「植民地分裂症」とは? ― 2018/06/05
韓国人が反日と親日という相反する感情を同時に有していることについて、韓国人自身がどう分析しているのか、なかなか見当たらないとしました。 ところが尹海東『植民地がつくった近代』(三元社 2017年4月)が次のような二つの例を記述しているのを見つけました。先ずは自分の母親です。
私の母親は1927年生まれで、植民地期に高等普通女学校(通称「高女」)を卒業した。成人する前に植民地統治は終わったものの、帝国日本のもとで中等教育を受けたため、今でも日本語を母国語のように駆使できるし、日本式の生活様式にもかなり慣れている。 幼いころからの日本の植民地統治期に関する話を聞かされたが、いぶかしく思ったことがひとつあった。 それは、かなり矛盾しているように思えるいくつかの事実が、ごく自然に語られることであった。
日本人の植民地統治や教育のあり方は朝鮮人にとってきわめて悪辣で差別的なものだった、とかさねがさね語りながらも、ほとんどの日本人はたいへん正直で、勤勉・誠実な生活を営んでいたと、きまって言い足すのである。 植民地統治の差別と過酷さについては非難を浴びせながら、かれらの合理性には敬意を表するこうした態度を、どう理解したらいいのだろうか。 日本人は植民地を運営する資格と能力を備えていたとでもいうべきか。学校教育を通して形成された植民地像をもっていた私には、じつに理解しがたいことだった。(33~34頁)
次に韓国のある知識人のエピソードです。
大学に入ってからは、植民地期に高等教育を受けた上層部の人たちが、公式の場で日本人と会うと日本語を使ったり、晩餐後の酒の席では日本の軍歌を歌ったりした、という話を幾度も耳にするようになった。
学界の権威として知られているある教授が、公的には非常に反日的な態度をとり、学生たちが日本語書籍を読むことを禁じながら、自分は大量の日本語書籍を購入して読むどころか、かれの知識の源泉そのものがじつは日本にある、という噂を又聞して、私はさらに複雑な気持ちになった。 知識層のこのような二律背反の態度は、いったい何を物語っているのだろうか。(34頁)
この二つを例示しながら、論者は次のように分析します。
植民地を回想する私の母親の態度が、二律背反でありながら無意識的なものであったとすれば、公的な地位についている知識層の態度は意識的なものであり、きわめて偽善的だといわなければならない。 しかしながら、双方に共通しているのは、植民地について非常に分裂的な認識をもっていることである。 これこそが植民地分裂症なのである。 植民地期を専門にして勉強するなかで、私はかれらの態度について以下のような結論をくだすことになった。 韓国人の内面は、無意識において植民地化されているのだ、と。 私は、それが植民地近代を構成する特性であるとみるようになった。(34~35頁)
「植民地分裂症」というのは、言葉は過激ですが成程そうだろうなあと思いました。 「韓国人の内面は無意識において植民地化されている」とは、植民地化(=日本人化)が自らの血肉となっていることを意味しているものと思われます。
だから韓国人は自分の体からその血肉の切除を叫ぶことによってアイデンティティを確認しようとしているわけです。 実際には血肉は切除できるものではありませんから、大声で叫ぶのです。 これがすなわち冒頭にある「反日と親日という相反する感情を同時に有していること」であり、内面と外面の「二律背反」=「植民地分裂症」になりましょうか。
これを分かりやすく言おうとすれば、どう言えばいいのかが難しいです。 私は「厄払い」「魔除け」と考えればどうだろうかと思います。 この「厄」や「魔」が自分たちの身を巣食っている日本であり、それらを払い除けるために唱える呪文が「日本は歴史を反省していない」「忘恩背徳の日本」なのです。 「植民地分裂症」とは、この呪文を唱えていることと考えればいいように思えます。
ところで上述の引用部分だけを読むと、この論者は保守系と思われるかも知れません。 実はこの方は、次のような活動をしています。
2007年の秋、韓国で日本の平和憲法を守る会、「韓国九条会」が創立された。「韓国九条会創立準備大会」において、私は「日本の平和憲法を守ることの意味」という題で基調報告をおこなった。‥‥要するに、私にとって日本の平和憲法を守るということは、日本の戦争責任と植民地支配の責任を問うことであり、それをもって自国の平和や世界の平和を鼓吹することでもある。(326頁)
