戦後朝鮮人の振る舞い―「事実」の経過2020/09/28

http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2020/09/25/9299094 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2020/08/23/9281241 の続きです。

 終戦直後の在日朝鮮人の振る舞いという「事実」に関して、もう少し資料を提示したいと思います。

 まずは当時の在日朝鮮人たちがどのような考え方をしていたか。 米国の研究者のリチャード・H・ミッチェルは、次のように分かりやすくまとめています。

多くの朝鮮人は、積年の日本統治下の隷属から解放されたにもかかわらず、自分たちの法的地位が、日本人と同等になっているという現実に強い憤りを感じていた。 彼らは解放民族として、勝利者である連合国側のメンバーとしての待遇を期待していた。それは、自分たちには、公式に日本人よりも高い地位が与えられるべきだというものであった。多くの朝鮮人は、自分自身を日本の敗戦によって解放された奴隷だと思っていた。 (リチャード・H・ミッチェル『在日朝鮮人の歴史』彩流社 昭和56年6月 130頁)

1945年に出版された朝鮮人の刊行物には、純粋でしかも鮮やかに、自分たちの考えをこのように記している。「我々は二流の民族であるが、日本人は四流である。したがって、我々は、当然これまで以上の待遇を受けるだろうし、日本人は、我々より悪い待遇を受けることになるだろう」と。 (同上 130・131頁)

 それではこのように考えた在日朝鮮人たちは、どのような行動をとったのか。 立命館大学の文京洙さんは、当時の在日朝鮮人組織の資料に次のように記されていることを報告しています。

当時の在日朝鮮人の状況を朝連第三回全国大会の報告は次のように述べている。 

(日本に)在留した同胞たちも大概一定の職業はなく、解放の喜びと独立国民という自尊心を誤解し、さまざまな不祥事があいついでいることは遺憾である。

労働者も、勤労精神を忘れ、ちょっとした闇商売で収入を得ると、家庭に最低限の生活費を入れるだけで酒食に使い果たしてしまう傾向があった。

多少知識のある非良心的な層は、何ら事業もせずに、毎日自動車と宴会に明け暮れ一攫千金を夢見ている。彼らは、何かの会とか同盟とかいう二、三人の団体をつくっては酒とタバコなどの物資を獲得し、私腹をこやすなどの悪行を重ねている。こうした行為を清算しなければ、将来、われわれの信用は失墜し、正当な物資の配給も受け取ることはできない。

ごく少数ではあるが、もっともたちの悪い一部のものたちは、いわゆる集団強盗、窃盗、悪質闇商人と化し、同胞の体面と生活に大きな影響を及ぼしている。 (以上は新幹社『ほるもん文化6』1996年2月号所収の文京洙「戦後日本社会と在日朝鮮人」 174頁)

 「朝連」は「在日本朝鮮人連盟」で、当時の在日朝鮮人の最大組織。 後の朝鮮総連につながります。 また「第三回大会」は1946年10月14日から開催されました。 以上は終戦直後当時に在日組織自身から出た発言なので、注目すべきものです。 

 後に在日本韓国居留民団の団長に就任した権逸さんはこの時代を次のように回顧しています。

左翼朝鮮人だけでなく、一般の在日同胞のなかにも、故なく威張り散らして、法を無視することが少なくなかったことは、良識ある同胞の憂慮するところであったし、私たちは見るに忍びなかった。当然のように無賃乗車する者もいたり、中には白墨で車内に『朝鮮人専用』と書いて他人が入るのを拒むことすらあった。傍若無人というほかなかった。 (『権逸 回顧録』 権逸回顧録刊行委員会 1987年10月 106頁)

 著作家の金賛汀さんは在日朝鮮人の歴史を概説する中で、次のように記しています。

在日朝鮮人の間には植民地支配を通して、法律は朝鮮人を苦しめるために存在しているという意識から、順法精神は極めて薄く、統制物資の密売密造に犯罪意識はほとんどなかった。 その上日本の敗戦で自分たちは「解放国民」になったから日本の法律に従わなくてもよいという思い込みもあった。 (金賛汀『在日 激動の百年』朝日選書 2004年4月 100・101頁)

 このように当時の在日朝鮮人の振る舞いが「悪行」「法を無視」「順法精神は極めて薄い」とあっただけに、日本人からの反発は相当なものでした。 この資料はたくさんありますので、誰でも直ぐに見つけられるでしょう。 20年前の拙論 http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daijuusandai から主なものを紹介します。

ヤミというと第三国人のことを書かなければならない。 敗戦のために在日朝鮮人は優位な立場に置かれた。 外国人であっても本来なら日本の法の下にあるのだが、日本の官憲の弱みにつけこんで、治外法権に近かった模様である。 (『戦後世相辞典』 奥山益郎)

朝鮮人は、すべてのやみ市市場活動の中核をなし、またかれらの無法な行動は今日の日本のすべての商取引や社会生活に影響を及ぼしている。 かれらは警察をはばからず、輸出入禁止の取引を誇示し、またなんらの税金もはらっていない。‥‥事実、大阪・神戸においてはすべての露店・飲食店は朝鮮人・台湾人の手中に帰したといわれている。 (1946 年8月 国会における椎熊議員の発言)

第三国人の一部には、治外法権があるかのような優越感をいだかせ、社会の混乱に乗じて徒党を組み、統制物資のヤミ売買、強・窃盗、土地建物の不法占拠などの不法行為をほしいままにし、戦後の混乱を拡大した ‥‥覚醒剤、密造酒となると、これは第三国人の独壇場という感があった。特に第三国人らが製造するヒロポンは家内作業で密造するため不潔で、また患者らの要求に応じた即効性のある粗悪品だったから、品質の点でもさまざまな問題があった。 (『朝日新聞記者の証言5』朝日ソノラマ)

 在日朝鮮人と日本人との間の対立・緊張関係は長く続きます。 従って日本人の中には、かつての体験を思い出すように朝鮮人に対する厳しい感情を吐露し、時には文章化することが多々ありました。 それが「民族差別」だと大きく問題化したのは、1970年代に入ってからと思われます。 そのはしりが1970年の漫画雑誌『少年サンデー』に掲載された梶原一騎の「おとこ道」に出てきた次のセリフとキャッチフレーズです。

