「朝鮮部落」―金賛汀さんの体験(1) ― 2025/10/21
https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/10/15/9809571 の続きです。
拙ブログでは下記【拙稿参照】にあるように、朝鮮人集住地区(いわゆる「朝鮮部落」)について私の思い出や記憶のあるままに記してきました。 これまでの日本では在日韓国・朝鮮人の歴史の本が多く出版されてきましたが、それは「民族受難とそれに対する闘い」に重点を置いた歴史がほとんどです。
一方、彼らが普段どのような生活を送ってきたのか、その実態について彼ら自身は「民族受難」を語るものとして紹介するくらいでした。 「朝鮮部落」という特徴的な環境で生活してきたことを客観的に見る視点は多くなかったですねえ。 そういう中で、金賛汀さんの『在日、激動の百年』(朝日新聞社 2004年4月)には戦後の「朝鮮部落」が取り上げられており、在日の歴史を語る上に重要な記録を残していると思いました。 今回はその部分を引用・紹介したいと思います。
「朝鮮部落」の消滅
戦後、1960年代末ごろまで日本の各地に多くの「朝鮮部落」が点在していた。 私の学生時代(1961年ごろ)、朝鮮大学校では夏休みを利用して各地の朝鮮人多住地域に入り、「朝鮮部落」の子供たちを集め朝鮮語や朝鮮史の学習会を開いていた。 「朝鮮部落」の人たちは私たちを温かく迎え入れ、彼らの家屋を宿泊所として提供し、食事の世話までしてくれた。 私たちが寝泊まりした家屋はバラックに少し手を加えた程度の粗末なもので、河川敷のような場所にひとかたまりになって20,30軒びっしりと立ち並んでいた。 所によっては不法建設ということで、電力会社や市の水道局から電力の配線工事を拒絶され、水道管の敷設もできず、近くの日本人の民家から自分たちで配線工事をして、水道管を繋ぎ特別料金をはらっている「朝鮮部落」も少なくなかった。 その周辺の日本人から、そこは異郷のような特殊な目で見られており、道路一本隔てた日本人社会とはほとんど交流がなかった。 多感な若者の感性は「特殊部落」を見る日本人の言動に蔑視と嫌悪の感情を感じ取ったり、やり場のない怒りを覚えたものである。 (金賛汀『在日、激動の百年』朝日新聞社 2004年4月 173頁)
金賛汀さんは「朝鮮部落」の様相をよく観察しておられますねえ。 「(朝鮮部落)周辺の日本人から、そこは異郷のような特殊な目で見られており、道路一本隔てた日本人社会とはほとんど交流がなかった」なんていうのは、正にその通りでした。
ところで3年前の毎日新聞に、朝鮮部落でも在日と日本人との間に「共生」の歴史があったというような記事が書かれていて、驚いたことがあります。 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/08/11/9516772 この毎日の記事のような「共生社会を体現してきた集落」は、もしあったとしたら極めて特殊事例でしょう。 金賛汀さんが記しているように、朝鮮人たちは「朝鮮部落を見る日本人の言動に蔑視と嫌悪の感情を感じ取ったり、やり場のない怒りを覚えていた」のが実際だったと思い出されます。 とてもではありませんが、「共生」というものから程遠かったです。
「朝鮮部落」はその成立の過程を大きく分けて二つに分類される。 一つは日本人地主が借家や長屋を建てたが、環境が劣悪なため日本人が住み着かず、朝鮮人が借り、そこに同胞が集まって住み着き、合法的に朝鮮人が多住した場所。 代表例は大阪の猪飼野地域である。 もう一つは戦前、住宅が借りられず、河川敷などの国有地にバラックを建てて住み着いた人々が集まってきて「朝鮮部落」が形成された「不法占拠」的な集落である。 いずれの「朝鮮部落」にせよ、そこには貧しく喧騒に明け暮れる劣悪な住宅、生活環境であったが、異郷に住む朝鮮人の拠り所でもあり、在日が民族的な感情・雰囲気を異郷で維持した温床(おんどこ)でもあった。 (同上 174頁)
朝鮮部落は、ここでは二つに分類されています。 一つはおそらく同和地区を念頭に入れていると思われます。 「環境が劣悪なため日本人が住み着かず、朝鮮人が借り、そこに同胞が集まって住み着き」というのは都市部の同和地区でよく聞く話でした。
一方で、もともとは同和地区でないのに劣悪な住宅が並んでスラム化した地域が同和地区扱いされる場合もありました。 例えば大阪で生まれ育った人が「猪飼野」を同和地区と思い込んでいるのを知って、驚いたことがあります。 住環境が劣悪で周囲からの評判が悪く不動産価格が安くなるので在日韓国・朝鮮人住民が多くなってスラム化して「朝鮮部落」となったところです。 本来の意味の「同和地区」ではないのですが、混同する人が多いようですね。
