韓国の特殊詐欺ニュース ― 2020/10/01
9月24日付け『朝鮮日報』で、特殊詐欺のニュースがありました。 https://www.chosun.com/national/national_general/2020/09/24/3PQ74OSLDJAK7CO3IPL24ZBYFY/ 翻訳してみます。 直訳ですので、日本語としてちょっと変なところがあります。
偽の検事室を準備して「画像フィッシング」…遺産・貯金など1億4500万ウォン(約1300万円)むしり取る
ソウル中央地検ユン・ソンホ捜査官です。 お使いになっている市中銀行の通帳が犯罪に巻き込まれています。
去る7日午前、Aさん(25)がかかってきた「発信番号表示制限」電話を受けた時、受話器越しに男がこのように話した。 続いて「〇〇〇さん(Aさん)の通帳が組織詐欺事件で使用されたのか、共犯なのか、情報を盗まれて被害者なのか、明らかにするために検察の捜査を受けなければなりません。」と言った。
Aさんがボイスフィッシングを疑おうとした時、男は「担当検事に繋げますから、無実であることを立証しなさい」と言った。 続いて電話が太い声の男に替わった。 男は高圧的な声で「ソウル中央地検の反腐敗捜査1部、ソン・ジェホ検事」と自己紹介した。 彼は事件概要を説明しながら「主犯をはじめ詐欺組織員28人が検挙された」と言い、「捜査状況を他人に漏らせば“証拠隠滅を試図した”と見なして、48時間拘束して操作することができる」と言った。 次に“ソン・ジョンヒョン検事”という女検事が登場した。
それからも10人余りが電話・カカオトークで連絡をしてきた。 「画像公証」をすると言って、映像通話を通して自分たちがいる「検事室」内部を見せてやり、検事たちの署名・捺印がある公文書を送った。 Aさんの携帯電話に「法務部公証アプリケーション」もダウンロードするように指示した。
実はこれらは全て偽だった。 検事室はボイスフィッシング一党がでっち上げた場所で、「公証アプリケーション」の実際の機能はAさんの携帯電話の使用内訳の一切を一党にリアルタイムで電送するものであった。
しかしAさんはこれに騙されて、三日間ソウル市内の銀行10余ヶ所を回り、1億4500万ウォンを引き出し、「内部捜査担当官」という男性らに直接渡した。 母親の遺産をはじめ、Aさんが7年の間貯めた請約通帳(貯金すれば住宅等が優先的に購入できる)、積立金、保険など全財産だった。 Aさんは「私がボイスフィッシングに騙されるとは夢にも思わなかった」と言った。
詐欺劇は9日、家に帰ったAさんが「騙されている」と確信を持って、隣家の電話を借りて警察に通報して終わった。 次の日に一党がかけてきた最後の電話は「警察に通報したために現在まで進めた略式取り調べは取り消して、直接検察庁に出て来なければならない」というものだった。
この事件を捜査中であるソウル江東警察署は23日「Aさんを騙したボイスフィッシング一党中、一人を京畿道南部の某所で検挙し、防犯カメラ分析などを通して、残りの組織員たちを追跡している」と明らかにした。
手の込んだ特殊詐欺事件ですね。 日本にも、いずれこんな手口の特殊詐欺が現れるのかも知れません。
ところで韓国ではオレオレ詐欺がないようです。 息子や孫に偽装するのが難しいのは、やはり家族関係が濃密な民族性なのでしょうかねえ。
【拙稿参照】
学術会議任命を拒否された加藤陽子さん ― 2020/10/02
日本学術会議が新会員候補として推薦したうちの6人が任命を拒否されたとして、話題になっています。 この6人のなかに日本近代史の加藤陽子さんがおられます。 https://news.yahoo.co.jp/articles/b3ea44d6975191c4cd76487f198c1d5c37923e5b
拙ブログでは7年前ですが、この方について書いたことがありますので、笑覧いただければ幸甚。
加藤陽子「九条放棄されればカナダ国籍を取る」 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2013/09/04/6971199
砧を頂いた在日女性の思い出(2) ― 2020/10/07
http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2020/09/21/9297618 の続きです。
砧をもらった在日一世のおばあさんの話をもう少しします。 1995年の阪神大震災の3ヶ月ほど前に知り合いの在日から、“広い家に一人住まいしている私のおばあさんがいる、もうかなりの年齢で心配だから大阪の私の家に引き取ることになった、その引っ越しを手伝ってほしい”と言われて行きました。
荷物は既にかなり片付いていて、古いミシンなどは古道具屋に売ってしまったとのことでした。 残った荷物を車に載せていると、砧の道具がありました。 コンクリート製の台と二本の砧棒です。 古道具屋はこれの価値を知らなかったらしく、持っていかなかったということでした。 そこで私が頂いたものです。 当時は「洗濯の叩き石と叩き棒」と言っていましたねえ。
