金時鐘氏はどういう言葉を使ってきたのか?(2)2024/08/04

http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/07/30/9705285 の続きです。

解放直後の言語状況は?

 1945年8月15日、日本は敗戦し、朝鮮は「植民地統治の頸木から解き放たれます」(78頁)。 金時鐘さんは民族性を取り戻すべく、行動します。

何はさておいてもまずは「国語」(朝鮮語)を身につけねばと、腕章姿もりりしい白順赫君を訪ねていきました。 ‥‥(済州)城内には早くも国語学習所が四ヵ所ほど昼夜別々に開設されていて、習熟度に合わせた講習会が進んでいました。 学校(光州師範学校)に戻るまでには基礎文字の「가갸表」くらいは覚えようと、年齢もまちまちの男女でにぎわっている初級班の学習に、恥ずかしさを押してかけもちで通いつめました。 ‥‥発奮して集会に行き、学習所に通い、ひと月近く息もつかせぬほどの忙しさのなかで国語の勉強に明け暮れました。 (84~86頁)

やはり国語(ハングル)の履修には骨が折れました。 ハングルの綴字法と文法、発音は金イジュという「朝鮮語学会事件」に連座させられていた先生といわれる、40代半ばのもの静かな国文学者でしたが、平素の穏やかさとはうらはらに授業となるとねちっこく問い詰めてくる、こわい女の先生でした。 私が済州弁という独特な発音の世界で育ったせいか、とりわけ「ㅚ」という単母音の発音が不得手で、唇がとんがってしまうぐらい特訓させられました。 (105頁)

 解放後はさすがに日本語を使うことはなくなり、金さんは朝鮮語の勉強にまい進します。 といっても彼が日常に話してきた朝鮮語は済州島の方言で、朝鮮語の読み書きができませんでした。 ですから標準語としての朝鮮語の勉強には苦労したようです。 「가갸表」という、日本語の五十音表にあたるハングルから覚えねばなりませんでした。

 それから彼は朝鮮労働党に入って共産主義を学んだといいます。 おそらく朝鮮語は、家族や友人などの親しい人との会話では訛りの強い済州弁、見知らぬ人との会話とか何か改まった場面では標準語と使い分けていたのではないでしょうか。 だから共産主義を学び活動する時は朝鮮語でも標準語を使っただろうと思われます。 これは、日本でもかつて左翼知識人たちは日常会話は方言でも、マルクス・レーニン主義などを論じる時には日本の標準語を使っていたことから推測したのですが、おおむね間違いないと考えます。

日本密航後の言語状況は?

 金時鐘さんは1949年6月に日本へ密航します。 その時以来の彼の言語状況について、著作では特に語っていません。 ですからある程度推測を交えて話すことにします。

 金さんは1945年の解放(=日本敗戦)までは皇国少年としてきれいな日本の標準語を駆使していました。 それから解放後4年経って日本に密入国しました。 この時までの4年間は日本語を使わなかったでしょうが、子供の頃からあれほど完璧に日本の標準語が使えていましたから、たった4年間で忘れてしまうということは考えられません。 日本入国時やその後の日本での生活には、その上手な日本語が大いに役に立ったと考えられます。

 密航はまずは神戸須磨海岸に上陸し、すぐに列車で大阪の鶴橋に行きます。 当時、鉄道の切符は窓口で購入するものでしたから、窓口で駅員に声をかけねばなりません。

改札口の近くにいた一人がひとりごちるように大阪までの料金を呟いてくれたので、キップは怪しまれることなく買うことができました (238頁)

 金さんは人の独り言を聞き取れるくらいに、日本語ができたのでした。 また駅では警察が密航者の取り締まりを行なっています。

(プラットホームに)列車がきしりながら到着し、一見刑事とわかる4、5人の私服警官が、群れを追い込むようにどっと駆けこんできました。 不審者の上陸を住宅地の誰かがいち早く通報していたようでした。 「ワタシ、チガウ、チガウ」と誰もが懸命に朝鮮語訛り丸出しで言い訳をしていましたが、私服警官らは至って民主的に、いいから降りぃ、降りぃと車内から連れ出していました。 (238~239頁)

