閔妃の写真―決着はついたはずだが‥(5)―反論2024/06/21

 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/06/16/9693342 の続きです。 https://www.youtube.com/watch?v=4rlfLoxFHPE を見ながらお読みいただくようお願いします。 (11:36)から始めます。

さらにマゴジャを着た男の写真は、日本の業者が写真葉書として作って販売していたものです。 葉書の表題は大院君ではなく、「朝鮮人の風俗(CUSTOMS OF KOREAN)」朝鮮の服装です。 英単語のスペルが間違っているのは、当時よくあることでした。 写真の中の人物自体が興宣大院君であるなら、葉書の業者たちが「大院君」の代わりに「朝鮮人」を表題に付ける訳がありません。 このように全ての脈絡が否定的であるにもかかわらず、ジョイがマゴジャ着た大院君を撮影した可能性はあるのでしょうか? 私はないと思います。

 「マゴジャを着た男の写真」は、(写真⑧)http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daihyaku40dai.jpg です。 これは絵葉書写真として販売されていたのですねえ。 しかも「朝鮮人の風俗」と正しくキャプションが付けられていたのでした。  

大院君が中国から帰国してから、高宗と閔妃は大院君に対して極度の警戒心と憎悪感を見せており、一切の対外接触を遮断しました。  甚だしくは、その時まで監獄にいた壬午軍乱の関係者たちを処刑し、大院君が家に帰る道に捨て置くことまでしました。 そんな状況で、外国人たちに接触することを許すでしょうか? とんでもないことです。 

 当時、大院君は外部との接触を厳しく禁止されていました。 ですから大院君は写真を撮ることができなかったのでした。

それにもかかわらず、この写真はすでに当時から今まで、たったの一回も疑うことなく大院君の写真として引用されてきました。 これは国内の新聞は信じず、外信を信じることと似ています。 西洋の新聞や雑誌に大院君と書かれているから、解放後も学会やマスコミ系ではそのまま大院君と認めてしまったのですね。 私もまた、そうでした。 怠慢です。

 「大院君の写真」なるものが西洋の雑誌や新聞に掲載されたので、後世の韓国人はそれを信じてしまったということですね。

そうして、大院君の写真⑧と背景が同じこの写真②を〝閔妃の写真″と主張する呆れた論争まで起きるようになったのです。 この写真②やこの写真⑦、すべて王妃閔氏と関係がなく、西洋人もしくは日本人が撮影して商業的に使った写真なのです。

 「商業的に使った写真」というのは、(写真②)http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daihyaku33dai.jpg と(写真⑦)http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daihyaku38dai.jpg のことです。

 (13:24)から、いよいよ中央日報に掲載された李泰鎮さんの説  https://www.joongang.co.kr/article/25240631 への反駁が始まります。 

それにもかかわらず、この写真をめぐって前国史編纂委員長の李泰鎮先生は、「明成皇后の写真なのに、日本人が華麗な背景を消して尚宮のように見せるように捏造した」と主張しました。 この方はもう何年も、この二枚の写真がすべて明成皇后に間違いないと言い張っています。

 「この二枚の写真」は、(写真②)http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daihyaku33dai.jpg と(写真⑦)http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daihyaku38dai.jpg です。

すでに結論が出ていても、もう否定された写真でも、この方は先月の4月にも中央日報に「抗日闘争の触発を憂慮して、王妃の写真を宮女に化けさせた」と言って、最初の王妃の姿の公開だとか文明がもたらした変革だとか、宮女の写真を作ろうとすれば風格にあふれるあの背景を消せなければならなかったとか、荒唐無稽は主張をしました。 だからこの写真を日本人の代表的な歪曲事例に選びます。 無理やりです。 ご覧の通り、背景をなくすのではなく、背景のない写真に背景を合成して新しい写真を作ったのですからね。

 「合成して新しい写真を作った」は、(写真④)http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daihyaku35dai.jpg のことです。

またエンカース・ハミルトンというイギリスの言論人が1902年に出版した「コリア」という本に、鏡を見る女性の写真が載っています。 この鏡の後ろに柵架が、李泰鎮先生が言うところの「風格あふれる背景」と同じものです。

 「鏡を見る女性の写真」は探してみましたが、ネット上では見つかりませんでした。 『歴史通』2012年1月号の10頁にこの写真が掲載されていて、これをスキャンしました。 (写真10)http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daihyaku39dai.jpg これには本文で論じるために鳥と鉢植えに○マークが付けられています。 余分なものがありますが、奥にある冊架はお分かりいただけるでしょう。 なおこの写真はユーチューブでは(14:34)にあります。 

一体このように無限ループに陥っている主張を、なぜ今でも固執しているのか、理由が分かりません。 日本と関連したことならば何であれ日本の責任にする、この無責任な反日主義は一般大衆を客観的近代史から遠ざける最大の敵です。  歴史は客観です。 事実で構成されます。 見たいものだけで埋められた歴史は、歴史ではなく小説です。

写真の話でした。  「地の歴史」、パク・ジョンインです。

 最後の結論ですが、全くその通りと言うほかありませんねえ。 (終わり)

閔妃の写真―決着はついたはずだが‥(1)―中央日報 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/06/01/9689180

閔妃の写真―決着はついたはずだが‥(2)―中央日報 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/06/06/9690640

閔妃の写真―決着はついたはずだが‥(3)―反論 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/06/11/9691981

閔妃の写真―決着はついたはずだが‥(4)―反論 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/06/16/9693342

  【挿図写真・絵画の一覧】

写真①: http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daihyaku32dai.jpg

写真②: http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daihyaku33dai.jpg

写真③: http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daihyaku34dai.jpg

写真④: http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daihyaku35dai.jpg 

写真⑤: http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daihyaku36dai.jpg 

写真⑥: http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daihyaku37dai.jpg

写真⑦: http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daihyaku38dai.jpg

写真⑧: http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daihyaku40dai.jpg

写真⑨: http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daihyaku41dai.jpg

写真⑩: http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daihyaku39dai.jpg

絵画①: http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daihyaku31dai.jpg

絵画②: http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daihyaku43dai.jpg

【拙稿参照】

閔妃の写真はなかった  http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/dairokujuuhachidai

(続)閔妃の写真はなかった http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/dainanajuusandai

閔妃の写真―決着はついたはずだが‥(4)―反論2024/06/16

http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/06/11/9691981 の続きです。

 https://www.youtube.com/watch?v=4rlfLoxFHPE を見ながらお読みいただくようお願いします。 (5:30)から始めます。

今度は、この写真が若い時の明成皇后の写真だという主張が出ています。 この「マゴジャを着た興宣大院君の写真」と背景が同一ですから、大院君と王妃閔氏を同じ日に同じ場所で撮影したという主張です。

 「若い時の明成皇后」の写真というのは(写真②)http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daihyaku33dai.jpg で、また「興宣大院君の写真」というのは(写真⑧)http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daihyaku40dai.jpg です。 (5:37)に、この二つの写真が並んで掲載されています。

 見れば分かりますように、背景の垂れ幕が皺も含めて同じで、敷物も模様が同じです。 ですから同じスタジオで、カメラも同じ位置に置いたまま、人物だけを入れ替えて撮った写真と言えます。 だから大院君と閔妃は「同じ日に同じ場所で撮影したという主張」が出てきたのです。

調べてみましょうか。 1882年、軍乱を起こした軍人たちは「王妃を殺し、大院君と太平を定める」と主張します。 軍乱以降の大院君は宮殿に入り、王妃閔氏が死んだと公式発表をして権力を握りました。 そうして二ヶ月にまだなっていない時に、忠清道長湖院に隠れていた王妃が宮殿に帰り、大院君は清の軍隊によって清国に拉致されます。 それ以降、大院君と王妃閔氏は、事あるごとに対立します。 ですからこの二人が同一の空間で同時に記念写真を撮ったという主張はあり得ないことです。

 当時の大院君と閔妃の状況です。 両者は舅と嫁の間柄ですが、文字通り生死をかける激烈な対立をしていました。 これは朝鮮近代史の必須の知識です。 ですから「二人が同一の空間で同時に記念写真を撮った」というのは考えられません。

さらにこの女性の写真は、チマがシースルーです。 仔細にご覧になると、チマの中の속바지(ズボン下)が見えます。 当時の王室の写真は、外交手段として使用されたりしました。 100%盛装して撮影したのですよ。 格式のない服装は許されませんでした。 だから王妃閔氏の写真だとして流通している写真は、すべて一般人をモデルとして撮影した写真です。 現存する王妃の写真は「ない」が正解です。

 (写真②)http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daihyaku33dai.jpg の女性は、チマの中にある속바지(ズボン下)が透けて見えます。 (6:25)に写真が拡大されており、透けて見える様子が確認できます。 つまり、このチマはシースルーなのです。 王妃たる者がこんな服を着た姿を公開するなんて、あり得るのだろうかという疑問は当然です。 

