お上に逆らえない業者の悲哀(1)2020/01/01

 もう二十年近く前の話である。西日本のあるMレール建設に伴う出来事だ。公共交通のMレールは法律上路面電車と同じ扱いだから、特に理由のない限り公道に沿って建設される。公道のない所にMレールを走らせようとすれば、公道も一緒に造ることになる。

 T市にある溜池の中をMレールが走ることになった。公道もその池の中に建設することになる。ところがこの池はH遺跡の中にあった。遺跡の中で道路がつくられるのだから、発掘調査が必要になる。Mレール側はO法人に発掘調査を依頼し、O法人は発注者として発掘工事を競争入札にかけ、地元のD社が落札して発掘に着手した。

 当初は池の土手も含めて発掘調査する設計であったが、土手の発掘は直ぐに出来ないことが判明し、土手を残したまま池の中から先行して発掘することになった。すると現場に機械や資材を搬入する進入路が必要になる。落差8mの池の底まで仮設進入路を造成する工事は当初設計にない別工種であるから、本来なら新たな設計書を作成して別途に競争入札をせねばならない。

 しかし発注者は担当者間で交わす打ち合わせ簿だけで、D社にこの仮設進入路の追加工事をさせてしまった。数百万円もする工事を、設計書も見積り合わせもなく、そして契約書もなく、施工させたのである。そして発注者はこの契約していない追加工事の代金を、中間払いという形で支払った。

 しかしこれが会検に見つかったら大変なことになると判明して、今度は設計書の改竄に着手した。それは追加工事分の入った設計書を新たに作成したもので、会検にはこれを見せて仮設進入路工事費の支払いは正当であると装ったのである。つまりこの発掘工事には、現場説明時に配布された当初設計書以外に、会検用の改竄設計書の二種類が存在することとなった。

 当初設計書では、池の中はヘドロなのでこのままでは発掘が困難であるとして、ヘドロ(土壌)改良工事が含まれていた。どれ程の量の改良剤が必要なのかについてヘドロを採取して検査せねばならないのだが、発注者はそんなことをせずに、いい加減な数字の量を設計書に書き入れていた。それは池のヘドロ全部が固いコンクリートの塊になって、発掘する際には削岩機が必要になる程の量であった。

 これに気付いた発注者はD社にヘドロの採取と検査をさせて、改良剤の適切量を調べさせた。しかしこれに要した費用は、発注者は計上せずにD社にすべて負担させた。適切量は当初設計量の半分ほどであったから、D社にとっては減額になる。D社は、こっちが金を出したのに減額になるなんて、と不満をあらわにした。

 ヘドロ改良工事については、まだ話が付け加わる。発注者は改良工事に使う地盤改良剤を地元要望があったからとして「環境に優しいものを使え」と指示した。D社は当然どういう製品の改良剤を使えばいいのかと聞くが、発注者は「環境に優しいものを使え」の一点張りで、具体的にどの製品かを指示しなかった。

 困ったD社はいろいろ探して「環境に優しい」と書かれた製品の広告を見つけ、これではないかと発注者に尋ねた。しかしそれは当初設計にあるものより三倍以上も高価なものだった。結局、発注者は「環境に優しいものを使え」という指示を撤回し、当初設計の製品を使うことになった。その間D社は発注者によって振り回され、時間を浪費しただけであった。

お上に逆らえない業者の悲哀(2)2020/01/05

http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2020/01/01/9196463  の続きです。

 当初設計では池の土手も発掘の対象であった。土手を除去するのであるから、大雨に備えて仮設堤防が必要になる。しかし発注者は設計にこの仮設堤防工事を入れ忘れていた。仮設堤防が必要なのは常識で当たり前のことだから、発注者側の一方的ミスである。この仮設堤防の造成費だけで何千万円は必要になる。うっかりミスで済まされるような金額ではない。設計書にないから、当然D社との契約にも入っていない。

