1950~60年代の大阪紡績王―徐甲虎(阪本栄一) ― 2025/03/19
ちょっと前になりますが、韓国の有力紙『朝鮮日報』2024年7月22日付けに、「〝도쿄의 巨商”서갑호(「東京の豪商」徐甲虎)」と題するコラムがありました。 https://www.chosun.com/opinion/correspondent_column/2024/07/20/2VBILSSERVA4JD7Z3NCK2GUC24/ 日本語版は7月27日付けにあります。 https://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2024/07/23/2024072380141.html
ここに出てくる「徐甲虎」、この名前より日本名の「阪本栄一」の方が懐かしいですね。 思わず読み込んでしまいました。 記事では、彼について次のように書かれています。
公邸は「東明斎」と命名された。邦林紡績の創業者である故・徐甲虎(ソ・ガプホ)氏(日本名・阪本栄一)の雅号だ。日本による植民地支配下の1915年、慶尚南道蔚州郡に生まれ、14歳で日本に来た当時は飴を売り古紙を集めて資金を貯めた。1948年に設立した紡織会社が急成長し、1950年代に「最も収入を上げる在日韓国人」になった。徐氏が1951年に銀行の資金を借りて敷地を買い入れ、5年間に元利を返済した後、1962年に韓国政府に寄付した。
残念なことに、徐氏が日本に設立した阪本紡績は1974年のオイルショックで経営が揺らいだ。日本の金融機関が融資を回収すると、不渡りを出した。急な資金が必要で韓国政府に支援を求めたが、そっぽを向かれた。徐氏は2年後、ソウルで61歳で死去した。 ‥‥ 徐氏を覚えている韓国人はほとんどいないはずだ。
生前の徐氏は「祖国が恥ずかしい思いをしてはならない」と話していたという。国をようやく取り戻した時代、悲しみを共に耐え抜こうと在日韓国人を励ます一言だったのだろう。「豪商」徐甲虎を記憶する作業に韓国政府はもっと積極的でなければならない。
徐甲虎は在日韓国・朝鮮人社会だけでなく、祖国の韓国にも大きな功績を残した人でした。 しかし彼が創立した阪本紡績グループは1974年に当時戦後最大といわれる倒産となって、それ以降ほとんど顧みられることがなくなりました。 今は在日でも日本人でも「徐甲虎」「阪本栄一」という名前を聞いて、お年寄りを除いてほとんど知らないでしょう。
在日の歴史は〝日本社会で差別と貧困にあえいでいる”とか〝民族受難とそれに対する闘い”に重点が置かれるので、徐甲虎のように日本で成功してお金持ちなったという話はなかなか出てきません。 出てくるとしてもわずかに触れるだけです。 私は特筆すべき人物だと思うのですが‥‥。
徐甲虎について、何かまとまった解説はないかと探してみたら、朴一さんの著書『<在日>という生き方』に次のようなものがありました。 主なところを一部引用します。
戦後紡績王として名を馳せた徐甲虎は、そうした状況のなかで果敢に本国投資チャレンジした在日コリアンの先駆者である。
1928年、14歳の時、日本にわたった徐甲虎は大阪の商家に丁稚として入り、機織り技術を習得。 その後、アメ売り、廃品回収、タオル工場の油さしなど職業を転々とした後、戦後、軍需物資の売買で一儲けした資金で廃棄同然の紡績機を買い集めて、1948年阪本紡績を設立する。
その後、彼は朝鮮戦争の特需景気にのって企業規模を拡大し、阪本紡績に加えて大阪紡績と常陸紡績を相次いで設立し、徐甲虎は年商300億円を稼ぎ出す西日本最大規模の紡績王として君臨する。 やがて彼は自らの事業を不動産やホテル部門へと拡大。 阪本グループは戦後日本経済の復興を支えた繊維産業における十大紡績の一つに数えられるまでに成長する。
短期間で急成長を遂げた徐の手腕はたちまち財界の評判となった。 1950年度納税額1億3000万円、35歳の若さで大阪府内長者番付トップにのぼりつめ、52年には納税額3億6000万で、全国長者番付第五位を記録するなど、彼の在日コリアンとしての日本でのめざましい活躍は本国でも話題となった。
徐は資金援助を通じて(1961年軍事クーデターによって誕生した)朴政権に接近し、財閥の一つである泰昌紡績を買収して1963年ソウルに邦林紡績(資本金115億円)を設立する。 ついで171億円を投じて、大邱に潤成紡績を新設。 彼の工場で働く韓国の社員は一時4000名に達し、阪本(邦林)グル―プは三星やラッキーとならぶ、六大財閥の一つに数えられるまでになる。 こうして徐は韓国でも文字どおり最大規模の紡績会社のオーナーとなる。 (朴一『<在日>という生き方』講談社選書メチエ 1999年11月 152~153頁)
このように徐甲虎は、戦後の日本社会の中で大成功を収めたのでした。 何しろ高額納税者トップだったのですから、真っ当に仕事をして儲けたようです。
ところで戦後の日本では〝在日は差別と貧困にあえいでいる”というイメージが強く、確かに多くの在日はそんな逆境にありました。 しかし一方では、今回取り上げた徐甲虎のような富豪もいたのです。 彼だけでなく、ロッテの辛格浩(重光武雄)も戦後に大成功を収めて富豪になりました。 また後になりますが、ソフトバンクの孫正義も富豪ですね。 こういう事例は在日も能力と努力でもってチャンスをつかめば成功できたということだし、今もそうだということです。
ところがそんな大富豪の徐甲虎は1970年代に入って、突如暗転します。
しかしそれも束の間、操業直前の潤成紡績工場を火事で焼失。 資金繰りに失敗し、操業再開の目途が立たず、祖国に280億円も投資しながら徐甲虎は韓国からの撤退を余儀なくされる。
この事件をきっかけに阪本紡績の日本での経営状況も悪化、おりからのオイル・ショックも影響して、1974年、関連会社を含めて640億円の負債を出して阪本グループは倒産する。 この事件は戦後初の大型倒産と騒がれ、日本の紡績会社まで手放さざるを得なくなった徐甲虎は、二度と返り咲くことなく、悲劇の主人のまま他界する。 (同上 153~154頁)
ちょっと過ぎた言葉を使うことが許されるなら、〝徐甲虎は日本で富豪となって祖国の韓国に貢献しようと大変な努力をしたのだが、逆にむしり取られてしゃぶり尽くされて、最後は捨てられた”ということになりましょうか。 またそこがロッテとの違いということになりますね。 またソフトバンクは、祖国や民団などとは関係なしに独自に成長してきた点で民族企業とは言えないところに特徴があるようです。
ところで阪本紡績・ロッテ・ソフトバンクの三者の共通点は先に述べたことを繰り返しますが、在日も才能と努力をもってチャンスをつかめば成功するということです。 日本は昔も今も在日が成功することのできる社会だったのです。
【追記】
産経新聞の黒田勝弘さんは、「韓国は在日韓国人をいじめながら『金づる』として利用」と題する記事のなかで徐甲虎に触れています。 https://www.news-postseven.com/archives/20161028_455942.html?DETAIL
この記事の中で昔はそういう話をよく聞いたなあと思い出されたのは、当時の韓国・北朝鮮は国家レベルでも個人レベルでも在日からたくさんのお金を出させていた(たかっていた)というところです。 在日は日本から差別されて苦しい生活を送っていたというイメージがありますが、一方では多くの在日は苦しみながらも祖国に多額のお金を差し出していたという事実があったのです。
在日が韓国の親戚らにたかられたという話は拙ブログでも取り上げたことがありますので、お読みくだされば幸甚。
玄善允ブログ(2)―在日の錦衣還鄕がトラブルに https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/04/04/9673005
朴正煕の経済政策(2)―医療保険 ― 2025/03/12
https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/03/07/9759302 の続きです。
韓国は経済の発展を元手に、ドイツに学んで医療保険を導入します。 その時に、民主主義よりも社会の安定と産業の発展を優先するという考え方を打ち出します。
―医療保険の導入と関連して、どんな助言をしたのか?