「最大の敵は、日本の敗戦によりわが世の春とばかり、ハイエナのごとき猛威をふるいはじめた、いわゆる第三国人であった!!」 「殺られるまえに殺るんだ、三国人どもを!!」 (『少年サンデー』8月30日号 1970 55頁)

第三国人を相手どって凄絶な死闘を敗戦下の東京にくりひろげられた“相馬組”血の抗争史はかくて幕を切っておとす!! (同上 64頁)

 これには抗議が押し寄せて、結局連載が中止となったそうです。 これ以降、終戦直後の在日朝鮮人の振る舞いについて日本人が当時の気持ちをそのまま表すことに対して、「差別発言」と糾弾されることになりました。 これはダイエー社長だった中西功さんが『ビッグマン』という雑誌で次のように語った時まで続きます。

その当時(終戦直後の神戸の闇市)は第三国人に支配されていまして、主に台湾人、韓国人ね。 (『ビッグマン』1983年1月号』)

 この時も民族差別と闘う団体が激しく抗議し、これに対し中西さんは、あなたたちは当時のことを何も知らないと反論したようでしたが、結局は謝罪しました。

 『少年サンデー』事件の3年後に、在日朝鮮人の振る舞いを考察する研究論文が出ました。 加藤晴子「在日朝鮮人の処遇過程にみられる若干の問題について―1945~1952年」(『日本女子大学紀要 文学部33』昭和58)です。 しかし民族差別と闘う団体から批判が出ていましたねえ。 「何のための誰のための歴史学か!?」と。 

 こういう経過のなかで、研究者の中には当時の在日朝鮮人の振る舞いを積極的に肯定し、正当化する人も現れました。

こうした朝鮮人の生きるための闘い‥‥敗戦による混乱の中で、たくましく活気にあふれた在日朝鮮人の活動 (内海愛子「『第三国人』ということば」 明石書店『朝鮮人差別とことば』1986年11月所収 126・127頁)

 内海さんはこの論稿の中で、在日朝鮮人は「解放国民」なのだから、日本人は彼らの振る舞いに対して反感を持ってはいけないと主張しています。 ですから警察が彼らの不法行為を取り締まることを「弾圧」と表現しています。

 終戦直後の在日朝鮮人の振る舞いに対して、日本人側からは当時の気持ちを表に出せない状態が長く続きました。 今度のNHKの記事とそれを毎日新聞等が報道し、民団が「民族差別を扇動」するものとして抗議に乗り出したことは、静まり返っていた問題が再び表面化したものとして、私には関心が行くものです。

 私の個人的な感想ですが、NHKは、日本は歴史を直視していないと批判されている、だったら在日朝鮮人の歴史を直視することは許されて当然だ、という心情があったのではないかと思います。

 今回のブログは、在日朝鮮人の振る舞いに関してこれまでの議論の「事実」関係を資料に基づいて整理し、まとめてみました。

【拙稿参照】

戦後朝鮮人の振る舞い―NHK記事に民団が人権救済申し立て http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2020/09/25/9299094

戦後の朝鮮人の振る舞い―事実を語るべきか http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2020/08/23/9281241

水野・文『在日朝鮮人』(14)―終戦直後の状況 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2016/07/22/8135824

張赫宙「在日朝鮮人批判」(1)   http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2013/10/27/7024714

張赫宙「在日朝鮮人批判」(2)   http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2013/11/01/7030446

権逸の『回顧録』          http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2013/11/07/7045587

終戦後の在日朝鮮人の‘振る舞い’  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2013/11/14/7054495

在日朝鮮人の「無職者」数      http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2016/01/05/7971706

闇市における「第三国人」神話    http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daijuusandai

戦後朝鮮人の振る舞い―NHK記事に民団が人権救済申し立て2020/09/25

 NHKの「1945ひろしまタイムライン」で、「朝鮮人」を巡る記述が問題になっていることで、今度は民団が「民族差別を扇動する」として人権救済を申し立てたそうです。 https://mainichi.jp/articles/20200924/ddm/041/040/116000c

申立書では、1945年8月20日の設定で投稿された「戦勝国となった朝鮮人の群衆」が「乗客を窓から放り投げた」などの内容は、「朝鮮人の不当性を際立たせる叙述で、背景事情について注釈もされていない」として、人種差別撤廃条約やヘイトスピーチ対策法の「不当な差別的言動」に当たると指摘。

 これについて私は拙ブログ8月23日付で、戦後の朝鮮人の振る舞いの「事実を語るべきか否か」の問題だと指摘しました。  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2020/08/23/9281241

 民団は「事実」を語ることが「不当な差別言動」だと主張しているようです。 ところで、かつて民団の団長であった権逸氏は自らの『回顧録』の中で、次のような「事実」を語っています。

法はあって無きに等しく、警察は文字通り無力であった。したがって、非人道的で破廉恥な行為が平然と行われ、理性が喪失した社会のようであった。このような社会状態が醸しだしたものであるかも知れないが、左翼朝鮮人だけでなく、一般の在日同胞のなかにも、故なく威張り散らして、法を無視することが少なくなかったことは、良識ある同胞の憂慮するところであったし、私たちは見るに忍びなかった。当然のように無賃乗車する者もいたり、中には白墨で車内に『朝鮮人専用』と書いて他人が入るのを拒むことすらあった。傍若無人というほかなかった。 (『権逸 回顧録』 権逸回顧録刊行委員会 1987年10月 106頁)

 ここに書かれた「事実」は、NHKの「1945ひろしまタイムライン」の記事に符合しています。

 さらに権逸氏は次のように述べます。

顧みると、当時のこのような行動は、長い間抑圧されてきた者の自然発生的な反発感から出たものであり、またそれらの者たちにとって感情的には痛快感が得られたかもしれないが、このような行為は敗戦で萎縮した日本人の胸に、朝鮮人に対する憎悪感を植えつける要因になったのではないだろうか。 (同上)

 ところで、今の民団は戦後朝鮮人の振る舞いについて、「事実」を語るな(=事実の隠ぺい)を主張しているのか、それとも「背景事情」を考えれば当時のそんな振る舞いは正当だと主張しているのか、どっちなんでしょうかねえ。

【拙稿参照】

戦後の朝鮮人の振る舞い―事実を語るべきか http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2020/08/23/9281241

終戦後の在日朝鮮人の‘振る舞い’ http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2013/11/14/7054495

張赫宙「在日朝鮮人批判」(1)   http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2013/10/27/7024714

張赫宙「在日朝鮮人批判」(2)   http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2013/11/01/7030446