「韓国九条会」なんてどんな会なのか調べてみましたが、今は活動していないようです。 他国の憲法を守ろうという主張が、私の理解できないところです。 自国の憲法に九条を作ろうというのなら理解できるのですが。
【拙稿参照】
矛盾 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2018/05/31/8862743
韓国の対日感情は理解が難しい http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2018/03/29/8813934
韓国人の対日感情 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2017/01/12/8317218
韓国人のアンビバレントな感情 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2017/10/01/8690297
韓国の反日感情はいつ形成された? http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2017/10/08/8698008
反日意識はどのように継承されたか―植民地時代 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2018/04/03/8817737
世界で唯一日本を見下す韓国人 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2016/10/06/8216253
日本を見下す韓国(2) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2016/12/22/8285733
済州島4・3事件の赤色テロ(1) ― 2018/06/10
今から70年前の1948年済州島4・3事件。 事件の簡単なあらましを『韓国・朝鮮を知る事典』(平凡社 2014年3月)から引用しますと、
1948年4月3日、南朝鮮の単独選挙に反対した済州島島民の武装蜂起。 単独選挙に反対した島民がデモをしたり、竹槍、斧、鎌、手榴弾、旧式銃などをもって、島内の警察署を襲撃するなどの闘争が続いていた。 4月3日、南朝鮮労働党は武装蜂起を決定し、党の下に人民遊撃隊を組織した。 その規模は300人余り。警察から奪取した武器、弾薬で武装した遊撃隊は、政治犯を釈放し、西北青年会など右翼テロの粛清を行なうなど、一時はほとんど全島を掌握し、5月10日の単独選挙実施を阻止した。
蜂起の鎮圧のために本土から国防警備隊やテロ団が大量に送り込まれた。 国防警備隊やテロ団はパルチザンの家族や島民を虐殺し、部落を焼き払うなどの〈焦土化〉作戦を行なった。 130あまりの村々が焼かれ、討伐隊による住民の集団虐殺が各地で起こった。 遊撃隊は漢拏山を根拠地としてパルチザン闘争を展開した。 (以上、325~326頁)
この事典では4・3事件を直接説明した記述は以上だけです。
ところで世に出回っている4・3事件の概説には反革命権力(警察・軍や右翼。 「討伐隊」「鎮圧軍」「西北青年会」などと呼ばれた)による白色テロが列挙されるのがほとんどで、これに対する革命勢力(南朝鮮労働党の武装組織。 「遊撃隊」「山部隊」「武装隊」などと呼ばれた)による赤色テロはごくわずかに触れるだけのようです。 上記の『事典』でも「遊撃隊は、政治犯を釈放し、西北青年会など右翼テロの粛清を行なうなど」と記している程度です。
実際には、赤色テロが少なかったということではありません。 4・3事件後の約1年間は革命側が強力な勢力を維持していましたから、かなりの数の赤色テロを引き起こしていました。 そしてそれは白色テロに負けず劣らず熾烈で過酷なものでした。 だから今の世に出回っている4・3事件の概説は、上記の『事典』も含めてバランスを失っているのではないか、というのが私の意見です。
そこで赤色テロがどういうものだったかを取り上げたいと思います。 まずは4・3事件の武装蜂起に参加した金時鐘さんは白色テロの実際を記述するなかで、赤色テロに触れているところを紹介します。
