朝鮮の「実学」とは?2023/12/26

 韓国の歴史を読んでいると、朝鮮時代(李朝時代)は近代化するだけの体制や学問、思想があったのに、日本が植民地化してこういった近代化の芽を潰した、という話があります。 その〝近代化の芽″というのが「実学」だということです。 『韓国・朝鮮を知る事典』(平凡社 1986年3月)には、次のように説明されています。

朝鮮の伝統儒教である朱子学が朝鮮王朝中期ごろからしだいに現実離れして虚学化したのに対し、儒学内部からの内在的批判を通じて登場した《実事求是》の思想および学問を実学といい、その学派を実学派とよぶ。‥‥ここにいう実学とは、実証性と合理性に裏付けられた現実有用の学問という意味である。 (182頁)

 こういう類の朝鮮史を読んだ時、李朝時代に近代を準備するだけの学問があったのだ、それが「実学」という名称からして農業を始めとした産業の発展に寄与する実用書なんかがあったのだろうとイメージしたものでした。

 さらに想像を膨らませました。 日本の江戸時代に近代に繋がるものとして、蘭学はもちろんのこと、例えば商人は大福帳のような精細な会計帳簿をつけていて、これが明治になって近代的企業会計を導入するのに大いに役立ったとか、関孝和のような和算学の発達が明治時代に西洋数学の理解につながったとか、つまり明治の近代化を準備する思想や学問が江戸時代に既にありました。 朝鮮も李朝時代にこのような類の学問があり、それが「実学」だと思ったのでした。

 ところが、安宇植という評論家が朝鮮の「実学」について、日本のそれと比較して次のように言っています。

確かに江戸や大坂の商人の商いを見たって、町人や庶民という、武士でない人たちから、新しい儒教が実学思想として生まれてくるわけですけれど、朝鮮半島の場合は商人のなかから実学思想が生まれるなんてなかったですね。 結局、両班階級とその下の中人階級のなかから生まれてくる。

‥‥ 結局、朝鮮では実学思想が両班階級から庶民階級に流れていかないんですよ。 流れていたのは天主教(カトリック)だけでした。 あくまで身分制度がネックになっていくんですね。 実学思想を持つ人たち、ことに近世になってくると金玉均らの周辺にずいぶん集まりますね。 そして情報を提供したり、いろいろ道をつけるけれども、やはり階級的な壁というのが乗り切れなかったんじゃないかな。

‥‥ 中人階級というのは、外国からの文章、情報を翻訳したりする仕事がほとんどですから、外からの情報に一番早く接するわけです。 彼らの持ってきた情報が、たとえば実学派なり、その流れを汲む一部の人たちには入っても、そこから広がっていかない。 結局、実学派の考え方で終わってしまう。 (以上 川村湊編『韓国 知の攻略』作品社 2002年5月 118頁~119頁)

 李朝時代は両班という上流階級が現実離れの朱子学をもっぱらにしてきたのですが、一部の両班階級と実務を担当する中人階級から「虚学」を批判する「実学」思想が芽生えた、しかし実学はそれに止まって朝鮮社会全般に広まらなかった、だから生産・経済を発展させることに繋がる学問はこの時代には生まれなかった、ということですね。

 私はそれまで、李朝時代は実学という未熟ながらも近代を準備できるだけの学問があったと思い込んでいたのですが、それは虚像・幻想だったのでした。 「実学」は「虚学」の朱子学を批判しただけで、現実の社会を豊かにするものではなかったのです。 つまり実学は同じ儒教内での議論に止まり、近代を準備するところにまで到達していなかったと言えるのです。 

 姜在彦『朝鮮儒教の二千年』(朝日選書 2001年1月)や小倉紀蔵『朝鮮思想全史』(ちくま新書 2017年11月)には朝鮮の実学を解説しているのですが、その内容がようやく分かってきました。

 朝鮮は19世紀後半に欧米や日本から、シャーマン号事件や江華島事件などによって開国を強要されて近代に入るという歴史を歩みました。 それは近代への準備を全くできないまま、いきなり、そして無理やりに近代に突入したのでした。 朝鮮の「実学」もまたやはり「虚学」の範囲から抜け出られなかったのです。 それが〝朝鮮の悲劇″と言える歴史の始まりだったと考えます。

 李朝時代の歴史については、拙ブログでは下記のように論じたことがありますので、ご笑読いただければ幸い。

『醜いが、目をそらすな、隣国・韓国!』(8) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2014/04/09/7270572

『醜いが、目をそらすな、隣国・韓国!』(9)http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2014/04/14/7274402

『醜いが、目をそらすな、隣国・韓国!』(10)http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2014/04/20/7289374

朝鮮に封建時代はなかった     http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/11/23/7919936

李朝はインカ帝国なみか?     http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/11/28/7926396

福田徳三について         http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2019/04/03/9054853

福田徳三について(2)       http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2019/04/21/9062338

李氏朝鮮時代の社会        http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2006/10/14/560250

成均館大の宮嶋教授           http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2013/01/20/6696277

成均館大の宮嶋教授 (続)         http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2013/01/25/6701490

在日朝鮮人が話す北朝鮮2023/12/19

 在日朝鮮人が日本に帰国することを前提に祖国の北朝鮮を訪問することは、1970年代初めまでは基本的に認められていませんでした。 北朝鮮に行ったらそれっきりで、日本に戻ることができなかったのです。 それが日本政府の方針でありました。 それが改まったのは、1970年代のデタント(東西の緊張緩和)という国際情勢の変化でいつまでも北朝鮮と緊張関係を続けられないとされて、在日朝鮮人の訪朝(一時帰国と言われていた)が認められるようになりました。

 ですから在日朝鮮人は1970年代後半から、十数年前の1960年前後に北朝鮮に帰国した親族を訪ねることが多くなりました。 私自身はこの時期に北朝鮮の親族を訪問したという在日朝鮮人から話を聞いたことがあります。

 二人ほどでしたが、一人は焼き肉屋を経営していた女性でした。 1960年ごろに兄の家族が北朝鮮に帰国しており、その兄を訪ねたそうです。 「北朝鮮はどんな国でしたか?」と聞くと、平壌の地下鉄や都市の風景、観光名所などに行ってきたという写真を見せてくれて、「こんなにきれい所だったよ」と言っておられました。 しかし肝心のお兄さんたちがどんな家に住み、どんな暮らしをしているのかについては全く話がなく、写真もありませんでした。 「北朝鮮はいい国だと言う人と、あんなひどい国はないと言う人とがいますが、行ってみてどうでしたか?」と聞くと、「後ろの方と思ってくれてもいいよ」。 次に「日本と比べて住みやすそうなところでしたか?」「それは日本、あっちは隣の村に行くのに一々許可がいるんよ。」 これ以上聞くとヤバそうなので、話はそれで終わりました。

 もう一人は在日のおばあさん。 「この前、北鮮にいる弟のところ、行ってきましたんや。 北鮮というところ、太ってるのは金日成だけや。」 この方はそれ以上のことを言わなかったし、私も聞きませんでした。 ただ北朝鮮を「北鮮」と言っていたのが印象的でした。

