外国人雇用に外国人登録証の提示は差別なのか2018/09/01

 毎日新聞の2018年8月31日付けの「ハラスメント 人種理由の嫌がらせ 防止取り組み急務」という記事の中に、気になる部分がありました。    https://mainichi.jp/articles/20180831/k00/00e/040/272000c

 記事は、企業向けの人権セミナーで「悪意がなくても深刻に受け止められる事例」を説明するというもので、その事例中に次のものが挙げられています。

兵庫県尼崎市の在日コリアンの女性(45)は以前、勤務先から外国人登録証明書(現在は特別永住者証明書)の提示を求められた。「特別永住者に外国人であることの確認を求める法的義務はない。会社に知識がなく、差別的という意識もないようだった」と振り返る。

 この女性は特別永住の韓国(あるいは朝鮮)籍で、国籍が日本でないことが確かです。 ところで外国人が国内で働ける資格を有しているかどうかは極めて重要な問題ですから、雇用者側は外国人に在留資格を確認する必要があります。 

 「特別永住者に外国人であることの確認を求める法的義務はない」とありますが、特別永住資格の有無の確認を求める必要があるのです。 2012年に法律が変わって住民票に在留資格が記載されていますが、それ以前は外国人には住民票がなく、在留資格は外国人登録証で確認するしかなかったのです。

 従ってこの人の場合、勤務先がそれを確認するために2012年以前であれば外国人登録証の提示を求めたのは当然なことです。 2012年以降ならば住民票によって外国籍か否か、そして在留資格は何かを確認する必要があるのです。

 国内で自由に働く資格を有する特別永住かどうかの確認は当然外国人であることの確認でもありますから、どうして「会社に知識がなく、差別的という意識もないようだ」となるのか、首をひねります。

宮田浩人『復刻 戦ふ朝鮮』2018/09/04

 長年本棚に積ン読していた宮田浩人編集・解説『復刻 戦ふ朝鮮』(新幹社 2007年6月)、初めて開きました。 宮田さんは元朝日新聞記者で、「1994年に朝日新聞社を辞めるまで、30年間の新聞記者生活の大半を、在日朝鮮人差別問題にはじまる日朝・日韓関係取材で過ごした」(175頁)方で、「日朝関係史には多少自信をもっていた」(180頁)と自称しています。 確かにかつての朝鮮関係には、彼が執筆した本がかなりあります。 私も3~40年前まではよく読んでいたことを覚えています。

 その彼は、同じく朝日の記者であった父が1943年の戦争中に『戦ふ朝鮮』という植民地支配礼賛の「愚劣な体制翼賛本」(176頁)を制作していたことを知って衝撃を受けました。 そして「忸怩たる思い」(175頁)「息子として慚愧に耐えない」(178頁)として、朝日ですら「マスコミという主体性を欠く付和雷同集団は、いとも簡単に自ら翼賛体制を作り出す」(176頁)という「醜悪な本」(176頁)を出版していたという事実を世に知らせるために、この本を復刻したといいます。

 彼は朝鮮史についてそれなりに詳しくて専門家と言ってもいいでしょう。 しかしこの『復刻 戦ふ朝鮮』で彼が書いた解説文は間違いだらけです。 昔はこんな歴史が大手を振っていて、私も含めてみんな信じ切っていたんだなあと、感懐にふけりました。

 典型例を一つだけを取り上げます。 創氏改名の解説です。

(創氏改名は)朝鮮古来の族譜に基づく姓を廃し、天皇を頂点とする家父長制の日本式姓を創る。合わせて名も日本式に改めることで、天皇への忠誠を誓う同化・皇国臣民化促進の企図だった。1939年11月に朝鮮民事令改訂として公布され、翌年8月までの届け出を義務づけた。創氏は強制で、名の改変は任意であった。

この任意部分を理由に「創氏改名は朝鮮人が望んだ」(2003年5月、自民党政調会長・麻生太郎)などと強弁・正当化する発言がいまだに絶えない。実態は、朝鮮姓を名乗ると公文書の受け付けは拒否、就職も差別、地方公署・警察競っての勧奨・脅迫と実質的強制であった。 日帝の敗北で朝鮮では皆すぐ本名に戻ったが、在日朝鮮人のあいだでは民族差別からの防御策としての通名が、傷痕として今に至るも残っている。 (以上181頁)