 設計書には仮設堤防が抜け落ちていただけではなかった。コンクリート構造物撤去や既存フェンス撤去などの工事量も、発注者はヘドロ改良と同じように根拠のない適当な数字を設計書に書き入れていた。 この設計書を受け取ったD社が現地に行って調べてみると、撤去工事の数量は全く違う数字になる、施工箇所がどこでどのような撤去工事をするつもりで作られた設計書なのか、いくら見ても理解出来ないものなのであった。

 D社は施工計画書を作る際に、これはどういう工事をすればいいのかと発注者に聞いても、発注者は自分の言う通りにすればいい、の一点張りで答えなかった。設計書に記載されている各工種の工事量の数字の根拠となった図面や計算式を見せてくれと言っても、発注者は拒否した。実際に施工した分のお金は払うのだから設計書の数字は気にしないで工事すればいい、すべて設計変更で対応するという理屈であった。

 D社は、発掘調査は何が出てくるか分からないから人力掘削工事量が適当な数字であるのは理解できるが、それ以外のものは普通の土木工事と同じなのに何故内容を出してくれないのか、これでは施工計画書が作れないと不満を大きくした。

 D社は戸惑いながらも中身のない施工計画書を何とか作成したが、字句の間違いレベルで何度も突き返され、戸惑いが更に大きくなった。すると発注者は、D社の現場代理人にはやる気と誠意がないとして代理人の変更を強制した。しかもその変更強制が大勢のいる前でD社を糾弾する形で行われたのであった。この時のD社は、自分たち業者は発注者の言うことを何でも聞かねばならないと思っていたから、この時に何の反論も出来ずに代理人の変更を心ならずも受け入れたのであった。

 中身のない施工計画書の作成を強制され、現場代理人の変更で恥をかかされ、またヘドロ改良で損害と減額を強要され、改良剤・代理人変更の件で時間を浪費させられたD社は、仮設堤防の追加工事の要請を拒否した。契約にないだけでなく仮設とはいえ堤防であるから、そんな工事をしたことのないD社は安全を担保できないという理由であった。

 仮設堤防なしに土手部分の発掘はできない。しかもD社は仮設堤防工事しないと言ってきた。発掘工期の順守を関係機関に約束していた発注者は、今度は土手部分の発掘が必要なくなったとして、発掘しないことに決めた。当初遺跡があったはずが、なかったことになったのである。しかし土手部分の発掘は契約にあるものだから、これをしないということはD社にとって減額となる。発注者は発掘の必要のない所を人力発掘させ、それを計上して何とか辻褄を合わせ、そして工期も間に合わせた。

 D社は、お上は業者は何でも言うことを聞くと思って無茶を言ってくる、思い出しても腹が煮えくり返る、と怒るばかりであった。しかし発注者はD社を何とか我慢させて問題が表面化しないことに成功し、会検も切り抜けた。

お上に逆らえない業者の悲哀(1) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2020/01/01/9196463 

――――――――――――――――――――――――

 以上は二十年近く前の出来事ですから、もう時効と思われます。 おそらく関係資料は廃棄されただろうし、残っていても会検対策用に作成された書類だけでしょう。 また関係者に問いただしても「知らぬ」「存ぜぬ」「忘れた」と言うだけでしょう。

 しかし20年前まではこんなことが横行していたという記録だけは、残しておきたいものです。

日本語版『反日 種族主義』で抜け落ちた章節(1)2020/01/12

 この11月に日本語版が出版された、話題の『反日 種族主義』(文芸春秋)。 韓国で7月に出版された『반일 종족주의』(2019年7月刊)からの翻訳本なのですが、両方を比べてみると翻訳では3つの章節が抜け落ちています。 つまり原本は全部で25個の章節があるのに、日本語版は22個の章節となっているのです。 しかし翻訳本の序文や解説には、そのことが説明されていません。

 なぜ省いたのか気になって、私なりに翻訳してみました。 章節の見出しの頭に出てくる数字は、原本の章節にあるものです。 ですから「09」は九番目の章節ということです。

09、学徒志願兵、記憶と忘却の政治史  鄭 安基

学徒志願兵制とは?