権逸の『回顧録』          http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2013/11/07/7045587

在日朝鮮人の「無職者」数      http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2016/01/05/7971706

水野・文『在日朝鮮人』(14)―終戦直後の状況 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2016/07/22/8135824

闇市における「第三国人」神話    http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daijuusandai

砧を頂いた在日女性の思い出(1)2020/09/21

 ↑は、私が神戸市兵庫区に住んでおられた在日一世のおばあさんから頂いた砧の台(다듬잇돌)と叩き棒(다듬잇방망이)です。

 2020年8月21日付の拙ブログに、ある投稿者が神戸市長田の方と知り、次のようなコメントのやり取りをしました。  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2020/08/21/9280627

――長田区のご出身のようですね。 25年ほど前に隣の兵庫区に住んでおられた在日一世のおばあさんから、「砧」の道具をいただいたことがあります。 在日朝鮮人の民俗資料として貴重なものです。      私が個人で所蔵するには勿体なく、いずれゴミになるだけですから、長田にある「神戸コリア教育文化センター」に数年前に寄贈しました。 「辻本寄贈」ということで受け入れられました。 もしこのセンターに行くことがございましたら、「砧(다듬이) 」をご覧いただければ幸い。

 翌日にこの投稿者から次のような返事をいただきました。

辻本寄贈なるもの神戸コリア文化センターに問い合わせました。確かに、10年前ごろかにツジモトタケシなる大阪在住の方から寄贈を受けたとのことでした。まんざら、あなたの言うことは嘘ではなかったようです。

砧について「私が所蔵するには勿体なく、いずれゴミになるでしょう」。とあります。そこで在日朝鮮人の貴重な民族資料として、なぜあなたが在日1世のばあさんがあなたに上げようとしたのか、そして、いずれゴミになるなるだけのものをなぜあなたが受け取ったのか、疑問ですね、廃品回収でもやっておられたのですか。

 これに対して、私は次のように返事しました。

――歴史資料収集の一環として、ゴミに出される寸前に頂きました。

――1990年代までは、このおばあさんだけでなく、在日朝鮮人社会では砧はゴミとして廃棄されてきました。 私が収集して発表したのが最初だと思います。

――そのせいでしょうか、その後朝鮮学校では家に砧が残っていないか、生徒らに聞いて回ったという話を聞いたことがあります。 砧を在日朝鮮人の民俗資料として貴重だと最初に言ったのは私だと、勝手に自画自賛しています。 ――こういう資料は個人蔵のままにしておくと、相続する者がいなければゴミとして廃棄されるものです。 貴重な資料と考えて寄贈先を探していましたねえ。

――「朝鮮学校では家に砧が残っていないか、生徒らに聞いて回ったという話を聞いたことがあります」と書きましたが、2000年代初めごろに神戸の朝鮮学校出身者から、学校で家に砧があるのかどうか聞いてこいという通知が来たことがあるという話を聞きました。 その年代を尋ねると、私が砧について発表した直後の頃だったので、私の発表の影響かなと推測しました。

 砧とはどういうものか、拙論 http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daihyaku18dai.pdf に図と説明がありますので、ご参照ください。

 「砧って知っていますか?」と問えば、日本人なら「藁打ちをおじいさんが『砧』といっていた」「お琴の練習で『砧』を弾いた」「能で『砧』を見たことがある」「砧巻きというお菓子がある」等の答えが返ってくることが多いです。 東京の方なら世田谷区の砧を思い浮かべるでしょう。 しかし「砧」とはどんな道具でどのように使うのかなんて、まるで知らないものです。

 一方、1960年代までは在日朝鮮人の女性たちは砧を打っていました。 この風景を子供の時に見て今も覚えている在日はもう70代以上のお年寄りになるでしょうが、その記憶は「おばあさんが洗濯物を叩いている」という程度のものです。 「砧」という言葉がなかなか出てきません。 「砧」という言葉を全くといっていいほど知らないからです。 せいぜい李恢成の芥川賞受賞作品「砧を打つ女」が出てくるくらいですかねえ。

 日本人は「砧」という言葉は知っているが実際の砧打ちを見たことがない、一方在日朝鮮人は砧打ちを見ていたが「砧」という言葉は知らない、1990年代はそんな状況だったと思い出されます。

 ところでこの投稿者は私を「廃品回収でもやっておられたのですか」と皮肉をおっしゃいました。 しかしこれは言い得て妙ですねえ。 民俗学や考古学の資料収集は、実は廃品回収と大きな違いがありません。 一般的にゴミとして廃棄されるようなモノを集め、その中からこれは貴重な資料だと「発見」して拾い、研究するのが民俗学・考古学ですから。

毎日のコラム「余録」の間違い―尹東柱2020/09/15

 2020年9月13日付け毎日新聞の第一面下段にあるコラム「余録」は、韓国で国民的詩人とされる尹東柱に触れています。  https://mainichi.jp/articles/20200913/ddm/001/070/095000c

尹は第二次大戦中、留学先の日本で治安維持法違反容疑で逮捕された。当時禁じられていた朝鮮語での詩作が独立運動に当たるとされた。

 この中で「当時禁じられていた朝鮮語での詩作が独立運動に当たるとされた」が間違いです。 フェイクと言ってもいいです。

 当時の朝鮮は日本の植民地下にありましたから、公用語は宗主国の言葉である日本語です。 従って公的会議や役所間の連絡、裁判、学校などでは日本語となり、朝鮮語を使うことはありません。 裁判で日本語を解さない人が出廷しますと、通訳を雇うことになります。

 しかし一旦こういった公的空間から離れると、朝鮮語を使うことは自由でした。  朝鮮人たちは家族間、親戚間、友人間、近所間では朝鮮語で会話しました。 また当時、朝鮮内の電報はハングルで送ることが可能でした。

 朝鮮総督府の機関紙である「毎日新報」は、ハングルが使われた唯一の新聞として1945年の解放まで続きます。 また総督府は戦争中、朝鮮人に戦争を理解させ、動員するために様々なキャンペーンをしますが、これもハングルです。

 つまり毎日新聞にあるように「当時禁じられていた朝鮮語」というのは、あり得ないのです。

 従って朝鮮語の詩作が禁じられたこともありません。 韓国の詩人として有名な徐廷柱は尹東柱が獄中にあった1944年12月9日にハングルの詩を堂々と新聞に発表しています。 一方、尹東柱の詩は未発表でした。 公表されたハングル詩は容認されていながら未公表のハングル詩が禁じられたなんて、あり得ないことです。