 この文章中で正しいのは「日帝の敗北で朝鮮では皆すぐ本名に戻った」という部分ぐらいです。 一つ一つ説明していきます。

*創氏改名は「朝鮮古来の族譜に基づく姓を廃し」とありますが、姓は朝鮮戸籍の本貫欄に記載されました。 姓は廃されたのではなく残ったのでした。 従って戸籍謄抄本を取り寄せれば、朝鮮古来の姓を証明することが出来ました。

*「名も日本式に改めることで、天皇への忠誠を誓う同化・皇国臣民化促進の企図だった」としながら、その直後に「名の改変は任意であった」とあります。 これでは日本の同化・皇民化企図に乗るかどうかは、朝鮮人の任意であったとことになります。 権力の企図に添うかどうか決めるのは各個人に任せられているとは、まあ何と民主的な植民地支配だったことでしょう。 矛盾とは思わなかったのが不思議です。

*「1939年11月に朝鮮民事令改訂として公布」。 これは単純ミスですね。 「改訂」ではなく「改正」が正解です。

*「翌年8月までの届け出を義務づけた」は完全な間違いです。 創氏の届け出は義務ではなく任意でした。 創氏を届け出て日本風の名前にすることを「設定創氏」、届け出せずに従来の民族名のままにすること「法定創氏」といいます。 設定創氏の割合は8割、残りの法定創氏の割合は2割でした。 つまり2割の朝鮮人は創氏を届け出ずに民族名のまま創氏したのでした。

*「創氏は強制で、名の改変は任意であった」。 これは間違いではないのですが、誤解を生む表現です。 日本名を付ける設定創氏であれ、民族名を維持する法定創氏であれ、どちらも「創氏」です。 そして「創氏」は強制でした。 なおこれは日本名の強制ではなく、創氏の強制であることに注意が必要です。 また下の名の改変は裁判所の判決が必要となりますから、任意に改変できるものとは少し違います。

*「この任意部分を理由に『創氏改名は朝鮮人が望んだ』(2003年5月、自民党政調会長・麻生太郎)などと強弁・正当化する発言がいまだに絶えない」。 しかし麻生さんの発言は次の通りです。

当時、朝鮮の人たちが日本のパスポートをもらうと、名前のところにキンとかアンとか書いてあり、「朝鮮人だな」と言われた。仕事がしにくかった。だから名字をくれ、といったのがそもそもの始まりだ。

 「(名の改変の)任意を理由に」と宮田さんは書きましたが、麻生さんはそんな理由を全く挙げていません。 こうなると捏造と言えるでしょう。

*「朝鮮姓を名乗ると公文書の受け付けは拒否」とありますが、法定創氏で朝鮮姓を維持している人ならば当然受け付けられます。 受け付け拒否はあり得ません。 なお設定創氏で日本姓が戸籍名となった人は、戸籍名でなくなった朝鮮姓では受付を拒否された可能性はあります。 例えば日本本土への渡航証明は戸籍名で申請せねばなりませんでしたから、戸籍名変更前の朝鮮姓で申請しても拒否されたでしょう。

 *「就職も差別」とあります。 しかし例えば手元に1944年の朝鮮銀行職員録があるのですが、その京城本店営業部に勤める33名の朝鮮人行員のうち、閔泳台、李璣鍾、陸珍鳳、金光昇、呉栄州、金泰晋、洪国善の7名が民族名です。 果たして「(朝鮮姓を名乗ると)就職差別」されたのか、疑問になります。

 *「在日朝鮮人のあいだでは民族差別からの防御策としての通名が、傷痕として今に至るも残っている」。 こういう発言をする日本人は、おそらく在日朝鮮人活動家とばかり付き合っていて、一般の在日朝鮮人とは付き合いが薄かったものと思います。 活動家が通名を「傷痕」と考えて本名を名乗ったとしても、その家族や親戚間ではほとんどが通名で呼び合っており、その活動家自身もそういう場では通名を使うものでした。 活動家が在日の子供たちに「本名を名乗れ」と迫りながらも、実家では日本名の通名を呼ばれて素直に返事する姿を実見すれば、果たして「傷痕」と言えるのか、疑問になります。