 金さんがこの摘発を免れたのは、彼の風体(詰襟の学生服)だけでなく、警官の言っていることが理解できたので怪しまれなかったからではないかと思われます。 日本語が理解できない外国人は、今でもそうですが、日本語ばかり飛び交う日本社会ではかなり目立つ存在です。 ひょっとして警官から話しかけられても、訛りのないきれいな日本語が口から出たのかも知れません。 そうであるなら、その時は田舎から出てきた真面目な日本人学生と見られたでしょう。 それはともかく、この訛りのないきれいな日本語がその後の日本での生活に役に立ち、密航者と怪しまれない道具になったのではないかと想像します。

 金さんは大阪の猪飼野という済州島出身者が多く集まる地区に居を定め、石鹸工場に勤めるなどして生活を始めます。 その時、住む場所や働き口をどうやって探したかというと、これは容易に想像できます。 猪飼野では済州弁が通じたのでした。 そこでは同じ済州人として互いに助け合うという風潮があったのでした。 従って金さんは日ごろ朝鮮人同士では済州弁を使っていたものと思われます。 猪飼野は済州島からの密航者に住みやすい土地なのでした。 (続く)

【拙稿参照―終戦直後の在日朝鮮人の状況】

戦後朝鮮人の振る舞い―「事実」の経過 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2020/09/28/9299898

戦後朝鮮人の振る舞い―NHK記事に民団が人権救済申し立て http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2020/09/25/9299094

戦後の朝鮮人の振る舞い―事実を語るべきか http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2020/08/23/9281241

水野・文『在日朝鮮人』(14)―終戦直後の状況 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2016/07/22/8135824

張赫宙「在日朝鮮人批判」(1)   http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2013/10/27/7024714

張赫宙「在日朝鮮人批判」(2)   http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2013/11/01/7030446

権逸の『回顧録』          http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2013/11/07/7045587

終戦後の在日朝鮮人の‘振る舞い’  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2013/11/14/7054495

在日朝鮮人の「無職者」数      http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2016/01/05/7971706

闇市における「第三国人」神話    http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daijuusandai

金時鐘氏はどういう言葉を使ってきたのか?(3)2024/08/09

https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/08/04/9706635 の続きです。

 ところで金時鐘さんは韓国では南朝鮮労働党に加入し活動していましたから、共産主義者です。 日本に密入国しても、やはり共産主義活動を始めます。

なんとか在日朝鮮人の運動体につながらねば、と思っていたところへ、日本共産党への集団入党が地区単位でできるとの誘いが、生野区の朝連(在日本朝鮮人連盟)活動家からもたらされました。‥‥ (1950年)1月末、自己を奮い立たせるように日本共産党の党員の一人になりました。 (247~248頁)

 密入国したのが1949年6月ですから、日本共産党入党までわずか7ヶ月しか経っていません。 日本の地を一度も踏んだこともない外国人が、しかも紹介状なども持たないで入国してたった7ヶ月で日本の政党に加入したというのですから驚きです。 紹介状がないというのはどこの馬の骨か分からぬ人物に他ならないのですが、共産党は加入を認めたのでした。 それだけ共産主義インターナショナルが進んでいたということになるのかも知れません。

 そして金さんはこの共産党の力で、「林大造」名義の外国人登録証と米穀通帳を入手しました。 それでは彼はどのようにして周囲からの信頼を得たのか。 彼はこれについて記していませんので、ここは推測するしかありません。

 金さんが密入国して生活を始めた猪飼野という土地で話される言葉は、朝鮮人同士なら朝鮮語の済州弁を使い、朝鮮人同士でも日本で生まれ育った若者や子供なら日本語でも大阪弁を使っていたはずです。 そして猪飼野の日本人も当然ながら大阪弁です。 しかもその大阪弁は、庶民が使うちょっと下品な大阪弁のはずです。 少なくとも船場言葉のような上品な大阪弁を使う人が猪飼野に住んでいたとは、とても考えられません。 つまり日本語といえば庶民的な大阪弁が、日本人はもちろん在日の間でも飛び交う町が猪飼野でした。

 金さんは当初は周辺に飛び交う大阪弁が理解できなかったはずで、日本語といえば訛りのないきれいな標準語だけが使えるという生活で始まったのでした。 そして彼は韓国の南朝鮮労働党員でしたから、共産主義の知識は十分にあったでしょう。 としたら日本で生活する時に使った言葉は訛りのないきれいな日本標準語で、周囲で飛び交う庶民的で粗野な大阪弁とは違いを見せていたことになります。