さあ、今からもっと本格的な探求に入っていきましょう。  「マゴジャを着た大院君」と、そして「スルーを着た女性」の撮影者は、ピエール・ルイ・ジョイというアメリカ人です。 壬午軍乱の1年後である1883年5月、初代駐韓アメリカ公使のフットと一緒に朝鮮にやって来ました。 ジョイはアメリカのスミソニアン博物館所属の鳥類学者です。 人類学的研究と標本収集のために入国した人ですね。

1891年のスミソニアン年例報告書にジョイの研究成果が載っています。 429頁から488頁までのところに、彼が撮影し収集した写真、収集した器物写真とともに説明が挿入されています。 そして434頁と435頁の間に、人物写真が載っています。 ここにあのシースルーの女性写真が載っているのです。

 最後の「シースルーの女性写真」というのは、(写真②)http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daihyaku33dai.jpg のことです。

写真の説明はこうです。 「朝鮮の宮女(Korean Serving Woman in The Palace)の夏の服装」 「頭は宮中の女性特有の装飾がある」 「上衣はいつも白色で、チマは青色だ」  「ただ王族だけが赤い服を着ることができる」 そして写真の出所は「ピエール・ルイ・ジョイ撮影」とあります。 この報告書に載った写真8枚に「ジョイ撮影」という説明が付いています。

ところでこの写真と、清国式のマゴジャを着た大院君の写真は、背景と照明が同一です。 ですからこの大院君の写真もまた、撮影者がジョイという意味になります。 ただしこの大院君が清国式の服飾をしているために、朝鮮の民族学報告書であるスミソニアン報告書からは抜けており、今はアメリカのハーバード大学博物館に所蔵されています。

 「清国式のマゴジャを着た大院君の写真」というのは (写真⑧)http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daihyaku40dai.jpg です。 確かにこの人物が着ているマゴジャ(外套)は朝鮮風ではなく、中国風のものです。 だから朝鮮の民族学報告書に出てこないのですねえ。

 (8:36)に、(写真②)と(写真⑧)とを並べて、人物は違っても背景と照明が同じなので撮影者は同一であり、それはジョイだと論じていますが、おそらくその通りでしょう。 

大院君は壬午軍乱直後の1882年8月27日、清国軍によって天津に拉致されます。 3年後の1885年10月5日に帰国した大院君は直ぐさま高宗によって雲峴宮に幽閉され、外部と接触が禁止されました。

ジョイが朝鮮に入国した日は1883年5月です。 その年の11月に釜山に行って税関で働きながら慶尚道地域の植物と鳥類を研究します。  1886年の夏に元山に行って標本採集踏査をしたことを除外して、ジョイは慶尚道を離れたことはありません。 その年の11月にジョイは日本の横浜に渡って後、アメリカに帰国して戻って来ませんでした。

それでは、大院君の中国在留の時期とジョイの活動時期を比較してみますか? ジョイが朝鮮に来た時は大院君は中国にいて、大院君が帰ってき時はジョイは釜山にいました。 そして二人の滞在期間が重なる何ヶ月かの間、大院君は雲峴宮に幽閉されていました。 ジョイと大院君が出会う機会はなかったということです。 だから大院君の撮影は不可能なのです。

1882年9月、清国の天津で撮影した大院君の写真と比較してみると、もっと明確になります。 この写真は大院君幽閉が決定された直後、清国政府が記録として撮影した公式の写真です。 日付と場所まで確定された「本物の大院君の写真」です。

 「本物の大院君の写真」とは、(写真⑨) http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daihyaku41dai.jpg です。 この写真の右中央下のところに「高麗国大院君‥‥」と書かれています。 (11:03)にその部分が拡大されていて、読むことができます。 「本物」であるのは間違いないでしょう。

この分厚い下唇を除外すれば、目元や鼻、耳の位置、耳の様相がすべて違います。 特に耳の形は指紋と同じように、それぞれの人によって違っているので顔面認識システムに使われています。 それくらいに違います。  他人だということです。

 (写真⑧)http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daihyaku40dai.jpg と(写真⑨) http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daihyaku41dai.jpg は赤の他人ということです。 (11:07)に、両者の顔を並べて比較しています。

1880年の61歳記念の肖像画と中国で撮った写真は、これらの要素が類似しています。 反面、マゴジャを着た男と肖像画の中の大院君は、同一人物と見るのが難しいです。

「61歳記念の肖像画」というのは(絵画②)http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daihyaku43dai.jpg です。 (写真⑨) http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daihyaku41dai.jpg の顔と並べて比較したものが(11:25)にあります。 似ていると言われれば、似ていますねえ。

「マゴジャを着た男と肖像画の中の大院君」は(写真⑧)http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daihyaku40dai.jpg と(絵画②)http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daihyaku43dai.jpg で、両者の顔を並べて比較したものが(11:30)にあります。 違っていると言われれば、違っていますねえ。 (続く)

閔妃の写真―決着はついたはずだが‥(1)―中央日報 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/06/01/9689180

閔妃の写真―決着はついたはずだが‥(2)―中央日報 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/06/06/9690640

閔妃の写真―決着はついたはずだが‥(3)―反論 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/06/11/9691981

閔妃の写真―決着はついたはずだが‥(3)―反論2024/06/11

http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/06/06/9690640 の続きです。

 先に拙コラムで、韓国の『中央日報』に、〝閔妃の写真は存在し、日本がそれを宮女の写真であるかのように変造した″というコラム記事が載ったことを紹介しました。 これを厳しく批判する「땅의 역사(地の歴史)」というユーチューブがありましたので、紹介します。  https://www.youtube.com/watch?v=4rlfLoxFHPE 

怪談ばかり(5) [パク・ジョンインの地の歴史]188 シースルーの女が閔妃で、マゴジャの男が大院君だと?

 原文は「괴담 종족(5) [박종인의 땅의 역사] 188 시스루 여자가 민비고 마고자 남자가 대원군이라고?」となります。 「종족」は漢字語で「種族」ですが、それでは日本語として意味が通りませんので「ばかり」としました。 「マゴジャ」はチョゴリの上に着る外套のことで、「マゴジャ」とそのまま書き表しました。

 このユーチューブには日本語版がありませんので、聞き取りしながら翻訳しました。 全訳ではなく、主要部分の翻訳です。 全体の8割くらいですかねえ。 また映像では写真がかなり出てくるのですが、その映像から写真自体を選び出してコピーすることはできませんでした。 そこで同じ写真を探し出してきて、リンクを適宜に貼り付けました。 

 映像ではちょっと前置きがあって、(0:55)から始まります。

みなさん、こんにちは。 地の歴史、パク・ジョンインです。 今日のお題は、「シースルーの女が閔妃であり、マゴジャの男は大院君だと?」です。

高宗の妃である閔妃氏は、問題のある人物です。 彼女を明成皇后と呼べば民族的だといい、閔妃と呼べば親日的だと言ったりします。 今日は中間の立場を取って、「王妃閔氏」と呼びましょう。 名前が「閔玆暎」だという言う人がいますが、「閔玆暎」という人物は小説家がつけた名前です。 

 「閔妃」のウィキペディアでは本名として「閔玆暎」が出てきます。 しかし李朝時代の朝鮮の女性は賤民でなければ名前がありません。 従って「閔玆暎」はあり得ないと思っていたところ、小説家がつけた名前だそうで、これで納得。 近年にフィクションとして付けられた名前ということです。 しかし韓国ではこれが歴史事実として定着しつつあるようです。

さあ、これから写真の話をします。 何年か前までは、写真が王妃閔氏の写真だとして、国史教科書に載っていました。 かんざしを挿した形式と服飾が王室の女性に当たるという考証が出てきて、この写真は一時王妃閔氏の写真として確定されました。 しかし王妃の可能性がないという主張が力を得て、この写真は教科書から削除されましたね。 ところがまだ市中には、この写真が明成皇后の写真だということで通っています。

 ここでいう「写真」とは、(写真⑦)http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daihyaku38dai.jpg のことです。 映像では(2:52)のところで出てきます。

 「明成皇后」は閔妃の追号です。 「明成皇后」「閔妃」「王妃閔氏」は同一人物になります。

このように一度事実だと固まってしまえば、それを否定することは容易くありません。 またかつてはこの写真の女性が王妃閔氏だという主張が提起されました。 ところがこの主張は激烈な学界の論争の末に王妃ではないということで結論が出て、姿を消していました。 しかし一般大衆の相当数は相変わらず、これらの写真を「明成皇后」として受け入れているのですね。

 (写真②)http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daihyaku33dai.jpg と上記の(写真⑦)の二枚が「閔妃の写真」とされているのです。 映像では(3:39)に出てきます。

イタリア外交官のカルロ・ロジェシティーという人が書いた『コレア コレアニ』(1904)という本があります。 翻訳本も出ています。 この翻訳本の272頁に、この写真があります。 写真の説明は「宮中の身なりをした宮殿の女性」です。