朝日の記者は優秀である?2018/09/08

 『新潮45』2018年8月号の「日本を不幸にする『朝日新聞』」特集を読む。 こういう雑誌にはあまり興味がないのですが、今夏の酷暑以来、近くの小さな図書館で過ごすことが多くなり、時間つぶしにこの雑誌を読んだ次第。

 この中で古谷経衡さんの「『安倍嫌い』女性編集長の『ダメな日本語』」を読んでいたら、次のような文言がありました。

私の経験から言っても、朝日新聞の記者は、全国紙の中でも最もインテリでレベルが高い。 申し訳ないが、産経新聞と比べると朝日の記者は概して能力が高く、聡明で、ジャーナリストとしての矜持・教養を鮮明に持っている。 (44~45頁)

 そんなに優秀なら、なぜあんなトンデモ記事が出てくるのかという突っ込みは出てくるでしょう。 それはともかく、朝日の記者は他と比べても優秀だろうなあ、と私も感じる時があります。

 私は韓国語の勉強のために、2年ほど前から各新聞のコラム(天声人語など第1面下段に掲載されている)を韓国語に翻訳して、それを韓国からの留学生に添削してもらうという学習法をしてきました。 留学生も日本語の練習になります。    コラムは朝日や産経を含む全国紙や地方新聞から選びます。 したがって各新聞のコラムを比較しながら読み込むという滅多にない経験をしてきました。

 そこで感じたことは、朝日の天声人語の文章はよくこなれていて、日本語としても優れているものが多いということでした。 古谷さんは「産経新聞と比べると朝日の記者は概して能力が高く」と書きましたが、コラムに関しては私も同感します。

 他の新聞も朝日と比べると、日本語としては今一つと感じました。 朝日の論調には首を傾げることが多いですが、それを抜きにして日本語表現という点では朝日は優れていると言ってもいいのではないか、と思います。

 そんな朝日は、例えば「京城」を差別語だから使ってはならないとする間違いに今なお固執しています。 こういう訳の分からないことをやっているのが不思議ですねえ。 優秀な人間は頭が良すぎて、自分は間違っているはずがないという執念に凝り固まっているのかも知れません。

【拙稿参照】

朝日の〈おことわり〉の間違い http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2007/09/29/1827082

朝日の歴史無知        http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2007/10/20/1861618

小倉紀蔵さんの疑問な発言2018/09/13

 小倉紀蔵さんは朝鮮思想史の専門家で、『韓国は一個の哲学である』『朝鮮思想全史』等の著作があります。 私もよく参考にしています。 彼のインタビュー記事が2018年9月4日付けの毎日新聞紙上で「建国70年・北朝鮮の『論理』 小倉紀蔵さんと考える」と題して掲載されていました。 https://mainichi.jp/articles/20180904/dde/012/030/005000c  彼は次のような発言をしています。 

(主体思想は)中ソ対立を背景に独自路線を進むためのバックボーンでしたが、一番、有効だったのは韓国に対して優位性を示せたことです。経済発展は遅れていても、北朝鮮は自立的な国であり、アメリカのかいらいで主体のない韓国とは違うんだとなる。 いまの韓国の左派政権をはじめ、なんとなくリベラル志向の市民たちはこうした北朝鮮の論理に近づこうとしています。 金正恩さんとしてはここが勝負どころだと踏んでいるかもしれません。

 なるほど、これはその通りだろうなあと思いました。 次にインタビュアーが、平壌で反米集会がなくなり労働新聞から「反米」の文字も消えた、北朝鮮は反米思想を捨てたのだろうか?と問うたのに対し、次のように答えます。

反米思想そのものが目的ではなく、国が豊かになることが目的であり、金正恩さんはそれに向かい果敢に挑もうとしているように見えます。 振り返れば、朝鮮は思想の純粋性を激しく追求してきました。 安全保障や統治権力の安定のためです。 ところが国家と共同体の成員の生命が劣化すると、電撃的に新しい思想が生まれ、社会を変革していく。 金正恩さんも主体の看板を下ろさないでしょうが、しかるべき時点で思想の概念を変えなくちゃいけないと考えているはずです。