 「朝鮮語での詩作が独立運動に当たるとされた」ことも、あり得ません。 尹東柱は友人間で朝鮮独立の夢を語ったことが「独立運動に当たる」とされたのであって、詩は関係ありません。 尹の詩には民族独立を感じさせるものは皆無と言っていいです。 岩波文庫に『尹東柱詩集』がありますが、そのどれも「独立」を表現するものはありません。 無理やり「独立」に結びつける人がいますが、詩はそのまま素直に読めばいいのに、と思います。

【拙稿参照】

尹東柱記事の間違い(産経新聞)   http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/02/09/7568265

尹東柱記事の間違い(毎日新聞)   http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/02/15/7572811

尹東柱記事の間違い(聯合ニュース) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2017/01/29/8339905

水野・文『在日朝鮮人』(11)―尹東柱  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2016/06/26/8118773

尹東柱は中国朝鮮族か韓国人か   http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2016/04/21/8075000

尹東柱のハングル詩作は容認されていた http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2017/07/11/8618283

『言葉のなかの日韓関係』(2)   http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2013/04/09/6772455

『言葉のなかの日韓関係』(3)   http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2013/04/11/6774088

『言葉のなかの日韓関係』(4)   http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2013/04/13/6775685

尹東柱の創氏改名記事への疑問   http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2018/07/16/8917954

尹東柱の創氏改名―ウィキペディアの間違い http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2018/08/11/8939110

尹東柱の言葉は「韓国語」か「朝鮮語」か http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2018/08/19/8945248

在日朝鮮人には徴兵されたのか2020/09/11

 朝鮮人に徴兵義務が課せられたのは1944年4月以降のことです。 実際に徴兵検査の実施はもっと後のことになります。 徴兵検査は、戸籍のある本籍地の役場(面事務所)があなたは徴兵の年齢に達したから徴兵検査を受けなさいという通知を出します。 徴兵検査は日本では普通は本籍地で徴兵検査が行なわれます。 朝鮮人の場合も、おそらく故郷の本籍地で徴兵検査がなされたものと思われます。 なお事情によって、居住地等で徴兵検査ができたかも知れません。

 朝鮮では徴兵検査が実施され、一部が召集されて軍事訓練を受けました。 しかしすぐに終戦となって、実際に戦地に行ったのはほとんどいなかったようです。 朝鮮人が2万人戦死しましたが、これは志願兵と考えられます。 志願兵には当然ながら徴兵検査はありません。

 ところで在日朝鮮人も1944年に徴兵義務が生じたのですが、徴兵検査が実施されたのかどうかが分からないところです。 なぜなら44年ともなれば、米軍の空襲で関釜連絡船の運航に支障をきたし始め、翌45年4月以降には大半が途絶したからです。 徴兵検査の案内通知が本人に届いたのかどうか、不確定になります。 そしてまた在日朝鮮人の体験談の中に徴兵検査が出てくることは、私のこれまでの見聞きした範囲では皆無でした。

 しかし拙ブログで、ある在日の投稿者から自分の父親は徴兵検査を受けたとされましたので、まさかそれはないだろう、本当なら本籍地の故郷に行って徴兵検査を受けたはず、と思いました。 しかし当時の状況(関釜連絡船の途絶等)から、日本国内でも徴兵検査があったのかも知れないと思い直しました。 そこで幾つかの本に当たってみたところ、水野・文『在日朝鮮人 歴史と現在』(岩波新書)の80頁に次のような記述があるのを見つけました。

四五年前半には徴兵された朝鮮人が「農耕勤務隊」の名称で愛知県など各地で軍用食糧の農作業や、航空燃料の原料にする松根に動員されていたことが、近年の研究で明らかになった。  (水野直樹・文京洙『在日朝鮮人 歴史と現在』岩波新書2015 80頁)

 徴兵されると、まずは銃や手榴弾を持たされ、完全武装して厳しい軍事訓練を何ヶ月も受けます。 従って「軍用食糧の農作業や、航空燃料の原料にする松根に動員」とあるのはちょっと疑問になります。 これは軍人の仕事ではないでしょう。 徴兵ではなく単に戦時動員された人なら理解できるのですが。 ともかくこの本では、在日朝鮮人で徴兵されて日本国内に配置された人がいたとされていますので、徴兵検査も日本国内でなされた可能性があります。

 ところで徴兵検査について、私は日本人の方ですが何人かにお話を伺ったことがあります。 それは次のような話でした。 (私のメモ)

徴兵検査をするのは本籍地だから都会に出た者も帰ってくる。 故郷で久しぶりの再会で、それだけで話は盛り上がる。

検査では素っ裸にされて、肛門に指を突っ込まれた、おちんちんをぎゅっと握られた、というのが定番の話。 痔と性病の検査。 こんなことは生まれて初めての経験。

そして検査を終えたら、みんなで女郎屋(当時は淫売屋とも言う)に繰り出す。 徴兵検査で性病に引っかかれば恥と思っていたから、それまでは大抵の者が童貞。 だから徴兵検査を終えて、みんなで童貞を捨てに行く。

 徴兵検査はこんな感じでしたから、本人には印象深く、よく記憶しておられます。 ですから在日朝鮮人で徴兵検査を受けたことがある人がおられれば、その方たちもこんな経験をしたはずです。 特に隠すようなことではありませんから、本当に徴兵検査を受けていれば、こんな話が出てくるものだと思うのですが。 

 ところで先の投稿者の父親は徴兵を逃れようと醤油を2合飲み、その結果「丙種不合格」となったとされました。 徴兵逃れには様々な方法があるのですが、醤油の大量飲みもその一つでした。 当然軍当局も知っていますので、そんなことをさせないように厳しく取り締まり、たとえやっても直ぐに見つかるものなのです。 しかしそんな話が出てきません。 そこに疑問点が出てきます。

 また「丙種不合格」もおそらくあり得ません。 不合格は「丁種」以下で、身長が余りに低いとか身体障害者であるとかの場合です。 「丙種」は軍隊の現役には適さないが、それ以外の兵役には就けるというもので 「不合格」はあり得ないと思うのですが。 なお1944年ともなると戦局がかなり悪化していましたから、丙種でも召集され始めます。 ですから尚更「丙種不合格」はあり得ないのではないかと思うところです。

