済州島4・3事件の赤色テロ(5)―右翼家族へのテロ2018/07/05

 前回は警察官家族の例を取り上げましたが、それ以外に右翼人士と指目した人の家族を殺害した例も数多くあります。 例えば4月3日の武装蜂起初日では警官死亡4名以外に「民間人8名死亡」となっていますが、この民間人というのは次の通りです。

当日(4月3日)、武装した人民遊撃隊は右翼人士を甚だ残忍に殺害し、当事者がいない場合にはその老母や妻、幼い子供まで身代わりに殺害した(玄吉彦『島の反乱 1948年4月3日』(同時代社 2016年4月 33頁)

 立命館大学の文京洙さんは、この時に殺された子供の年齢を次のように記述しています。

涯月面旧厳里‥‥この日の攻撃で右翼幹部の二人の娘(当時14歳と10歳)をふくむ五人が殺され‥‥ (文京洙『済州島4・3事件』平凡社 2008年4月 101頁)

 そしてその後の経過でも右翼の家族が殺害されます。    http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2018/06/18/8896622 の日誌から拾いますと、

1948年

・4月18日 済州邑寧坪里、梨湖里、翰林面楮旨里、朝天面善屹里、新村等を襲撃し、右翼青年団員とその家族を殺害。

・4月26日 道南里で大同青年団員の母親を殺害、家屋放火。

・5月10日 中文面上猊里を襲撃、大同青年団長夫婦と国民会上猊里責任者を拉致・殺害。

・5月11日~19日 済州邑頭豆里選挙管理委員長、大同青年団長とその家族を拉致・殺害。

 また金時鐘さんは『朝鮮と日本に生きる』(岩波新書 2015年2月)で、

(1948年5月)18日、この地区の砂水洞(現済州空港の西はずれにあった地区)で右翼の家族ら6人を武装隊が拉致して殺害した(221頁)

と記しています。 これは上記の日誌に漏れているものです。

 4月3日の事件発生当日だけでなく、その後も右翼の家族へのテロは続いていることが分かります。 従って家族へのテロは、当初より意図・計画されていたものと判断できます。 抗争がエスカレートして偶然に発生したとか、下部の暴走とかでは、決してありません。

 4・3事件を、国家権力の過酷な弾圧に抗して島民が蜂起したというような解説が見られます。 そうなると島民が警官や右翼の家族テロを実行したことになります。 これは実情とかけ離れていると言わざるを得ないでしょう。 やはり南朝鮮労働党という共産主義者が実行したと見るべきものです。

 ところで過去の日本でもテロ事件はたびたび起こっていますが、家族を狙ったテロがあったのかどうか。 土田警視総監公舎事件では夫人が殺され、坂本弁護士一家事件では夫人と1歳の長男が殺され、嶋中事件では女中さんが殺されて夫人が大怪我をし、甘粕事件では6歳の甥が殺されました。 今のところ、この四件が思い浮かびます。 過激派諸君の内ゲバや幕末維新期の志士によるテロまで調べていけば、もう少し出てくるかも知れませんが、やはり少ないと思います。 この点でも済州島4・3事件は際立っているという印象を持ちます。

済州島4・3事件の赤色テロ(1) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2018/06/10/8890890

済州島4・3事件の赤色テロ(2) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2018/06/18/8896622

済州島4・3事件の赤色テロ(3) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2018/06/23/8900976

済州島4・3事件の赤色テロ(4)-警官家族へのテロ http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2018/06/30/8906338

済州島4・3事件の赤色テロ(6)―評価は公平に2018/07/10

 済州島4・3事件をどう評価すべきかについて、拙論は「4・3事件の武装蜂起を民主化運動ととらえ、革命側(南朝鮮労働党や武装隊)をまるで民主化勢力のように扱う解説が見られる。 しかしそれは余りにもバランスを失っている」としました。 これをもう少し話したいと思います。

 この事件の評価の典型例は、朝鮮近代史研究の藤永壮さんが書いた次のような説明です。

「済州島4・3事件」は、1948年4月3日にはじまる済州島民の武装抗争と、これを理由に警察・軍・右翼青年団などが引き起こした一連の住民虐殺事件として知られる。‥‥ 韓国の歴代政権は住民虐殺の実態を覆い隠そうと、犠牲者に「アカ」のレッテルを貼りつけけたため、韓国ではこの事件について語ること自体が長くタブーとされてきた。 (『朝鮮史研究会論文集37』所収 「書評 『済州4・3研究』」 1999年10月 198頁)