 普通こういう場合、大阪の下町では「何や! アホか! そんな言葉、使いよって! お前はなんぼのもんや!」とか言われて孤立するものです。 しかし金さんはそうならず、わずか7ヶ月で地元の日本共産党に入って活動したというのですから、きれいな日本標準語は障害にならず、むしろ活動の助けになったと考えられます。

 つまり金さんは共産主義活動できれいな日本標準語を使うことによって孤立するのではなく、むしろ共産主義をよく知っている知識人として尊敬を集めたのではないでしょうか。 だから7ヶ月という短い期間で共産党に入党できたのではないでしょうか。 そして金さんは日本共産党入党直後に、その傘下の在日朝鮮人組織で働くようになります。

(1950年)2月いっぱいで石鹸工場も辞めて‥‥民戦大阪府本部臨時事務所に非常勤で詰めるようになりました。(248頁)

 「民戦」とは在日朝鮮統一民主戦線のことで、当時の日本共産党傘下の朝鮮人組織です。 金さんはそこの非常勤専従職員となります。 彼は日本に入国してわずか7ヶ月で共産党に入党し、その朝鮮人組織の専従となるくらいに信頼を勝ち得たことになるのですが、それは日本標準語だけでなく、朝鮮標準語も流暢に話せたからではないかと考えます。 なぜなら、おそらく周辺の朝鮮人は朝鮮語を話すとしたら済州島の方言丸出しだっただろうし、また日本で生まれ育った若い朝鮮人たちは朝鮮語を十分に話せなかったからです。 つまり彼はそういう在日社会にあって、きれいな朝鮮標準語を流暢にしゃべれる知識人であったことが朝鮮人組織の活動家としての信用を得て生活することを可能にしたのではないか、と推測します。

 流暢な日本と朝鮮の標準語、この両方の言葉を上手に使えたことが日本での共産主義と民族主義活動家として生きていくことを可能にさせた‥‥。 このように推測したのですが、どうでしょうか。 

 さらに推測を重ねて想像してみます。 その後において、きれいな日本の標準語ばかりでは自らの民族的アイデンティティの危機と考え、朝鮮訛りのような日本語、しかも金さんだけのちょっと独特な日本語を使うようになったのではないか、それが講演なんかでしゃべっておられる言葉なのではないか‥‥。 他の在日一世が使うような朝鮮訛りと違う日本語は、このようにして作られたのではないか‥‥。

 想像を膨らませるとキリがないことは分かっているのですが、金さんが講演などでしゃべっておられるちょっと異様に感じる日本語が気になって、どういう経緯であのようなしゃべり方になったのかを想像を交えながら探ってみたのが今回のブログです。

 金さんの経歴から考えて、その時はこういう言葉を使っていたはずだという推測はかなり言い当てていると思っているのですが、どうでなんしょうかねえ。 (終わり)

金時鐘氏はどういう言葉を使ってきたのか?(1)  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/07/30/9705285

金時鐘氏はどういう言葉を使ってきたのか?(2) https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/08/04/9706635

【追記】    2019年6月8日付けの『ハンギョレ新聞』に、「在日70年は“4・3への痛恨”胸に秘めて生きてきた抵抗の歳月だった」と題する金時鐘氏取材記事があります。 https://japan.hani.co.kr/arti/politics/33623.html

 この記事の冒頭で、金さんは次のように発言しておられます。

「私の日本での“在日”暮らしは、流麗で巧みな日本語に背を向けることから始まりました。情感過多な日本語から抜け出ることを、自分を育て上げた日本語への私の報復に据えたのです」

 次に、2024年7月27日付の『毎日新聞』に、「詩人 金時鐘さん/下 祖国、民族、在日 日本語で書く」と題する連載記事があります。  https://mainichi.jp/articles/20240728/ddm/014/040/005000c (ただし有料記事です)    このなかで金時鐘さんは、自分のしゃべる日本語について次のようにおっしゃっています。

「植え付けられた抒情は日帝(大日本帝国)の後遺症だ。 小野さんの作品と出合い『流されない言葉』への執着が生まれ、自分は何者か、民族、祖国とは何か、問い直しました」。 詩こそ人間の生き方そのものと気づき、「問い直し」は自分の内に巣くう抒情的な日本語を洗い流すことでかなうと考えた。 「流ちょうでない私のいびつな日本語は、日本語への報復です」