 家が朝鮮総連系の在日の方から、北朝鮮に帰っている兄の話を聞いたことがあります。  「兄貴が北朝鮮にいて、しょっちゅう手紙が来る。 幸せに暮らしているとか書いてあるけど、金送れ、薬送れ、服でも何でも送れ、そればっかりや。 幸せに暮らしていて、なぜ金送れ!なんて言うんや。 総連の奴らは北はいい所なんて言っとるけど、全然いいことない。 そう言うんやったら、あいつらが北に帰ればいい。 自分らが帰らんくせに、何でいい所なんや。」 あまり詳しく聞いてはいけないと思って、これ以上聞きませんでした。

 1980年代になってからですが、ある在日女性の話。 1984年に『凍土の共和国―北朝鮮幻滅紀行』(金元祥著 亜紀書房)という本が出版され、すぐさま買ったそうです。 そして家族が寝静まった夜に、一気にそれを読んだとのことです。 曰く「あれに書かれていることは本当だ」。 その一言を言った後は、何も言いませんでした。 その方の親族に北に帰った人がいるなんて、それまで聞いたことがなかったので少々驚きました。 時々手紙が来ていたようですが、彼女は北について何も喋ってこなかったのです。 

 私の場合、在日から北朝鮮の話を聞いたのは以上の四人だけです。 わずかな情報でしたが、四人とも喜んで話すことはなくポロッとしゃべるだけでした。 その時は、北朝鮮の親族たちはかなり苦労しているのだろう、そんな苦労は身内のことだから他人に話したくないのだろうと思いました。

 一方、当時『朝日ジャーナル』などの雑誌に北朝鮮の訪問記が時々載っていて、そこの人々は質素ながらも〝明るく希望を持って暮らす幸せな北朝鮮社会″が報じられていました。 それを読んでいた私は上記のように在日からの話を聞いていたので、そういう人もいるだろうが苦労している人もいるのだ、訪問記は真実の一面だけを書いたものだと思っていました。 

 ところが1989年に東ヨーロッパで社会主義が崩壊し、社会主義国の内情が暴露されました。 ルーマニアなど社会主義体制下で人民がどれほど悲惨な暮らしをしていて、その真実を外国人に話すことが犯罪になっていたことを知り、ようやく目が覚めたのでした。 そしてそれまで読んできた北朝鮮訪問記の、〝北の人民は明るく希望を持って幸せな生活を送っている″とする記事はすべてウソだと悟りました。 在日が北の親族についてポロッとしゃべってそれ以上言わないのは単なる苦労ではなく非常に深刻なものであること、そしてそれを口外することがどれほど危険であるのか、それが分かってきたのです。 北朝鮮に帰国した親族がいるはずの総連系の人が、北について何も喋ってこなかったのも理解するようになりました。 ポロッと一言しゃべってくれたのは私を信頼したからであって、普通は全く喋らないのです。 『朝日ジャーナル』などの雑誌に掲載されていた北朝鮮訪問記はすべてウソであり、真実は全くないのでした。 

 そのころにロシア少数民族の研究者と話をしたことがあります。 ソ連が崩壊した直後に訪問したので、現地の人は以前より自由にものをしゃべれるようになっていたそうです。 北朝鮮に仕事で行ったことがあるという現地人が、〝我々の国も酷かったが北朝鮮はもっと酷い、世界最悪だ″などと言っていたそうです。 以前の私でしたら〝それは一部を見ただけに過ぎない″と考えたでしょうが、その時はもう〝確かにその通り、滅茶苦茶な国だ″と賛同するようになっていました。

 以上のような経験と、更に横田めぐみさんらの拉致事件が明白になったことによって、私は北朝鮮や朝鮮総連に対する不信感が決定的で動かせないものになりました。 だからこそ北朝鮮を感情的に見るのではなく、冷静に客観的に分析するように見なければならないものです。 しかし一度は北朝鮮を信じ、世に出回る反北朝鮮情報は反共右翼の宣伝物なんて思っていましたから、今の私は北朝鮮に対してどうしても感情的になりますね。

【北朝鮮に関する拙稿】

朝鮮民主主義人民共和国の正統性は何か? http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/11/21/9636056

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『労働新聞』の論説―朝鮮戦争70周年(1) https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/07/27/9605137

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『労働新聞』の論説―朝鮮戦争70周年(4) https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/08/08/9608146

『労働新聞』の論説―朝鮮戦争70周年(5) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/08/12/9609128

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北朝鮮の「갓끈 전술(帽子の紐 戦術)」 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2019/01/08/9022748

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北朝鮮の核開発の目的   http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2017/09/07/8671910

自主的、民主的、平和的統一       http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2012/04/22/6421457

南朝鮮解放路線はまだ第一段階      http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2013/03/30/6762019

北朝鮮を甘く見るな!(1)        http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2014/07/23/7395972

北朝鮮を甘く見るな!(2)        http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2014/07/28/7400055

北朝鮮を甘く見るな!(3)        http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2014/08/02/7404064

北朝鮮が崩壊しないわけ         http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2007/08/04/1701479

北朝鮮の百トン貨車           http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2007/08/11/1716894

『写真と絵で見る北朝鮮現代史』     http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2011/02/06/5665262

韓国と北朝鮮の歴史観が一致する!!   http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2011/02/10/5675477

白い米と肉のスープ           http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2011/02/14/5680393

韓国の北朝鮮研究            http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2011/02/22/5698027

1970年代の北朝鮮=総連の手口     http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2011/11/12/6199653

先軍政治は改革開放を否定するもの    http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2011/12/23/6256776

金正日急死への疑問           http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2012/01/15/6293047

和田春樹『北朝鮮現代史』        http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2012/04/29/6428366

北朝鮮は社会主義の盟主を観念的に目指す http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2013/02/16/6722829

北朝鮮の宋日昊が日本を脅迫      http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2014/10/10/7455119

北朝鮮を後押しする中国        http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2016/02/08/8011036

在日韓国人と本国韓国人間の障壁2023/12/12

 もう40年以上も前の経験ですが、在日が本国韓国人と会うのを嫌がるのを多々見ました。 例えば民族差別と闘う在日の場合、「我々在日は日本から民族性を奪われてきたから、本名を名乗り歴史を学んで民族性を取り戻し、差別する日本社会と闘うのだ」などと勇ましく言っていました。 だから本国から来た韓国人とは同じ民族なのだから我々日本人とは違ってすぐに打ち解けるものと思っていたら、そんなことはなく、じっと黙ったままでした。 またある在日は勤め先の会社が韓国と合弁事業を始めて、韓国の相手先会社の役員が来日する時に会わせられそうになったので、その日は会社を休んだという実話を聞きました。

 また二世が親に連れられて韓国の故郷に行ったという話はよくありました。 民族性を取り戻すチャンスなので、「よかったですねえ、向こうはどうでしたか?」と聞くと、むつっとして喋らない。 その時は、〝これはこの人だけの場合であって、そういうこともあるだろう、一般的にはそうではないはず″と思って、それ以上は聞きませんでした。 

