長生炭鉱刻む会代表のインタビュー―『週刊朝鮮』(1) ― 2026/03/16
太平洋戦争中の1942年、山口県宇部市沖の海底下で操業していた長生炭鉱で水没事件が起こり、183人(うち136人が朝鮮人)が犠牲となりました。 この事件の歴史を記録し追悼しようと「長生炭鉱の水非常を歴史に刻む会」(以下「刻む会」)という市民団体が1991年に発足し、2024年より犠牲者の遺骨の発掘作業をしてきました。 これはマスコミに報道されて、広く知られるようになりました。 そして今年の2月7日にこの作業をしていた台湾人潜水夫が事故死するという事件が発生しました。
この痛ましい事件が起きた二日前の2月5日に韓国の『週刊朝鮮』記者が「刻む会」の代表者にインタビューしていて、そのインタビュー記事が『週刊朝鮮2897号』(2026年2月16日)に掲載されましたので訳してみました。 市民団体の活動の理念や意図が何であり、どのような活動をしてきたのかが分かります。 翻訳文の途中で、私の感想を挟みます。
「刻む会」井上洋子 代表理事 「遺骨から探さねば謝罪も補償も要求できない」 イ・ヨンギュ記者
長生炭鉱の遺骨発掘を主導する人物は、井上洋子「刻む会」代表理事だ。 今年76歳の井上代表は子どもの時から朝鮮人強制労働に関心を有してきた人物として、日本で差別を受けていた在日同胞を助ける市民団体にも関係した。 彼女は自分が暮らす所で起きた惨劇に目を背けることが到底できなかったと打ち明けた。 40年余りの活動の末、遺骸の発掘と奉還を目の前にした井上代表は、韓日間の過去の歴史問題について「すぐにでも謝罪と賠償を受けたいとする人がいるのは分かるが、一歩ずつ進んでいきたいという気持ちを理解してほしい」と語った。 彼女とは去る2月5日、日本の山口県宇部市の現地で会った。
―故郷が山口県ではないと聞いた。
「そうです。 終戦の5年後である1950年生まれで、長野県下伊那郡天龍村という大変貧しい村で生まれました。 近くの天竜川という大きな川に平岡ダムがありましたが、朝鮮人2300人、中国人400人、戦争捕虜400人など、3000人余りの強制労働者で作られたダムでした。 子どもの時、クラスに日本名を使った朝鮮人の子どもたちが何人かいましたが、私は彼らが朝鮮の人であることを知らずに卒業しました。」
井上さんは1950年生まれですから、小学校時代は1950年代後半~60年代前半です。 とすると、その時その村にいた朝鮮人の生業は何だったのかが気になるところです。 戦争中にダム建設工事に従事していた朝鮮人がそのまま村に残ったのでしょうか。 ダム建設は戦後の1951年まで続いたとされるので、その可能性はあります。 しかし工事が終われば仕事を求めて都会へ流れるものなのに、朝鮮人はその後10年もその村に残っていたことになります。 また元々の村の主たる産業は農業と思われるのですが、工事に従事していたよそ者が農業することは普通は考えられません。 農業以外の仕事に従事していたのでしょうか、それとも何か特別な事情があったのでしょうか。
―当時は自分の故郷が強制動員の現場であったという事実を知らなかった。
「東京での大学時代、友達が『朝鮮人強制連行の記録』という本を貸してくれました。 自分の故郷の名前がそこに出てきました。 私が自慢のように思っていた天龍村が数多くの人々を強制労働させた村だったことを初めて知るようになりました。 山に遺骨がずっと捨てられたままであるという文が書かれていました。 あまりにも大きな衝撃でした。 高校の先生に「なぜ教えてくれなかったのか」という手紙を送ったくらいでした。 後に山口県に引っ越してきて、海に捨てられた遺骨があるって。 私の心の中に抱いていた〝山に捨てられた遺骨”と〝海に捨てられた遺骨”が私の中で一つに繋がったのでした。」
井上さんは1950年生まれですから、大学時代は1960年代末~1970年代と思われます。 ちょうど全共闘運動が盛んな時期でしたから、多くの学生が左翼へ流れていっていました。 朝鮮問題にも関心が高まっていて、〝朝鮮人は強制連行・強制労働の犠牲者である”というような本がよく読まれていたものです。 彼女もその一人だったようです。
―若い頃に、在日僑胞の「指紋押捺拒否運動」も応援した。
「犯罪者のような扱いをするのだから、若者たちが集まって指紋を拒否する抵抗運動を始めたのです。 私たち日本人もこれを通じて、言ってみれば〝目を覚ませ、日本人”のような勉強をするようになったのです。 この闘争が政治的に解決した頃、長生炭鉱の悲劇を知るようになりました。 (事実上在日僑胞を狙った政策だった外国人指紋押捺義務制度は1993年に廃止された) 在日朝鮮人の歴史を勉強した際に、近場でこんな悲劇があったことを知るようになり、これを歴史に刻もうという気持ちで始めたのです。」
―日本の代表的な労働組合連盟である「連合(日本労働運動組合総連合会)」の常勤者として長年勤めてきたことが運動のきっかけだったのか。
「30年以上、書記として勤めました。 ところで日本の労働運動は政治・社会の議論には目を向けません。 在日朝鮮人に視線を向ける組合ももちろんありませんでした。 私はそんな組合の風土に疑問を抱いていました。 職場の中ではこんな活動をしていることは一切言わなかったし、言ってもムダな組織でした。 だから60歳で定年を迎えた時、さらに5年働くチャンスもあったのですが、解放されたかったのです。 直ぐにこの運動に専念しました。 そして10年の間、広島から山口を行き来しながら運動しました。」
井上さんは労働組合の専従書記をしながら、在日朝鮮人問題に関わって指紋押捺問題などに取り組んだというのですから、左翼活動家の典型ですね。 ただ労働組合は社会党系の総評でも1980年代以降に体制内化し左翼運動ではなくなっていったので、彼女のような活動家には「組合の風土に疑問を抱く」ことになったと考えられます。 だからこそ、組合活動と関係ない在日問題に首を突っ込んだということでしょうか。
彼女は労働組合の専従をしながら長生炭鉱の問題に関わってこられたのですが、退職してからはこの長生炭鉱問題に専念することになりました。 私もかつて左翼がかっていたので、彼女の経歴は理解できます。 しかし55年以上経った76歳になっても左翼を続けておられるところに、驚きとともに執念を感じますね。 私なんかは1989年の東欧、続けて1991年のソ連の共産主義崩壊で、左翼を離れました。 だからこそ、彼女の経歴に驚嘆するのです。 (続く)
【追記】
2026年3月15日付けの毎日新聞に、「なるほドリ・ワイド 山口・長生炭鉱遺骨収容」というタイトルの記事が出ています。 ただし有料記事です。https://mainichi.jp/articles/20260315/ddm/005/070/092000c
【関連論稿】
第47題 指紋押捺拒否運動への疑問 http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daiyonjuunanadai