ありふれて当然だったことは忘れられる(嘗糞) ― 2019/01/20
以前の拙ブログで、朝鮮人は嘗糞していたと揶揄する民族侮蔑的な言動に対して、日本人も昔は糞尿を嘗める習慣があったと論じたことがありました。 それに対して、その根拠となった資料を出せ、あるわけがないだろう、とか言う人がいました。
その時に思ったのですが、かつて日常的にありふれていて誰もが知っている事実は返って資料として残り難く、だから時間が過ぎるとその事実は忘れられてしまって、今や想像すら出来なくなるということでした。
日本人が糞尿を嘗めていたという話に戻します。 江戸時代~近代において日本農業の肥料は糞尿でした。糞尿は「金肥」と呼ばれるほどに貴重なものでした。だから大坂のような大都会で汲み取られた糞尿は近在の農村に運ばれて売買されたのです。 農民は運ばれてきた糞尿が確かなものか、水増しでもされていないかを確かめたうえで購入します。 農民はこれをどうやって確かめたのか。
学生らにクイズとして出してみると、誰も分からないと頭を傾げます。 ところが一人、あ!それは嘗めたのでしょ、と正解を言った学生がいました。 聞いてみると、かなりの田舎で育ってきて、近くの一軒家にいるおばあさんの家の便所がポッチャン式で、その汲み取り作業を子供の自分がさせられていたということでした。 そういう経験があったから、すぐさま正解が出たのでした。
1970年代までの日本は農村では糞尿「金肥」が使われていて、それを熟成させた臭いが農村全体を漂わせていました。 「田舎の香水」なんて呼ばれていましたねえ。 そういう体験をした人(今なら60歳代以上の農家出身)ならば、畑に撒けるくらいに肥溜(肥タンコとも呼ばれていました)の糞尿が熟したかどうか嘗めて確かめていたと聞かされても、お年寄りならそういうこともあったでしょうねえとなるでしょう。 しかしそれ以下の人になると、もはや想像すらできない出来事となるようです。
かつての日本農民は糞尿を嘗めることが日常化していてごく普通の光景となっていましたから返って資料として残っておらず、今度はそれを知らない若い世代が、そんなことは絶対にあり得ないという反応になるのですねえ。
過去を知るということは難しいものなのです。
【拙稿参照】
日本にもあった嘗糞 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2016/01/15/7990753