在日の古代史(1)―古代渡来人と広開土王碑改竄 ― 2023/07/01
在日総合誌『抗路』10号(2022年12月)に李成市「『在日』にとって古代史とは何だったのか」と題する論稿がありました。 それを読みながら、そういえば昔そんなことがあったなあと思い出すとともに、韓国や北朝鮮の古代史研究は今もそんな状況なのかと感心というかビックリしました。 古代史に関心のない人にはどうでもいい話でしょうが、私には興味深いものでしたので、引用・紹介しながら自分の感想を挟みます。
金達寿の「古代渡来人説」と李進煕の「広開土王碑改竄説」
1972年の高松塚古墳壁画の発見によって、日本は古代史ブームが起きました。 その時、この壁画が百済・高句麗・新羅からの影響があったのではないかとして、韓国や北朝鮮の研究者が来日して日本の研究者らと議論するなど、大いに沸いたものでした。 このように日本古代史において朝鮮半島との関係が大きな話題になった時期と重なるように出てきたのが、金達寿の「古代渡来人説」と、李進煕の「広開土王碑文改竄説」でした。 李成市さんはこの時の状況を次のように説明しています。
当時(1970年代)‥‥戦後にも引きずっていた「日本社会の皇国史観の残滓」「朝鮮に対する先入観」「侵略史観の土壌」等に対し、金達寿・李進煕らの「在日の古代史」は、「東アジアの視野に立って古代日本の実像を考える」ことを熱望していた市民にとって、「国際感覚や世界観、さらには人生観に至る意識革命」をもたらすものと受け止められていたのである。 そのような市民の心情に応えるように金達寿・李進煕両氏は‥‥新たな古代史研究の場を創出し、その中心的な役割を果たした。 (103頁)
古代において日本列島は朝鮮半島から渡来した人々のフロンティアであったということを、地名や神社仏閣の由来から説き起こす金達寿氏の『日本の中の朝鮮文化』は、圧倒的な共感を覚えたに違いない。 戦後の日本社会において不当な扱いを受けてきた在日にとって主客が逆転するような思いを持った人々が少なくなかったのではなかろうか。 (106頁)
李進煕氏の広開土王碑改竄説は、古代日朝関係史の定説は陸軍参謀本部の陰謀に成り立っていたという憶測を導き出しかねず、江華島条約以来、近代日本が行なった植民地支配に及ぶ歴史的な経緯を想起するとき、大いに鼓舞するものであったことは当時に生きる在日であれば、容易に推察される (106頁)
古代史を専門とする一部の歴史研究者以外にとって、(金達寿の)「渡来人」、(李進煕の広開土王碑の)「改竄説」の二つの問題提起は、当時の論調を見てみると、リベラルな立場の人々であればあるほど、疑いようのない主張と取られたとみてよい。 近代日本の歴史そのものが朝鮮人に対する抑圧と隠蔽、排除からなっていたがゆえに、古代史もまた近代朝鮮の植民地化の過程ででっち上げられたとしても不思議はないという憶測に信ぴょう性を与えかねなかったのである。(107頁)
古代渡来人説
古代日本に朝鮮半島からの渡来人が活躍したのは『古事記』や『日本書紀』に記載されていますから、それ自体は歴史的事実として認められます。 しかし金達寿ら「日本の中の朝鮮文化」を探ろうとする運動はその歴史事実を誇張して、渡来人は野蛮な日本に文化を教えて文明化してあげたとまで言うとなると、ちょっと待ってくれと言いたくなります。 そのあたりの事情を、李成市さんは次のように解説します。
もし朝鮮半島の渡来人が日本列島を文明化したということを、当時の歴史的な状況を具体的に考慮することなく、一方的に渡来人の役割のみを強調したとすれば、論理的に考えると、近代日本の植民地支配を正当化することになる‥‥ 朝鮮の近代化は日本人が朝鮮半島に植民地をした結果だという論理とそれほど違いがないことになりかねない。 たとえ先進技術を携えた人々が朝鮮半島から日本列島に渡来して文明化をもたらしたとしても、彼らのもたらした文明を受け止めた日本列島の土着の人々による主体的な受容への努力と、その後の展開があったからであって、むやみに渡来人の役割を過大評価することは列島の人々の主体的な活動を軽視することになる。 (108頁)
渡来人問題‥‥80年代後半のことと記憶するが、8月の光復節が近くなると、南の有力テレビ局各社は競って日本列島の各地を取材し、渡来人の痕跡を訪ねるという番組を制作していた。 日本列島の古代史は、朝鮮半島からの渡来人が作り上げたかのような印象を視聴者に与える構成であった。 このような「渡来人」によって創られた日本古代史のイメージは、今日、南では広く国民に共有されている (114頁)
日本は近代に朝鮮を植民地化しましたが、その時の日本側の考え方が〝文明から程遠い朝鮮に近代文明をもたらせた″で、それを根拠づけるものが〝古代に日本は朝鮮半島を支配した″でした。 金達寿らが言い出した「古代渡来人説」はこれの裏返しで、古代では朝鮮が日本に文化・文明をもたらしたとするものです。 つまり古代では朝鮮人が日本を文明化したという歴史観は、 近代に日本人が朝鮮を文明化したという歴史観と論理的に同じで、植民地化を肯定するものだと李さんは喝破しました。 (続く)
【古代史に関する拙稿】
韓国の伝播論と日本の由来論 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2006/04/26/342428
「百済」の珍説 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2006/05/24/377405
