金時鐘さんの創氏改名は「金谷光原」―神戸新聞 ― 2025/06/03
4月11日の拙ブログで、金時鐘さんの創氏改名は「光原」なのか「金山」なのか、疑問を呈しました。 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/04/11/9767588 その際に、神戸新聞の記事に「金谷光原」だとするインターネット情報を紹介しました。 ただしこの情報源は5chですから、信用性がいま一つです。 そこでこの神戸新聞の記事を探してみたところ、見つけましたので報告します。
神戸新聞2018年5月27日 朝刊 第7面 http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/koubeshinnbunn.pdf 。
↑は、その記事のうち、金時鐘さんが創氏改名について述べられた段落部分をスキャンしたものです。 赤の傍線を付けました。 「創氏改名で名前も金谷光原(かなやみつはら)に」と明確に言っておられますね。 ですから金さんの創氏改名は、姓が「金谷」、名が「光原」だったということです。
金時鐘さんの日本名について、これまで公表されてきたものをまとめますと、次のようになります。
① 彼(級友の金容燮)は私の手を握って「光原(これが私の日本名でした)! それが詩なんだ! おまえの詩はそれなんだ」と諭してくれました。 (金時鐘『朝鮮と日本に生きる』岩波新書 2015年2月 43頁)
② 「創氏改名で名前も金谷光原(かなやみつはら)に」 (神戸新聞2018年5月27日 朝刊 第7面 編集委員インタビュー 「平和への道 歴史直視から」 詩人 金時鐘さん(89)に聞く)
③ 「『済州北初等学校同窓会誌』所収の卒業生名簿 ‥‥ 『同窓会誌』に付された歴代の卒業生名簿の内、33期(1943年3月25日卒業)の欄では、総116名の卒業生の名前と、番地はないが町名までの住所は記載されており、その中で金時鐘らしい人物として目に付いたのが、姓名は「金山時鐘」、住所は「済州二徒」の卒業生である。」 (玄善允・在日・済州・人々・自転車・暮らしと物語 「連作エッセイ『金時鐘とは何者か』2(第一部 金時鐘の年譜)2022年9月14日) https://blog.goo.ne.jp/sunyoonhyun5867kamakiri/e/14b31cbf81eda5ac72f05dac66804bb5
以上のように金時鐘さんは、①2015年の著書では小学校時代に級友が自分を呼んだ時の日本名が「光原」、②2018年の新聞インタビューでは創氏改名が「金谷光原」、③玄善允という方が金さんの母校に残っていた卒業生名簿に「金山時鐘」を発見し2022年に公表。 このように資料上では三つの日本名がありました。
それ以外に両親から名付けられた④「金時鐘」と、今の法律上(日本の外国人登録と韓国の戸籍)の氏名である⑤「林大造」の二つがありますから、全部で五つの名前(日本名は三つ、民族名は二つ)となります。 今、分かる範囲で解説します。
① 「光原」は級友が呼んだ名前です。 ただし次の②にあるように名字ではなく、下の名が「光原」であり、友人間ではこれを呼び合っていた可能性があります。
② 金さん自身は「金谷光原」と創氏改名したと言っておられます。 これが事実ならば、北朝鮮の元山にいる戸主の祖父が1940年に戸籍管轄の地元役場に行って「金谷」と創氏を届け出て受理された後、次に父親が法院(裁判所)に息子の下の名を「光原」にしたいと訴えて判決を受け、その判決謄本を役場に提出して受理される、これでやっと「金谷光原」になります。 ちょっと複雑な手続きですが、姓も名も変える創氏改名というのはこういうことでした。 金さんは子供でしたから創氏改名の手続きをすることはなく、祖父や父親がその手続きをしてくれて、自分は「金谷光原」という日本名になったことだけを覚えておられたようです。
③ 「金山時鐘」は金さんが卒業した小学校の卒業名簿にあった名前ですから、もし事実なら一番信頼性のあるものです。 ただし金さん自身は体験談に「金山」という名前を全く出しておられません。 また彼は下記の朝日新聞記事にありますように1998年にこの小学校を訪ねておられるのですが、ご自分の名前について語っておられません。 従って、「金山時鐘」が本人なのかどうか断定できないところです。 (2019年7月23日付『朝日新聞』 文化文芸欄 「金時鐘④ 語る―人生の贈り物―朝鮮が私の中でよみがえった」 http://shiminhafiles2.cocolog-nifty.com/blog/files/342e98791e69982e99098e38080e8aa9ee3828b.pdf )
④ 一番知られている「金時鐘」は父母に付けられた名前であり、金さんが20歳になるまで韓国で名乗っていたものです。 おそらく当時の朝鮮戸籍に登載されていたと思われます。 ただし金さんの父親は北朝鮮の元山出身ですから本籍は元山にあり、韓国には本籍がなかったでしょう。 従って、元山にある戸籍原本に「金時鐘」が登載されていたと考えられます。