キム・ジョンイン: 「朴大統領の維新体制を見て、どうせ民主主義ができないのだから、ドイツのビスマルク式の社会安定というものでも持って来なければならないと言った。 今のようにやれば絶対安定的な執権は難しいので、新しく登場する産業勢力を包容する政策を展開せねばならないと主張した。 1960年代の「経済開発5ヵ年計画」の時に45万~50万人くらいだった「被雇用者」は、1975年にはもう400万人近くになった。 社会で一番強力な勢力として登場したのだ。 当時の社会を見れば、労使紛争が続けざまに起きていて、学生たちのデモで授業すらできない状況だった。 しかし当時の政府は「絶対貧困を解消してやったので感謝と思わねばならないのに、なぜこのように不満が多いのか」という態度だった。 絶対貧困が解消すれば新しい欲求が出てくる。 その欲求に答えなければ、国民はついてこない。 ビスマルクが社会立法をする時、一番初めに始めたのも医療保険だ。
―どのようにして医療保険導入を朴正熙大統領に説得したのか?
キム・ジョンイン: 「私が1968年にヨーロッパの激しい学生運動を直接見た人間だ。 シャルル・ドゴールは1958年に晴れ晴れしく登場し、近代フランスの土台を作ったが、10年して不名誉に追い払われた。 当時の学生4000~5000人がデモをしたのだが、パリの小商工人や労働者たちが加勢して、パリが一朝にして完全に麻痺した。 結局ドゴールは放送演説を通して「国民が願わないなら、下野しよう」と宣言した。 世の中が変わったのに、変わったことが分からずに1958年と同じことをしていたのだ。 ドゴールの事例をキム・ジョンニョム大統領府秘書室長に話したが、その話がすぐに朴正熙大統領に受け入れられたようだ。」
キム・テクファン: 「ドイツはすでに鉄血宰相のビスマルク総理が1883年、世界最初に労働者たちを対象に医療保険、以降に災害保険および年金を導入し、社会の安定を選んだ。 戦後のコンラート・アデナウアー時代に経済再建と復興に成功したとするなら、1960年代後半のヴィリー・ブラント時代からは成長の果実を等しく分ける社会的市場経済である社会福祉五大保障制度、即ち医療・災害・年金・雇用・介護保険まで最初に導入した。 また大学生の生活費、子ども支援金など福祉天国を作っていった。」
―医療保険導入に反対はなかったのか?
キム・ジョンイン: 「朴大統領の命令で1975年5月から作業を始めた。 毎週金曜日ごとに会議する「金曜会」を作った。 私をはじめ、イ・ギョンシク青瓦台経済首席・シン・ビョンヒョン経済特別補佐官、チョ・スンソウル大学教授、ソ・サンチョル高麗大学教授、チョン・ジョンジン延世大学教授などがメンバーだった。 勤労者社会医療保険を導入しようというと、初めはみんな反対し、私とケンカも本当にたくさんした。 当時一人当たり国民所得が1000ドルにまだ達していないのに、こんなことをするのかということだった。 当時の保健社会部長官は「医療保険をするなら、年金から導入しよう」と主張した。 年金はお金が入ってきて、直ぐに出ていくことがない。」
―朴大統領は反対をどのように乗り越えたのか?
キム・ジョンイン: 「朴大統領は崔圭夏総理を呼び、委員会をまとめて反対する長官たちを抑えて、私の手を挙げてくれた。 結局、保険料をそのつど源泉徴収できる勤労者社会医療保険として始まり、それがうまく回っていったから、みんなが医療保険に入りたがった。 以降、韓国は1989年に全国民医療保険を世界で一番最初に導入した国となった。 社会平和を成し遂げることのできる「福祉」の概念を1976年に初めて導入したのも朴正熙大統領の最大功績だ。」
日本はすでに1961年に国民健康保険制度を作って全国民の健康保険加入を実現していたのですが、韓国はおそらく日本をモデルにしてドイツからの助言で医療保険制度を整備したのではないかと思われます。
一方、医療無料を呼号していた北朝鮮は周知のように医療水準が極めて低いままで、病院に行っても賄賂が必要で、それが改善される兆しが全くありませんでした。 韓国が北朝鮮に差をつけて発展した原点は、朴正煕大統領時代にあるのです。
確か朴大統領の言だったと思いますが、「先建設、後民主」というのがありました。 〝先ず国家の目標は経済を成長させて国を豊かにして国民を健康にすることだ、民主主義なんてその後で考えればいい”という考えですが、今思うと韓国はその通りの歴史を歩んできました。 韓国経済は高度経済成長を続けてオリンピック開催までやり遂げるほどになり、1987年に現在の憲法を制定し民主主義への道を開いたのです。 そうして韓国は今の先進国の地位につきました。 ですから朴正煕は先見の明があったと言わざるを得ませんねえ。 (終わり)
朴正煕の経済政策(1)―西ドイツからの助言 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/03/07/9759302
「通常‐両班社会」と「例外‐軍亊政権」―田中明 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/06/07/9497623
朴正煕の経済政策(1)―西ドイツからの助言 ― 2025/03/07
韓国の先進国化=経済発展の原点は朴正煕大統領の時代にあるとされています。 朴大統領はいわゆる開発独裁、あるいは輸出主導型とかいろいろ言われているような経済政策を実施しました。 それまで途上国では、輸入代替型経済(輸入を制限し、その代わりに自国生産を優先するもの。「自力更生」とか言われていた)が主流でした。 中国やインド、北朝鮮、インドネシアなどが唱えていましたねえ。 韓国の朴大統領はそんな流れとは反対に、米国や日本など先進国から資本と技術を導入して工業化し、製品を安く輸出することによって経済発展を企図したのでした。
当時の北朝鮮や日本の左翼・革新系の人たちは朴大統領の政策について、韓国を日米の従属国にするものだと批判していました。 だから韓国は日米の植民地へと転落し、一部の資本家が儲かるだけで大多数の国民はどんどん貧しくなると言っていましたね。 ところが当時韓国に旅行に行った日本人から話を聞くと、韓国は活気あふれる社会で、経済が発展していることを実感したという話ばかりでした。 また実際に経済統計を見ても、韓国は大きな発展を遂げていたのでした。 つまり朴正煕大統領の経済政策は大成功を収めていたのです。 1960~70年代の朴大統領の時代はこんな感じでした。 従ってこの時代に、それまでの最貧国だった状態から今の先進国への基礎を築いたと言ってもいいでしょう。
朴大統領は元々が軍人ですから自分でこの経済政策を最初から考え出したはずがなく、日本をモデルとして日本から徹底して学んだとされています。 朴大統領はそれ以外に西ドイツから助言をもらっていたという話がありました。 これは私の知らなかったことで、興味深く感じましたので紹介します。
『週刊朝鮮』2837号(2024年12月9日~)の「朴正煕 西ドイツ演説60周年 ドイツ留学派の博士 キム・ジョンイン・キム・テクファン 対談」という記事です。 翻訳してみました、
キム・ジョンイン(金鐘仁)前「国民の力」非常対策委員長は、朴正煕がドイツを訪問した1964年、その年に西ドイツのミュンスター大学に留学に行き、その後帰国して西江大学の教授に在職し、財形貯蓄・医療保険の導入を主導した。 西ドイツのボン大学で言論学の修・博士学位を得たキム・テクファン未来転換政策研究院長は、慶尚北道の相談役として朴大統領の西ドイツ演説を記念する扁額をドイツの現地に持って行くという構想を慶尚北道側に提案し、これを実現した。
―今年は朴正煕の西ドイツ訪問60周年だ。朴大統領の訪独の一番大きな成果は?