それから「砧」に関して資料を集めていたところ、例の阪神大震災が起きました。 地元の郷土研究誌はしばらく休刊となっていましたが、やがて復刊したという話を聞いて、この砧に関する論考をこの郷土誌『歴史と神戸』に発表したという次第です。 その後も「砧」について更に資料を集めて、幾つか論考を発表しています。 拙HP・ブログにも上げましたので、参考いただければ幸い。(下記参照)
ところで先の知り合いの方から、このおばあさんの話を幾つか聞きました。 印象に残っているものを思い出すままに書きます。
おばあさんは洗濯が好きでねえ、一日に二回は洗濯物を打っていたんよ。 嫁に来た時からあったらしく、私の小さい時からずうっと打っていた。 これで打つと、洗濯物に艶が出るんよ。
私が大学に入って、同じ在日の子と友達になって、家に連れてきたことがある。 そうしたら、おばあさんが家の奥に入ったまま出て来ない。 友達が来たんだから挨拶ぐらいしてよ、同じ朝鮮人なんだから、と言うと、ああそうか、だったら安心だ、と言うんよ。 おばあさんは見るからに朝鮮人だし、言葉も朝鮮訛り。 自分が出ていくと、この家が朝鮮の家だと思われるのではないかと心配して、遠慮していたんよ。
そういえば高校の時も友達を連れて来たら、おばあさん、決して出て来ようとしなかったことを思い出した。 朝鮮人と分かったら孫がいじめられると思って、遠慮していたことがその時に初めて分かったんよ。
子供が友達を家に連れてきても、おばあさんは顔を出そうとしなかった、その理由が朝鮮人であることがバレるからとは、ちょっと胸が締め付けられますね。
ところで、このおばあさんの家、元々は神戸港の沖仲士の寄宿舎(いわゆるタコ部屋)でした。 自宅兼寄宿舎ですから、家は部屋数が多く、広々としていました。 寄宿舎はおじいさんが経営していて、おばあさんは飯炊き等の仕事をしていたといいます。
そしてこの家の一角に「在日本大韓民国民団○○支部○○分会」という看板のかかった部屋がありました。 ですから、かつては多くの人がこの家を出入りして、非常ににぎやかだったそうです。 この看板、その時に貰っていたらよかったのに、或いはせめて写真でも撮っていたらよかったのにと反省するところです。 支部名・分会名がもう分かりません。 大震災で家もろとも焼けてしまいました。
民団の分会ですから、どこかに資料が残っているだろうし、ここに出入りした在日韓国人はまだご存命かも知れませんねえ。 この分会の部屋には「権逸」(1960年代に民団団長、そのあと韓国国会議員)の名前の入った感謝状みたいなものが額に飾ってあったそうですが、これは後で聞いた話です。 これなんかも貴重な資料なのですが、もらい損ねました。
ところで「沖仲士」なんて1960年代に消滅しましたから、今は知っている人はほとんど年寄りでしょう。 もう間もなく読み方も含めて歴史用語になるでしょうね。
【追記】 「砧」は日本では明治以降にほとんど廃棄されたため、今では実物を見ることがほとんど出来ませんが、絵巻物や浮世絵、読本の挿図等の絵画資料で様子を知ることができます。 そして韓国でも1970年代以降に廃棄が進み、今は身近に見ることはなくなりました。 以前に日本と韓国の砧の写真や絵画を集めたレジュメがありますので、砧とはどういうものなのかを知りたい方はご参照ください。 http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daihyaku18dai.pdf
【拙稿参照】
砧を頂いた在日女性の思い出(1) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2020/09/21/9297618
第66題 砧(きぬた) http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/dairokujuurokudai
第106題 砧 講演 http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daihyakurokudai
第107題 砧 講演(続) http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daihyakunanadai
第108題 「砧」に触れた論文批評 http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daihyakuhachidai
第109題 ネットに見る「砧」の間違い http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daihyakukyuudai
第114題 韓国における砧の解説 http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/hyaku14dai
第115題 다듬이 http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daihyaku15dai.htm