⑤ 「林大造」は、金さんが1949年に日本に密航した際に不正に入手した外国人登録証にあった名前です。 金さんはこの名前を法律上の本名として、これまでの76年間使い続けました。 2023年に韓国戸籍に就籍した時も、この不正入手した「林大造」の名前で登載しました。 これにより「金時鐘」なる人物は、日本でも韓国でも正式に存在しないことになりました。
名前はその人のアイデンティティの非常に重要な要素ですから、ほんの些細な間違いも許されないものです。 金時鐘さんには、ご自身が語った自分の名前の説明をしてほしいですね。
【金時鐘氏の名前に関する拙稿】
玄善允ブログ(1)―金時鐘さんの日本名 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/03/31/9671877
本名は「金時鐘」か「林大造」か http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2018/08/23/8948031
金時鐘氏への疑問(1)―在留資格 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/03/26/9763626
金時鐘氏への疑問(2)―韓国戸籍・墓参り https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/03/31/9764818
金時鐘氏への疑問(4)―日本語・創氏改名 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/04/11/9767588
【追記】
金時鐘さんは、創氏改名についてほとんど語ってきていませんねえ。 ご自分の創氏改名については、今回に紹介した神戸新聞インタビューが唯一ではないかと思われます。
それ以外に検索してみると、金 泰 明さんという方の論文「共生の思想と言語の力―詩人金時鐘と母語の復権」によれば、金時鐘さんは次のように発言されたようです。(2021年8月9日付け『朝日新聞』)
「‥‥教育というものは本当に怖いものでね。 創始(ママ)改名についても、「日本名を持たない朝鮮人の子は廊下に立たされ、親たちはしぶしぶ日本名をつけた」と振り返った。
https://keiho.repo.nii.ac.jp/records/1064 52頁
これは、創氏改名の法的メカニズムや運用を知らないで、〝日本名を強制して民族性を奪った”という、後に広まった間違った知識で語ったものですね。 ですから金時鐘さんがその当時に実際に見たものではないと判断できます。 (6月4日記)
韓国の進歩派の解説―木村幹 ― 2025/06/08
韓国では、6月3日の大統領選挙で進歩派の李在明さんが勝利し、翌日から新政権が出帆しました。 3年ぶりに進歩派が政権を取ったことで、日本でも様々な論評が繰り広げられています。
ところで韓国の進歩派について、私は1980年年代までは韓国の民主化運動に賛成していましたので、それなりに理解できていました。 しかし1987年に今の憲法が制定されて民主化が成し遂げられて以降、進歩派が理解できなくなっていきました。 それでも韓国では有力な運動の流れですから、それなりに関心を持ってきました。
昨日の2025年6月7日付けニューズウィークで、木村幹さんの「『韓国のトランプ』李在明、ポピュリズムで掴んだ勝利の代償とは?」と題する論稿があり、その中で韓国の民主化運動について簡潔に解説してくれていて、参考になりましたので引用・紹介します。 https://news.yahoo.co.jp/articles/fcd310d9609cbd77416c6c49839899f394649efb
木村さんによると、新大統領は進歩派の主流ではなく、傍流だそうです。
彼の経歴を見ると、明らかな特徴がいくつかある。 1つ目は李が進歩派陣営の中でも傍流を歩み続けたアウトサイダーだということである。 2つ目の特徴は盧や文と異なり、李が民主化運動に参加した経歴を持たないことである。
傍流の李在明政権がどのような政治・外交を行なっていくのかは、これから見ていくしかありません。 傍流として独自な考えで実行するのか、あるいは主流に合流してその一員となって継承するのか‥‥。 それはともかく、それまでの進歩派の主流はどういう考え方をして、どのような政策を打ち出したのか、先ずはそれから見る必要があります。
進歩派の主流は次のような考え方を有していたと、木村さんは解説します。
盧(武鉉)から文(在寅)へとつながるかつての進歩派の主流の人々は、1987年の民主化運動において一定以上の役割を果たした人々であり、それ故に明確な世界観を共有していた。