 このように藤永さんは警察等による住民虐殺(白色テロ)を特筆しますが、革命勢力側からの住民虐殺(赤色テロ)については口をつぐんで単に「済州島民の武装抗争」と記すのみです。

 そして「韓国の歴代政権は住民虐殺の実態を覆い隠そうと、犠牲者に『アカ』のレッテルを貼りつけた」と記します。 「アカのレッテルを貼り付けた」のは事実ですが、この4・3武装蜂起を計画・主導したのが南朝鮮労働党(南労党)という共産主義者組織なのですから、「アカのレッテル」は必ずしも間違いではありません。

藤永さんは、4・3事件は南労党が島民を巻き込んで引き起こした暴力抗争であるという、一方の事実を記しません。 つまり片方の暴力を取り上げて、もう片方の暴力は語らないという態度をとります。 なぜならば両方の暴力を取り上げることは、

このような枠組み(双方の暴力の不可避性を共通して認定すること)からは、民族の解放と統一を目指し、自ら歴史を創造していこうとした済州島民衆運動のダイナミズムを視野の外におくことになるのではないか。(同上 207頁)

と主張するからです。 しかしいくら考えても、住民を虐殺し警官等の家族まで殺害するような赤色テロが「自ら歴史を創造していこうとした済州島民衆運動」と言えるのかどうか。 そしてそれを黙っているということは、藤永さん自身の言葉を借りれば、赤色テロによる住民虐殺等の「実態を覆い隠そうとした」と言えるものだと私は考えます。

 また金時鐘さんは『朝鮮と日本に生きる』(岩波新書 2015年2月)の「はじめに」「あとがき」で次のように書きます。

「4・3事件」は‥‥4月3日の武装蜂起に端を発し、その武力弾圧の過程で3万人を越える島民が犠牲になる。 この血なまぐさい弾圧に投入された警察・軍・右翼団体は、おおむね、植民地期に日本がつくり育てた機構や人員を引き継ぐ存在であったことを忘れてはならない。つまりそれは、ほかならぬ日本の植民地支配の申し子たちであった。(ⅱ頁)

反共の大義を殺戮の暴圧で実証した中心勢力はすべて、植民地統治下で名を成し、その下で成長をとげた親日派の人たちであり (291頁)

 金時鐘さんは、本の総まとめである「はしがき」「あとがき」でこのように白色テロだけを取りあげて、自分の所属した南労党が犯した赤色テロには全く触れていません。 そして警察・軍・右翼を「日本の植民地支配の申し子」「親日派」だと厳しく批判します。 金時鐘さんには「植民地支配の申し子」「親日派」ならば老親・妻・子供も含めて家族を殺すような赤色テロは当然だとする思考があるのではないか、と思います。

 4・3事件は双方がともに悪魔と化して狂気の沙汰を繰り返しました。 住民は中立の立場に立つことが出来ずに双方から敵か味方かを迫られ、お互いの殺戮に巻き込まれて多数の犠牲者を出しました。

 4・3事件から70年経った今は一方を善、他方を悪とするのではなく、両者ともに邪悪だったと公平に取り扱って、ただひたすら鎮魂・慰霊のみをすべきではないでしょうか。

済州島4・3事件の赤色テロ(1) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2018/06/10/8890890

済州島4・3事件の赤色テロ(2) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2018/06/18/8896622

済州島4・3事件の赤色テロ(3) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2018/06/23/8900976

済州島4・3事件の赤色テロ(4)-警官家族へのテロ http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2018/06/30/8906338

済州島4・3事件の赤色テロ(5)―右翼家族へのテロ http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2018/07/05/8909472

韓国映画『チスル』        http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2014/06/01/7332806

尹東柱の創氏改名記事への疑問2018/07/16

 韓国の有力紙『朝鮮日報』に「チャン・ソクジュの事物劇場」というコラムがあります。その2018年6月28日付けが「尹東柱の『ペクソク詩集』」と題するもので、尹東柱の経歴が簡単に紹介されています。 そこに尹東柱の創氏改名について、次のように記述されていました。  