 以上の二つの記事から言えることは、金さんは元々「流麗で巧みな日本語」がしゃべれるのに「流ちょうでない私のいびつな日本語」をあえて使っており、それは「日本語への報復」だということです。 彼の口から出る日本語は一般的に在日一世がしゃべる朝鮮訛りの日本語と違っていたというのは、意図的に「いびつな日本語」を使っていたからなのですねえ。 しかもそれが「日本語への報復」だというのは、どういうことなのでしょうか。

 日本という土地で、日本語ばかりの環境の中で、日本人(在日を含む)を相手に繰り広げる日本語作品の数々、そしてその作品を売って得る収入と生活。 それらの作品が毎日出版文化賞や大仏次郎賞などの日本の文学賞をいくつも受賞し、金さんは今の名声と地位を築いたのでした。

 そうであるなら先ずは日本語への感謝から始まるべきだと思うのですが、そうではなく「日本語への報復」だとして「いびつな日本語」を敢えて使う‥‥。 私には理解できないところです。

【金時鐘氏に対する疑問】

金時鐘氏が正規教員?―教員免許はないはずだが‥ http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/01/16/9651219

金時鐘氏は不法滞在者なのでは‥(1) https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/10/07/9623500

金時鐘氏は不法滞在者なのでは‥(2)  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/10/12/9624809

金時鐘氏は不法滞在者(3)―なぜ自首しなかったのか http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/10/17/9626078 

金時鐘『朝鮮と日本に生きる』への疑問 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/07/28/7718112

金時鐘さんの法的身分(続)     http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/08/13/7732281

金時鐘さんの法的身分(続々)   http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/08/26/7750143

金時鐘さんの法的身分(4)    http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/08/31/7762951

本名は「金時鐘」か「林大造」か  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2018/08/23/8948031

金時鐘さんは本名をなぜ語らないのか? http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2019/07/02/9110448  

金時鐘さんは結局語らず      http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2019/08/13/9140433

金時鐘さんが本名を明かしたが‥‥ http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2019/10/26/9169120

金時鐘『「在日」を生きる』への疑問 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2018/03/01/8796038

HP開設25周年 感謝2024/08/13

 私が「『歴史と国家』雑考」というHPを立ち上げたのが1999年8月でしたから、今ちょうど25周年となりました。 四半世紀です。 なおHPは途中でブログに切り替えました。 ブログは2006年6月からでしたから、こちらは18周年ですね。 よくもまあ続いたものです。 これも皆さまのおかげだと感謝しております。

 世に韓国・朝鮮・在日等に関心ある人が多く、インターネット上には記事がいっぱい出てきます。 しかしこういったところで得られる情報は「玉石」混交です。 後者の「石」に踊らされる人が多いですね。 また例え前者の「玉」の情報でも、その背景に隠れている事実まで追及しようとしない人が多いですね。 〝あれー!?こんなことも知らないのか!?″とビックリします。 なぜさらに一歩進んで真実を追究しようとしないのか? あるいは別の面から見ると違った真実が見えてくるのに何故見ようとしないのか? 疑問ばかり出てきます。

 一方、拙ブログを読んで 〝あーなるほど、そういうことだったのか!”と反応される方が多いです。 つまり拙ブログが提供した情報が新鮮で役に立ったということで、これはうれしいですね。

 こういったことが長く続けてくることができた要因なのかなあと思っています。 いつまで続くか分かりませんが、よろしくお願いします。

【拙稿参照】

HP開設20周年、ブログ開設13周年 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2019/08/02/9136362

HP開設17周年・ブログ開設10周年 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2016/08/10/8149051

HP開設16周年         http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/09/06/7779581

HP開設15周年         http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2014/08/08/7408861

関東大震災「倉賀野事件」―『現代史資料6』2024/08/20

『現代史資料6』 437頁

 また関東大震災の日が近付いてきました。 昨年は100周年ということもあって、記念行事が多く、またマスコミでも関連記事がたくさん出ていました。 朝鮮人虐殺事件関係の記事も多かったですね。 私も自分なりに資料を集め、下記のように拙ブログで公表しました。 

 その後は新たな資料を見つけていませんが、ネットで検索するかぎり、姜徳相・琴秉洞編『現代史資料6 関東大震災と朝鮮人』(みすず書房 1963年10月)という重要資料集に言及する人がほとんどいないことに気付きました。 