彼らに言わせれば、権威主義体制期に韓国を支配した今日の保守派につながる人々は、かつての植民地支配期における日本への協力者、韓国で言うところの「親日派」の末裔であり、こうしたかつての「親日派」につながる少数の人々の支配が、政治の世界においてのみならず、韓国の経済や社会、さらには学術の世界にまで広く及んでいると認識した。
だからこそ彼らは、この保守派による支配の打破が民主化であり、「国民」の手に権力を取り戻すことだと考えた。
言い換えるなら、盧や文にとって民主化とは、単なる政治における民主的要素の導入にとどまらない意味を持っていた。彼らはその延長線上で国際社会についてもこう考えた。
保守派の支配を支えてきたのはアメリカとそれを支配する多国籍企業である。その背後には北朝鮮からの脅威にさらされる韓国が、アメリカとの同盟関係なしに、自らの国家を維持できない状況がある。
だからこそ、保守派の支配を打破して、「国民」の手に国家を取り戻すためには、国内における民主化運動の展開のみならず、北朝鮮との間での平和的関係の構築が必要である。こうして朝鮮半島とその周辺に平和がもたらされれば、アメリカに依存しない体制が可能になる。
結果、アメリカに支援される保守派の支配は終わり、「国民」が支配する「真の韓国」が実現できる──と。
なるほど簡潔で分かりやすいですね。 特に文在寅政権は内政にしろ外交にしろ、何故あんなことを言って実行していくのか、見ていてちょっと理解できなかったのですが、これを読んで、なるほどそういう考えだったのか!と妙に納得した次第です。 だから木村さんのこの分析は正鵠を得ていると考えます。 新大統領はこのような本流ではなく傍流ですが、それでもある程度の方向性は見えてくると思われます。
ところで日本では昔から韓国の民主化運動=進歩派に肩入れする人が多く、反対に保守派に肩入れする人はごく少数でした。 またそういう韓国内の対立から離れて、客観的に分析する人はほとんどいなかったように思います。
そういう中で30年以上前とちょっと古いですが、田中明さんが〝民主化運動の担い手は李朝時代の両班の後裔”とする論稿を書かれていて、〝なるほど、そうだ!”と感心したことがあります。 また3年前の韓国の有力紙『朝鮮日報』で、両班の理念が現代の進歩派に復活していると論じる論稿がありました。 韓国の進歩派はこういう視点で分析することが有効だと考えます。 合わせてお読みいただければ幸甚。
「通常‐両班社会」と「例外‐軍亊政権」―田中明 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/06/07/9497623
「例外」が終わり「通常」に戻る―田中明(2) https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/06/14/9499717
「両班」理念が復活した韓国―『朝鮮日報』(1)http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/05/17/9491298
李朝の「両班」理念が復活した韓国(2) https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/05/24/9493453
李朝の「両班」理念が復活した韓国(3) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/05/31/9495653
金時鐘氏への疑問(13)―石鹸工場・民戦 ― 2025/06/13
https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/05/24/9777663 の続きです。
⑲ 石鹸工場での写真の謎
金時鐘さんは1949年6月に密入国して大阪の猪飼野にやって来た際、幸いに「金井」さんという同郷の人に出会ってローソクを作る小さな工場を紹介されて働きました。 しかしそのローソク工場は年末いっぱいで廃業します(『朝鮮と日本に生きる』岩波新書 241・242・246頁)。 その後は石鹸工場で働き始めます。
(1949年)年末ぎりぎりに、通称鶏舎長屋と呼ばれている南生野町の板間ひと間のバラック建ちの中年夫婦の部屋に移りました。 ‥‥ 仕事は下宿先の〝兄さん”が見つけてくれた、布施市(現在の東大阪市)の高井田にある石鹸工場に雑用係として働くようになりましたが、かなり離れている百済のバス停から今里経由で高井田まで行かねばならない、交通費の半分は自分持ちの遠距離通勤でした。 (『朝鮮と日本に生きる』 246・247頁
私が日本で迎えた初めての新年は、朝鮮戦争が勃発する1950年に立ち入っていました。 なんとか在日朝鮮人の運動団体につながらねば、と思っているところへ、日本共産党への集団入党が地区単位で出来るとの誘いが、生野区の朝連(在日本朝鮮人連盟)活動家からもたらされました。 ‥‥ 1月末、自己を奮い立たせるように日本共産党の党員のひとりになりました。 2月いっぱいで石鹸工場もやめて、中川本通り(生野区)近くにあった民族学校跡の、民戦大阪本部臨時事務所に非常勤で詰めるようになりました。 (同上 247・248頁)
