鮮から来て、もめ事ばかり起こす。みっともない奴」と大声で叱りました。それを聞いて、自分で退学しました。
―その後、彼は放浪してから検定考試(中学等の卒業と同等の学力を認める試験)を受け、知人の紹介で釜山にある地球村高校に入学した。帰国した在外同胞の青少年を対象にした特性化(ある分野に特化した)寄宿学校だった。
その学校で、安定を取り戻して体系的に勉強するようになりました。ネイティブの英語の先生に出会ったことも運がよかったです。‥‥
―彼は西江大学政治外交科に進学し、ある学期には交換留学生としてアメリカのアリゾナ州立大学に通った。その時外国の友人たちと一緒に3ヶ月、アメリカを旅行した。‥‥ソンジュさんを見ていると、何でも挑戦しようというか、手腕が飛びぬけていると言うべきか‥ 家族の保護を受けねばならない子供の時に「コッチェビ」で暮らしたのが、今の生活に大きな影響を与えたようだね?
あの時はどんな状況にも適応して生き残る能力を鍛錬しました。‥‥韓国に来て、最初は北朝鮮で自分が生きてきたやり方でやっていこうと思いました。不利な状況ならばウソをつきました。自分の間違いなのに他人のせいにしてその場を免れました。そんなウソが自分の後ろに蓄積されているのを知りました。信用がどれほど重要なのか分かるのに6年以上かかりました。それから、その場しのぎするよりは正直に認めるようになりました。
この脱北青年の話で興味深かったのは、北朝鮮では「韓国」「大韓民国」と言われても、どこにある所か分からないという話。 北朝鮮では「南朝鮮」はあるが「韓国」はない、ということが徹底しているんですねえ。
もう一つ興味深かったのは、韓国社会に馴染むまで6年かかったという話。 先に脱北した父親が韓国で事業に成功したらしく、経済的には困らなかったようですが、それでも馴染むのにかなりの時間がかかるのですねえ。
【北朝鮮関係の拙稿】
北朝鮮の火葬 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2006/05/10/360577
北朝鮮の火葬状況 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2007/01/01/1084693
北朝鮮が崩壊しないわけ http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2007/08/04/1701479
北朝鮮の百トン貨車 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2007/08/11/1716894
『写真と絵で見る北朝鮮現代史』 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2011/02/06/5665262
韓国と北朝鮮の歴史観が一致する!! http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2011/02/10/5675477
白い米と肉のスープ http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2011/02/14/5680393
韓国の北朝鮮研究 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2011/02/22/5698027
1970年代の北朝鮮=総連の手口 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2011/11/12/6199653
先軍政治は改革開放を否定するもの http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2011/12/23/6256776
金正日急死への疑問 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2012/01/15/6293047
韓国に親北民主政権=人民革命政権が樹立される可能性 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2012/02/01/6315655
自主的、民主的、平和的統一 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2012/04/22/6421457
和田春樹『北朝鮮現代史』 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2012/04/29/6428366
北朝鮮は社会主義の盟主を観念的に目指す http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2013/02/16/6722829
南朝鮮解放路線はまだ第一段階 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2013/03/30/6762019
北朝鮮を甘く見るな!(1) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2014/07/23/7395972
北朝鮮を甘く見るな!(2) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2014/07/28/7400055
北朝鮮を甘く見るな!(3) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2014/08/02/7404064
北朝鮮の宋日昊が日本を脅迫 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2014/10/10/7455119