キム・ジョンイン: 「一番大きな成果は、ルートヴィヒ・エアハルト総理から、経済発展のための色んな助言を得たことだ。 エアハルトは14年間、経済長官をした人で、1958年に経済長官として韓国に行った。 韓国についての概念をある程度持っていた。 朴正煕と西ドイツで会った時、経済発展についての自分の知識をたくさん伝えてくれた。 浦項製鉄所や京釜高速道路がそのようにして始まった。 当初、経済開発5ヵ年計画にこのようなものはなく、朴大統領の頭の中から出て、するようになった。 西ドイツ訪問が自分の頭を整理するきっかけとなったのだ。 そんな側面で、朴大統領は運が良かった。」
キム・テクファン: 「エアハルト総理と会って、西ドイツの経済開発の現場を直接見ることになったのだ。 朴正煕はその時から大韓民国を大改造せねばならないと考えた。 リュプケ西ドイツ大統領と一緒にボンからケルンまで、アウトバーンで移動しながら、京釜高速道路を構想したのが代表的だ。」
―エアハルト総理はどんな人物なのか?
キム・ジョンイン: 「エアハルトは徹底した市場主義者だ。第二次大戦直後、勝戦国らはドイツが復興できないように、配給制・価格統制など完全な計画経済を実施しようとした。 エアハルトはヒットラーの時から、ナチスドイツは直ぐに滅びると見て、経済再建のための方案を肉筆で書いておいた。 エアハルトは当時、米・英合同占領地域の経済責任者だったが、1948年に西ドイツの貨幣改革を断行する時、配給制と価格統制をなくす自分の構想を一度に発表した。 当時の発表で、エアハルトは軍政当局に捕われて訊問を受けたが、「あなたたちが私を処罰する権限はあっても、私の頭の中を変えることはできない」という有名な言葉を残した。 エアハルトは「今東方に共産主義の経済体制が樹立されたが、自由市場経済をしなければ西ドイツも共産化されることになる」と警告した。 結局、軍政当局が6ヶ月間これを受け入れることにして配給制と価格統制を撤回すると、すぐに商品が市場に出てきて、工場の煙突から煙が出始めた。」
キム・テクファン: 「エアハルトが朴大統領に提案したのが「韓日国交正常化」だ。 伝統的に仇敵であったドイツとフランスは1963年に、あの有名な「エリーゼ条約」を締結して敵対関係を清算し、協力を確認する。 10年後には、西ドイツの山林技術者たちが韓国にやってきて、「治山緑化」も始める。 朴大統領は西ドイツでエアハルト総理だけでなく、後日総理になるヴィリー・ブラントなど歴史に残る世界的リーダーたちと西ドイツで出会ったのだ。」
―西ドイツ政府が朴正煕を歓待したわけは?
キム・ジョンイン: 「朴大統領は西ドイツから公共借款で1億5900万マルク(約4000万ドル)を得た。 アメリカが借款を拒否した時だ。 西ドイツは1957年度に既に第二次世界大戦以前の経済水準を回復した。 1950年代末から1960年代初めまでは、国際収支黒字が返って西ドイツ経済を脅かし始めた。 インフレーションを作り、西ドイツ内で人出不足で賃金が上がる現象が現れたのだ。 特に鉱山の方では人手がなく、1960年代初めまでユーゴスラビア、スペイン、甚だしくは日本からも鉱夫たちがやって来た。 韓国の鉱夫たちが行ったのも、実際には特異だったことではない。 病院の看護婦も絶対的に不足していたが、西ベルリンのような所は韓国の看護婦がいなければ病院を運営できなかったくらいだった。」
キム・テクファン: 「西ドイツが韓国を特別に考えた三つの理由がある。 第二次世界大戦が終わり、「冷戦」が当初ベルリンで火を吹くと思われた。 しかし地球の反対側の韓国で冷戦が火を吹き(朝鮮戦争)、西ドイツは三つの利益を得た。 先ず朝鮮戦争の軍需品を西ドイツで作るようになって、経済復興の基盤を準備するようになった。 続いて敗戦国ドイツがNATO(北大西洋条約機構)に加入(1950)して再武装をするようになり、20万のアメリカ軍が西ドイツに駐屯した。 結局西ドイツは韓国のおかげで敗戦国の頸木がなくなり、以降韓国をいいパートナーと考えるようになった。」
―ドイツ派遣の鉱夫と看護婦の賃金が借款の担保となったと言われるが。
キム・ジョンイン: 「一つ正さねばならないところがある。 当時鉱夫や看護婦たちの賃金を担保に借款を借りたと紹介されたことが多いが、これはデタラメだ。 西ドイツは法律上賃金に対して差し押さえはできない。 当時の状況について、ペク・ヨンフン博士(韓国産業開発研究院長)がこう言った。 ドイツは第二次世界大戦の時にヒットラーが罪をたくさん犯した。 だから外国と善隣関係を結ぼうと多くの努力をした。 自分たちも第二次世界大戦以降の「マーシャルプラン」によって経済を復興させた。 エアハルトはこれを誰よりもよく知っていた。 韓国に4000万ドルくらいを貸すのを難しいと考えなかった。」
キム・テクファン: 「韓国から西ドイツに行った鉱夫と看護婦の数は、だいたい2万人程度だ。 このうち三分の一はアメリカ・カナダに行き、三分の一が帰国し、ヨーロッパ各地に散らばった。 アメリカ・カナダに行った人の中には成功した人が多く、ドイツに残った人も多くが中産層になった。 当時の韓国は大家族制度だった。 ドイツ派遣鉱夫と看護婦たちは、韓国にいる家族たちのために韓国に送金した金は、西ドイツが提供した商業借款よりはるかに多い1億ドルを越えて、経済発展の原資となった。 だから産業戦士という言葉を使う。
―「ライン川の奇跡」が「漢江の奇跡」につながったという評価も出ている。
キム・ジョンイン: 「実はエアハルトは「ライン川の奇跡」という言葉を聞くのを一番嫌っていた。 ドイツの国民たちの勤勉性と能力をもって成し遂げたものであって、どんな奴の「奇跡」なのかということだった。 我々も「ライン川の奇跡」に倣って「漢江の奇跡」と言うが、わが国民も一生懸命に働いて成し遂げたのだ。 経済に奇跡はない。 単に政治的な用語として使っているのだ。 ‥‥ 西ドイツ留学を終えて帰国して、朴大統領が社会安定のためのプログラムを作れと言ったので会った。 その過程で医療保険ができた。 (続く)
【拙稿参照】
韓国のドイツ風住宅 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/10/27/9726921
梁泰昊さんの思い出話―『むくげ通信』 ― 2025/02/28
『むくげ通信』328号(2025年1月26日)に、飛田雄一さんの「<多文化共生の「共生」は、梁泰昊が初めて使った>説」という論稿が掲載されています。 https://ksyc.jp/mukuge/328/hida-yanteho.pdf
その中で次の一文に目が行きました。
北海道に引っ越しして奥さんの実家の仕事を手伝っていた時代がある(93~95 年)
私もかつて(1970年代後半~80年代前半)梁泰昊さんを知っていて、彼の奥さんにも何回かお会いしたことがあります。 拙ブログでも、取り上げたことがあります。
梁泰昊さんの思い出― 活動家と一般人との結婚 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2020/06/01/9252979
その時に奥さんは北海道出身とおっしゃっていましたから、梁さんは奥さんの実家に引っ越されたのでしょう。 離婚したなんて噂が飛んでいましたが、そうではなかったようです。 北海道では、彼女は朝鮮人だからと差別されたことがないというし、また京都にある大学を卒業しており、兄さんが医者をやっているということなので、実家はそこそこ裕福なんだろうと、私は勝手に想像していました。
一方、梁さんのご両親は東大阪で鉄工所か何かを経営されていたはずですから、梁さんはその後を継がなかったのでしょう。 なおこの実家で幼い時に起きた事故で、手の指を一本なくしたという話を聞いた記憶があります。 また車に乗っていてガソリンスタンドに寄った時、そこの従業員が〝その手、どうしたのですか?”と聞いてきたので、〝クマに襲われて指をかじってちぎられた”と冗談で返事したら、真剣な顔で〝えー!そんなことがあるんですか!怖いですねー!”と言った、こんな話を面白おかしく聞かせてくれたことがありました。
私にはこういう思い出がありますので、『むくげ通信』の飛田さんの論稿に思わず読み入った次第。 ただ飛田さんは、梁さんとは活動面だけでの交際に限られていたようです。 私が思うには、活動家は表面ではその活動の華々しいところを見せてくれますが、裏というか家族というか、そういう場所では違った面が多々あるということです。
次に飛田さんの文に、次のような箇所があります。
そのなかに、「『太く短く』から『細く長く』へ」(『民闘連ニュース』32 号、1982.7)がある。そこに以下の一文がある。
