韓国の「道徳」は日本と違う―小倉紀蔵(3)2022/07/05

http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/06/21/9501927 の続きです。

 小倉さんは、韓国と日本とでは「道徳」「法」が違うと論じます。

「道徳」「法」などという語彙を日本語と韓国語は共有しているが、これらが「両社会で同じ意味内容を持つ」と誤解するとき、日韓の対立が大きくなる(28頁)

 「道徳(도덕)」や「法(법)」、日本と韓国とでは同じ言葉を使っていても、内包している意味が違うのです。 朝鮮人と日本人は区別がつかないほどによく似た人種ですが、歴史も文化も違う民族です。 この二つの民族が同じ釜の飯を食って運命を共にしたのは、植民地時代の35年間だけです。 それ以前の数千年間、そしてそれ以後の数十年間は別社会として両民族は過ごしました。 従ってたとえ同じ言葉でも意味が違うのは、もう当たり前でしかありません。 それを同じだと思い込んで話し合えば、違和感さらには葛藤するのは当然です。 

「日本では法が重視され、韓国では道徳が重視される」という認識‥‥ この場合に、韓国に対する蔑視や軽視の視線は介在していない。(31頁)

 小倉さんは日本の法重視と韓国の道徳重視を並べて、韓国は間違いで日本の方が正しく優れていると考えることは危険だと忠告します。

ところが日本の嫌韓派は、この認識をよりどころにして、韓国蔑視をしている。 これが危険なのだ。‥‥ 「日本と違って韓国の民主主義は法を軽視するのでレベルが低い」と単純に考えるのは危険だ。(31~32頁)

 なぜ危険か。 世界標準的(グローバルスタンダード)に見ると、日本は韓国に完敗する可能性があるからです。

韓国の法的な交渉力は、グローバルスタンダードに照らし合わせて、きわめて高いレベルにあるのである。徴用工や慰安婦の問題に関しても、国際司法裁判所などの法的判断にゆだねれば日本の主張が必ず認められる、と日本政府や保守派は考えているのかも知れないが、それは甘い。 むしろ日本が完敗する可能性すらある。 その理由は、日本のリーガル(合法性とか順法とかの意味)精神よりも韓国のそれのほうがずっと進んでいるからだ。(32~33頁)

たとえば日韓基本条約と請求権協定、慰安婦合意などに対して「合意は拘束する=守られなければならない」という原則論のみを押しの一手で主張しても、負けるときは負ける。(33~34頁)

慰安婦問題に関する韓国の地裁判決に対して「主権免除の原則(外国の主権的行為に対する損害賠償は認めることはできない)」のみを唱えても、負けるときは負ける。(34頁)

 なぜ負ける可能性があるのか。 それは、今の世界では「正義を取り戻そうとする潮流」が展開されているからだと小倉さんは説きます。

19世紀から20世紀前半にかけて支配と被害を受けた側がいま、正義を取り戻そうとする潮流がグローバルに展開しており、国際的な司法もそれに呼応しつつある。 つまり法の世界がいま、「正義の回復」というメガ・イシューをめぐって攻防している。 これは、政治学・政治思想・法学などの世界で「移行期正義」といわれている概念とリンクした動きだ。(35頁)

独裁や強権支配や紛争状態から解放されていく過程において、どの国も統治権力によっておびただしい人権蹂躙や暴力が行使されてきた。 その犠牲をそのままにせず、過去に踏みにじられた人権の回復を目指そうというのが「移行期正義」である。 正義を取り戻す際に、政治や法を道徳的な要求に呼応できるものにかえていかなくてはならない。 「法の道徳化」という現象がグローバルなレベルで起こっているのだ。 これは韓国人がもっとも得意とするベクトルである。(35~36頁)

 「日本の法」「韓国の道徳」という言葉で論じてきましたが、小倉さんは世界では「法の道徳化」現象が起きていると説きます。 そしてそれは、「韓国人が最も得意とする」ところなのです。 

 日本が韓国に「約束を守れ!」「法に従え!」と要求することは我々から見れば正当なのですが、世界の「法の道徳化」の動きのなかでは日本が世界の理解を得られるとは限らない、ということになります。 韓国の「道徳性優位論」の方が世界的に認められる可能性があるのです。 そう、わが日本が正しいのだと思って油断していてはいけないのです。 韓国側の考え方を常に分析・研究して知っておかねば、「負けるときは負ける」のですから。(終わり)

【追記】

 小倉紀蔵さんは韓国について以上のように鋭い分析をしていますが、一方ではかなり疑問なこともたくさん発言しておられます。 今回紹介した『韓国の行動原理』(PHP新書)でも、何故こんなことを言うのだろう、余りにも理解できないという箇所が多いです。

拙ブログでは小倉さんについて、4年ほど前ですが、下記のように疑問を論じました。

小倉紀蔵さんの疑問な発言   http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2018/09/13/8959634

【拙稿参照】

韓国の「道徳」は日本と違う―小倉紀蔵(1) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/06/21/9501927

韓国の「道徳」は日本と違う―小倉紀蔵(2)  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/06/28/9504029

「両班」理念が復活した韓国―『朝鮮日報』(1)http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/05/17/9491298

李朝の「両班」理念が復活した韓国(2)  https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/05/24/9493453

