壬辰倭乱後、祖国に残った朝鮮陶工たち(1) ― 2024/06/28
いま日本では「ちゃわんやのはなしー400年の旅人」という映画が上映されていて、ちょっとした話題になっているようです。 内容は豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)の際に日本に連れてこられた陶工の話です。 司馬遼太郎の小説『故郷忘じがたく候』に準じて、薩摩焼の沈壽官さんが主役となっています。
ところで朝鮮では秀吉の朝鮮侵略(韓国では壬辰倭乱・丁酉再乱といいます)の後、朝鮮半島に残った陶工たちはどのような生活を送ったのか、また朝鮮での陶磁器生産はどうなったのか。 これについてはあまり知られていないようです。 韓国のユーチューブにそれについて解説するものがありましたので、それを紹介したいと思います。 映像の解説を聞き取り、字幕を参考にしながら訳してみました。 なかにはどう調べても意味の分からない単語が出てきましたが、それはそのままハングルにしております。
https://www.youtube.com/watch?v=XlKtYk_nQR0&t=18s
陶工39人集団餓死事件と先端窯業国家朝鮮の没落
1697年の春、広州で陶工39人が一度に飢えて死んだ。 一人や二人ではなく、40人近くの専門職業人が一度に餓死するとは! 飢え死んだ者は39人であり、力を失い動けなくなった者は63人、家族が散り散りになった家は24戸だった。 残った者たちも陶器を作ることができない状況だ。(1697年閏3月2日付け『承政院日記』)
これがこのユーチューブのタイトルと前置きです。 李朝の朝廷の事務機関が作成する業務日誌の「承政院日記」から、当該部分をそのまま書き写しています(ただし現代韓国語訳)。 今の広州市の沿革には「15世紀―この頃から官窯(広州官窯)がおかれ、白磁の製作が盛んとなる」とありますので、ここが今回の話の舞台です。
みなさん、こんにちは。 「地の歴史」のパク・ジョンインです。 今日は「地の歴史」135回目の時間です。 今日のテーマは「陶工39人集団餓死事件と先端窯業国家朝鮮の没落」です。
みなさんご存知のように、朝鮮の白磁そして高麗の青磁はともに大韓民国が世界万邦に誇る文化遺産です。 奇麗で美しく優雅で風格があります。 先ずはこの白磁に関する三つの資料を見てみましょう。
最初はソウルの国立古宮博物館にある大韓帝国皇室の白磁花柄壷です。(0:48) これは英国製です。壷の下にサイモンフィルディングという会社のマークがついています。 これはどうですか。(0:59) 大韓帝国皇室のシンボルマークが金色で入っている白磁李花模様の湯器です。 製造会社が日本のノリタケです。 製造年度は1907年です。
今の英国の陶磁器会社に「サイモンフィルディング」というのは見当たらないですねえ。 「ノリタケ」は今も有名な日本の陶磁器メーカーです。 「오얏꽃」を「李花模様」と訳しましたが、これは大韓帝国時代の李王家の紋章として使われていたものです。
ちょうどその頃、20世紀の初め、19世紀の後半、その頃ロシア帝国が朝鮮を狙っていたのですが、彼らが作った何と1256頁にもなる報告書があります。 『韓国誌』という標題が付いています。 その中にこのような内容が出てきます。 「日本が昔に韓国人から磁器の技術を伝授されたとは、想像できない」。
ロシア帝国が作成したという『韓国誌』というのは、知りませんでしたねえ。
最後に1697年の肅宗の時の記録を見てみましょう。 「王立陶磁器工場である京畿道分院で飢えて死んだ陶工が39人にもなる。」 明、ベトナム、そして朝鮮。 これらは先端白磁源泉技術の保有国ですが、その一つの朝鮮で製造技術者たちが集団餓死して技術は衰退し、その結果、大韓帝国皇室では陶磁器は全て輸入して使っていたという矛盾した話です。
「先端白磁源泉技術」は原文をそのまま直訳したのですが、意味は分かります。