 しばらくして、在日が本国韓国人に会うのは、そこが日本であれ韓国であれ、嫌がるものだということに気付きました。 在日は本国韓国人と会うこと自体を最初から嫌がる場合が多いのでした。 民族差別をなくさねばならないと考える日本人は、韓国の悪口を言わないのですが、在日と親しくなるとその在日から韓国の悪口を聞くことになります。  「韓国人のくせに」と叱られた、在日のことを何も分かっていない、もうあいつらなんかと話したくない、もう韓国なんかに行きたくないというのが定番の悪口でした。

 本国韓国人は私のような日本人の場合には「ハングンマル チャラシネヨ(韓国語、お上手ですね)」と言ってくれるのですが、在日へは「チェデロ モタヌンガ(ろくに喋れないのか)」となるようです。 民族を取り戻すために韓国語や歴史を一生懸命勉強したと思ってきた在日は、この厳しい言葉を聞いてショックを受けるのですねえ。

 鄭大均さんは『在日韓国人の終焉』(文春新書 平成13年4月)という本のなかで、次のように書いています。

多くの在日韓国人にとって韓国とは、父母や祖父母たちの故郷であり、単なる外国の一つというよりは因縁のある地だとしても、肯定的な関心が作用する地ではない。 (135頁)

母国にある種の同一化を期待してやってきたような在日韓国人にはむしろ違和感を覚えさせるような経験  (129頁)

実は、在日韓国人にとって、ニューカマーの韓国人は付き合いやすい相手ではない。 在日韓国人が韓国籍を維持しながらも韓国や韓国の文化には無関心であるのに対し、ニューカマーの韓国人は韓国人としての自己を、韓国や韓国文化とのつながりの中で確認し証明しようとする、いいかえると、ニューカマーの韓国人は彼らが韓国人らしさと考えることを実践しない者を韓国人とは見なさない。 在日韓国人のように、韓国語を失い祖国に無関心という人間はもはや韓国人とはみなされないのである。 (145頁)

これは在日韓国人が長い間維持してきた心の均衡が揺り動かされるような体験である。 ‥‥ 在日韓国人はニューカマーの韓国人と見られることを嫌うし、在日韓国人が喋る韓国語は韓国人からバカにされる。 在日韓国人が長い間維持してきた心の均衡が、ニューカマーの韓国人によって揺り動かされる‥‥ (145~146頁)

 在日が1970年代ころからよく言うようになった「自分は日本人でもなく韓国人でもない、在日なんだ」は、鄭さんのいう「心の均衡が揺り動かされる」、すなわち心のバランスが崩れることなのです。 それは〝韓国人でありながら中身は日本人と同じ″という矛盾の現れと言うことができます。

 かつて〝在日は日韓の橋渡し″だとか、〝在日をどう扱うかによって日本社会の国際化が問われる″とか言われたことがありましたが、実は今の在日にはそんな存在意義がないのでした。 「日本人でも韓国人でもない」と言った時点で、もはや〝日韓の橋渡し″なんか出来ないことを意味し、また今の日本での在日外国人問題において自分たち在日の役割がないことも意味するので〝日本社会の国際化″に貢献することもありません。 

 これから在日はどのように生きていくのか。 ある者は〝もはや韓国人であり続けたくない″と帰化し、またある者は〝今のままでいい″と韓国籍を維持し、時には〝本国の韓国人と同じにするな!″と言い、そしてまたある者は民族に覚醒して〝日本にはまだまだ民族差別がありこれと闘う″等々‥‥。 どの道を選ぶかは個々の在日がぞれぞれで決めればいいだけで、これこそが〝在日の正しい道″なんてものはありません。 周囲の日本人は本人の選択を尊重するだけです。

 ただ大きな流れは、韓国人としての在日の存在は縮小していきます。 ただし一部の在日は自分が〝日本人でない″ことを強く意識するあまり日本への批判・非難(反日)を激しくしており、これからも続けるようです。 「日本人でも韓国人でもない」と言いつつも日本人化している現状、だからこそ危機意識を持つ一部の在日活動家は反日をさらに激しくしていくと予想します。

 なお朝鮮総連系では、朝鮮学校で〝祖国は北朝鮮″であるという民族自覚を持たせようと必死の努力をしてきました。 私自身は総連系の方との付き合いがなくっていて今はよく分かりませんが、聞くところによるとやはり日本への同化は止みがたいようです。 だから総連系でも大半は更なる同化への道を歩み、ごく一部が北朝鮮の影響下のまま同化を拒もうとして自分たち同士で固まり閉鎖的になっていくだろうと、私は予想しています。

 総連や朝鮮学校では、このような人たちは「赤い人」と呼ばれているそうです。 「赤い」といっても「リンゴ」(皮は赤いが中身は白い)のようですが‥‥。 つまり総連系の一部の「赤い人」は、せめて皮だけでも赤い「リンゴ」に固執すると思われます。 しかし北朝鮮の本国人は〝中身まで赤い″でなければなりませんから、本国人との間に障壁があると思われます。 

【拙稿参照】

韓国人でも日本人でもない―しかし同化する在日韓国人  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/02/14/9562752

在日コリアンと本国人との対立      http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2011/11/20/6208029

在日コリアンの「課題」         http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2012/01/08/6282960

姜信子『棄郷ノート』を読む    http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2018/10/19/8977899

「同化」は悪だとされた時代    http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2016/02/15/8018723

水野・文『在日朝鮮人』(21)―同化  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2016/09/23/8197450

在日は日韓の架け橋か          http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2010/07/11/5212322

在日が民族の言葉を学ぼうとしなかった言い訳  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2010/12/12/5574193

35年前も変わらない在日の状況     http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2011/01/10/5631713

在日は「生ける人権蹂躙」?-『抗路』巻頭辞 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/01/31/9460212

豊田有恒さん死去2023/12/06

 豊田有恒さんが去る11月28日に亡くなられ、昨12月5日に公表されました。 彼はかつての朴正煕大統領時代に、韓国の経済成長を称賛する『韓国の挑戦』という本を出して高く評価される一方、軍事独裁政権の味方だとかの批判を浴びていた記憶があります。

 1990年代になって韓国の反日に嫌気がさしたのか『いい加減にしろ 韓国』という本を出してからいわゆる〝嫌韓本″を出して、〝嫌韓派に転身″とか言われていましたね。

 豊田さんの韓国知識は、私にはちょっと勉強不足だなあという印象を持っています。 10年ほど前に『韓国が漢字を復活できない理由』を出しておられて、拙ブログで論じたことがあります。 ご笑読いただければ幸甚。

【豊田有恒氏に関する拙稿】

『韓国が漢字を復活できない理由』(1)  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2013/09/15/6982629

『韓国が漢字を復活できない理由』(2)  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2013/09/18/6985544

『韓国が漢字を復活できない理由』(3) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2013/09/20/6987935

『韓国が漢字を復活できない理由』(4) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2013/09/21/6989129

『韓国が漢字を復活できない理由』(5) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2013/09/23/6990160

『韓国が漢字を復活できない理由』(6) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2013/09/25/6991952

『韓国が漢字を復活できない理由』(7) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2013/09/26/6992771

『韓国が漢字を復活できない理由』(8) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2013/09/28/6994523