 ここまで来ると疑問が出てきます。 「国が豊かになることが目的であり、金正恩さんはそれに向かい果敢に挑もうとしている」なんて、ホンマかいな、そりゃないでしょう、と思います。 また「振り返れば朝鮮は‥‥国家と共同体の成員の生命が劣化すると、電撃的に新しい思想が生まれ、社会を変革していく」というような朝鮮の歴史が本当にあったのか? 具体的にどの歴史事象を指しているのか?と疑問が湧いてきます。

ポンペオ国務長官がこう言いましたね。 韓国と同じレベルの繁栄を達成できるよう協力する用意が出来ている、と。 金正恩さんはこの発言に魅力を感じたに違いありません。 彼は留学の経験もあり、西洋志向がある。 観光立国、そして、よりスマートな頭脳立国、科学立国へまい進しようとしているのではないでしょうか。

 小倉さんが何故こんな発言をしたのかと訝しく思います。 金正恩の就任後、人民への変わらぬ仕打ち、そして張成択の粛清や金正雄の暗殺など、とてもじゃありませんが「西洋志向」ではないでしょう。 また訪北した米国人青年や日本人青年の逮捕・拘束、特に米国人の場合は帰国直後に謎の急死をしています。 果たして「観光立国」する気があるのでしょうかねえ。

 「よりスマートな頭脳立国、科学立国へまい進しようとしている」としていますが、私にはかつてオーム真理教が優秀な科学者を動員してサリンやVXを開発したのと同じことのように思えます。

 さらにインタビュアーが、北朝鮮人民はひもじく、劣悪な人権状況にありながらも、体制変革へ踏み出さない、監視社会の恐怖ゆえなのか?と問うたのに対して、次のように答えます。

朝鮮王朝の支配階層である両班は天の道徳的な価値を体現しているから偉かったんです。農民や物売りは体現しなかったから卑しかった。 でも、王朝末期に現れた東学の思想は天の価値はすべての人が担えるとの考えを打ち出す。 画期的な平等主義です。 北朝鮮も東学の影響を受けている。 金日成主席の座右の銘は<以民以天(人民を天のごとくみなす)>。 人民たちは肉体は抑圧されていても、頭の構造としては抑圧されていない。 自分のなかにある天をうやまうのですから、心地いい。

 こうなると私は全く理解できなくなります。 「画期的な平等主義」「人民は‥‥頭の構造としては抑圧されていない。 自分のなかにある天をうやまうのですから、心地いい」、これが北朝鮮を表す言葉なのでしょうか。

 人民は主体思想というカルトに洗脳されていますから、それは本人たちは「頭は抑圧」されているとは思わないし、確かに「心地いい」でしょう。 人民が体制変革になぜ踏み出さないのかという質問に対し、「洗脳されて心地いいから」が彼の答えのようです。 「北朝鮮も東学の影響を受けている」のであれば、東学党の乱(甲午農民戦争ともいう)のような大規模な反乱を期待するところなのですがねえ。

彼ら(北朝鮮)の思想を知り、それこそあらゆる事態を想定し、主体的に東アジアとかかわっていかないと。 北朝鮮との国交正常化も進める必要があります。 このままアメリカ、中国、韓国だけで東アジアがつくられてしまうのはとても危険です。

 これが小倉さんの最後に出てくる結論の言葉です。 結局は北朝鮮と国交をせよ、というのが彼の主張でした。 拉致、核、ミサイル問題は後回しにしろ、ということですね。

 北朝鮮は京大の小倉紀蔵教授を獲得することに成功し、高笑いしているだろうと推測します。

【拙稿参照】

(『現代韓国を学ぶ』小倉紀蔵編)

『現代韓国を学ぶ』(1)   http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2012/06/02/6465710

『現代韓国を学ぶ』(2)  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2012/06/06/6470236

『現代韓国を学ぶ』(3)  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2012/06/08/6472916

『現代韓国を学ぶ』(4)   http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2012/06/09/6473893

『現代韓国を学ぶ』(5)   http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2012/06/10/6474349

『現代韓国を学ぶ』(6)   http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2012/06/11/6476173

『現代韓国を学ぶ』(7)   http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2012/06/13/6477515

『現代韓国を学ぶ』(8)      http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2012/06/15/6480485

(『言葉のなかの日韓関係』徐勝・小倉紀蔵編)

『言葉のなかの日韓関係』(1)  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2013/04/07/6770776

