在日誌『抗路』に出てくる「北鮮」(2) ― 2023/06/06
在日総合誌の『抗路』の最近号(2022年12月)掲載される短歌に、「北鮮」が二ヶ所に出てきています。 ↑にスキャンして掲示しました。
失った日本語さがし断片を混ぜた北鮮訛りの電話 (187頁)
北鮮のロックを唄う少女らのムルムピョどこへ突き刺さるのか (189頁)
ムルムピョとは、「疑問符」という意味の朝鮮語「물음표」です。
この雑誌には以前にも同じ作者による短歌に「北鮮」が出ていて、拙ブログでも取り上げました。 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2021/01/16/9338000
その昔には「北鮮」は使ってはならない差別語だと糾弾された時代がありました。
1973年当時の『朝日ジャーナル』という雑誌には、
「北鮮」は「鮮人」と同様に差別言辞‥‥この言葉はあの関東大震災における〝朝鮮人虐殺″の自警団につながります。
という投書が掲載されていました。 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/05/31/9590629 関東大震災の朝鮮人虐殺まで言及するくらいに、「北鮮」は破壊力のある言葉だったのです。 ですから、うっかり或いは何気なく「北鮮」を使っただけでも糾弾を受けた時代があったのです。
それが今では在日らが作る雑誌に堂々と何度も載るのですから、世の流れというか変化に驚くのみです。 またかつて差別語「鮮」を使ったとして集団で糾弾闘争した人たちは、今どう考えているのでしょうか。 今はそういう人たちの発言が見られないのは、残念ですね。
【在日総合誌『抗路』に関する拙稿】
在日誌『抗路』に出てくる「北鮮」 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2021/01/16/9338000
在日が入管問題に冷たい理由―『抗路』を読む http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/05/31/9590629
在日のアイデンティティは被差別なのか―尹健次 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2021/06/12/9387023
かつての朝鮮学校には日本人教師がいた―『抗路9』 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/03/09/9470770
密告するのは同じ在日同胞―『抗路9』座談会 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/03/03/9468948
親の靴職人を継いだ在日子弟―『抗路9』座談会 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/02/24/9466872
在日は「生ける人権蹂躙」?-『抗路』巻頭辞 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/01/31/9460212
戦後補償運動には右派も参加していた http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/02/07/9461960
戦後補償問題の解決とは?―『抗路』外村大を論ずる http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/02/14/9464117
在日誌『抗路』への違和感(1)―趙博「本名を奪還する」 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2021/05/27/9381682
『抗路』への違和感(2)―趙博「外国人身分に貶められた」 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2021/06/02/9383666
趙博さんの複雑な名前 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2019/11/02/9171893
金時鐘さんが本名を明かしたが‥‥ http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2019/10/26/9169120
在日総合誌『抗路』に出てくる「北鮮」 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2021/01/16/9338000
在日の自殺死亡率 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2021/04/20/9369020
在日の低学力について(1) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2021/04/28/9371638
在日の低学力について(2) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2021/05/05/9374169
差別語「北鮮」への怒り―50年前の投稿 ― 2023/05/31
今から50年ほど前の『朝日ジャーナル』1973年4月13日号109頁の読者欄に、↑のような投稿がありました。 1970年代前半に「朝鮮」の略語としての「鮮」が、どう考えられていたか、その一端を知ることができるものとして全文を紹介し、私の感想をはさみます。
中山千夏さんへ 朴 時夫
一在日朝鮮人より、人気タレントの中山千夏さんに一言述べておきたいと思います。
あなたは3月20日のあるテレビ番組で小野ヤスシさんが、現在の朝鮮民主主義人民共和国で生まれたことを、「小野さんは北鮮で生まれたのですね」と申されました。
今さらあなたが日本の代表的人物であることや、あなたの考えを批評する気はありません。 しかし私から言わせると〝差別世代″の言葉である「北鮮」をまったく無対決に口にだすとは‥‥。私は日本の若い世代に対して認識を深めました。
中山千夏は1948年生まれ。 声優、歌手、俳優などタレントとして多彩な才能の持ち主で、また市民運動にも関わり国会議員も経験しています。 この『朝日ジャーナル』投稿があった時は25歳くらいでした。
投稿者の朴さんは、「北鮮」という差別語を使うのは植民地時代を体験した中高年世代のはずなのに、戦後生まれの中山千夏がこの差別語を使ったことに驚いたのです。 「若い世代に対して認識を深めた」というのは、中山を代表とする若者世代もが「北鮮」を使っていることを再認識したということですね。