小松川事件は北朝鮮帰国運動に拍車をかけた2023/12/02

 1958年8月に発生した小松川事件の李珍宇について、以前に拙コラムで考察しました。(下記参照)

 その後、中公新書『北朝鮮帰国事業―「壮大な拉致」か「追放」か』(菊池嘉晃著 2009年11月)に、この事件について書かれているのを見つけましたので、紹介します。

折しも帰国運動が大規模化した1958年8月、東京都江戸川区で起きた都立小松川高校生殺害事件で、16歳の女子高校生殺害の容疑者として18歳の在日少年・李珍宇が逮捕(一・二審で死刑判決、62年に執行)されたことは、在日社会に一層暗い影を投げかけた。

61年に北朝鮮へ帰国しようとした李洋秀も、当時をこう振り返る。 「日本では未成年の犯罪者は死刑にならないのに、李珍宇は朝鮮人というだけで死刑宣告を受けた。(略)この事件は在日に、日本社会のあまりに冷酷な仕打ちをまざまざと見せつけた。 在日が日本での将来を見限って北朝鮮へ帰国する勢いに、ますます拍車をかける大きな要因となった」 (以上151~152頁)

 強姦致死と強姦殺人の二件の事件が四ヶ月の間に連続して起きたのですが、その犯人が当時18歳の李珍宇でした。 李は後者の同級生女子高生強姦殺人事件を犯した直後に、被害者宅に遺品の櫛や手鏡を送りつけたり、マスコミや警察に犯行声明の電話をかけるなどの挑発行動をしました。

 ですから非常に悪質な犯罪で、極刑はやむを得ないところですが、問題は李が未成年だったことです。 犯罪時未成年の死刑執行は果たして正当なものなのかどうか、これはその後も、そして今でも議論になっています。 

 それはともかく、当時の在日社会では〝李は朝鮮人だったから死刑になった″という話となって、日本社会における在日への厳しい差別の例として挙げられていたというのは初めて知りました。

 李が死刑判決を受け執行されたことは、単に極悪事件だったからだけでなく朝鮮人だったからというのは、そういう意見もあるだろうなあ、と思います。 しかし未成年死刑囚は戦後の混乱期にもかなりの数があり、執行された例もあります。 果たして、〝朝鮮人だから死刑を宣告された"と言えるのか、疑問を感じます。

 当時は北朝鮮帰国運動が盛んになっている時期でした。 この時に起きたのが小松川事件ですが、運動する側は李の死刑宣告を日本における朝鮮人差別の例として取り上げ、だから日本にいてはいけないのだと帰国運動をさらに広める材料にしていたことに〝へ―!そうだったのか!″と新鮮な驚きを感じました。

【小松川事件に関する拙稿】

小松川事件(1)―李珍宇救援を呼びかけた人たち http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/04/04/9574532

小松川事件(2)―李珍宇と書簡を交わした朴壽南 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/04/08/9575512

小松川事件(3)―李珍宇が育った環境 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/04/12/9576502

水野・文『在日朝鮮人』(17)―小松川事件 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2016/08/15/8152243

人を試す質問―731部隊を知っていますか?2023/11/25

 11月20日付け毎日新聞に、「私が思う日本―外国特派員が見た 日韓の歴史認識ギャップ/核議論のタブー視 成好哲氏/デイビッド・マックニール氏」と題する記事がありました。  https://mainichi.jp/articles/20231120/ddm/007/070/104000c 有料記事ですので、関心のある方は図書館にでも行ってください。

 これによれば、朝鮮日報東京支局長の成好哲さんは、日本人に会うたびに「731部隊を知っていますか?」と尋ねるそうです。 主要部分を引用・紹介します。

昨年5月に東京支局長に就任して間もないころ、日本人の知人とのランチの席で、「戦後最悪の韓日関係」をテーマに語り合っていた時のことだ。 韓日は歴史にとらわれず、同じ価値観を共有する国家としてアジアの安全保障と経済に貢献すべきだという結論へ話は向かっていた。 従軍慰安婦、徴用工、BC級戦犯、731部隊など歴史問題が幅広く話題になる中で、知人は問い返してきた。「他は分かりますが、731部隊とは何のことでしょうか」

記者はそれ以降、機会があれば日本人に「731部隊を知っていますか」と質問することにしている。 「分かりません」という答えが大半だ。

2013年、韓国で1枚の写真に「反日」の国民感情が刺激され、物議を醸した。安倍晋三首相(当時)が宮城県東松島市の航空自衛隊基地を訪れ、練習機の操縦席で親指を立てた写真だ。 機体の側面には日の丸とともに、機体番号が「731」と記してあった。

日本人は731部隊を知らない。 しかし、韓国人は記憶している。

記者はいまも日本人に会うと尋ねる。「あなたは731部隊を知っていますか」

 「731部隊」はこれまで日韓間の外交問題に上がったことが全くなく、またこれからも外交問題化する可能性はほとんどありません。 かつて真相究明を求める裁判がありましたが十数年前までにすべて敗訴し、マスコミ報道もほとんどなくなりました。 ですから現在の日本にとってそれほど重要視されるものでもなく、また将来の問題でもありませんから、今の日本人では近代史に関心を持つ者でなければ知らないのが普通でしょう。 安倍さんが乗った自衛隊機の番号がたまたま「731」だったことで、これを昔の「731部隊」と連想する人がいなかったのは、それはそうだろうと思います。

 しかし朝鮮日報東京支局長さんは日本人に会うたびに「731部隊を知っていますか?」と質問します。 これは「731部隊」について、 〝自分はこの歴史をよく知っている、相手は歴史に無知のようだからこういう質問をしてやろう"という意図があるものです。 そしてどういう答えをするかによって相手を見極めようとする質問です。 要は、〝人を試す"ものなのです。

 このブログでも、かつてはこういう〝人を試す"質問がよく来たものです。 「強制連行とは何か?」「日韓併合は不法か?」「関東大震災で朝鮮人が虐殺されたことが事実だったか捏造だったか?」のような質問です。 自分は正解だと思う答えを持っていながら〝相手がどう答えるかを試してみよう、こちらに反する答えが返ってくればそれをネタに攻撃してやろう"と待ち構えているのです。 こういう〝人を試す"質問は答える方がただ消耗するだけで、意味がないです。 こういう質問者に〝もっと勉強してください"とか反問すると、逆切れされるのが常ですね。

 ただ大学などで教官が学生に、ちゃんと調べたのかどうかを確認するために〝試す"質問をすることがあります。 しかしこれは師弟間における指導・被指導で、信頼のうえに成り立つ上下関係があるから意味があるのです。

 朝鮮日報東京支局長さんの「731部隊を知っていますか?」は、〝自分たち韓国人は歴史の真実を知っている、しかしあなたたち日本人は歴史の真実を知らない"として見下しているようなので、私なんかはちょっと不愉快になりますね。