「われわれは民族差別をなくすために日本人と共闘するということをやってきた。共闘といっても日本人の側ではそれによって具体的なメリットというものはない。国籍条項を撤廃したところで、日本人が利益をうけとることは何もない。にもかかわらず何故共闘するのかというのは今一度改めて考えてみる必要がある。共闘するということの前提には共に生きる『共生』ということがあったはずではないか。その意味するところを今後具体的にふくらませていくことが課題になるだろう」。
梁泰昊は、80 年代には、民闘連のイデオローグ的な存在となった
同書には、「梁泰昊と民闘連」の項目もある。「1975.05.09-10 尼 崎市児 童手 当徹夜 交渉 参加(個人として)/1977.10.8-10 第 3 回民闘連全国交流尼崎集会より兵庫民闘連会員として参加、その後全国代表者会議に兵庫の代表(役職なし)として参加/1977.10~1979.03 市報〝あまがさき〟に「民族差別をなくすため」連載に協力」などと兵庫民闘連とのかかわりについて書かれている。
これを読んで、飛田さんはおそらくご存じないと思われる事実を思い出しました。 梁さんは尼崎地域で民闘連(民族差別と闘う連絡会議)の活動をやっておられましたが、1980年代初めに、それまで地元で協力し合い、時には共闘してきた保育園とケンカ別れというか、決別したことです。 私はその決別の経過を知っています。 詳しいことを言うのは控えますが、はっきり言って民闘連側の不誠実・不義理が原因です。
この事件は民闘連側には余りに恥ずかしいことだったようで、民闘連のメンバーはそれについて誰も言わないですねえ。 民闘連は地域から民族差別と闘う運動を作るなんて言って活動していましたが、肝心のその地域で仲間だった人たちとケンカ別れした当事者の一人が梁さんだったのです。
梁さんは手順を踏んで実践を進めるタイプではなく、弁が立って交際範囲が広いイデオローグ、悪い言葉でいえば〝口舌の徒”のタイプだったなあと思い出されます。 ただし1980年代前半までの話で、それ以降、彼と会うことはありませんでした。
彼の名前を見て懐かしく思い、書いてみました。
【追記】
金義晴さんの思い出―本名について https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/04/17/9676429
在日活動家 李さんの思い出 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2021/09/09/9421529
黄光男さんの思い出 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2020/06/11/9256337
黄光男さんの思い出(2) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2020/06/25/9261345
第46題 民闘連からお呼び出し http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daiyonjuurokudai
(2025年3月5日 記)
尹東柱の立教大学時代の詩 ― 2025/02/25
韓国の『中央日報』(2月24日付け)に、「尹東柱は代替不可能…日本の立教大学に代表作『序詩』が響き渡った」と題する記事が出ました。 https://japanese.joins.com/JArticle/330290
この記事では、尹が立教大学在学時代(1942年)に書いた詩として「たやすく書かれた詩」と「春」の二つだけが紹介されています。 実はこの時期に尹が書いた詩は五つあります。 それは「白い影」「いとしい追憶」「流れる街」「たやすく書かれた詩」「春」です。 このうち「流れる街」という詩が記事に取り上げられていませんが、かなり重要な詩だと私は思っています。 この詩には次のような一節があります。
愛する友、朴よ! そして金よ! 君たちはいまどこにいるのか?
これは立教大学入学後1ヶ月半経った5月12日付の詩で、入学したが同胞である朝鮮人の友人ができず、寂しい思いをしていることを表わしたものと思われます。
そして翌月に書かれた詩が記事にも出てくる「たやすく書かれた詩」(6月3日付)で、次の一節があります。
窓の外で夜の雨がささやき/ 六畳の部屋は よその国
この詩が先の「流れる街」に続く時期の詩であることを考えるならば、「六畳の部屋はよその国」は〝同胞友人のいない大学から下宿に帰ってもそこは安らぐ空間ではない”という意味になるといっていいでしょう。 その時の「国」とは朝鮮という国ではなく、〝心の落ち着く場所”ということで、〝故郷(くに)のおふくろ”とかいう時の「故郷(くに)」という程度の意味ではないでしょうか。
そして4ヶ月後の10月に、尹は京都の同志社大学に転学します。 京都には京都帝国大学生の従兄弟がおり、また朝鮮人学生が集まる場所でもあったのです。
立教大学入学(4月)→「流れる街」(5月)→「たやすく書かれた詩」(6月)→同志社大学転学(10月) という一連の流れの中でこれらの詩が書かれたことを考えるならば、朝鮮人同胞のいない寂しさを歌った詩ではないかと思われます。 つまり私個人の考えですが、内地留学で立教大学に入ったが同胞友人ができず、友を求めて6ヶ月後に京都に転学するまでの心境を描いた詩だということです。 あえて誤解を恐れず言うなら、いわゆる五月病ではないでしょうか。
少なくとも記事のように、「日本植民地政策にともなう弾圧で朝鮮半島は歴史、文化、言語を奪われた」とか大上段に構えた詩ではないと考えます。
ここでは詩のごく短い一節のみを引用しましたが、ぜひ全文をお読みくださるようお願いします。 岩波文庫『尹東柱詩集 空と風と星と詩』が一番入手しやすいです。 今回のブログの詩の翻訳は、この本から取りました。
【尹東柱に関する拙稿参照】
「尹東柱」記事の間違い―中央日報 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/02/17/9464967
毎日のコラム「余録」の間違い―尹東柱 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2020/09/15/9295605
尹東柱の創氏改名―ウィキペディアの間違い http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2018/08/11/8939110
尹東柱の創氏改名記事への疑問 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2018/07/16/8917954
尹東柱記事の間違い(産経新聞) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/02/09/7568265
尹東柱記事の間違い(毎日新聞) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/02/15/7572811
尹東柱記事の間違い(聯合ニュース) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2017/01/29/8339905
水野・文『在日朝鮮人』(11)―尹東柱 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2016/06/26/8118773
尹東柱は中国朝鮮族か韓国人か http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2016/04/21/8075000
尹東柱の言葉は「韓国語」か「朝鮮語」か https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2018/08/19/8945248
尹東柱の国籍は? https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2021/03/13/9356544
尹東柱と孫基禎の国籍について https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2021/07/18/9399145
尹東柱のハングル詩作は容認されていた http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2017/07/11/8618283
『言葉のなかの日韓関係』(2) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2013/04/09/6772455
『言葉のなかの日韓関係』(3) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2013/04/11/6774088