「対決」というのは、朝鮮学校でよく使われる言葉です。 相手と何か激しく議論しようとする時、「なんなら対決しますか」という風に使います。 だから「無対決」は〝何の議論・検討もなく″というような意味です。
「北鮮」は「鮮人」と同様に差別言辞(言葉より意識を重視するのはもちろんです)です。 そしてこの言葉はあの関東大震災における〝朝鮮人虐殺″の自警団につながります。
現在の差別的言辞と100年前の関東大震災を結びつける‥‥これは在日が日本人に向かって突きつける定番みたいですね。 「関東大震災」「朝鮮人虐殺」を言い出せば、日本人は逡巡すると思っているのでしょうか。 なお関東大震災に関しては、下記のように拙ブログで触れたことがありますので、ご参照くだされば幸い。
短絡しすぎるとお考えになるのはあなたの自由です。 もっともあなたには朝鮮人に対する差別感情などないと思います。 それとも、あの発言は思わず真情を吐露したのでしょうか。
あなたの意見を決めつけるのは公平ではありませんが、まあお忙しいあなたですからお返事は期待しません。 最後に、このニコヤカな一文を書いている私が怒りに身をふるわせているとつけ加えておきます。 (大阪府貝塚市・浪人・20歳)
私の経験では、民団(韓国系)は総連との対立が激しかった時代でしたから、彼らが北朝鮮を指す時に使う「北鮮」の語気は鋭く厳しいものでした。 そしてそれに対する総連(北朝鮮系)の人たちの反発も激しかったです。 ですから「北鮮」を使った中山千夏に対する怒りを投稿した朴さんは、上述のように「対決」を使ったことも含めて考えると、朝鮮学校出身の総連系の人だろうと推測できます。
当時は韓国・朝鮮問題といえば北朝鮮側(総連)の影響が非常に大きかった時代でしたから、北朝鮮寄りの姿勢を明確にしていた『朝日ジャーナル』がこの投稿を採用したのは成程と言えるでしょう。
ところで1970年代まで、日本では朝鮮の略称として「鮮」を使うのはごく普通のことでした。 それが1970年代に入ってから、それは朝鮮に対する差別語だから使うな、という主張が始まりました。 このことを誰が最初に言い出したのかが分かりません。 おそらく総連が自分たちを「北鮮」言われることへの嫌悪感があり、それを日本人側に広めたことから始まったと思っているのですが、どうでしょうか。
『朝日ジャーナル』の投稿は、1970年代前半は「北鮮」が差別語だとして問題視し始めた時代だったなあと思い出されます。
【「鮮」に関する拙稿】
李朝時代に「鮮」を使った資料 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2021/01/26/9341086
在日誌『抗路』に出てくる「北鮮」 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2021/01/16/9338000
全外教の歴史誤解と怠慢 http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/dainanajuukyuudai
「チョン」は差別語か? http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/04/04/7603685
第24題「差別語」考 http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/dainijuuyondai
在中韓国人は「新鮮族」 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2008/06/07/3565930
朝日の<おことわり>の間違い http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2007/09/29/1827082
黄光男さんの思い出 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2020/06/11/9256337
【関東大震災に関する拙稿】
水野・文『在日朝鮮人』(19)―関東大震災・吉野作造 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2016/09/04/8169265
水野・文『在日朝鮮人』(13)―関東大震災への疑問 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2016/07/19/8134282
関東大震災時の「在日朝鮮人虐殺者」の数 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2006/06/09/398058
関東大震災の朝鮮人虐殺 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2016/08/26/8163009
関東大震災の日本人虐殺 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2016/09/15/8189607
関東大震災「朝鮮人虐殺事件」 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2017/09/01/8663629
「十五円五十銭」の練習―こんな在日がいるとは!? http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2021/02/15/9347314
入管闘争―善人だから闘うのか、善人でなくても闘うのか ― 2023/05/25
日本に在住する外国人は、入管法(出入国管理および難民認定法)に基いて管理されています。 今政府がこの入管法の改正を目指し、それに対して市民運動団体やマスコミなどから反対運動が起きるなど、大きな議論となっていますね。 ところで入管法に関しては、50年ほど前にも反対運動があり、大きな議論になっていたことを知る人は少ないようです。
1970年代までの外国人出入国管理は「出入国管理令」(以下「入管令」)という法律に基づいていました。 しかしこれは実はいわゆる「ポツダム政令」で、国会が議決して施行された法律でありません。 それでもやはり法律であるのが「入管令」でした。 政府は1969年にこれを改正して、新たに「出入国管理法」としてちゃんとした法律にしようとしました。
当時は外国人といえば大半が韓国・朝鮮人で、新たな「出入国管理法案」は彼ら在日の管理を強化するもので許されないとして、反対運動が激しくなりました。 その反対運動を中心となって進めた一人が日本朝鮮研究所(後の現代コリア研究所。今は閉鎖)の佐藤勝巳でした。 そして反対運動が功を奏したのか出入国管理法案は廃案になりましたが、彼はその後も在日の入管問題に関わり続けました。 後に『在日韓国・朝鮮人に問う』(亜紀書房 1991年4月)という本を出版し、その中で当時の出入国管理法案反対運動と入管問題を振り返っています。