朝鮮民主主義人民共和国の正統性は何か?2023/11/21

 1970年代に、朝鮮総連の方と話をしていた頃のことです。 当時の在日朝鮮人は日韓条約に基づく協定永住権を得るために朝鮮籍から韓国籍へと替える人が多かった時で、朝鮮総連はこれに危機意識を持ち、韓国籍への切り替え阻止の運動をかなり激しくやっていました。 ですからその総連の方も、なぜ韓国籍を取るのが間違いであるかを一生懸命に説明してくれました。

 それは北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)にこそ国家正統性があるのであって、南朝鮮(大韓民国)には国家正統性がないということでした。 もう少し詳しく言うと、1948年に朝鮮全体で選挙を行なって代議員を選出し「朝鮮民主主義人民共和国」の樹立を決定した、それに対しアメリカ軍が支配する朝鮮南部では最初から北を無視して南だけの単独選挙を強行させて「大韓民国」という傀儡政権をつくったもので国家正統性はないという説明でしたね。 

 その時私は、朝鮮民主主義人民共和国は朝鮮全体で選挙した結果樹立された国家であるのに対し、大韓民国は南半分だけの選挙で樹立したのであるから韓国より北朝鮮の方に正統性があるし、北朝鮮が統一を目指すのは当然のことだと思いました。 ですから韓国を表示する時、総連の主張するように必ず「韓国」と括弧を付けていたのでした。

 それから今までこのこと(正統性)にさほど関心を持たなかったのですが最近になって、朝鮮民主主義人民共和国を正統であることの根拠として挙げられた全朝鮮での「選挙」について、米軍政下にあった南朝鮮ではどういう「選挙」をしたのかが気になり、ちょっと調べてみました。

 実は南朝鮮では「地下選挙」で選ばれた代表者が海州という所に集まって「人民代表者会議」を開いて最高人民会議に出席する代議員を決め、そして南北の代議員が集まった「最高人民会議」で「朝鮮民主主義人民共和国」の樹立が決定された、という経過でした。

 金石範・金時鐘『なぜ書き続けてきたか なぜ沈黙してきたか』(平凡社 2015年4月)という本の中に、文京洙さんが南での「地下選挙」とそれに続く人民代表者会議「海州会議」について、次のように解説しています。 なおこの本は済州4・3事件をテーマにするものですから、その事件に関連付けて解説されています。

海州会議: ‥‥北側は、南の単独選挙に対抗して、独自の議会と政府づくりを目指した南北両地域での統一選挙の方向を打ち出す。 北朝鮮地域では、直接、最高人民会議代議員(国会議員)を選出するものとされたが、それが難しい南では地下選挙で選ばれた代表者が北朝鮮の海州で「人民代表者会議」を開いて代議員を選出するという間接選挙の方式が取られた。 7月、済州島でもこの地下選挙が実施され、8月初めには、武装隊司令官・金達三など6人の南労党幹部が「人民代表」として密かに済州島を抜け出し、北に向かった。 海州の会議(8月21~26日)では金達三が演壇に立って済州島での「戦果」を報告したが、そのことは、済州島の蜂起勢力と北との結びつきを公然と示す結果となった。 4・3事件は、その出発点では警察や右翼の横暴に対する自衛的な反撃という性格を帯びていた。 しかし、いまやそれは、南北の分断政権の正統性をめぐる争いの文脈にはっきりと位置づけられ、国際冷戦の最前線に生まれた南北の分断政権が交えるかもしれない“熱戦”の前哨戦としての意味をもち始める。 (『なぜ書き続けてきたか なぜ沈黙してきたか』 263~264頁)

 「海州会議」で検索すると次のような論文で触れられており、この文さんの解説には根拠があるものと判断できます。

北朝鮮人民会議は、前述の第5次会議で最高人民会議選挙の実施を決定し、8月25日、選挙が実施され、212名の代議員が選出された。 これと時期を同じくして、8月21日から26日まで海州で南朝鮮人民代表者大会が開催された。 この大会の開催は、6月29日から7月5日まで開かれた南朝鮮諸政党・社会団体指導者協議会において、南朝鮮では最高人民会議選挙を公開で行なえないために、南朝鮮各市・郡の代表を海州に集め、最高人民会議代議員を選出することに決定したからであった。 この大会で南朝鮮の諸政党・社会団体の代表1080名が360名の代議員を選挙した。 9月2日から10日まで、南北の代議員を集めて、第1次最高人民会議が開催され、朝鮮民主主義人民共和国の樹立と政府要員が発表された。 南朝鮮の代表を形式的にせよ、参加させることによって、8月15日に樹立された大韓民国の正統性を公式に否定した。 したがって、大韓民国は完全に打倒されなければならなかったのである。 (「第2章 北朝鮮における党建設」  http://www.dce.osaka-sandai.ac.jp/~funtak/papers/S43kenkyu.htm 61~62頁)

やがて、南北朝鮮で単独政権樹立のやむなき情勢があきらかになると、北朝鮮においても、北朝鮮の政権が全国的基盤の上になりたつことを装わねばならなかったので、そのための準備に力がそそがれた。 ‥‥ 北朝鮮の発表にしたがえば、南朝鮮でも、8月上旬秘密裏に地下選挙がおこなわれ、その結果南朝鮮代表1080名が選出され、これらの代表者は8月21日から26日にかけて北朝鮮の海州で、「南朝鮮人民代表者大会」を開いて、そのなかから360名の最高人民会議代議員を選出した。‥‥ 9月9日‥ここに朝鮮民主主義人民共和国政府が成立した。 ‥‥ アメリカ帝国主義と売国奴たちが南朝鮮に単独カイライ政府を樹立し、わが民族を永遠に両断しようとして最後のあがきを見せている現在の条件のもとにおいて、南北朝鮮人民の総意によって樹立された中央政府‥‥ (尾上正男「朝鮮民主主義人民共和国の成立」 https://www.jstage.jst.go.jp/article/asianstudies/10/2/10_13/_pdf/-char/ja 27~30頁)

 南では「地下選挙」によって代表者が選出され、その代表者が北の海州に集まり「南朝鮮人民代表者会議」を開いて代議員を選出して「最高人民会議」に送り、ここで「朝鮮民主主義人民共和国」の樹立が決定された、だから朝鮮民主主義人共和国は朝鮮全体を唯一正当に代表する国家であり、南の地にできた「大韓民国」なるものは正統性がない、というのが北朝鮮や朝鮮総連の主張なのです。 これまで薄ぼんやりした知識だったのですが、ようやくはっきり分かってきました。

 それでは「地下選挙」とは何か? 名前からすると、“公開されずに秘密裏に行われた選挙”という意味のようですが、一体どのような選挙だったのでしょうか? 「済州四・三平和財団」が2016年に出版した『済州4・3事件の理解』と題する本には、済州島における地下選挙について次のように触れられています。

1948年7月中旬に南半部全域で「地下選挙」が開かれた。それは北朝鮮の政権樹立に伴うものだった。 四・三の渦中にあった済州道での地下選挙は主に白紙に名前を書いたり、拇印を押したりする場合が多いものだったが、後にそれが仇となって甚大な人命被害が発生することになる。 「白紙捺印」したことが罪になって、銃殺の原因になったのだ。 (25頁)