 これは(写真④)http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daihyaku35dai.jpg です。 (3:57)に出てきます。 (写真④)と(写真⑦)は背景が全然違います。 しかし人物の女性だけを見ると頭の先から足の先まで、服の皺も色も影も含めて全く同一です。 ということは人物の部分だけを切り取って、別々の背景にはめ込んだのでないかという推測が成り立ちます。

ところで277頁には「キーセンの衣服 一組」という説明とともに、この写真が載っています。

(写真⑥)http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daihyaku37dai.jpg (4:07)です。

この写真⑦とこの写真⑥を合成すれば、王妃閔氏の写真とされるこの写真④が出てきます。 この写真④の中の敷物の前の方にある足が、不自然に浮いているのが見えます。 また右側のカーテン、左側の色とりどりの長衣、後ろ側の冊架の配置は、人物のいないこの写真⑥と同一です。

 (写真④)を見れば、確かに左足(向かって右側の足)は浮いているように見えます。 (4:19)にその部分写真があります。 そして(写真④)の背景と(写真⑥)とは、カーテン、敷物、衣服、置物などの位置・模様・皺・影に至るまで全く一致しています。 (4:31)

 ということは、(写真⑦)の女性の全身をきれいに切り取って(写真⑥)にはめ込み、(写真④)の合成写真を作った、だから(写真④)の女性の左足が浮き上がっているように見える、ということで間違いないと思われます。

(写真④)http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daihyaku35dai.jpg

(写真⑥)http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daihyaku37dai.jpg 

(写真⑦)http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daihyaku38dai.jpg 

 なお「冊架」とは本棚のことで、これを描いた絵が「冊架図」です。 李朝時代には屏風にこのような絵を描いて飾ったようです。 この絵が撮影スタジオにセットされていたと思われます。 

1900年、朝鮮政府が代表団を派遣したパリ万国博覧会に、駐韓フランス公使館が「ソウルの記念品」という小冊子を出品します。 ここに、背景のないこの写真が載っています。表題は「宮殿の女性」です。 モデルが王妃なら、高宗が「宮殿の女性」という説明を許すはずがないでしょう。 この背景のない写真が「朝鮮の王妃」あるいは「宮女」という食い違った説明をつけて西欧のマスコミに載ります。

   「この写真」「背景のないこの写真」とは、(写真⑦)のことです。 (4:45) 

朝鮮に対する関心が大きく増えていた時点です。 西欧の記者たちは朝鮮に関する記事を書きながら、「商業的に流通していた写真」を記事の脈略に合わせて挿入したものなのです。 これらの写真の女性は、王妃とは全く関係がありません。 それこそ対価をもらってモデルとなった一般の人であるに過ぎないのです。

 当時、朝鮮旅行の土産物として写真帳や絵葉書が売られていたのですが、西欧の記者は朝鮮を紹介する記事の挿図にこの写真を使ったのです。 だから「商業的に流通していた写真」という言葉が出てくるのです。 写真のモデルは「対価をもらってモデルとなった一般の人」とありますが、当時の朝鮮社会からすると、おそらく妓生(キーセン)ではないかと思われます。 (続く)

閔妃の写真―決着はついたはずだが‥(1)―中央日報 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/06/01/9689180

閔妃の写真―決着はついたはずだが‥(2)―中央日報 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/06/06/9690640

【追記】

 「閔妃」はウィキペディアでは本名として「閔玆暎」となっていますが、これはどうやら鄭飛石という小説家が作った名前のようです。 朝鮮の歴史上の有名女性に「本名」があったなんて最近になって出てきたことで、これが小説だという説明には、成程そうだろうと思います。

 同じく李朝時代の有名女性詩人である「許蘭雪軒」は雅号ですが、ウィキペディアによれば「許楚姫」という本名があったとされています。 しかし李朝時代の歴史では、どの歴史を読んでも当時の朝鮮の女性は名前がなかったとなっています。 もしあったとすれば幼名か通称名などと考えられます。 「許楚姫」なる名前は根拠となる歴史資料が見当たらず、やはり小説とかドラマとかで創られたものではないかと思うのですが、どうなんでしょうね。 

【追記】

 許蘭雪軒の名が「楚姫」だとする資料は、弟の許筠の『惺所覆瓿藁』という詩文集にあるようです。 もしそうなら、家族間だけで使われていた幼名の可能性があります。 (6月15日記)

【参考―李朝時代の女性に名前がない】

かつて朝鮮人女性には名前がなかった http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2018/12/13/9011386

李朝時代に女性は名前がなかったのか   http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2016/02/29/8033782

李朝時代に女性は名前がなかったのか(2)http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2016/03/23/8055612

李朝時代に女性は名前がなかったのか(3)http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2016/04/01/8061795

李朝時代の婢には名前がある       http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2016/03/19/8053165

許蘭雪軒・申師任堂の「本名」とは?   http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2016/03/31/8060665

李朝時代に女性は名前がなかったのか(4)http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2016/05/04/8083000

名前を忌避する韓国の女性        http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2016/03/10/8043916

閔妃の写真―決着はついたはずだが‥(2)―中央日報2024/06/06

http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/06/01/9689180 の続きです。

服飾専門家のC氏は(写真②)の顔の化粧と頭部装飾の떨잠(かんざし)に注目した。 顔の様子で、遠い山を描くように眉を吊り上げて描く化粧技法は遠山黛として貴い身分の女性だけがすることのできるもの、そして頭のかんざしは尚宮くらいの身分ではすることができないものだと言った。(朝鮮日報 シン・ヒョンジュン記者のブログ)(写真②)と(写真⑤)の下半身の姿勢が似ていることも見逃してはならない。 王妃の写真論争で、ある人は王妃がどうして脚を広げることができるのかと言い張った。 反対に見なければならない問題だ。 (写真①)の王や大院君の色んな写真で見るように、王室の人は一様に脚を揃えていない姿勢である。

写真①: http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daihyaku32dai.jpg

写真②: http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daihyaku33dai.jpg

写真⑤: http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daihyaku36dai.jpg

 떨잠は豪華な装飾が付くかんざしです。 身分の高い人だけでなく、高級妓生もつけていたように思うのですが‥‥。 また王妃が脚を広げるかどうかについて、これは何とも分かりません。 ただ朝鮮の女性は、裾が大きく広がるチマを穿いている関係で、脚を広げる或いは胡坐をかくことに違和感はないようです。 その点は、日本では女性が脚を広げることをはしたないと感じるのと感性が違います。 しかし朝鮮の王妃が脚を広げることについては、資料が見つかりませんでした。  

(写真④)は、10年後の1904年にイタリア外交官カルロ・ロゼッティの『韓国と韓国人』 に載ったもので「礼服姿の宮中貴婦人」という説明が付いた。 時系列上、撮影者は日清戦争開戦前後に王室を訪問したフランクGカーペンターだけである。 1894年頃に撮影されたものだという話だ。 問題の(写真⑤)は、この写真の背景を消して変造したものである。 この写真の背景は「宮女」または「尚宮」がいる空間では決してない。 「宮女」の写真として作ろうとするなら、品格があふれるその背景を消せねばならなかった。

写真④: http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daihyaku35dai.jpg 

写真⑤: http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daihyaku36dai.jpg 

 最後の「『宮女』の写真として作ろうとするなら、品格があふれるその背景を消せねばならなかった」というところは、パク・ジョンインさんという歴史家が厳しく批判しています。 この批判は、次回に掲載します。

フランク・カーペンターの記事は、日本側の影響が漂っている。 戦争の広報雑誌の代表格である『風俗画報』(東陽堂)10月28日付けの第1回「日清戦争図絵 臨時増刊号」に載った幾つかの文章は、清国の陰で虐政を行なう王妃閔氏の勢力除去の必要性を何度も強調している。 王妃閔氏が金玉均殺害の主体であり、東学農民軍蜂起の原因だと言っている。 カーペンターの記事はこの日本の論調をそのまま引き写したような感じである。 何か間違って聞いたのか、閔氏の権勢が朝鮮王朝開創時から始まったと書いてもいる。 東京で外国記者が日本側の取り締まりを受けたとする以外に考えられない内容だ。 2年前のド・ゲルヴェルの文章とは全く違う。

 ここで論者の考え方が分かりますね。 外国人の記事でも自分にとって都合の悪いことを書いておれば〝日本から圧力を受けて歪曲した″、都合のいいことがあれば〝真実を書いている″、という論理展開です。

1894年7月23日0時からの日本軍の景福宮侵入は、王妃が東アジア混乱の元凶として殺害しようとした作戦ではなかったのか? この殺害陰謀に深く関わった「国民新聞」は、作戦失敗のために関連記事が不発となってしまい、それまで準備しておいた「宮女」挿画を知らず知らずに出してしまったという「編集事故」を起こしたのではないか?