 例えば「倉賀野事件」は「朝鮮人」殺害事件として広まっており、議会で追及したり、追悼行事を行なったりまでしているようです。 ところがこの事件の被害者は、『現代史資料6』によれば朝鮮人ではなく「内地人(日本人)」になっています。 そのページ部分をスキャンして↑のように提示しました。 図をクリックすると、拡大して読みやすくなります。 左端の赤線で囲んだものが「倉賀野事件」です。

 しかし「倉賀野事件」に関するネット記事を読む限り、ほとんどが被害者は「朝鮮人」と断定しています。 なお一つだけ例外的に「青森県人らしい」とする記事があります。 そしてこれも含めて全てがこの『資料集6』に言及していません。 おそらく『資料集6』を知らないか、知っていても読んでいないのではないかと思われます。

 この資料集は60年前に刊行されたもので、関東大震災朝鮮人虐殺研究に重要とされてきました。 またこの本は大学や主要図書館に所蔵されているはずのものです。 被害者を「朝鮮人」とするにしろ「日本人」とするにしろ、まずはその前にこの本の検討をせねばならないと思うのですが、そのような形跡が全く見えず、いかがなものかと疑問を抱くところです。 

関東大震災「倉賀野事件」-被害者は日本人では‥ https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/04/10/9674631

  【関東大震災に関する拙稿参照】

関東大震災―自警団は警察も襲撃した https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/09/10/9616540

関東大震災―自警団を擁護した政治家の発言 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/09/15/9617769

朝鮮人虐殺事件―自警団の言い分  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/09/05/9615245

関東大震災朝鮮人虐殺事件の犠牲者数の検証(2) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/08/31/9613843

関東大震災朝鮮人虐殺事件の犠牲者数の検証(1) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/08/26/9612591

関東大震災―朝鮮人虐殺 寄居事件 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/08/21/9611387

関東大震災の日本人虐殺     http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2016/09/15/8189607

水野・文『在日朝鮮人』(19)―関東大震災・吉野作造 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2016/09/04/8169265

水野・文『在日朝鮮人』(13)―関東大震災への疑問 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2016/07/19/8134282

関東大震災時の「在日朝鮮人虐殺者」の数 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2006/06/09/398058

関東大震災の朝鮮人虐殺  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2016/08/26/8163009

関東大震災「朝鮮人虐殺事件」 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2017/09/01/8663629

「十五円五十銭」の練習―こんな在日がいるとは!? http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2021/02/15/9347314

  【追記】

 今回、『現代史資料6 関東大震災と朝鮮人』の437頁をスキャンして提示しました↑。 自警団らが朝鮮人と誤認して日本人を殺傷した事件の一覧表の一部です。 このページの左端の赤線で囲んだ部分が「倉賀野事件」ですが、右端から二つ目に「福田村事件」が記載されています。 この事件も日本人が誤認されて多数殺されたもので、昨年この事件が映画化されて話題になりました。

 ↑スキャン図が読みにくければ、クリックして拡大してください。

8月、在日の活躍2024/08/26

 この8月は在日韓国人関係、で二つの大きなスポーツニュースがありました。 一つはパリオリンピックの女子柔道57㎏級に許海実(ホ・ミミ)が銀メダルを獲得したことであり、もう一つは夏の甲子園高校野球大会で京都国際高校が優勝したことです。

 許海実(ホ・ミミ)は本名の韓国名で、日本名は池田海実(いけだ・みみ)です。 「海実」はハングルでは「해실(ヘシル)」となるのですが、韓国では漢字名をそのまま使わず、日本名の「みみ」という読み方をそのままハングルで書き表して「미미(ミミ)」としていました。 

 許海実はもともと日韓の二重国籍だったのですが、韓国籍を選択して韓国の単一国籍としたようです。 韓国の戸籍(今は家族関係登録簿)には、漢字名の「許海実」はなく「허미미」と記載されていると思われます。

 私が関心を持ったのは、これまでの在日韓国人は日本で使ってきた漢字名をハングル読みして、それを韓国名(=本名)とする場合がほとんどで、それと違っていたからです。 これまでは「海実」という名の在日がいれば、「本名はヘシルさんですね」と言うのが通例でした。 それが「ミミ」と、漢字を無視したハングルを本名としたのです。

 私はこれまで、在日韓国人の本名は漢字をハングル読みするものと頑固に思ってきたので、このような名前の呼び方は新鮮です。 これからは、このような名前の呼び方になっていくのでしょうかねえ。