(5月)20日の昼すぎ、荒磯の近くで小舟を浮かべて烏賊釣りをしていた父(金時鐘の従姉の夫である高南杓)ら総勢10名の漁師を、(討伐隊が)道頭峰山頂まで引っ立てていって虐殺し、万歳を唱えて討伐特攻隊の警官らは引き揚げていったそうです。 南杓の遺体は目も当てられないほどの傷みようで、眼の片方は刳り抜かれており、右腕は肘の上からもがれてひときれの皮でようやくつながっていたと、こらえきれない憤りを虚ろににじませながら泣きじゃくっていました。 お金もお米もなくて葬式を出せないと訴えてきたのです。
この虐殺はその二日前の18日、この地区の砂水洞で右翼の家族ら6人を武装隊が拉致して殺害したことへの、見境のない仕返しの血祭りでした。 (以上 岩波新書『朝鮮と日本に生きる』2015年2月 220~221頁)
この最後にある「右翼の家族ら6人を武装隊が拉致して殺害した」が赤色テロです。 本人だけではなく家族までも殺すところが当時の赤色テロでした。 また金時鐘さんは親戚が赤色テロに遭う実際を目の当たりにしたことを記します。 彼は4・3事件で武装蜂起に参加して警察から追われることになり、叔父の家に潜伏します。 叔父は地元の区長で有力者です。
4・3事件の当時、僕は身を潜める場所がなくて一時母方の叔父貴の家の裏に潜んだんですよ。 区長の家ですから、軍人や警察の上役あたりがしょっちゅう出入りする。 叔父貴は警官の上役が来たりすると、甥ごを匿っている負い目も働いてのことでしょうが、ちょっとした酒食でもてなすわけです。 区長の家ですから家捜ししません。‥‥警官や軍人をもてなしている区長の叔父貴を、山部隊は討伐隊に加担している者と見て誅殺します。
明け方、襲ってきた山部隊に竹槍で刺される。二ヶ所、腹を刺されました。 腸がはみ出たまま、母屋の真ん中は板間になりますが、そこを突き抜けて裏の石垣を越えて向こう側の小道に落ちました。 それでもすぐには死なないで、三日間くらい、それこそ断末魔のうめき声をあげて、家族たちは昼も夜も泣き叫んでいる状態でした。 医者も手当てができるわけじゃない。 僕のために殺されたという思いも、僕はずっとかかえてきました。 (以上 集英社新書『「在日」を生きる』2018年1月 106~107頁)
叔父は区長という立場上、警察等とは付き合わねばなりません。 しかし警察から追われている甥を匿っているのですから、気付かれないように来訪する警察を接待します。 しかし武装隊は自分たちの仲間を匿ってくれている叔父を残酷に殺しました。
金時鐘さんの記述から赤色テロに関係する部分を引用しました。 ただし金さんは革命勢力側であることを今も維持していますので、白色テロは詳しく記していながら赤色テロの方は簡単に触れるだけです。
【関連拙稿】
韓国映画『チスル』 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2014/06/01/7332806
米朝首脳会談ー北の完勝では ― 2018/06/13
先の米朝首脳会談で、北は「朝鮮半島の完全な非核化に向け取り組む」と約束しました。 「取り組む」ですから、いわば努力規定です。 “いつまでに”とか、“どう検証するか”といった肝心なところがありません。
一方トランプ大統領は、記者会見で米韓軍事演習中止の検討を言い出しました。 軍事演習の中止は在韓米軍の存在価値の低下を意味します。
つまり北朝鮮は、非核化の努力の対価として在韓米軍の減退を獲得したことになります。 これは北が従来から進めてきた南朝鮮解放路線の第一段階の実現に大きく前進したものと言えます。
南朝鮮解放路線とは、北の主導によって朝鮮半島統一を成し遂げることで、その第一段階が「自主的」です。 これは外勢(アメリカ)を排するということです。 下記の拙稿を参照いただければ幸甚。
自主的、民主的、平和的統一 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2012/04/22/6421457
この第一段階の「自主的」のために、北は核を開発してきました。 非核化実現の対価として、在韓米軍の撤退そして米韓軍事同盟の解消に至れば、北は第一段階を達成したことになります。 ここに至る大きな一歩が、今回の首脳会談でした。
つまり米朝首脳会談は北朝鮮の完勝だったと言えます。
【拙稿参照】
「朝鮮半島の非核化」は「北朝鮮の非核化」とは違うのでは? http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2018/03/08/8799658