第118題 砧―日本の砧・朝鮮の砧 http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daihyaku18dai.pdf
角川『平安時代史事典』にある盗用事例 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2007/04/07/1377485
「砧」と渡来人とは無関係 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2007/04/14/1403192
北朝鮮の砧 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2007/12/22/2523671
砧という道具 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2008/01/05/2545952
韓国ロッテワールドの砧 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2010/05/11/5080220
韓国ロッテワールドの砧のキャプション http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2010/05/12/5082741
「砧」の新資料(1) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2012/12/09/6655266
「砧」の新資料(2) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2012/12/10/6656721
「砧」の新資料(3) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2012/12/11/6657527
「砧」の新資料(4) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2012/12/13/6659222
「砧」の新資料(5) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2012/12/14/6659970
「砧」の新資料(6) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2012/12/16/6661166
砧―日本の砧・朝鮮の砧 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2013/07/05/6888511
佐藤春夫の「砧」 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2016/02/05/8008944
砧を頂いた在日女性の思い出(3)―先行研究 ― 2020/10/12
http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2020/10/07/9303008 の続きです。
私が砧について論稿を最初に発表した時(1996・97年)は、朝鮮の「砧」の先行研究は渡辺誠「ヨコヅチの考古・民具学的研究」(『考古学雑誌第70巻3号』)がありました。 しかしこれは「ヨコヅチ」という考古・民具学的遺物を広く集めて比較検討するなかに朝鮮の「砧」の槌があるということだけで、「砧」そのものへの考察ではありません。
先行研究の本格的な論文としては、李哲権「衣を打つ音―『砧』の比較文学的研究」(『比較文学研究64』東大比較文学会)がありました。 しかしこれは文学の面から日本・朝鮮・中国では「砧」にどのような心情が込められていたのかを比較し考察したもので、私の関心のある、形=道具としての「砧」について論じたものではありません。
当時は朝鮮の「砧」の先行研究は以上の二点ぐらいで、他には何かのついでに「砧」にちょっと触れる程度で、「砧で布を柔らかくした」などの誤解したものが多かったですねえ。 「砧」には日本も朝鮮も二種類があって布地によって使い分けるということ、そしてその形がどのように変化したのかを論じたのは私が最初だと思います。
ところで以上の先行研究のうち李論文は朝鮮の砧について、次のように論じています。
こうした細々した仕事(砧打ち)はもちろん母と娘の夜業となるが、これには非常な労力と忍耐が必要であった。 いってみれば、砧は母や娘たちに苦痛をもたらす苦役以外のなにものでもなかった。
朝鮮の民謡に「嫁暮らし」という題で砧が悲しみと苦しみの対象としてしか詠まれていないのも、実はこのような生活の実態と深い関係がある。 したがって、昔の朝鮮の女性たちにとって、砧はある意味で宿命的なもので、短い一生は砧をうつ音の中に消えてしまうといっても過言ではなかった。