高句麗は韓国か、中国か http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2007/09/22/1812668
古代朝鮮語 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2007/12/08/2481807
高句麗―韓国か中国か http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2008/09/28/3787613
韓国の歴史には楽浪がない http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2010/05/13/5085283
情けない日本の古代史学者 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2010/10/02/5380855
古代文化の記事に「独島(竹島)」が出てくる韓国の新聞 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2012/04/15/6412035
南北国時代 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2013/05/18/6814446
高句麗は北朝鮮でもあり中国でもある http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2013/06/09/6849374
高句麗広開土王碑は全世界人民のもの http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2013/08/22/6954699
「三韓」は朝鮮の国家と民族を表す http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2013/09/10/6977764
韓国・朝鮮の民族の歴史は新しい http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2010/11/20/5521495
韓国・朝鮮の民族の歴史は新しい(2) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/03/21/7594644
任那は歪曲?? http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/04/09/7608023
侵略を正当化したから「任那」はないという主張 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/04/14/7611231
「辰国」とは何か http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/08/07/7726635
韓国中央日報のビックリ古代史記事 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/10/06/7828118
金銅弥勒菩薩半跏思惟像 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2006/10/09/553649
金銅弥勒菩薩半跏思惟像(2) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2014/12/11/7514362
金銅弥勒菩薩半跏思惟像(3) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/10/29/7874375
由来の不明な韓国の半跏思惟像 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2016/07/07/8127143
在日の古代史(2) ― 2023/07/08
http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/07/01/9598436 の続きです。
古代渡来人説の前提となった北朝鮮の古代史研究
李成市さんは、「古来渡来人説」は何も在日の中で突然現れたのではなく、北朝鮮の歴史研究から大きな影響を受けていたと論じます。 北朝鮮の古代史研究について、李さんは次のように説明します。
解放後の北の学界では、古代史が近代日本の植民地支配に利用されたという観点から‥‥いち早く戦前の日本人研究者による学説批判を徹底的に展開していた。 中心的なテーマは二つである。 一つは楽浪郡による420年間の郡県支配(B.C.108~A.D.313年)であり、もう一つは360年代から562年までの200年に及ぶ大和朝廷による朝鮮南部支配(任那日本府)説への批判である。 これらを学術的に否定しなければならないというのが北の学界にとっての絶対的な命題となった。 まさにこの二つの問題は植民地主義克服の象徴とみなされたのである。 (103頁)
解放後の北を代表する研究者である金錫亨氏は‥‥ 3世紀末4世紀初以来、朝鮮半島からの移住系住民が日本列島の北九州、出雲、吉備、畿内の各地に分国を作り、故国と連携を維持しつつ諸勢力が統合されていき、6世紀末7世紀前半に大和朝廷が成立したというものである。 北の学界では、楽浪郡を朝鮮半島の外である遼東半島に位置比定したように、任那日本府についてもベクトルを逆にして、日本列島にこそ朝鮮半島の人々の分国(コロニー)があったとみなすのである。‥‥古代の北部(楽浪郡)と南部(任那日本府)に対する支配を上記のように反論することによって、近代日本歴史学界の古代史を覆そうと試みたのである。 (104頁)