1970年代前半にもう一つ深くかかわったものに出入国管理法案反対運動があった。 この法案は1969年と71年、72年、73年の計四回、国会に上程され、廃案となった。 筆者(佐藤)は、当時、日本朝鮮研究所の事務局長として、この法案反対のために動いたが、正直にいって動けば動くほど空しさを感じていった。
それは法案に反対だ反対だと言っている人たちのほとんどが、当時の出入国管理令もそして法案も読まずに、ただ騒いでいるというのが分かったことであった。 (12~13頁)
革新・左翼団体が反対を唱えたのですが、実は彼らは「出入国管理令もそして法案も読まずにただ騒いでいる」というのが実態だったと彼は言います。 これはその通りだったと言わざるを得ませんねえ。 そして彼は日本朝鮮研究所から入管法を解説する本『在日朝鮮人 その差別と処遇の実態』(同成社 1974年)を出しました。
入管に関する本を出すと、在日韓国・朝鮮人からいろんな問い合わせや相談がくるようになってきた。 そのほとんどは、刑罰法令に違反して退去強制令書が発布されて大村収容所に送られたが何とかならないか、また肉親を頼って密入国してきて10年以上経つが特別在留をもらえないだろうか、などなど実に様々な相談が寄せられた。
1974年から7年間、入管法のお世話になる人間とはどういう人間なのか、その人間に法律がどのように作用していくのか、その法律運用によって国家とはどのように維持されていくのか、ということを垣間見ることができた。
入管問題の諸ケースに出合うことによって、多くの在日韓国・朝鮮人が持つ価値観の一つに、法律とは破るもので守るものではないという考えがあると、かなりの確信をもって思うようになった。 (以上 15~16頁)
彼は入管法の解説本を出したことによって多くの在日韓国・朝鮮人から相談を寄せられ、さらに犯罪や密入国等々で入管法(当時は入管令)違反に問われたような在日からも切羽詰まった相談がくるようになりました。 しかし彼は、そんな相談を寄こしてくる在日が「法律とは破るもので守るものではないという考えがある」ことに気付いたのでした。 そしてそんな在日からこれまた信じられないような話を聞かされます。
筆者(佐藤)が入管局通いを止めた(入管問題に関わらなくなった)理由の一つは、相談にくる在日韓国・朝鮮人から信じられないような話を何度も聞かされたことだ。 「自分は」という場合と、「知人の誰々は」という場合と様々だが、「大阪選出の○○党の○○代議士に500万円を渡したが何もしてくれなかった」とか、「ある地方の民族団体の幹部は、当時の金で1000万円払うと密入国者に特別在留を取ってくれるというが、本当なら頼んでみたい」という話もあった。 ウンザリするほどカネにまつわる話を聞かされた。
公然と法律に反する使い方、つまり賄賂として使うことに後ろめたさを感じるのかどうか、合法か違法かについての通念があるのかどうか‥‥ この種のことで接した在日韓国・朝鮮人で、賄賂を使うことの後ろめたさを感じている人は皆無に近かった。 (17~18頁)
このあたりの在日の具体的な様相は、ちょっと説明が必要と思います。 日本人が最初に在日問題に関わる時、相手してくれる在日というのは大抵がインテリで紳士的であり、法やルールは守らなければならないものだということを知っている人がほとんどです。 ところが入管法違反で検挙され収容されるような在日は、それとは正反対がほとんどなのでした。
このことは、「ピン」から「キリ」までの在日を実際に知る人にはすぐさま理解できると思います。 ちょっと極端な話をしますと、「ピン」の在日しか知らない日本人は〝在日を差別するなんて不当だ!″と思うでしょうし、一方「キリ」の在日を知ってしまった日本人は〝これでは在日が差別されても仕方ない″と思うでしょう。 要するに在日は日本人と同様に「ピンからキリまで」多様なので、入管問題は一筋縄でいくものではなかったのでした。
だから、かつての在日の強制送還に反対する入管闘争では〝善人だから闘うのか、善人でなくても闘うのか″が議論になったと言います。 つまり日本社会にも有用な人材である在日の強制送還に反対するのなら日本人の共感を得て正当性を主張できる、しかし無用な(犯罪性向を持っているなどの)在日の強制送還にも反対して日本に押し留めることを要求することが正当なのかどうか、という問題でした。
そして佐藤勝巳は、入管問題から離れることを決断します。
筆者(佐藤)のような素人が、たとえボランティアであったとしても、この種の入管問題には関与すべきでない。‥‥そう思うようになって、個別の相談は受けないことにした。 それが1981年のことである。 (19頁)
以上、かつて入管問題に関わった佐藤勝巳でした。 ところでそれから40年以上経った今の日本で、入管問題が再び大きく取り上げられて議論となっています。 また難民申請が認められず、入管施設に収容されたり仮放免されたりした外国人の救援活動も盛んですね。 そんな時、40年前に入管問題に取り組んだ佐藤勝巳の軌跡を振り返ってみるのは意味があると思うのですが、どうでしょうか。
昔の入管闘争で〝善人だから闘うのか、善人でなくても闘うのか″という議論があったことは、今の入管法改正反対運動に対して一考する価値のある問い掛けになると考えます。
【拙稿参照】
在日が入管問題に冷たい理由―『抗路』を読む http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/05/20/9587549
不法滞在・犯罪者の退去・送還-1970年代の思い出 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2021/05/21/9379672
不法残留外国人について http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2021/05/11/9376331
不法残留外国人について(2) https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2021/05/17/9378363
かつての入管法の思い出 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2020/10/17/9306547
昔も今も変わらない不法滞在者の子弟の処遇 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2020/03/21/9226536
自宅を外国人シェルターにした女性―時事通信 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/01/12/9554644