1944年1月20日、朝鮮人学徒志願兵3,050人は、特別志願の形で日本軍に入営しました。 解放以降、学徒志願兵出身者たちは、自分たちを「民族の十字架を背負った若い知識人」だったと主張しました。 在日僑胞出身の韓国近代史研究者である姜徳相は、学徒志願兵を「志願を仮装した強制動員」と規定しました。 2018年1月、大韓民国行政安全部は「日帝の朝鮮人学徒志願兵制度および動員部隊実態調査報告書」(以下、行安部報告書)を発表しました。

行安部報告書は日本軍を脱営して光復軍に身を投じた学徒志願兵を独立有功者として叙勲・顕彰する一方、彼らの学徒志願を独立運動に格上げしなければならないとまで主張しました。 果たして学徒志願が、日帝の欺瞞に満ちた強制動員であり、民族意識で充満した独立運動だったのでしょうか?

1943年10月20日、日本陸軍省は専門学校と大学の法文系に在学中である朝鮮人学徒を対象に学徒志願を募集する「1943年度 陸軍特別志願兵 臨時採用 規則」を公布しました。 1943年10月25日から11月20日まで志願者の受け付けと、12月11日から20日、までの適性検査を経て、入営学徒を選抜しました。 学徒志願兵の合格者は1943年12月、予備軍務教育を経て1944年1月22日、日本軍に入営しました。

学徒志願兵制の成立は、日本人の学徒出身とは違って朝鮮人を対象にした徴兵制が実施される以前だったので、法制的な強制性が欠如していました。 だから朝鮮人学徒志願兵は「特別志願」の形を借りなければなりませんでした。 日本政府の立場からすると朝鮮人の学徒志願は、同じ帝国臣民なのに存在する国民義務の差別、またはその逆差別を解消するための苦肉の策でもありました。

学徒志願の総数と実態

従来、姜徳相の研究と行安部報告書は、学徒志願適格者6,203人のうち、4,385人が日本軍に入隊したと主張しました。 これは学徒志願の実態と選抜過程を全体的に調べなかったという問題点を抱えています。 1944年の日本政府の資料によれば、学徒志願適格者は全部で6,101人でした。そのうち4,610人が志願し、1,491人が志願を回避しました。そして支援した者のうち、実際に適性検査を受けた者は4,217人、91%でした。 そして適性検査を受けた者で、合格者は3,117人でした。そのうち正式に入隊した者は、疾病その他の事由の67人を除外した3,050人でした。

このような学徒志願の実態は、それが従来から知られていたように無条件に強制されたものではないことを語っています。 適格者で志願しなかった者も24%にもなり、志願をしてからも適性検査を回避した者もおり、適性検査に合格しなかった者も多かったのです。 実際に京城帝国大学生として学徒志願をしてから適性検査を拒否したソ・ミョンウォンは、「一次の身体検査をした後、二次の検査に行かなかったために、締め切り日をやり過ごすことができた。 締切日をやり過ごしても徴用に行けば、それだけだった」と回顧しました。

当時は戦時期であり、若者たちは軍隊にいくにしろ工場に行くにしろ、強要される雰囲気でした。 ソ・ミョンウォンはどちらであれ、選択は自分のすることだった回顧したのでした。 もう一度言うと、学徒志願兵制は単純に「志願を仮装した動員」とだけ断定することは難しく、志願者たちの分別力のある判断と欲望が介在した過程だったのです。

千載一遇のチャンス

学徒志願兵は、入営してから幹部候補生を志願して日本軍初級将校に立身することができる特恵が与えられました。 当時の朝鮮人青年たちには、日本軍将校になることが不可能と思うくらいに羨望の対象でした。 学徒志願は軍人に変身して経済的安定と社会的地位を保障する立身出世の近道でした。