『言葉のなかの日韓関係』(2)   http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2013/04/09/6772455

『言葉のなかの日韓関係』(3)   http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2013/04/11/6774088

『言葉のなかの日韓関係』(4)   http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2013/04/13/6775685

『言葉のなかの日韓関係』(5)   http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2013/04/14/6777003

『言葉のなかの日韓関係』(6)   http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2013/04/17/6780435

『言葉のなかの日韓関係』(7)   http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2013/04/21/6785243

李良枝の心の軌跡―日本否定から日本肯定へ2018/09/19

 1988年の芥川賞作家である李良枝のインタビュー記事(『朝日ジャーナル』1989年4月21日号)を、5カ月ほど前に拙論で下記のように紹介したことがあります。

芥川賞受賞者 李良枝 ―韓国人を美化する日本人はおかしい http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2018/04/08/8821395

芥川賞受賞作家 李良枝(2)―日本語は宝物である http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2018/04/13/8824561

 ところで韓国の『東亜日報』2018年9月12日付けに、この李良枝について、彼女の心の軌跡を分かりやすく簡潔に説明した記事が出ました。 「富士山の傷」と題されています。http://japanese.donga.com/3/all/27/1461061/1

 李良枝は小学校時代に帰化した在日朝鮮人でしたが、1970年代の高校あるいは大学時代に自分が韓国人であること自覚します。 この当時の在日韓国・朝鮮人たちは「民族」に自覚すると、自分の身に沁みついた「日本」を否定するようになります。 李もそうでした。

彼女は富士山を見ながら育った。家からも見えるし、街からも見えるし、学校からも見えるのがその山だったから当然のことともいえる。富士山の雄大な姿は、感嘆と尊敬の対象だったし、「あまりにも堂々としているので、かえって憎しみの象徴」でもあった。その山に向かって愚痴をこぼしながら、そのゆったりとした懐の中で育ち、成長して熟したということだ。

ところがある日から、その山は違う形に見え始めた。韓国人であることを自覚してからだった。その時から、その山は「恐ろしい日本帝国主義と祖国を侵略した軍国主義の象徴」だった。寛大で壮大な姿の富士山が、今は「否定して拒否しなければならない対象」だった。富士山に関する感情の分裂と傷はそう始まった。

 当時の在日の若者たちは「民族」に目覚めると、本名を名乗り、韓国・朝鮮語を勉強しながら、差別抑圧し植民地支配を反省しない日本政府と日本社会を糾弾し、そしてそんな日本と結託している韓国の軍事独裁政権(朴正熙や全斗煥)と闘う韓国民主化運動に連帯する活動に参加したのでした。 自分の生まれ育った日本を嫌い、日の丸や君が代、天皇を否定する日本の革新・左翼思想と合流することが多かったものでした。

 李良枝も日本の象徴である富士山を「否定し拒否する」ほどに反日感情を高ぶらせ、韓国に留学して巫俗舞踊(ムソク)や伽耶琴(カヤグム)、語り歌(パンソリ)といった伝統芸能に没頭します。

彼女は富士山を後にして韓国に来て、韓国語と韓国文化を熱心に身につけ、カヤグムと土俗舞踊に傾倒した。何とか富士山で象徴される日本を突き放したいと思った。

 李は自分の生まれ育った土地で毎日見ていた富士山を日本の象徴だから切り捨てようとしました。 しかしそれが切り捨てられないことに気付きます。

ところが、彼女は富士山を否定すればするほど、「まるで恵み深い人に対して陰で悪口を言っているのと同じ不思議な呵責」を感じた。逆説的にも、彼女は富士山が自分の心の中の深いところを占めていることを、韓国に来てから気づいた。混乱した。「由煕」をはじめとする小説は、その混乱の感情の告白だった。苦心に苦心を重ねた末、彼女が到達した結論は、「自分の中に染みている日本」を否定せず、そのまま認めようというものだった。

富士山が見える町を去ってから17年が過ぎたある日、李良枝は自分が住んでいた町を訪れた。富士山は相変わらず同じ姿で同じ場所にいた。今、彼女は穏やかな心で富士山の美しさを味わうことができた。そうなるまでに17年がかかった。長い間自分を苦しませた分裂的で両家的な感情と和解したから可能なことだった。傷の癒し方はそのままを受け入れる肯定の精神にあった。

