韓国愛唱歌「セノヤ」の語源は日本である(2) ― 2024/09/04
http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/08/30/9712922 の続きです。 https://www.youtube.com/watch?v=V1biWA3h4I4&t=20s の翻訳です。
「せのや」が日本語? (4:44)
先ずはこの言葉が日本語だと指摘した論稿を見ましょう。 2012年10月26日付けハンギョレ新聞に載ったコラムです。 筆者は当時のカン・ジェヒョン アナウンサーです。 「『せのや』が日本語である事実は、民謡の取材をしながら知るようになった。 『せのや』は日本の漁夫たちが網を引きながら歌っていた舟歌のリフレーンだ。 南海地域で取材した色んな資料を分析すれば、東に行けば行くほど日本語が多くなる。 『せのや』が我が国の言葉ではないことは確実である。」
この文を書いた、当時のカン・ジェヒョン アナウンサーはこのように付け加えました。 「高銀氏が生まれ育った所は全羅北道の群山市だ。 子供の時に聞いた網を打つ声の根源が日本であることを知らなかったのだろう。 網を引き、音頭を取った楽しい声『せのや』は後日に詩となり、うら悲しさが滴る歌としてよみがえった。」
「セノヤ」は私たちの情緒に色濃く盛り込まれている歌であり、一般大衆は意味を知らなくても歌詞に出てくる「せの」が当然に自分たちの情緒と深い関係の言葉だと思っていたでしょうから、驚いたでしょう。 何しろ高銀は民族主義を代弁する代表的な詩人なのですから。
〝みんながよく歌っている「セノヤ」は実は日本語だった″と指摘した10月26日付けのハンギョレ新聞記事というのは https://www.hani.co.kr/arti/opinion/column/557528.html です。 作詞の高銀さんはこれに驚いたのか、さっそく反論します。
そこで詩人の高銀は、その5日後の2012年11月1日に寄稿して、「セノヤ」という詩を作った経緯を明らかにしたのです。 高銀のこの文は次のように始まります。 「これは反駁文ではない。 1960年末に、私が酔っている時に即興で一気に書き下ろした詩『セノヤ』について事情を明らかにする。」 高銀はこの寄稿文で説明します。
この高銀さんの「寄稿文」は既述しましたが、 https://www.hani.co.kr/arti/opinion/because/558412.html です。
「日帝強占期の間、私たちの母国語は禁止されただけでなく、それから以降も多くの傷と汚染、そしてあの支配言語の残滓が母国語に介入しているのである。 いや近代語の場合、日本語の造語をそのまま受け入れた事実をあえて隠すこともない。 私たちの言語の一部には、古代には中国の影響を受け、近代には日本の影響を受けていることは事実だ。 後日、私は日本の九州を旅行して、九州の海岸の漁夫の家で、また『せのや』に出会った。」
高銀は日本の九州でも「せのや」を聞いたというのですが、その次が問題です。 「南海地方一帯の言語は、当時は韓国語とか日本語とかの区別があるのではなく、古代韓国語が日本に渡って行ったという明白な事実が、日本語の起源についての絶対条件であり前提である。 だから南海のこっち側である韓国と向こう側の日本とで、海上言語として長い間共同使用されてきたのだ。 こんな事例でなくても、甚だしくは古代エジプト語(!)が韓国語に土着化した。 満州語の場合も少なくない。 私は「せのや」が日本語だと断定することを躊躇する。 それは公海上の興趣のある古代韓国語であり、今は国際語としての言葉だというものだ。」
上述の高銀さんの寄稿文には、確かに「古代エジプト語」が出てきますねえ。
韓国では、古代エジプト語と韓国語との共通点を探して韓国語の起源を探るという研究者がいるようです。 検索してみれば、ごく少数ですがヒットします。 高銀さんは言語というものは世界各地の言語が混じり合うものだと言いたかったのでしょうが、古代エジプト語を持ち出すとはねえ。 スケールが大きいというか、誇大妄想が激しいというか‥‥。
