金時鐘氏への疑問(12)―崔賢先生2025/05/24

https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/05/19/9776467 の続きです。

⑱	崔賢先生との出会いはいつだったのか

 朝鮮近代史で「崔賢」といえば、1930年代に金日成とともに抗日パルチザン闘争を担い、解放後は朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の人民武力部長(国防大臣)などを歴任した人物が有名です。 先月に北朝鮮で進水式を挙げた新型駆逐艦の艦名が、この歴史的有名人の「崔賢」でした。

 ところで金時鐘さんによれば、解放後に同姓同名の共産主義者「崔賢先生」に出会い、この先生から共産主義に感化されたといいます。 北朝鮮の「崔賢」とは別人ですね。 彼は次のように回想します。

学生仲間の間で「崔先生、崔先生」と慕われていた、多分筆名だったろうと思いますけど、「崔賢」という30絡みの活動家がおられました。 ‥‥ 私が初めてこの崔先生にお目にかかれたのは、無知だった己れにもようやく民族の憤りが芽生え始めたころの春でしたから、終戦の翌年ということになります。 (「私の出会った人々」1980年1月『「在日」のはざまで』平凡社 2001年3月 53頁) 

 ここでは、崔先生と出会ったのは「終戦の翌年」ですから1946年の春です。 出会ってどのような活動をしたかというと、共産主義の「農村工作」です。 金時鐘さんは農民の厳しい生活状況を目の当たりにして、ショックを受けました。

光州にある無等山の麓の小さな集落を、この先生―というよりは指導者というべきですが―に連れられて初めて農村工作に出かけたとき ‥‥ 全羅南道の道庁所在地である光州市内からそうも離れていないところの農村でしたのに、初めて訪れた農家のかさぶたのひっついているような藁屋根をくぐってみて、本当にたまげたのです。 部屋というのがなくて、異臭のたちこめたうす暗い土間には藁だけが敷いてあり、おなかの突き出た子ども達が、蠅にたかられて、何人もおって、半開きの釜が粗末なかまどにはまったままだったのです。 このような状態で小作農の農民たちが生きていたことを、目と鼻の先の同じ光州市内で何年も勉強していながら知らずにいたこと自体、大変な衝撃でありました。 (同上 54~55頁)

 ここまで詳しく書かれていたら、金時鐘さんが1946年に崔賢先生と出会って農村活動したことは事実として間違いないと思うでしょう。 ところが金さんは、後の著書『朝鮮と日本に生きる』では崔先生との出会いを次のように語っておられます。

(1945年)9月末にはひとまず光州の学校に戻りました。‥‥ 私の自覚を深く目覚めさせた崔賢先生とは‥‥解放までの4年近くを思想犯として服役していた30がらみの痩せたお方でしたが、「自分の在所探し(チェコジャンチャッキ)運動」という、農村の啓蒙活動に力を注いでいる指導者でした。 おかげでようやく自分を取り戻せそうな気がしていた‥‥ (『朝鮮と日本に生きる』岩波新書 2015年2月 87~88頁)

 金時鐘さんは日本の敗戦=朝鮮の解放時(1945年8月)に故郷の済州島に帰っていたのですが、その年の9月末に光州の師範学校に戻り、その際に崔賢先生に出会い、農村活動を始めました。 そして父母と一緒に祖父のいる北朝鮮に行くために一旦その農村を離れて帰省した後、北朝鮮に行けなくなったために10月頃にまた農村に戻ってきます。

すぐに帰ってくるようにとの急な手紙が父から届きました。 うしろ髪を引かれる思いで家に帰ってみますと、本籍地の元山に今すぐ引き揚げるというのです。‥‥あたふたと家を整理して連絡船に乗り、大田で乗りかえて38度線近くの東豆川にたどりつきましたが、真夜中、その川を渡る段になって軍政庁に再雇用されている警務隊に捕まってしまいました。‥‥翌々日、母と私は釈放されて丸裸で済州島に戻りました (同上 88頁)

(10月頃)私はその足で光州に行き、12月末まで崔賢先生が開いている学習所に入りびたって、「チェコジャンチャッキ運動」の手伝いをしながら、知らねばならないことの多くを知らされました。 なんとその間に「登校拒否者」「赤色同調者」として私は学校から除籍されてしまっていました。(同上 88~89頁)

 10月頃に再び光州に戻り、そのまま崔賢先生の学習所に行って入り浸り、その年の12月末までの約三ヶ月の間、一緒に活動したことになります。

崔賢先生の学習所から私が済州島の親許のところに帰ってきたのは、1945年も暮れかかっていた12月の終わりごろでした。 (同上 95頁)

(崔賢先生の)「トゥンプル学習所」との直接的な関わりは三月足らずの短いものでした (同上 104頁)

崔賢先生の生き方、思うことを誠実に実践する行動力に痛く感銘を覚えていた私は、解放の年の12月末、先生の薦めもあって済州の親許に帰ってきます (同上 118頁)

 ただし金さんは、この三ヶ月の間にまた一度済州島の家に帰ったことがあるようです。

その年(1945年)の晩秋、元山の祖父の死の知らせが届きますが、父は牛のうめき声のような声で慟哭しました。 (金時鐘④「語る―人生の贈り物―朝鮮が私の中でよみがえった」 2019年7月23日付『朝日新聞』) 

 http://shiminhafiles2.cocolog-nifty.com/blog/files/342e98791e69982e99098e38080e8aa9ee3828b.pdf

 晩秋ですから11月頃でしょうか。 金さんは祖父の訃報を聞いて慟哭する父を見ていますから、その時は済州島の家にいました。 

 まとめますと、金時鐘さんが崔賢先生と出会って農村活動をしたのは、金さんの著作では「1946年」と「1945年」の二つがあります。 どちらも詳しい状況が書かれていてリアリティがあるように感じられますが、時期が食い違っています。 ということは、どちらかに間違いがあるということになります。

 崔賢先生との出会いと活動は金時鐘さんが共産主義者となる契機となったものですから、その時期は彼の思想を研究する上で重要なものです。 その時期が食い違って混乱しているとなると、一部の小さな間違いに止まらず、全体の信用性に疑問を抱くことになります。

 崔賢先生の活動について、金時鐘さんの回想しか資料がないので、どこまでが真実なのか分かりません。 また「崔賢」という名前は『「在日」のはざまで』平凡社53頁によれば「多分筆名」とありますが、いわゆる細胞ネーム(かつて共産主義者が活動する際に使った通名)なのか、ひょっとして冒頭に書いたような元抗日パルチザン有名人の名前を騙ったのか、などの疑問もあります。

 ただ解放後の全羅南道・慶尚南道の智異山一帯では南労党の活動が活発だったので、共産主義的な農村活動があったのは事実と思われます。 金時鐘さんの記述を検証するために、この時期の南労党の資料が欲しいところです。     (続く)

コメント

コメントをどうぞ

※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。

※なお、送られたコメントはブログの管理者が確認するまで公開されません。

名前:
メールアドレス:
URL:
コメント:

トラックバック