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北朝鮮の核開発の目的 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2017/09/07/8671910
北の核ー歴代韓国大統領の発言 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2017/09/12/8675214
現代に残る古代国家 http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daihachidai
金正日の肩書き http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/dainijuukyuudai
天皇制と首領制の比較 http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daiyonjuugodai
北朝鮮と小中華思想 http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daigojuunanadai
朝鮮総連の人から聞いた話 http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daihyakugodai
オリンピック誘致で全斗煥政権を応援した日本の市民団体 ― 2018/01/30
1988年のオリンピックの誘致は、日本の名古屋と韓国のソウルの対決となりました。 この時、日本の市民団体が自国でのオリンピックに反対し、韓国で開催するように活動しました。 その時の韓国の大統領は全斗煥であり、光州事件(光州民主化運動)で市民・学生らを弾圧して多数の死者を出すなど血なまぐさい政権で、とてもじゃないが民主主義とは程遠いものでした。 その光州事件のわずか1年後に、日本の市民団体が韓国へのオリンピック誘致に力を貸し、あの全斗煥政権を後押ししたのです。 その時の彼らの主張が『朝日ジャーナル 1981年10月16日号』に載っていました。 抜粋して紹介します。
「『悪霊』に取り憑かれたニッポンの終わり バーデン・バーデンで考えたこと」 池田芳一
IOCの総会において日本の名古屋が韓国のソウルにたいし、52票対27票という、予想もしない大差で敗北した ‥‥ 今回の「失敗」(五輪誘致に失敗したこと)の原因が特定の個人に由来するものではなく、「日本」という特殊な共同体の本質的な病理に由来するからであります。
私たちの反対運動の、「名古屋五輪は自然環境と生活環境を犠牲にしてまで経済繁栄を追求する日本の新大国主義の象徴である」という主張が、現地の新聞やラジオにも取り上げられ、思いがけない反響を呼んだ ‥‥ 日本が「悪霊」から解放され、アジアの盟主としてではなく、アジア共同体の一員として平和に貢献するためにも、ソウルのオリンピックは絶好の機会である
自分自身も分裂国家としての苦しみを味わい続けてきた(当時のドイツは東西に分裂していた)西ドイツの市民たちの間には、それでなくても同じ分裂国家としての朝鮮に対する幅広い同情もあって、その時点で、ソウルへの共感は決定的なものとなりました。
私は反対運動の中で顔見知りになった多くの外国人記者たちから、「君は名古屋のオリンピックを阻止できて満足だろう。 ところでソウルのオリンピックについては政治的な危険があるが、それについてはどう思うか」と聞かれました。 ‥‥この問題こそが、私たちの「踏み絵」にほかならないのです。‥‥
私はいま朝鮮民族の叡智を、アジアの未来を信じようと思います。もう一度、平和と諸民族の相互理解というオリンピックの理想を信じようと思います。 ‥‥ソウル・オリンピックが東西両陣営、南北朝鮮の政権によって政治的に利用される可能性はたしかに大きいでしょう。 しかし私は、なおあえてその平和への可能性を信じようと思うのです。
この機会を利用する以外に、今の国際政治の現実において、南北朝鮮の平和対話の可能性はありません。 現在の韓国の政権がそのかたくなな軍事路線を変更する可能性はないのです。 そして南北の対立が緩和されない限り、金大中氏の釈放も、韓国、北朝鮮内での民衆の政治的な自由もありえないでしょう。
韓国はオリンピックを成功させるためには、北朝鮮との緊張を緩め、内政を安定させ、国内の民主的諸権利を保障せざるを得なくなるでしょう。 ‥‥このことを信じ、ソウルのオリンピックを真に平和的で民主的なものにするために、隣邦の一市民として最大の努力を払うこと、それが私の論理の必然的にいきつく道であると思うのです。
論者の池田芳一さんは、名古屋オリンピック反対の市民運動代表として、ドイツのバーデン・バーデンで開かれたIOC総会に出かけて、反対運動を展開しました。 自国のオリンピック開催反対のために、わざわざ遠くドイツまで行ったのですから、現地ではかなり注目されたようです。
彼は自国である日本を「悪霊に取り憑かれた」「特殊な共同体の本質的な病理」「新大国主義」と罵倒しています。 つまり日本はすべからく“悪”であると考えています。 だからこんな日本にオリンピックを開催してはいけない、それよりも韓国でこそ開催すべきだ、という主張です。
韓国は軍事独裁体制の血なまぐさい政権であってもオリンピックを契機に改めるだろう、 しかし日本はオリンピックを開催しても “悪”は直らない、という考え方になります。
ついでに言いますと、当時名古屋には民族差別と闘う市民団体があって、彼らも名古屋オリンピックに反対していました。 その論理は、名古屋市の公務員採用等に国籍条項があって、外国人を差別している、外国人の大半は韓国・朝鮮人であるから、これは韓国・朝鮮人に対する民族差別である、こんな排他的な名古屋に国際イベントはふさわしくない、というものでした。 彼らもまた、ファッショ的軍事独裁というレッテルを知りながら、全斗煥政権を後押ししたのでした。
1980年代初めはこんな時代だったなあ、と思い出されました。