だから当時の世間では学徒志願を「千載一遇のチャンス」とも言いました。 幹部候補生に採用されれば、6ヶ月の集団教育を経て、甲種(将校)と乙種(下士官)に区分されました。 このうち甲種幹部候補生は再度陸軍予備士官学校の6ヶ月の集団教育と見習い士官の生活を経て、予備役陸軍少尉に任官されました。

学徒志願兵の幹部候補生志願は、入営学徒3,050人のうち1,869人で、61.3%の志願率を記録しました。 幹部候補生合格者は、甲種403人と乙種460人の合計863人で、合格率は46.2%でした。 これら合格者たちは、幹部候補生教育期間を経て、高い戦死率を記録した南方戦線の派兵も留保されました。 幹部候補生合格者の集団教育は、真夏の蒸すような猛暑の中で実施されました。 それでも彼らは、防毒マスクを着用した10キロメートル武装駆け足を完走する精神力を発揮しました。

韓国の進歩系も使う「白丁」2020/01/17

 『週刊朝鮮 2590号』2020年1月6日付けにある「シン・ジホの正眼世論」というコラムの中に、次のような一文があります。

MBC 최승호 사장은 과거 경영진을 ‘인간 백정’에 비유했는데, 정작 그의 사장 취임 이후 10명이 해직되었고 6명이 정직 6개월의 중징계를 받았다.

 訳してみますと

MBCの崔承浩社長は、過去の経営陣を『人間白丁』に比喩したが、実際、彼の社長就任以降10人が解雇され、6人が停職の重懲戒を受けた。

 MBCは韓国の放送局の一つです。 韓国では放送局への権力介入が激しく、権力が替われば経営者も替わります。 保守・進歩の対立がありますので、保守→進歩あるいは進歩→保守と政権が替わる度に社長等の役員が入れかわり、放送内容の性向もそれに合わせて変わることになります。

 崔承浩さんは、保守の朴槿恵大統領から今の進歩の文在寅大統領になってから社長に就任した方です。 ですから典型的な進歩系人士です。 その方が、それまでの保守系経営陣を「人間白丁」と罵倒したという話ですね。

 「白丁」はかつての賤民で、日本の「穢多」に相当する身分です。 ですからこの言葉を使うには、かなり気を使わねばならないと思うのですが、韓国の進歩系人士が相手方を罵る言葉として「白丁」を使ったのです。 

 韓国の進歩といえば、かつての軍事政権下で民主化運動を果敢に闘ってきた人、およびその系列の人士です。 ですから我々の感覚では人権を大切にする人たちというイメージになるでしょうが、実際はこのような露骨な差別語が使われています。

 以前に拙ブログで、韓国の動物保護団体が犬肉処理業者を「犬白丁」と罵倒したというニュースを紹介しました。

 韓国の映画やドラマでも「白丁」はよく出てきます。 それも時代劇だけではなく現代で低い地位にある人のことを「白丁」と言うのです。 またこれを逆手にとったのか、「白丁」という名前の焼肉屋チェーン店もあります。

 また北朝鮮はかつて韓国大統領を「人間白丁」と罵倒していましたし、今の脱北者で北朝鮮民主化運動をしている人たちも金正恩を「人間白丁」と罵倒しています。

 韓国では右も左も関係なく日常の中で、そして北朝鮮の体制側も反体制側も、「白丁」は使われています。

 これをどう見たらいいのでしょうか。 もはや「白丁」差別がなくなったから自由に使っていると見るのか、そんな言葉が跋扈するほど厳しい差別社会であるのに誰も気付いていないと見るのか。

 これについては韓国人自身が論じてほしいと思うのですが、見当たりませんねえ。

【拙稿参照】

脱北者団体が使った「白丁」という言葉 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2019/04/08/9056977

「白丁」について       http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2018/05/03/8841899