朝鮮白磁を見ることもできなかった朝鮮の百姓たち (2:13)
ちょっと遡って、1428年の世宗の時代です。 明の皇帝である宣徳帝が朝鮮国王の世宗に青花白磁を贈りました。 その時、朝鮮は青磁に白い釉薬を塗った粉靑沙器を作っていました。 ところで朝鮮はどんな国ですか。 高麗時代から象嵌青磁の製造技術が卓越していた国ですよ。 だから朝鮮は青磁より高い熱が必要な、もっと高い技術が必要な白磁生産に成功したのです。 乳白色の磁器に明から輸入した青の顔料である「回回青(コバルト顔料)」をかけるもので、明の皇帝からの下賜品である青花白磁の製造技術も直ぐに習得しました。 朝鮮王室は全国の陶工職人から官庁用青花白磁を税金として取り立て、官庁の需要に当てました。 全国各地にいる職人たちが税金の代わりに、このように磁器を作って献上したのです。
そうして1467年、京畿道広州に王立磁器工場である官窯を設立します。 政府が直接に磁器を生産することが始まったのですよ。 ところで、この青花白磁を作る回回青という顔料は100%明からの輸入品でした。 そして明がすぐにこの回回青の輸出を禁止してしまいます。 朝鮮は技術があっても製品を作れないという稀有なことが起こりました。
「回回青」はいわゆるコバルトブルーです。 コバルトブルー顔料は日本でも生産できなかったので、江戸時代の日常に使うような茶碗などの陶磁器は鮮やかな青色ではなく、かなりくすんだ青色でした。 もしコバルトブルーの陶磁器が出てきたら、中世・江戸時代なら明からの輸入品の青花白磁、もしくはコバルト顔料が輸入されるようになった明治時代以降の製品なんて言われていました。 朝鮮も同じくコバルト顔料がなかったので、明から輸入していたのです。
朝鮮は次の方法を選択しました。 1485年、開国93年にして成文法法典を総合して完成した『経国大典』が誕生します。 そこにこのような条項が入っています。 「金や銀、または青花白磁で作られた器を使う庶民は鞭打ち80回に処す」。 庶民は青花白磁を使うことができなくなったという意味です。 逆に庶民より上の身分の人たちは、この高価な青花白磁を使用する独占的権利を持つようになったという意味です。 朝鮮白磁を朝鮮の庶民は見ることもできない、そんな時代が続きます。
青花白磁は当時としては超高級品でした。 日本も同じで、中近世の遺跡発掘調査で青花白磁が出土したら、たとえ小さな破片でもビックリしますね。 (続く)
コメント
_ 竹並 ― 2024/06/30 13:31
_ 大森 ― 2024/07/09 01:26
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で、機械翻訳で日本語を音声から字幕にする場合にも、同じことが起こると思うのですが… 「地の歴史」の(日本語)漢字語の選択の「間違い」は面白いですね、特に、「白磁」が「百済」になってるとこ(w
漢字の朝鮮音で、百済(ペクチェ)と「白磁」が同音だと気づかされるわけですが、逆に、日本語で百済(ヒャクサイ)を、なぜ「クダラ」と読むのか、それも興味深いですね。
僕は考古学が好きだったので「土器」と云うのは多少知っているのですが… 陶磁器も、そこらの粘土をロクロで成形して、のぼり窯(がま)で焼けばできるんだろう、ぐらいの知識しかありませんでした。
が、陶器と磁器は、陶土と磁土、そもそも原料が違う。
原料の鉱脈の発見、それを掘り出すところから、ひと仕事なんだということも、今さっきググって知りました。
愛媛県の松山市近郊の砥部町にも、しかるべき磁器があり、お土産として、道後温泉街の売店に並んでいます。
砥部焼の誕生 その1
https://www.town.tobe.ehime.jp/soshikikarasagasu/shoukoukannkouka/kankou/9/3/1203.html