 結局はあれほど否定し拒否してきた日本の象徴「富士山」を受け入れることで、心の安定を得たのでした。 それを記事は「長い間自分を苦しませた分裂的で両家的(ママ)な感情と和解」「傷の癒し」と表現しています。 ここで朝日ジャーナルのインタビューで、彼女が自分を「由熙」という主人公に仮託して「由熙にとって日本語は宝物だった」と言い切った考えが理解できます。http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2018/04/13/8824561

 なお東亜日報の記事にある「両家的」というは、「양가적(両価的)」の誤訳と思われます。 ハングルでは同音になりますので、漢字変換の間違いでしょう。 「양가적(両価的)」とは対立した価値を同時に有していることを意味します。 韓国国立国語院の『標準国語大辞典』にも採録されていない言葉ですから、最近出てきた言葉のようです。 「愛憎相半ばする」に近い意味ですね。

 東亜日報の記事は、李良枝の「日本否定」から「日本肯定」への心の軌跡を簡潔に説明したものです。 原文は http://news.donga.com/Column/3/all/20180912/91941371/1 ですので、関心ある方はご参考に。

在日韓国人と華僑―成美子2018/09/25

 二十年以上も前に買って、そのまま積ン読していた成美子『在日二世の母から在日三世の娘へ』(晩聲社 1995年9月)を読む。 自らの目で見た1970~80年代の在日韓国人社会や、自分の日常生活についてのルポ・エッセイ集です。 750ページの大冊で、いつか読もうと思ってそのまま読まずに過ごし、本棚の奥の見えない所にずっと置かれていました。 この度ちょっと本棚を整理してこの本を発見し、ようやく読んだという次第。

 著者の身近な話が多く、知人・友人ならば面白く読めるでしょうが、私には昔の在日社会はそうだったなあ、或いはそういう在日もいたんだなあと思う程度で、ざっと読み流しただけでした。 しかしその中で、在日と華僑を比較した「得体の知れない自由」と題するエッセイ(129~133頁)は、あ、そうか、そう言えばそうだなあと新鮮に感じられるものがありました。 それを紹介します。

4歳になる長女が中華街にある保育園を卒園した。そこは中華街の華僑のひとびとが自分たちの子弟のためにつくった私設の保育園で、30名ほどの園児の約8割を華僑の子供たちが占めているという特徴のある保育園であった。娘はそこで、圧倒的多数の中国人と少数の日本人にまじって、唯一の韓国人として、ほぼ2年近くお世話になった。

 中華街ですから飲食店がほとんどで、昼食時と夕方からが本格的な仕事となる家庭ですから、真夜中の11時過ぎからが一家揃っての食事になります。 従ってその子供たちは普通の保育園では間に合わない生活スタイルとなります。 だから私設の保育園が必要なんですねえ。

その2年を通じて、多くの華僑の母親たちと親しくなった。私とほとんど同年齢の彼女たちは、日本に渡ってきた親をもつ二世の華僑であり、中華街に立ち並ぶ店々を実質的にきりもりする嫁や娘たちである。日本語を常用するという点では私たち二世と変わるところがなかったが、生活態度や人生観に、私たち二世とはまったく異質なものを見出し、驚かされることが多かった。

 そして在日韓国人から見た、華僑との比較が始まります。

まず第一に驚かされたのは、彼女たちの生活態度が非常に質素であるという点であった。大部分の母親たちは、洗いざらしのズボンにただ束ねただけの髪、労働着というスタイルで、子供を園に預けては店にすっとんで行き、帰宅時間になるとエプロン姿で迎えに来た。 その服装は、家長会と称する父母会の会合でも、学芸会でも、卒園記念写真撮影の日でも変わるところがなかった。 私は、男物のごっつい自転車で二人の子供を送り迎えして、親子ともども着古した服を身につけた彼女たちの一人から、「ここがうちなの」と五階建ての赤や緑で装飾された建物を指さされたとき、えもいわれぬショックを受けたものである。

 これは私の体験とも一致します。 華僑の人々は日常生活が実に質素で、使えるものはどんな古びていても最後まで徹底して使うという生活スタイルです。 こんなお古じゃ恥ずかしいというような感覚は皆無といっていいです。 といって全てにケチかといえばそうではなく、どうしても必要なものとか冠婚葬祭なんかにはお金を惜しみません。