南朝鮮解放路線はまだ第一段階 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2013/03/30/6762019
北朝鮮を甘く見るな!(1) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2014/07/23/7395972
北朝鮮を甘く見るな!(2) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2014/07/28/7400055
北朝鮮を甘く見るな!(3) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2014/08/02/7404064
韓中共同声明―北の核をめぐるすれ違い http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2014/07/04/7379560
北朝鮮を後押しする中国 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2016/02/08/8011036
済州島4・3事件の赤色テロ(2) ― 2018/06/18
1948年4月3日までは、反革命側(警察や右翼)による激しい弾圧=白色テロが横行します。 しかしこの日の済州島「4・3事件」を期して革命側(南朝鮮労働党)の武装隊(遊撃隊あるいは山部隊とも言われました)が大々的に反撃に出て、赤色テロを過激に繰り広げます。
玄吉彦『島の反乱 1948年4月3日』(同時代社 2016年4月)の132~163頁にある日誌から4・3事件以降の赤色テロを拾ってみました。 なおこの日誌には遺漏がかなりあることにご留意ください。
1948年
・4月3日 武装隊が深夜2時より島内の警察支署と右翼を襲撃し、4・3事件が始まる。警察官4名、民間人8名、武装隊2名が死亡。
・4月10日 涯月新厳里で警察支署を襲撃し、右翼人士と警察官を殺害。
・4月18日 済州邑寧坪里、梨湖里、翰林面楮旨里、朝天面善屹里、新村等を襲撃し、右翼青年団員とその家族を殺害。
・4月19日 朝天面新村里の投票所を襲撃・放火。朝天面大同青年団員を殺害。
・4月26日 警察三陽支署を襲撃。道南里で大同青年団員の母親を殺害、家屋放火。
・4月29日 新厳里を襲撃。
・5月1日 済州邑都坪里で選挙管理委員長を殺害。
・5月5日 禾北里選挙管理委員長と内道里区長を殺害。
・5月10日 中文面上猊里を襲撃、大同青年団長夫婦と国民会上猊里責任者を拉致・殺害。
・5月11日~19日 済州邑頭豆里選挙管理委員長、大同青年団長とその家族を拉致・殺害。 警察咸徳支署の警察官を拉致・殺害。
・5月13日 警察為美支署を襲撃し、警察官殺害。漢東里を襲撃し、家屋放火、警察官殺害。
・5月14日 警察細花支署、新厳支署、翰林里ソンミョン村を襲撃。
・5月15日 梨湖里、翰林里を襲撃。
・5月17日 大静里で大同青年団長をテロ・殺害。
・5月28日 下道里、金寧里、咸徳里を襲撃し、警察支署を放火、警察官と右翼団体幹部をテロ・殺害。
・6月2日 朝天、咸徳、金陵を襲撃。
・6月10日 台風ために北村里の港に退避していた警察官3名を発見し、殺害。
・9月26日 済州道庁を襲撃、放火。
・10月1日 鎮圧軍の指揮所がおかれた禾北初等学校を襲撃し、校舎を放火。 中文面道順里、済州邑梧登里など襲撃。
・10月23日 済州邑の警察三陽支署、朝天面管内の朝天支署、咸徳支署を襲撃。
・10月26日 涯月面高内里で鎮圧軍を攻撃し、50余名を射殺。武器多数を鹵獲。
・11月7日 西帰里を急襲し、民家に放火。
・11月28日 南元面南元里を襲撃し、住民50余名を殺害。官公署と家屋300余棟を全焼させる。
・12月3日 旧左面細花里を襲撃し、警察官署と住民家屋1500余棟を焼却、住民50余名を殺害。
1949年
・1月1日 済州邑梧登里第二連隊三大隊駐屯地を攻撃し、第二連隊将兵7名を殺害。武装隊側も10余名死亡。
・1月3日 済州邑三陽里、南元面下札里、翰林面挟才里を奇襲し、住民多数を殺害。
・1月12日 南元面衣貴里駐屯の第二連隊二中隊を奇襲するも失敗。
・1月13日 表善面城邑里を襲撃し、住民38名を殺害、住民の家屋に放火。
・1月17日 北村里周辺で鎮圧軍を奇襲して数名を殺害。「北村事件」発生。
・2月4日 第二連隊を旧左面金寧里で奇襲し、小銃150丁を奪取、兵士15名と警察官1名を射殺。