『言葉のなかの日韓関係』(4) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2013/04/13/6775685
「日本人としてふさわしい氏名」とは何か?(2) ― 2025/02/20
https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/02/14/9754509 の続きです。
法務省のお役人さんは、〝日本人風の名前には基準がない”と言いながら、日本人風の名前とそうでない名前とを主観的に区別し、〝日本人風でなければ許さない”としました。 『民事月報』にはその理由についてもう少し詳しく、次のように説明をしたものがあります。
日本人としてふさわしい氏名とは、どのような基準で判断されるのかという問題は別として、明らかに朝鮮人的な氏名を帰化後の氏名として記載したとしても、それだけによって申請が受け付けられないということはあり得ない。 原局においては、そのような権限はないからである。 その意味では確かに法的規制ではなく、行政指導である。
しかしながら、帰化の許可は国家の絶対的な自由裁量であり、事実上どのような許可条件をも自由に設定できるのである。 帰化を希望する朝鮮人が「金」「朴」「李」などといった民族的な姓名をあくまで堅持しようとするのであれば、その者はまず許可されないであろう。 帰化の許可とは、所詮は「日本人として受け入れるべき者であるかどうか」という政治判断であり、肝心なところで日本への同化を拒否すれば、「その理由および指導結果を記載して進達」された調査書により、本省においてはねられることはうけあいである。 行政当局の本音は、結局次のようなところにあるからだ。
日本国家が単一民族国家であることから、日本国民間には日本国民を一つの血縁集団として観念する傾向が強い。 このように同族意識が強い反面として、排他的な国民感情もみられ、外観上外国人あるいは帰化人とみられることは同化上の妨げとなる。 また、民族意識の発露としてことさらに外国人的な呼称の氏に固執するということになると、帰化により日本国民とするのにふさわしい者とはいえないだろう。 (以上、稲葉威雄「帰化と戸籍上の処理」 『民事月報』1975年9月号所収)
「朝鮮人的な氏名」は「受け付けられないということはあり得ない」と言いながら、それは「許可されない」「受け入れられない」と強調しています。 たとえ出先機関で受理しても、「本省においてはねられることはうけあい」だそうです。 つまり〝明確な根拠はないが朝鮮人風の名前は許さない”ということです。
その理由は〝日本に同化するものでないから”ということです。 ここには〝日本人とは一体何か?”という民族を問う重要な問題が含まれていると思うのですが、当時は議論されなかったようです。
そして日本人風の名前なのか否かの客観的な基準がないのですから、帰化を担当する公務員の主観・感情によって判断されることになりますから、出先と本庁で見解が違うこともあったでしょう。 法を執行する機関としては、ちょっと異例ですね。 しかし国は「帰化の許可は国家の絶対的な自由裁量であるから」と、押し切ってきたようです。 帰化申請者は日本という国にお願いするという弱い立場ですから、これを認めざるを得なかったみたいです。
これに異議を申し立てたのは、ベトナム出身の帰化者でした。 1983年の雑誌『朝日ジャーナル』には次のような記事が出ています。
帰化したベトナム系日本人とは、神戸市灘区副住通に住むトラン・ディン・トンさん(29)。1977年に東京商船大学を卒業、ベトナム戦争のために帰国する機会を失って神戸市の外資系輸出入貨物検査会社に就職している。 トランさんは日本女性と結婚した後もベトナム国籍だったが、長女が誕生した後の昨年(1982年)夏、帰化申請した。 法務局にベトナム名のまま帰化したいと申し入れたが、日本風に変えなければ帰化を許さないと告げられ、やむなく夫人の旧姓を使って、「中井英雄」で申請、帰化していた。
トランさんが元の名前のまま日本人になりたいと神戸家裁に申し立てたのは、どうしても新しい名前になじまず、よそよそしかったため。 音信が復活した故国の両親も日本名に反対してきた。 申し立てを受理した神戸家裁は昨年(1982年)11月8日、トランさんの訴えを全面的に認め、改名させる決定を下した。 決定理由は、「国際社会化の現状からすれば戸籍法施行規則の片仮名による氏名の選択は許すべき」
家裁の決定の結果、妻と子の姓もトランに。 この決定は今年2月に試案の発表された国籍法改訂と、関連する戸籍法の各条項をめぐる論議に波紋を投げかけるものと注目されている。 (以上、『朝日ジャーナル』1983年7月1日号 97頁)
この家裁判決の影響は大きく、3年後の1985年の国籍法改正を契機に、帰化申請書にあった「帰化後の氏名は、日本人としてふさわしいものにする」という注意事項は消えました。 ですから帰化の際に日本人風の名前でなくても、カタカナ姓の日本人が誕生できるようになったのです。 また日本人と外国人が結婚した場合、夫婦同姓の原則に基づいて日本人側の姓を相手方外国人の姓にすることも可能になりました。 この場合も、カタカナ姓の日本人が誕生することになります。
このごろは外国人と結婚したとか両親の一方が外国人であるとかで、日本人がカタカナ姓を持つ例が多くなりましたね。 特にスポーツ選手は名前が公開されますので目立ちます。 このような日本人の出現は1982年の家裁判決以降のことになります。 今の日本では、このような明白な外国由来の姓が日本人の名前として受け入れられているように見えます。
1982年は日本の民族観(単一民族意識や名前と民族性との同一視)が変化する契機となった年でした。 そして3年後の1985年に国籍法が改正されて、政府が民族観を変えた(帰化の際に同化を要求しなくなった等)のでした。 今は国民レベルでその民族観の変化が定着し、新たな民族観が形成されつつある過程と言っていいでしょう。 今後はこの新しい民族観で日本の国民統合が進んでいくものと考えます。 (終わり)
「日本人としてふさわしい氏名」とは何か?(1) https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/02/14/9754509
朝鮮人の名前- 一文字姓 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2021/09/19/9424856
第67題 単一民族国家と差別 http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/dairokujuunanadai
国籍を考える―ケンブリッジ飛鳥の場合 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2017/07/21/8624643
【追記】
『朝日ジャーナル』のベトナム人帰化者の記事では、トランさんは1982年夏に帰化申請し、同年11月までに帰化が認められてから家裁に申し立てたとなっています。 普通、帰化申請が受理されてから許可されるまで1~2年、条件が緩和されている特別永住者でも6カ月はかかりますから、これは日程的にあり得ないものです。 ですから、おそらく「1982年夏」の数字を間違えたのか、あるいは何か言い間違えたのか等の錯誤があったものと思われます。
【追記】
詩人の金時鐘さんは雑誌『抗路』で、次のように述べておられます。
帰化が認められても、次は窓口指導というものがあってね、日本人らしからぬ名前は訂正させられる、日本人が使わない漢字や発音しにくい漢字とかね。 市民運動やっている人たちのかなり長年の抗議活動で、窓口指導は86年、88年くらいになくなったけどね。 (『抗路6』2019年9月 19頁)
金時鐘さんは在日活動家の長老格で影響力の大きい方ですが、帰化に関する知識はデタラメが多いですね。(下記参考) 「日本人らしからぬ名前は訂正させられる」ことがなくなったのは、市民運動と何の関係もないベトナム人帰化者のおかげです。
青木理・金時鐘の対談―帰化(1) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/09/08/9524343
青木理・金時鐘の対談―帰化(2) https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/09/15/9526042
【追記】
本稿は金英達『在日朝鮮人の帰化』(明石書店 1990年6月)を参考にしました。
「日本人としてふさわしい氏名」とは何か?(1) ― 2025/02/14