日本の『日本書紀』や『古事記』の歴史書では、神功皇后の三韓征伐説話や任那日本府のように、日本の大和朝廷が朝鮮半島に進出して支配・経営したという歴史が綴られています。 その歴史観は日本が近代に朝鮮を植民地化したことを正当化する「植民地主義」だとして、それを克服することが北朝鮮の古代史研究者の「絶対的命題」だったわけです。
そこで打ち出されたのが「分国論」でした。 それは古代の高句麗・新羅・百済は日本列島内にそれぞれ自分たちの「分国(=植民地)」を置いた、日本古代史料にある「三韓、高句麗・新羅・百済」はこの「分国」のことだ、大和朝廷は列島内の「分国」との交渉をまるで朝鮮半島に進出・支配したかのように史料に記述したのだ、と主張するものです。
同じように中国の「楽浪郡」は朝鮮半島の外あって、今の平壌から出土する「楽浪」遺物はそこに朝鮮民族の「楽浪国」があったことを示すものだとなります。 つまり朝鮮半島では任那日本府や楽浪郡のように他国に支配されたことはなかった、だから朝鮮民族は古代から一貫して自立していた、と主張することによって「植民地主義」の克服を図ろうとしたのでした。 北朝鮮の古代史研究の歩んできた道は、これだったのです。
金錫亨氏の分国論の影響のもとに、金達寿氏は『日本の中の朝鮮文化―その古代遺跡を訪ねて』(1970~1991年 全12巻)を刊行して、古代朝鮮半島から日本列島に渡来した人々の痕跡を訪ねるという著作を次々に発表することになる。 金錫亨氏の仮説があるとはいえ、実際に日本各地を訪ね歩いて、渡来人の果たした歴史的役割を日本人読者に訴求するという大きな効果があった。 さらに重要なのは、従来古代史の学術用語として用いられてきた「帰化人」を、「渡来人」と呼ぶ変えさせる運動を金達寿氏が中心になって展開したことである。 (105頁)
北朝鮮の「分国論」の影響受けて、日本では金達寿が『日本の中の朝鮮文化』刊行し、日本全国を訪ね回ってここにも朝鮮からの渡来人が活躍した、あそこでも朝鮮文化が残っているなどと宣伝したのでした。 この運動の影響は大きく、「渡来人」という言葉が歴史教育でも定着し、日本各地の遺跡の説明版には大した根拠もないのに「渡来人」という言葉が入ることが多くなって、現在に至っています。
破綻した広開土王碑改竄説は韓国で生き残る
高句麗好太王(広開土王)碑はそれまで、日本では古代に大和朝廷が朝鮮半島に進出したと解釈するものだったし、韓国や北朝鮮では日本ではなく高句麗の進出記事と解釈するものでした。 ところが考古学者の李進煕はこのような碑文の解釈どころか、大日本帝国陸軍参謀本部の酒匂景信が石碑に石灰を塗布して改竄したものだという衝撃的な説を発表しました。 これはあまりにショッキングな説だったので、歴史学界だけでなく社会にも広く知られることになりました。 さらに、日本帝国主義は朝鮮侵略のために史料の改竄までするほど卑劣だったという主張につながりました。
李進煕氏は‥‥南北の学者の広開土王碑文の解釈に異を唱え、従来「倭が海を渡って百済・新羅を破り臣民にした」と読まれてきた箇所には、陸軍参謀本部によって広開土王碑が改竄されたとの説を唱えた。‥‥解放後の南北の学者は、それまで「倭が百済・新羅を臣民にした」と読まれてきた文章に‥‥「百済・新羅を臣民にした」のは倭ではなく、高句麗の軍事行動の結果であると解釈した。 しかし李進煕氏はこうした解釈の変更を全く問題にしなかったのである。 そして新説として発表したのが陸軍参謀本部により広開土王碑改竄説であった。 (105頁)
その後、日本と中国の研究者たちが現地調査や各種拓本の比較検討を行ない、石碑改竄はあり得ないと結論づけられました。 李進煕もその後石碑を直接見に行っていますが、改竄説について発言しなくなりました。 李進煕の石碑改竄説は破綻したと言っていいです。 李成市さんも次のように断定しています。
李進煕氏が主張する陸軍参謀本部による「碑石の改竄」「拓本すり替え」などは実在しなかった‥‥この事実は、1980年代以降に続けられた研究によって、国際的に共有され支持されている。 李進煕氏の仮説は成立する余地はない。 (111頁)
ところが韓国では、この改竄説が日本帝国主義の陰謀論として今なお信じられているのです。 李成市さんは次のように述べます。
李進煕氏の広開土王碑改竄説については、日帝陰謀論を増幅させた副作用は取り返しがつかない深刻な問題でもある。 今日、日本と中国の学界では改竄説はほぼ完全に否定されている。 しかし、このたび本稿の執筆のために、改めて韓国で中堅の古代史研究者たちに確認したところ、第一線で活躍している一部の研究者を除けば、ほとんどの研究や一般の国民は改竄説を信じているといってよいという。 改竄説を信じないとしても、碑文には、倭が高句麗の強力な敵として活躍したことを書くはずがないと信じている人は、研究者の中でも大多数である。 こうした歴史研究の基づかない陰謀論がまかりとおってしまう素地を作ったのは李進煕氏の碑文改竄説と言わざるを得ない。 (108頁)
日本帝国主義は朝鮮植民地化のために石碑を改竄したという陰謀論は韓国人の「反日」情緒に合うのか、韓国では今なお根強く残っているようです。 こうなると、事実・根拠に基づく学問的議論が難しいでしょうねえ。 (続く)
【朝鮮史に関する拙稿】