金時鐘さんは石鹸工場を1950年2月いっぱいで辞めたのですから、2ヶ月間だけ働いたことになります。 そして今度は共産党に入党して傘下の「民戦」で働き始めたそうです。 ところが金さんの近著『金時鐘コレクション7』(藤原書店 2018年12月)の最初の口絵には、「1950年4月(来日の翌年) 大阪・高井田の石けん工場にて」と題する金さんの写真が飾られているのです。 http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/kimSijong.jpg (該当キャプションに赤線を引きました)
つまり金さんは「民戦」で働いている最中に、何ヶ月か前に辞めていた石鹸工場にわざわざ行って写真を撮ったことになります。 当時は写真を撮ること自体にお金がかかる時代であり、その工場に行くのにも交通費が要ります。 果たしてそんなことがあり得るのだろうか? この写真は本物なのだろうか? あるいは2月に石鹸工場を辞めたというのは本当か? などの疑問が湧きます。
⑳ まだ結成されていない「民戦」に加入したとは?
「民戦」は「在日朝鮮統一民主戦線」の略称ですが、金時鐘さんの『朝鮮と日本に生きる』259頁によれば「在日朝鮮民主主義統一戦線」と名称が違っています。 また彼はこの「民戦」について、
(解散させられた朝鮮人連盟の)後継組織として1951年1月に正式に発足する民戦 (同上 248頁)
と説明しています。 そしてこの「民戦」で働くようになった経過は、次のように説明します。
1949年の9月‥‥すでにGHQと日本政府によって強制解散させられた‥‥ この強制解散にも4・3事件の裏打ちのような反共の暴圧を感じ取っていた私は、1月末、自己を奮い立たせるように日本共産党の党員のひとりになりました。 2月いっぱいで石鹸工場も辞めて、中川本通り(生野区)近くにあった民族学校跡の、民戦大阪府本部臨時事務所に非常任で詰めるようになりました。 (同上 248頁)
つまり金時鐘さんは、「民戦」は1951年1月に発足したとしながらも、その「民戦」で前年の1950年3月から働くようになったと記しておられるのです。 記憶の勘違いなのでしょうかねえ。
些細なことでも事実関係に問題があれば、全体の信用性に影響が出てくるものです。 (続く)
金時鐘氏への疑問(1)―在留資格 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/03/26/9763626
金時鐘氏への疑問(2)―韓国戸籍・墓参り https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/03/31/9764818
金時鐘氏への疑問(3)―教員免許・公務員就職 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/04/05/9766006
金時鐘氏への疑問(4)―日本語・創氏改名 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/04/11/9767588
金時鐘氏への疑問(5)―政党加入・4・3事件 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/04/18/9769221
金時鐘氏への疑問(6)―4・3事件(その2) https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/04/23/9770375
金時鐘氏への疑問(7)―4・3事件(その3) https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/04/28/9771478
金時鐘氏への疑問(8)―西北青年団 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/05/02/9772477
金時鐘氏への疑問(9)―韓国否定と北朝鮮容認 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/05/09/9774295
金時鐘氏への疑問(10)―北朝鮮批判と擁護代弁 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/05/14/9775437
金時鐘氏への疑問(11)―スキー客・新井鐘司 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/05/19/9776467
金時鐘氏への疑問(12)―崔賢先生 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/05/24/9777663
金時鐘氏への疑問(14)―吹田事件 ― 2025/06/18