 どうやら「地下選挙」とは南労党(南朝鮮労働者党)の支配地域だけで行なわれたようです。 中身は南労党の指名する者を代表者として選ぶ(ただし選択肢がない)もので、しかも記名投票(投票用紙には誰がこの投票をしたかが分かる)で、信任の白紙投票しかできなかったようです。 これを「民主主義」と呼べるかどうかは難しいところです。 だいたい共産主義政党・国家の選挙というのはこういうもので、彼らはこれを「民主的」だと言い張るからです。 我々の常識からすると、かけ離れています。

 中身はともかく、朝鮮では北も南も含めて全朝鮮で一応「選挙」なるものが実施され、「最高人民会議」が開かれて朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)が樹立されたのでした。 ですから北朝鮮は自分たちこそが朝鮮全体の唯一正当な国家であり、南に作られた「大韓民国」は傀儡であると否定することになります。 つまり北朝鮮は、南に攻め入って韓国を消滅させて朝鮮の統一を成し遂げるという大義名分を獲得したのでした。 この大義名分に基づき北朝鮮は2年後に朝鮮戦争を起こし、その後は韓国に工作員や戦闘員を潜入させたり、韓国を変革させる運動を支援・扇動するなどして現在に至っています。 朝鮮統一を成就せねばならないのは我が北朝鮮であるという大義名分は、今なお継続して生きています。 だから朝鮮の統一は、韓国と協議するものではないとなります。

 50年前に朝鮮総連の方から、北朝鮮は朝鮮全体で行なわれた選挙によってできた国家だから正統性がある、対して韓国は正統性がなく存在してはならない国だと説明してくれたことが今やっと理解した次第です。 ちょっと遅すぎですね。 

 周囲の人々は平和と和解を望んで、北朝鮮も韓国もお互い国家として認め合って統一に向けた話し合いをすればいいのではないかと思うでしょう。 また数年前に北朝鮮の金正恩総書記と韓国の文在寅大統領とが話し合ったのは互いに国家として認めたということではないのか、とも思うでしょう。 しかしこれは北朝鮮にとっては、南の政権がすり寄ってきたから相手にしてやった、となります。 別に言うと、朝鮮統一の協議はアメリカだけが相手であって、南はそのアメリカの橋渡しをやるというので付き合ってみただけで、韓国はいつまでも否定の対象である、ということに変わりはありません。

 まとめますと、「朝鮮民主主義人共和国」は全朝鮮を代表する国家であり、だから南朝鮮をも支配・統治することが当然であり、「祖国の統一」とはそれを意味する、というのが北朝鮮・朝鮮総連の考えで、その根拠はかつて南で実施された「地下選挙」である、というのが今回のお話です。

 なおもう一方の「大韓民国」の正統性については、拙論では下記で少し触れましたので、ご笑読いただければ幸い。 要は、韓国は国連決議195号(Ⅲ)に示される限りの正統性が国際的に認められている、ということです。 韓国は南だけでの選挙によって韓国政府が樹立されたのであって、全朝鮮を支配・統治することが認められたのではありません。 韓国が北朝鮮に攻め入って併合するような統一(いわゆる北進統一)は認められていないのです。  http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/dairokujuudai

韓国語の雑学―남부여대(男負女戴)2023/11/14

 韓国の雑誌を読んでいたら「남부여대」という言葉が出てきました。 初めて見る単語で、何だろうと思って調べてみると、漢字で「男負女戴」と書きます。 日本語にはなく、中国語にもないようなので、韓国語だけで使われる四字熟語(사자성어)と思われます。

 http://www.jejupress.co.kr/news/articleView.html?idxno=84557 に少し詳しく説明されているので、訳してみました。

男は背に負い、女は頭に荷物を載せる。 貧しい人や災難に遭った人たちが生きる場所を求めて、あちこちを流浪することを指す漢字熟語。

ここで「負」は荷物を背中に負うという意味で、「載」は荷物を頭に載せるという意味である。 十分に暮らすことのできる所がなくで、あらゆる苦労をなめながら居場所をあちこちに探して痛ましいくらいに流浪する姿を、背に負い頭に載せると比喩して表現した言葉である。 「男負女戴の避難民の行列が果てしなく続いていた」「虐政に耐えられなかった百姓たちが男負女戴しながら慣れ親しんだ故郷を離れた」などが使用例である。

男負女戴より意味が弱いが、〝朝には北方の秦国で、夕方には南方の楚国で暮らす"という意味の「朝秦暮楚」も似た言葉だ。 その他に〝風に吹かれながら食べ、露に濡れながら寝る"という意味で、流浪して苦労するということを比喩した「風餐露宿」も、貧しく苦しみながら暮らすという点で「男負女載」と通じる。

 70年前の朝鮮戦争の報道写真で多数の避難民が南に逃れる姿がありましたが、まさに「男負女載」ですねえ。 男負女載はこれをイメージすればいいのでしょう。 なおこの時の写真には若い男性はおらず、年寄りが荷物や子供(孫)を背負い女性が頭に荷物を載せて避難する姿です。 男は戦争に駆りだされて、残された父母と嫁が子供を連れて避難しているものと思われます。

 なお上述したように「男負女載」に相当する日本語はありません。 強いて言うなら昔の演歌にある村田秀雄の「夫婦春秋」ですかねえ。 ただし「夫婦春秋」は平時における家族の苦労がテーマですから、有事に避難する「男負女載」とはちょっと違いますねえ。

【拙稿参照】

韓国語の雑学―전산이기(電算移記) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/06/17/9594956

韓国語の雑学―賻儀  https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/11/26/9543701

韓国語の雑学―将棋倒し http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2020/04/15/9235466

韓国語の雑学―下剋上  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2020/04/22/9237987

韓国語の雑学―「クジラを捕る」は包茎手術の意 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2020/12/10/9325273

韓国語の雑学―내로남불(ネロナムブル) https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2021/01/04/9334079

韓国語の雑学―東方礼儀の国    http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2021/06/17/9388692

韓国語の雑学―동족방뇨(凍足放尿) https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2021/09/02/9418323

日本人に伝わった朝鮮の「叩き洗い」洗濯文化2023/11/07

 伊東順子さんの『病としての韓国ナショナリズム』(洋泉社 2001年10月)を読んでいたら、次のような記述があり、驚きました。

愛知県には、戦前に三信鉄道という鉄道があり、その敷設工事に多くの朝鮮人が動員された。 そこで当時、賃金の未払いを理由に大規模な争議があったのだが‥‥ この争議が画期的だったのは、村人が争議団の支援に回るなど、当時としては朝鮮人と日本人との関係が破格によかったことだ。 そのせいか、朝鮮人が去ったあとも、村人は朝鮮式の「叩く洗濯」を真似し、戦後、洗濯機が普及するまで、どこの家庭にも洗濯棒が残っていた。 (117頁)

 三信鉄道というのは今のJR東海の飯田線のことで、敷設工事は昭和4年(1929)に始まり、同12年(1937)に開通したものです。 争議は工事に従事した朝鮮人たちが賃金の支払いを求めて1930年から断続的に起こしたもので、日本の全協(戦前の労働組合ナショナルセンターである「日本労働組合全国協議会」の略)からの支援もあったとされます。 この争議に日本人も協力したのです。 戦前における朝鮮人と日本人との連帯として、かつて取り上げられていましたねえ。 この争議の際に、朝鮮式の「叩き洗い」洗濯文化が日本人に伝わったというところにビックリしたのです。

