嫌韓は2005年から本格化した2022/04/01

 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/03/21/9474297 の続きで、木村幹『韓国愛憎』を読んでの感想です。

2005年に本格化する「嫌韓現象」の顕在化だ。 この嫌韓現象が起こった理由について‥‥明らかなことは、嫌韓現象の名前の由来ともなった山野車輪『マンガ嫌韓流』がこの年にヒットしたことであり、この作品がこの時点では、先立つ韓流ブームへのアンチテーゼとして位置付けられていた (139頁)

2003年の爆発的な韓流ブームと、05年以降の嫌韓現象の高揚は、韓国に対する日本社会の関心の顕著な高まりを意味していた‥‥ なぜ日本社会はこんなにも韓国に気を向けるようになったのか、この韓流ブームと嫌韓現象という正反対の現象には、実は大きな共通点があるのではないか (141頁)

インターネットの普及を始めとする情報社会の進展で、それまでは韓国語を学び、新聞を購入するなどしなければ触れられなかった情報を、多くの人々が容易に入手できるようになった。 それらの情報は多くの日本人にとっては、それまでアクセスが不可能に近かったものがアクセス可能になったという意味で「新しい」のだ。‥‥ 一見正反対に見える韓流ブームと嫌韓現象は、こうしてこれまで触れられなかった情報に、一般の人たちが降れられるようになって生じた同根の現象なのだ。(142頁)

 嫌韓現象の高揚・本格化は2005年から始まるという説には、成程と思いました。 拙HPは1999年から始まり、2000年4月以降から韓国・朝鮮や在日問題を中心に話題を批判的に提供してきました。 当初はこのことに関心を有している方からの投稿が主だったのですが、2005年以降に急に嫌韓投稿が増えたのです。 それも全くの素人が、まるで在日や韓国の悪いことは何でも知っているぞと言わんばかりの投稿が多かったです。 

 これは上記のように日本国内では、2003年に冬ソナを始めとする韓国ドラマが日本の中高年女性に非常に新鮮に感じられて韓流ブームが始まったのと同様に、2005年からは韓国や在日への批判的説明が新鮮に感じられて嫌韓現象が高揚した、だから在日や韓国の批判すべき点を分かりやすく書いた拙HPやブログへのアクセスが増えたものと考えられます。

 しかし彼らは元々がほとんど素人でしたから、俄か勉強での知識で「特別永住をなくせ!」とか「通名禁止!」とか主張し、甚だしくは「韓国人は死ね!殺せ!ゴキブリ!」とか「ウソつき!」とか叫ぶのでした。

 せっかく韓国に関心を持ったのだから、議論しながら正しい知識を持ってくれればいい、更には韓国文化に親しみ、また在日と知り合って付き合うようになってくれればいいと当初は思ったのですが、これは無駄でしたね。

 そして彼らは正確な知識や情報を得ようとする気が全くといっていい程にありませんでした。 インターネット情報や嫌韓雑誌・嫌韓本に安易に頼るのみで、情報の根拠を確かめようとする気配がありませんでした。 もしそうしようと思えば、図書館に行って専門書や資料集を探すとか、また当然ながら韓国語を知らなければならないのですが、そんな地道な努力が嫌なんでしょうねえ。

 在日や韓国の悪口を言いたくて、その材料を集めることだけに集中しているようでした。 それも長期間、時には十年以上も続く人もいます。 私は「嫌韓偏執者」なんて名付けました。

韓国メディアもこの状況を自らのビジネスのために利用した。 『朝鮮日報』『中央日報』『東亜日報』を始めとする大手メディアの日本語版記事は、実は韓国で掲載された新聞記事をすべてそのまま機械的に翻訳したものではない。 あくまで日本語版の読者が関心を持ちそうな記事を選んで訳したものだ。(143頁)

日本語版読者が好んで読みそうな記事は、大きく二つに分類できた。 一つは韓流ブームに関わる記事であり、ペ・ヨンジュンを始めとする韓国人タレントの動向や最新のドラマや映画の情報が積極的に翻訳された。 もう一つは領土問題や歴史認識問題、さらには北朝鮮との関係の記事だった。(143~144頁)

実のところ日本人読者の関心をより集めたのは、後者の方だった。 だからこそ、韓国メディアは多くの記事のなかから日韓関係に関わる、しかも時に過激なメッセージを持つ記事を積極的に日本語版に掲載した。 韓国の各紙の計算通り、日本人読者はこれに「また韓国が日本を批判している」として飛びついた。(144頁)

当時、ソウルで会った韓国のある新聞のオンライン版開発者は、この状況に対して私に「嫌韓現象のおかげで日本語版は想定以上の業績を収めている」と嬉しそうに話してくれた。 インターネットの普及が日本に先駆けて進んだ韓国では、すでに「紙」の新聞は斜陽産業になっていた。このようななか、インターネットを通して熱心な読者が付く日本語版は、彼らにとって貴重な収入源にまで成長した。(144頁)

 そういえば拙ブログでも、「私は毎日韓国の新聞を読んでいます」と豪語するような投稿をした人がいました。 へー!すごい!とビックリして聞いてみたら、何のことはない、日本語版でした。 何を偉そうなことを言っているのか、韓国の新聞社を儲けさせているだけじゃないか、と思いましたね。 韓国の新聞をそのまま原文で読めるくらいに、韓国語を勉強してほしいものです。