ちょっと古い話になりますが、外国人が帰化を申請するにあたって、帰化後の名前について、1985年までは「帰化後の氏名は、日本人としてふさわしいもの」にするように決められていました。 それは当時の「帰化許可申請書」の欄外注意書きである「帰化許可申請書作成上の注意」の4番目に明記されていました。 念のため、その注意書きをスキャンして提示しておきます↑。
4 帰化後の本籍および帰化後の氏名は、自由に定めることができますが、氏名は日本人としてふさわしいものにしてください。 氏名の文字は、原則として、当用漢字および人名用漢字表に掲げてある漢字、片仮名又は平仮名以外は使用できません。
それでは1985年までの当時、「日本人としてふさわしい氏名」とは何だったのか、ちょっと調べてみました。 法務省が発行している『民事月報』という雑誌があります。 主に戸籍等を担当する公務員らのための専門雑誌ですが、一般人でも入手は可能で、また中央図書館などにもバックナンバーが収蔵されています。 そこに「日本人としてふさわしい氏名」について、次のような解説がありました。
日本人としてふさわしい氏名とはどのような氏名をいうのかということである。 昭和47年度の戸籍・国籍事務担当者打合会においてもこのような問題が提出されていたのであるが、一般的かつ具体的な基準をもうけることは困難と思われる。 同氏の日本人が存在するという一事をもって日本人としてふさわしい氏と即断することも問題があると考えられるのであり、結局は常識すなわち一般にその氏名でもって日本人として通用するかどうかといった観点から判断せざるを得ないと考える。 (藤田秀次郎「帰化事件処理上の問題点」 『民事月報』1974年6月号所収)
日本人の名前は非常に多様で、日本人風の名前なんて「一般的かつ具体的な基準をもうけることは困難」であることを正直に言っています。 ところが「同氏の日本人が存在するという一事をもって日本人としてふさわしい氏と即断することも問題がある」と続けています。 これはどういうことかというと、日本人でも何百年も前からの由緒ある苗字が、例えば「金」「張」「田」「洪」といった方が実際におられるのですが、これらは「日本人にふさわしい名前」ではないと言っているのです。
「金」さんは1970年代のロッキード裁判の裁判長、「張」さんは1999~2005年にトヨタ自動車の社長、「田」さんは大正時代の台湾総督で、そのお孫さんが1970~2000年代の国会議員です。 「洪」さんは400年前のご先祖様が洪浩然という有名な書家で、ご子孫が九州で「洪」家を継いでおられるということです。 「金」「張」「田」「洪」さんから、〝だったら先祖代々その名前を受け継いだこの俺は日本人じゃないということか!”と反発されそうですが、そんなことを言った人はいなかったようです。 田英夫さんは国会議員だったのですから、〝私は日本人なのか?”と国会質問していたら面白かったと思うのですが、そういう記録はないですね。 また上記のような朝鮮人・中国人等と共通する名前でなくても、「団」「菅」「宗」「壇」「今」「長」など、漢字一文字で音読みする由緒深い苗字を有する日本人は多いものです。 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2021/09/19/9424856
ところで上記の引用文の中で「昭和47年度の戸籍・国籍事務担当者打合会においてもこのような問題が提出されていた」とありますが、これは1972年の日中国交正常化の時に、日本は台湾(中華民国)と断交したことに関係があるものです。 中華民国籍だった人の多くがこの時に帰化申請をしました。 ところが在日中国人は通名を持たない場合が多く、中国の漢字名をそのまま使って日本での社会生活を送ってきました。 ですから慣れ親しんできた中国名をそのまま帰化後も使いたいとしていたのですが、さてそれをどうするのかを法務省の役人さんたちが議論していたということです。 結果は、やはり「日本人としてふさわしい氏名ではない」という話でした。
『民事月報』には、次のように日本人風の名前を「指導すべき」というような発言もあります。
帰化者自身はもとより、おそらくその子孫までが将来とも本邦に居住し、日本人として社会生活を送っていくであろうことを考えるならば、やはり日本人の氏名として疑義のある場合には、原則的には日本人としてふさわしい氏名に変更するよう指導すべきであろう (門田稔水「帰化事件の再調査に関する一考察」 『民事月報』1976年4月号所収)
こうなると「指導」というより、「強制」ですねえ。 (続く)
【帰化に関する拙稿】
帰化にまつわるデマ http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2006/05/31/387157
在日の帰化 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2006/08/18/489465
帰化と戸籍 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2006/08/26/499625
国籍選択と強制退去 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2006/06/15/405667
52年前の帰化青年の自殺―山村政明(1) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/08/17/9518301
52年前の帰化青年の自殺―山村政明(2)https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/08/23/9519952
52年前の帰化青年の自殺―山村政明(3) https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/08/29/9521733
青木理・金時鐘の対談―帰化(1) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/09/08/9524343
青木理・金時鐘の対談―帰化(2) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/09/15/9526042
在日の「国籍剥奪論」はあり得ない https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/11/19/9732903
在日韓国・朝鮮人自然消滅論(1) https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/11/26/9734747
在日韓国・朝鮮人自然消滅論(2) https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/12/01/9736094
在日朝鮮人に関する論考集 http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/minzokusabetsu
1960年代の入管問題―金東希と任錫均(2) ― 2025/02/07
https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/02/02/9751631 の続きです。
その北朝鮮に彼(金東希)がとつぜん送り出されたのは、68年1月26日の朝だった。 もちろん、朴正煕による独裁政権下にあった韓国に送還されなかったのは喜ぶべきことだが、この妥協的な措置に私は釈然としなかった。 その後の彼の情報は分からない。 小田実は76年10月に当時の金日主席に会った時に、金東希のことを訊ねたが、そんな人は知らないと言われ、また後に、調査したがそのような人はいない、という返事をもらったという。 ここにもまた、戦後日本の酷薄な対応のために、空しく希望を摘み取られて消えていった人の運命がある。
これが1960年代、とくに67年から8年にかけての日本を覆っている空気だった。 すなわち過去の反省はなおざりにされ、戦争への協力は露骨になってゆくが、なおかつそれに抵抗しようとする少数の人々が懸命な努力を惜しまなかった時代である。 (以上 鈴木道彦『越境の時 1960年代と在日』 集英社新書 2007年4月 147~148頁)
この時期の日本はいわゆる全共闘時代で、革新(左翼リベラル)の考え方というか雰囲気が社会に蔓延していました。 革新系の人たちは、“日本は過去を反省せず、アメリカの戦争に協力している”として、そんな日本に対する反対運動を盛んに行なっていたのです。 この一文はこのことを言っています。
