オリンピック誘致で全斗煥政権を応援した日本の市民団体2018/01/30

 1988年のオリンピックの誘致は、日本の名古屋と韓国のソウルの対決となりました。 この時、日本の市民団体が自国でのオリンピックに反対し、韓国で開催するように活動しました。 その時の韓国の大統領は全斗煥であり、光州事件(光州民主化運動)で市民・学生らを弾圧して多数の死者を出すなど血なまぐさい政権で、とてもじゃないが民主主義とは程遠いものでした。 その光州事件のわずか1年後に、日本の市民団体が韓国へのオリンピック誘致に力を貸し、あの全斗煥政権を後押ししたのです。 その時の彼らの主張が『朝日ジャーナル 1981年10月16日号』に載っていました。 抜粋して紹介します。

「『悪霊』に取り憑かれたニッポンの終わり バーデン・バーデンで考えたこと」 池田芳一

IOCの総会において日本の名古屋が韓国のソウルにたいし、52票対27票という、予想もしない大差で敗北した ‥‥ 今回の「失敗」(五輪誘致に失敗したこと)の原因が特定の個人に由来するものではなく、「日本」という特殊な共同体の本質的な病理に由来するからであります。

私たちの反対運動の、「名古屋五輪は自然環境と生活環境を犠牲にしてまで経済繁栄を追求する日本の新大国主義の象徴である」という主張が、現地の新聞やラジオにも取り上げられ、思いがけない反響を呼んだ ‥‥ 日本が「悪霊」から解放され、アジアの盟主としてではなく、アジア共同体の一員として平和に貢献するためにも、ソウルのオリンピックは絶好の機会である

自分自身も分裂国家としての苦しみを味わい続けてきた(当時のドイツは東西に分裂していた)西ドイツの市民たちの間には、それでなくても同じ分裂国家としての朝鮮に対する幅広い同情もあって、その時点で、ソウルへの共感は決定的なものとなりました。

私は反対運動の中で顔見知りになった多くの外国人記者たちから、「君は名古屋のオリンピックを阻止できて満足だろう。 ところでソウルのオリンピックについては政治的な危険があるが、それについてはどう思うか」と聞かれました。 ‥‥この問題こそが、私たちの「踏み絵」にほかならないのです。‥‥ 

私はいま朝鮮民族の叡智を、アジアの未来を信じようと思います。もう一度、平和と諸民族の相互理解というオリンピックの理想を信じようと思います。 ‥‥ソウル・オリンピックが東西両陣営、南北朝鮮の政権によって政治的に利用される可能性はたしかに大きいでしょう。 しかし私は、なおあえてその平和への可能性を信じようと思うのです。

この機会を利用する以外に、今の国際政治の現実において、南北朝鮮の平和対話の可能性はありません。 現在の韓国の政権がそのかたくなな軍事路線を変更する可能性はないのです。 そして南北の対立が緩和されない限り、金大中氏の釈放も、韓国、北朝鮮内での民衆の政治的な自由もありえないでしょう。

韓国はオリンピックを成功させるためには、北朝鮮との緊張を緩め、内政を安定させ、国内の民主的諸権利を保障せざるを得なくなるでしょう。 ‥‥このことを信じ、ソウルのオリンピックを真に平和的で民主的なものにするために、隣邦の一市民として最大の努力を払うこと、それが私の論理の必然的にいきつく道であると思うのです。

 論者の池田芳一さんは、名古屋オリンピック反対の市民運動代表として、ドイツのバーデン・バーデンで開かれたIOC総会に出かけて、反対運動を展開しました。 自国のオリンピック開催反対のために、わざわざ遠くドイツまで行ったのですから、現地ではかなり注目されたようです。

 彼は自国である日本を「悪霊に取り憑かれた」「特殊な共同体の本質的な病理」「新大国主義」と罵倒しています。 つまり日本はすべからく“悪”であると考えています。 だからこんな日本にオリンピックを開催してはいけない、それよりも韓国でこそ開催すべきだ、という主張です。

 韓国は軍事独裁体制の血なまぐさい政権であってもオリンピックを契機に改めるだろう、 しかし日本はオリンピックを開催しても “悪”は直らない、という考え方になります。 

 ついでに言いますと、当時名古屋には民族差別と闘う市民団体があって、彼らも名古屋オリンピックに反対していました。 その論理は、名古屋市の公務員採用等に国籍条項があって、外国人を差別している、外国人の大半は韓国・朝鮮人であるから、これは韓国・朝鮮人に対する民族差別である、こんな排他的な名古屋に国際イベントはふさわしくない、というものでした。 彼らもまた、ファッショ的軍事独裁というレッテルを知りながら、全斗煥政権を後押ししたのでした。

 1980年代初めはこんな時代だったなあ、と思い出されました。