在日の古代史(1)―古代渡来人と広開土王碑改竄 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/07/01/9598436
高句麗―韓国か中国か http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2008/09/28/3787613
任那は歪曲?? http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/04/09/7608023
高句麗広開土王碑は全世界人民のもの http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2013/08/22/6954699
「韓」という国号について(1) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/05/09/7630067
「韓」という国号について(2) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/05/14/7633517
「韓」という国号について(3) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/05/19/7636889
「韓」という国号について(4) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/05/24/7645246
「韓」という国号について(5) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/05/29/7657652
「韓」という国号について(6) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/06/03/7661140
「三韓」の用例(1)―中国古代 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/06/08/7664404
「三韓」の用例(2)―朝鮮古代 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/06/13/7667715
「三韓」の用例(3)―日本古代 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/06/18/7671200
「三韓」の用例(4)―朝鮮古代金石文 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/06/22/7678138
「三韓」の用例(5)―中国古代金石文 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/06/26/7680561
「三韓」の用例(6)―沖縄金石文 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/06/30/7690495
「三韓」の用例(7)―朝鮮王朝実録 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/07/04/7697561
「三韓」の用例(8)―近代日本 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/07/10/7704555
「三韓」の用例(9)―「三韓」で一つの言葉 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/07/14/7707210
「三韓」の用例(10)―まとめ http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/07/18/7709750
「朝鮮」という国号 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/09/21/7802232
在日の古代史(3) ― 2023/07/15
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韓国の歴史研究は宗教裁判と同じ
李成市さんは韓国の古代史研究の状況について、次のように報告しています。
南の歴史学界では、戦前の日本の研究を否定すれば、歴史の真実が現れるといった単純化がまかり通っているところがある。 より深刻なのは、ほとんど歴史研究に対する判断能力を有するとは思えない国会を市民が動かして、研究者たちの長年の研究成果を否定し、その成果物を廃棄処分にするようなことが現実に起こっている。 そうした陰謀論に基づく古代史に対する発想が歴史研究を隘路に陥れているようなところがある。 そもそも歴史現象は複雑であって、遠く隔たった時代の価値観から素朴にその成否を決定できるものではない。 それにもかかわらず、そのような単純化が横行しているのが南北を問わず現在の歴史学界を覆っている雰囲気である。 (109頁)
植民地時代の朝鮮史研究は、日本人研究者がリードしていました。 これには理由があって、李朝時代では朝鮮の知識人たちは中国の歴史に大きな関心があって、自国の歴史にさほど関心がなかったのです。 ですから自国の歴史研究というのは、李朝時代に停滞していました。 そして日本によって植民地化されてからようやく朝鮮史研究が始まったのですが、やはり当初は歴史研究で蓄積のある日本人研究者がリードするしかなかったのです。 そしてその歴史研究の基本は、実証主義となります。