高銀が言っている要旨は、植民地時代に入ってきた日本語が今も残ることはあり得るが、この「せのや」こそが古代韓国語が日本に渡って公海上で国際語になったという話です。 お分かりになるでしょう。 1000年前なのか2000年前なのか分かりませんが、朝鮮半島で使っていた「せのや」という言葉が海を渡って日本に行って、日本の漁夫たちが使うようになり、その「せのや」が植民地時代にまた朝鮮半島の漁夫たちに伝わって一緒に使うようになっているので、日本語ではないということでしょう。
それでは、これは何ですか? 日本で話題となった芸能番組です。(9:34) ここで女性を引っ張りながら、男と女が何と言っているか聞いてみましょう。 「せえの」。 これは「영차」という意味です。 高銀の論理によれば、この「せえの」は朝鮮半島の漁夫たちが日本の漁夫たちに教えてあげた「せのら」という表現がいつの間にか日本人に伝わって、日本の芸能番組にまで登場するようになったということになります。
「せえの」は日本語の掛け声であるのは、われわれ日本人にはごく常識ですが、韓国人には説明が必要ですね。 (続く)
韓国愛唱歌「セノヤ」の語源は日本である(1) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/08/30/9712922
韓国愛唱歌「セノヤ」の語源は日本である(3) ― 2024/09/09
https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/09/04/9714238 の続きです。 https://www.youtube.com/watch?v=V1biWA3h4I4&t=20s の翻訳です。
高銀は「せのや」が日本語ではないと主張して何日か後に、今度は南海岸に直接取材したチェ・ソンイルPDが登場します。 「高銀氏の反駁文を見て、あきれた。 反駁文ではないと言いながら詭弁に近い反駁文を書いたためだ。 だから私は高銀氏の文に反駁する文を書いて『ハンギョレ新聞』に送った。 しかし、どういう理由なのか掲載されなかった。 それでここに文を載せた。」 自分のブログに載せました。
「『せのや』は日本のイワシ漁の船で網を引く時、船乗りたちが歌った民謡のリフレーンの一部である。 これに関する証拠はMBCが南海岸一帯で取材した《韓国民謡大全》資料も十分な上に、私が慶尚南道固城で取材したある語り部の証言でも確実に証明できる。 固城のその語り部のお年寄りは農民でしたが、賃労働するために、当時海岸に進出していた日本のイワシ漁の船に乗って操業しながら、日本の漁夫たちが歌について一緒に歌った、イワシ漁は多くの人が団結してやらねばならない仕事であるので、動きを合わせるために歌が必要だった。」
次はチェ・ソンイルPDがインタビューした慶尚南道固城の語り部のチョン・イセンさんの聞き取り記録です。
舟歌は「せのや、せのや」と言いながら、網を引く時は「せのや、せのや、せのや‥‥」、網を引く時。 「せのや」は、網を手で引っ張りながら言うと。ウィンチで巻き上げて、全部引っ張ってから入って「せのや」と言うんだ。「せのや」、それは朝鮮の言葉ではないんだ。 それは日本の奴の言葉だ。 船に乗った人は知っているよ。 本人が直接言っていたのだからね。 (MBCラジオ〈チェ・ソンイルの民俗紀行〉2007.10.21.放送) (11:35)
ハンギョレ新聞が掲載を拒否したチェ・ソンイルPDの文が続きます。
「せのや」はイワシが取れた網を船の上に引き上げる過程で歌う歌の一部である。 日本に近い釜山の沖合から西側の南海、麗川、莞島に至るまで、日本のイワシ漁の船が残した痕跡は海辺の人たちが記憶する日本式の舟歌の形態として残っている。 日帝強占期に特定した状況で、日本の民謡が我々の民謡に割り込んだということを見せてくれる。 我々の民謡に日本語が挿入される現象は、ある意味では自然なことだ。 しかし我々は民謡だけでなく、我々が使う言葉に外来語がどれほど混じって入っているか、はっきりと知っていなければならない。 早くから大衆に馴染んでいる「せのや」という言葉が日本語だということを遅まきながら知ったなら、我々みんなの無知を反省して、またこんなことがないように教訓として残すのが正しい。」
