『在日コリアンが韓国に留学したら』を読む(1) ― 2024/12/06
韓国ではビックリ事態。 戒厳令が敷かれたかと思うと、6時間後に解除。 混乱が続いているようです。 今ここではそんなことに関係なく、拙ブログを続けます。
韓光勲『在日コリアンが韓国に留学したら』(ワニブックス 2024年10月)を購読。 まず著者の韓光勲さんの経歴は、この本の最後のページによると
1992年大阪市生まれ。 在日コリアン3世。 2016年、大阪大学法学部卒業。 2019年、大阪大学大学院国際公共政策研究科博士前期課程修了。 2019年4月から2022年7月まで、毎日新聞で記者として働く。 2023年3月から約1年間、韓国で留学生活を送った。
それではどんな家庭だったのでしょうか。 家族構成は本文では次のように書かれています。
父は韓国生まれで、23歳のとき日本に働きにやってきた。 母は大阪市生まれの在日コリアン二世。 (4頁)
父は韓国・済州道で生まれ、23歳まで済州道にいました。‥‥ 母親は大阪市西成区で生まれ育った在日コリアン二世。 (94頁)
僕の兄2人と姉 (16頁)
以上から判明することは、まず父親の姓が「韓」であり、韓光勲さんは父親の姓を受け継いでいることです。 韓国の当時の戸籍法(今は家族関係登録簿)では、子供は生まれると父親の戸籍に入って、父親の姓を受け継ぐからです。 なお両親が事実婚で韓さんが婚外子の場合、母親の戸籍に入って母親の姓を受け継ぎますが、当時としては極めて特殊事例なので考える必要はないでしょう。
韓さんは4人兄弟の末っ子として1992年に生まれました。 とすると、韓国で生まれ育ったニューカマー(来日)の父親と日本で生まれ育ったオールドカマー(在日)2世の母親は、1980年代に結婚したと推定できます。
次に、家庭内ではどんな言葉が話されていたのかです。
家族の会話はもっぱら日本語だ。 (4頁)
家庭ではずっと日本語を使っているからだ。 (15頁)
父親の母語は韓国語です。‥‥ 母親の母語は日本語で、韓国語は話せません。 自然と、家での共通言語は日本語になりました。 父は日本語が堪能です。 (94頁)
ニューカマーとオールドカマーとが結婚して日本で暮らす場合は、家庭内の言葉は日本語になりますね。
ただ一般的にニューカマーは母国(韓国)の父母や祖父母、兄弟らとの関係が切れておらず、コミュニケーションを取っているものです。 だから韓さんの場合、父親はしょっちゅう母国に帰っていただろうし、そして家族・親戚らも来日していただろうと思われます。 また韓さん自身も幼い時から母国のハラボジ・ハルモニ宅に帰省することがあっただろうと推測します。 ですから家庭内の日常語は日本語でも、本場の韓国語に接し喋る機会は多かっただろうと思うのですが、この本ではそんな話が出てきませんね。
韓さんの本では、民族性について強い影響力を持っているはずの父親の存在感が薄いです。 読んでいて、父親は家から離れていると思ったくらいでしたが、次の記述でそうではないと判明しました。
韓国出身の父は当初、(2018年文在寅政権時の)南北対話に大きな期待感を持っていた。 父は南北対話を伝えるニュースを見ながら涙を見せていた。 (119頁)
次に韓さんのアイデンティティです。 彼は次のように述べます。
僕は日本では「韓国人」として扱われることもあるが、「日本人」として扱われる場合も多い。 国籍は大韓民国であり、韓国のパスポートを持っているから「韓国人」なのかといえば、必ずしもそうではない。 初対面の人に「国籍は日本ですよね」と言われる場合が多くある。 これは仕方ないと思う。 僕の生活様式は完全に日本だ。 だが、行政の場に出ると、全く違う。 完全に「韓国人」として扱われる。 厳密にいえば「特別永住者」という立場だ。 (148頁)
僕の場合、「名前」は韓光勲で、「国籍」は韓国、「出身地」は大阪、「第一言語」は日本語、「民族」は韓国人、「アイデンティティ」は在日コリアンだ。 日本か韓国のどちらかに統一されていない。 それには歴史的な経緯がある。 このことを初めて会った人に理解してもらうのは骨が折れる。 (166頁)
ここにある「統一されていない」は、鄭大均さんが言うところの「今日の在日韓国人に見てとれるのは、韓国籍を有しながらも韓国への帰属意識に欠け、外国籍を有しながらも外国人意識に欠けるというアイデンティティと帰属(国籍)の間のずれであり、このずれは在日韓国人を不透明で説明しにくい存在に仕立て上げている」(『在日韓国人の終焉』文春新書 2001年4月 4頁)にあることと同じですね。 自分を客観的に証明する法的地位(韓国国籍や特別永住)と自分を主観的に意識するアイデンティティ(言語や生活様式など)とが統一されておらず、“ずれ”があるのです。 韓さんは、その“ずれ”を周囲の日本や本国の人には理解してもらうのに「骨が折れる」とおっしゃっています。
ただ、このような“ずれ”は在日だけが有するものではなく、他の外国人にも当てはまります。 日本で生まれたとか幼少の時に来日したという外国人の中には、幼稚園からずっと日本の学校に通ってきたという人が多くなりました。 外見も名前も国籍も外国人なのに、言葉や身のこなしは完璧な日本人という“ずれ”を有することになります。 近頃は、外国人のこの“ずれ”をテーマにしたユーチューブがよく出てきていますね。
韓さんは外見までもが完璧な日本人で、外国人だと分かるのは名前や国籍を自ら名乗る時だけになっているようです。 ですから何も喋らなければ全くの日本人として見せることになり、周囲も本人が言わなければ同じ日本人と思うでしょう。 とすると外国人だと発覚した時の“ずれ”の感覚は、当然に大きいでしょう。 従って別に言えば、これは在日特有の問題ではなく、外国人問題の一つの類型としてとらえるべきではないかということです。 そしてその解決は、当人がその“ずれ”をなくすのか、それともそのままにしておくのかになるでしょうが、自分で判断して選択する以外になく、周囲はそれを理解し尊重することが求められるでしょう。 (続く)
【在日に関する拙論(最近のものです)】
在日韓国・朝鮮人自然消滅論(1) https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/11/26/9734747
在日韓国・朝鮮人自然消滅論(2) https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/12/01/9736094
在日の「国籍剥奪論」はあり得ない https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/11/19/9732903
在日の定義は歴史意識にある―『抗路11』 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/03/24/9670017
在日韓国人と本国韓国人間の障壁 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/12/12/9641974
在日のアイデンティティは被差別なのか―尹健次 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2021/06/12/9387023
『抗路』への違和感(2)―趙博「外国人身分に貶められた」 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2021/06/02/9383666