しかしその実証主義的歴史研究は朝鮮植民地化を正当化するものとされて、解放後の韓国でも北朝鮮でも全面否定されることになりました。 そのため歴史資料を綿密に検証してあらゆる角度から検討する実証主義よりも、まずはそれまでの日本人の研究を否定して、自らの歴史観・歴史像を打ち立てることから始まるという極めてイデオロギー的な歴史研究が跋扈するようになったのでした。 韓国の歴史の本を読んでいると、「実証主義」という言葉が否定的に使われるのに出くわして驚かされますが、それはこんな事の次第によるのです。
実証主義から離れてイデオロギーまみれとなった歴史は単純なものとならざるを得ず、李成市さんはそのあたりの事情を「そのような単純化が横行しているのが南北を問わず現在の歴史学界を覆っている雰囲気」と言っています。
解放後の南の歴史学界では『三国史記』が民族資料として、いわば聖典化され、いわゆる初期記事は、考古学や人類学の無媒介な援用によって歴史的な事実を伝える貴重な資料であるとして重視する傾向がある。 また、戦前の日本人研究者は、実証史学という方法論によってわが国の古代史を歪曲したということをもって、歴史史料を実証的に研究するという方法論(実証主義)は植民地史学である批判が歴史学界や市民の間に広く浸透している。 (109~110頁)
(歴史研究は)史料に記された記述をまずは疑ってかかることから始めなくてはならず、1145年に編纂された『三国史記』の史料批判(吟味の手続き)は必須である。 とりわけ『三国史記』の五世紀以前の記述は極めて簡略であり、史料批判は容易ではない。 逆にそのような手続きを咎めるような学問は、研究ではなく宗教学といわなければならない。 「聖典」に対して疑いを差し挟むような者はけしからんというのであれば、中世の宗教裁判と違うところはないであろう。 (110頁)
李成市さんは、韓国では『三国史記』が史料批判もされずに聖典化されている現状を報告しています。 「史料批判」とは結局「実証主義」と同義なのですが、これをしようとしない学問は「研究ではなく宗教学といわなければならない」「中世の宗教裁判と違うところはない」と厳しく批判しています。
おわりに
李成市さんの結論は次のようです。
近代植民地主義のトラウマを古代史研究に持ち込むことは、学問的営みとはかけ離れた行為となる可能性がある。 トラウマが精神的な症例であるとすれば、そのような行為はあえて病的な行為としてその治療に取り組まざるを得ない。 (115頁)
韓国の歴史研究を「トラウマが精神的な症例」「病的な行為」とは、ビックリするほどの厳しさですね。 そして李成市さんは「その治療に取り組まざるを得ない」と宣言しておられています。 ここは大いに期待するところです。 (終わり)
【古代史に関する拙稿】
在日の古代史(1)―古代渡来人と広開土王碑改竄 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/07/01/9598436
在日の古代史(2) https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/07/08/9600251
『韓国・朝鮮史の系譜』(1) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2013/05/02/6796822
『韓国・朝鮮史の系譜』(2) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2013/05/04/6798932
『韓国・朝鮮史の系譜』(3) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2013/05/07/6803186
『韓国・朝鮮史の系譜』(4) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2013/05/10/6805823
『韓国・朝鮮史の系譜』(5) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2013/05/13/6809067
尹健次さんの北朝鮮密航 ― 2023/07/22
在日二世の尹健次さんは、近代日朝関係史や在日問題に関する研究者で、かなりの本を出版されています。 また在日総合誌『抗路』の編集・発行人をしておられます。 なお尹さんが書く文章は時系列でなかったり脈絡が急に変わったりして、私には筋道立っていないと感じられて読みづらく、これまでいつも軽く読み流しするだけでした。
ところで最近の『抗路10』(2022年12月)に、尹健次さんの「死に向き合う」という一文があり、いつものように読み流していたのですが、そのなかに次のように北朝鮮に密航したという思い出話があり、へー!と驚きました。
東京の大学院に合格したとたん、総連中央のある部署の幹部が私に接触してきた。 東京に出たら今までの付き合いをすべて断ち切って一人で勉強しろと。 大学四年生になってやっと仲間ができはじめたと思った矢先である。 当時はよくわからなかったが、何のことはない、私を韓国に送る「革命家」に育てようというのであった。 のちに北にも密航して軍事訓練めいたものも受け、工作活動を教え込まれた。 まあ今から思うとちゃちなものだったが、青春の三・四年間、それで人生を棒に振ったと言ってよい。(219~220頁)