・2月21日 安徳面和順里で鎮圧軍の移動トラック二台を攻撃し、警察官数十名を殺害。
・3月9日 武装隊がノルオルム付近で鎮圧軍と交戦、鎮圧軍30余名を射殺、武器多数を鹵獲。
・6月5日 「ムンチャンオリ戦闘」で鎮圧軍を撃退するも、奉蓋里作戦で大敗。
・6月7日 警察和順支署付近で反共宣伝隊員を奇襲。
1950年
・7月25日 中文面河源里を襲撃し、民家に放火。
1951年
・1月28日 警察蓮洞支署を襲撃し、支署長と区長を射殺。牛と食料を奪取。
1952年
・9月16日 済州放送局に侵入し、宿直中の放送課長など3名を拉致。
・10月31日 西帰浦発電所を襲撃し、放火。
以上ですが、ここには金時鐘さんが記した赤色テロ事件が二つとも抜けています。http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2018/06/10/8890890 従って遺漏がかなりあります。 しかし赤色テロが相当な頻度で発生していたことはお分かりになるでしょう。
済州島4・3事件後の赤色テロ(1) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2018/06/10/8890890
韓国映画『チスル』 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2014/06/01/7332806
済州島4・3事件の赤色テロ(3) ― 2018/06/23
(前回) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2018/06/18/8896622 この日誌には遺漏が多いですが、事件のあらましを読み取ることができます。 4・3事件発生から翌年3月までの約10ヶ月間に、かなりの赤色テロが発生しています。 赤色テロの対象は早い時期から家族にまで及んでいますから、今の我々には想像出来ないほどに非常に激しいものでした。
この時期は武装隊(山部隊あるいは人民遊撃隊)の勢いが強く、特に最初の2か月は武装隊の方が主導権を握っていました。 同年7月以降は警察や軍の反撃(白色テロ)が効を奏して互角となり、 やがて武装隊の力が衰えます。
追い詰められた武装隊は、軍・警・右翼・地元有力者だけでなく敵と見なした村の住民も何十人単位で無差別に殺す事件を幾度か引き起こします。 文京洙『済州島4・3事件』(平凡社 2008年4月)には、次のような赤色テロを記していて、上記の日誌の赤色テロを裏付けてくれています。
12月以降の段階では、武装隊に非協力的で討伐隊側についていると見なされた一部の村に無差別攻撃をくわえ多くの犠牲者を出した。南元面南元里・為美里では11月28日に約50人、旧左面細花里では12月3日に約50人、表善面城邑里では1月13日に38人が、それぞれ武装隊の無差別攻撃で一夜にして犠牲になったが、そのほとんどは民間人であった。(138頁)
『済州4・3事件 真相調査報告書』(2003年12月)では、次のような赤色テロ状況を報告しています。 なおこれは上記の日誌に載っておらず、遺漏のものです。
1948年12月15日夜12時を過ぎた頃、翰林面トゥモ2区(現在の翰京面ハンウォン里)で武装隊が攻め入った。 ‥‥ 武装隊は村の動向を調べるためなのか、村の入り口にある一軒の家に火を付けて「みんな出てきて火を消せ」と叫んだ。 その時に出てきたキム・ギョンソク爺さんが殺害された。 パク・ジョンセンお婆さんは火を消せという叫びに、尿瓶を持って出た。 昔から尿を振り掛けると火が広がらないという俗説があったためだ。 武装隊はパクお婆さんも日本刀で無惨に殺害した。
武装隊は村をすぐさま占領して食料を略奪し、一部の家屋に火を付け、気勢を挙げた。 しかしトゥモ1区にあるトゥモ支署の警察とコサン里駐屯応援警察隊が出動するや、武装隊はラッパの音を合図にあわてて退却した。襲撃から退却まで1時間もない時間だったが、 何日か後に怪我の後遺症で死んだ人まで含めると、この日の事件で住民13人が犠牲となった。(440~441頁)
火事を消すのに尿を撒くというのは迷信ですが、こんな迷信を信じているような素朴で愚直な人ですから「選挙」とか「統一」とか全く無知なお年寄りでしょう。 しかし赤色テロはこのような人も対象としました。 武装隊は1時間足らずの間に、無抵抗の村人13人を殺害したわけです。
