52年前の帰化青年の自殺―山村政明(1)2022/08/17

 52年前の1970年10月に、25歳の帰化青年が民族に悩んで自殺しました。 その遺稿集が『いのち燃えつきるとも』で、当時として大きな話題になりました。 ベストセラーではありませんでしたが、かなり売れたものでした。 本名は「山村政明」、帰化前の民族名が「梁政明」。 水野直樹・文京洙『在日朝鮮人―歴史と現在』(岩波新書 2015年1月)では、次のように紹介されています。

70年10月には、山村政明(梁政明)が焼身自殺を遂げる。 山口県に生まれた山村は、9歳の時、家族ぐるみで日本国籍を取得し、67年苦学して早稲田大学第一文学部に入学したが、経済的な理由で退学を余儀なくされ、翌68年夜間の第二文学部に再入学した。

大学入学後、学園紛争に関与し、学内自治会を支配していた新左翼系党派(革マルのことー引用者)と対立して登校妨害を受けた。 そういうなかで日朝関係史や民族問題に関心を深め朝鮮人として生きることを決意するが、在日同胞学生サークルからは帰化を理由に拒絶される。 「抗議嘆願書」と記された遺書には党派への批判とともに、自己の国籍と民族にまつわる苦悩が切々と記されている。(以上166頁)

 1970年代の在日の活動団体では、「帰化しても何も解決しない、だから帰化をしてはダメだ」という主張を強く掲げ、その根拠として山村の遺稿集『いのち燃えつきるとも』が取り上げていたものでした。 帰化を考える在日がいたら、この本を突き付けて帰化を諦めさせる活動をしていましたねえ。 

 最近になって、50年以上前の帰化朝鮮人が民族についてどのように苦悩したのかに関心があって、この本を読みなおしてみようと思ったのですが、もう古い本で周囲では誰も持っていません。 そこで図書館でこの本を取り寄せて借りてきました。 『新編 いのち燃えつきるともーある青春の遺稿集』大和出版 昭和50年8月)。 新編が出たくらいですから、当時世間の関心はかなり大きかったようです。

 これは誰か第三者に読んでもらうつもりで書かれた本ではありません。 彼の手記とメモ・ノート、恋人や家族への書簡、大学の学友らに訴える短文で全てです。 この中で、彼が民族に苦悩したという部分を紹介します。 先ずは生い立ちと幼少時の被差別体験です。

生い立ちの頃からふり返ってみよう。‥‥両親は日本帝国主義の暴虐な支配の下に搾取され尽くした祖国を離れて、昭和の初頭の日本に移り住んできた。 両親も過去のことについては語りたがらない。 朝鮮人蔑視の風潮が現在とは比較できないほど強かった戦前社会において、父母の味わった苦しみは私などには想像もできない。 祖国解放の年の6月、私は山口県の片田舎で生を受けたのだった。 その頃父母は小作農として貧しいながら一応の生活の保障を得ていた。 私は7人兄妹の三男として生まれた。 終戦直後の私の幼児期はみじめだったらしい。

ものごころついて近所の子供達と遊ぶようになった私は、まもなく、自分は他の家の子供たちとは差別されねばならないことを知った。 私たち兄妹だけに浴びせられるあざけりのことば「チョーセン、チョーセン」、幼かった私は何のことか分からず、ただ悲しみと悔し涙にくれるばかりだった。

貧しい父母は日夜労働にいそしまねばならなかった。 私たち子供も小さい時から忙しく手伝いをさせられた。 貧しく育たねばならなかった人には理解できるだろう。 他の家の子供達が喜々として遊びたわむれている時、野良仕事やたきぎ取りに小さ身体を従事させねばならない悲しみを。

私は学校が好きだった‥‥私たち兄妹はみんな学科がよくできた。 私などもクラスにいる間は民族的コンプレックスを忘れることができた。 むしろ優越感さえ持ち得た。 小学ではずっと学級委員、中学では生徒会長を勤めたので、みんなから一目置かれていたと言っていい。 少なくともクラスの中には私が朝鮮人であることを面と向かって笑う者はいなくなった。

けれども一歩学校を離れると私は心に武装をしなければならなかった。 たしか小学4年の頃だったと思う。 ある日学校から帰る途中、私は上級の悪童連につかまった。「チョーセン」「チョーセン」。 怒った私は激しく手向かって言ったが多勢に無勢でかなわず、スキをみて逃げ出した。 田んぼあぜ道を三人の上級生に追いまわされ、ついに打ち倒されてやわらかい泥にまみれながら激しく泣いたことを覚えている。 何人かの大人たちがこの光景を見ていても、私の素姓の故にうす笑いを浮かべるだけで、悪童連を制止してはくれなかった。

‥‥中学三年だった姉が、ある時目を泣きはらして帰宅したことがあった。 就職か進学かの相談で職員室に担任教師を訪ねたところ、冷たく言い放たれたそうだ。 「おまえは、他の家のことは違うんだからナ‥‥」。 手をとりあって泣く母と姉を見ながら、私は怒りで身をふるわせたのだった。 (以上、12~15頁)

 こういった被差別体験は、1950~70年代前半に多感な少年期を過ごした在日がほぼ共通して有していると言っていいです。 在日同士が「お前もそうか、俺もそうだった」と互いに共感できるのが少年期の被差別体験だった、そんな体験談を聞かされたのが1970年代だったなあと思い出されます。

 ところで山村が生まれ育った所は山口県です。 その時期の山口県と言えば、思い出されるのは李承晩ラインです。 李承晩ラインが敷かれたのが1952年で、それ以降日韓条約締結の1965年まで続きます。 その間に韓国政府はラインを侵犯したとして日本人漁船員約4000人を拿捕(うち5人銃撃死)し、数年にわたり抑留しました。

 この事件は連日のように報道され、日本人の対韓感情を非常に悪くしました。 山口県の漁民も多くの被害を出しましたから、同県に住んでいた山村一家に対し、周囲からの厳しい目を想像することができます。 ところがこの本では、李承晩ラインには何も言及されていませんねえ。 李承晩ラインによる日本人の対韓感情悪化は、山村に「チョーセン」というあざけり言葉を投げつけることだったのかも知れません。(続く)