そしてチェ・ソンイルPDが付け加えます。 「そんな面から、高銀詩人が『せのや』について出した弁明は、すぐに納得できない。 彼は『せのや』がひょっとして古代韓国から日本に渡って行った言葉なのかも知れないとか、韓日両国で共通して使った古代海上言語または国際語かも知れないので、『せのや』が日本語だと断定するのが難しいとする。 検証が困難な古代言語を持ち出しながら、目の前の真実は認めていないのである。 『せのや』が古代韓国から渡って行った言葉であるなら、なぜ日本にだけその言葉が残っていて、本土である韓国に残っていないのか、どんなハングル辞典を探してみても『せのや』という言葉を見つけることができず、その似た言葉さえも出てこない。」
チェ・ソンイルPDの文は続きます。 「高銀詩人は、自分の反駁文でも『せのや』が日本の九州地方の『漁夫の歌』と明らかにした。 自分が南海で聞いていた『せのや』という言葉が実は日本語だったということを、すでにだいぶ前から分かっていたのである。 それでもなぜ今まで、それについて一言もなかったのか気になるところだ。 自分が間違って書いた詩一編が有名な大衆歌謡になり、映画やドラマのタイトルになり、酒場や美容室の商号になり、他の詩人の詩集の表題にも使われ、ある新聞社で発行した『民族の歌』にも選ばれもしたのである。 間違ったことは正直に認めて反省するところから新しい知識と文化の歴史が始まる。」
以上のようにチェ・ソンイルPDは高銀さんへの長文の批判をしました。 この批判は正しいと思われます。 高さんは有名な詩人で社会的影響力も大きいから、批判も長文になったのでしょうねえ。
ベトナムの国父であるホー・チ・ミンが丁若鏞の書いた『牧民心書』を愛読し、丁若鏞の命日にはチェサ(祭祀―法事のこと)をしたという「怪談」を流布した人が、この詩人の高銀です。 事実と信じていたことが事実ではないと明らかになったなら、その信念を撤回し、事実を受け入れことこそが社会的責任を果たすことのできる大人なのです。 今もこの地のどこかで誰かが「せのや」を歌って深い思いにふけているでしょう。 私もこの歌が大好きです。
丁若鏞は日本ではほとんど知られていませんが、200年前の李朝時代後期に実学思想を集大成したとして、韓国では有名な歴史上人物です。 〝ベトナムの革命家ホーチミンが李朝時代の丁若鏞の本を愛読していた!?″ 〝しかもチェサ(法事)までしていた!!??″ 高銀さんがこんなことを本当に言っているのかと思って検索してみると、どうやら本当です。 ベトナムを含めて世界の誰もが信じていない「怪談」(歴史上のウソ話)を、韓国だけが唯一信じていたのでした。 その「怪談」を新聞に書いて広めたのが、まさに今回話題としている高銀さんだったのです。
高銀さんは、「せのや」は元々韓国語であったという「怪談」を語るのですが、それはホーチミンと丁若鏞の「怪談」を語るぐらいにウソの歴史話が多い人だから、ということになりそうです。
以上、私には面白い話だったのですが、皆さまには〝何が面白いの?″と疑問を持たれたかも知れません。 ここまでお付き合い下さり、ありがとうございました。
最後に出てくるホーチミンと丁若鏞の「怪談」について、少し詳しく調べましたので、次回に発表します。 捏造の歴史はこのように作られた、という話になります。 (終わり)
韓国愛唱歌「セノヤ」の語源は日本である(1) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/08/30/9712922
韓国愛唱歌「セノヤ」の語源は日本である(2)https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/09/04/9714238
ホーチミンと丁若鏞―韓国で広がったトンデモ話(1) ― 2024/09/16