 

 京都国際高校の高校野球優勝はビックリしましたねえ。 小さな学校なのですが、いつ間にか野球強豪高校となっていました。 私の知っている範囲では、京都左京区に「韓国学園」とかいう小さな学校があったのを覚えています。 それが手狭になって今の東山区に移転しようとした際、その地元から建設反対の運動が起きました。 その反対理由が当初あまりに民族差別的過ぎて批判を浴び、いや、山を削って開発することが自然を破壊するものだから反対しているのだという理由になったと記憶しています。

 その後はどのような経過となったか知りませんが、あの「韓国学園」が甲子園で優勝するぐらいになったか、と感慨にふけりました。

 学校の校歌がハングルだということで誹謗まがいの意見が舞い上がっているようですが、私は日本の文化(広い意味で)がそこまで取り入れるほどに広がったのかという感想を持ちます。 SNSなどで中傷誹謗する嫌韓コメントはあまりにも見苦しいし、日本の文化・民度を下げることも意味するので、止めてほしいですね。

韓国愛唱歌「セノヤ」の語源は日本である(1)2024/08/30

 今回は私には興味深い話なのですが、皆さまにはどうでしょうか。 まあ、適当に読み流してください。

 韓国に「セノヤ」という歌があって、かなり流行していたというか、よく歌われたようです。 ごく短い歌で、今も大抵の韓国人が知っている歌だそうです。 https://www.youtube.com/shorts/QZ1pb6tcQq4 この「セノヤ」の作詞者は詩人として有名な高銀さんですが、彼は〝「セノヤ」はもともと韓国語だった″と主張しています。 高銀さんは民主化運動家として主導的立場にあった人であり、その方が言っていることですから、この説が韓国では定着しているようです。 しかし、「地の歴史」のパク・ジョンインさんが 〝そうではなく元々日本語だ″という反論していました。 ユーチューブでの発表ですが、興味深かったので訳してみました。  https://www.youtube.com/watch?v=V1biWA3h4I4&t=20s

詩人の高銀氏、なぜ言い張るのですか? 「セノヤ」は日本語ですよ

大韓民国の人ならば、みんなが愛する歌「セノヤ」は、詩人の高銀が作った詩にソウル大学の作曲科の学生であるキム・グァンヒが曲をつけた歌です。 ところで題名に出てくる「セノヤ」は民族の情緒を込めた単語ではなく、日本語で「영차」を意味する「せえの」です。 高銀はこれを「古代韓国語が日本に渡って、日本人が使うようになった韓国語」だと言います。 果たして、そうでしょうか。 信念が間違いと証明されれば、撤回せねばなりません。 それこそが一般大衆が間違った歴史、間違った情報を知ることになります。 

 ここまでがこのユーチューブ番組の要旨です。 それでは番組が始まります。 まずは「セノヤ」はどのような歌で、どのように誕生したか、です。

みなさん、こんにちは。 「地の歴史」パク・ジョンインです。 今日は歌の歴史、そして「歴史のウソ」です。 「セノヤ」という歌があります。 知らない方より知っている方がもっと多いようで、たくさんの人が愛する歌です。 この歌にまつわる歴史の話で、この歌が持っている意味というのがウソだという話です。 今日のお題は、「詩人の高銀氏はなぜ言い張るのですか? 『セノヤ』は日本語です」になります。 

山と海と私たち。 セノヤはたった四行で私たちの情緒を表現した歌です。 伴奏もギターコードの単純なものです。 ヤン・ヒウンが歌って、広く知られるようになりましたが、実はこの歌を最初に歌ったのはキム・グァンヒという人です。 彼は「セノヤ」の作曲家でもあります。 ソウル大学作曲科の学生であったキム・グァンヒは、1970年のある金曜日に友人の弟であるキム・ミンギから歌を作曲してくれと依頼されました。 週明けの月曜日に放送する歌なのだが、さあ直ぐに作ってほしいと言うのです。 一方放送局では、キム・グァンヒが週末に曲を完成させるなら、作曲家本人である彼が歌えばいいと言います。 そこで彼は一週間だけ、匿名を条件に歌いました。 その時のソウル大学の作曲科では、大衆音楽は低レベルと考えられていたので、匿名で歌ったのです。