だが当然、そこには副作用があった。 インターネットを介した情報の収集には強固な「選択バイアス」が働くからだ。 日本語サイトを介した韓国からの膨大な情報流入は、人々がますます自らの偏見を強化することに繋がった。 こうして日本の韓国への見方は、この時期、急速にステレオタイプ化した。 韓国に好印象を持つ人々はこれを確認するための情報を探し、韓国に悪印象を持つ人々は批判を正当化する材料を追い求める。 そんな時代となっていた。(144頁)

 要するに、韓流ファンも嫌韓派も、自分に都合のいい情報だけを探し求めているということです。

 ただし韓流ファンは“好きになれば嫌な部分は見たくない”という当然の心理が働いています。 そしてこのことは外国文化を知って自分たちの文化の幅を広げ、日韓友好を促進することに繋がりますから悪いことではなく、称賛に価します。 

 しかし他方の嫌韓派はレイシズム発言を繰り返し、韓国人とのケンカをけしかけ、時には国益を害するような主張をしますから、害悪でしかありません。 その害悪は、韓国における「反日」と同じレベルです。 これは「嫌韓派は韓国化しつつある」「日本の“嫌韓”は、韓国の“反日”と同じ穴のムジナ」と私が言ってきた所以です。 

【拙稿参照】

韓国語のできない嫌韓派  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2019/03/28/9052386

韓国語が出来ずに韓国を論じる人たち http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2019/03/16/9047781

嫌韓派と韓流派        http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/01/17/7540292

水野俊平『笑日韓論』 (続)   http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2014/09/20/7439097

嫌韓派の論者たち       http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2017/10/19/8708360

漢字を廃止した韓国で「知的荒廃」?-呉善花(12) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2014/03/09/7240684

日本人のウソ        http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2013/10/05/7000567

日本統治下の朝鮮は植民地だったのか(1)2022/04/06

 日本は朝鮮を植民地としていない、と主張する人がいます。 私が「植民地時代の朝鮮」と書けば、そのような反応をする人が少なからずいました。 そこで「植民地」についてうまく説明しているものはないかと探していたところ、木村幹『誤解しないための日韓関係講義』(PHP新書 2022年3月)の中に解説がありましたので、紹介します。

日本の朝鮮半島や台湾における支配は、植民地支配ではなかった、という主張がある。 例えばある人たちは、日本の植民地支配下において、一定の経済発展があったことを以て、その支配が植民地支配ではなかった、と主張する。 また他のある人たちは、朝鮮半島や台湾の人々に教育が与えられ、大学が建設されたことを以て、やはり日本の支配は植民地支配とは言えない、と力説する。 そこで強調されるのは、例えば、イギリスのインド支配や、オランダのインドネシア支配などとの相違である。(66頁)

植民地とは何であるかから考えてみよう。 最初に重要なのは、歴史上に登場する「植民地」には実に様々なものがある、ということである。 日本語の「植民地」という語は、英語のcolonyをはじめとする西洋諸語からの翻訳語であり、これらの西洋諸語の語源はラテン語のcoloniaにある(67頁)

日本が朝鮮半島を支配していた時期の日本人は、「植民地」についてどのように理解していたのだろうか。 当時の植民地問題の「専門家」「植民地政策学」研究者である京都帝国大学教授であった山本美越乃は‥‥ 植民地とは、法律上、本来の国土つまり本土から明確に区別され、異なる法律によって支配されている土地だ、ということである。‥‥ そしてそれは当然だった。 時代はすでに20世紀、植民地を有する列強はいずれも、程度の差こそあれ、近代的な法的枠組みを以て統治を行なっていた時代だったからである。(69~70頁)

重要なのは、植民地とは定義上「場所」だということであり、これと区別される「本国」とどう異なっていたかである。‥‥ その「場所」が本国と異なる状態に置かれているとしたならば、近代的な法的枠組みを持つ国家においてその理由は一つしかない。 それは「場所」に本国と異なる法律が適用されているからである。‥‥ 例えば、その「場所」に住む人々が国政に参与することができないような状況に置かれているとするならば、その理由はその「場所」における法律、例えば憲法や選挙法の適用状況が、本国と異なるからである。(70~71頁)

植民地を本国と分ける基準は、どのような法律が適用されているかであり、また適用されている法律を見れば、その「場所」が植民地か否かがわかることになる。(71頁)

 「植民地」は、その言葉の中に「地」という漢字がある通りに「場所」を指します。 それは、同じ国家領土内で本国とは違う法体系で統治される「場所」なのです。 そしてそこには経済的な「搾取」「収奪」は関係がないことを強調しておかねばなりません。

 例えば香港は1999年まではイギリスの植民地でしたが、1960年代から経済が発展し、90年代までには一人当たりのGNPが本国よりも高くなりました。 つまり本国の人間よりも植民地の人間の方が経済的に豊かになっていたのです。 「搾取」「収奪」された哀れな植民地ではありません。 それでも香港はロンドンの議会で制定される法律を適用されず、本国より任命される総督によって統治されていましたから、「植民地」と言うしかありません。 

 ところで日本が統治した朝鮮は、当初より最後まで日本本国から大きな財政援助を受けていました。 つまり赤字経営で日本側からの持ち出しばかりだったのですから、「搾取」「収奪」がなかったと言うことは可能です。 しかしだからと言って、朝鮮は「植民地」ではないと主張する人がいるのにはビックリです。