先の拙ブログ http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/09/09/9715413 の最後で、下記のように記しました。
丁若鏞は日本ではほとんど知られていませんが、李朝時代後期に実学思想を集大成したとして、韓国では有名な歴史上の人物です。 〝ベトナムの革命家ホーチミンがその丁若鏞の本を愛読していた!?″ 〝しかもチェサ(法事)までしていた!!??″ 高銀さんがこんなことを本当に言っているのかと思って検索してみると、どうやら本当です。
ベトナム初代主席で独立革命家であったホーチミンが、“李朝時代の実学者として有名な丁若鏞の著書『牧民心書』を愛読していた”なんて話が韓国にあるなんて、本当? 信じられない!と思いつつ、「호치민 정약용」(ホーチミン 丁若鏞)で検索してみました。 すると本当にあるのです。 多数ヒットしており、韓国ではかなり広がっていて、多くの韓国人が信じていることを確認できました。
しかしこの話は日本語で検索してもほとんど全くと言っていいほどに出てこず、また肝心のベトナムでさえも知られていないので、全世界では韓国だけで信じられているものと思われます。 つまり韓国だけに長年にわたって信じ込まれてきた、歴史のでっち上げ話なのです。 韓国の歴史捏造過程を考える上でちょっと参考になるかなと思い、取り上げてみます。
誰がこんなことを言い出したのかを調べてみたら、やはりあの有名な詩人の高銀さんでした。 高さんは36年前の1988年11月3日付け『ハンギョレ新聞』にその話を書いたのですが、それが今のところ確認できる最初の資料のようです。 その新聞コラムを提示します↑。 コラム名は「ハンギョレ論壇 高銀 コラム」で、タイトルは「孫文とホーチミンと金九」です。 このコラムの右側の上から3行目から9行目までのところに、ホーチミンと丁若鏞『牧民心書』のことが次のように書かれています。
그의 젊은 날, 청말의 실학, 조선의 실학과 함께 베트남의 유학에도 실학이 일어났다. 그래서 호지명 총각은 조선의 정약용이 남긴 <목민심서>를 읽고 받은 감동으로 정양용의 기일을 알아내 제사를 지내기도 했다. 그런 그는 프랑스 제국주의, 일본 제국주의, 미제국주의와의 싸움으로 생애를 불살랐다. 싸움꾼이건만 인물이 컸다.
訳しますと
彼(ホーチミン)の若かりし頃、清末の実学、朝鮮の実学とともにベトナムの儒学にも実学が興った。 だからホーチミン青年は朝鮮の丁若鏞が残した<牧民心書>を読んで感動し、丁若鏞の命日を知ってチェサ(法事)を執り行なうこともした。 そんな彼はフランス帝国主義、日本帝国主義、アメリカ帝国主義との闘いに生涯を燃やした。 闘士であるが、人物は大きかった。
“ホーチミンが丁若鏞の『牧民心書』を愛読していた、チェサ(法事)までしていた”という話は韓国だけに広がり、長年信じられてきたのですが、最初の言い出しっぺはこの高銀さんのコラムのようです。 今のところ、これより古いものは見つかっていないです。 そして高さんは6年後の1994年7月の『京郷新聞』でも、ホーチミンと丁若鏞の『牧民心書』について同じようなことを書いたのでした。
想像ですが、高銀さんの夢の中にホーチミンと丁若鏞が現れた、あるいは高さんが酒席の与太話を聞きつけて新聞に書いた、そう考えたくなるようなレベルの話です。 つまりトンデモ(=デタラメ)話なのです。 上述したように高さんはそのトンデモ話を1988年と1994年の二回にわたって全国紙に書きました。 外国の建国英雄が自国の歴史的有名人を尊敬してその著書を愛読していたという話は韓国人の心に響いたのでしょうか、韓国全体に広がって信じられるようになったと考えられます。 (続く)
【追記】
高銀さんは古くからの有名な詩人で、ノーベル文学賞の候補に何度も挙げられたとされ、韓国文壇の重鎮とも言える人でした。 朴正煕・全斗煥大統領の軍事政権時代に果敢な民主化闘争を担い、逮捕されたこともありました。 そんな華麗な経歴を有する方でしたから、社会的影響力も大きかったです。 そんな方が大手の新聞に二回も書いた話ですから、韓国では信じられて広がったのでしょう。
