金時鐘氏はどういう言葉を使ってきたのか?(2)2024/08/04

http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/07/30/9705285 の続きです。

解放直後の言語状況は?

 1945年8月15日、日本は敗戦し、朝鮮は「植民地統治の頸木から解き放たれます」(78頁)。 金時鐘さんは民族性を取り戻すべく、行動します。

何はさておいてもまずは「国語」(朝鮮語)を身につけねばと、腕章姿もりりしい白順赫君を訪ねていきました。 ‥‥(済州)城内には早くも国語学習所が四ヵ所ほど昼夜別々に開設されていて、習熟度に合わせた講習会が進んでいました。 学校(光州師範学校)に戻るまでには基礎文字の「가갸表」くらいは覚えようと、年齢もまちまちの男女でにぎわっている初級班の学習に、恥ずかしさを押してかけもちで通いつめました。 ‥‥発奮して集会に行き、学習所に通い、ひと月近く息もつかせぬほどの忙しさのなかで国語の勉強に明け暮れました。 (84~86頁)

やはり国語(ハングル)の履修には骨が折れました。 ハングルの綴字法と文法、発音は金イジュという「朝鮮語学会事件」に連座させられていた先生といわれる、40代半ばのもの静かな国文学者でしたが、平素の穏やかさとはうらはらに授業となるとねちっこく問い詰めてくる、こわい女の先生でした。 私が済州弁という独特な発音の世界で育ったせいか、とりわけ「ㅚ」という単母音の発音が不得手で、唇がとんがってしまうぐらい特訓させられました。 (105頁)

 解放後はさすがに日本語を使うことはなくなり、金さんは朝鮮語の勉強にまい進します。 といっても彼が日常に話してきた朝鮮語は済州島の方言で、朝鮮語の読み書きができませんでした。 ですから標準語としての朝鮮語の勉強には苦労したようです。 「가갸表」という、日本語の五十音表にあたるハングルから覚えねばなりませんでした。

 それから彼は朝鮮労働党に入って共産主義を学んだといいます。 おそらく朝鮮語は、家族や友人などの親しい人との会話では訛りの強い済州弁、見知らぬ人との会話とか何か改まった場面では標準語と使い分けていたのではないでしょうか。 だから共産主義を学び活動する時は朝鮮語でも標準語を使っただろうと思われます。 これは、日本でもかつて左翼知識人たちは日常会話は方言でも、マルクス・レーニン主義などを論じる時には日本の標準語を使っていたことから推測したのですが、おおむね間違いないと考えます。

日本密航後の言語状況は?

 金時鐘さんは1949年6月に日本へ密航します。 その時以来の彼の言語状況について、著作では特に語っていません。 ですからある程度推測を交えて話すことにします。

 金さんは1945年の解放(=日本敗戦)までは皇国少年としてきれいな日本の標準語を駆使していました。 それから解放後4年経って日本に密入国しました。 この時までの4年間は日本語を使わなかったでしょうが、子供の頃からあれほど完璧に日本の標準語が使えていましたから、たった4年間で忘れてしまうということは考えられません。 日本入国時やその後の日本での生活には、その上手な日本語が大いに役に立ったと考えられます。

 密航はまずは神戸須磨海岸に上陸し、すぐに列車で大阪の鶴橋に行きます。 当時、鉄道の切符は窓口で購入するものでしたから、窓口で駅員に声をかけねばなりません。

改札口の近くにいた一人がひとりごちるように大阪までの料金を呟いてくれたので、キップは怪しまれることなく買うことができました (238頁)

 金さんは人の独り言を聞き取れるくらいに、日本語ができたのでした。 また駅では警察が密航者の取り締まりを行なっています。

(プラットホームに)列車がきしりながら到着し、一見刑事とわかる4、5人の私服警官が、群れを追い込むようにどっと駆けこんできました。 不審者の上陸を住宅地の誰かがいち早く通報していたようでした。 「ワタシ、チガウ、チガウ」と誰もが懸命に朝鮮語訛り丸出しで言い訳をしていましたが、私服警官らは至って民主的に、いいから降りぃ、降りぃと車内から連れ出していました。 (238~239頁)

 金さんがこの摘発を免れたのは、彼の風体(詰襟の学生服)だけでなく、警官の言っていることが理解できたので怪しまれなかったからではないかと思われます。 日本語が理解できない外国人は、今でもそうですが、日本語ばかり飛び交う日本社会ではかなり目立つ存在です。 ひょっとして警官から話しかけられても、訛りのないきれいな日本語が口から出たのかも知れません。 そうであるなら、その時は田舎から出てきた真面目な日本人学生と見られたでしょう。 それはともかく、この訛りのないきれいな日本語がその後の日本での生活に役に立ち、密航者と怪しまれない道具になったのではないかと想像します。

 金さんは大阪の猪飼野という済州島出身者が多く集まる地区に居を定め、石鹸工場に勤めるなどして生活を始めます。 その時、住む場所や働き口をどうやって探したかというと、これは容易に想像できます。 猪飼野では済州弁が通じたのでした。 そこでは同じ済州人として互いに助け合うという風潮があったのでした。 従って金さんは日ごろ朝鮮人同士では済州弁を使っていたものと思われます。 猪飼野は済州島からの密航者に住みやすい土地なのでした。 (続く)

【拙稿参照―終戦直後の在日朝鮮人の状況】

戦後朝鮮人の振る舞い―「事実」の経過 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2020/09/28/9299898

戦後朝鮮人の振る舞い―NHK記事に民団が人権救済申し立て http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2020/09/25/9299094

戦後の朝鮮人の振る舞い―事実を語るべきか http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2020/08/23/9281241

水野・文『在日朝鮮人』(14)―終戦直後の状況 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2016/07/22/8135824

張赫宙「在日朝鮮人批判」(1)   http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2013/10/27/7024714

張赫宙「在日朝鮮人批判」(2)   http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2013/11/01/7030446

権逸の『回顧録』          http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2013/11/07/7045587

終戦後の在日朝鮮人の‘振る舞い’  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2013/11/14/7054495

在日朝鮮人の「無職者」数      http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2016/01/05/7971706

闇市における「第三国人」神話    http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daijuusandai

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