 朝鮮における行政最高権力者は日本首相ではなく朝鮮総督であり、東京の帝国議会で成立した法律は朝鮮には適用されず、朝鮮からは議会に代表を送ることが出来ず‥‥、正に「植民地」なのです。

(1930年代までの日本本国では)大蔵省においては、朝鮮総督府や台湾総督府、さらには樺太庁などの予算は一括して「植民地特別会計」という名のカテゴリーにまとめられており、これに勤務する官僚も「植民地」官僚と呼ばれていた。 施行される法令は「植民地」法令という形で一括され、整理されることとなっていた。 内務省はこれらの地域について『植民地要覧』あるいは『植民地便覧』を毎年発行し、朝鮮総督や台湾総督は、関東州長官と並んで「植民地長官」と呼ばれ、日本政府は‥これらを集めた「植民地長官会議」をも定期的に開催 (73~74頁)

 このように朝鮮において「植民地」は、当初はごく普通に使われていました。 ところが1930年代になって、「植民地」の代わりに「外地」という語が使われるようになります。

朝鮮半島や台湾に対して当たり前に使われていた「植民地」という表現が、突如として使われないようになり、代わりに「外地」が使われるようになった経緯については、実は日本政府自身による説明が存在する。 外務省条約局が1957年に出版した『外地法令制度の概要』によれば、その経緯は以下のようなものになっている(74~75頁)

外地なる呼称が情報されるにいたったのはそれ程古いことではなく、25年前の昭和4年(1929)、拓務省が設置された頃からであって、拓務省の前身で規模の小さな拓務局時代には殖民地あるいは植民地なる名称をもって海外領域あるいは異法域の代称とした。 ‥‥ 枢密院の審議に上程されたところ、拓殖は拓地植民を意味し‥統治上面白くない節があるとの理由で‥当然の帰結としてその所管地域についても使い慣らされた植民地なる称呼に替え、外地という名が慣用されるにいたったのである。(75頁)

つまりは、1930年代に入ってからの「植民地」から「外地」への用語の変容は、「統治上面白くない節がある」という極めて国内的なそして政治的な理由によるものであり、何かしらの統治の実態の変化を伴ったものではなかったのである。(76頁)

 1930年頃から「植民地」という言葉にはマイナスイメージが付くようになって「統治上面白くない」から、「植民地」を使わないようにした、ということです。 要は単なる言葉の言い換えでしかなかったのです。

 それがいつの間にか「日本は朝鮮を植民地にしたのではない」という主張になってしまったと考えられます。 言葉を言い換えても、植民地として中身は変わらなかったのですがねえ。

例えば、日本による朝鮮半島や台湾に対する支配の特殊性を、その支配下において大きく人口が増えた点に置く人たちがいる。 そこでは人口増加は、即ち、経済発展や衛生状況の好転の証であり、だから同じ現象がなかった欧米諸国の植民地支配とは異なるものだ、というのである。(80頁)

確かに、日本統治下の朝鮮半島や台湾で人口が増えたのは事実である。 それでは欧米諸国の統治下にあった植民地では人口が増えなかったのか。‥‥ 明らかなのは、程度の差は大きく異なるとはいえ、19世紀以降、欧米諸国の支配下に置かれた多くの地域でも、ほぼ等しく急速な人口増加が見られたことである。(81頁)

背景に存在したのは、西洋列強における資本主義と民主主義の発展であった。‥そこには本国の人々が自らの経済的利益のために、植民地経済の活性化を望む状況が存在し、だからこそ民主主義が根付き始めていた西欧各国政府は、有権者の期待に応えて、植民地への積極的な投資を行なった。 結果、この時期の各植民地では本国による「上からの」経済的刺激により、経済が活性化し、それにより人口も増加することになったのである。(81~82頁)

 要するに、19世紀末~20世紀前半に全世界的な資本主義の発展により、世界の植民地の経済も発展し人口も増えたのです。 植民地はそれまで資源略奪的経営だったものが、この時に開発投資して経済発展を図る経営へと変わったのです。 日本の朝鮮や台湾を植民地にしたのは、まさにこの時期に相当します。 日本の朝鮮・台湾は欧米諸国の植民地と歩調を合わせていたのですから、“欧米の植民地とは違う”という主張は成り立ちません。  (続く)

日本統治下の朝鮮は植民地だったのか(2)2022/04/11

https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/04/06/9479114 の続きです。

日本の朝鮮半島や台湾に対する統治は、実は、同じ時期に欧米諸国が行なっていた「他民族支配型」の植民地支配の在り方を詳しく研究し、これを模倣した結果だった‥‥ 例えば、台湾や朝鮮半島の教育制度の整備に当たった研究者であり、行政官でもあった幣原坦は‥韓国が日本に併合された1910年、欧米諸国においてその植民地における教育制度への調査を行ない、その後の朝鮮半島の教育制度の設計に当たった (86~87頁)

明治の日本人は、植民地への支配の在り方のみならず、全てにおいて西洋列強を模範とし、その経験をモデルとして自らの社会を作り上げていた。 そのような状況下で、朝鮮半島や台湾における支配の在り方だけが、西洋列強のそれと大きく異なるものとなることは、最初から考えられないことだったのである。 結果として、教育、法制度、経済等々の全てにおいて、日本の朝鮮半島や台湾における統治は、当時の世界のトレンド(趨勢)を忠実に追うものとなっていた。(87頁)