 今回の記事作成には、曺様のご投稿が契機となりました。 おかげさまで私も勉強になりました。 こういう議論が出来るのは、うれしいですね。

拙ブログへのビックリ批判2020/09/09

 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2020/08/13/9278142 のコメント欄に、次のような批判投稿がありました。 9月8日13時34分付け。 読みやすいように二段に分けます。

土地測量事業を始めたのは、朝鮮総督府の土地調査局・とち調査委員会と言うのはどこが作った組織ですか、日本でしょう。あたかも、日本政府っが直接関与していないとの言い回しをされているのですが

あなたたちの歴史観そのものは、日本中心に世界が回っているという、実に身勝手な思考でおられるようですが、植民地化を併合といい、安重根を暗殺者という。まず、日本は朝鮮半島を侵略したということを認めないあなた方のような日本人がいる限り、相互理解の道はまずないということが言えます。近隣アジア諸国、とりわけ韓国、北朝鮮は日本を心底から信用することができない、警戒感が解けないのは、あなたの文書から見ても歴然とします。

 これはそれ以前に、投稿者が土地調査事業を施行したのが東洋拓殖であり勉強しろと言われたので、それは朝鮮総督府土地調査局ですよと指摘しました。 その反論が今回の「どこが作った組織ですか、日本でしょう。あたかも、日本政府っが直接関与していないとの言い回し」ですから、ビックリですね。 この方の歴史知識がどれほどのものか、推測できます。

 また「あなたたち」「あなた方」とは、複数でこのブログを運営していると考えておられるようです。 何故こんな勘違いをされたのか、どこを読んでこんな勘違いをしたのか、不思議としか言いようがありません。 おそらく勝手に想像して決め付けただけのようです。 要するに、ちゃんと読でいないということでしょう。

 私が「身勝手な思考」をしている根拠に「植民地化を併合といい、安重根を暗殺者という」を挙げておられますが、「安重根を暗殺者」だなんて、拙ブログでは書いたことがありません。 ここは捏造としか言いようがありませんね。

 また大韓帝国を「併合」という名前で植民地化したのは歴史的事実であって、何故これを書くことが「身勝手な思考」になるのか、全く理解できません。 なお日本人の一部に、韓国を併合したのであって植民地化したのではないと主張するヘンテコ論者がいますが、こんな人間と勘違いされたのですかねえ。

 「近隣アジア諸国、とりわけ韓国、北朝鮮は日本を心底から信用することができない、警戒感が解けないのは、あなたの文書から見ても歴然とします」とあります。 「北朝鮮」を信用できないことは書いていますので、この部分に関してはその通りです。 逆に北朝鮮を信用できるとする投稿者にビックリですね。 それ以外の「近隣アジア諸国、とりわけ韓国」に関しては、どこをどう読んで「信頼できない」と判断されたのか、首をひねります。

 結局、拙ブログを読まないで、勝手に「日本は朝鮮半島を侵略したということを認めない」「近隣アジア諸国、とりわけ韓国、北朝鮮は日本を心底から信用することができない」と決め付けて、批判しているだけですねえ。

 こういう人がいるというだけで、一つの勉強になりました。

『金達寿伝』を読む―金家はなぜ没落したか2020/09/07

 拙ブログ http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2020/08/13/9278142 で、故金達寿の来日の由来について、次のように書きました。

作家の金達寿さん一家が来日した由来を、土地調査事業で日本に土地を奪われて生活できなくなったからと書かれていたのを読んでビックリしたことがあります。 金達寿さんは『わがアリランの歌』(中公新書1977)の中で、父親が先祖からの土地を切り売りしながら遊蕩三昧した末に生活に窮し、日本に来ることになったと書いています。

 これをもう少し詳しく書きます。 最近出版された『日本のなかの朝鮮 金達寿伝』(廣瀬陽一著 クレイン 2019年11月)の19頁には次のように記述されています。  

金柄奎(金達寿の父)一家は、本家や親類が没落して離散した後も亀尾村で暮らした。しかしまもなく彼らと同じ運命を辿ることとなった。その最大の要因となったのは、韓国併合直後から1918年にかけて朝鮮半島全土で実施された土地調査事業である。

朝鮮総督府は植民地支配の財源確保を目的に、土地の地目を調査して所有者を確定する作業を進めた。この過程で農民を中心に数百万人もの朝鮮人が、何が何だかわからないまま一夜にして土地の所有権や共有地を失い、小作人や肉体労働者に転落した。辛うじて免れた者も、困窮のために高利貸しに手を出して、土地や家屋を手放さざるを得なくなった。

金家の田畑や山林も事業のなかで失われ、わずかに残った財産も、将来に絶望した柄奎が馬山浦の歓楽街で遊蕩して使い果たしてしまった。‥‥

こうして財産を失ったあげく、一家離散の時が来た。 1925年冬、表通り沿いのポプラ並木の落ち葉が木枯らしで舞い上がる中、柄奎と福南(金達寿の母)は声寿(金達寿の兄)とミョンス(金達寿の妹)を連れて<内地>に渡った。

 この本は、金達寿の生涯の歴史を具体的な資料に当たりながら辿っているのですが、金家没落の「最大要因」が「土地調査事業」であるとする資料は提示していません。 土地調査事業によって財産をどのように「失った」のか、そして「わずかに残った財産」とはどれくらいだったのか。 こういう肝心なところがさっぱり分かりません。 朝鮮総督府が施行した土地調査事業について一般概説書の偏った説明を、そのまま金達寿一家の没落に当てはめたようです。

 なお金達寿自身は、著書『わがアリランの歌』(中公新書 昭和52年)のなかで、次のように書いています。

私の家というのはいわば没落した中小地主の一つだった。1910年のいわゆる「日韓併合」とともに、約十年間にわたってくり返し行なわれた「土地調査」とはどういう関係にあったか、これについても私はくわしくは分かっていないが、ともかく私が生まれたころ(1919年)にはもう、その没落は確実なものとなっていた‥(4~5頁)

 このように著者自身は、土地調査事業によって没落したのかどうか分からないと明記しています。

 次に『金達寿伝』では、金家が財産を失った二番目の原因を「将来に絶望した柄奎が馬山浦の歓楽街で遊蕩して使い果たしてしまった」としていますが、『わがアリランの歌』ではちょっと違います。