「개백정」とは何か? http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2018/12/29/9018451

韓国ドラマに出てくる「白丁」  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2008/05/31/3552264

韓国映画に出てくる「白丁」   http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2016/04/13/8070271

韓国の有力紙に出てくる「白丁」 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2016/06/30/8121172

「韓国は差別がゆるい」?    http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2006/04/28/344906

水平社と衡平社        http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2007/03/19/1326206

「白丁」考          http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/dainijuunanadai

日本語版『反日 種族主義』で抜け落ちた章節(2)2020/01/21

http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2020/01/12/9200912 の続きです。

変身する学徒志願兵

次は行安部報告書で、光復軍あるいは独立闘士にまで変身する学徒志願兵が脱営に関してです。 彼らの脱営は「広域の分散配置」を特徴とする中国管内に駐屯する日本軍で集中的に発生しました 。脱営した総人数は197人で、入営学徒3,050人の約6.5%に達しました。 脱営者のほとんどは、厳格な内務班生活、激烈な軍事訓練、頻繁にある討伐作戦に苦しめられていた二等兵や一等兵でした。

彼らが脱営に成功したのは、占領地が点線で続く中国であったことで可能でした。 朝鮮や日本だったならば、想像もできないほどに難しかったでしょう。 脱営の原因は、過酷な私的制裁が横行する兵営生活の不適応、幹部候補生から脱落しての悲観、参戦による死の恐怖のためでした。 学徒志願兵の脱落者の精神世界は、充満する民族意識ではなく、赤裸々な生存本能で満たされていました。

1920年前後に出生した学徒志願兵は、当時2500万人の朝鮮人の中でも最高の高等教育を受けた幸運児でした。 彼らは1960~80年代、韓国の政治、経済、社会、文化、宗教など、各界各層で有力指導者層を形成しました。 言論人兼政治家である張俊河を始めとして、高麗大学総長の金学燁、国務総理の姜英勲、野党政治家の李哲承、韓国人最初の枢機卿である金壽煥、陸軍参謀総長の張都暎、放送作家の韓雲史など、彼らの名簿は大韓民国の人名辞典を彷彿とさせます。

記憶と忘却の政治

解放後、学徒志願兵出身者たちは学徒志願を共通分母に1・20同志会を結成しました。 彼らは自分たちが大韓民国の発展を主導したという自尊心で一杯の、いわゆる「1・20史観」を作りました。 彼らの回顧録は、学徒志願に敷かれた立身出生の名誉欲、もっと楽な軍隊生活、命知らずで行動する赤裸々な欲望を隠蔽しました。 彼らはひたすら日本を「公共の敵」とする民族闘士の顔だけを強調する、とんでもない記憶を作り、広く流布させました。

彼ら学徒志願兵は日帝の欺瞞と扇動にだまされた大馬鹿ではありませんでしたが、「鉄の鎖に縛られて、日本軍に引っ張られていった」という強制労働被害者または「祖国の光復のために献身した民族闘士」では決してありませんでした。 彼らは生まれながらの日本国民であり、幼年期から近代教育を受けながら成長した、事実上の最初の世代でした。その点で、学徒志願制は朝鮮人エリートの近代性を戦時総動員体制に内化する制度的経路だったと言えるでしょう。

当初、彼らは自分たちの赤裸々な出生欲望を、日本帝国に対する忠誠心で包みました。 彼らは国家の命令に対する服従、忠誠、犠牲など、国家主義の精神世界でしみ込んだ忠良なる皇国臣民でした。朝鮮人有力者や資産家層の出身者として、この学徒志願兵は親日エリート世代を代表しました。

解放以降、学徒志願兵出身者たちが形に現した記憶と政治は、一つの大きな虚偽の意識でした。 彼らは、わずか数名の学徒兵で観察されるに過ぎない反日志士の行為を、自分たちが集団で志向していたかのように粉飾しました。 当初、学徒志願行為にしみ入っていた立身出生の欲望は、それによってきれいに隠蔽されました。 

