黄光男さんの思い出(2)2020/06/25

 ハンセン病家族訴訟原告団の副団長だった黄光男(ファン・クァンナム)さんは、1970~90年代に民族差別と闘う団体(民闘連)の活動をしていました。 90年代には民闘連の地域代表にもなっていました。

 当時の彼がいつも言うことは、‘自分たちは在日であって韓国人ではない、だから韓国語を勉強する必要はない’ということでした。 実際に彼の韓国語の実力はごく初歩で止まっていて、それ以上学ぼうとすることは全くと言っていいほどありませんでした。 ハングルの字面はちょっと読めるがパッチムは出来ない、そして単語の意味は分からないという状態が長年続いていました。 今もおそらくそうだと思われます。

 「民族」を前面に押し立てて活動する運動団体に所属しておきながら、民族にとって一番重要なはずの言葉を知らないし、覚えようともしない。 そして民闘連に参加したある在日女性が‘今韓国語の勉強に行っている’と言うのを聞いて、‘そんなこと、する必要はない’とかなり強調して言っていましたねえ。 これは私が直接聞いた言葉ですから、確かです。

 結局彼は、本名を名乗りしかもその名前をハングル風に読むということだけで、在日の「民族性」を主張していたのです。 「ハングル風に読む」と書きましたが、彼はハングルの正確な読み方が出来ず、そのカタカナ表記をそのまま読むしかなかったということです。

 民闘連に参加していた在日たちは、彼のようなタイプが多かったですねえ。 彼らは日本社会から差別されているということだけで「民族」を感じるようになります。 差別はどこかにあるはず、それを見つけ出して闘争を行なって「民族」を取り戻すのだ、という考え方になります。 私には馴染めるものではありませんでした。 

 その頃に私は『「民族差別と闘う」には疑問がある』(1993年)を自費出版しました。 黄さんは「ここの民闘連の代表が誰か知っているか。この僕や。この僕に断りもせずに、何であんな本を出したのか」と、えらく怒っていました。 もう25年以上も前の話です。

【拙稿参照】

 黄光男さんの思い出  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2020/06/11/9256337