 日本は明治以来、先進国の欧米に学び、富国強兵に励みました。 日本の国造りのモデルは、あくまで欧米にあったのです。 ですから植民地支配でも欧米に倣うことは、ごく自然な流れでした。 つまり日本の朝鮮・台湾支配は大きくは欧米を見本として遂行し、そこに日本独自のやり方を少し加味したと言えるのです。 やはり“欧米諸国の植民地とは違う”という主張には無理があります。

植民地での経済開発は、19世紀後半以降の西洋列強の植民地支配の大きなトレンドであり、各国の植民地では活発なインフラ整備やプランテーションの設置が行なわれていた。 単純な収奪により利益を上げるのではなく、積極的な投資により植民地経済を大きくし、これによりさらに大きな経済的利益を獲得するのが目的である。(87~88頁)

単純な収奪による利益が一過性のものに過ぎないのに対し、投資を行ない、その経済の拡大により得られる利益は、持続性があり、将来に向けてさらに利益を大きくしていくことができるからである。 その結果こそが‥‥多くの植民地での急速な人口増加や、経済成長にほかならなかった。(88頁)

植民地における開発には費用がかかり、結果として、中央政府と植民地政府の財政的関係は、中央政府側の赤字になることとなった。 これまた日本のみならず、ほとんどの宗主国と植民地の間に見られた現象である。(88頁)

 ここは朝鮮近代化をどう考えるか、論争になる部分ですね。 鉄道・道路・港湾などの交通網整備や鉱山・水力の開発等々、日本は朝鮮を近代化しようと多額の資金を投入してインフラ整備を進めました。 これは欧米の植民地での近代化と軌を一にするものでしたが、植民地支配を受ける側からみれば、「そんなものは搾取・収奪でしかない、近代化の恩恵はなかった」となります。 

 国連が1960年に植民地独立付与宣言を出してから、植民地は不法不当であることが国際的な認識となりました。 それを契機に主にアフリカ大陸で多くの植民地が独立し、主権国家となりました。 搾取・収奪論ならば、独立すれば「搾取・収奪」が止むのですから、アフリカのこれらの国は豊かになるはずです。 しかし実際はそうならず、国は更に貧しくなり、治安が大いに乱れました。 果たして植民地の搾取・収奪論が正しかったのか、疑問になります。

 これは朝鮮でも同じでした。 1945年に日本の植民地から解放されてから、韓国では飢饉が訪れ不安定な国になりました。 もう一方の北朝鮮は経済破綻状態の道を歩み、ソ連や中国の支援がなければ立ち行かない国になりました。 日本の植民地支配が「搾取・収奪」であるなら、独立すれば朝鮮で生産された富は朝鮮内に留まって豊かになるはずですが、南北ともそうはならず、最貧国に数えられるようになったのです。

 韓国が経済発展して豊かな国になったのは、解放後15年以上も経った朴正熙大統領の時代からです。 ですからそれまでの15年間の韓国は国造りに失敗したと言えるし、またそれは1960年の植民地独立付与宣言以降のアフリカ諸国と同じだった、と評価できるでしょう。

 ところで、ここまでは木村幹さんの解説に説得力があり、私も賛同するところです。 しかし次の部分では、疑問を抱きました。

第一次世界大戦にいて多大な負担を強いられた西洋諸国では、植民地からの人的動員が行なわれ、多くの人々が兵士や労働者として動員された。 当然のことながら、動員を円滑にするためには、その対価として彼らにより多くの権利を与えざるを得ず、また宗主国人とともに戦い労働するために、現地住民への積極的な同化政策が行なわれるようになった。(89頁)

西洋列強において、軍隊では植民地出身の将校が出現するようになり、議会においても例外的な存在ながら、植民地出身の議員が登場するようになるのも、正にこの時代なのである。(89頁)

 「現地住民への積極的な同化政策」は疑問です。 第二次世界大戦時において、西洋諸国本国の白人たちが植民地住民である黒人や黄色人種たちを「同化」させようとしたのかどうかという点です。

 私の狭い範囲の知識では、当時の白人たちは有色人種と自分たちが「同化」して一つになるなんて思いも寄らなかったはずです。 果たして、白人の西洋諸国が有色人種の植民地に「積極的な同化政策」を行なったのかどうか、疑問を抱くところです。 

 「軍隊では植民地出身の将校が出現するようになり」は、ビルマがイギリスの植民地であった時代にそんな例があったようです。 ただ疑問があります。 戦場では軍隊は生死を共にするので、例えば戦線において上官が「突撃!」と叫んで最初に飛び出すと、続いて部下の兵士たちがその後に続きます。 しかし果たして植民地出身の有色人種の上官に、本国出身の白人部下たちが付いていったのかどうか。 

 日本の敗戦後、日本人は進駐してきた連合国の軍人たちを直接見ることになります。 その時の黒人兵士の処遇の話を聞いたことがあるのですが、黒人は白人と差別なく対等であったのか、つまり「同化」なんてあり得たのか、と思わざるを得ません。 すると西洋諸国が「(植民地の)現地住民への積極的な同化政策が行なわれるようになった」と、果たして言えるのでしょうかねえ。

 「同化」に対する認識の違いがあるのかも知れませんが、木村幹さんの記述に疑問を抱いたところです。

 なお日本人と朝鮮人は同じ黄色人種で、欧米の植民地の多くで人種の違いが際立つのと違っています。 この点で、日本の朝鮮植民地支配において「皇民化政策」を施行したのは、欧米と違った独特な部分と言えるのではないかと思います。