4・3事件発生2年後の1950年6月25日の朝鮮戦争勃発時には、かなり抑え込まれて赤色テロは辛うじて継続する程度になり、さらに組織を維持するだけで精一杯となっていきます。 最終的に武装隊が壊滅して治安が回復するのは、1954年9月です。
赤色テロに対する反革命側の反撃ですが、これは警察・軍隊という国家権力による白色テロですから規模が大きくなります。 ましてや彼らは済州島民のほとんどを赤(革命側)と思い込んでいました。 一旦赤色テロ事件が発生すると、反撃のために周辺の村を焼き払って村人を何十人、何百人単位で殺害するというような白色テロを起こしたことも度々ありました。 また武装隊協力の疑いで逮捕・拘束していた村民らを公開銃殺したり、武装隊の家族を殺害することもありました。
お互いが憎しみ合い、平気で殺し合いました。 住民は第三者の立場に立つことが出来ず敵か味方かを迫られて、双方の殺し合いに巻き込まれました。 互いの報復のために、周辺の村の住民が老人や女・子供も見境なく殺され、多数の犠牲者を出したのでした。 また隣村に行くのにも警察や右翼、そして武装隊という双方から検問を受け、怪しいと疑われたらすぐさま殺される状況でした。
4・3事件はそういう事件です。 当事者遺族の相手方に対する憎しみは消えることはないでしょう。 しかし当事者たちのこういう感情を尊重しつつも、今は一方を正義、他方を悪者とするのではなく、両者全ての犠牲者を平等に鎮魂と慰霊が重要だと思うのですが‥‥。
済州島4・3事件の赤色テロ(1) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2018/06/10/8890890
済州島4・3事件の赤色テロ(2) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2018/06/18/8896622
キョンチャルアパートの煉瓦塀―大丈夫なのか ― 2018/06/25

↑写真はキョンチャルアパートの煉瓦塀
去る18日に発生した大阪北部を震源とする地震。 学校のブロック塀が倒壊して児童が下敷きになって死亡するという痛ましい事件を契機に、ブロック塀の安全性に世間の関心が集まっています。
ところでブロック塀ではありませんが、煉瓦塀について気になることがあります。 以前に大阪の鶴橋にあるキョンチャルアパート跡の煉瓦刻印について、報告したことがあります。
キョンチャルアパートの煉瓦刻印 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2016/02/22/8025134 http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/kyonncharuapaato.pdf
煉瓦塀は地表から数えると33段の煉瓦を積み上げているもので、高さは2.5mほどです。 また鉄筋が入っておらず、ただ煉瓦を積み上げただけのものでした。 控え壁は一応ありましたが、頼りないものです。
キョンチャルアパートの建物は2011年に解体撤去されたのですが、敷地周囲を取り囲む煉瓦塀は残りました。 昨年見た時は、新しい住宅が何軒か建っているなかにこの古くさい煉瓦塀が残っており、ちょっとアンバランスな印象を受けました。
そしてそれには補強された痕跡が見当たらず、地震が起きたら崩壊するだろうなどと思ったものです。 煉瓦塀の下には人が近付き難いようなので、安全とされたのでしょうか。 しかし小さな子供なら入り込めるかも知れません。
今度の地震でこの煉瓦塀がどうなったかまだ確認していません。 ブロック塀倒壊で児童死亡という悲惨な事件を契機に、以前に調べたことのあるキョンチャルアパートの煉瓦塀を思い出した次第です。
済州島4・3事件の赤色テロ(4)―警官家族へのテロ ― 2018/06/30
この事件における赤色テロの際立った特徴の一つとして、警察官の家族への襲撃があります。 これは警察官の留守中にその家族を狙ったものです。 「済州民報」4.3取材班『済州四・三事件 第2巻』(新幹社 1995年4月)では次のような例を報告しています。
武装隊の襲撃対象は、事件発生から一週間を過ぎてから、警察家族へと拡散し、波紋を呼んだ。 警察家族をねらった最初のテロは、4月11日、済州邑吾羅里で起こった。 武装隊の襲撃によって宋元和巡警の父 宋仁奎(当時58歳)が殺された。(59頁)