学生時代に留学同の集会で一・二度会ったことのある妻は、私が「革命家」「工作員」だと知っていた唯一の人である。 東京に出て四年くらいして、総連本部にいた彼女は都営バスの中から私を見つけて、飛び降りてきた。 それ以来四〇年、二人は親にも、子どもにも何も言わずに暮らした。(220頁)
尹さんは1944年生まれで、北朝鮮に密航したのは大学院生のころと推定できますから、それは1960年代後半から1970年代前半までの間のことと思われます。 そして「青春の三・四年間、それで人生を棒に振った」にある「それ」というのが、北に密航して訓練を受けた「革命家」「工作員」活動を指すようです。
この時期に、在日が北朝鮮に密航した事例はいくつか確認できます。 一番有名なのが徐勝さんで、1967年と1970年の二回、北朝鮮に密航したことを自ら明らかにしました。 それから「11・22学園浸透スパイ事件」の金哲顕さんは、1970年前後に秋田から密航船で北朝鮮に渡ったことをインターネット上でも明かしました。 なお今はそれが閉鎖されて見られなくなっています。
ある在日がごく親しい人に「実は昔、北朝鮮に行ったことがある」と告白した、という話は時おり聞きますね。 それらもたいてい1970年前後のことだったという話でした。
今はもう存在しないと思いますが、朝鮮総連内に「ハクスプチョ(学習組)」という秘密組織がありました。 総連に関係したことのある人から、〝総連活動家には金日成のためなら本当に命をかけるような人がたくさんいる"と聞いたことがあります。 それがハクスプチョで、そこの人たちもおそらく北朝鮮に密航して訓練と教育を受けたのだろうと思ったのですが、どうでしょうか。
なお当時、北朝鮮への密航は在日だけでなく、日本人もあったようです。 北朝鮮に興味を示し朝鮮語を学ぶ日本人に対し、朝鮮総連の活動家が北朝鮮に行くことを勧めることがあったからです。 その日本人とは他ならぬ私で、20年前の拙稿で次のように思い出を語ったことがあります。 http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daiyonjuunanadai
(1970年代初め)朝鮮語を学び始めた時、総連の若い男性がやってきて「朝鮮に興味があるのですか。北朝鮮に行ってみませんか。」と言ってきた。
「一度行ってみたいと思うが、日本人で北朝鮮に行った人は年に数人ぐらいしかいない。日本政府がなかなか許さないでしょう。難しいでしょう。」と答えると、「だいじょうぶ、私にまかせなさい。行かせてあげますよ。」 「もっと朝鮮語や主体思想を勉強してからでないと、行っても仕方ないでしょう。」と、その時は断った。
その人が「行かせてあげる」と自信をもって言った態度が忘れられない。北朝鮮へ行くのに正規でない不法なルートがあると思わせるもので、当然それは日本に潜入した工作員によるルートだろうとおぼろげながら感じたものだった。
これは今でも鮮明に覚えている思い出です。 北朝鮮に関心を寄せた日本人を北に送り込むというのは、当時の総連のやり方だったのでしょう。 もしその時に本当に北朝鮮に行っていたら、そのまま拉致されていたかも知れませんねえ。 拉致問題の経緯を見ると、北朝鮮に関心を寄せたことが契機となって北に行くことを誘われたという拉致被害者がいました。 今考えると、私はあの時に断っていて本当に良かったと思います。
尹健次さんの一文を読み、ちょっと昔を思い出した次第。
【拙稿参照】
徐勝さんは二回も北朝鮮に行った http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2017/12/23/8753413
水野・文『在日朝鮮人』(20)―南朝鮮革命に参加する在日 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2016/09/08/8173965
第58題 在日韓国人政治犯救援活動 http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daigojuuhachidai
1970~80年代の韓国民主化連帯闘争 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2011/01/16
指紋押捺拒否運動への疑問 http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daiyonjuunanadai
在日のアイデンティティは被差別なのか―尹健次 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2021/06/12/9387023
『労働新聞』の論説―朝鮮戦争70周年(1) ― 2023/07/27
1950年6月25日から始まった朝鮮戦争は1953年7月27日の休戦協定が結ばれて、一旦終わりました。 終わったといっても休戦協定であって、平和条約ではありませんから、戦争は一時中断という状態です。 ですから今日の7月27日は、朝鮮半島では戦争中断処置によって曲がりなりにも平和状態となって70周年の記念日ということになります。
北朝鮮では朝鮮戦争をどう考えているか、これを知るにはやはり北朝鮮の文献を読むのが一番です。 北朝鮮の労働党機関紙『労働新聞』7月24日付けの論説に、この戦争についての考え方が発表されていましたので、翻訳してみました。