東柱は日本留学の許可を得ようと平沼東柱に創氏改名するという屈辱に耐えねばならなかった。

 これを読んで、あれ!おかしいと思い、調べてみました。 この前後の尹東柱の関係略歴は次の通りです。

  1938年春     延禧専門学校(今の延世大学)入学

  1940年2~8月  創氏改名の設定創氏の届出期間。 戸籍名が「平沼東柱」となる。

  1941年12月   延禧専門学校卒業

  1942年1月    延禧専門学校に「平沼東柱」への改名を届け出る

  1942年4月    東京の立教大学入学

 これによって尹東柱が「平沼東柱」に創氏改名したのは1940年で、延禧専門学校の2年生の終わりから3年生の前半であることが分かります。 そして創氏改名は周知のように家族名が変わることですから、個人で創氏改名することは出来ず、戸主が届け出るものです。 ということは、尹東柱の創氏改名は父親の尹永錫(あるいは祖父の尹夏鉉の可能性もある)がこの年の2月から8月までの間に役所(おそらく面事務所)に届け出し、受理されたことになります。 そしてその時から戸籍名が「平沼東柱」となります。

 ウィキペディア「尹東柱」では次のように記されています。

1940年に卒業後に大学進学のために日本へ渡航しやすくするために創氏改名で「平沼東柱」にしている。

 また「ヌルボ・イルボ 韓国文化の海へ」というHPでは、 https://blog.goo.ne.jp/dalpaengi/e/8ddcf214a857c84be720d76aed00203c

※日本留学のため<創氏改名>を受け入れざるをえなかった。 (2018年6月24日付)

と記されています。

 しかし普通に考えると、卒業後の進路は最終学年の4年生の時に自分の成績などを見ながら決めるものです。 卒業が1941年12月ですから、同年の夏か秋頃に尹東柱は日本留学を決意し、留学のための手続きを始めたとみるべきでしょう。 そしてその時の尹東柱は既に「平沼東柱」と創氏改名していました。 従って「日本留学の許可を得るために創氏改名した」 「日本留学のため<創氏改名>を受け入れざるをえなかった」という記事は、留学の1年半以上も前に留学手続きを開始したことになってしまい、おそらくあり得ないことと思われます。

 そしてもう一つ気になることがあります。 尹東柱は延禧専門学校在学中、1940年の創氏改名後も「尹東柱」の名前で通したと考えられるのです。 というのは卒業後の1942年1月になって、すなわち日本留学の3ヶ月前に延禧専門学校に行って、「平沼東柱」と改名する届出を出しているからです。

 宋友恵『尹東柱 青春の詩人』(筑摩書房 1991年10月)に次のように記されています。

いま延世大学に保管されている延専の学籍簿に改名した名と届出の日付がはっきりと残っている。   ユンドンヂュ―平沼東柱 1942年1月29日 (114頁)

 つまり1942年1月までの延禧専門学校の学籍簿にある名前が「尹東柱」だったのです。 だから尹東柱は1940年の創氏改名後も学校では「尹東柱」の名前で通学し授業を受け、この名前で試験を受けて成績を取っていたということです。

 しかし日本に留学するとなると、渡航証明書や留学先の立教大学への提出書類は戸籍名でなければなりません。 従ってこういった書類を調えるために、延禧専門学校の卒業証明書も戸籍名である「平沼東柱」とする必要があったので、一旦卒業した延禧専門学校に赴いて改名の届出を出したものと考えられます。

 ところで創氏改名に関して、日本名に変えたらすぐさまこの日本名にしなければならなかったと思われている方が多いようです。 これは誤解です。 それまでの契約書や土地・会社登記等々に記載される名前は、創氏改名したからといって直ぐに書き直す必要はなく、従来の民族名でもそのまま有効でした。 今回の尹東柱の場合は学籍簿ですが、創氏改名したからといって直ぐに変える必要はありませんでした。 ただ卒業証明書等では学籍簿通りの名前になるので、次の学校に進学する時や社会に出た時に戸籍名でないと同一人物性の証明が難しくなるので、その時になって改名届けを出したということです。

 ところで「平沼」という創氏名ですが、これは尹氏の宗族・門中がこういう名前で創氏しようと決めたと思われます。 上述の宋友恵『尹東柱 青春の詩人』には次のように記されています。

ユンドンヂュの姓が日本風の平沼となっているのは、当時、尹氏がそのように創氏したのでそれに従ったものです。(114頁)

 ここでも尹東柱が日本留学のために創氏改名したという説が誤りであることを示しています。 尹東柱の創氏改名は日本留学という個人的事情ではなく、尹氏一族が決めたことなのです。 だから立教大学に留学中の保証人として父の従兄弟である「平沼泳春」の名前が出てきており、尹一族の創氏名が「平沼」であることを傍証しています。

 以上をまとめますと、尹東柱は延禧専門学校2年終わりか3年の前半に尹氏一族が「平沼」と創氏したことにより「平沼東柱」と創氏改名した、しかし学校にはこの改名を直ぐには届け出ず、卒業後に日本留学直前になって改名を届け出た、これによって「平沼東柱」という名前の卒業証明書を得ることが出来た、そして「平沼東柱」の名前で渡航証明を得て渡日し立教大学に入学した、 という経過になります。