 ここは論者の根拠ない憶測が続くところで、記事では「?」マークを付けています。 酒席の与太話ではなく、有名な歴史家が広く公開されることを前提に書いていますから、ビックリですね。

王妃の写真は、1895年10月8日朝、8人の将校が率いる46人の壮士が乾清宮で王妃を弑逆した時に、実際に確認用として使用された。 「国民新聞」が誤報として出した「宮女」フレームは日露戦争後に真実として固定した。 彼らは弑逆後、王妃写真が抗日闘争の核心材料となることを憂慮した。 明白な反人倫の二次加害行為だ。 王妃の写真の真偽論争は、そのフレームに凝り固まった消耗的行為に感じられて悲しい。

 閔妃暗殺事件の際に、殺害者の日本人たちが閔妃の写真を持って行ったという話はもう否定されたと思っていたのですが、ここでまた復活しています。 そして論者によると、日本はその写真が抗日闘争の材料になるのを恐れて改竄したと主張しています。 それは「明白な反人倫の二次加害行為」だそうです。 そして王妃写真の真偽を論争することは「消耗的行為」だそうです。 歴史を論じるのに根拠のないことを並べ立てて、このような抽象表現をすることはプロパガンダでしかありません。 歴史研究者のすべきことではないでしょう。

李泰鎮 ソウル大学教授。 学術院会員。 診断学会会長、歴史学会会長、学術団体連合会会長、国史編纂委員長等を歴任した。 著書として『高宗時代の再照明』『東京大生に聞かせる韓国史』など多数ある。

 論者の李さんは韓国の歴史学界の重鎮なのですが、今回発表された論考を読むと、研究者としてかなりの疑問を抱かざるを得ない方ですねえ。 

 この『中央日報』の記事に対する反論が、韓国のユーチューブに出ました。 次回はこの反論を紹介したいと思います。 (続く)

【挿図写真・絵画の一覧】

写真①: http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daihyaku32dai.jpg

写真②: http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daihyaku33dai.jpg

写真③: http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daihyaku34dai.jpg

写真④: http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daihyaku35dai.jpg

写真⑤: http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daihyaku36dai.jpg

絵画①: http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daihyaku31dai.jpg

【拙稿参照】

閔妃の写真はなかった  http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/dairokujuuhachidai

(続)閔妃の写真はなかった http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/dainanajuusandai

閔妃の写真―決着はついたはずだが‥(1)―中央日報2024/06/01

 閔妃の写真の真偽や存否について、韓国ではかつて論争がありました。 私も関心があって、20年ほど前に拙HPで書いたことがあります。 http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/dairokujuuhachidai      http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/dainanajuusandai

 結局、閔妃の写真は存在しないで決着したものと思っていました。 ところが韓国紙の『中央日報』2024年4月6日付けで、〝閔妃の写真は存在したのに日本がその写真を変造して、閔妃を「宮女」にしてしまった″という記事が出ました。 https://www.joongang.co.kr/article/25240631

 論争をまた蒸し返すつもりなのでしょうが、どのような主張なのか気になります。 日本語訳が出ていないの、ここで訳してみました。 

抗日闘争触発を憂慮、王妃の写真を宮女に変身させた 王妃弑逆事件の真実

王妃閔氏(明成皇后)を弑逆した日本人たちは、殺害現場で確認用に使用した写真に「宮女」という名前をつけて流布した。 「宮女」のフレームは今日に至るまで、王妃の写真の真偽論争を巻き起こし、百家争鳴の中、王妃の写真不在論まで登場させた。 なぜそうなったのか、調べてみよう。

1892年11月、フランス系アメリカ人記者であるA.B.ド・ゲルヴェルが朝鮮に入国した。 1893年にシカゴで開かれた万国博覧会の広報大使の資格であった。 記者はアメリカの公使館を通して乾清宮(景福宮内)で王と皇太子に謁見し、王妃が参席するなかで広報映像を回した。 帰国後、フランスの有名な写真雑誌『フィガロ・イリュストレ』1983年9月号に、謁見と放映のいろんな事を「朝鮮の李王家(Yi, Roi de Coree)」欄に文章を載せた。

ド・ゲルヴェルは「マジック・ランタン(幻灯機)」で、200枚にもなる場面をスクリーンに映した。 ワシントンのホワイトハウス、シカゴのビル、ナイアガラの滝、鉄道施設、そして博覧会場の大きな建物が次々に出た。 王妃は慣例により御簾の後ろに座っていた。 最初の写真が映ると、そっちの方でざわめく気配がして、二番目の映像が映ると王妃は我慢できずに前に出て来て、写真について「数千の」質問を浴びせた。 近代文明の「魔術の灯火」が朝鮮の王妃の心をとらえた。 乾清宮では、アメリカのエジソン照明会社と契約して1887年に電灯が点くようになったが、幻灯機に移るアメリカの風景は初めてであった。

ド・ゲルヴェルは王室の人たちに好評であった。王は白い顔に聡明さと優しさを漂わせ、すべての政事を直接処理するのに優れ、勤勉な王様として定評が出ているとした。 この部分で、王の夜行性の業務スタイルが出てくる。 王は暗殺を恐れて、大臣たちと一番熱心に働く時間は夕方6時から朝6時までで、昼は休息を取るという。 最近、ある総選挙出馬者が歴史上の人物たちを性的な陰口の材料にし、高宗の「夜の宴会」を主張したことがあるが、とんでもない主張であることはこのアメリカ人記者の証言でも知ることができる。

 最後の部分は、民主党のキム・ジュンヒョク候補がかつてユーチューブで、〝高宗は女に目がなく毎晩パーティをして、これが国を滅ぼした″と発言していたことについて、〝王室の冒瀆″〝歴史の歪曲″と批判されたことを指すようです。

ド・ゲルヴェルは、また王妃は背が低く、きれいな顔立ちだったと言う。彼女は非常に聡明に見えて、王の国政を助けているという記憶を思い出していると書いた。 ド・ゲルヴェルの文章に、王と皇太子が一緒になった(写真①)と、王妃の(写真②)が載った。それぞれ「李氏、王と皇太子」「閔氏、王妃」というキャプションが付いている。 王はこれ以前に写真機の前に立ったことがあるが、王妃は初めてだった。 朝鮮王朝は歴代の王の姿を御真(御真影を描いた絵の額)に入れたが、王妃にはこの伝統が適用されなかった。 最初の王妃の姿の公開であった。 文明の衝撃がもたらした変革であった。 

写真①:http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daihyaku32dai.jpg

写真②:http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daihyaku33dai.jpg

1894年7月31日付けで、日本の東京で発行された「国民新聞」に「宮女」というキャプションが付いた挿図が載った。(絵画①) 新聞の創刊者である徳富蘇峰はもともと自由民権運動家だった。 1890年、明治天皇の「教育勅語」頒布で天皇制国家主義が大勢を占めるや、これに合わせて新聞を創刊し、国粋主義の拡大に一翼を担った。 外務省の財政支援を受け、ソウルに支社として「漢城新報」を創設することあった。 この新聞社の記者たちが王妃弑逆に加担したことは、よく知られている事実だ。 日清戦争が起きてから6日目になる日に載った挿画「宮女」と関連する記事は、紙面のどこにも探すことができない。 編集事故なのか? 見て描いた原画写真を追跡してみる。

絵画①: http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daihyaku31dai.jpg

ニューヨーク発行『ディモリスト ファミリー マガジン』1894年11月号の表紙に「王妃の尚宮」の写真が載った。(写真⑤) 国民新聞の「宮女」挿画より3ヶ月後だ。 アメリカ人ジャーナリストのフランクGカーペンターが、この年の夏に日本を経て、戦場となったソウルに来て、王と皇太子にインタビューした記事に関連する写真である。 写真の主人公の姿は、挿画「宮女」と服装が似ていて、原画である素地がある。 身分を宮女のうちの最上位である「尚宮」に替えたことが何か変である。 一般的な宮女の実際の姿は(写真③)のようだ。 先の「宮女」や「尚宮」とは雰囲気がまったく違う。 宮中で侍る宮女が椅子に座っているのは、とんでもないことだ。

写真③: http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daihyaku34dai.jpg

写真⑤: http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daihyaku36dai.jpg

 最後のところで「宮中で侍る宮女が椅子に座っているのは、とんでもないことだ」とありますが、写真撮影場所はおそらく宮中ではなく、写真屋さん(当時は〝写真館″とか言われていました)にあるスタジオだと思うのですがねえ。

(写真⑤)で注目すべきことは、頭の装飾のトグジ(かつら)が(写真③)の宮女のものよりはるかに大きく、品位があるように見える点である。 トグジの下で横に挿している二つのかんざしも注目すべきものだ。 二つのかんざしは、朝鮮の地で王妃以外には誰も使用できない装飾である。 1894年12月22日、井上馨公使が王に謁見した場面の絵にも、同席した王妃はトクジを被り、かんざし二つを挿していた。(2024.2.3. 「近現代史特講」) 「尚宮」ではなく王妃の写真であることが確実である。