そのような記憶と忘却の政治史は、彼らが指導層として君臨した韓国人の集団心性さえも歪曲したのかも知れません。 今日の韓国人の歴史意識を拘束している反日種族主義は、彼らの偽善的記憶から、その形成の端緒を求めることができます。 2018年、政府が乗り出して、彼らの学徒志願を独立運動にまで格上げすると主張したのは、歴史が政治によってどれほど深刻に汚染されるのかを見せつける教科書的事例だと言えるでしょう。

 以上が、日本語版で省略された「09. 학도지원병, 기억과 망각의 정치사」です。 なぜ省略したのでしょうか? 説明されていないのは何か理由があるのでしょうか?

 次回は、同じく省略された「16」の章節を翻訳してみます。

日本語版『反日 種族主義』で抜け落ちた章節(3)2020/01/26

http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2020/01/12/9200912  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2020/01/21/9204587  の続きです。

 今回は第16章です。

16、亡国の暗君が開明君主に化ける    金容三

亡国の主要原因は外交の失敗

中国の上海で発刊される日刊新聞『申報』は、1910年9月1日、「ああ、韓国が滅亡した」という記事を載せました。日露戦争を美化した「戦雲余録」を書いた日本短歌の巨匠である石川啄木は、9月9日「地図の上朝鮮国に黒々と墨をぬりつつ秋風を聞く」という歌を発表しました。朝鮮はそのようにして滅びました。

朝鮮が滅亡した原因はいろいろありますが、その中でも主たる要因を選ぶならば、高宗と閔妃の外交失敗だと言うことができます。自ら乱世を突破する力のない国は、チャンスを待ってこそ生存が担保されるものです。これが外交と同盟の基本原則でしょう。興味深いことに高宗と閔妃は世界史の覇権勢力(主流勢力、すなわち英国)ではない、覇権に挑戦する勢力(非主流勢力、すなわちロシア)と執拗に同盟を結ぼうと試みて、大勢を見誤りました。

外交に関する限り、国王である高宗は一種の案山子(かかし)であり、王妃である閔妃が1884年半ばから対外問題を左右するようになったのが、隠すことのできない歴史事実です。列強との外交関係は国王である高宗が出て推進しましたが、実情は閔妃の意中が朝鮮政府を代表するものだったのです。

閔妃に接見した西洋の女性たちは、閔妃が聡明な女性だった、優れた知性の持ち主だ、また有能な外交官として朝鮮の外交を主導したという評価を残しました。そうならば、そのような聡明で優れた知性の持ち主だった閔妃が何故あのように、ほとんど病的なくらいに、世界の主流勢力である覇権国ではなく、非主流勢力の側に立つという冒険を持続して推進したのですか?これは一種のミステリーだと言うことができます。

1880年代にロシアが南進を開始すると、朝鮮半島をめぐって英国の代理に日本がロシアと対立する構図が激烈に展開しました。この緊迫した対立から、高宗と閔妃はロシアとの修交、第一次朝露密約、第二次朝露密約を推進して、宗主国の清によって国王廃位されそうになる危機まで追い込まれることもありました。

日本は日清戦争という国運をかけた戦争まで行なって、辛うじて朝鮮半島の支配権を確保しました。ところで日清戦争が終わった後、ロシアの一言に日本がどうすることも出来ず、遼東半島を返還する姿を見た閔妃は、またロシアを引き入れて日本を退ける「引俄拒日」政策を推進しました。

日本が閔妃を殺した理由

外勢は閔妃と大院君の葛藤を利用しました。閔妃がロシアを引き入れ、清と日本を排斥しようとするたびに、清と日本は大院君を全面に押し立てて閔妃を牽制しようとしました。これが閔妃と大院君の対決した大きな流れでした。大院君と閔妃の対決は、義父と嫁の対決、すなわち政治の主導権を誰が握るのかの闘いではなく、清・日と閔妃の対決と見なければ、その本当の意味が理解できません。高宗と閔妃は、ロシアを引き入れて清の圧政から逃れようとし、三国干渉で日本がロシアに屈服する姿を見ては、ロシアを引き入れて日本を拒絶する先鋒に立ちました。