 日本における洗濯の歴史は、戦国時代までは足踏み洗い、戦国時代になってタライの横にしゃがんで手もみ洗いへと変化して江戸時代に続き、明治時代に西洋から洗濯板が入ってきてタライに洗濯板を使って洗うようになり、これが戦後の洗濯機の普及まで続く、というものです。 ですから日本にはもともと「叩き洗い」がありませんでした。

 一方、朝鮮の叩き洗いは時おり韓国ドラマに出てくるし、また中国から鴨緑江越しに撮影される北朝鮮の映像にも出てくることがありますので、ご存知の方も多いのではないかと思います。 朝鮮での古来からの洗濯方法は「叩き洗い」でした。 ですから愛知県での叩き洗いは、三信鉄道争議の際に朝鮮人から日本人へと伝わった文化と見て間違いないでしょう。

 ところで朝鮮では男性が洗濯するという文化がありませんので、おそらく「叩き洗い」をしていたのは朝鮮人女性と思われます。 とすると洗濯をしていたのは、三信鉄道敷設工事に動員された朝鮮人男性たちの身の回りの世話をしに来た朝鮮人女性ということになるでしょう。 こういう女性が周囲の日本人に「叩き洗い」を伝授したのではないか、という推測が成り立ちます。

 なお日本でも洗濯は女性が担うとされていましたが、実は日本では明治時代以来の兵役義務により男性が徴兵されるのですが、軍服や下着などは自分で洗濯することを厳しく躾けられました。 ですから兵役経験のある男性は、除隊後も自分で洗濯する人が結構いたようです。 愛知県で朝鮮から伝わった「叩き洗い」文化も、日本人男性が担ったかも知れません。

 日本の「叩き洗い」は愛知県のごく一部にワンポイントで伝わったのみで、全国に広がりませんでした。 日本における洗濯の歴史の中の、ほんの小さなエピソード的な話でしかないでしょう。 たまにはこういう役に立たないお話もいいじゃないかと書いてみました。

【「叩き洗い」と「砧打ち」の違い】

 朝鮮の「叩き洗い」を「砧打ち」と間違える人が多いですね。 「叩き洗い」は洗濯物を川に持って行って、水に浸けながら川原の平べったい石の上に置き、木槌で叩いて汚れを落とす作業です。

 「砧打ち」は、汚れを落とした洗濯物を家に持ち帰って干し、生乾きの段階で「砧」の台に畳んで載せて叩く、あるいは棒に巻きつけて叩く作業で、これによってしわを取りつやを出します。 今でいうと、アイロン掛けに相当します。

 「叩き洗い」と「砧打ち」は作業工程が違うし、道具も違います。 しかし日本では砧打ちの風習が明治時代に消え去ったために「砧」がどういうものか分からなくなったためか、朝鮮の「叩き洗い」を「砧打ち」と間違って言うのですねえ。 

【朝鮮の洗濯と砧―拙稿参照】

砧(きぬた)―日本の砧・朝鮮の砧― http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daihyaku18dai.pdf

第107題「砧」講演 (続) ―日本の砧・朝鮮の砧― http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daihyakunanadai

第66題 砧(きぬた)    http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/dairokujuurokudai

韓国の足踏み洗い         http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2007/08/18/1733824

韓国ドラマにおける洗濯場面       http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2007/11/23/2453257 

【朝鮮の砧に関する拙稿】

砧を頂いた在日女性の思い出(1) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2020/09/21/9297618

砧を頂いた在日女性の思い出(2) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2020/10/07/9303008

砧を頂いた在日女性の思い出(3)―先行研究 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2020/10/12/9304894

砧を頂いた在日女性の思い出(4)―宮城道雄 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2020/10/22/9308333

砧を頂いた在日女性の思い出(5)―宮城道雄(2)  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2020/11/02/9312276

朝鮮で活躍した宮城道雄      http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2012/05/05/6435151

「演歌の源流は韓国」論の復活   http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2012/01/10/6285379

第66題 砧(きぬた) http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/dairokujuurokudai

第90題 朝鮮の砧  http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daikyuujuudai

第106題 砧 講演  http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daihyakurokudai

第107題 砧 講(続)  http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daihyakunanadai

第108題 「砧」に触れた論文批評  http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daihyakuhachidai

第109題 ネットに見る「砧」の間違い  http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daihyakukyuudai

第114題 韓国における砧の解説  http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/hyaku14dai

第115題 다듬이  http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daihyaku15dai.htm

第118題 砧―日本の砧・朝鮮の砧 http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daihyaku18dai.pdf

北朝鮮の砧               http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2007/12/22/2523671

砧という道具              http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2008/01/05/2545952

韓国ロッテワールドの砧          http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2010/05/11/5080220

韓国ロッテワールドの砧のキャプション  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2010/05/12/5082741

砧ー日本の砧・朝鮮の砧         http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2013/07/05/6888511

角川『平安時代史事典』にある盗用事例  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2007/04/07/1377485

「砧」と渡来人とは無関係        http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2007/04/14/1403192

「砧」の新資料(1)          http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2012/12/09/6655266

「砧」の新資料(2)          http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2012/12/10/6656721

「砧」の新資料(3)          http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2012/12/11/6657527

「砧」の新資料(4)          http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2012/12/13/6659222

「砧」の新資料(5)          http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2012/12/14/6659970

「砧」の新資料(6)          http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2012/12/16/6661166

佐藤春夫の「砧」            http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2016/02/05/8008944

『華僑のいない国』―「週刊朝鮮」の書評2023/10/31

 韓国の有力誌『週刊朝鮮2770号』(2023年8月7日)に、イ・ジョンヒ『華僑のいない国』という本の書評・紹介がありました。 評者は人文学コラムニストのパク・ジョンソンという方です。 韓国の華僑については私も関心がありますので、訳してみました。

8・15を前にして見る「少女像」は、いろんな考えを呼び起こす。 しかし核心は簡単である。それは邪悪な加害民族を糾弾し、善良な被害民族を奮起させる。 このような二分法的な善悪の議論が、排他的民族主義の強力なエネルギー源として作用する。今日、全世界的に数多くの国々が先を争って「私たちが被害者」と叫んでいる。

そうであるならば被害民族は一人の例外なく、みんな善良であるか。 加害民族は例外なく無条件に邪悪なのか。 実際には邪悪な朝鮮人もおり、善良な日本人もいる。 ホロコーストされたイスラエル民族は、今日のパレスチナ人民族を逼迫している。 我々も例外ではない。 全世界で、わが国くらいに華僑を抑圧した国は珍しいのである。

こんな問題意識を持って、我が国の華僑の歴史を一目瞭然に見せてくれる印象的な研究書がある。 それは華僑研究家のイ・ジョンヒの『華僑がいない国』(2018)である。 我々は、慰安婦問題はもちろんのこと、在日同胞に対する日本の不当な待遇に憤怒する。 しかし実際には我々は、わが国に暮らしている華僑たちをどのように待遇したのかについて全く無関心である。 事実、我々は過去100年間、華僑たちに対して不当な差別と抑圧で一貫していたというのが著者の指摘である。