日本統治下の朝鮮は植民地だったのか(1) https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/04/06/9479114

日本統治下の朝鮮は植民地だったのか(3)2022/04/15

http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/04/11/9480573 の続きです。

 当時の朝鮮人は日本の植民地支配を受けていたために、宗主国の日本人とは義務と権利において差別がありました。

 義務は、何と言っていても大日本帝国臣民であれば当然のことである納税・徴兵・教育の三大義務のうち、朝鮮人には徴兵と教育の二つの義務がありませんでした。(なお徴兵制は終戦直前の1944年に施行された) 義務がないということは、臣民としての地位が低かったという意味になります。

 権利は、植民地であるが故に制限がありました。 まずは参政権です。 朝鮮からは東京の帝国議会に議員を送ることはできませんでした。 なお参政権は属人ではなく、属地主義でした。 ですから朝鮮に住む人は、朝鮮人はもちろん日本人も参政権はありません。 また朝鮮人でも日本(当時は内地)に来れば参政権を与えられました。

 属人主義の差別として、給与差別を挙げることができます。 朝鮮では公務員の給与において、宗主国の日本人には6割の外地手当(加俸という)が出ました。 これは海外赴任手当のように見えますが、朝鮮で生まれ育った日本人でも朝鮮総督府に勤めればこの6割の手当が貰えたといいます。 同じように朝鮮で生まれ育っても朝鮮人にはその手当がないのですから、正に民族差別です。

 朝鮮人校長の学校に若い日本人教師が来て、教師歴20年のベテラン校長と新任教師との給与が変わらない、という話を聞きましたね。 それでも朝鮮人の教師たちは、じっと我慢したということでした。 植民地なのだから仕方ないと言うことは出来ます。 しかし朝鮮人であるということだけで6割もの給与差別があったのですから、今から見ても誉められた植民地支配ではなかったと言えます。 

 また朝鮮に帝国大学をつくったことを自慢する人がいるようですが、京城帝国大学の入学および教授任用で民族差別がありました。 京城帝国大学には、朝鮮人教授はいませんでした。 しかし植民地経営のための人材育成の大学だったと考えれば、教授は日本人教授ばかりで、学生数も成績に関係なく朝鮮人と日本人の割合が決められていたというのは納得がいきます。 つまり高等教育においても、植民地支配の論理が貫かれていたのです。 従って朝鮮に国立大学をつくったことは、今から考えてみるとあまり高く評価するほどのものではありません。

 また朝鮮戸籍と日本戸籍(内地籍)は、厳密に分けられていました。 朝鮮人は日本(内地)に戸籍を移動することが厳しく制限されたのです。 例外は、朝鮮人女性が日本人男性と結婚して男性側の戸籍に入ること、もしくは朝鮮人子弟が日本人の家に養子として入籍することぐらいです。

 日本では一家全体が他家の戸籍に編入してその家の氏を称する場合が可能(例えば、終戦時にA級戦犯だった東郷茂徳は幼少の時に一家が「東郷」家の戸籍に編入された)でしたが、植民地朝鮮人の家は宗主国日本人の家の戸籍に編入することができませんでした。

 要するに、植民地人が宗主国の人間になることを厳しく制限したということです。 ですから戸籍を見れば、朝鮮人か日本人かすぐさま判明しました。 そしてこのことによって権利・義務における民族差別が行なわれていたのです。 これ以外にも、当時の朝鮮に対する差別は探せばいくらでも出てきます。

 これらの差別を解消しようとしたのがいわゆる「皇民化政策」です。 植民地政府である朝鮮総督府は、朝鮮人を完全な「皇国臣民」たらしめる「内鮮一体」を推し進めて、朝鮮人と日本人との差異をなくそうとしたのでした。 この民族差別解消政策が、解放後“民族性を抹殺するものだ”と激しく批判されたのでした。

 差別を放置すれば人間として扱っていないと言われ、差別をなくそうとすれば民族抹殺だと言われる‥‥どっちにしろ、非難を受けるのでした。

 なお民族差別をなくす方向を目指した「皇民化政策」は、1945年の終戦=朝鮮解放により中途半端に終了したことを、念のため申し添えます。

【拙稿参照】

日本統治下の朝鮮は植民地だったのか(1) https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/04/06/9479114

日本統治下の朝鮮は植民地だったのか(2)http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/04/11/9480573

朝鮮総督府における給与の民族差別 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2021/08/17/9411320

植民地朝鮮における民族差別はもっと知られていい http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2021/08/10/9407660

植民地朝鮮における日本人の差別・乱暴 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2021/08/21/9413485

植民地時代のエピソード(3) https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2019/11/20/9179083 

(追記 「東郷茂徳」について)

 東郷茂徳の先祖は文禄・慶長の役(豊臣秀吉の朝鮮出兵)の際に来日した朝鮮人陶工で「朴」を名乗りました。 明治になって壬申戸籍に登載されましたので、当初より日本国籍(内地籍)です。 朴家は西南戦争で敗れて貧窮した鹿児島士族から「士族株」を購入し、「東郷」を名乗るようになりました。 明治19年、茂徳5歳の時です。 朴家が東郷家の戸籍に編入したのです。 これは内地人同士に限り可能だったということですね。

