朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の建国日は本当か? ― 2024/10/10
韓国の週刊誌『週刊朝鮮』2825号(2024年9月9日~15日 34~35頁)に、「北朝鮮の9・9『共和国建国日』は虚構だ」と題する論稿が掲載されています。 論者はピョードル・チェルチズスキーという人で、肩書は「博士 『金日成伝記』の著者」となっています。
拙ブログでは以前に、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)建国過程について論じたことがあります https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/11/21/9636056 。 今回紹介する論稿もそれに関係するものですが、私の知らなかった事実が記されていて、参考になりました。 主要部分を翻訳して紹介します。 所々に、私のコメントを挟みます。
来たる9月9日は北朝鮮の「朝鮮民主主義人民共和国 建国日」である。 「九・九節」と呼ばれるこの日、韓国のマスコミでは「北朝鮮政権が1948年9月9日に建国された」と繰り返している。 そしてほとんどの読者たちは、これを事実として受け入れている。 だがこの主張は事実ではない。 北朝鮮政権は実際には1948年9月9日に建国されていないのである。 ‥‥ 実は北朝鮮の歴史では「政権樹立宣布」が明確になされた日がいつなのか、明確に分からないのである。
「建国行事」がなかった1948年9月9日
1948年9月9日に何か特別な「建国行事」を開かなかったという点を注目すべきところだ。 ‥‥ 北朝鮮の建国に至る過程を振り返ってみよう。
1948年初め、北朝鮮は事実上ソ連軍のソビエト民政部の支配下にあった。 ただし形式上では北朝鮮を統治した公式機関は「北朝鮮人民委員会」である。 この人民委員会の委員長は金日成であるが、実際のところ人民委員会自体はソ連軍の指示と命令によって運営されていた。 北朝鮮の建国を決定する権限は人民委員会にはなく、ソ連軍とソ連政府だけが有していた。
ここはその通りです。 世に出回っている北朝鮮の歴史によれば、金日成をはじめとする朝鮮の指導者が北朝鮮を動かしていたような記述が多いですが、それは形の上だけで、実際はソ連が北朝鮮を動かしていたのです。
1946年、ソ連はアメリカとの「米ソ共同委員会」で親ソ連の統一政府提案書を提出しようとしたが、協議が失敗したため、北朝鮮地域で「単独政権」を立てることに方向を変えた。
当時のソ連は、平壌政権が38度線以南の南朝鮮までを領土とするのかどうかについて、明確な立場を明らかにしなかった。 その結果、「朝鮮民主主義人民共和国 臨時憲法草案」には領土と関連した内容を含めなかった。 首都についての規定は二重的だった。 共和国臨時憲法草案には「朝鮮民主主義人民共和国の首府はソウルである。 統一政府が樹立される時まで、平壌市を首府とする」とした。 これはこの憲法が最初は北朝鮮地域にだけ効力を持ち、もし統一政府が樹立されれば南朝鮮まで拡張されることを意味する内容だったのである。
この臨時憲法草案書は1948年2月11日に公表された。 この2月11日という日付は、当時の朝鮮半島では誰もが知っている日だった。 まさに大日本帝国の紀元節の日だったのだ。 北朝鮮当局はこの日の意味を、「人民民主主義の憲法」という新しい意味に替えようとしたわけである。
1948年4月12日、ソ連は平壌の北朝鮮人民委員会に、南朝鮮の李承晩政権に反対する政治家たちを集めて会議を組織せよという指示を下した。 「全朝鮮諸政党社会団体代表者連席会議(南北連席会議)」という名前で知られるこの会議は、その年の4月19日から22日まで平壌で開かれた。 南朝鮮から金九や金奎植などが参加したこの会議では、ソ連政府の指示に従って朝鮮半島から外国軍隊の撤収と全国的な選挙実施を要求する決議案を通した。
会議が終わった後、ソ連の党政治局は北朝鮮の立法機関である北朝鮮人民会議に臨時憲法草案を決議するよう指示を下した。 これにより4月28日の人民会議はこの指示に従い、決議した。 新しい憲法には「臨時首都平壌市」の文言がなくなり、ソウルが「朝鮮民主主義人民共和国の首府」と宣布された。 これはすなわち、北朝鮮政権の領土が南朝鮮まで含むこと主張する意味であった。
この時(1948年)の憲法では「第103条 朝鮮民主主義人民共和国の首府は、ソウル市である」となっています。 これはわが北朝鮮が南朝鮮を解放して祖国を統一するという意思を示したものと解されています。 なお参考までに1972年に憲法が改正されて「第149条 朝鮮民主主義人民共和国の首都は、平壌である」となり、首都が変更されました。 祖国統一がなされれば首都を平壌にするという意味ですが、北朝鮮は南朝鮮解放路線を放棄したのだろうかという憶測が流れましたねえ。
