毎日のコラム「平和をたずねて」への疑問(1)2018/10/30

 前回、毎日のコラムにある吉野作造が「独自調査」としている点が間違いであることを指摘しました。 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2018/10/25/8982241 なおこのコラムでは、他にも間違いというか疑問が見られます。 

シベリアからの撤兵を表明すると、ウラジオストックでは日本人の引き上げが始まった。政府は‥‥朝鮮人には冷たかった。 <引き揚げを希望する朝鮮人も約1万5000人にのぼっていた。にもかかわらず、加藤内閣は彼らを支援しないと10月13日に閣議決定した。 (略) 日本人と同じ「臣民」ではあるものの、そこには一線が引かれていた。(麻田雅文『シベリア出兵』中央新書)

 この引用文の中にある「朝鮮人は日本人と同じ『臣民』であるものの」とあるところです。 あれ?!シベリアに多数の朝鮮人が住んでいたのですが、彼らはロシアの支配を受け入れていて、日本の「臣民」ではなかったはずだが、と思いました。

 シベリア特に沿海州には李朝末期(19世紀)から多くの朝鮮人が移住していました。 彼らの生活はイギリス人女性旅行家のイサベラ・バードが報告しています。(翻訳が平凡社と講談社学術文庫にあります) 彼らは朝鮮総督府の編成する朝鮮戸籍に登載されておらず、従って血統的には朝鮮人ですが大日本帝国の構成員である「臣民」ではありませんでした。 これについてもっと詳しい資料を探してみたのですが、ちょっと見当たりませんでした。 さらに調査しなければなりませんね。

 ところで、これは引用文ですので、引用元を探してみました。それは麻田雅文『シベリア出兵』(中央新書 2016年9月)211~212頁に該当部分があり、正確に引用されていることを確認しました。 省略されているところがあるので、前後を含めて改めて紹介しますと、

1922年9月末には、ウラジオストックの日本人たちは、やむを得ない事情で残るほかは、いっせいに引き揚げることを決める。こうして、8月1日には3386名いた日本人は、10月中旬には多くが引き揚げた。‥‥ 引き揚げを希望する朝鮮人も約1万5000人にのぼっていた。にもかかわらず、加藤内閣は彼らを支援しないと10月13日に閣議決定した。「政情の変化に基づく朝鮮人の危険は甚だ微小」という理由で、日本人と違って彼らは安全だと言う(『日外』大正11年第1冊)。日本人と同じ「臣民」ではあるものの、そこには一線が引かれていた。

 ここで中国満州にあった間島(今の延辺朝鮮族自治州)に居住していた朝鮮人の違いが出てきます。 同じく『シベリア出兵』には次のような記述があります。

日本政府が1915年の対華21ヶ条要求と南満東蒙条約で、間島地方朝鮮人も「日本人」であり‥‥と主張していた (177~178頁)

 つまり大日本帝国政府は、間島の朝鮮人は我が国の臣民であると主張していながら、シベリアの朝鮮人については発言をして来なかったのが実情だったのです。 日本はシベリア在住朝鮮人を「臣民」と見なしていなかったのです。 だからシベリアの朝鮮人たちの多くがロシア革命の際にパルチザン(赤軍派)に加担して、日本のシベリア出兵に対抗した理由が分かります。

 この辺に関してはもっと調べねばならないところですが、シベリアの朝鮮人は「臣民」ではなかったという点で、他の朝鮮人とは区別されていたと言うことが出来ると思います。

コメント

コメントをどうぞ

※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。

※なお、送られたコメントはブログの管理者が確認するまで公開されません。

名前:
メールアドレス:
URL:
コメント:

トラックバック