北朝鮮で公開される文章には独特の言葉遣いがあり、また検証されていない「事実」が並べられ、そして感情のこもった修飾語が大量に繰り返されますので、理解するのがちょっと難しいですね。 北朝鮮の人びとはこういう表現に慣れているのでしょうが、そうでない私たちには読むだけで一苦労です。
それでも隣国ではこのように考えているのかを直接触れて知るのは、無意味なことではないと考えます。 そしてこれを知った上で、時々テレビなどで流れる北朝鮮のニュースを見たり聞いたりする時に、ニュース解説する専門家の言っていることに理解が深まるのではないかと思います。 逆に、この人専門家とされているけどちょっと違うのではないか、というように専門家もどきを見破ることもできます。
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論説 偉大な戦勝の歴史的意義は永遠不滅である 祖国解放戦争勝利70周年に臨んで 2023年7月24日 <労働新聞>1面
帝国主義の強敵を打ち破った勝利者たちのときの声が、全国を震えさせ、すべての惑星が英雄朝鮮の戦勝神話に対する驚嘆で沸き立った歴史のあの日から、もう70年の歳月が流れた。
世界戦争史にその前例を探すことのできない衆寡敵せずの熱戦で、祖国守護者たちは重大な時代的使命感を自覚し、我が祖国の尊厳と自主権だけでなく、世界の平和と安全を血でもって守り、広い未来を開いた。
時代は前進し、闘争目標は比類ないほどに高くなったが、私たちの革命の階級的性格は変わらなかった。アメリカとその追従勢力の挑戦は日増しに増えて、条件と環境は依然として厳しい。祖国と革命の前に、時代と人類の前に、我が人民が担う栄誉的で重大な任務も変わっていない。
敬愛する金正恩同志の領導に従って、社会主義建設の全面的発展のための壮厳な進軍を推し進めている今日、最も尊厳ある試練のなかでで争取した偉大な戦勝を振り返って、その意義を再び心に刻むことは、我々の時代において英雄的偉功を創造することができる思想精神的なやり方をしっかりと準備する重要な契機となる。
祖国解放戦争勝利の歴史的意義は、我々すべてが一つの信念を持たねばならず、何を守り、どんな人生観、未来観で闘争せねばならないのかを生き生きと教えてくれ、偉大な新しい勝利にも導いてくれる。だから勝利の7・27の意義は巨大だったのであり、今日も限りなく膨らんでいくのである。 (続く)
『労働新聞』の論説―朝鮮戦争70周年(2) ― 2023/07/31
https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/07/27/9605137 の続きです。
普通の人なら、何を言っているのかさっぱり分からず、退屈するでしょうねえ。 しかし隣国を知るには、このような独特の文体・表現を読まないわけにはいかないのです。 隣国に対し何か言いたい人は、こんな文章を読んでから言ってほしいと思います。 相手方に関する基礎的知識も知らずして、偉そうに意見を言うべからず、ですね。
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敬愛する金正恩同志におかれては、次のように仰られました。
《偉大な首領、金日成同志の賢明な領導の下に、わが軍隊と人民は祖国解放戦争で力において対比できない強大な敵、世界〈最強〉を誇るアメリカ帝国主義を打ち勝つ歴史の奇跡を作り上げた。》
戦争は一つの国、一つの民族において存亡を占う最悪の全面的試練である。この時に、人民の運命開拓精神の高さと政治、軍事、経済力の総体である国力の深度が明確に検証される。比べられないほどに優勢な大敵に立ち向かい、最悪の条件と環境で勝利を収めた国家と人民こそが最強の精神力と国力を持っていると堂々と自負することができる。
70年前の祖国解放戦争は、立ち遅れていた植民地半封建社会の位置から抜け出したばかりの新朝鮮が帝国主義列強たちを先頭に、膨大な侵略勢力に立ち向かわねばならなかった、余りにも辛い大乱であった。わが民族史に、強大な外来侵略者たちに抗した例は一度や二度ではなかったが、この時のように約20カ国の多国籍武力と熾烈な血戦を行なったことは今までになかった。
アメリカ帝国主義が、朝鮮の運命は《72時間以内に決着》するだろうと大言壮語していた戦争が、2万7千時間以上も続き、ついにわが国と人民の痛快な戦争勝利で終わったことは、世界の予想を完全にひっくり返した天地異変とも言うべきものであった。その時に外国のある言論は《すっかり凍り付いて満身創痍となって失うところだったアメリカの〈大きな拳〉と、世界の賛嘆の声を集めて勝利の壇上に上った共和国の〈小さな拳〉! 大きいが弱い理由、そして小さいが強い理由は果たして何か?》と大書特筆した。
我々の勝利は本当に値打ちの高いものであった。戦争の3年間、人間の皮を被ったアメリカ帝国主義の野獣のような蛮行でもって我が人民が被った精神物質的被害は、天文学的な金額になる。この国のすべての家庭が血の涙に濡れ、多くの肉親たちが離れ離れになり、全国が灰の山となった。しかし我々は戦争の勝利を通して、失ったものよりもっと貴重で多くのものを得て、最大の国難を前進と発展の跳躍台に反転させた。
祖国解放戦争の勝利が持っている意味は、何よりも共和国の尊厳と名誉、自主権を死守し、自主的発展環境を守り抜いたことにある。
偉大な首領様におかれては、事大と亡国にまみれた民族受難の歴史と人民の念願、時代発展の推移を深く洞察されたところに基礎にして、新しい形の自主独立国家、朝鮮民主主義人民共和国を創建された。我が共和国は創建されたその日から、すべての路線と政策を我が人民の利益と我が国の実情に合わせて策定実施し、強力な自立経済と自衛力建設を力強く推進した。