4月15日、朝天面中山間村で警察官の兄弟の家が焼かれ、主人が殺された(60頁)
4月18日には、朝天面新村里と涯月面郭支里で、再び警察官の家族が犠牲になった。新村では、当時済州警察監察庁に勤務していた警察官金性洪の父 金文奉(当時64歳)が殺された。
郭支での被襲事件は、少々様相が異なっている。 武装隊の襲撃を受けて殺された朴英桃(当時40歳)は、済州警察署査察主任の朴雲鳳警衛と五親等の関係にあった。 武装隊はこの夜、自宅で寝ていた朴英桃を引きずり出して殺し、そこから150メートルほど離れた朴警衛の実家の玄関前に死体を放置した。 武装隊が警察の家族を殺す場合、「警告」効果を増すためであろうか、死体を残酷に棄損する例があった。 朴英桃の死体を警察官実家の玄関前に放置したのも、警告の効果を高めるためと思われる。(60頁)
4・3事件以前では、白色テロでも赤色テロでも、相手方の家族を意図的に殺すことはなかったようです。 しかし事件の直後から、このように警察官の家族を殺害する赤色テロが相次ぎました。
武装隊は、4・3武装蜂起を決定した時にすでに警察官の家族殺害を決意したようです。 つまり当初から計画されたのであって、抗争がエスカレートするなかで偶然に生じたとか、下部組織員の暴走とか、そういったものでないことに注目されます。
そして警察官家族へのテロはその後も継続しました。 同書『第4巻』は事件から半年ほど経って起きた次のような例を報告しています。
(1948年)10月28日、朝天面新興里で、警察の家族と親戚が殺された。 武装隊はこの日、新興里出身の警察官金泰培、金ポンウォンの家族を襲撃した。 金ポンウォンの家族は何とか逃げることができたが、金泰培の家族と親戚が無惨に殺された。 この日殺害されたのは金泰培の兄 金泰丞(30代)、兄嫁 金順玉(20代後半)、五親等の叔母 韓行仲、叔父の高某の四人であった。 金順玉は臨月に近い妊婦であったと伝えられている。(95頁)
武装隊は‥‥再び金泰培の家族に対する虐殺を敢行した。 11月11日、金泰培の従兄弟の家を襲撃した武装隊は、七十の坂を越えた金正興(73)をはじめ、李京善(41 女)、金泰玉(25 女)、金泰仁(15)、そして五親等の叔母二人、合計6人を殺害した。 (95~96頁)
武装隊の警察官家族に対する襲撃事件は、翰林面清水二区でも発生した。11月4日、武装隊はこの村出身の警察官 高テファの父親 高達淵(50)と弟の高卿華(19)を連行し、殺害した。彼らの死体は、村の近くにあるセシンオルム(鳥巣岳)で、刀で滅多切りにされた姿で発見された。(96頁)
警察官家族への赤色テロがこれだけ継続しているということは、指導部すなわち南朝鮮労働党の承認のもとで組織的・意図的に実行されたと言っていいでしょう。
赤色テロは様々な形で数多く実行され、警察官家族殺害だけでなく、村ごと全て焼き払って逃げ遅れた住民数十人を無差別に殺害したような例もあります。 また選挙事務を担当した人、面長・里長(日本の村長に相当)、右翼青年団体員、およびこういった人の家族もテロの対象となりました。 老人・女・子供も見境なく殺されました。
一方、家族を殺された警察側は激高しますから、報復(白色テロ)もまた容赦なく無差別なものになりました。 理性と冷静さを失った国家権力によるテロは、当然規模も大きく苛烈になります。
近ごろは4・3事件の武装蜂起を民主化運動ととらえ、革命側(南朝鮮労働党や武装隊)をまるで民主化勢力のように扱う解説が見られます。 しかしそれは余りにもバランスを失っているので、赤色テロをもっと知るべきではないかと思います。 赤色テロは民主化運動と決して呼べるものではありません。
双方が憎しみを高めて殺戮し合う、「人間の悪魔性が如実に現れた」(玄吉彦の言)状況を繰り広げたのが4・3事件です。
今回はそのなかで起きた警察官家族への殺害テロを取り上げました。
済州島4・3事件の赤色テロ(1) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2018/06/10/8890890
済州島4・3事件の赤色テロ(2) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2018/06/18/8896622
済州島4・3事件の赤色テロ(3) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2018/06/23/8900976