 尹東柱は日本留学という個人的理由によって平沼東柱と創氏改名した、これは歴史事実とかけ離れた俗説というべきものです。

【関連拙稿】

尹東柱記事の間違い(産経新聞)   http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/02/09/7568265

尹東柱記事の間違い(毎日新聞)   http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/02/15/7572811

尹東柱記事の間違い(聯合ニュース) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2017/01/29/8339905

水野・文『在日朝鮮人』(11)―尹東柱  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2016/06/26/8118773

尹東柱は中国朝鮮族か韓国人か   http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2016/04/21/8075000

尹東柱のハングル詩作は容認されていた http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2017/07/11/8618283

『言葉のなかの日韓関係』(2)   http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2013/04/09/6772455

『言葉のなかの日韓関係』(3)   http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2013/04/11/6774088

『言葉のなかの日韓関係』(4)   http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2013/04/13/6775685

在韓米軍はアメリカにとってどんな利益があるのか2018/07/22

 韓国の言論を読んでいると、アメリカは自分の利益のために米軍を我が韓国に置いている、という主張が出てきます。 例えば『朝鮮日報』2018年7月1日付の書評のなかで、次の文章があります。

http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2018/06/28/2018062802260.html

米国のトランプ大統領はこのところ、自分たちは在韓米軍に天文学的な額の資金をつぎ込んだと、恩着せがましい態度を取っている。しかし米軍は、自国の利益を守るため韓国に駐屯してきたのではないか。

 それでは米軍はどんな利益のために軍隊を駐留させているのか、です。 韓国にある米軍基地は北朝鮮の韓国侵略に備えるためのものであって、アジア全体の平和体制維持のためにある在日米軍とは性格が違うものです。 別に言えば在韓米軍は韓国一国だけのためであり、在日米軍はアジア数十ヵ国のためにあるという違いです。 従って次のような疑問が湧きます。 もし北朝鮮が侵略する構えを見せると直ちに在日米軍が総出動するという体制をとるということにすれば、韓国に米軍基地を置く必要がなくなるし費用も節減できるではないか。

 だからアメリカ国内では、1970年代から韓国から米軍撤退してもいいじゃないかという主張が繰り返されてきました。 トランプ大統領が「自分たちは在韓米軍に天文学的な額の資金をつぎ込んだ」というのはその通りで、それだけ高い費用をかける価値があったのか、あるいは米軍駐留がアメリカにどれだけの利益があるというのかという計算をしています。 だから計算が合わなければ彼も韓国からの撤退を考えているものと思われます。

 ところで話はさかのぼり、1950年6月25日に北朝鮮が韓国を侵略し、朝鮮戦争が始まりました。 この時にアメリカはすぐさま反応して軍事行使を決意し、国連安保理事会は「大韓民国に対する北朝鮮からの武力攻撃は平和への侵害である」という決議を採択しました。 

 ここでアメリカはなぜ軍事行動を決意し、数十万もの大軍を朝鮮半島に派遣したのか? つまりこの時アメリカは自国にどういう利益があると思ったのか? という問題です。 平和を守るためとか、侵略が許せない、あるいは国連決議があったからなどの理由もあったでしょうが、それよりも自国に利益がある、あるいは自国の利益を侵害されていると思ったから大軍の派遣を決定したと考えるのが自然です。

 その時のアメリカにとって、利益とは何か? これにはいろいろ説がありますが、私はもう一つピンと来ないというものが多いです。 そのなかで成程これなら納得できそうだというものを紹介します。

 アメリカは1950年1月に朝鮮海峡にアチソンラインを引きます。 これは不後退防衛線と言われるもので、どんなに戦況が悪化してもこの線以上絶対に後退しないという意味です。 北朝鮮の金日成は、アメリカはこのアチソンラインを越えて軍を進めず朝鮮半島に介入しないことを表明したものと受け取り、朝鮮戦争を決意したのでした。

 同じような不後退防衛線はヨーロッパにも敷かれました。 それはドーバー海峡です。 これはソ連をはじめ共産軍が侵略して来たら米軍は一旦後退して体制を立て直す必要が出てくる可能性がある、しかしそれでもドーバー海峡よりは絶対に後退しないというものです。 こうなると西ドイツなど西ヨーロッパ諸国が、もし共産軍が押し寄せて来たらアメリカ軍はドーバー海峡を渡って逃げるのではないか、と思うでしょう。 つまり不後退防衛線の外側に置かれた国はアメリカに見捨てられるのではないかという不安があったのです。 そこでアメリカは、不後退防衛線の外側にあっても我がアメリカはあなた方を絶対に守ると言います。