なお高銀さんは2017年に、悪質なセクハラを長年にわたって常習としてきたと暴露されて世の指弾を浴びました。 今は引きこもっておられるようです。 拙ブログでは高さんのセクハラについては、下記で触れています。
Me Too:韓国を揺るがす著名文化人のセクハラ暴露 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2018/02/28/8795521
韓国Me too運動の記事 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2020/04/05/9231706
【追記】
「チェサ」は漢字で「祭祀」と書くもので、日本語では「法事」「法要」が一番意味の近い言葉です。 しかしそれは仏教用語なので、果たして適当かどうか疑問になります。 一方、在日韓国・朝鮮人たちは多くが仏教徒でないですが、「法事」と言いますね。 このブログでは「チェサ(法事)」あるいは単に「チェサ」としておきます。
高銀さんは、ホーチミンは血縁でも何でもない丁若鏞の命日にチェサ(法事)をしていたと書いたのでした。 チェサというのは必ず血縁家族が行なうものであり、いくら親しくなった人でも他人の집안(家・身内)のチェサをするなんて、あり得ないことです。 ですからホーチミンが丁若鏞のチェサをしたという話は、ベトナムの国父であるホーチミンは韓国の歴史上の人物である丁若鏞を血の繋がった身内とするぐらいに尊敬していたとなって韓国人の自尊心をくすぐり、韓国社会に広がったと考えられます。
ホーチミンと丁若鏞―韓国で広がったトンデモ話(2) ― 2024/09/21
https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/09/16/9717148 の続きです。
こんなトンデモ話が韓国にどのように広がったのかを解説してくれている記事がいくつかありますが、一番まとまっていて信頼できそうなものを紹介します。 2019年10月22日付けの『朝鮮日報』です。 https://www.chosun.com/site/data/html_dir/2019/10/22/2019102200035.html
主要部分を訳しました。 時系列になっていないところは、本文のままです。 所々で私の説明を挟みます。
ベトナムの国父であるホーチミンが『牧民心書』を読んだ? ウソです!
大統領の『牧民心書』自慢
2017年11月11日、大韓民国大領領の文在寅は、ベトナムのホーチミン市で開かれた「ホーチミン―慶州世界文化エクスポ」開幕祝賀メッセージで、このように語りました。 「ベトナム国民が最も尊敬するホーチミン主席の愛読書が、朝鮮時代の儒学者である丁若鏞公が書いた『牧民心書』だということは広く知られている事実です」。 一国の大統領が、両国交流の象徴として公式的に丁若鏞とホーチミンに言及したので、大韓民国の人間としてこれ以上の感無量の喜びがどこにあるでしょうか。
7年前の2017年にベトナムで開かれた国際行事に、韓国の文在寅大統領は祝賀映像メッセージを送りました。 その中で両国友好の歴史として、「ベトナム国民が最も尊敬しているホーチミン主席の愛読書が朝鮮時代の儒学者丁若鏞公の『牧民心書』だということは広く知られている事実です」というトンデモ話を持ち出したのでした。 韓国では大統領がこのトンデモ話を信じて外交するほどに深く根付いていたのです。 こんな話を聞かされたベトナムの人たちは何を言っているのか分からず、ポカンとしたでしょうねえ。
ホーチミンの『牧民心書』愛読説は、20世紀後半のある時から世間に知られるようになった。 ベトナムの民族英雄であり国父であるホーチミン(胡志明)が茶山(丁若鏞の号)を慕って『牧民心書』を愛読し、命日にはチェサ(法事)を執り行なったというのだ。 枕元にいつも『牧民心書』が置かれていて、不正と非理を追放するために『牧民心書』が必読の書だったというのだ。