東郷茂徳が名前を変えた理由 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2007/04/21/1453694

民族差別―総督府官僚だった任文桓の回想2022/04/19

 4月15日付の本ブログで、植民地下の朝鮮における民族差別の一つとして、下記のように給与差別があると論じました。 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/04/15/9481866

属人主義の差別として、給与差別を挙げることができます。 朝鮮では公務員の給与において、宗主国の日本人には6割の外地手当(加俸という)が出ました。 これは海外赴任手当のように見えますが、朝鮮で生まれ育った日本人でも朝鮮総督府に勤めればこの6割の手当が貰えたといいます。 同じように朝鮮で生まれ育っても朝鮮人にはその手当がないのですから、正に民族差別です。

 これの裏付けとなる資料として、任文桓『日本帝国と大韓民国に仕えた官僚の回想』(ちくま文庫 2015年2月)を再度紹介します。

 この資料のなかにある「バウトク」は任文桓の幼名。 바위 덕(岩の徳)の意で、この本では自称でこの名前を使っています。 また「昌平」は任文桓の友人の秋山昌平。 任と秋山は同じ旧制六高・東京帝国大学法学部を経て、一緒に高等文官試験に合格し、朝鮮総督府に赴任しました。 親友関係だったので、互いの給与を知っていました。 まずは赴任する際に支給される「赴任旅費」です。

東京から京城までの赴任旅費としてバウトクには70円が渡された。ところが昌平は60円も多い130円を貰った。(223頁)

ある日、六高の先輩である警務課長吉良喜重市が、彼(バウトク)の赴任旅費は値切り過ぎだと、学務課長に文句をつけた。‥学務課長は、本人が承知して受け取ったあとだからを理由に、増額に応じようとしなかった。 ‥‥勝手に金額を決めた‥(225頁)

 赴任旅費には担当官の裁量部分が大きかったようで、その際におそらくは朝鮮人だからという理由で旅費を少なく出したのでしょう。 担当官は、“それで本人が承知したのだから”と言い逃れしたということです。 こんなことを言われても、本人が納得できるはずもないでしょう。 次は「加俸(外地勤務手当)」と「宅舎料(住居手当)」です。

(朝鮮総督府で)バウトクの月給は75円であった。 ところが昌平のほうは、この金額の6割にあたる植民地勤務加俸なるものが上積みされ、その上に、宅舎料なるものまで加給されるので、昌平の給料は130円を上回った。 おかしなもので、バウトクのように日本で勉強して京城に家一軒持たない者には、加俸も宅舎料もくれないくせに、朝鮮で生まれ、そこで学校を終え、京城にある豪華な自宅から通勤する者でも、父母が日本人の原種でありさえすれば‥大手を振って加俸と宅舎料が貰えた。(223~224頁)

こうして出来た昌平とバウトクの月収の差は、たいそうなものだった。‥‥年の暮れに支給されるボーナスも、月収の何割で計算されるので、これにも二人の友人のあいだに大きな差が出来た。(224頁)

 「加俸」と「宅舎料」は、この資料に「朝鮮で生まれ、そこで学校を終え、京城にある豪華な自宅から通勤する者でも、父母が日本人の原種でありさえすれば‥大手を振って加俸と宅舎料が貰えた」とありますように、現地採用でも日本人(当時は内地人)でありさえすれば貰え、朝鮮人には貰えませんでした。 そして東京で採用されて朝鮮に赴任した場合でも、日本人は貰えて朝鮮人は貰えませんでした。

 つまり朝鮮人であるという理由だけで日本人よりも6割も給与が安く、住居手当もないという、明白な民族差別だったのです。 この収入の差は、職場での民族間に微妙な葛藤を生じさせます。

官界というところは、何と言っても月収の嵩が人品を決める標識となる世界であった。 したがってバウトクの下で働いている属僚(部下)でも、原種日本人でありさえすれば、月収は彼(バウトク)よりはるかに多く、彼(バウトク)が日本の名門学校で学び、特待生として優遇され、朝鮮の役人中には例がないほどに優秀な成績で高文(高等文官試験)に合格したと自負してみたところで、彼(バウトク)の部下である原種日本人どもは、鼻の先でこれをせせら笑っていた。(224頁)

かくして、年功序列の厳しい官界の仕来りは、内鮮人(内地人と朝鮮人)間においては完全に乱れ、彼(バウトク)の二年後輩の見習いまでが、彼(バウトク)の名を君づけで呼ぶようになった。(225頁)

 加俸だけで6割、それ以外に宅舎料まで差のある民族差別給与でしたから、朝鮮人が先輩・上司であれば、後輩・部下の日本人は「鼻の先でこれをせせら笑い」「彼(バウトク)の名を君づけで呼ぶ」ようになったということですね。

 また日本では、目下の者が目上の人を「君」付けで呼ぶのは今でも非常識とされます。 植民地時代の日本人と朝鮮人との間では、そういう非常識な関係になっていたのでした。 任が「原種日本人ども」と言いたくなる気持ちは、理解できます。

当時の朝鮮は13道に分割され、全羅北道、全羅南道、忠清北道、江原道の四ヶ道‥の中から二つを選んで、朝鮮人知事に割り当てた。 ところで日本人知事の下にある警察部長は、総督府に提出する書類には知事の決裁を仰ぐことに規定されていたが、朝鮮人知事の部下である警察部長には、その必要なしと定められていた。 馬鹿馬鹿しい話で、朝鮮人知事は部下である日本人警察部長が、自分はもとより他の部下のやっている仕事について、どんな情報を出しているのかいっこうに知らずにいるのである。(227頁)