https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/06/13/9782053 の続きです。
㉑ 吹田事件 ―デモ隊は十三大橋を渡ったのか
「吹田事件」というのは1952年に共産党が起こした三大騒擾事件の一つで、金時鐘さんはこれに参加しました。 朝鮮戦争に向かう米軍の軍事物資を載せた列車は吹田操車場を通るので、これを阻止するために、豊中にある大阪大学キャンパスに1000人(一説では3000人)ほどが集まり、深夜にデモを開始します。 デモ隊は二手に分かれました。 一つはそこから操車場までデモ行進し右翼や反動人士宅を襲撃しながら進む「山越え部隊」と、もう一つは阪急石橋駅から電車に乗って行く「人民電車部隊」です。 金さんは山越え部隊に入りました。
待兼山で徹夜して、山越え組についていきまして、石橋駅で人民列車を走らせて、吹田操車場でデモを起こして、列車を遅延させます。 待兼山を出て山越えする間、まず吹田操車場にくるとき、もうすでに、機動隊の大部隊が、私の一番しんがりの、ものの30メートルくらいの距離を、ビシッとついてくるんですね。 ‥‥ 吹田事件のあんだけ勇ましい活動をよくやった友人たちがいるなかで、私はずっと、吹田操車場にきて、迫ってくる警官を、(大便を)たらしもって見て走って、たらしもって見て走った。 (「吹田事件・わが青春のとき」 『わが生と詩』岩波書店 2004年10月 所収 127・130頁)
金さんは途中で激しい下痢に襲われたため、操車場で列車を阻止する活動は十分にはできなかったようです。 それからデモ隊は操車場から大阪(梅田)へ移動するのですが、金さんは次のように記します。
私は十三大橋をデモで渡って、梅田に行ったときはもう、機動隊は梅田界隈で厳戒態勢に入ってましたね。 梅田では大掛かりな検束が始まるのですが、それを振り切って、今の環状線、当時は城東線といいましたが、それに乗るために、つまり満員電車に入り込むことが検束から逃れられるというふうに、私らは踏んどったものですから、大方は最寄りの東口、城東線めがけて土石流のように駆け上がった。 後から追っかけてきた警官と、あの顔は、いまだに忘れられない。
私は非常にずるい。 まあ経験もあったものですから、梅田を東口、中央口からは、上がりませんでした。 私は「マルセ(共産党民戦の実力組織である祖国防衛隊の機関紙名)」の写真をやっている青年と、あの当時、北側に貨物駅があったんですが、貨物駅に沿って、中央郵便局の方に回りまして、そこからホームに上がったんです。 上がったら、もう修羅場でした。 水平にピストルを撃つのを見ました。 吹田操車場から十三大橋に向かう途中、私たちの隊列に沿って走り抜けようとした機動隊の無蓋トラックに隊列の中から火炎瓶を投げつけられて、その家族の人には申し訳ないけど、それこそ芋ころが転がり落ちるように5、6人の警官が火だるまになってこぼれ落ちていましたね。 (以上、同上131~132頁)
夫徳秀さんは当時、組織されたばかりの略称ミネチョン、民主愛国青年同盟の大阪府委員長で、あの梅田到着まで十三大橋を渡ってデモをした先頭におりました。 ‥‥ 私はデモ隊の一番後ろの部隊にいました (同上 122頁)
ここに「十三大橋をデモで渡って」「吹田操車場から十三大橋に向かう途中」と出てきます。 あれー?! 吹田操車場から十三大橋までは一本道はなく、遠回りして行かねばならないはずです。 吹田から梅田(大阪駅)までは地図上の直線距離でも8キロですから、十三大橋回りの道を歩くならば十数キロになります。 前日の深夜に出発して夜通しデモ行進し続け、早朝に操車場に着いて乱入するなどの列車妨害活動した後、さらに梅田まで十数キロを集団でデモするなんて、いくら血気にはやる若者たちといっても無理ではないかと思いました。 ましてや金さんは、激しい下痢で体調を崩していたのです。
このデモ隊の先頭だったという夫徳秀さんは事件の首魁として逮捕・起訴された方ですが、次のように語っています。
それから吹田操車場の北側に出て、今度は大阪の目抜き通りの御堂筋で朝鮮戦争反対デモをやろうと、国鉄吹田駅から列車で向かうことになった。 ‥‥ 吹田駅での混乱をくぐり抜けて、わたしらは列車で大阪駅に移動したんやけど、その大阪駅でも警官がピストルで威嚇しながら、デモ参加者を逮捕しようとしたんや。 (『在日一世の記憶』集英社新書 2008年10月 560頁)
やはりデモ隊は近くの吹田駅で列車に乗り込んで梅田(大阪)まで行ったのであり、十三大橋を渡らなかったのです。 ここは金時鐘さんの間違いでしょう。
些細なことであっても事実関係の間違いが一つでもあれば、他にも間違いがあるだろうと考えられて、全体の信用を失いかねません。 (続く)
【金時鐘氏に関する拙稿】
金時鐘さんの創氏改名は「金谷光原」―神戸新聞 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/06/03/9779836