一緒に銃を構えて戦ったという悪縁の国だったから、民族の自尊心を鼓吹するのに十分な話だった。 2019年10月現在でも、インターネットポータルで『牧民心書』を検索すれば、十中八九はホーチミンの愛読書と出てくる。
「一緒に銃を構えて戦ったという悪縁の国」とはベトナムのことで、韓国は1960年代後半~70年代前半にベトナム戦争に参加しました。
「목민심서 호치민」(牧民心書 ホーチミン)で検索すると、出てきますねえ。 ただし、“これはウソだ”とする記事もここ4・5年の間に出てきています。 今回ここで紹介する『朝鮮日報』記事もその一つです。 しかしそれでも今なおトンデモ話を信じ込んでいる人はいるようです。
さあ、「ベトナムの国父ホーチミンの丁若鏞崇拝」説を暴いてみよう。 まず結論から言えば、ホーチミンは『牧民心書』を読んだことがありません。
ホーチミン愛読説の始まりと流布
1993年、大韓民国津々浦々を生きている博物館だとする本『私の文化遺産踏査記』第一巻が出た。 全羅南道康津、海南の歴史文化遺跡を紹介するこの本で、著者のユ・ホンジュンは次のように記録した。 「越盟(ベトナム独立同盟会)のホーチミンが不正と非理追放のためには朝鮮の丁若鏞の『牧民心書』が必読の書だと言ったという話が伝えられているので、これがあの方の偉大さを証明するものとしたい」(ユ・ホンジュン『私の文化遺産踏査記』第1巻70p)
これより1年前の1992年、小説家のファン・インギョンは小説『牧民心書』のプロローグで「ホーチミンは一生の間、枕元に牧民心書を置いて教訓とした」と書いた。(チェ・グンシク「ホーチミンの牧民心書愛読の可否と認定説の限界」2010)
やはりその頃の時期に、詩人の高銀が『京郷新聞』に、次のような文を寄稿した。 「私の山河 私の人生―革命家の死と詩人の死」というタイトルで、「ホーチミンは少年時代、激動の朝鮮後期の実学者である丁若鏞の牧民心書を求め、彼の命日を知って追悼することを忘れないようにした。」(1994年7月17日『京郷新聞』9面)
「茶山研究所」は、茶山丁若鏞の研究に大きな貢献をした団体である。 この団体のホームページの「解き明かす茶山の話」には、次のような文が掲載されている。 「ホーチミンの枕元には『牧民心書』がいつも置かれていたというのだ。 茶山の命日の日まで知っていて、毎年チェサ(法事)を手厚く執り行なってもいた。(下略)」 この文を書いた人は、茶山研究所理事長のパク・ソクムであり、掲載日は2004年7月9日である。
「茶山」は丁若鏞の号です。 朝鮮の歴史上人物や現代韓国でも有力人士には「号」を持つ人が多いですね。
問題は、これらの知識人たちが主張した“ホーチミンの丁若鏞尊敬説”が口だけの主張に過ぎず、全く根拠がないという事実である。
1990年代初めからどっと出てきた“ホーチミンの『牧民心書』愛読説”。 茶山研究所の掲示板、『私の文化遺産踏査記』第1巻、1994年詩人高銀の新聞寄稿文。 今も修正や取り消しは、されていない。
トンデモ話は1990年代以降に、専門の研究者までもが言い出すようになりました。 なお例として出された三つのうち、茶山研究所はこの『朝鮮日報』の記事が出た直後に間違いだったと認めました。 それ以外は訂正していないようです。
ところでこの『朝鮮日報』記事には、高銀さんがトンデモ話を最初に書いたコラム(1988年『ハンギョレ』新聞―前回の拙ブログで掲載)が抜け落ちています。 おそらく、2019年の時点ではこの『ハンギョレ』新聞のコラムがまだ発見されていなかったのではないかと思われます。 (続く)
ホーチミンと丁若鏞―韓国で広がったトンデモ話(1) https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/09/16/9717148
ホーチミンと丁若鏞―韓国で広がったトンデモ話(3) ― 2024/09/26
https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/09/21/9718240 の続きです。
朴憲永が『牧民心書』を贈ったって?