1882年の壬午軍乱が勃発すると、閔妃は清国に助けを求めた。 この時、清の軍隊とともに商人たちが入ってきた。 そのうちの一部が残留したことが、わが国の華僑の始まりである。それ以降、華僑の流入は増え続けた。 中国の政情は不安定であり、また日帝の開発事業によって朝鮮での賃金水準が中国より高かった。 彼らは優れた商売の腕と野菜栽培技術も、新しいチャンスとして作用した。

実際に華僑は労働者、農民、商人など多様な職種に進出した。 日本の植民地の時は、最高6万~7万人にまで増えた。 もちろん色んな事情で、大きな浮沈を繰り返した。 光復後の南北分断で、華僑も南北に分かれた。 韓国の華僑は1976年に3万人余りをピークとして次第に減り、現在は2万人を下回っている。 一方1992年の韓中国交正常化で、朝鮮族を中心に中国人が大挙して流入した。 それで以前から暮らしてきた華僑を‶老華僑″、国交正常化以降に入ってきた華僑を‶新華僑″と区分される。

華僑は1960年代まで、中華料理をほとんど独占した。 華僑人口の70%が飲食業に従事するほどだった。 しかし1968年の外国人土地法が改訂で、華僑の営業用店舗土地は50坪を越えることができないと規定された。 事業の拡張や高級料理店の開設が不可能になった。 また中華料理店に対する様々な税金が賦課された。 特に同じ場所で長期間営業する場合、営業年限に比例して税金が加算された。 華僑はこれに怒ってアメリカなどに再移住する場合が多かった。

「絹物商の王さん(1961年の韓国映画の題名)」という言葉があるように、華僑は古くは服地の商売に手腕を発揮した。 当時の絹織物や麻布が中国の特産物であったが、華商の国際貿易網が堅固であり、朝鮮内での販売網も緻密だった。 ほとんど全ての地域で、華僑の反物商が進出していた。 資本は中国の本店が出し、朝鮮では経営責任者を置いた。 その責任者をチャングイ(掌櫃)と言った。 それが「チャンケ」となり、中国人を卑下する俗語となったようだ。 1924年の高関税などの日本の弾圧政策で、華商は衰退した。

洋服店と理髪店も一時華僑が牛耳っていた業種である。 我々より新文物で先駆けていた中国東部地域の出身者たちがいち早く朝鮮に進出し、洋服店や理髪店を開業した。 また華僑たちは朝鮮で需要が爆発し始めた鋳物の釜と靴下も一時独占するようになった。 一方、野菜の産地として有名な山東省の農民たちがインチョンなどに来て、西洋から伝来した野菜を栽培した。

明洞聖堂を始めとして、草創期の有名なカトリック教会の建物が全国的に多くある。 設計はほとんど外国人の神父がやった。 ところで施工を担当したのはほとんど華僑の建築技術者たちだった。 草創期の有名なプロテスタント教会も、華僑技術者たちが建てた。 技術者だけではない。 一般労働者としてもたくさんの華僑が活躍した。 彼らによって賃金が低くなったと思って、朝鮮労働者たちは彼らに反感を持った。 これが後に二回にわたる華僑排斥事件の背景となった。

何よりも華僑社会に衝撃を加えたのは、日本植民地時の二回にわたる華僑排斥事件である。 1927年、全羅北道の益山で、満州の朝鮮人に対する中国官憲の弾圧に抗議する集会が開かれた。 その日の集会参加者たちが華僑の商店に押し寄せて、器物を破壊した。 このような襲撃が全羅南道、ソウル、インチョンなどへ広がっていった。 特に華商の密集地域であるインチョンで、華商たちが多くの被害を受けた。

さらに深刻な事件が1931年に起きた。 ある新聞が吉林省の万宝山近くで朝鮮人農民が中国の官憲たちに殺傷されたという号外を出した。 これに激憤した朝鮮人たちがインチョン、ソウルで華僑を襲撃した。 これが全国に広がっていった。 全国で200人くらいが殺害され、負傷者が続出した。 この時、華商のネットワークがほとんど破壊された。

自分たち同士で一丸となって団結する華僑に対して、朝鮮人の感情は悪かった。 朝鮮人たちは最初からコミュニケ―ションする空間自体がなかった。 当時の経済沈滞で非常に窮乏しており、日帝の支配下で絶望感が深かった。 日帝も巧妙な韓中離間政策を駆使した。 しかしこんな理由で他民族を攻撃・殺傷してもいいとは決してならない。 さらに万宝山の記事の内容は伝聞によるものだけで、実は関係すら分からなかった。 たとえ万宝山でそのようなことがあったとしても、朝鮮に暮らす華僑たちとは何の関係もないものであった。

光復後でも、華僑に対する迫害は続いた。 特に先に指摘したように、外国人土地法によって財産権の制約を受けた。 この制約は1999年になってようやく解除された。 その他にも居住資格や出入国の制約があった。 2002年になってようやく老華僑に永住権が付与されたが、法的地位はそのままだ。 今日の老華僑は、2万人を下回っている。

ソウルの九老区にチャイナタウンがある。 しかし新華僑は主に朝鮮族が中心だ。 もちろんインチョンに有名なチャイナタウンがある。 しかし華僑によって自発的に形成されたものではない。 役所によって観光政策次元で開発(?)されたのである。 一言で言えば、我が国は本当の意味での「チャイナタウンがない国」だと皮肉る。 それくらい華僑を社会的・法的に排除・排斥してきたという意味である。

特に老華僑たちは「韓国で生まれて、韓国で教育を受け、韓国政府に税金を納めている。 それでも蔑視と差別と制約に苦しめられねばならなかった。 韓国人は自分たちが彼らを迫害したという事実すら忘却している。 全国津々浦々に立っている「少女像」を見て、何となく「私たちは善良な被害民族」という満ち足りた(?)思いにとらわれている。 しかしそんな民族的イメージは虚構である。 個人の次元であれ民族の次元であれ、潜在的・実際的に加害者であるという点を考えねばならない。

ところで植民地時代、朝鮮北部の華僑は南部よりはるかに多かった。 北朝鮮地域の労働者需要が多かったためである。 中国が共産化すると、韓国の華僑は故郷(主に山東省)に戻ることができなくなった。 一方、北朝鮮の華僑たちは大挙して帰国した。 残留した華僑たちは、特に野菜生産に頭角を現した。 今日では帰って行った華僑と残留した華僑が互いにネットワークを形成し、朝・中貿易の軸をなしている。

【拙稿参照】

韓国における外国人差別   http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daigojuugodainoichi

合理的な外国人差別は正当である http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daiyonjuukyuudai

在日韓国人と華僑―成美子    http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2018/09/25/8964788

 拙ブログでは以前に韓国の華僑について、昔読んだものを確認せず、うろ覚えのまま書いたことがあります。 やはり間違いが多く、汗顔の至りです。