アメリカ帝国主義とその走狗たちの武力侵攻は、自主、自立、自衛の旗を高く振る我が国においては初めての困難だった。また再び帝国主義の植民地になるのか、そうでなければ自主独立国家の尊厳を守るのかという運命的な戦争で歴史的な快勝なすことによって我が共和国は血でもって争取した民族的独立を固守し、解放後に達成した民主改革と新祖国建設の成果を守護し、国家活動で自主性をたゆまずに堅持できるようになった。我が党と人民は国家建設の最初から主体的な力を強化してきたところに創建されてわずか2年もならなかったが、腹を据えて帝国主義の輩と真っ向勝負することができた。他人の援助には限界があるものだ。我が力が強くなかったならば、世界平和愛好力量の支持声援も期待できなかったのであり、停戦協定で我々の要求を全面的に貫徹することもできなかったのである。
国家が存立して自主的に発展しようとするなら、自由な生を享受する人民があってこそできる。数千万の人びとの生命と貴重な国土を守り抜いた祖国解放戦争の歴史的勝利でもって我が国家は自主の軌道に乗って、たゆみない前進をすることとなり、人民の無限の創造的知恵と力、豊かな自然資源に依拠して自力繁栄を成し遂げることができるようになった。
祖国解放戦争の勝利が持つ意義はまた、戦後の我が国の社会主義革命と建設の偉大な新しい歴史を方向付けることができるところにある。
自主性を完全に実現することは、人民大衆の最高の理想であり、その世紀的な宿望と理想を争取する唯一の道は社会主義にある。社会主義革命と建設は人類の歴史上最も深刻な社会的変革であるだけに、それを遂行しようとするならば自身の強力な革命的力量と前提条件が準備されねばならない。
帝国主義という強敵を踏みつぶすという大変難しくて複雑な戦争の行程で、革命の参謀部である党が組織思想的にさらに強化され、人民政権が固く団結し、豊富な実践経験を所有する核心幹部たちが育成された。特に我が人民の政治的および階級的覚醒が非常に高くなり、思想意志も強く鍛錬された。偉大な首領におかれて教示されたように、過去の朝鮮人民を鍛錬されていない《軟鉄》と言うならば、戦争に勝った朝鮮人民は電気炉で鍛錬された《特殊鋼》と言うことができる。実にこれは、戦争過程で成し遂げられた一番大きな勝利であり、革命を続ける一番大きな元手であった。
生産関係の社会主義的改造は、都市と農村で長い歳月行なわれてきた個人経済を集団経済に改造する歴史的変革であるので、その準備作業を着実にして、有利な前提条件と十分な経験を積むことが切に望まれる。偉大な首領様の先見の明ある領導のもとに工業と農業、商業部門などで社会主義経済の形を拡大するための準備作業が積極的に推進された。戦後、そのように短い期間に復旧建設を終わらせて、遅れることなく社会主義革命を遂行し、不敗の社会主義国家を勢いよく打ち立てることができることは、苛烈な戦争の時期に至るための主体的力量と土台を準備する作業を予見しながら推進した偉大な首領様の賢明な領導を忘れるなんてことは考えられるものではない。
祖国解放戦争勝利の意義は、また我が祖国と人民が永遠に勝利できる、誇り高い伝統と価値を調えることにある。
他のことでは偶然にあり得ても、力と精神力の対決である戦争では偶然というものはあり得ない。優勢な強敵たちを続けざまに打ち勝ったならば、それは偶然ではなく必然である。困苦の抗日大戦で輝く勝利を収めたのに続き、峻烈な祖国解放戦争でアメリカ帝国主義を首魁とする帝国主義列強を屈服させることによって、反帝対決戦での百戦百勝は我が人民の誇りある伝統として盤石に定着した。この特別な伝統があることによって、これまでの時代の1950年代から今日まで英雄朝鮮は大きな力を信じて、のさばっている《悪の帝国》を一歩ずつ痛快に縮み上がらせ、アメリカはビクッとするたびに我々からひどい目に遭うという恥と汚辱の歴史を繰り返している。
人民抗戦である革命戦争の輝く勝利は、人民の思想精神力を最大に噴き出させる起爆剤である。祖国解放戦争で、首領決死護衛精神、愛国主義精神、英雄的犠牲精神を核にする祖国守護精神が作られる全人民的な思想感情に昇華されることによって、以降共和国の前進の道には千里馬の高調、速度戦の時代、社会主義強国建設の新時代の誕生という奇跡的異変が連続多発的に起きることになった。
一言で言うと、我々は祖国解放戦争で自主の城塞、人民の新しい国を守り抜き、さらに強大で繁栄する主体朝鮮の明るい未来を思い描いたのである。 (続く)
【拙稿参照】
『労働新聞』の論説―朝鮮戦争70周年(1) https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/07/27/9605137
今日は「太陽節」-朝鮮総連に教育費2億7千万円 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/04/15/9577360
【参考】
韓国の保守有力紙である『朝鮮日報』の7月27日付けに、「7月27日は北朝鮮の戦勝節だって? 韓国軍・国連軍の「自由陣営」が勝利した日【記者手帳】」と題するコラムが出ています。 https://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2023/07/27/2023072780002.html
この記事を参考にしながら、『労働新聞』の「論説」を読むことをお勧めします。