保育園に預ける年齢の子供をもつ母親の手というものは、総じて荒れているものであるが、学芸会の歌の練習や会合に集まった彼女たちの手は、その度を越えた、子供の頃から身を粉にして働くことを当然としてきた鍛えられたごっつい手であった。 そして彼女たちは、その手で黙々と家業に励んで、浮いたところが少しもなかった。 「代替え」と彼女らが称する世代交代もスムーズに進み、一世の親たちは一歩退いて、若い息子や嫁たちに店の実質的権限を譲り渡していた。

 華僑二世は親が創業した店を幼い時から手伝い、その店を誇りに思い、継承するという文化があります。 これを在日の著者が感心して書いているということは、在日にはそのような文化が希薄だということです。

 著者は自分の大学時代の同胞たちと比較します。

たとえ新宿の目抜き通りの店を一軒あげようといわれても、そこで人を使わずに自分自身が労を惜しまず働かなければならないという条件つきであったならば、その店を放棄するのが私の学生時代の同胞友人であった‥‥ 何か得体の知れない自由のためには、生活の安定や基盤などというものには鼻にもひっかけず、父の家業を継ぐなどということは、自分の人生の敗北の極み‥

同時に彼らは、政治にも思想にも文化にも、悪くいえばヒステリカルだった。 偉大な統一運動は、個人の内面の壁にぶちあたってすぐに挫折したし、ほとばしる才気をもって既成の文学作品を批判し、自己の作品の抱負を述べた友人の一人は、決して彼自身の作品を完成させることがなかった。 たまにお金儲けを野心とする二世に会うと、彼らの語る方法論は実に一発主義で、地道に稼ぐ気など毛頭なく、いかに人の発想にない間隙を縫ってぼろ儲けするかに終始していたものである。

 具体的な中身は書かれていませんが、著者の同胞友人たちの一面です。 汗水流すことを嫌い、いい格好ばかり言うが実際には何もしないし何も出来ない、そんな口先だけの在日が著者の目についたというわけですねえ。 華僑の感心する面と比較しているので、在日のそんな嫌な面が強調されているようです。 

商売というものは、敗北の極みや、生活するためのやむなき手段であっても、自分の全人生をかけてやるものではないという意識は、卒業して何年経っても抜きがたく、全人生をかけてやるものを見出せないままに親の稼いだお金で外車を乗り回す男性や、毛皮や宝石に夢中になり、きらきら着飾る同胞二世の女性をうんざりする思いで見る機会はかなり多い

華僑のひとびとは、実に静かに、そして確実に日本社会に根づこうとしているように私の目には映る。 その勤勉性に裏打ちされた生活の知恵、技術、相互扶助の徹底さは、在日同胞社会のぎくしゃくした世代交代やベンツ志向とまったく対照的なものである。

 ここでも華僑二世との比較が出てきます。 私の経験でも親の職業を誇りと思わず、恥じる在日が多かったですねえ。 親の方も、今の仕事は生活のためにやむを得ずにやっていることだ、子供にはやらせたくないと考えていたようです。 こういう在日は結構目立っていました。 これは昔の話ですので、今とは違うでしょう。

華僑が中国の長い伝統にもとづいて他国に根づくために少なくとも自分の意思で国を出てきた人が多いのに比して、私たちの親たちは、強制連行や徴用で、または食べることができずにやむにやまれずに日本に渡ってきたものが多い。 日本は、自分を故郷から引き離した憎悪の対象であり、たとえ日本の地にあっても心は故郷にあろうとするのは、一世たちのぎりぎりの抵抗心であり、人間としての矜持であった側面もある。

 ここはちょっと異議のあるところです。 「私たちの親たちは、強制連行や徴用で、または食べることができずにやむにやまれずに日本に渡ってきたものが多い」 「日本は自分を故郷から引き離した憎悪の対象」という被害者意識の物語が「一世たちの抵抗心であり、人間としての矜持」と言えるのかどうか。 

