姜信子『棄郷ノート』を読む2018/10/19

 長年積ン読していた姜信子さんの『棄郷ノート』(作品社 2000年3月)を読む。 そのエピローグに、彼女自身が20歳ころ(1980年前後)に感じた在日韓国人の生きざまについて次のように簡潔に書いておられます。

日本で在日韓国人が経験してきた生きがたさは、いまさらここで書く必要もないことだろう。 その生きがたさを乗り越えようとするなら、けっして日本人に同化する道を選ばず、韓国人としての誇りと民族意識をよりどころに闘うこと。 日本式の通名ではなく、真の名前である韓国名を名のって、みずからのアイデンティティのありかを鮮明にすること。 それが正しい在日韓国人のあり方だという暗黙のルールが、在日韓国人社会にはあった。 

それに従う従わないにかかわりなく、日本人に対峙するかたちでつくりあげられた「民族」という枠を、在日韓国人と呼ばれる立場にある私は強く意識しないわけにはいかなかった(これは私が大学に入ったころ、いまから20年ほど前に私が切実に感じたこと‥‥)。 (254頁)

 1980年頃の在日韓国人社会は、確かに「日本人に対峙するかたちでつくりあげる」を目指そうと主張する声が大きかったものでした。 「日本人に対峙する」手段の一つとなったのが、本名を名乗るということでした。 姜さんは当時の在日韓国人社会に「日本式の通名ではなく、真の名前である韓国名を名のって、みずからのアイデンティティのありかを鮮明にすること。それが正しい在日韓国人のあり方だという暗黙のルールがあった」ことは事実でした。

 日本社会は在日の民族性を否定するために通名を使わせている、在日は本名を名乗ることによって日本という差別社会と闘わねばならない、という主張でした。 ただし私の経験では、それは在日社会をリードする活動家(学生を含む知識人たち)らの認識であって、そうでない多くの在日は民族とかアイデンティティとかについて黙っているか、あるいは強く言われると反発していましたねえ。    日本人の活動家や教師たちは在日活動家と主に付き合うので、彼らの主張に同調していきます。 本名を名乗る在日は民族意識のある立派な方なんて考える人が多かったものです。 学校の教師は在日の子供たちに本名を名乗れと強く迫り、我が校では何人の在日生徒に本名を名乗らせたか、その成果を自慢するように発表する先生がいました。

 またある在日は、自分は本名を使っているが家では韓国料理がほとんど出ることがないし韓国語なんて全くの初歩程度、そうであるのに学校の先生が家庭訪問で、本名を名乗っておられて立派ですと言われてビックリしたと話していました。 本名を名乗る在日、しかもそれがハングル読みならば、ただそれだけでその在日を尊敬の対象とした日本人は少なくなかったものです。

 ある焼き肉屋のお嬢さんは小中高を朝鮮学校に通い、朝鮮語はペラペラでした。 民族意識という点では普通の在日よりはるかにレベルの高い人です。 そこに例の活動家がやって来て、なぜ本名を名乗らないのかと迫ったそうです。 そのお嬢さんは、日本に住んでいるから日本名でいいやないの、何で本名を名乗らなきゃいけないの、何でうちにそんなことを言うのか訳が分からないので腹が立ったと言っていました。 これも私が直接聞いた話です。

 姜信子さんの本を読んで、1980年代の在日社会における本名のあり方を思い出した次第です。 在日社会をリードしている活動家・知識人たちと、一般の在日との認識の違いが出始めた時代でしたねえ。

 姜さんはさらに、韓国人でも本国と在日との違いに言及します。

日本で生まれ育った在日韓国人と朝鮮半島の韓国人は同じ民族意識で結ばれている、あるいは当然に結ばれうると考えるとすれば、それはあまりに楽天的な幻想にすぎない。 黙ってただ歩いているだけでも、日本臭さが体中からぷんぷんと出ている私が、明らかに日本語のイントネーションに影響されている韓国語で、自分は韓国籍をもっている、父母も祖父母もみんな韓国籍で、自分の体には韓国人の血が流れていると主張したところで無駄なこと。

韓国民/韓民族としては規格外の存在であり、異邦人にすぎないということを、韓国の隣人たちは容赦なく思い知らせてくれる。‥‥ 韓国人の血を持つくせに日本臭い。 怪しげな韓国語しか話さない。 それは、民族意識に燃える韓国の隣人たちにとって、<裏切り>にも等しいことだった。(以上 255~256頁)

 在日が「民族」に目覚めて本名を名乗り韓国語をいくら勉強したところで、本国の韓国人からは「日本臭い」として突き放され、冷たく見られているというのが実態でした。 日本人ならば「日本臭い」のは当たり前ですから日本人として振る舞った方が理解を得られやすいのですが、在日が自分は民族に目覚めて本名を名乗っていますと下手な韓国語で自慢するように言うと、「日本臭さ」が鼻に付いて反発を買うようです。

 考えてみれば、韓国人ならば韓国名を名乗り韓国語をすらすらと話すのが当たり前です。 逆に韓国語の出来ない韓国人は恥じ入るしかないものです。 しかし当時の在日は、本名を名乗ってハングルをちょっと読めるというだけで民族に覚醒したという意識を持ち、また日本人(といっても一部)から尊敬を受けていたのでした。 その居心地の良さは日本人を相手にする時だけに通用し、本国の韓国人には通用しなかったのです。

 本名を名乗り民族を熱っぽく語っていた在日が、本国の人と会う段になって借りてきた猫のように委縮してほとんど喋らなくなったものでした。 そして彼らが考え出した論理が「在日は日本人でもなく韓国人でもない。だから韓国語が出来なくてもいい」で、本当に韓国語を勉強しなくなりました。 それでも民族差別する日本社会を非難し、過去を反省しない日本人を糾弾する熱意は変わらなかったですねえ。

姜さんを読んで、1980・90年代を思い出した次第です。 

【拙稿参照】

姜信子『私の越境レッスン・韓国編』http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/08/20/7738016

在日の範囲とルーツを隠すこと      http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2006/08/04/472555

在日の慣習と族譜            http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2006/08/12/481465

これまでの在日とその将来について(仮説)http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2006/05/01/348943

韓国人でもなく日本人でもない      http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2008/05/24/3539242

民族を明らかにするのに勇気がいる、という発言  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2009/05/10/4297782

在日韓国人政治犯            http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2010/05/17/5092838

外国籍の先生              http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2010/07/03/5197498

在日は日韓の架け橋か          http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2010/07/11/5212322

外国人参政権要求-最終目標は国政参政権 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2010/09/12/5342632

在日が民族の言葉を学ぼうとしなかった言い訳  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2010/12/12/5574193

在日の政治献金             http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2011/03/06/5725110

在日の政治献金(2)          http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2011/03/11/5735616

在日コリアンと本国人との対立      http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2011/11/20/6208029

在日コリアンの「課題」         http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2012/01/08/6282960

在日朝鮮語               http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2012/05/13/6444331

在日の今後の見通し(犯罪率)について  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2012/11/25/6642370

マルセ太郎               http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2013/01/19/6694884

「チョン」は差別語か?         http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/04/04/7603685

アルメニア人の興味深い話―在日に置き換えると http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/09/26/7812267

同化されない外国人           http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2016/10/01/8206320