ところで結局は金東希は北朝鮮に亡命し、現地で大歓迎を受けました。 その後に作家の小田実が訪朝した際に北朝鮮当局に問い合わせたところ、当局はそんな者を関知していないと回答しました。 ところが一方では、日本の朝鮮総連内で次のような噂話が飛んでいました。 出典は、張明秀『裏切られた楽土』です。
当時(1975年)、私は総連中央社会局で実質的責任者として帰国事業に携わっており、この話(在日朝鮮人商工会会長の息子が65年頃に帰国し、その後行方不明になった)を社会局長(故河昌玉氏)に報告した。 すると局長から、「韓国国軍を脱走し、共和国に亡命した金東希青年もスパイとして処刑されているくらいだから」との返事が返ってきた。
補足すると、金東希とは67年、韓国の軍隊を脱走し、日本に密入国したが、捕えられた。 当時、総連ではこの金青年の行為を英雄のごとく称え、社会党、共産党、日朝協会などに働きかけて、支援を得て日本当局に抗議、陳情した結果、金青年は68年ソ連を経由して共和国に亡命した。 共和国ではその英雄視された金青年でさえ処刑されたのだから、普通の帰国者の行方不明くらいはものの数ではない、というわけである。 (以上 張明秀『裏切られた楽土』講談社 1991年8月 48頁)
北朝鮮は公式の話より裏の話に真実があるというお国柄ですから、この噂話が事実のように思われます。 おそらく金東希は処刑されたのでしょう。 ところで金東希は韓国に家族を残していたはずですが、その家族の消息も気になります。 しかし全く分からないですね。
金東希の次に入管問題の話題になったのが任錫均でした。 彼については、拙ブログ https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/03/11/9568486 で、次のように記しました。
ここで思い出すのは「任錫均」です。 1960年代後半に韓国の朴正煕軍事政権から弾圧を受けたとして日本に密入国し、大村入管収容所に収容され、特在だったかで釈放されていたように記憶しています。 その時に彼は韓国の軍事政権と癒着する日本の自民党政権を糾弾する闘士として登場し、日本各地で講演を繰り返し、彼を守る運動が繰り広げられ、彼はまるで英雄みたいな扱い受けていました。
任錫均は大村収容所に収監されていた時に、市民団体や朝鮮総連より支援されていました。 そして在留特別許可を得て出所し、日本各地で開かれた集会で演説をして回っていました。 アジ演説はなかなか上手だったですねえ。 「ここに来ている公安諸君! 私を逮捕してみたまえ!」とか叫んでいました。 また私の記憶では日本人(あるいは在日?)の女性と結婚し小さな女の子がいて、その時期の日本名は「神保(じんぼ)」だったと思います。 しかし1970年代になって、朝鮮総連から一転して「韓国のスパイ」と名指し非難されました。 1973年頃でしたか、私は総連の活動家からスパイ説を聞かされましたね。 さらに
実はこの任錫均が大の女たらしで、支援団体に参加する若い女性をそれこそ次から次へと犯していくのでした。 しかし反体制組織内のことでしたから、警察沙汰になることはなく、つまりは女性側が泣き寝入りするしかなかったのでした。
と記したように、性犯罪常習者としか言いようのない人物でした。 しかし実際の人柄というか裏面を知らない「善良な」市民団体が彼を支援していたのでした。 だからでしょうか、彼はいつの間にか消えてしまいましたねえ。 ごくわずかの支援者(うち一人は後の土肥国会議員秘書らしい)らと一緒に活動をしていたように聞いたことがありますが、誰からも注目されることがありませんでした。 その後の消息は全く不明です。 (終わり)
1960年代の入管問題―金東希と任錫均(1) https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/02/02/9751631
【参考】
任錫均を知っていた人が当時の思い出を書いていますね。
https://tao-and-gnosis.hateblo.jp/entry/2022/08/01/100239 https://blog.goo.ne.jp/sunsetrubdown21_2010/e/6ff662d2a178b81991299370ed425c43
【拙稿参照】
左翼人士の性犯罪に思う https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/03/11/9568486
入管闘争―善人だから闘うのか、善人でなくても闘うのか https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/05/25/9588921
不法滞在・犯罪者の退去・送還-1970年代の思い出 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2021/05/21/9379672
昔も今も変わらない不法滞在者の子弟の処遇 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2020/03/21/9226536
不法残留外国人について https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2021/05/11/9376331
不法残留外国人について(2) https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2021/05/17/9378363
かつての入管法の思い出 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2020/10/17/9306547
在日が入管問題に冷たい理由―『抗路』を読む https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/05/20/9587549
密告するのは同じ在日同胞―『抗路9』座談会 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/03/03/9468948
1960年代の入管問題―金東希と任錫均(1) ― 2025/02/02
戦後の日本では、外国人は「出入国管理令」という法律(ただしポツダム政令)に従って管理されていました。 ところが1960年代後半に、日本に寄港した米軍空母からアメリカ兵が脱走したり、韓国から「金東希」や「任錫均」が密入国してきたりして、それぞれ市民団体が支援する事件が起きました。
これだけではありませんが、当時、外国人を管理する入管体制が問題になってきたのです。 政府は1969年にそれまでの「出入国管理令」から「出入国管理法」に改正しようとしたのですが、上述の脱走兵等の問題などを契機に反対運動が盛んとなりました。 その時に大問題となったのが、4年前の1965年に法務省が出した『外国人の法的地位200の質問』という冊子に「外国人は煮て食おうと焼いて食おうと自由」という文言があったことが国会で取り上げられたことです。 この文言は50年以上経った今でも、入管問題に取り組む活動家たちが言及しますね。
ところで、今回はこのうちの「金東希」と「任錫均」の話をします。 先ずは金東希や脱走アメリカ兵を支援していた市民団体の鈴木道彦さんが、金の亡命の経過を『越境の時 1960年代と在日』という本に記していますので、それを紹介します。
このとき(1968年3月)長崎県の大村収容所に入れられていたもう一人の脱走兵である金東希のことを、少しでも多くの人に知ってもらいたいと考えた (鈴木道彦『越境の時 1960年代と在日』 集英社新書 2007年4月 145頁)
当時の韓国は‥‥ヴェトナムに軍隊を派遣していた。 金東希は、そのヴェトナム行きを嫌って65年7月に軍を脱走し、亡命のために日本に密入国して対馬で逮捕されたのである。 しかも1935年に済州島で生まれた彼は、小学3年まで皇民化教育を受けて日本語を学んでいたし、彼の長兄、次兄、三兄は、いずれも働くために小学卒業ほどの年齢で敗戦前の日本に渡り、その後各地を転々としながら日本で暮らす人たちだった。 要するに、植民地帝国日本が生んだ典型的な崩壊家庭の一つである。 だから彼の行為は、ヴェトナム戦争への批判の表現であると同時に、戦前からの日朝関係の歴史を映し出すものでもあった。 しかも彼の亡命願には、次のように書かれていたのである。
「私が亡命地を日本に選択したのは、もちろん地理的条件もありますが、特に私は日本国憲法前文ならびに(第九条)戦争の放棄を規定し、平和主義を貫こうと努力している日本国に亡命したのであります」。 (同上 145~146頁)