自分のやっている仕事をくさしている(悪口を言っている)かも知れないこれらの情報は、日に何通となく、自分の首を抑えている総督と政務総監の目にさらされているのだ。‥こんなことが、いわゆる警察情報として‥公然たる行政制度として認められるとなると、驚くほかはない。‥‥内務部や産業部の連中も、(朝鮮人)道知事はそっちのけにして、警察の顔色ばかり気にしていた。(227頁)

 各道の警察情報は、日本人知事さんなら決裁を仰ぐが、朝鮮人知事さんなら知事決裁を経ずにそのまま総督府に送る、というのが制度的に決められていたのですねえ。 朝鮮人知事は自分の知らぬ間に、部下の警察官が書類を上級官庁に送っているのを黙認するしかなかったということです。 こうなると知事の下で働く役人たちは知事よりも警察の顔色を見るようになり、朝鮮人知事は知事としての立場がなくなるのは当然でしょう。 

 以上の実話を聞くと、当時の総督府に勤務する朝鮮人官僚たちは、よくもまあ我慢してきたことか!と感心しますね。 任文桓の本を読んで、日本の朝鮮統治は植民地支配であって、民族差別で貫かれていたことが分かります。

 また差別というのは差別する側では直ぐに忘れるが、差別された側はいつまでも脳裏に焼き付いているということを改めて感じました。

【拙稿参照】

日本統治下の朝鮮は植民地だったのか(1) https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/04/06/9479114

日本統治下の朝鮮は植民地だったのか(2)http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/04/11/9480573

日本統治下の朝鮮は植民地だったのか(3) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/04/15/9481866

朝鮮総督府における給与の民族差別 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2021/08/17/9411320

植民地朝鮮における民族差別はもっと知られていい http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2021/08/10/9407660

植民地朝鮮における日本人の差別・乱暴 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2021/08/21/9413485

植民地時代のエピソード(3) https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2019/11/20/9179083

ウトロと韓国民団を放火した人物―有本匠吾(1)2022/04/25

 2021年に京都のウトロ地区の住宅と愛知の韓国民団建物を放火したとして、「有本匠吾」なる若者が逮捕され、ちょっとしたニュースになりました。 事件の概要はインターネットで検索すれば分かりますが、彼が一体どんな人物なのかに関心がありました。 その情報を待っていたところ、 去る4月10日付けの共同通信に、記者が有本に手紙を出したところ、その返事が来たと報道されました。 返事の全文があればよかったのですが、それは公表されていません。 そこで報道のうち彼に関係する部分を引用し、考察します。   https://news.yahoo.co.jp/articles/d17482d71f1526cd88adc552bdfdc335cd148c2c

「韓国が嫌いだった。日本人に注目してほしかった」。朝鮮半島出身者の子孫が暮らす京都府宇治市の「ウトロ地区」の住宅に火を付けたとして、非現住建造物等放火の罪で起訴された男(22)は、そんな供述をしたという。

有本被告はなぜこのような事件を起こしたのか。記者は勾留先の京都拘置所に手紙を出し、意図を尋ねた。数日後、返信が届いた。「拝復」で始まり「敬具」で終わる便箋5枚。手書きでびっしりと文字を並べ、面会での取材は断るとしつつも、自分の考えを説明していた。以下、誤字と思われる部分などを適宜直した上で引用する。

 以上は、記者が有本匠吾なる人物と関わるきっかけとなった内容です。 彼の供述「日本人に注目してほしかった」から推測すると、自分を認めてもらいたいという“承認欲求”心理なのでしょうかねえ。 それとも“嫌韓の英雄”になりたかったのでしょうかねえ。

被告は手紙の中で、ウトロと愛知での事件への関与を認め、動機をつづっていた。背景として挙げたのは、新型コロナウイルス感染症の影響と、それに対する行政の対応だ。コロナによる就職難と、国による支援制度の不十分さが影響しているのだという。「最低保障であるはずの生活保護すら役所に断られる方が大勢いる中で、日本国籍を持たない在日外国人を変わらず援助し続ける様態に、どれほどの方が不快感を抱いていたことか、当時のネットの声の数々を見た限りでも想像を絶した」と持論を展開していた。

 有本は在日に生活保護がなされることに対し、「どれほどの方が不快感を抱いたことか」。 そして彼はネット情報だけを見て、「想像を絶した」と言っています。 ここから彼は、在日が生活保護を受給する経緯や法的根拠といった基礎的初歩的知識が全くなく、また生活保護を受給している在日の人と知り合ったことも全くないという実態が判明します。

 彼は日常生活で在日と接することがなく、また在日について基本となる知識がないズブの素人の日本人です。 そして接する情報は何かつけて「外国人へ生活保護反対!」を叫ぶネットの匿名投稿だけのようです。 嫌韓派とかネットウヨとか言われる人は、こういうタイプが多いですねえ。 こんなのは日本国民でもごく少数なのですが、ネット情報ばかりに頼っていると「想像を絶する」ほどの多数に見えるということですね。

そして放火に至った心情が述べられる。「多くの人が抱いていたであろう内なる不満や不快を、目に見える対象にぶつけやすい状況にすべく、日本人の大半が嫌悪もしくは迷惑視する韓国人の関連施設に対して事件を、放火を発生させた」