保険未加入外国人の治療費―東京新聞 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/01/07/9553457
8歳の子が永住権を取り消された事件 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2020/12/01/9322206
移民の犯罪率は高いのか http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2021/06/23/9390661
密告するのは同じ在日同胞―『抗路9』座談会 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/03/03/9468948
アルメニア人の興味深い話―在日に置き換えると http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/09/26/7812267
在日が入管問題に冷たい理由―『抗路』を読む ― 2023/05/20
在日総合誌『抗路』10号(2022年12月)に、「『移住社会』という近未来」というインタビュー記事がありました。 「移住連」代表理事の鳥井一平さんのインタビューです。 「移住連」というのは「NPO法人・移住者と連帯する全国ネットワーク」の略称です。 ここで鳥井さんは、
(在日の)オールドカマーの人たちは自らの闘いによって指紋押捺制度の廃止や諸権利を獲得してきた (69頁)
と、かつての在日を高く評価します。 しかし彼は、「在日はニューカマーに冷たいという批判を耳にすることがあります」という質問に対して、次のように答えています。
「在日」の方々に限らず、実は、移民は移民に冷たいのです。 先に来た者は後から来た者をもっと思い遣るべきなのに、日本社会の規範に合わせようとする場合が多々ありますよね。 例えば、日の丸を掲げないと日本人に認めてもらえないのじゃないかとか、過剰に同化しようとする意識が働いてしまう。 ニューカマーでも、成功して社長になったような人は「日本社会への貢献」を経営者の発想でやってしまう、あるいは、非正規滞在者に対して「ビザを持ってない奴等を支援することはないんじゃないか」と平気で言ったりすることは、残念ながら少なくありません。 (71頁)
「移民問題」とは「先に来た者が後から来た者をどのように遇するのか」ということではないでしょうか。‥‥ 歴史は、人々が移動することによって作られてきたわけで、たまたま「先に来たか後に来たか」という差だけなんですよね。 新参者を排除するような風潮がまだまだ根強いです‥‥(71頁)
なるほど。 早い時期から日本に移住して来た朝鮮人や外国人には成功を収めた人が多いのですが、彼らは「日本社会の規範に合わせる」とか「同化しようとする意識」とか「日本社会への貢献」を言っているのです。 だから成功できたのでしょう。
ということは逆に、「日本の規範に合わせない」「同化しない」「日本社会への貢献を考えない」ような新来の外国人には冷たくなります。 「ビザを持ってない奴等を支援しない」と言うのも当然でしょう。
ただし鳥井さんは、後者の「ビザを持っていない」ニューカマー移住者を支援しようとする立場です。 だから「先に来た者は後から来た者をもっと思い遣るべき」とか「たまたま『先に来たか後に来たか』という差だけ」とか「新参者を排除するような風潮」とかの言葉が出てくるのですねえ。
ここで思い出すのは、フランスの映画監督・脚本家だったアンリ・ベルヌイユです。 彼はアルメニア出身で、父母らと一緒にフランスに亡命し、映画監督等として名を成しました。 日本の毎日新聞記者が1990年代にそんな彼にインタビューしました。 その中で彼はフランスで生活するにおいて、父親から次のよう戒められたと言います。
父は常に「先住の人に優先権がある。ぶつかった時は我々が譲るべきなのだ」と諭した
http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/09/26/7812267
ここで上述「移住連」の鳥井さんの言葉と読み比べてみると、アンリ・ベルヌイユの父親の言の方に説得力を感じます。
【拙稿参照】
不法残留外国人について http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2021/05/11/9376331
不法残留外国人について(2) https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2021/05/17/9378363
かつての入管法の思い出 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2020/10/17/9306547
昔も今も変わらない不法滞在者の子弟の処遇 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2020/03/21/9226536
8歳の子が永住権を取り消された事件 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2020/12/01/9322206
密告するのは同じ在日同胞―『抗路9』座談会 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/03/03/9468948
保険未加入外国人の治療費―東京新聞 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/01/07/9553457
不法滞在・犯罪者の退去・送還-1970年代の思い出 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2021/05/21/9379672
自宅を外国人シェルターにした女性―時事通信 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/01/12/9554644
移民の犯罪率は高いのか http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2021/06/23/9390661
にあんちゃん(5)―佐藤忠雄の解説 ― 2023/05/14
http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/05/09/9584377 の続きです。
ちくま少年文庫『にあんちゃん』(筑摩書房 1977年7月)に、映画評論家の佐藤忠雄が次のような解説を記しています。
この日記にもよく出てくるように、安本さんにはとてもまじめないいお兄さんがいて、よく働いているはずなのに、それでも貧しい。 それは安本さんの一家が在日朝鮮人であるためである。 (215頁)