借地・借家を中心として形成された「朝鮮部落」は、戦後の借地借家法などが居住者保護の立場を重視したことから、家賃や地代をきちんと払っている限り、そこから強制的に追い立てられることがなくなり、定着がより強固なものになった。 (174~175頁)
「朝鮮部落」は劣悪な環境ですから、周囲と比べれば家賃・地代は安いです。 しかし、きちんと支払っていれば追い出されることはなく、定着していきます。
もう一つは河川敷などの不法占拠。 この場合は、家賃も地代もありません。 終戦直後の混乱のなかで、住む家に困った在日たちが不法占拠してバラックを建てて「朝鮮部落」を形成するパターンですね。 これは今でも日本各地に残っていて、ユーチューブなどで時々探索するような映像が出ています。
どちらの「朝鮮部落」も、金さんは「貧しく喧騒に明け暮れる劣悪な住宅、生活環境であったが、異郷に住む朝鮮人の拠り所でもあり、在日が民族的な感情・雰囲気を異郷で維持した温床(おんどこ)」と、的確かつ簡潔に表現していますね。 「朝鮮部落」を体験していたからこそ書けたのでしょうねえ。
後者の河川敷等の不法占拠の「朝鮮部落」について、もう少し詳しく説明されています。
その「朝鮮部落」のうち「不法占拠」的な「朝鮮部落」が1960年代ごろから少しずつ消滅していった。 日本経済は1955年ごろから高度経済成長期を迎えたが、池田勇人内閣が成立した1960年ごろから政策的な後押しを受け経済成長はさらに進展した。 日本経済の発展につれ、戦後の長い期間、失業状態が続いていた在日の人々にも就労の機会が増え、生活状態の改善がもたらされた。 それに伴い生活環境の劣悪な「朝鮮部落」から抜け出す人々が増えていった。 また1959年末から始まった北朝鮮帰還事業には「朝鮮部落」に住む人々が多く帰り、「部落」消滅に拍車をかけた。 さらに高度経済成長を支えた大規模な公共投資により、河川敷の改修工事が進展して、河川敷を不法占拠していた「部落」の人々はいくばくかの保障と、提供された公共住宅に分散して入居することで、多くの「朝鮮部落」が消滅していった。 (同上 174頁)
これは大体その通りだったと同意するところです。 不法占拠ですからいつかは出て行かねばなりませんが、1950~60年代の高度経済成長とともに経済的に余裕ができたために「朝鮮部落」から抜け出た人は少なからずいました。 しかし、出て行こうともせずに居残った人も多かったのです。 1960年代までは「維持」、それ以降に「縮小」、というのが私の印象です。
なぜ出て行かなかったかというと、やはり民族を同じくする同胞がいて居心地が良かったことが挙げられると思います。 「朝鮮部落」では朝鮮人たちが協力し合う関係が強固に形成されていて、その核となったのが朝鮮総連の分会でした。 部落の子供たちは生まれた時から顔馴染みで、一緒に朝鮮学校に通っていました。(ただし多産家庭などでは、授業料無料の公立学校に通わせる場合も多かった) 彼らは周囲の日本人から冷たい目で見られているからこそ、部落内の団結は強かったと言えます。 このような民族コミュニティの居心地の良さゆえに、特に年取った人はそこから出て行き難かったのでしょう。
さらに付け加えて、在日たちは劣悪な住宅と環境での生活に我慢していたについてですが、それは彼らが“自分らはいつかは祖国に帰る、この日本は仮の住まいだ”という意識を有していました。 だから自分たちが住む地域にさほど愛着がなく、だからお金をかけて自分たちの生活環境を改善していく動きにはなかなか行かなかったことです。
それが1970年代に入って、そんな祖国志向が薄れ、日本に定着志向へと変化したのでした。 それは日本では高度経済成長期と重なり、在日も経済的に余裕が生じた時期なのでした。 (続く)
【拙稿参照】 「朝鮮部落」を探訪したユーチューブ動画 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/05/04/9773065
「朝鮮部落」の思い出(1) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/07/12/9508262
「朝鮮部落」の思い出(2) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/07/19/9510331
神戸の「朝鮮部落」―毎日新聞 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/08/11/9516772
小松川事件(3)―李珍宇が育った環境 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/04/12/9576502