馬山は人口3万ほどの都会で、そこには妓生組合、すなわちその妓生と遊ぶ妓楼があって、父はほとんどそこに入りびたりとなっていたのである。いわゆる遊蕩で、しかも父にはいつも四、五人の取巻きたちがついてまわっていたという。

その取巻きたちは家に来たこともあって私も見たことがあるが、しかしそうしてちちがたまに家に帰った翌朝など目をさましてみると、馬山の市で買い入れてきた大口魚の鱈などが軒先にずらりとぶらさげられたりしていた。‥‥

そうして父は家にいることはあっても、私はその父の働くのを見たことがなかった。ただ一度か二度、先のほうに小さな鍬のような金具のついた長い竹竿を持って、作男たちの働いていた田んぼをちょっと見てまわったことがあるのを、私はやっと覚えているだけである。

要するに父は、残った田畑を一枚二枚と人手に渡しながら、遊蕩三昧だったのである。

いま考えると、その取巻きをも含めた父たちは、半分やけくそになっていたかとも思う。

いわば父たちにとっての青春とは、いわゆる「日韓併合」であった。父はそのときまだ20歳になっていなかったが、しかしそれでもう希望もなにもなくなってしまった、といえなくもない。

いわゆる「日韓併合」時の義兵抗争にも参加できなかったばかりが、三・一独立運動の中心部にあって抵抗することもできなかった無力な彼にとって、できることといえば、やけくそになるよりほかになかったのかも知れない。 (以上『わがアリランの歌』6~7頁)

   金達寿自身は、父親は「やけくそ」だったであろうとしています。 『金達寿伝』にあるような「将来に絶望」とはちょっとニュアンスが違うように思えます。

 どちらであれ、父親は働きもせずに先祖からの財産を切り売りしながら仲間たちと一緒に遊蕩三昧。 これが一家没落の原因だということが分かります。 

 ここで疑問が出てきます。 父親は作男(使用人)に田畑を耕作させるだけで、なぜ自分で働かなかったのか? 先祖からの財産を切り売りするだけで、なぜ財産を増やそうという発想がなかったのか? 自分で働いて得る収入がないのに、妓生遊びになぜ夢中になったのか? そして他人である取巻き連中になぜ気前よく奢ってやったのか? こんなことをしていたらいつかは破産することがなぜ分からなかったのか? 

 このような疑問に対して、私なりの回答をしてみます。 金達寿の父親は李朝時代から連綿と続く両班(上流階級)の暮らしがいつまでも続くと思っていた、だから汗水たらして働くことに拒否感があったし農業経営にも関心がなかった、そして自分が両班であることを見せるために周囲に大盤振る舞いをせねばならないし妓生とも遊ばなければならないと考えていた、父親はこのような両班意識から脱することができなかった。

 ちょっと言い換えますと、李朝時代には通用していた両班意識は近代社会には全く通用しなくなった、だから両班意識を引きずる両班の後裔たちは時代の波に乗れず、没落するしかなかった、ということです。 金達寿自身が言うところの「やけくそ」ですね。 「将来に絶望」ではないでしょう。 金家の没落は、昔ながらの両班意識にとらわれたというところから説明できると考えます。

 両班については、拙ブログで下記のように解説していますので、笑覧いただければ幸甚。

伝統的朝鮮社会の様相(2)―両班階級  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2019/09/05/9149522

伝統的朝鮮社会の様相(3)―貧富格差 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2019/09/20/9155647

『醜いが、目をそらすな、隣国・韓国!』(4) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2014/03/26/7254093

『醜いが、目をそらすな、隣国・韓国!』(5) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2014/03/29/7261186

『醜いが、目をそらすな、隣国・韓国!』(8) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2014/04/09/7270572

『醜いが、目をそらすな、隣国・韓国!』(9)http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2014/04/14/7274402

李朝時代に女性は名前がなかったのか(3) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2016/04/01/8061795

韓国の特殊詐欺2020/08/31

 日本では「オレオレ詐欺」や「振り込め詐欺」などの詐欺犯罪を「特殊詐欺」と呼び、以前より横行しており、毎年の被害額が300億円以上だそうです。 この特殊詐欺、日本だけではなく韓国でも横行しています。 韓国では特殊詐欺を「피싱(フィッシング)」あるいは「보이스 피싱(ボイス フィッシング)」と言います。 これらは英語をそのまま使った通称で、法律上では「전기통신금융사기(電気通信金融詐欺)」という用語になります。

 3週間ほど前(8月11日付け)ですが、韓国の中央日報に「フィッシング(特殊詐欺)」の記事がありました。 日本語版にも出てくるだろうと思っていたのですが、結局は出てこなかったので、訳してみました。

行く所まで行ったフィッシング、マンションまで入っていって、現金26億ウォンをだまし取る

ソウル城東区に暮らす50代の女性Aさんは、先月31日に「もうすぐ宅配の品物を住所地に配送されます」というメールが来た。 宅配を頼んだことがなかったAさんは、メールの番号に電話をかけ、「どんな品物か?」と尋ねた。

電話を受けた人は自分を「検察職員」だと名乗った。 彼は「あなたの個人情報が犯罪に使われ、口座を検査しなければならない」と言った。 引き続き「すぐに金監院(金融監督院)の職員が家に行くので、お金を渡しなさい」と言った。 金監院職員だという人に会ったAさんは、郵便局から引き出した現金を旅行用カバンに入れて彼に渡した。 同じ方法で四日間、全部で13回にわたってAさんが渡した金額は、総額26億ウォン(約2億3千万円)。

変だと感じたAさんは、去る5日に警察に「現金26億ウォンをボイスフィッシング詐欺で盗られた」と通報した。 26億ウォンはAさんが遺産で貰った住宅を売って作ったお金だった。 Aさんはお金をソウル市内のある郵便局支店から引き出した。 Aさんは郵便局を訪れる度に、数千万ウォンから最大3億ウォンを主に一万ウォン券(約900円)でまとめて準備し、カバンに入れた。お金を引き出す際に郵便局職員には「移民するのに資金が必要だ」と言った。 郵便局関係者は「Aさんは職員が提示したチェックリストのうち『警察、金監院職員から電話を受けましたか』という質問に『ない』と答えたので、ボイスフィッシング詐欺に遭ったという事実は分からなかった」と説明した。