この歌は大当たりをしました。 だからキム・グァンヒのバージョンが四ヶ月の間、鳴り響きました。 その後、ジャズシンガーのチェ・ヤンスク、またフォーク歌手のヤン・ヒウンがこの歌を引き続いて歌い、「セノヤ」は国民の歌になります。 単純なメロディーに短く骨太の歌詞が、私たちの情緒にぴったり合ったのです。 

 チェ・ヤンスクの「セノヤ」は https://www.youtube.com/watch?v=eqaDX_3b90I で、ヤン・ヒウンの「セノヤ」はこのブログ冒頭部にリンクを貼っているものです。 この歌が1970年代以降の韓国人の心に響いたのですねえ。

それでは、今からこの曲の歌詞の話です。 元々「セノヤ」は歌の歌詞ではなく、詩です。 そしてこの詩を書いた人は高銀です。 はい、まさにあの元老格の詩人である高銀です。 今いろんな問題で活動ができないでいますね。 長い間、高銀という人は旺盛な創作活動と情熱的な民主化運動で尊敬を受けてきた人です。 その人が書いた詩にメロディーがついて、今は私たちみんなに愛される歌になりました。 さあ、「怪談」が始まります。

 「今いろんな問題で活動ができないでいます」というのは、高銀さんが長い間悪質なセクハラしてきたことが暴露されたためです。 拙ブログでは、http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2018/02/28/8795521 で高さんのセクハラに触れました。 それでは「セノヤ」の作詞者である高さんは、この歌についてどのような主張をしているのでしょうか。

高銀が語る〝始まり″の経緯。 (2:31)

高銀は、この「セノヤ」という詩を1960年に、南海の海の上で思い付いたと言います。 2012年11月1日付けのハンギョレ新聞に高銀は寄稿し、次のように言います。 

「1968年かその翌年か、私は未堂(徐廷柱の雅号)と一緒に、慶尚南道の鎮海の陸軍大学での文芸講演に行った。 陸軍高級将校たちが生徒だったが、全斗煥・盧泰愚らも生徒だったという事実を後に知った」 講演の後、陸軍大学総長のキム・イククォン将軍の好意で「陸軍大学専用の小型戦艦に二人が乗って、統営から麗水までの多島海を経由することとなった。 途中でパク・ジェサムの故郷である三千浦にも寄港して、焼酎を飲む余裕を楽しんだ。 すぐにその南海の沖合まで出て、私の思うままにイワシ取り漁船に注意して接近してくれた。 イワシの網を流して引っ張る船上労働は、歌なしでは不可能だ。 その漁夫がリフレーンで『せのや、せのや』という聞き慣れない言葉が私の脳裏に刻まれた。 この『せのや』は、私の故郷の群山の沖でのそれではなく、南海一帯の労働歌の心情を表わす。」 

 このハンギョレ新聞の記事というのは https://www.hani.co.kr/arti/opinion/because/558412.html です。

 徐廷柱(雅号は未堂)は古くからの著名な詩人でしたが、今世紀になって親日反民族行為者に認定されました。 60年近く前の1968年頃ですが、韓国ではかつての民主化闘士と親日反民族者とが一緒に行動していたというのですから、興味深いですね。 徐廷柱については拙ブログ http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2017/07/11/8618283 に彼の詩を引用したことがあります。 

つまり高銀は、南海の海でイワシ漁師たちが網を引き揚げながら「せのや」と大声で叫んでいたのが偶然に聞こえたといいます。 彼はそこで大きなインスピレーションを得て詩を書き、これが今の「セノヤ」という歌になったというわけです。

結論から言いましょう。 「セノヤ」の「せの」は、韓国語の「영차」に該当する日本語です。 ですから意味をそのまま解釈すれば、この歌は「영차 영차 산과 바다에 우리가 간다(せーの、せーの、山や海に私たちが行く)」になります。 問題は高銀がこの「せの」が日本語だという指摘に、〝とんでもない″と否定したことです。 

                         (続く)

【追記】

 韓国の詩人として有名な高銀さんは、民主化闘争の闘士でも著名でした。 しかし2017年に彼のセクハラが暴露されて、その地位と評判が底まで落ちました。 どんなセクハラかといえば、調べればお分かりになると思いますがかなりエゲツないもので、それが長年続いてきたのです。 周囲の人たちはそれ知り、時には目の前で見ながら、文壇の長老格で韓国社会に影響力の非常に大きな方に逆らえないとして、黙って見過ごしてきたものです。