そんな親の「仮の宿」意識が、写真の陰画のように、負の部分だけ子供に継承され、一世たちの強さや粘りが欠落したまま、根なし草意識だけが助長される‥‥ 私は中華街の華僑の人々を見ていると、在日二世の青年たちが‥‥日本社会に向かって「おまえたちが俺たちを連れてきたんだぞ、さあ、どうにかしてくれ」と鼓をたたいて酒を飲み、騒ぎ立てているようで‥‥ 自己嫌悪におそわれ、やたらと恥ずかしくなる

 「強制連行」「徴用」という被害者意識の物語は、在日が日本で生きることの積極性を失わせます。 「自己嫌悪におそわれ、やたらと恥ずかしくなる」著者の気持ちが、在日社会にもっと広がればいいのですが。 しかし「強制連行」「徴用」物語を在日の若者に注入して反権力・反日活動に引き入れようとする左翼・革新系日本人や在日知識人が今なお多くいるので、なかなか難しいでしょうね。

ちょっと疑問な毎日新聞記事2018/09/29

 2018年9月27日付けの毎日新聞に「平和という時代 第2部 この場所」と題する記事があります。 https://mainichi.jp/articles/20180927/ddm/003/040/037000c

 この記事の主人公である洪貞淑(56)さんについて、次のような生い立ちを記しています。

在日が一般企業に就職することは難しく、洪さんも短大卒業後2年ほどして父が営む韓国食品の販売会社で働き始めた。会社の規模は小さく、事務所は6畳。「主な顧客は同胞の乾物屋。仕事を見つけるのに必死だった」という。

 彼女は56歳です。短大卒業時は36年前のことになりますから1982年頃です。 果たしてこの時代に「在日が一般企業に就職することは難しい」という状況があったのかどうか、ちょっと疑問に感じました。

 在日の就職について簡単に説明しますと、1970年代前半までは日本の会社が朝鮮人の就職を忌避したのと同時に、在日朝鮮人社会では日本の会社に就職することは「同化」だと否定していたのです。 つまり日本側の朝鮮人忌避と在日側の就職拒否が共存していたのが、この時代でした。

 しかし1970年に朴鐘碩という在日青年が日立製作所から採用を取り消しされるという事件をきっかけに起きた「日立闘争」が、4年後の1974年に横浜地裁が就職差別と認定したことにより勝利しました。

 これが契機になったのでしょうか、在日の就職状況はその後、格段によくなりました。 そして在日の就職闘争の対象は民間企業から公務員へと向かい、ここでもかなりの勝利を収めたのでした。 朝鮮人であることを理由にした就職忌避は、余程のことがない限りあり得なくなったのです。

 1982年はそんな時期に差し掛かった時代でしたから、毎日新聞の記事のような「在日が一般企業に就職することは難しく」という部分には大きな違和感を抱いたのです。

 なお1970年代前半までは在日の方が日本の会社への就職を拒否していたということについて、今では信じられないでしょうが、事実でした。 これについては日立闘争に関わった佐藤勝巳さんが当時の状況について、『在日韓国・朝鮮人に問う』(亜紀書房 1991年)で次のように書いています。

日本企業への就職の門戸開放に、さらには社会保障の適用に、最も反対したのが、一九七〇年代前半における民族団体内部の一世たちだったのである。当事者が同化だと反対しているのに、日本政府が進んで制度的差別の撤廃をするはずはない。(27頁)

日本企業が就職差別をしているという記述に接する度に思うのだが‥彼らを日本企業に就職させるのは同化だといって猛烈に反対したのが一世、なかんずく総聯だった。この主張からすれば、就職差別があった方が同化しなくてよいということになる。この認識は、一九七五年頃までの彼らの社会の多数意見だったことは周知のことである。(47~48頁)

 1970年代後半以降、民間企業では在日の就職忌避をしなくなりましたが、就職に関して条件を付けられたという話が時々聞こえてきました。 ある大手企業に就職した在日は、海外赴任する場合があるからその時までに帰化してほしいと言われたそうです。 たしかに海外で何か事があれば韓国籍では対応が難しくなるでしょうし、あるいは朝鮮籍であれば韓国のパスポートすらありませんから更に対応が難しくなります。

 以上のような在日の就職状況は昔の話です。 これを思い出すにつけ、今の在日はどれほど幸せなことかと思います。

【拙稿参照】  15年前の論考ですが、ご参考ください。

第61題 在日朝鮮人の就職状況 http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/dairokujuuichidai