このようになるや、駐朝鮮日本公使である三浦梧楼が日本軍、領事館警察、剣客の浪人たちを動員して、閔妃殺害という極端な選択をします。一言でいえば、閔妃殺害は酒に酔った浪人たちの偶発的殺人事件ではなく、朝鮮半島の支配権を争った日本とロシアの国益がかかった勝負でした。それは朝鮮半島支配をめぐって、ロシアと日本が角逐を繰り広げる渦中に、お互いが全面戦を始めることの出来ない状況から、ロシアと朝鮮王朝の連結点である閔妃を除去する措置でした。日本が閔妃殺害に挑戦するや、ロシアはしばらく後に、国王高宗をロシア公使館に脱出される、俄館播遷(ロシアの公館に朝廷を移す)で応戦しました。

日本の指導部は、朝鮮国王である高宗を閔妃の手のひらで踊らされている孫悟空くらいだと酷評しました。三浦公使の回顧録によれば、「閔妃が女性としては珍しく才能を持った豪傑のような人物」で言って、「事実上の朝鮮国王は閔妃」だと評していましたから。彼の回顧録によれば、三浦公使は時々宮城に参内して見ると、朝鮮の宮中の規則によって、女性が男性に会うことが出来ないようになっていて、閔妃に会う機会がなかったと言います。ところで国王高宗に謁見して対話するとき、国王の椅子の後ろから何かひそひそ言っている声が聞こえるが、よく聞いてみると、それは王妃の声だったというのです。王妃は国王の後ろに簾をかけて、その中から外国公使との対話内容を聞き、外国公使に返事をしていたのです。このような状況接した三浦は、事実上の朝鮮国王が王妃だと主張したのです。

国王高宗が閔妃の指示を受けて外国公使と対話を交わす場面は『高宗実録』を始めとした我が国の歴史記録には全く登場しません。しかし三浦の前任公使だった井上馨の謁見場面でも確認されます。井上公使は高宗に面談する時、いつも内謁見、つまり臣下を退出させて国王と直接対話し、謁見時間は5時間以上になることもありました。井上の高宗謁見記によれば、彼が高宗に謁見する時になれば、いつでも国王が座る後や横に簾が下ろされていて、その中に閔妃が座っていました。閔妃が二人の対話内容を聞いていて、国王に注意を与えたり助言をする声がひそひそと聞こえてくるのでした。そうして対話がうまくいかないと、簾を二・三寸開けて顔を半分ほど出して助言したと言います。  (続く)

【拙稿参照】

日本語版『反日 種族主義』で抜け落ちた章節(1) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2020/01/12/9200912

日本語版『反日 種族主義』で抜け落ちた章節(2) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2020/01/21/9204587

雑感-GSOMIA問題と『反日 種族主義』 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2019/12/11/9187872

強制連行論への批判―『反日種族主義』の著者  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2019/09/24/9157076

朝日「天声人語―行く言葉が美しくてこそ」を読む2020/01/29

 朝日新聞2020年1月26日付の「天声人語」を読む。 尹東柱の詩を取り上げて、最近の日韓関係にまで触れています。  この文の最後にあってコラムの題名にもなっている「行く言葉が美しくてこそ返る言葉も美しい」という韓国の諺について、ちょっと誤解しているのではないかと思い、自分なりの考えを書いてみます。

https://digital.asahi.com/articles/DA3S14341508.html?iref=comtop_gnavi

‥‥ 翌43年、尹は朝鮮独立運動にかかわったとして治安維持法違反で京都で捕まり、終戦の半年前の45年2月16日、27歳の若さで獄死した。日本で書かれた詩は押収され、この手紙に記された5編だけしか見つかっていない