検察・金監院職員を詐称し、Aさんに接近した被疑者は全部で6人。 ボイスフィッシング詐欺犯たちは、単純に通話でお金を振り込ませる手口ではなくAさんに直接会った。 Aさんが暮らす団地の裏門や団地内にまで入ってきてAさんに会い、お金を受け取った。

警察は団地の防犯カメラなどを使って被疑者を追跡している。 警察関係者は「現在追っている6人は受け取ったお金を渡す「受け子」である確率が高い」と言い、「ほとんどのボイスフィッシング詐欺事件と同じく、主犯が他にいる可能性も念頭に入れて捜査している」と話した。

2年の間に被害額2.7倍

金監院関係者は事件について「典型的で体系的なボイスフィッシング詐欺の手口」と分析した。 ボイスフィッシング詐欺対策の専門担当チームは「誰かが捜査機関の役割をして、誰かが金融監督院の役割をする「役割劇」に騙される場合が多い」と言い、「最近は銀行口座が追跡されないように、現金で要求する事例も増えている」と説明した。

金監院によればボイスフィッシング詐欺犯罪の被害額は、2017年2431億ウォン(約219億円)、→2018年4440億ウォン(約400億円)、→2019年6720億ウォン(約605億円)と増え続けている。 貸出相談をしてあげますと言って接近する「貸出詐欺型」(76.7%)、政府機関を詐称し、あなたは犯罪に巻き込まれていると言って接近する「機関詐称型」(23.3%)が一番多かった。 金監院関係者は「政府機関や金融機関は、絶対に特定個人の口座に振り込みを要求したり、現金を直接受け取ることはない」と話した。

 韓国のフィッシング詐欺は日本の特殊詐欺と犯罪の範囲などがおそらく違っているでしょうから、被害額等の数字をそのまま比較することは出来ないでしょう。 (参考までに韓国605億円、日本300億円以上) しかし韓国の詐欺は毎年すごい勢いで増加していることが分かります。

 また「貸出詐欺型」と「機関詐称型」の二つがほとんどという特徴があります。 日本のような「オレオレ詐欺」がないことに関心が行きますね。

 こういう犯罪は、それぞれの国の民族性を考える上で大いに参考になると思います。 いずれ世界各国の特殊犯罪の特徴を論じた論文が出てくるものと期待しています。

戦後の朝鮮人の振る舞い―事実を語るべきか2020/08/23

 NHKが『1945ひろしまタイムライン』という番組で、当時の実在の日記をもとに「もし75年前にSNSがあったら」という設定で“実況”する、というのがありました。 このなかで、戦後の朝鮮人たちの振る舞いを取り上げた部分があり、これが朝鮮人差別を扇動しているという批判があったようです。 毎日新聞が昨日の8月22日付けで報道しています。

 https://mainichi.jp/articles/20200821/k00/00m/040/280000c

どういう“実況”があったのかというと、記事ではその一部が紹介されています。

<朝鮮人だ!! 大阪駅で戦勝国となった朝鮮人の群衆が、列車に乗り込んでくる!>

<「俺たちは戦勝国民だ!敗戦国は出て行け!」 圧倒的な威力と迫力。 怒鳴りながら超満員の列車の窓という窓を叩(たた)き割っていく そして、なんと座っていた先客を放り出し、割れた窓から仲間の全員がなだれ込んできた!>

<あまりのやるせなさに、涙が止まらない。 負けた復員兵は同じ日本人を突き飛ばし、戦勝国民の一団は乗客を窓から放り投げた 誰も抵抗出来ない。悔しい…!>

 これに対して、ツイッター上では次のような批判があったそうです。

その出来事があり、それを日記に書いた人がいるのは事実かもしれないが、今の世の中に発信することは無色透明な事実ではない

(漫画の)『はだしのゲン』にも同様の場面はあるが、全編を通して朝鮮人への差別や弾圧、それに対する怒りを描写している

 一つは、今ここで発信することは不適切だというものであり、もう一つは漫画『はだしのゲン』のような扱い方をすべきだというものです。 いずれも、たとえ「事実」でもそれをそのまま書くことは朝鮮人差別を扇動するものだという批判です。

 「多民族共生人権教育センター」事務局長の文公輝さんも次のように批判しています。

横暴な振る舞いをした人がいたことは事実かもしれないが、一部の言動のみをクローズアップして『朝鮮人』と属性で語ることは人種差別につながる。公共放送であるNHKのアカウントがそうした投稿をすることで、以前から差別的言動を繰り返している人に『餌』を投げてしまっている

なぜそのような振る舞いがあったのか、日本による植民地支配で朝鮮人が抑圧されていた歴史的背景などの注釈を入れる必要があるが、(短文の)ツイッターでは無理」と、企画自体の限界も指摘し「投稿に関わった未成年者に批判の矛先が向く2次被害が起こるかもしれず、局が当事者として責任をもって前面に立って向き合う姿勢を見せてほしい

 この文さんの発言は「横暴な振る舞いをした人がいたことは事実かもしれないが」と事実について曖昧にしながら、直後に「なぜそのような振る舞いがあったのか」と事実を肯定しており、「ぶれ」があることに注目されます。 事実か否かの検証などはするのではなく、「事実」なるものをそのまま語ってはいけない、という主張ですね。 

 フリーライターの大橋由香子さんも同様の批判をしています。

若い人に関心を持ってほしい、身近に感じてほしいという意図はわかるが、戦争や差別に加担していく当時の人に同化させてしまう演出は危険だ。共感するあまり、侵略して人を殺すのも、非国民を差別排除するのも仕方なかった……と思わせてしまうのではないか

 文さんも大橋さんも、終戦直後に朝鮮人たちがどう振る舞い、日本人たちがそれをどう感じたかという歴史的「事実」はそのまま書くな、ということです。 

 番組を作成したNHK側の説明は、次のようです。

若い世代の方々にも当時の混乱した状況を実感をもって受け止めてもらいたいと、手記とご本人がインタビューで使用していた実際の表現にならって掲載しました

 毎日新聞の記事は、このNHKの説明に対し批判する人だけを登場させて解説したことになります。 従って、毎日は「事実」はそのまま書くな、という立場ですね。

 戦後の朝鮮人たちの「振る舞い」について、私はこれまで下記のように書いたものがありますので、笑覧いただければ幸い。

【拙稿参照】

終戦後の在日朝鮮人の‘振る舞い’  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2013/11/14/7054495

張赫宙「在日朝鮮人批判」(1)   http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2013/10/27/7024714