2009年に出版された『朴憲永評伝』(実践文学社)は、その根拠を次のように示している。 「1929年、朴憲永が入学したモスクワ国際レーニン学校にはホーチミンもいた。 朴憲永は彼に『牧民心書』を贈った。 この本は将来ベトナムの指導者になるホーチミンに、生涯の指針になった。」(『評伝』106p) 著者のアン・ジェソンは「朴憲永が贈った『牧民心書』は、ハノイにあるホーチミン博物館に保管されていて、朴憲永は〝親しき友″という意味の『朋友』と署名して贈った」と付け加えた。 本当なのか?
ベトナムの国父ホーチミン、フランスに立ち向かって独立を勝ち取ったこの独立闘士が『牧民心書』を耽読して丁若鏞を尊敬したという話は、1990年代に一部知識人の間で根拠のない主張として現れた。
1929年、ホーチミンはジャングルにいた。 1919年にフランスのパリで活動していたホーチミンは1923年モスクワに行って東方被圧迫民族共産大学に通って活動した後、中国を経て1928年からタイのバンコクで本格的な反帝国主義闘争をした。(チョン・ヨンジュン『ヒョンエリスと彼の時代』2015年、18p) 出会い自体が不可能であったのだから、先の『朴憲永評伝』の主張は参考にする価値もない。
朴憲泳は植民地時代~朝鮮戦争時に活躍した有名な朝鮮人共産主義者です。 検索すれば、詳しい経歴が出てきます。 この朴憲泳が1929年に共産主義を学びにソ連のモスクワへ留学した際、ホーチミンに会って丁若鏞『牧民心書』を贈ったという話です。 しかしホーチミンはその1929年にはインドシナのジャングルで反帝闘争をしており、モスクワにいませんでした。 つまり朴憲泳とホーチミンはモスクワの大学に同時に一緒にいたことがなく、ですから朴がホーに『牧民心書』を贈ったなんてことはあり得ません。
それぞれの経歴を調べたら二人が出会ったことはあり得ないのがすぐさま明らかになります。 しかし朴憲泳の伝記には、このあり得ないはずのトンデモ話が書かれていたというのですから、ビックリですね。
死後100年経って出てきた『牧民心書』
1818年、流刑から解放された丁若鏞は、市中に『牧民心書』の筆写本が出回っている事実を知り、「一字一句も、再び人の目にふれてはダメだ」と言って恐れた。(丁若鏞「李在誼に送った手紙」) 1902年、張志淵(『是日也放聲大哭』の著者)が最初に『牧民心書』を出版した。 それ以前は、地方官庁で各自が作った筆写本以外にはなかった。 1936年、丁若鏞の逝去100周年に臨んで 朝鮮の知識人たちが『與猶堂全書』の出版を決めた。彼らは1934~38年に丁若鏞の後孫が災害から救い出した文書類をもとに『與猶堂全書』を発行した。
あれこれの理由で、生前には一冊も出版したことのない本だった。 二回とも丁若鏞がくずし文字で書いたものを活字にした漢文の本である。『牧民心書』は分量がまた48巻16冊と膨大である。 いくら漢字圏の知識人だといっても、ホーチミンがジャングルで持ち歩いて愛読するということはあり得ない。 朴憲永に会う方法もなかった。 ホーチミンは丁若鏞の存在自体を知る方法がなかったのである。
韓国では、「実学」は空理空論の朱子学を批判して近代への萌芽となる学問・思想だったという評価がなされていて、その「実学」を集大成したと言われるのが丁若鏞です。 しかし李朝時代には彼の本は出版されることなく手で筆写されて読まれてきたのでした。 丁若鏞死後65年経った1902年になってようやく著書の『牧民心書』が出版されたようですが、さほど関心を持たれるものではありませんでした。 そもそも朝鮮にも近代に繋がる思想があったとして「実学」が注目されるようになったのは、植民地時代でも1930年代のことです。 1929年に朴憲泳が丁若鏞『牧民心書』を贈ったなんて、あり得ないことです。