4月28日にこんな内容を骨子とする北朝鮮憲法が通過したのだが、その効力はまだ発生していなかった。 ソ連指導部は南朝鮮で北の主導する選挙が完了した後に、憲法を実施するよう指示した。 一方の南朝鮮は1948年5月10日に単独総選挙を実施したのだが、これに対して北朝鮮人民会議は7月10日に朝鮮民主主義人民共和国憲法を北朝鮮地域で施行することに決定した。 だからこの7月10日が「北朝鮮政権樹立の日」に一番近い日と思われる。 憲法施行が決定されるや、北朝鮮はそれまで使っていた太極旗を廃止し、新しい旗である「人共旗」を掲げた。 この時、当時の北朝鮮人民会議副議長である崔庸健は「朝鮮民主主義人民共和国憲法実施万歳」と宣言した。
ここは、ややこしいですね。 「選挙」が二つ出てきます。 一つは「北の主導する選挙」で、朝鮮民主主義人民共和国憲法(北朝鮮)を実施するための選挙です。 もう一つは韓国(南朝鮮)で5月10日に実施された単独総選挙です。
北の選挙で選ばれた北朝鮮最高人民会議は1948年7月10日に憲法を北朝鮮地域だけで施行することを決め、国旗を「太極旗」から「人共旗」に変えた、というのは初めて知りました。 これは勉強になりましたね。 なお「人共旗」は北朝鮮国旗の韓国での呼び方で、北朝鮮では「共和国旗」と言います。 この北朝鮮の国旗はこの時に始まるのですねえ。 解放後からこの日までは、北朝鮮は韓国と同じ太極旗だったのです。
そうして同年9月2日に開かれた第1次最高人民会議は、自らを「全ての南北人民を代表する」と主張した。 そして9月8日の最高人民会議は「朝鮮民主主義人民共和国憲法」が全ての朝鮮で施行されると宣布した。 同日、北朝鮮の初代内閣が設立されて、北朝鮮人民会議委員長である金日成が初代首相に推戴された。 もちろん金日成の首相推戴は、後日に初代駐北朝鮮ソ連大使になるソ連軍将軍のテレンチー・シュトコフの事前決定によるものであった。
「9月2日に開かれた第1次最高人民会議」には、ちょっと説明が必要ですね。 この二ヶ月ほど前の7月に、南朝鮮ではいわゆる「地下選挙」によって代表者が選出され、翌8月21日~26日に北朝鮮の海州にこの代表者たちが集まって「南朝鮮人民代表者会議」を開いて代議員を選出して、翌9月の2日に始まる「最高人民会議」にこの代議員を送った、という経過になります。 「最高人民会議」は北朝鮮だけでなく南朝鮮でも選挙で選ばれた代議員で構成されたということになりますから、自らを「全ての南北人民を代表する」と主張したのでした。
9月8日にその最高人会議で、憲法は全ての朝鮮で施行されると宣布して、政府の樹立と首相推戴を決めたのでした。 この経過からすると、朝鮮民主主義人民共和国の建国は9月8日です。 ところが北朝鮮では建国日を翌日の9月9日にしています。 これは何故か?
「審美的な歴史歪曲」の最初の事例
北朝鮮の公式の歴史では、捏造された記念日がいくつかある。 例を挙げると、朝鮮労働党は1945年10月10日に設立されたとあるが、実際はそうではない。 また北朝鮮当局は金日成が1932年4月25日に「朝鮮人民革命軍」を創建したとするが、実際にこんな組織は存在したことがない。 あるいはまた金正日の公式の生年は1942年と知られているが、彼は実際には1941年に生まれた。
確かに北朝鮮の定める記念日には、疑問点が多いです。 論稿はそれを「審美的な歴史歪曲」としています。 分かりやすく言えば、“語呂がいいように日付を変えた”という意味です。 語呂合わせですから、「審美的」と言えばそうかも知れません、
「9月9日 建国論」は、これらの捏造記念日のうちでも一番早くに作られたものだ。 この捏造は、北朝鮮の「審美的な歴史歪曲」のうちの最初の事例である。 これは数字の9・9の視覚的・聴覚的な美しさを浮き彫りにする意図だった。 これによって北朝鮮の建国節はブルガリア人民共和国の国慶日である「解放の日」と同じ9月9日になった。
以降、同じやり方で朝鮮労働党の創建記念日である「10月10日」も捏造され、また金正日の生年はやはり金日成と30年間隔を維持するために1941年から1942年に捏造された。 金日成が生まれた年である1912年と確かに30年間隔だ。 これは北朝鮮政権が歴史的事実を尊重するよりは、審美的目的のためにも歴史歪曲を正当化していることをよく表している。
国家の記念日を語呂合わせで定めたということです。 本当か?と疑問に思う人がいるでしょう。 残念ながら、北朝鮮ではあり得る話と言わざるを得ません。
朝鮮民主主義人民共和国の正統性は何か? https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/11/21/9636056