在日朝鮮人というのは、明治時代の終わりに日本が朝鮮を侵略して領土にしてしまってから、めちゃくちゃなやり方で朝鮮の農民から土地をうばったため、職を失って日本にやってきたり、また、太平洋戦争のとき、炭鉱労働者が足りなくなったために、朝鮮からむりやり連れてきて働かせたりした人びとのことであり、また、日本で生まれたその子どもたちのことである。 (216頁)
日本人は、自分たちがひどい目にあわせて故郷にいられないようにしたこの人たちが、しかたなく日本に来ても、いい仕事にはなかなかつけないように差別した。 だから在日朝鮮人は貧しい人が多いのである。 (216~217頁)
この解説が書かれたのは1970年代で、〝在日朝鮮人は多くが貧困で、その原因をつくったのは日本である″という在日朝鮮人像をそのまま語っています。 これは在日に理解があるとされる知識人たちが、昔も今も有している認識ですね。
しかし『にあんちゃん』は貧しくとも明るく元気に生活を送る在日朝鮮人少女が書いた日記であり、後に少女はこの当時のことについて「日本人に対する感恩の情」を持っていると語っています。 小学生が書いた日記ですから、作者のこのような感性をそのまま素直に読むべきであって、作品の背後に「日本の朝鮮侵略」とか「日本がむりやり連れてきて働かせた」というような朝鮮史像を読み込むものではないと考えます。
佐藤忠雄の解説は、在日朝鮮人少女の日記『にあんちゃん』の価値を落としているように私には思えます。 (終わり)
にあんちゃん(1)―在日朝鮮人少女の日記 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/04/21/9578840
にあんちゃん(2)―物議を醸した部分 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/04/26/9580277
にあんちゃん(3)―やはり作者は在日朝鮮人 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/05/04/9582750
にあんちゃん(4)―なぜベストセラーになったか http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/05/09/9584377
にあんちゃん(4)―なぜベストセラーになったか ― 2023/05/09
http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/05/04/9582750 の続きです。
著述家の成美子さんは、『朝日ジャーナル』インタビューの2年後に安本さんに取材して、『朝鮮研究』232号(1983年7月)に「にあんちゃんはいま 二世の眼」を掲載しました。 この一文は『在日二世の母から在日三世の娘へ』(晩聲社 1995年9月)に所収されています。 主な部分を引用して紹介します。
九州の貧しい生活で差別されたことは一度もなかったと安本さんは言う。 父親が同胞の子供たちを集めて黒板でハングルを教えていた記憶があるし、兄たちは優等生だったし、自分も母親になったいま、考えれば、内気で親がなく話し方がていねいで勉強ができる女の子は、日本人の親たちに好かれる存在であったようだというのだった。
「本当に差別を受けなかったのですか?」と私はずいぶん執拗に安本末子さんに食い下がった。 「びんぼう ちょうせんじん でていけ」という言葉をローマ字で日記に記さざるを得なかった少女の屈折した感情が差別と無縁であるとは思えなかったのである。 末子さんは頑固に頭をふり、ローマ字を習いたての女の子が得意になって書いたにすぎず、それがはからずも一年以上もお世話になった家の人を傷つけ申し訳ないことをしたというのだった。
大学に入学したとき、同胞団体の学生が授業がまだ終わっていないのに、ガラッとドアを開けて大声で自分の名前を呼んで勧誘に来たことや、韓学同のビラ配りに参加しなかったのに参加したというデマが飛んだことなどを末子さんは眉をひそめて語った。 父親が生前、よくお酒を飲んでいたことなども、ためらいがちに話した。 ただどうしても日本人との結婚に踏み切れず、在日韓国人の家庭に嫁いできたのは落ちつくべきところに落ちついた感じがするというのだった。(以上 280頁)
『にあんちゃん』が描かれた時期は、家族にとって大変な時で、いま読み返すと、よく書けたなあ感心する思いがすると末子さんは語った。 それに、あの日記の民族意識の欠如は、『にあんちゃん』がベストセラーになった一つの大きな原因であろうと考えていると、末子さんはかなり冷静な分析をした。 だから朝鮮に負い目をもっている学校の先生や知識人にアピールしたのではないかというのだった。
たかが10歳の少女の日記と割り切れない大きな位置を『にあんちゃん』は安本末子さんのなかに占めていて、20年以上の歳月が過ぎているのに、つい数日前に犯してしまった過失のように、彼女は日記の中で担任の先生やお世話になった家の人のことを悪く書いてしまったことにこだわっていた。 自分が書くことによって周りの人を身構えさせ傷つけることが耐えられないというのだった。(以上 281頁)
末子さんは、趙治勲(韓国出身の棋士)が三冠王なれば喜び、韓国の経済発展を願う心情的ナショナリストであったけれども、『にあんちゃん』の日記を書いた時と全く同じ、日本人の親切や善意を信じる優等生であった。 そして『にあんちゃん』の出版当時、「なんて民族意識のない子供たち」と同胞から非難の手紙が来た時の戸惑いと同質の戸惑いを、既成の民族組織に抱いているようだった。(282頁)
「あの日記の民族意識の欠如は、『にあんちゃん』がベストセラーになった一つの大きな原因」というのは、確かに冷静な分析でまた的確だと思います。 また彼女が昔も今も「日本人の親切や善意を信じる優等生」だったというのも、その通りだったでしょう。 『にあんちゃん』を読み返しても、また『朝日ジャーナル』のインタビュー記事を読んでも、確かにそうだったと考えるしかないです。
しかし「『にあんちゃん』が出版されると、「“なんて民族意識のない子供たち”と同胞から非難の手紙が来た」というのには驚きました。 「祖国の統一」を一番のスローガンにしていた当時の民族団体・民族主義者からみれば、“ああ!何と情けない!祖国を忘れ、民族アイデンティティがないなんて!”という慨嘆なのでしょう。
今から思えば、在日朝鮮人の本なんてほとんど売れなかった時代に同胞の子供がベストセラーを出したことに対して、ある在日民族主義者が嫉妬してそんな手紙を書き送った、私にはこのように思われます。
在日朝鮮人たちは自分たちに対するイメージが非常に悪かった1950年代末に幼い同胞少女がベストセラーを出したことを喜ぶのではなく無視を決め込み、一部は非難を浴びせた、ということですね。 (続く)