それ故、朝鮮文学における砧の詩のコノテーションは、中国や日本文学における砧の詩の場合のように男女の思慕の念や恋慕の情を表わすものに決してなりえなかったのである。
李論文は文学の面から見て「砧」について朝鮮・中国・日本を比較しながら論じているのですが、なるほど、そういう見方もあるのかと勉強になったものでした。 私はモノ・カタチとしての「砧」を追求していたので、このような感想を持つことはほとんどありませんでした。 ですから新鮮に感じたものでした。
ところで私は「砧」の研究について地元郷土誌に発表したと言いましたが、その97年8月号で次のような文で論稿を締めくくりました。
いま日本では朝鮮問題に関心を寄せる人が多いが、それは民族受難とそれに対する闘いの歴史というイデオロギーに重点があるようで、普段の具体的な日常生活に目を向ける人は少ないという印象を持つ。
砧はかつての在日朝鮮人の生活ではごく普通に見られた光景であった。今それが捨て去られ、記憶からも消えつつある。 イデオロギー的な観点からすれば、砧なんて些末で枝葉末節、何と下らなく、つまらないことを研究するのかとお叱りの声が聞こえそうである。
しかし生活という具体性からかけ離れた在日朝鮮人像を描くイデオロギーには、私は大きな違和感を抱く。
20年以上前の論稿ですが、このようにまとめに書いた気持ちは今も変わりありません。
【拙稿参照】
砧を頂いた在日女性の思い出(1) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2020/09/21/9297618
砧を頂いた在日女性の思い出(2) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2020/10/07/9303008
第118題 砧―日本の砧・朝鮮の砧 http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daihyaku18dai.pdf
かつての入管法の思い出 ― 2020/10/17
10月17日付の毎日新聞の「今週の本棚」欄に、中島京子さんが『使い捨て外国人-人権なき移民国家、日本-』という本の書評を書いておられます。 https://mainichi.jp/articles/20201017/ddm/015/070/019000c
在留資格のない外国人を入管施設に長期収容することなども、昨今、批判を浴びているが、本書を読むと、入管の劣悪な医療環境や、家族を引き裂く収容そのものにも、疑問を持たざるを得ない。いずれも「人権と人道」を軽視する姿勢が生み出してきたものだと著者は指摘する。移民を受け入れ、人権を尊重する国にならないと日本に未来はないことを、考えさせられる。
これを読んで、30年以上前ですが、出入国管理制度に詳しい方から聞いた話を思い出しました。 この方は市役所の外国人登録を担当したことをきっかけに出入国管理や難民に関する法律などをかなり勉強したということで、その担当を外れても外国人からの相談に応じておられました。
最初は自分も勉強になるからと気軽に相談にのっていたのですが、無料で動いてくれるという噂が広まったのか、不法・犯罪者までが連絡することもあるなど、段々と深刻な問題にも関わるようになったと言います。 もうやっていられないからと、こんな相談はすべて断ることにしたそうです。
私はそんな方の話を聞いたことがありますから、今度の中島さんの書評を読んでちょっと疑問に感じました。
「在留資格のない外国人を入管施設に長期収容する」とありますが、在留資格がないというのは本来この日本で居住する資格がないということです。 しかし当の外国人が日本にいつまでも住み続けたい、あるいは日本を出たくないと考え行動するというのなら、日本国家の立場からして強制退去か、そうでなければ入管施設に留め置くしかありません。 当人はなぜ正規の在留資格を得ようと努力をしないのか、おそらくは最初から資格を得る見込みがないからではないのか、それは不法行為者であるとか反社会組織に関係していたとかではないのか、という疑問です。
「家族を引き裂く収容」とありますが、家族が有効な在留資格を有し、正業についていて税金もちゃんと納めているなどであれば、家族が保証人となることができますから当人は収容所から出ることが難しくありません。 それが出来ないということは、家族とは既に縁が切れているとか、家族そのものに問題があるとかの事情があるはずです。 そこに疑問点が出てきます。
何年か前に、収容所に長く入っている外国人が、元妻がいて子供もいる、子供には長い間会っていない、収容所を出て子供に会いたいと訴える記事がありました。 元妻も子供も面会に来たことがないのですから、この外国人は家族と完全に縁が切れていると判断できます。 子供に会いたいから出してくれというのは口実でしかないように思われ、私には同情できるものではありませんでした。