張赫宙「在日朝鮮人批判」(2)   http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2013/11/01/7030446

権逸の『回顧録』          http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2013/11/07/7045587

在日朝鮮人の「無職者」数      http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2016/01/05/7971706

水野・文『在日朝鮮人』(14)―終戦直後の状況 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2016/07/22/8135824

闇市における「第三国人」神話    http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daijuusandai

 ところで、文光輝さんは「なぜそのような振る舞いがあったのか、日本による植民地支配で朝鮮人が抑圧されていた歴史的背景などの注釈を入れる必要がある」と話しました。 その「歴史的背景」ですが、15年以上前に作家の金賛汀さんは自著の『在日 激動の百年』のなかで次のように書いておられます。 

在日朝鮮人の間には植民地支配を通して、法律は朝鮮人を苦しめるために存在しているという意識から、順法精神は極めて薄く、統制物資の密売密造に犯罪意識はほとんどなかった。 その上日本の敗戦で自分たちは「解放国民」になったから日本の法律に従わなくてもよいという思い込みもあった。 ‥‥戦前抑圧され、おとなしかった朝鮮人が「解放民族」という立場を利用して、日本人の命令に従わず、勝手な振る舞いをするので日本人は苛立ったのである。」(金賛汀『在日 激動の百年』朝日選書 2004年4月 100~102頁)

 「歴史的背景」はこの金さんの記述が適切だと私は考えています。

毎日新聞「在日3世代100年の歴史」への違和感(3)2020/08/21

http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2020/08/17/9279364 の続きです。

朝鮮戦争のさなかに生まれた曺さんは、国鉄(当時)神戸線のコンクリート壁を使ってバラックを組んだ長屋で13歳まで暮らした。25人以上が一つの共同便所を使い、曺さん一家6人は6畳一間。雨の日には、滝のような水が壁を伝った。  やがて強制立ち退きにあい、一家は再び路頭に迷う。ようやく借家が見つかった日のことを曺さんはよく覚えている。

 曺弘利さんは今67歳で、「朝鮮戦争のさなかに生まれた」とありますので、1953年7月27日以前の生まれと判明します。 国鉄高架下を不法占拠して作った家で暮らしていたようです。 当然、強制退去の対象です。 それは13歳の時ですから、1966年のことになります。

 ここで疑問は、強制退去から次の家が見つかるまで「一家は再び路頭に迷う」とあるところです。 私も多くの在日から、国有地等の不法占拠で暮らしていて結局は強制退去になった話はよく聞いたものでした。  しかし一家が「路頭に迷う」、つまりホームレスになったという話はありませんでした。 ですからこの部分には大きな違和感を持ちました。 たとえヤクザであっても、子供のいる家族を強制退去させて路頭に迷わせることはなかったと思うのですがねえ。

79年、曺さんは妻となる韓国人女性と出会った。結婚しようと思ったが、戸籍がなかった。「日本で出生届が出されていなかったし、あるのは外国人登録証だけ。当時、韓国に、籍がはっきりしないと結婚できない不文律みたいなものがありました」。曺さんは祖父の田舎の役所に手紙を書いて訪ねることに。「だけど、パンチョッパリ(半日本人)の朝鮮籍。3・1独立運動記念の時期に、臨時パスポートで行ったもんだから、最初はやっかい者扱いされましてね」

 曺さんは1979年に臨時パスポートで韓国に行ったとありますから「朝鮮籍」であったのは確かであり、朝鮮総連系だったと推定できます。 韓国女性と結婚するにあたって「韓国に、籍がはっきりしないと結婚できない不文律みたいなものがありました」とありますが、これは違うでしょう。 朴正煕政権時代は朝鮮総連への警戒心がすさまじかったですから、韓国人がこういう在日と結婚するとなると、‘韓国籍に変えて戸籍を作り、総連と縁を切れ’と要求するのが当然でした。

ルーツ探しはらちが明かず、結婚をあきらめ、駅までの道のりをとぼとぼ歩いている時だった。日本語を話せる役人が自転車に乗って猛スピードで追いかけてきた。「ありましたよ。曺秉元さんは確かにここで生まれ、暮らしていました。登録時、役所側に字体の書き間違えがあったんですよ」。遠い親族らが集まり、「『いつ子孫が来るのだろうか』と、よく話していたんだよ」と歓迎してくれた。「気持ちがスカッとしました」

 曺さんが1979年に韓国に行ったのは、ルーツ探しだったのですねえ。 その時に「遠い親族らが集まり、『‘いつ子孫が来るのだろうか’と、よく話していたんだよ』と歓迎してくれた」とありますから、曺さん一家は故郷の親族とはそれまで連絡がなかったと推定されます。

 しかしこれまでの話を総合すると、父の外石さんは1944年の徴兵検査で故郷(本籍地)に行っているはずです。 この時に親族の人たちと会わなかったのでしょうか? また彼は1940年代後半の戦後混乱期に日本から韓国へ密出国しています。 その時に故郷に行かなかったのだろうか?という疑問も抱きます。

曺さんはしみじみと言う。「おやじと叔父さんが重なって見える時があるんです。お互いの胸の内もわかるが故に、相反するんでしょう。歴史を覆すことはできないでしょうが、共に歩んでいかなきゃならない。そう教えてくれたのが自然災害です。みな同じ被災者になります。日本人も韓国人も在日も関係ありませんからね」

 記事の最後は曺さんの言葉で終わりますが、いい言葉ですねえ。 記事の中で一番共感するところです。

 ところで今回の記事は、曺さんが祖父や父から聞いた話の記憶を元に書かれたようです。 記憶にはある程度の錯誤・誤解があるものですし、曖昧・誇張が多くなるものも仕方ないところです。 また後付けの知識で過去を語る場合も多々あります。 ですから、もしこれを記録に留めようとするならば、当時の社会状況をよく知った上で個々の細かい部分を確認しながらすべきものです。

 しかし毎日の高尾記者はそれをしなかったようです。 記者なら当然やるべき歴史事実の確認という基礎的作業を怠ったのではないか、そのために本人の語りに引きずられてしまい、ウソとすぐに分かるような話までも書いてしまったのではないか、という疑問を抱くものでした。

毎日新聞「在日3世代100年の歴史」への違和感(1)  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2020/08/13/9278142

毎日新聞「在日3世代100年の歴史」への違和感(2) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2020/08/17/9279364