にあんちゃん(1)―在日朝鮮人少女の日記 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/04/21/9578840
にあんちゃん(2)―物議を醸した部分 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/04/26/9580277
にあんちゃん(3)―やはり作者は在日朝鮮人 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/05/04/9582750
【参考】
『にあんちゃん』は韓国で1959年に映画化されました。 題名は「구름은 흘러도(雲は流れても)」で、古典映画として公開されています。 https://www.youtube.com/watch?v=pi0aSYjXnu4
2022年1月7日付けの毎日新聞には、『にあんちゃん』の舞台であった佐賀県の大鶴炭鉱の跡を訪ね、関係者に取材した記事があります。 https://mainichi.jp/articles/20220107/ddf/012/040/001000c https://mainichi.jp/articles/20220107/ddf/012/040/002000c
「『にあんちゃん』論―日記をめぐる自己検閲を巡って」 奥村華子 https://www.bcjjl.org/upload/pdf/bcjjlls-6-1-185.pdf
にあんちゃん(3)―やはり作者は在日朝鮮人 ― 2023/05/04
http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/04/26/9580277 の続きです。 『にあんちゃん』の作者である安本末子さんは、自著をどう評価しているのか。 『朝日ジャーナル』1981年11月6日号に、彼女のインタビュー記事「安本末子さん 日本には感恩の情 朝鮮には深い愛情 『にあんちゃん』から童話の世界へ」が掲載されました。 それは『にあんちゃん』が出版されて23年経った時で、彼女は非常に冷静に当時を振り返っています。
日記には、貧乏だからつらい、親がいないから悲しい、カサがないから冷たい、お茶碗がないからご飯をよそって食べられない、というように、洗いざらい書いていて、嘆きの表現はあるわけですから、もし差別をうけていれば、何で朝鮮人なんかに生まれてきたんだろうという慨嘆があっても、不思議はない。 ところが、私も読み返しておかしいなあと思ったんですけど、そういう民族的な差別への屈託というか、こだわりが〝かけら″もない。 そこがまたあの日記の明るさなんでしょうけど。
―それは現実になかったと言い切れますか。
なかったですねえ。 兄の時代はどうだったか分かりませんけど。 私の世代では、ほかに朝鮮人の同級生もいたので、その子がいじめられたりすれば、私も同じ朝鮮人なんだっていうことを考えるはずでしょう。 でも、改めて問い直したということがないんです。
―もちろん自分が朝鮮人だという事実は分かっているわけですね。
朝鮮人だけの行事みたいなものがあると、必ずうちへ集まってましたから、私が朝鮮人だっていうことは友達にも周りの人にも隠す必要がなかったんです。
―それは中学、高校へ行っても変わりませんでしたか。
ええ‥‥ 隠さなきゃいけなかったという苦しさの体験はないんです。 (以上 39~40頁)
「民族的な差別への屈託というか、こだわりが〝かけら″もない。 そこがまたあの日記の明るさ」というのは、なるほど、これが感動を呼び起こしたという作者の自己分析は当を得ていると思います。 当時は在日朝鮮人に対する日本人のイメージといえば、貧乏で乱暴で怖くて近寄りがたいという〝暗いイメージ″が大勢でした。 しかしこの日記では貧乏でも明るく元気で、勉強も一生懸命にやっている幼い朝鮮人少女だったのですから、それが日本人の琴線に触れたのでしょう。
次に自分が朝鮮人であることをどう感じてきたのかを語ります。
なぜ朝鮮人でなきゃいけないのか‥‥。 親からの伝承もなく、日本の友達とか日本の生活習慣とかにどっぷりと浸ってきたわけで、朝鮮が懐かしいというより、むしろ戸惑いというか、異文化というか‥‥。
―朝鮮の文化の方が異文化とは、ちょっと意外ですね。
そうなんです。 でも、みんながとにかく民族統一のためにがんばっているのに、私は知らん顔しちゃいけないと思って、顔を出しはしたんです。 だけど、やっぱり溶け込めなかった。‥‥私は日本の教育の理想を目指した人たち、学校の先生から生かされてきた。 生かしてもらった。 だから日本がそれまでどういうことを朝鮮人に対してやってきたかということを、あげつらうことができなかった。
そうはいっても、じゃあ日本人になり切れるかというと、なり切っちゃいけないんじゃないかという思いもあった。 やっぱり日本人は日本人、朝鮮人は朝鮮人という独自性を持って生きていくのが民族と民族のあり方ですし、両親は「とにかく祖国で死にたい。 死んだら朝鮮に埋めてもらいたい」といっていた。 異郷、逆境の地である日本で死んだわけですから、よけい望郷の念は強かったでしょう。 祖国に対する思いは私の想像をはるかに超えたものだっただろうと思うんです。 そういう祖国に対する両親の思いをさてどうするかということもあって、そのまんまでいるのが自然じゃないかっていう感じですねえ。 (以上 40頁)
自民族の文化が「異文化」であると正直に語りますが、一方で自分は朝鮮人でなければならないという思いも語っています。 朝鮮と日本の狭間に存在する在日朝鮮人の感性とでも言うべきものなのでしょうか。
大学の友達は日本人だし、会社に入ってからも周りは日本の人ばかり。 自分が受け継いだ生活習慣も日本のものですし、日本のお料理とかしきたり、礼儀作法みたいなことは分かる。 だから日本人と結婚した場合にスムーズに溶け込める、そういう感じがありました。
私にとって朝鮮はまだ見ぬ祖国なわけで、いってみれば生みの親で、血はつながってますけれど、何もしてもらわなかった。 それに対して日本はほんとに一から育て教育してくれた。 だから正直いってどっちに恩義の気持ちが深いかといえば、日本人の方が感恩の情という方が自然なんです。 じゃあ、生みの親に対する思いが全くないかというと、それも簡単にふっ切れない。
で、日本人と結婚したら、子供は日本籍になる。 そうすると、私も同化されていくというか、風化していく。 それでいいのかなっていう思いも一方ではあって、日本人との結婚に踏み切れなかったんです、正直いって。 (以上 41頁)
やはり彼女は朝鮮人で、日本人と結婚して日本人になろうとは思わなかったのですね。 ところで彼女は日本人に対して「感恩の情という方が自然なんです」と言ったところに注目されます。 この「感恩の情」がインタビュー記事の題名にもなっていますから、朝日ジャーナル記者も非常に印象深かったのでしょう。
