1960年代の入管問題―金東希と任錫均(1) ― 2025/02/02
戦後の日本では、外国人は「出入国管理令」という法律(ただしポツダム政令)に従って管理されていました。 ところが1960年代後半に、日本に寄港した米軍空母からアメリカ兵が脱走したり、韓国から「金東希」や「任錫均」が密入国してきたりして、それぞれ市民団体が支援する事件が起きました。
これだけではありませんが、当時、外国人を管理する入管体制が問題になってきたのです。 政府は1969年にそれまでの「出入国管理令」から「出入国管理法」に改正しようとしたのですが、上述の脱走兵等の問題などを契機に反対運動が盛んとなりました。 その時に大問題となったのが、4年前の1965年に法務省が出した『外国人の法的地位200の質問』という冊子に「外国人は煮て食おうと焼いて食おうと自由」という文言があったことが国会で取り上げられたことです。 この文言は50年以上経った今でも、入管問題に取り組む活動家たちが言及しますね。
ところで、今回はこのうちの「金東希」と「任錫均」の話をします。 先ずは金東希や脱走アメリカ兵を支援していた市民団体の鈴木道彦さんが、金の亡命の経過を『越境の時 1960年代と在日』という本に記していますので、それを紹介します。
このとき(1968年3月)長崎県の大村収容所に入れられていたもう一人の脱走兵である金東希のことを、少しでも多くの人に知ってもらいたいと考えた (鈴木道彦『越境の時 1960年代と在日』 集英社新書 2007年4月 145頁)
当時の韓国は‥‥ヴェトナムに軍隊を派遣していた。 金東希は、そのヴェトナム行きを嫌って65年7月に軍を脱走し、亡命のために日本に密入国して対馬で逮捕されたのである。 しかも1935年に済州島で生まれた彼は、小学3年まで皇民化教育を受けて日本語を学んでいたし、彼の長兄、次兄、三兄は、いずれも働くために小学卒業ほどの年齢で敗戦前の日本に渡り、その後各地を転々としながら日本で暮らす人たちだった。 要するに、植民地帝国日本が生んだ典型的な崩壊家庭の一つである。 だから彼の行為は、ヴェトナム戦争への批判の表現であると同時に、戦前からの日朝関係の歴史を映し出すものでもあった。 しかも彼の亡命願には、次のように書かれていたのである。
「私が亡命地を日本に選択したのは、もちろん地理的条件もありますが、特に私は日本国憲法前文ならびに(第九条)戦争の放棄を規定し、平和主義を貫こうと努力している日本国に亡命したのであります」。 (同上 145~146頁)
金東希は1935年生まれで、小学3年までは日本の植民地支配下にあったといいますから、日本については大ざっぱな知識だけで、詳細は知らなかったはずです。 その後は朝鮮の解放となりますから、彼は日本語に接するチャンスはほとんどなくなり、戦後の日本の知識は皆無と言っていいでしょう。 ところが、そんな彼が日本の憲法九条の条文を知っていたというのですから、ビックリ。 そしてこれを当局に「亡命願」に理由として書いて出したというのですから、日本で大村収容所に収監されていた時に、支援者から憲法九条の韓国語訳を教えられたと思われます。 在日ならいざ知らず、本国韓国人が他国である日本の憲法の条文を知っていたなんて、あり得ないことでしょう。
なお1965年に韓国軍を脱走(脱営ともいう)した金東希が日本に密入国したのは1967年暮。 脱走から密入国までの2年間は韓国内で生活していました。 あの軍事政権下でそんなことができたのか?という疑問が湧くでしょう。 しかし当時の韓国では可能でした。 1967年までの韓国では、軍隊からの脱走が毎年1万人以上発生していたのです。 脱走兵は韓国内で仕事と住所を見つけて生活することが容易だったのです。 脱走兵が多すぎて、軍による捜索が間に合わなかったともいいます。
ところが1968年1月に北朝鮮特殊部隊が大統領官邸(青瓦台)を襲撃する事件が発生しました。 韓国政府はこれを機に全国民の住民登録管理を強化しました。 この登録番号がなくてはホテル・旅館に泊まれず、仕事も家も探せませんから脱走兵は生活が難しくなり、脱走事例が急減したと言われています。
ところが日本政府は頑なに彼の亡命を拒否し、韓国への退去強制命令を出して、大村収容所に収監した。 しかし脱走兵が独裁政権下に送り返されれば、極刑も覚悟しなければならない。 藤島宇内はいち早く『現代の眼』でこの問題を取り上げて世論に訴えたし、金東希を救わねばならないという動きは、福岡、大阪、長野などに広がり、東京でも「べ平連」などいくつかのグループがその声を上げた。 これら東京の支援者たちを結ぶ「金東希・東京連絡会議」も作られて、署名や請願を通して彼の亡命実現につとめていたが、そこには二・三の大学の学生グループに混じって、一橋大学の私のゼミ生たちも参加していた。 67年12月12日には、その鈴木ゼミの主催で、学内で「イントレピッドから金東希へ」というテーマのシンポジウムも開かれている。 これには「べ平連」から武藤一羊、「金東希を救う会」から玉城素、学内から中国思想史の西順蔵が参加し、他大学や地区の運動家も加わって、約4時間にわたり熱心な討議が行われた。 (同上 146~147頁)
「イントレピッド」とは、当時横須賀港に寄港中の米軍空母「イントレピッド号」から4人のアメリカ兵が脱走し、日本の「べ平連」(ベトナムに平和を!市民連合の略)がそれに協力してスウェーデンに亡命させた事件を指します。 この後しばらくして、韓国軍を脱走した金東希が日本密入国し、亡命を求めたのでした。 「イントレピッドから金東希へ」というのはこの意味です。
今も私の手許には、大村収容所の金東希本人から68年1月8日付で送られてきた手紙がある。 当時彼の北朝鮮への「帰国先希望書」なるものの写しが出回っていたので、それを不審に思った私が手紙で質問したのに答えたものだ。 そこには、「私はまがいなく日本に亡命をねがっているものであります。 それいがい、なにものもありません」と明記されている。 おそらく、日本政府から亡命を拒否された彼は、韓国に送還されることだけは避けようと、やむなく北朝鮮への「帰国」を「希望」させられたのだろう。 (同上 147頁)
金東希には朝鮮総連も熱心に支援し、北朝鮮への亡命を勧めました。 ですから総連の勧めに応じたと考えるのが自然で、「やむなく北朝鮮への『帰国』を『希望』させられた」ということではなく、自ら望んだと思われます。 「希望させられた」とまるで本人の意思に反するようにあるのは、鈴木道彦さんの憶測でしょうね。 (続く)
【参考】
金東希については、べ平連関係者が当時のことを書いておられます。 https://jrcl.info/web/frame12.01.01g.html
【追記】
「外国人は煮て食おうと焼いて食おうと自由」は、本来は〝主権国家である以上、外国人をどう処遇するかはそれぞれの国家の自由裁量”ということを分かりやすく説明しようとして、当時に一般社会で普通に使われていた諺を用いたものでした。 例えば、“あなたの家のことに口をはさみません、煮て食おうと焼いて食おうと自由ですから”というように使われていたと記憶しています。 この諺が外国人の人権を侵害するものとして物議を醸したのでした。 50年も昔の話です。 そのおかげでしょうか、この諺は一般には使うことがなくなりましたね。 しかし今も、外国人問題を取り上げる論者が50年以上前のこの事件に言及して〝入管が外国人の人権を無視する姿勢は今も変わっていない”と主張しています。