同じ王妃の写真で、(写真②)と(写真⑤)の関係はどうか? (写真②)は편복(普段着)の姿、(写真⑤)は礼服の姿で区分される。 顔の様子がどこか違って見えるのは、化粧のためだという解釈が出ている。 2007年7月24日の聯合ニュースは、アメリカLAで英国人収集者のテリー・ベネット氏所蔵の朝鮮王室人物写真4点が公開されたと報道した。 ド・ゲルヴェル記者の文に載った(写真①)と(写真②)に大院君の写真2点が加わった4点である。 (写真②)には、ドイツ語で「殺害された王妃」という説明が筆記体で書かれている。

写真①: http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daihyaku32dai.jpg

写真②: http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daihyaku33dai.jpg

写真⑤: http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daihyaku36dai.jpg      

 記事は、写真②を王妃の「편복」姿としています。 これは漢字で「便服」と書くもので、日常の普段着というような意味です。 王妃たる者が普段着姿を公開するものなのでしょうかねえ。 世界各国の人が見るものなのですがねえ。(続く)

この世はすべて金―北朝鮮2024/05/25

 もう50年も前ですが、明治大正時代の演歌師、添田唖蝉坊の「ああ金の世」の歌がリバイバルして流行ったことがありました。 流行ったと言っても、一部のことでしたが‥‥。 歌詞は次のようです。

  ああ金の世や 金の世や 地獄の沙汰も金次第

  笑うも金よ 泣くも金 一も二も金 三も金

  親子のなかを割くも金 夫婦の縁を切るも金

  強欲非道と譏(そし)ろうが 我利我利亡者と罵(ののし)ろうが

  痛く痒くもあるものか 金になりさえすればいい

  人の難儀や迷惑に 遠慮していちゃ身が立たぬ

https://www.youtube.com/watch?v=nUPs-IZdv5E  唖蝉坊がこの歌を作ったのは明治39年(1906)で、当時勃興しつつあった資本主義を皮肉るものです。 

 1970年代に朝鮮総連の方と話をした時に、当時流行っていたこの「添田唖蝉坊 ああ金の世」を紹介したことがありました。 そうしたら彼は 〝資本主義は本当に酷いし腐っています。 しかし北朝鮮では税金はなく、教育も医療も無料、お金の心配をせずに暮らせます″と答えてくれました。 その時は私も社会主義に幻想を抱いていましたから、北朝鮮はそういうものかなあと感激して聞き入ったものでした。

 それから何年か経って、在日朝鮮人が北朝鮮に一時帰国することができるようになりました。 その多くは、1960年前後に北に帰国して生活している家族を訪ねるものでした。 又聞きのそのまた又聞きなのですが、ある在日朝鮮人が北にいる息子を訪ねた時の話です。

 その在日は上述した「ああ金の世」に出てくるような我利我利亡者の典型的な人で、〝金がすべて″〝人間は裏切るが、金は裏切らない″と周囲に言って憚りませんでした。 朝鮮総連含めて周囲の人は、あんな人でも北朝鮮に行けば金より大事なものがあることに気付き、我利我利亡者も改まるだろうと期待したのでした。 

ところが彼は日本に帰ってくるや、〝北でもやはり金がすべてだった、金さえあれば何でもできる″と公言したのです。 息子のために普通ならあり得ないようなこと(労働党党員になるとか平壌に移住するとかのための賄賂)に多額のお金を使ったのでした。 彼は北に行って、〝倫理道徳よりも金″という我利我利亡者の正しさを改めて確認した、というお話でした。 私にとっては遠い所で流れていた噂話で、当時はウソなんだろうと思って聞いていました。

 それから何年かして東欧・ソ連の社会主義が崩壊して、私は北朝鮮への幻想がなくなりました。 だからあの我利我利亡者の在日の話について、あり得ないことだからと忘れてかけていたのに、実は本当だったとして思い出したわけです。 北朝鮮は〝我利我利亡者でないと生きていけない″ 〝金がすべて″ 〝倫理道徳より金の国″であると、今でははっきり言えるようになりましたね。

 100年前の添田唖蝉坊「ああ金の世」は、今の北朝鮮でこそ言い当てています。

 なお北朝鮮では内貨である北朝鮮ウォンの信用性が全くありませんので、お金といえば外貨の中国元かアメリカドル、日本円になります。

【拙稿参照】

在日朝鮮人が話す北朝鮮      http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/12/19/9643754

北朝鮮には税金がない、その代わり‥‥http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/02/18/9660183

脱北して戻ってきた在日      http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/02/25/9662215

核問題は北朝鮮に理がある―金時鐘氏 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/01/23/9653071

小松川事件は北朝鮮帰国運動に拍車をかけた https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/12/02/9639109

朝鮮民主主義人民共和国の正統性は何か? http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/11/21/9636056

朝鮮総連幹部らには月3万円の教育費支給 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/10/24/9627897

『労働新聞』の論説―朝鮮戦争70周年(1) https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/07/27/9605137

『労働新聞』の論説―朝鮮戦争70周年(2) https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/07/31/9606151

『労働新聞』の論説―朝鮮戦争70周年(3) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/08/04/9607167

『労働新聞』の論説―朝鮮戦争70周年(4) https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/08/08/9608146

『労働新聞』の論説―朝鮮戦争70周年(5) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/08/12/9609128

今日は「太陽節」-朝鮮総連に教育費2億7千万円 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/04/15/9577360

北朝鮮の「갓끈 전술(帽子の紐 戦術)」 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2019/01/08/9022748

「朝鮮半島の非核化」は「北朝鮮の非核化」とは違うのでは? http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2018/03/08/8799658

「島国夷」とは?     http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2017/09/16/8677666

北朝鮮の核開発の目的   http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2017/09/07/8671910

自主的、民主的、平和的統一       http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2012/04/22/6421457

南朝鮮解放路線はまだ第一段階      http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2013/03/30/6762019

北朝鮮を甘く見るな!(1)        http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2014/07/23/7395972

北朝鮮を甘く見るな!(2)        http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2014/07/28/7400055

北朝鮮を甘く見るな!(3)        http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2014/08/02/7404064

北朝鮮が崩壊しないわけ         http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2007/08/04/1701479

北朝鮮の百トン貨車           http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2007/08/11/1716894

『写真と絵で見る北朝鮮現代史』     http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2011/02/06/5665262

韓国と北朝鮮の歴史観が一致する!!   http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2011/02/10/5675477

白い米と肉のスープ           http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2011/02/14/5680393

韓国の北朝鮮研究            http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2011/02/22/5698027

1970年代の北朝鮮=総連の手口     http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2011/11/12/6199653

先軍政治は改革開放を否定するもの    http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2011/12/23/6256776

金正日急死への疑問           http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2012/01/15/6293047

日韓歴史共同研究委員会の回想―北岡伸一と木村幹2024/05/18

http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/05/11/9683297 の続きです。

同じテーブルに着かなければ、日韓それぞれのナショナリストが、それぞれの国の新聞や雑誌で気勢をあげるだけで、両国関係はますます悪くなる。 特に日本にとって隣国・韓国との関係悪化は外交全般の阻害要因になる。 同じテーブルに着きさえすれば、お互い学者としての学術マナーは心得ているから、あまり極端なことは言えない。 相手の見解を直接、見聞きする機会を得て、さらに知りたい気持ちになるかも知れない。  こうした歴史共同研究について、成果がなかったと言う人は、ナショナリズムの激しさと危うさ、そしてこれに一定の枠をはめうる学問の力が全くわかっていない人である。 (193頁)

当時の日韓間では、両論併記というか、お互いの立場を言い合うくらいがせいぜいだと思っていた。 まずは議論のこうした枠組みが大事なのである。 ‥‥ 相手の非を声高に批判するのではなく、自らの立場を静かに守り、説く態度が望ましいと思っている。 (193頁)

 歴史研究はナショナリズムと結びつきやすいので、「相手の非を声高に批判するのではなく、自らの立場を静かに守り、説く態度が望ましい」は、日韓歴史共同研究に臨む姿勢として正しいですね。 ただ韓国側がそれを理解し、その姿勢を維持したのか疑問ですが。 結局は、歴史共同研究は両論併記で終わったようです。 

その後に開かれた第2期の歴史共同研究に私は参加していないが、残念ながらうまくいかなかったらしい。 その最大の理由は、教科書問題を取り上げたことだと私は考えている。 韓国の教科書は「国定」(当時)、日本は民間会社が編集した教科書の内容を文部科学省が検定するという違いがあって、教科書の役割についての相互理解が難しい。 教科書問題を取り上げればあらゆる論点について相手を批判し合い、パンドラの箱を開けることになると予想していた。 (193頁)

 北岡さんは共同研究の教科書小グループには加わらなかったですが、これに参加した木村幹さんが『韓国愛憎』という本の中で触れています。 共同研究で教科書問題がどのように扱われたか、この本から引用・紹介します。