金時鐘氏はどういう言葉を使ってきたのか?(1) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/07/30/9705285
金時鐘氏はどういう言葉を使ってきたのか?(2) https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/08/04/9706635
金時鐘氏はどういう言葉を使ってきたのか?(3) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/08/09/9707790
玄善允ブログ(1)―金時鐘さんの日本名 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/03/31/9671877
核問題は北朝鮮に理がある―金時鐘氏 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/01/23/9653071
金時鐘氏が正規教員?―教員免許はないはずだが‥ http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/01/16/9651219
金時鐘氏は不法滞在者なのでは‥(1) https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/10/07/9623500
金時鐘氏は不法滞在者なのでは‥(2) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/10/12/9624809
金時鐘氏は不法滞在者(3)―なぜ自首しなかったのか http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/10/17/9626078
金時鐘『朝鮮と日本に生きる』への疑問 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/07/28/7718112
金時鐘さんの法的身分(続) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/08/13/7732281
金時鐘さんの法的身分(続々) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/08/26/7750143
金時鐘さんの法的身分(4) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/08/31/7762951
毎日の余録に出た金時鐘さん http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2018/08/27/8950717
本名は「金時鐘」か「林大造」か http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2018/08/23/8948031
金時鐘さんは本名をなぜ語らないのか? http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2019/07/02/9110448
金時鐘さんは結局語らず http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2019/08/13/9140433
金時鐘さんが本名を明かしたが‥‥ http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2019/10/26/9169120
金時鐘『「在日」を生きる』への疑問 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2018/03/01/8796038
金時鐘さんの出生地 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/07/05/7700647
青木理・金時鐘の対談―帰化(1) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/09/08/9524343
青木理・金時鐘の対談―帰化(2) https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/09/15/9526042
武田砂鉄の被差別正義論―毎日新聞 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2018/03/24/8810463
社会的低位者の差別発言 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2020/05/09/9244588