訂正されない虚偽の主張
さあ、整理してみよう。 1990年代初めに知識人社会のどこかで、ホーチミンと丁若鏞を繋げる話が同時多発的に始まった。 この“偉大な話”は急速度に事実として定着した。 しかし2006年1月9日の「聯合ニュース」が、「ホーチミン博物館と職務室には『牧民心書』がない」とし、「『牧民心書』に関連する主張は誤伝であることが明らかだ」という博物館長のウンウォン・ティ・ティン氏の言葉とともに報道した。 現地で虚偽だと証明されたのである。
それにもかかわらず、間違った“事実”は取り消されなかった。 『小説 牧民心書』の序文にはこれがあった。 高銀の詩集である『萬人譜』には、これと同じ内容のものが入っている。 ユン・ホンジュンの『私の文化遺産踏査記』の第1巻も、変わらずに同一のものが入っている。 『小説 牧民心書』は2019年現在600万冊の販売、『私の文化遺産踏査記』第1巻は「230万の読者を感動させた」と宣伝中である。
去る4月24日、茶山研究所の掲示板に、ある在ベトナム韓国人メディアがこの問題に関して質問を上げた。 これに対して研究所側は「根拠が全くなく、確認されたことがない」と回答した。 しかし「愛読した、チェサ(法事)もした」という文は10月21日現在まで残っている。 著名な専門家たちがホーチミンと丁若鏞とには縁があるという主張を変えていないので、大衆は事実と信じて、これまで誇らしく思っている。
丁若鏞が生まれた南揚州市は、2005年11月15日にベトナムのヴィン市と姉妹都市を結んだ。 ヴィン市はホーチミンの故郷である。 2017年3月、南揚州市はヴィン市に10億ウォンをかけて道路を開通させた。 その道路名は「南揚州茶山道路」である。 そして8ヶ月経って大統領がベトナム国民に「あなた達の国父が、わが国の学者の本を愛読した」と、交流を力説した。 この虚しい国民の自尊心と、自治体の虚しい努力と、大統領の虚しい外交の言辞は誰が責任を取るのか。 歴史は誰が責任を取るのか。
この大統領の発言が契機になったのか、2017年以降、韓国のマスコミがファクトチェックのためにベトナムを訪れて取材するようになりました。 そして“虚偽と判明した”と伝えています。 これもハングルで検索すれば出てきます。 (続く)
【拙稿参照】
朝鮮の「実学」とは? https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/12/26/9645721
ホーチミンと丁若鏞―韓国で広がったトンデモ話(1) https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/09/16/9717148
ホーチミンと丁若鏞―韓国で広がったトンデモ話(2) https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/09/21/9718240
自民党新総裁に石破茂氏 ― 2024/09/28
自民党の新しい総裁に石破茂氏が選ばれました。 与党総裁ですから、総理大臣になります。
ところで拙ブログでは、5年前に石破氏の発言について批判したことがあります。 参考にしていただければ幸い。
石破茂さんのデタラメ創氏改名論 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2019/10/06/9161642