 「多くの人が抱いていたであろう内なる不満や不快」「日本人の大半が嫌悪もしくは迷惑視する」。 上述したように嫌韓派・ネットウヨはごく少数なのですが、有本には「多くの人」「日本人の大半」となってしまい、今度は自分が彼らに成り代わって成敗してやるといわんばかりに、「放火」事件を引き起こしたというわけですねえ。 こんな罪を犯しても、「多くの人」「日本人の大半」は自分を理解し応援してくれると思ったのでしょうか。 (続く)

ウトロと韓国民団を放火した人物―有本匠吾(2)2022/04/28

http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/04/25/9484690 の続きです。

自らについて「右派思想こそあれど、右翼関係者ではない」とした有本被告。人物像をより探るため、記者は西日本にある出身地を尋ね、彼を知る人物も何人か取材した。

返ってきたのは「右翼団体と付き合いがあったとか、そういう思想の発言をしたとかは、全然なかった」「まじめで勉強ができた。学校から帰れば家でじっとしているような、おとなしい子どもだった」「両親に愛されて、田舎で素直に育った。就職先で誰かに影響されてしまったのだろう」といった証言で、事件につながる重要な手がかりはつかめなかった。

 「まじめで勉強ができた」「両親に愛され、田舎で素直に育った」青年が、ネット情報にはまって在日や韓国に敵対心を抱き、放火事件を起こす‥‥。 ちょっと古くなりますが1960~70年代、大学に入ったとたんに投石と火炎瓶を投げる全共闘学生となったかつての若者たちを彷彿とさせます。 昔は先輩や学友からオルグされての変身でしたが、今はネットに接して変身となるようです。

手紙に書かれていた主張には事実誤認や論理の飛躍があり、にわかには理解しがたい。ウトロ地区を指して「不法占有地区を公に周知させる目的」とする一方的な見解も記述されていたが、先に示した通りそうした状態は土地を買い取ることなどによって解消している。日本人の大半が韓国人を迷惑視するというのも根拠がなく、参照した情報として示されているのは、「ネットの声」だけだ。また仮にこのような考えに至ったとしても、放火が許されるはずもない。

さらにこの手紙は一貫して在日コリアンを「韓国人」と書いている。在日コリアンの中には当然、現在の北朝鮮に当たる地域に出自のある人も数多く存在する。南北分断前の朝鮮半島というルーツを大切にし、韓国や日本の国籍を取らず「朝鮮籍」のまま日本で暮らす人々もいる。出入国管理庁によると、その数は21年6月時点で約2万7千人に上る。こうした存在を無視したような書きぶりからも、被告の在日コリアンに対する無理解がうかがえる。

 ここは記者の感想ですね。 有本に対し「事実誤認や論理の飛躍があり」「一方的見解」「根拠がない」「こうした存在を無視」「在日コリアンに対する無理解」と批判を書き連ねています。 正論なのですが、彼は自分こそが正しいと信じ込んでいますから、〝馬の耳に念仏″でしかありません。 だったらどうすればいいのか。 ここが悩みどころですね。 

 彼のような犯罪者を生んだ背景には、在日や韓国への嫌悪を繰り返し呼号する嫌韓派・ネットウヨがいます。 彼らには以前から「在特会」等でみるように犯罪性向があります。 今度の事件はそれが具体的に現れたと見るべきでしょう。 彼らを治安対象とすべき時期に来ているようです。 公安当局は、嫌韓派やネトウヨを監視してほしいですね。

手紙に反省の文言はなかった。事件のターゲットにされた側の人々をどれだけ不安に陥れたのかといったところまで考えを巡らせることは期待できないのだろうか。

 記事はこのように締めくくっています。 有本は自分を正義だと信じ込んでいるでしょうから、たとえ家族等から言われても聞く耳を持たなくなっている可能性があります。 従って期待できるものではないと考えます。

嫌韓派やネットウヨは、在日や韓国に対し「死ね!」「殺せ!」「ゴキブリ!」「帰れ!」「ウソつき!」とかのヘイトを繰り返し、犯罪を煽り立てる嫌韓偏執狂でしかありません。 彼らの中から「有本匠吾」という犯罪者が生まれたのでした。

来月に有本の初公判があるようです。 私が一番注目するのは、彼に同情し支援する人がどれほどの数になるか、というところですね。 ネットに匿名で応援する人は多いでしょうが、実際に裁判所まで足を運ぶ人はどうなんでしょうか。 犯罪性向のレイシストたちがどれほど集まるのか、注目したいと思います。 (終わり)

【拙稿参照】

ウトロと韓国民団を放火した人物―有本匠吾(1)  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/04/25/9484690

ヘイト投稿者への損害賠償請求訴訟 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2021/11/28/9443703

なぜ嫌韓は高齢者に多いのか―毎日新聞 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2019/05/25/9076605

嫌韓を実践するおばあさん     http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2019/04/14/9059752

韓国語のできない嫌韓派      http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2019/03/28/9052386

韓国語が出来ずに韓国を論じる人たち http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2019/03/16/9047781

嫌韓派と韓流派          http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/01/17/7540292

過激な言動は犯罪を生む       http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2013/03/23/6755958

アクセス数の急減           http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2013/04/04/6768285

在特会の行方             http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2013/06/29/6881139

在特会を弁護する人たち        http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2013/07/24/6917763