作者が日本人から受けた差別ではなく、日本人から受けた恩への感謝である「感恩」と言っているのですから、‶日本から受けた民族的苦難とそれに対する闘い″でなければならない在日朝鮮人の歴史から『にあんちゃん』が除外されたのは、当然だったのかも知れません。 (続く)
にあんちゃん(1)―在日朝鮮人少女の日記 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/04/21/9578840
にあんちゃん(2)―物議を醸した部分 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/04/26/9580277
帰化政治家の誕生 ― 2023/04/29
先の統一地方選挙と、衆議院補欠検挙で帰化者が当選しましたね。 世田谷区会議員のオルズグルさんと、千葉5区の英利アルフィヤさんです。 この二人は名前からして外国に由来があることが分かるし、またそれを前面に押し立てて選挙運動をされたようです。 どちらも初当選ですから、これからどのような政治活動をされるのか、注目したいと思います。
それ以外に、私の知り合いの在日韓国人の子供さんも某市会議員選挙に立候補し、当選しました。 この人は何十年か前に日本人と結婚したことをきっかけに帰化されたのですが、選挙公報では国籍履歴を出しておられなかったですね。
父親は上述のように在日韓国人で外国籍ですから、有権者に投票を呼びかけることがひょっとして問題になるかも知れません。 ですから選挙運動には参加せず、朝早く選挙亊務所を鍵開けして運動員が最初に来るまで留守番、それから夜に選挙事務所を掃除して鍵閉めをする、という仕事だけをしていたそうです。
日本はこれから政治の世界にも帰化者が入ってくることになるでしょう。 一方選挙では日本人の立候補者が少なくて、無投票となってしまう場合が多くなってきました。 ですから帰化者の政治参加が増えることが、日本の政治を活発化することに繋がるのではないかと期待するところです。
ところでインターネットの世界ではネトウヨ民族主義者と思われる人たちが、帰化者の立候補に対して「国益」とかの用語を使って反対意見を出していましたね。 彼らはこれで正義を主張していると思っているみたいですが、内容がかなりレイシズム的ですから醜悪としか言いようがありません。
【拙稿参照】
ヘイトにさらされた帰化者―新井将敬 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/09/22/9527735
国籍を考える―新井将敬 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2017/07/27/8628332
帰化者を調べるのは簡単なのだが―北村晴男 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/02/01/9559829
にあんちゃん(2)―物議を醸した部分 ― 2023/04/26
http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/04/21/9578840 の続きです。
在日朝鮮人について書かれているもう一つは、後々で問題になった部分です。 念のためにその部分をスキャンしました↑。
兄妹四人は、苦運のどん底におちてしまいました。 兄さんの職がないのです。 それどころか、家だってないのですから。
ここにおられませんのです。 なぜかって、きのどくだし、おれといっても、こっちからことわります。 なぜかというと、《わたしが しごとを しないからかも しれませんが,わたしの わるくちを,いって おられるのです。 わたくしには つめたく あたる のです。 それも にあんちゃんの おられない ときだけです。 『びんぼう ちょうせんじん でていけ。 おいがたの いえにおらせん』》といわれるのですから、おればつめたい目でにらまれて、やせるばかりです。 <1954年6月17日 木曜日 晴れ> (小学五年) 192頁
このうち二重括弧《》内は、日記ではローマ字です。 分かりやすいように漢字混じり文に書き直しますと
私が仕事をしないからかも知れませんが、私の悪口を言っておられるのです。 私には冷たく当たるのです。 それも、にあんちゃんのおられない時だけです。 「貧乏 朝鮮人 出ていけ。 おいがたの家に、おらせん」
「にあんちゃんのおられない」は「二番目の兄ちゃんがいない」という意味です。 「おいがた」は「オレのところ」、「おらせん」は「おられないようにする」という意味で、おそらく北九州地方の方言でしょう。
長兄は仕事を探している時、弟妹を知り合いの宮崎さんという家に一時的に預かってもらったのですが、それが一時的ではなく1年にもなってしまいました。 その時の日記が上記で、宮崎さんから「貧乏な朝鮮人は出ていけ。ウチの家におられないようにしてやるぞ」と言われたと書いたのです。 しかも肝心な部分がローマ字なので、本当のことを隠すためにあえてローマ字にしたのではないか、という憶測を生むことになったようです。 ですから宮崎さんは“冷たい”というバッシングを受けたのでした。
ところが日記の作者である安本末子さんは、のちに『朝日ジャーナル』(1981年11月6日号)のインタビュー「安本末子さん 日本には感恩の情 朝鮮には深い愛情 『にあんちゃん』から童話の世界へ」で、次のような恐縮と謝罪を繰り返し口にしています。
私が実名で出たことは仕方がないにしても、宮崎さんとか、滝本先生は、ずいぶんお世話になったのに、ちょっと敵役みたいなかたちで出てしまって、とくに宮崎さんについては、冷たい仕打ちをしたみたいなことを実名で書いてある。
当時、宮崎さんは乳飲み子を抱えた五人家族で、二間の炭鉱の長屋に住んでいたんです。 そこへ兄がほんとに困り果てて、一時的でいいからということで頼んだんですけど、こちらはズルズルと一年近く居すわってしまった。 だから、どんなに大変だったかっていうのは、よく分かるんです。‥‥
それが日記では実名で出て、しかも「家にかぎ掛けていきますよ」っていわれたとか、細かく、何も分からずに書いているんですね。 だから、いや、とんでもないことをしてしまった。 恩をあだで返したという思いが、心にズシンときて、非常に重たかったわけです。 その後、マスコミに出るのを非常に嫌ったことの一番の理由は、そこにあったんです。
―杉浦明平さんが66年に書いた文章に、宮崎さんはその本が出たために、ひどい目に遭ったようだということが出ていました。
具体的には知らないんですけど、予想はできます。 あんなけなげな兄妹四人に冷たくして、みたいな見方をされたんじゃないでしょうか。 読者の中には、10歳の子供が書いたことだと受け止めてくださった人は多いんですけど、だからといって実名で出してしまったことが許されるわけじゃないっていう思いは、ほんとにズシンときましたね。 (以上 36~37頁)