 ここでアチソンラインを思い出してください。 東アジアの不後退防衛線であるアチソンラインの外側にあるのが韓国です。 ここでアメリカが韓国を守るという姿勢を示さなければ、ヨーロッパの不後退防衛線の外側に置かれた西ヨーロッパ諸国はやはりアメリカは自分たちを守ってくれないという不信感を持つことでしょう。 だからアメリカは不後退防衛線の外側の国であってもアメリカは必ず絶対に守るという姿勢を示すことによって、西ヨーロッパ諸国の信頼を維持しようとしたのです。

 ここで、朝鮮戦争でアメリカが大軍を派遣し、その後韓国に米軍を駐留させた理由が分かるでしょう。 それは、西ヨーロッパというアメリカにとってかけがえのない同盟国の信頼を繋ぎとめるというものでした。

 しかし30年前にソ連や東ヨーロッパの社会主義が崩壊し、共産軍が西ヨーロッパを侵略する心配はなくなりました。 従ってヨーロッパでは不後退防衛線は消滅したのです。 とすると、東アジアの不後退防衛線=アチソンラインの外側にある韓国をアメリカが防衛する意味がそれだけ薄くなったということです。 

 東アジアにおけるアメリカの利益がどう変わってきたのか。 全世界からの観点から東アジアを眺めると、今議論されている在韓米軍撤退問題が少し分かりやすくなるのではないでしょうか。

在日の名前2018/07/29

 2018年7月25日付けの毎日新聞の「みんなの広場」欄で、次のような読者投稿が掲載されました。 ちょっと気になったので、全文を引用します。

日韓の歴史と私の名前   安倍 秀賢

「安倍‥‥、さん」。病院の待合室で響く自分の名前。 私は、「またか‥‥」と思いながら、小さく返事をする。 私の下の名前は「秀賢」と書いて「スヒョン」と読む。 日本で正しく読まれることはまずない。 両親は韓国人である。正確には韓国人だった。 数年前に日本国籍を取得。 今は普通の日本人としての生活を送っているが、島国文化だからなのか、日本という国は「異国民」にとても敏感である。 グローバル化してきたとはいえ、まだまだ住みづらいのが現状だと強く感じている。

背景には、日韓の歴史が大きく関係しているとも感じる。 長年お互いの主張が異なるのだから、たった数年、数十年で関係が良くなるとはなかなか考えにくい。 どうしても生きづらい世の中であるが、私自身が、自分の名前に誇りをもって生きていけるようになりたいと願う。

 本来は投稿者名を出すことは控えるべきなのでしょうが、内容が自分の名前に関することなのでそのまま出しました。

 「スヒョン」は、「秀賢」のハングル読みです。 数年前に両親とともに帰化し、帰化後の姓が「安倍」ということですから、「安倍 秀賢」が戸籍上の本名で、読み方は「アベ スヒョン」となることが、この投稿から分かります。 

 ところで日本人の名前は、戸籍では漢字・ひらかな・カタカナで表記され、漢字の場合どのような読み方をするかは自由です。 近ごろは両親が子供に凝った名前を付けることが多くなり、何故こんな読み方をするのか理解できないような場合がよく出てきます。 小学校の先生が新入生の名簿を作成する時、こんな名前が増えてきて、ちゃんと振り仮名を付けてくれなければ読めなくて困ると嘆いておられましたねえ。

 ここで秀賢さんに戻りますと、普通の日本人ならば、「秀賢」という名前をみて、「ひでたか」さんなのか、「しゅうけん」さんなのか、「スヒョン」と振り仮名されてもその通りに発音していいのかと迷うことになります。 漢字のハングル読みは、ほとんどの日本人には不可能なことだからです。

 ですからご自身が、「秀賢」は「スヒョン」と読みます、私は韓国人だったのでそういう読み方の名前になっています、と言えば相手方は納得してそう読んでくれるものです。 つまり本人が「スヒョン」という読み方を明記し、その名前の由来を説明すれば済むだけの話です。

 しかし彼は日本人が「秀賢」を「スヒョン」とハングル読みできないことに対して、日本は島国で国際化していないからだとし、日韓の歴史問題にまで言及し、日本は「生きづらい」「住みづらい」と話を展開しました。 こうなると飛躍が甚だしく思えて、私には大きな違和感を抱きます。