金東希は1935年生まれで、小学3年までは日本の植民地支配下にあったといいますから、日本については大ざっぱな知識だけで、詳細は知らなかったはずです。 その後は朝鮮の解放となりますから、彼は日本語に接するチャンスはほとんどなくなり、戦後の日本の知識は皆無と言っていいでしょう。 ところが、そんな彼が日本の憲法九条の条文を知っていたというのですから、ビックリ。 そしてこれを当局に「亡命願」に理由として書いて出したというのですから、日本で大村収容所に収監されていた時に、支援者から憲法九条の韓国語訳を教えられたと思われます。 在日ならいざ知らず、本国韓国人が他国である日本の憲法の条文を知っていたなんて、あり得ないことでしょう。
なお1965年に韓国軍を脱走(脱営ともいう)した金東希が日本に密入国したのは1967年暮。 脱走から密入国までの2年間は韓国内で生活していました。 あの軍事政権下でそんなことができたのか?という疑問が湧くでしょう。 しかし当時の韓国では可能でした。 1967年までの韓国では、軍隊からの脱走が毎年1万人以上発生していたのです。 脱走兵は韓国内で仕事と住所を見つけて生活することが容易だったのです。 脱走兵が多すぎて、軍による捜索が間に合わなかったともいいます。
ところが1968年1月に北朝鮮特殊部隊が大統領官邸(青瓦台)を襲撃する事件が発生しました。 韓国政府はこれを機に全国民の住民登録管理を強化しました。 この登録番号がなくてはホテル・旅館に泊まれず、仕事も家も探せませんから脱走兵は生活が難しくなり、脱走事例が急減したと言われています。
ところが日本政府は頑なに彼の亡命を拒否し、韓国への退去強制命令を出して、大村収容所に収監した。 しかし脱走兵が独裁政権下に送り返されれば、極刑も覚悟しなければならない。 藤島宇内はいち早く『現代の眼』でこの問題を取り上げて世論に訴えたし、金東希を救わねばならないという動きは、福岡、大阪、長野などに広がり、東京でも「べ平連」などいくつかのグループがその声を上げた。 これら東京の支援者たちを結ぶ「金東希・東京連絡会議」も作られて、署名や請願を通して彼の亡命実現につとめていたが、そこには二・三の大学の学生グループに混じって、一橋大学の私のゼミ生たちも参加していた。 67年12月12日には、その鈴木ゼミの主催で、学内で「イントレピッドから金東希へ」というテーマのシンポジウムも開かれている。 これには「べ平連」から武藤一羊、「金東希を救う会」から玉城素、学内から中国思想史の西順蔵が参加し、他大学や地区の運動家も加わって、約4時間にわたり熱心な討議が行われた。 (同上 146~147頁)
「イントレピッド」とは、当時横須賀港に寄港中の米軍空母「イントレピッド号」から4人のアメリカ兵が脱走し、日本の「べ平連」(ベトナムに平和を!市民連合の略)がそれに協力してスウェーデンに亡命させた事件を指します。 この後しばらくして、韓国軍を脱走した金東希が日本密入国し、亡命を求めたのでした。 「イントレピッドから金東希へ」というのはこの意味です。
今も私の手許には、大村収容所の金東希本人から68年1月8日付で送られてきた手紙がある。 当時彼の北朝鮮への「帰国先希望書」なるものの写しが出回っていたので、それを不審に思った私が手紙で質問したのに答えたものだ。 そこには、「私はまがいなく日本に亡命をねがっているものであります。 それいがい、なにものもありません」と明記されている。 おそらく、日本政府から亡命を拒否された彼は、韓国に送還されることだけは避けようと、やむなく北朝鮮への「帰国」を「希望」させられたのだろう。 (同上 147頁)
金東希には朝鮮総連も熱心に支援し、北朝鮮への亡命を勧めました。 ですから総連の勧めに応じたと考えるのが自然で、「やむなく北朝鮮への『帰国』を『希望』させられた」ということではなく、自ら望んだと思われます。 「希望させられた」とまるで本人の意思に反するようにあるのは、鈴木道彦さんの憶測でしょうね。 (続く)
【参考】
金東希については、べ平連関係者が当時のことを書いておられます。 https://jrcl.info/web/frame12.01.01g.html
【追記】
「外国人は煮て食おうと焼いて食おうと自由」は、本来は〝主権国家である以上、外国人をどう処遇するかはそれぞれの国家の自由裁量”ということを分かりやすく説明しようとして、当時に一般社会で普通に使われていた諺を用いたものでした。 例えば、“あなたの家のことに口をはさみません、煮て食おうと焼いて食おうと自由ですから”というように使われていたと記憶しています。 この諺が外国人の人権を侵害するものとして物議を醸したのでした。 50年も昔の話です。 そのおかげでしょうか、この諺は一般には使うことがなくなりましたね。 しかし今も、外国人問題を取り上げる論者が50年以上前のこの事件に言及して〝入管が外国人の人権を無視する姿勢は今も変わっていない”と主張しています。
かつて「韓国に学べ」が叫ばれた時代があった ― 2025/01/26
二十年前の2000年代初め、日本では「韓国に学べ」が流行のように叫ばれたことがありました。 韓流ブームの契機となった「冬のソナタ」より前のことです。 これを覚えておられる人は少ないでしょうねえ。 例えば当時の雑誌などには「韓国をうらやむ日本人―エステから経済改革まで」とか「韓国人気で分かる日本の失ったもの」のような見出しをつけた記事があふれていたのです。
韓国では1997年にアジア通貨危機が襲来し、時の金泳三政権はIMF(国際通貨基金)に救済を要請して国家破産をかろうじて回避しましたが、経済は大不況となり、失業者があふれかえり、自殺者が急増する事態となりました。 金泳三政権を引き継いだ金大中大統領は規制の大幅な緩和などの各種政策を断行し、この危機を乗り越えて2年後の2000年頃には経済を回復させ、韓国は元気を取り戻しました。
その時の日本はバブルが崩壊して10年ほど低迷が続いていた時期で、「失われた10年(今は失われた30年)」と言われるくらいでした。 そういう日本で、「韓国に学べ」がまるで合唱するかのように叫ばれたのでした。
まず経済面ではIT革命です。 韓国はブロードバンド普及率が世界一で、「日本はITの分野で韓国に完全に追い抜かれた」などと言われたのです。 また韓国では政府が主導してクレジットカードを普及させ、それによって消費が増大し、好景気につなげました。 一方、現金での買い物が普通である日本は「遅れている」と決めつけられたものです。
政治面では、金大中大統領は2000年に北朝鮮の金正日総書記と首脳会談を持つなど、大胆に外交路線を変えました。 それに対して日本では、「韓国に比べてわが日本は‥‥」とか「日本とは余りにも志操が違い過ぎる」とか「韓国では希望に満ちた大変革が起きているのに、わが日本では何の変化の可能性も見えない」とか言われたものです。
また韓国では2000年に総選挙が行われましたが、その時に「落選運動」というのがありました。 これは市民団体が、選んではいけない立候補者を定めて落選させようと運動するもので、20人中19人を落選させるという大きな成果を収めました。 これを見た日本のマスコミや市民団体は「韓国は世界で最も先進的な民主社会になる」と絶賛し、「韓国の落選運動に学べ」と呼びかけました。
そして2001年に仁川国際空港が開港しました。 滑走路数など規模が日本の成田や関空よりも大きいハブ空港とされ、世界の航空業界は日本よりも韓国の方を重視するようになったと言われたものです。 韓国はアジアと世界を視野に入れた戦略思考を持っている、それに比べて日本はそんな思考が欠けていると評されていましたね。
そしてまた韓国では金大中大統領以降、死刑執行を行なっていません。 金大中自身が政治活動ゆえに死刑宣告を受けたことがあったことが関係したようで、死刑への拒否感があったものと考えられています。 このために死刑廃止論者たちは、日本は韓国に立ち遅れていると批判しました。 ちょっと前までは独裁国家とされていた韓国でしたが、今は死刑執行しておらず人権国家の仲間入りをした、日本は韓国に学ばねばならない、となったのです。
以上のように2000年代初め頃の日本では、ちょっと思い出しただけでこのような「韓国に学べ」という声が叫ばれたのでした。 そして2002年の日韓ワールドカップと2003年の「冬のソナタ」を契機とする韓流大ブームへとつながっていったのでした。
今の日本では信じられないでしょう。 つい数年前の文在寅政権時代、日本の雑誌には「韓国社会の『深刻過ぎる問題点』」とか「韓国の『最大危機』、いよいよ『アメリカから見捨てられる日』がやって来る」とか「平昌五輪と韓国危機」とか「サムスン共和国の崩壊が始まった」とかの見出しを付けていて、それが売れていたのですから。
「韓国に学べ」と仰ぎ見たかと思えば、20年経ったら見下す‥‥。 日本のマスコミさんは腰が据わっていないと言うべきでしょうが、それよりもそんなことに躍らされる日本人が情けないですね。