宮崎さんに対して申しわけないと、心に突き刺さっている部分がもう一ヵ所。 朝鮮人だからって陰口をされた、というふうに書いてある。 直接いわれたわけではないのに、ああ、そんなふうに思われているのか、かなしい、というふうな記述だったと思うんです。 ただ、いま思い返してみて、私が朝鮮人だという差別を何か受けたかというと、何も思い浮かばないんです。 (39頁)
さらに著述家の成美子さんはその2年ほど後に安本さんに直接取材して、『朝鮮研究』232号(1983年7月)に次のように報告しています。
「本当に差別を受けなかったのですか?」と私はずいぶん執拗に安本末子さんに食い下がった。 「びんぼう ちょうせんじん でていけ」という言葉をローマ字で日記に記さざるを得なかった少女の屈折した感情が差別と無縁であるとは思えなかったのである。 末子さんは頑固に頭をふり、ローマ字を習いたての女の子が得意になって書いたにすぎず、それがはからずも一年以上もお世話になった家の人を傷つけ申し訳ないことをしたというのだった。 (晩聲社『在日二世の母から在日三世の娘へ』1995年9月に所収 280頁)
宮崎さんが何気なく呟いた言葉を子供が聞きつけて、安本さんに伝えたのでしょうか。 宮崎さん宅も貧乏で子沢山なのに、そこに他人の子供が二人も転がり込んで1年も居候している(兄と姉は働きに出て、あまり帰って来ない)のですから、そんな呟きはあり得ると思うのですが、どうなんでしょうか。 そして安本さんが小学5年生になってローマ字を書くことに興味を覚えた際、その聞いた呟きを日記に書いたと思うのですが‥‥。
担任の先生と家族以外に誰も読まれないと思って書いた日記が出版され、実名がそのまま出てきたのですから、書かれた人はビックリ・大迷惑だったでしょうねえ。 (続く)
にあんちゃん(1)―在日朝鮮人少女の日記 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/04/21/9578840
にあんちゃん(1)―在日朝鮮人少女の日記 ― 2023/04/21
『にあんちゃん』は64年前の1958年11月に発行された在日朝鮮人少女の日記です。 この本は評判を呼んでたちまちベストセラーとなり、ラジオやテレビにドラマ化して放送され、また映画化もされました。 8年後の1966年に発行部数63万部、23年後の1981年に114版、それ以外に筑摩や角川、講談社などからも文庫として発行されてきましたから、おそらく数百万部になるでしょう。 また韓国でも1959年に翻訳して発行されて10万部以上が売れたといい、また同時に映画化され、近年また本が再発行されているそうです。
本の内容は、ネットでは次のように紹介されています。
『にあんちゃん』は、1958年に初版が出版された安本末子(やすもと すえこ)(1943年2月8日 - )の著書。 在日コリアンである安本が10歳の頃(小学校3年生~小学校5年生)に書いた日記である。
昭和28年(1953年)、佐賀県の炭鉱地帯。3歳の時に母を亡くし9歳で父をも失った末子は、炭鉱の臨時雇いの長兄のわずかな稼ぎで兄弟姉妹四人、毎日の糧にもことかく極貧の生活を送っていた。 しかしその長兄も会社の首切りに会い失業。 四人は炭住を追い出され、一家離散。 末子と次兄はつてを頼って他家に居候同然に転がり込むが貧乏はどこも同じであちこちを転々。 そんな究極の困難にもめげず、素直なこころと暖かい思いやりを忘れずに熱心に勉強にはげむ末子の日記
両親を早くから亡くし、頼れる親戚もいない中で兄弟姉妹四人が極貧の生活を送りながら助け合って生きてきた、そして一番下の妹は学校で元気に明るく過ごし、日記を書き続けてきた、というものです。
本が出た1958年11月は小松川事件の李珍宇が逮捕されて二ヶ月後で、在日朝鮮人に対するイメージが底まで落ちていた時期でした。(下記参照) そんな時にこの『にあんちゃん』が出たのです。 ですから在日朝鮮人のイメージ向上に大いに役立ったと思うのですが、在日朝鮮人の歴史書を何冊か当たったところ全く取り上げられていません。 おそらくは、在日の歴史というのは〝日本から受けた民族的苦難とそれに対する闘い″という絶対テーマでなければならず、この『にあんちゃん』はそれに符合しなかったからではないかと考えます。
それではこの日記では在日がどのように書かれているのかに注目してみました。 図書館から増補版の『にあんちゃん―十才の少女の日記』(光文社カッパブックス 昭和33年11月)を借りることができたので読んでみますと、自分たちが在日朝鮮人としてどういう扱いを受けたのかが書かれていたのは二ヶ所だけでした。 一つは日記の最初の方に出てきます。 小学3年生の時の日記ですから“ひらかな”が多く、ここでの引用では読みやすくするために漢字混じりに書き直しました。
兄さんは今、3年も前から、水洗ボタ(石炭の水洗い)のさおどり(石炭車の運搬)をして働いていますが、特別臨時なので賃金が少ないのです。 賃金というのは、働いたお金のことです。 それが、普通の人より、大分少ないのです。 どのくらい少ないのかといったら、残業を2時間しても、何にもならないというほどです。
お父さんがおったときは、二人で働いていたから、それでもよかったけど、今は生活に困るから、入籍させてくださいと、労務の横手さんに頼んだら、できないと言われたそうです。 どうしてできないのと言ったら、吉田のおじさんの話は、兄さんが朝鮮人だからということです。 <1953年1月26日 月曜日 晴れ> (小学三年) 12~13頁
「入籍」というのは正社員になることを意味するようです。 父が亡くなった一家を支える長兄は炭鉱の臨時雇いで働いているのですが、朝鮮人である理由で正社員になれなかったという話です。 作者は知り合いのおじさんからそう聞かされたのですが、可能性はあります。 しかし本当なのかどうか、確認のしようがありません。 (続く)
【拙稿参照】
水野・文『在日朝鮮人』(17)―小松川事件 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2016/08/15/8152243
小松川事件(1)―李珍宇救援を呼びかけた人たち http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/04/04/9574532
小松川事件(2)―李珍宇と書簡を交わした朴壽南 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/04/08/9575512
小松川事件(3)―李珍宇が育った環境 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/04/12/9576502