第二期日韓共同歴史研究の委員は、その多くが日韓両国の歴史意識を代弁する傾向を強くし、勢い各委員会の議論も対立的なものとならざるを得なかった。 全体会合でも。両者は明らかに警戒し、ピリピリとした雰囲気が流れていた。  この緊張感のなか、私が委員として所属していた教科書小グループは、歴史教科書の記述を検討するために新たに設置され、その議論が両国教科書の歴史記述に反映される可能性のあるものとして、メディアでも注目を集めていた。 (木村幹『韓国愛憎』中公新書 2022年1月 106頁)

会議の雰囲気は回数を重ねるごとに険悪なものとなっていった。 とりわけ日本側「教科書小グループ」の代表だった古田(博司)先生の発言に対する韓国側委員の反発は強かった。 ついには2009年11月17日、ソウルで行われた13回目の会合で、韓国側の委員たちが、ボイコットを表明する事態にまで発展した。 彼らは「前近代の朝鮮半島には染色の技術はなかった」などといった発言を繰り返し行なう古田先生の謝罪なくしては、会議に応じることはできないと主張したのだ。

結局、この問題は、日本側があらかじめ用意し、韓国側の了承を取り付けた「遺憾の意」を示す文章を古田先生が読み上げることで、「とりあえず」解決したが、その後も韓国側には日本側に対する不信感が残り続けた。 不満を持ったのは古田先生も同様であり、彼はこの事件後、会議には参加しなくなった。 (以上 木村幹『韓国愛憎』107~108頁)

 古田博司さんはかつて嫌韓雑誌などによく投稿されていましたが、最近はとんと見なくなりましたねえ。 古田さんは18年前ですが、ある雑誌の座談会で韓国の歴史研究について語ったことがあります。 拙HPでも取り上げたことがありますので、お読みいただければ幸甚。 http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daikyuujuuichidai

第二期日韓歴史共同研究への参加で実感したのは、日韓の研究者の歴史に対する姿勢の相違だった。

日本の研究者は、歴史学者が大半を占めたこともあり、歴史事実に対して詳細かつ専門的に議論する一方で、その事実がいかに評価されるべきかについては、よく言えば無頓着、悪く言えば乱暴に議論する傾向があった。

対して韓国の研究者は、個々の歴史的事実の詳細よりも、それがどのように評価されるべきかについて関心を向ける傾向が強く、歴史的事実の詳細については、時に無頓着、あるいは乱暴に対処することがあった。

そして重要なのは、両国の歴史学者たちが自らの歴史研究のあり方こそが「唯一正しい」、つまりあるべき歴史学の姿だと固く信じているように見えたことだった。 こうして私は日韓歴史共同研究でも‥‥何が「正しい」学問であるかにこだわり、これにアイデンティティを見出す人々の間に置かれて疲弊することになった。  ただ粛々と研究を進めればいいのに、皆、どうして「正しい」学問が何であるのかにこだわるのだろう、と思わざるを得なかった。

この第二期日韓共同歴史研究は、五回の合同会議、六〇回に及ぶ各分科会・グループの会合を経て2009年11月に終了した。 日韓の研究者の議論は最後までまったく噛み合わず、2010年3月、両論併記の報告書だけが発表された。 (以上 『韓国愛憎』113~114頁)

 日本の歴史研究は、歴史というのは歴史事実の積み重ねだから、歴史資料の緻密な検証する〝実証研究″こそが一番大事なのだ、という考えですね。 対して韓国の歴史研究は、あるべき歴史像があり、それを明らかにするために歴史資料を検証するものだ、ということになります。 ですから日本側からは韓国は実証を軽視しているという批判になり、韓国側からは日本は歴史の評価なくして実証ばかり言っているという批判になるのですねえ。

 拙HPでは http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daijuurokudai で日韓の歴史研究の姿勢の違いについて論じたことがあります。 また拙ブログ http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2014/01/04/7176749 で共同研究の韓国側であった鄭在貞さんについて論じました。 お読みいただければ幸甚。  (終わり)

【古田博司さんの著作に関する拙稿】

『醜いが、目をそらすな、隣国・韓国!』(1) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2014/03/15/7245000

『醜いが、目をそらすな、隣国・韓国!』(2) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2014/03/19/7248342

『醜いが、目をそらすな、隣国・韓国!』(3) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2014/03/21/7250136

『醜いが、目をそらすな、隣国・韓国!』(4) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2014/03/26/7254093

『醜いが、目をそらすな、隣国・韓国!』(5) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2014/03/29/7261186

『醜いが、目をそらすな、隣国・韓国!』(6) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2014/04/01/7263575

『醜いが、目をそらすな、隣国・韓国!』(7) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2014/04/05/7266767

『醜いが、目をそらすな、隣国・韓国!』(8) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2014/04/09/7270572

『醜いが、目をそらすな、隣国・韓国!』(9)http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2014/04/14/7274402

『醜いが、目をそらすな、隣国・韓国!』(10)http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2014/04/20/7289374

朝鮮研究の将来は危機的-古田博司   http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2013/12/23/7145744

日韓歴史共同研究委員会の回想―北岡伸一2024/05/11

 『中央公論』2024年5月号に、政治・歴史学者の北岡伸一さんの「東大に戻り、授業と歴史問題に取り組む」と題する文章が掲載されています。 これまでの研究活動の回想文ですが、そのうち日韓歴史共同研究の部分が私には関心のあるところで、興味深いものでした。 それを紹介しながら、私の感想を挟みます。

私は日中、日韓それぞれの歴史共同研究に携わった。‥‥ 日韓歴史共同研究は、2002年から05年にかけて行われた第1期と、07年から10年までの第2期がある。 私は‥‥語れるのは第1期のうち、直接関わった近現代史の分科会だけである。 しかし、研究全体の企画立案の携わったこともあり、自分自身の経験について述べておくことには意味があると考える。 (188頁)

私が韓国の研究者と初めて接触して歴史の話をしたのは、大学院に在籍していた1973~74年頃、国会図書館の憲政資料室で現資料を読んでいた時である。 Kさんという方が熱心に斎藤実(海軍大将、朝鮮総督)の資料を読んでおられた。 ふとしたきっかけで会話が始まると、「貨車一杯の資料を読んだ」と言う。 そして斎藤総督時代の統治がいかに悪辣だったかという話ばかりする。 斎藤時代はそれより前と比べて、日本の統治がやや柔軟化した時期として知られているが、「それは擬態であって、より悪辣なものだ」「家畜を太らせてから食べるのと同じだ」と言う。 「貨車一杯」という誇張と、一つの次元からしか物事を見ない主張に、辟易したものであった。 (188頁)

 北岡さんが辟易したという「一つの次元からしか物事を見ない主張」は韓国人研究者Kさんのことです。 これを読んで私が思い出すには、昔の日本の歴史研究者にも同じような人がいました。 人類の歴史は階級闘争の歴史であり、それを明らかにすることが我々歴史研究者の使命でなければならないということでした。 一つのイデオロギーに染まって、そのイデオロギーを証明するための歴史研究となるわけです。

 韓国人研究者Kさんも 〝日帝植民地支配は悪辣・非道だ″という歴史像=イデオロギーが先にあって、それを明らかにするために歴史資料を渉猟していたのだろうと思われます。 そういう人と会話する時、同じイデオロギーを持つ人には心地よいでしょうが、そうでない人には確かに「辟易」するでしょうね。

問題は共同研究の枠組みだった。 韓国の主流派と日本の左派が一緒にやれば、合意はできるだろうが、日本の一般国民に受け入れられる見込みはない。 逆に、韓国の親日派(あまりいないが)と日本の主流派が一緒にやれば、たとえ合意できても韓国の一般国民が受け入れ入れるはずがない。 しかし、まったくの民間どうしで政府に何のつながりもなければ、共同研究の意味がない。そこで、学者の自由な議論の場を作るが、無理な合意はめざさず、この議論を政府が支援する、という「支援委員会」方式を考えた。 (189頁)

 「韓国の主流派と日本の左派が一緒にやれば、合意はできるだろうが」というところは、正にその通りです。 日本の歴史研究では、戦前の軍国主義はどれほどの悪であったか、そんな軍国主義国家を批判しなかったような者もすべて悪だ、というような勇ましいことを言う左派が大手を振っていましたからねえ。 今でもそれが続いているようです。 当然、朝鮮植民地支配の悪辣さも強調しますから、韓国の主流派と意気投合することになります。 ただこれが「日本の一般国民に受け入れられる見込みはない」とするのはどうでしょうか。 日本のマスコミの多数はこれを受け入れていると思われるからです。

 日本の左派研究者については、拙ブログでは http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2018/05/13/8850175  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2018/04/18/8828880  で論じたことがありますので、お読みいただければ幸甚。

 日韓歴史共同研究において「支援委員会」方式を取った理由については、なるほどと考えます。

日韓歴史共同研究委員会は2001年10月の日韓首脳の合意にもとづいて設立され、翌02年5月第1回会合がソウルで開かれた。‥‥ 現代の日韓関係に影を落としているという点では、何といっても近現代の扱いが焦点だった。 このため、近現代には他の分科会より多くの委員を配置した。 (190頁)

