李朝時代の文化衰退(1)2019/06/18

 以前から思っていたのですが、李朝時代の文化が日本のそれよりもみすぼらしく感じることでした。 絵画や彫刻、陶磁器、文学等々で、これは素晴らしいなあと感心するものが全くないことはないのですが、かなり少ないという印象です。

 こんな印象を口外すれば民族差別を煽るものという批判されそうで、今はあまり聞くことはありませんが、日韓併合直後にはこれを開陳する朝鮮総督府高官がいました。 李王職次官の小宮三保松という人物で、大正4年(1915年)に「朝鮮芸術衰亡の原因およびその将来」と題する小論を発表しています。

 彼は、新羅や高麗時代に隆盛した美術工芸が李朝時代になって衰退したと論じます。 なお引用に当たっては現代文に書き直しました。

新羅から高麗朝に至るまで隆盛を極めた朝鮮の工芸が李朝に及びて漸衰し、今日ほとんど衰亡に瀕し、わずかにその名残を留め、ある種の工芸に至りては全くその跡を絶ったのは、その原因は奈辺に存するのであろうか、自分の観るところでは、それはおよそ三原因に帰する

 三つの原因とは、①仏教の排斥、②儒教の輸入、③制度の弊です。 先ずは①仏教の排斥です。

李朝では前朝の高麗が滅亡したのは仏に佞した(媚び諂うの意)為だと確信し、李朝の士君子大官連中にはこの考えが余程深く染み込んでおったと見えて、仏はあくまでも排斥してその滅亡を図らねばならぬとの思想が瀰漫(びまん)しておった。 

李朝が仏排斥を企てるに至ったのであるが、そこで寺院も新たに興らず、仏像も新たに鋳造せらるること無く、仏教美術はほとんど絶滅の姿に陥った。 ‥‥ 李朝では仏教排斥を企てし為、信仰は衰え、従って仏教美術が萎靡不振(いびふしん)の状を呈し、一般美術もまた衰えてしまった。

 李朝時代は仏教が弾圧され、それまで大切に信仰されてきた仏像・仏画などは廃棄されるか、日本などに輸出されたのでした。 次に②儒教の輸入です。

李朝は大いに儒教のうち朱子学を尊重したが、惜しいことにこれを誤り読んだのである。 その結果は王侯、士大夫には娯楽や趣味は有り得べきものではないと信じた。 例えば書画や古器物を弄ぶ如きは一種の罪悪‥‥と言っては少し語弊があれど、潔しとしなかったのは事実であって、王侯士大夫は物を弄ぶことが出来ぬものと確信し、これを敢えてする者は排斥された。

衣食住に絶対必要なものは、芸術品とも美術品とも言わない。 そこで李朝の儒者は不必要品を賞翫することを避けたから、芸術品や美術品は自ら排斥されたのである。それで士大夫の家に行ってみると、書画とか古器物とか花瓶とかいう美術工芸品は一点もなく、無趣味極まるものである。 ‥‥ 根本において、これに対する趣味の欠如しておるのが最大原因である

支那は儒教の国ではあるが芸術はよく発達した。 これに反し李朝はこれを誤り読んだ結果、全然その趣を異にしている。 ある鮮人がその祖先の作りたる書幅を所蔵しながら、己の祖先に書筆を弄したる者あるを恥辱として、落款を削除したという奇談がある次第である。

 李朝末期の開港期に西洋人が多く朝鮮を訪れるのですが、彼らの旅行記などでも朝鮮では見るべき美術品がないことが盛んに書かれていますねえ。 韓国ドラマの時代劇では、李朝時代の家の中で飾り棚に花瓶などが置かれている場面がよく出てきますが、あれはウソですね。

 最後に③制度の弊です。 小宮は「制度の弊もまた工芸美術の発達を阻止した」として、「制度の弊」の具体例を挙げます。

ここに一人の画工があるとする。 大官や勢力を有する者が数十・百枚の絵を描くことを命ずるが、何らの報酬なくすべて無代でその需に応ぜねばならなかった。 或いはまた、何か珍奇な品物を所持していることを観察使や大臣らが聞知すると、その提供を迫るのであるが、これも無論タダで取り上げる。 もし応じなければ直に獄に投ぜられる始末であった。

ある地方のある百姓が大層よく実を結ぶ果樹を植え込んでいたが、間もなくそのことが郡主に知れたので、郡主は果実を持参すべく命じた。 よってやむなく一籠献上したが、後に更に残りをみな持って来いと厳命され、全部取り上げられてしまった。 郡主は諸所にそれを送ったものと見えて、その翌年にあちこちから無数に要求され、百姓に持ってくるよう命じた。 百姓は見るも気の毒なほど弁解に苦しみ、またもや全部取り上げられた。 そこで彼はかかる苦しき目に遭うのは畢竟この樹がある為だといって伐ってしまった

ある宣教師が朝鮮の一陶工と懇意になったが、腕も利くようだし、陶土もいいのが出るので、宣教師は本国から若干の釉薬を取り寄せて陶工に与えて言うには、「私にこの薬を使ってコーヒー茶碗を作ってくれ」と注文した。 その後しばらくして陶工のもとを訪れると、立派なコーヒー茶碗が出来ている。 宣教師も驚いて「これほど巧みに出来ようとは思わなかった、この腕前がある以上はえらい金儲けになる。 自分も更に注文するが、広く販売するのがよい。 釉薬はいくらでも取り寄せよう」と喜んで別れた。 

それから数ヶ月を経過して陶工を訪ね「どうだ、何か立派な物が出来たか、一つ見せてくれ」と言ったところが、陶工はすこぶる妙な顔をして「貴下はあの薬をくれて、続けて拵えるよう言ってくれたが、実は釉薬はみな捨ててしまった。 貴下にあげたような器物を多く作れば私の家はたちまち滅び、かつ自分の命がなくなる。 珍奇な物を作り出せば精力家らは数十・百個の無代提供を迫るので、もしそれが出来ぬとなれば牢に入れられる。 牢に入れられると私の家もしくは親類の者が金をもって命乞いをすればよいけれども、金無きゆえにそれはダメだから結局牢死せねばならないことは、火を見るより明らかであるから、貴下の親切に下さった釉薬はみな捨ててしまった」と告げた

制度の弊もここに至れば、工芸美術も亡びざるを得ないであろう。 (以上 朝鮮総督府『朝鮮彙報 大正4年8月1日』12~17頁)

 ここに描かれているエピソードは、おそらく事実だろうと思われます。 李朝末期に朝鮮を訪れたイギリス人女性旅行家のイザベラ・バードの旅行記には、これに類する話がたくさん書かれています。 

 小宮は朝鮮の美術工芸の歴史について以上のように非常に否定的ですが、実は将来のことについては肯定的です。 これは次に紹介します。