ところで30年以上前の当時は、外国人と言えば韓国・朝鮮人が過半数以上を占める時代でした。 在日韓国・朝鮮人は126―2-6や4-1-16-2、協定永住等で法的には永住する権利を有し、日本人と変わらぬ生活を送っていました(今もそうです)。 しかし彼らも外国人ですから、国外に出る時は出入国管理局で再入国許可をもらわねばなりません。 期間は1年です(今は5年)。
ところが国外に出た在日韓国人がこの期間をうっかり忘れることが間々ありました。 特に一世のお年寄りが韓国の故郷に帰ると、居心地がいいのか1年の期間なんて忘れてしまって、ずっと居てしまうのです。 このお年寄りが日本に帰国する段になると、有効期限が過ぎて日本の永住資格を喪失しており、慌てることになります。
日本の空港に着いたら永住資格がなくて入国できず、家族がビックリしてあちこち問い合わせて交渉し、何とか入国できたという実話がありました。 この時の一番有効なことが、家族はみんな正業につき、税金を払い、犯罪者は一人もいない、その自分たちが保証人になるからということでした。
毎日新聞の書評欄を読んで、ちょっと昔を思い出した次第。 評者の中島さんはご自分がこういった外国人の身元引き受け人になって、収容所から出られるように努力をすればいいのに、と思います。
取りとめのない話になりました。
【拙稿参照】
昔も今も変わらない不法滞在者の子弟の処遇 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2020/03/21/9226536
砧を頂いた在日女性の思い出(4)―宮城道雄 ― 2020/10/22
http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2020/10/12/9304894 の続きです。
前述したように、私は在日一世の女性から砧道具を頂いて、朝鮮と日本の砧に関する資料を集め、論稿を発表しました。
ところで「朝鮮の砧」といえば、忘れてはならないのが宮城道雄です。 宮城道雄は明治40年(1907)9月から大正6年(1917)2月までの10年間朝鮮に居住し、その間に邦楽を極め、日本伝統音楽家として数多くの作曲をし、名声を得ました。 そのなかに「唐砧(からきぬた)」という砧打ちをテーマにした曲があります。 そして宮城は日本帰国後も「砧」「遠砧」を作曲します。 これらは今でも筝曲の演奏会などでよく聞く曲です。 お琴を習う人によると、練習曲にもよく使われているそうです。
砧は日本では明治時代に廃れてしまい、砧を打つ音が聞こえなくなりました。 ですから明治27年(1894)生まれの宮城は、日本の砧打ちの音を聞いたことがおそらくありません。 しかし朝鮮では砧を打つ風習が盛んでした。 従って宮城が朝鮮滞在中に作曲した「唐砧」は、朝鮮女性が砧を打つ音を聞いて、それを音楽に取り入れた曲だということが分かります。 その後の「砧」「遠砧」も、宮城が朝鮮で聞いた砧の音をメロディー化したものなのです。
これらの曲を聞いてみますと、砧を打つ場面でテンポが速くなります。 これを解説しますと、朝鮮の砧は二人の女性が砧の道具を間におき、それぞれが両手に砧槌を持って二人同時に交互に打ちます。 だから朝鮮の砧の音は元々テンポが速いのです。 一方日本の砧は、絵画資料しかありませんが、砧槌を片手に持って打ちます。 二人で打つこともありますが、一人で打つ資料も多いです。 従って砧の音のテンポは朝鮮のそれよりゆっくりとなります。 この点からも、宮城の「砧」等の曲のテンポの速さは、朝鮮女性の砧打ちをメロディー化したからだと言うことができます。
ところで朝鮮の女性たちは砧打ちの際に、歌を歌ったりすることはなかったようです。在日一世のおばあさん何人かに砧の話を聞きましたが、歌なんか歌う余裕はなかったという話ばかりでした。 実際に朝鮮の民謡・俗謡などに、砧は出てきませんねえ。 従って宮城が朝鮮の砧の音をメロディー化した最初の人と言えるのではないか、と思います。
しかし韓国・朝鮮人は在日でも本国でも、宮城にほとんどと言っていいほど関心がありませんねえ。 対象的なのは演歌の古賀政男です。 古賀の曲には朝鮮に関係するものは全くと言っていいほどにありません。 しかし何故か、古賀政男は朝鮮に住んでいたことがあるから演歌の源流は韓国だ、などと声高に言う韓国・朝鮮人が目立ちますね。
【拙稿参照(宮城道雄)】
朝鮮で活躍した宮城道雄 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2012/05/05/6435151
ネットに見る「砧」の間違い http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daihyakukyuudai
「演歌の源流は韓国」論の復活 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2012/01/10/6285379
【これまでの拙稿】
砧を頂いた在日女性の思い出(1) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2020/09/21/9297618