近現代では、議論を始める前から紛糾した。 「静かな雰囲気の中で議論をする」ことで双方が合意していたにもかかわらず、初回会議では「日本の歴史教科書を是正する会」の活動家が会場に乱入してきた。 (190~191頁)

 「活動家が会場に乱入してきた」とは、日本では1970年代前後の全共闘時代に過激派諸君が学会等に乱入したのを思い出しますね。 

また、韓国での会議では、韓国側が用意した通訳が実は活動家であることが事前にわかり、我々日本側メンバーが出席を拒否して帰国するということもあった。 しかし韓国側は、通訳は会議の主催国が選任することになっていたはずだと、日本側を非難した。 内部の議論は直ちに外に出さず、落ち着いた学術的議論を行なうとした当初の合意からして、到底、受け入れられない主張だった。 (191頁)

途中で委員となったある韓国の有力な学者は、韓国の放送大学の教科書を執筆しており、そこに「日本の皇民化政策は、帝国主義史上、例を見ない悪辣なものだった」と記している。 どういう理由で、このような判断が可能なのか、理解に苦しむ。 アフリカ、インド、中南米など世界各地で、日本よりひどい統治をした国は多くある。 この委員は、実際には比較などしていないことだけは言える。 (191~192頁)

日本の大学院で博士号を取得した日本研究者の委員もいた。 しかし分科会を奈良で開催した時、「奈良は初めてだ」と言うので驚いた。‥‥ この委員はのちに大学教員を辞めて政治家になり、日本の天皇のことを「日王」と呼び、竹島(独島)に上陸し、北方領土にまで行っている。 本当に日本を理解しようという姿勢があったとは到底思えない。 (192頁)

 「本当に日本を理解しようという姿勢があったとは到底思えない」とありますが、一般的に(全部ではないという意味)韓国人は、歴史を知らない日本人に教えてあげようとする傾向があります。 それは、日本から学んで日本を理解しようとする姿勢が小さい傾向ということにもなります。 ここに挙げられた「韓国の有力な学者」「博士号を取得した日本研究者」は、その典型的な人だったようです。

 これを知ると、直ぐに「韓国人は生意気だ、ウソつきだ」と反応する日本人がいますねえ。 いわゆる「嫌韓派」です。 彼らは韓国を知り理解しようとする姿勢がないのですから、日本を理解しようとしない韓国人と変わらないですね。 つまり日本の「嫌韓派」と韓国の「反日派」は向いている方向は正反対ですが、〝似た者同士″と言えます。 そして「嫌韓派」は日本で少数であり、「反日派」は韓国で主流であるということです。

 なお日本を理解しようとする韓国人も少なくありませんので、誤解なきようお願いします。

論文の中には、植民地朝鮮における日本の百貨店の発展という興味深い研究テーマもあった。 私自身、日本のデパートが各地に進出していたことは知らなかった。 「今日は帝劇、明日は三越」というキャッチフレーズが日本で登場したのは1911年(明治44)である。 少し遅れて朝鮮でも消費の発展があったのだと知った。 しかし韓国側からは、それを利用できたのは日本人と朝鮮の一部の富裕層だけだったという解釈が提示された。 なかなか一筋縄では行かないものである。 (192頁)

 百貨店については、昔に在日のお年寄りから聞いた話があります。 田舎に住んでいて、親戚が京城に行った時に買って帰るお土産としては三越の包装紙に包まれた品物が最上で、家族はこれをもらってみんなで喜んだという話でした。 その方は富裕層ではなかったはずなので、「朝鮮の一部の富裕層だけ」というのは間違いで、植民地下の朝鮮において消費文化が庶民に行き渡りつつあったのだと思います。 (続く)

北朝鮮スパイ「辛光洙」の解説―『週刊朝鮮』(3)2024/05/04

http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/04/29/9679795 の続きです。

1982年5月3日、辛光洙は平壌を出発し、復帰ルートの逆の順で日本に四回目の浸透をする。 彼は在日スパイの李東哲を召喚し、民団の信任を獲得して民団中央部の幹部になって、内部の情報資料を収集、報告せよと指示する。 また彼は方元正が経営している東京池袋に所在する韓国酒場「ニューコリアン」を在日工作の拠点として活用した。 辛光洙は韓国クラブの「ミラン」の会計員、パチンコ「三光会館」、そしてパルコの機械修理工などの多様な偽装職業を持って暗躍した。

1983年5月26日、辛光洙は1年間の工作を遂行し、原敕晁名義で作った旅券を利用して、スイス-ウィーン-モスクワを経由して北朝鮮に復帰する。 平壌の東北里招待所で5ヵ月間、再教育されて、記念勲章を受けた。

1983年11月8日、辛光洙は平壌を出発して、復帰ルートの逆の順で日本に五回目の浸透をする。 業務は予備役将校のイ・ソンス(李成洙)を包摂すること、在日スパイの李東哲を連れて北に行くこと、東南アジア地域に新しい工作拠点を構築すること、韓国と日本の各種情報を収集し報告すること等であった。 辛光洙は既に構築していた在日スパイ網を活用して、長野県の朝鮮総連商工会長であるチョン・ムジン(67)を包摂する。 チョン・ムジンの息子が北朝鮮に帰国して清津電気機械工場の職場長であったが、その息子を平壌に移住させてやると提案し、4000万円の献金を強要した。 当時貿易業務の名分で渡日して東京帝国ホテルに投宿中であった調査部四課の副課長であるキム・ナムチョルに会った席で、チョン・ムジンから日本円で4000万円を受け取った。 この金を李成洙の包摂資金として方元正に渡した。 方元正が韓国で収集した「1984チームスプリット」訓練資料を北朝鮮に報告した。

1984年3月14日、辛光洙は東京-香港-北京を経由して北朝鮮に、五回目の復帰をした。 東北里招待所で再教育を受けながら、日本から連れてきて北に入国させた在日スパイの李東哲と方正元(ママ-以下同じ)の密封教育を指導した。 1984年10月23日、辛光洙は平壌を出発し、北京-カラチ-バンコクなどを経由して、日本に六回目の浸透をした。 方正元に工作金1万ドルを渡し、包摂対象者の李成洙と北朝鮮の調査部長との第三国での接線(連絡や接触)を組織(準備)するよう指示した。 1984年11月初旬、工作検閲のために渡日して日本のホテルに投宿中であった北の工作検閲担当課長のキム・ボンノクに方正元と一緒に訪ねて行って、その間の工作活動を報告した。 また朝鮮総連系の商工人であるハン・ソンイク(55)に会って、北朝鮮に帰国した彼の末の弟のハン・チャンイク(46)の写真と手紙を見せて包摂し、北に帰国した朝鮮総連系商工人のコン・ジェリョン(67)の娘を保護するという名目で資金の献納を強要した。 こんな手法で、東京で「国際センター」というパチンコ屋を運営している朝鮮総連商工人のパク・ヒジュ(70)、民団の同胞であるヒョン・キュジョン(64)、キム・ポンイウン(64)などを包摂し、資金の献納を脅迫し、工作資金を調達した。 辛光洙はこのような手法で、北に帰国した日本にいる縁故家族を何と12人も包摂し、堅固なスパイ網を構築した。

 「方正元」は「方元正」と同一人物。 北朝鮮スパイ関係者は名前を逆にして使う場合があり、これもそうなのでしょう。 この方元正に施したという「密封教育」も馴染めない言葉ですねえ。 隔離して教育するというような意味のようです。

 辛光洙は12人の在日朝鮮人を「包摂」して、地下スパイ組織を作り上げました。 そして辛は本国からの工作資金だけでなく、これら傘下組織員からも多額のお金を調達して工作活動を続けました。

辛光洙は在日偽装拠点である韓国クラブ「ニューコリアン」に来ていた韓国芸能人たちが帰国することを利用して、彼らと親しく過ごしていた日本人たちと一緒に韓国に入国すれば疑われないと判断し、対南浸透計画を作成し、北朝鮮に報告した。 1985年2月24日、方元正を連れて、金浦空港に入国した。 方元正から包摂したと報告を受けた予備役将校の李成洙に会い、北朝鮮の統一三大原則、五大方針、高麗連邦制 施政方針十大項目などを宣伝啓発したところ、その翌日に逮捕された。 辛光洙が迅速に逮捕されたのは、事前に包摂されてスパイ活動をしてきた李成洙が、心境の変化を起こして当局に通報したためである。 辛光洙に包摂されて25回も韓国に出入りして、主要軍事情報、産業情報などを収集し、地下網を構築したスパイの金吉旭、方元正なども検挙された。 後に韓国に帰順した高位工作員の証言によれば、金正日は一部の対南工作責任者たちの功名心と貪欲のために、苦労して構築した在日スパイ網と対南地下網が瓦解したとして、工作責任者を責め、更迭したという。