「詩人尹東柱を記念する立教の会」の楊原(やなぎはら)泰子さん(74)たちは毎年、尹の命日のころに大学で朗読会を開いてきた。両国関係がいかに悪化しようと、ことしもまた尹の詩を愛する日韓の人々が集う。「尹東柱は私たちを温かくつないでくれています」と楊原さん

翻ってみて昨今のささくれだった日韓関係は何なのか。巷(ちまた)にあふれる韓国の人々への侮蔑にみちた表現。すさんだ非難の応酬。日本を訪れた韓国人は昨年、前年の4分の3に減ったという

「行く言葉が美しくてこそ返る言葉も美しい」。詩人の茨木のり子さんが『ハングルへの旅』で伝えた韓国のことわざを思い出す。尹の詩をよみ、こうつぶやいてみる。私たちの言葉よ、かの国にとどけ、美しく。

 最後に出てくる諺の原文は「가는 말이 고와야 오는 말이 곱다」で、直訳すれば天声人語にある通りです。 話しかける言葉が優しければ返ってくる言葉も優しくなるという意味ですから、確かにいい諺のように見えます。

 しかし韓国語辞典を調べてみれば、「売り言葉に買い言葉」と説明されていることに注意してください。 これは、相手の暴言に応じて同じような調子で言い返すという意味ですから、いい諺とは決して言えるものではありません。

 つまり韓国のこの諺は「話しかける言葉が優しければ返ってくる言葉も優しくなる」と「相手の暴言に応じて同じような調子で言い返す」との、全く相反する意味を持っているということです。

 これは同じ諺でも、相手との関係によって意味が違ってくるということです。 例えば、信頼関係のある相手にこの諺を使えば、そう言って頂きましたから私もこう言いますとなりますので、親しさが増すことでしょう。 何か悪口を言ってしまった人にこの諺を用いて、優しく言ってあげなさいよと注意することも可能です。

 しかし信頼関係のない相手に、しかも喧嘩している相手なら尚更この諺を使えば、それこそ「売り言葉に買い言葉」となります。 お前が無茶を言うから俺も言い返しているのだという意味ですから、喧嘩がさらに激しくなるでしょう。

 以上を今回の朝日新聞に引き寄せて考えてみますと、天声人語は日韓関係において前者のいい諺として扱い、だからヘイトスピーチなどせずに美しい言葉が韓国に届くようにしようと呼び掛けました。 これは日韓が対等で信頼関係にあることが前提であり、そういう関係であるならば意義のある呼びかけとなります。

 しかし現実の日韓関係は対等かつ信頼関係にあるとは決して言えません。 韓国側の考えは、日本は加害者で絶対的悪、自分たちは被害者で絶対的善であり、従ってそれは対等ではなく上下関係であり、互いに信頼がないということです。 被害者である韓国が加害者である日本に要求することは、自分たちのいう言葉にただひたすら聞き入り謝罪することです。 そのような関係のなかで、日本側が「行く言葉が美しくてこそ返る言葉も美しい」と言うことは、韓国側には「売り言葉に買い言葉」と居直っていると受け取られる可能性があるのです。

 昔、自民党の鴻池議員が韓国訪問時にこの諺を使って物議を醸したのは、こういう理由だからです。 日本が韓国に向かってこの諺を使うのは、ただでさえ信頼関係がないのに更に関係悪化することになりかねないということです。

 日本人にはなかなかいい言葉だと思っても、韓国人にはとんでもない言葉になるかも知れないという例です。 幸い韓国では、この天声人語が訳されて報道されていないからでしょうが、問題化していませんねえ。 

 言葉の行き違いと言ってしまえばそれまでですが、国や民族の違いで意思疎通がどれほど難しいかがお分かりいただけると思います。

【拙稿参照】

韓国の諺の誤解―毎日新聞     http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2014/08/14/7414122