砧を頂いた在日女性の思い出(2) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2020/10/07/9303008
砧を頂いた在日女性の思い出(3)―先行研究 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2020/10/12/9304894
土葬と火葬 ― 2020/10/27
10月25日付の毎日新聞によれば、日本に在住するイスラム教徒が墓地に困っているそうです。 イスラム教は土葬文化であり、火葬を嫌います。 彼らは日本で亡くなると教義に従い土葬を望むのですが、土葬する墓地がないという悩みです。 https://mainichi.jp/articles/20201025/ddp/001/040/001000c
国内の信者数が今や23万人に上るイスラム教徒。 「ハラル」などの文化や慣習が少しずつ浸透する一方で、イスラム教徒が困り果てている問題がある。 家族を埋葬する墓がないのだ。 日本で結婚、出産し、定住する人も増えているのに信者用の墓地は東日本を中心に約10カ所あるのみで、神戸市より西にはない。 大分県では墓地の建設計画が住民からの思わぬ反発で頓挫している。 仏教徒は火葬して埋葬するが、イスラム教徒は土葬。 現代の日本ではなじみの薄い土葬への抵抗感や異なる宗教への不安が反発の背景にあるようだ。
イスラム教徒の聖典、コーランでは死者の復活が信じられており、信者の間では生き返るための肉体が必要だとして土葬が選ばれている。 このため、火葬後に納骨する一般的な墓地には埋葬できない。
私はこれを読んで、50年ほど前に関西のある農村地域を定めて、そこでの葬送方法を調査しようとしたことを思い出しました。 というのはその地域では、何十かある「地区」のほとんどが土葬の風習でしたが、一部に火葬の風習のあるところがあったのです。
「地区」というのは、当時は「部落」と言われていました。 いわゆる「部落」は、地縁共同体という意味で当時一般的に使われていた用語です。 昔は日本各地の地域運動会で、「部落対抗リレー」なんてものがありましたねえ。 ですから「部落」はもともと差別用語ではなかったのですが、解放運動の進展によって差別用語化されてしまったと言えます。
調べて直ぐに分かったことは、土葬地区は禅宗や法華宗などの宗派で、火葬地区は浄土真宗でした。 つまり浄土真宗だけが火葬の風習を行ない、その他はどの宗派も土葬だったのでした。 そしてその火葬地区というのは、実は被差別部落(「同和地区」―その昔は差別用語で「エタ部落」とか言われていた)だったのです。
ということは数十の「地区」を有するその地域では、あなたの家は家族が亡くなると土葬ですか、それとも火葬ですかと尋ねることは、あなたは被差別部落の人ですかと聞くことと同じ意味を持つことになるのです。 またあなたの家の宗派は何ですかと尋ねることもまたその地域では、あなたは被差別部落ですかと聞くことと同じになります。
これが判明して、私はすぐさま調査を止めました。 それ以来、土葬や火葬を詳しく調べることはありませんでしたが、関心は持ち続けました。
その頃に、狭山事件の裁判が大きな問題となっていました。 これは埼玉の狭山で起きた強姦殺人事件で、容疑者として逮捕起訴された人が被差別部落出身者でした。 この裁判の過程で弁護側は、被害女性はその地域で一般的な土葬のやり方で埋められた、しかし容疑者は火葬風習の同和地区出身で土葬のことは知らなかったのだから、そんなやり方で埋められる訳がないと主張しました。
詳しいことは別途調べていただきたいですが、私はその話を聞いた時、農村地域では一般的に土葬だが被差別部落だけが火葬であるという風習の違いは、関西のある限られた地域だけでなく、関東でも共通することを知りました。 ということは、これは全国共通するのではなかろうかと思いました。 これはこれで興味深い研究テーマになると思うのですが、上記のようにこれは部落差別問題に直接関わるもので、ひょっとして厳しい糾弾を受ける可能性があります。 だからこそ私は関心だけに留めて、調べることはしなかったのです。
冒頭の、イスラム教徒が墓地に困っているという毎日の記事を読んで、ちょっと昔を思い出した次第。
なおこの記事で、ムスリム教会のカーン・タヒル代表が
昔は日本でも土葬が一般的だった
と言いましたが、私の上記の知識により関西と関東ではその通りだったと言えます。 おそらく九州・大分でも昔は土葬が一般的で、一部被差別部落だけが火葬だったのではないかと思います。
なお以上はかつての農村地域での話です。 京都・大阪などの都会では、火葬・土葬はまた違った様相を示します。 土葬・火葬という葬法の研究は極めて面白いと思うのですが、当時の私はそれをやる勇気がありませんでしたねえ。 部落問題のタブーが薄れてきている今なら、研究する価値があると思います。 若い研究者に期待したいところですね。
最後になりましたが、イスラム教徒の墓地問題が早く解決して、彼らが安心してお墓参りできるようになることを祈ります。