 韓国で逮捕されたのは「辛光洙」「金吉旭」「方元正」以外に、辛のスパイ活動を当初から支援していた「高基元」もいたはずと思うのですが。

金大中政府、死刑宣告を受けた辛光洙を仮釈放の後、北に送る

辛光洙は1985年に死刑を宣告されたが、1988年12月に無期懲役に減刑された。 特に金大中政府は、死刑宣告まで受けていたスパイ辛光洙を1999年12月に仮釈放した。 また6・15共同宣言の精神と人道主義を持ち出して、2000年9月2日に他の非転向長期囚たちと一緒にスパイ辛光洙を北朝鮮に送還した。 これに日本政府は怒った。 金大中政府は、彼らの大韓民国転覆活動に対して謝罪も受けておらず、北朝鮮に抑留されている国軍捕虜の釈放を要求もせずに送還するという蛮行を犯した。 辛光洙は北朝鮮で、共和国英雄称号を授与され、2008年に続いて2016年7月21日に平壌で開かれた統一運動団体結成70周年記念中央報告会に出席した場面が朝鮮中央TVに報道されることもあった。 このような非転向長期囚たちの送還は、金氏一族に変わりない忠誠を果たすなら、いつかは必ず助けてくれるという誤った信念を提供してやったことになる。

 韓国の金大中政権は辛光洙を北朝鮮に送還したのですが、「これに日本政府は怒った」というのは、辛が日本人の原敕晁さんを拉致・背乗りし、原さんに成り変わって旅券の発給を受けてスパイ活動したからです。 日本にとって重犯罪人ですが、金大中政権は北朝鮮に解き放ったのでした。

 ついでに拉致犯の「辛光洙」と「金吉旭」の釈放を求める署名をしたのが元首相の「菅直人」や元衆議院議長の「土井たか子」だったことは、忘れてはならないものです。

辛光洙は日本人の地村保志夫婦の拉致とKAL858機の爆破スパイである金賢姫の日本語先生だった横田めぐみの拉致にも関与したことが明らかになり、2002年に日本の警察庁が国際刑事警察(ICPO)に拉致犯として国際手配したのである。

 辛光洙は原敕晁さんの拉致を実行しただけでなく、地村夫妻、横田めぐみさん拉致にも関与しました。

スパイ辛光洙事件は、①北朝鮮が日本を対南浸透工作の迂回拠点として活用しており、②北朝鮮帰国家族を人質にして縁故を使っての工作で包摂し、対日・対南工作に活用し、③日本人を拉致してその身分を盗用する等、手段と方法を選ばずに反文明的で反人倫的なスパイ工作を行なっていることを再確認させてくれている。

 辛光洙事件は1970・80年代の北朝鮮スパイ事件です。 今回のブログは、あの当時の北朝鮮のスパイ活動はこういうものであった、ということの紹介です。 今では以上のようなスパイの手口は通用せず、新たな手口を使っていると思われます。

 なお私は https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/07/22/9603772  で書きましたように、1970年代前半に「北朝鮮に行ってみませんか」と誘われたことがあります。 もしその誘いに乗っていたら「包摂」されて、北朝鮮スパイ組織の一員になっていたかも知れません。 それとも、やはり拉致されていたかも知れませんねえ。  (終わり)

北朝鮮スパイ「辛光洙」の解説―『週刊朝鮮』(1) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/04/24/9678436

北朝鮮スパイ「辛光洙」の解説―『週刊朝鮮』(2)  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/04/29/9679795

北朝鮮スパイ「辛光洙」の解説―『週刊朝鮮』(2)2024/04/29

http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/04/24/9678436 の続きです。

3年間、工作を成功的に終えた辛光洙は、日本の海岸から北の工作船と接線(連絡を取る)して、1976年9月12日に元山に復帰した。 辛光洙は平壌近郊のスパイ教育訓練所であるヨンソン(龍城)招待所とスナン(順安)招待所で3年7カ月間の再教育の後、第二回浸透に乗り出す。当時、金正日が直接辛光洙に「日本人を拉致して北朝鮮に連れてきて、その身分事項を熟知し、日本人に変身し、工作任務を遂行せよ」と指示した。

   「成功的に終える」は日本語としてはちょっと変ですが、韓国語では時々出てきます。 ところで「接線」も馴染みにくい言葉ですねえ。 「再教育」というのは、日本など資本主義国で生活した北朝鮮スパイが自由主義に染まって亡命などしないように、北朝鮮に戻ってきた時に再度洗脳教育をすることです。 昔は「洗濯する」なんて言っていたように思います。

1980年4月、北朝鮮の南浦港から出発して日本の宮崎県日向市海岸に浸透した辛光洙は、一回目の浸透時に包摂したウン・ジョンウン(55)の斡旋で、東京で工作対象者であるイ・キルドン(73 朝鮮総連大阪商工会長)に接近し、北に帰国した彼の長男と次男の写真と自筆の手紙などを提示して、同じ手法で脅迫し、包摂した。

金正日「日本人を拉致した後、身分を盗め!」

辛光洙は、一回目の浸透の時に構築した在日スパイである金吉旭に、未婚で家族がいない者、旅券を一度も取らず人物写真を出したことがなく、前科もなくて指紋で捺印したこともない者、個人の金銭取引や銀行取引がない者、長期間行方不明となってもバレる心配がなく、日本で安全に活動できる45~50歳くらいの日本人を物色して報告するよう指示した。 その結果、朝鮮総連大阪商工会理事長が運営している中華料理屋の調理師である「原敕晁」が適格だとした。 1980年6月、原敕晁を青島海岸まで誘い出して待機していた北朝鮮工作船に乗せ、自分もそれに乗って拉致に成功する。 金正日の指示の通りに日本人を拉致し、身分の盗用を通して対日・対南工作に活用しようというのであった。

 日本人の「原敕晁」さんを拉致した時の様子です。 実行犯として、「辛光洙」とともに「金吉旭」の名前が出てきます。

辛光洙は原敕晁と平壌近郊の東北里招待所で5ヵ月間いっしょに宿泊しながら、彼の身体的特徴や性格、人的事項、学力・経歴、親族関係、居住事項、中華料理法などを熟知して、自ら原敕晁に変身した。 このような手法は、本誌第2799号(2024年3月10日付)で紹介した「伝説の女スパイ 李善実」の身分盗用の手法をそのまま使ったものだ。

 辛光洙は原敕晁さんの身分を背乗り(はいのり)しました。 これ以降、原さんに成りすましてスパイ活動をします。 

「李善実」も同時期に暗躍した有名なスパイです。 昔『北朝鮮の女スパイ』という本が出版され、詳しく解説されていました。 講談社でしたかねえ。

1980年11月26日、辛光洙は北朝鮮の南浦港を出発し、日本の青島海岸に三回目の浸透をする。 彼は一・二回目の浸透工作の時に構築した在日スパイ網を動員して、追加として北朝鮮帰国者家族の包摂工作に乗り出す。 清津に暮らしている北朝鮮帰国者のイ・スンギュの甥であるイ・ドンチョル(李東哲 45)が当時民団幹部にいたが、同じ手法で接近し、包摂する。 特に李東哲が法政大学在学時に北朝鮮の奨学金を受けていた事実を取り上げて、3000万円を工作資金として自分に支援するよう脅迫した。

また在日スパイ網のイ・ギルビョンの照会で、パン・ウォンジョン(方元正 50)に会い、北朝鮮にいる義弟の話をして、同じ手法で包摂する。 辛光洙はこの方元正を利用して、北朝鮮に拉致した原敕晁名義の旅券、運転免許証、印鑑証明証、国民健康保険証などを取り、日本人に成りすました。 1982年2月、北朝鮮の貿易代表団の一員に偽装して、工作の検閲をして渡日して日本のホテルに投宿中であった調査部副部長のカン・ヘリョンに対して、方元正に挨拶させた。カン副部長は方元正に民団に偽装転向して、韓国旅券を作ることと韓国にいる親戚・同窓のうち、影響力のある者を包摂することなどを指示した。

   辛光洙は原敕晁さん背乗りのためにパスポートや運転免許等々を取得するのですが、その時に「方元正」という在日が協力したのですねえ。 日本の実情に詳しくない外国人スパイが日本人に背乗りしようとすると、こういう人が必要になるのでしょう。

1982年3月23日、辛光洙は日本人原敕晁名義で作った旅券を利用し、スイス-パリ-モスクワを経由して北朝鮮に堂々と復帰した。 以降、平壌東北里の招待所に収容されて、再教育を受けた。 1982年4月15日、金日成の誕生日に一級国旗勲章を授与された。 辛光洙は金日成の挨拶を受ける接見席上で、日本人の身分を利用して東南アジアに拠点を早く確保することと、日本人拉致の事実がバレると国際問題に飛び火するだろうから、徹底して秘密を維持し、在日スパイ網を活用して対南浸透工作を積極的に展開するなどの業務命令を受けた。

 辛光洙は日本人パスポートを手に入れたので、国際的に活動の場を広げることができました。 (続く)

北朝鮮スパイ「辛光洙」の解説―『週刊朝鮮』(1) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/04/24/9678436