李朝の「両班」理念が復活した韓国(3) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/05/31/9495653

「通常‐両班社会」と「例外‐軍亊政権」―田中明  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/06/07/9497623

「例外」が終わり「通常」に戻る―田中明(2)  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/06/14/9499717

古田博司 『醜いが、目をそらすな、隣国・韓国!』(3) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2014/03/21/7250136

古田博司 『醜いが、目をそらすな、隣国・韓国!』(4) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2014/03/26/7254093

古田博司 『醜いが、目をそらすな、隣国・韓国!』(5) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2014/03/29/7261186

韓国の「道徳」は日本と違う―小倉紀蔵(2)2022/06/28

http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/06/21/9501927 の続きです。    次に「道徳」について、日本人のなかでも韓国と同じような考え方をする人たちがいます。 それは左翼だと小倉さんは言います。

日本左翼は、「韓国人・朝鮮人・在日こそ道徳的で、日本人は不道徳」という枠組みを死守していた。かつて帝国主義の悪辣な日本が朝鮮を植民地支配したことで、そして戦後も韓国へ「経済侵略」を続けることなどを糾弾するために、道徳という概念を使った。(25頁)

この(日本左翼)たちは ‥‥日本の併合植民地統治に対して朝鮮人がすべて抵抗心を持っていたとか、韓国人・朝鮮人・在日はすべて真摯に生きる道徳的な人々である、などという虚構を捏造して日本批判をする。 そのとき、自分たちの目的(日本の保守や侵略性への批判)を推進するために、韓国人・朝鮮人・在日の多様で実存的で魅力的な生をすべて画一化し、「道徳的な怪物」にでっち上げてしまった。(26頁)

 左翼は韓国人・在日らを「道徳的な怪物にでっち上げた」とは、“言い得て妙”ですね。 

このような二項対立(道徳的な韓国・朝鮮と不道徳的な日本)は歴史について何も語らないだけでなく、虚偽の歴史を捏造し、韓国人・朝鮮人・在日の生の多様性と主体性を無化して画一化し、それを単なる利用対象としてしまったのである。 これが蔑視でなくて何なのか。(26頁)

 左翼が韓国人・在日らを「単なる利用対象とした」というは、正にその通りです。 彼らは自分たちの反体制思想を宣伝するために、体制側(戦前復帰とか植民地主義などと表現される)の犠牲となったとされる韓国人・在日を取り上げます。 小倉さんはこれが結局、韓国人・在日に対する「蔑視」であると小倉さんは喝破しました。

 日本批判を繰り返す韓国人・在日の活動家や知識人たちは多いのですが、日本左翼では彼らが重宝されるのでした。 かつての朝鮮問題の集会で、在日活動家が植民地支配の歴史と戦後の差別を滔々と演説し、それを日本人支援者たちが黙って聞き入る、これこそが日朝(日韓)連帯だ、なんてことが繰り返されたことを思い出します。 こういう集会は、今も行なわれているみたいですね。

 小倉さんは以上のような日本左翼だけでなく、右翼=保守派へも厳しい批判を浴びせています。

保守側の「朝鮮半島認識」にも、蔑視の領域に属するものが多い。 それを尖鋭化したのがいわゆる嫌韓派の言説だが、これには民主的な社会の公的空間において到底容認できないレベルのヘイト的なものが多く、実に嘆かわしい。 伝統的に日本人が持っている韓国・朝鮮への強い差別意識の土台のうえに、この20年の間に蓄積された客観的で高度な朝鮮半島認識が都合よく加味されているのが、この嫌韓的言説の特徴である。 つまり嫌韓派は‥‥あたかも自分たちの認識は客観的であるかのように装っている。 しかしここに陥穽がある。 ここには洞察がなく、自分に都合のよい知識の断片をパッチワークしているだけだからだ。(27頁)

嫌韓派の多くは「日本は法治がきちんとしている立派な民主主義国家だが、韓国は情治や人治しかできず、三権分立もできていない前近代の国」という認識をもっている。これは部分的には正しい。‥‥だが、この枠組みが過度な信念体系になってしまうと、あきらかに誤謬の領域に突入し、日本の国益にも著しく反する認識となる。(27~28頁)

 嫌韓派が「誤謬の領域に突入し、日本の国益にも著しく反する」というは、その通りとしか言いようがありません。 しかし当の嫌韓派たちはそれを自覚しておらず、自分たちこそが正義だと勝手に思い込んで、ネット等でせっせと熱心に「国に帰れ!」「国交断絶!」「韓国はウソつきだ!」などの嫌韓投稿をしています。 更に犯罪まで行ったのが、ウトロ放火の有本匠悟でしょう。 

 こういった嫌韓派(ネットウヨ)の存在が、日本は道徳的に下位にあるとする韓国の「道徳論」の材料となっています。 嫌韓派は、韓国の「道徳優位性」主張の根拠をせっせと提供してやっている、という構図ですね。 嫌韓派は自分たちが結局は韓国を応援しているということに気付いてくれればいいと思って、私はかつて彼らと議論したことがあったのですが、やはり無理だと分かりました。

【拙稿参照】

嫌韓は2005年から本格化した  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/04/01/9477726

ウトロと韓国民団を放火した人物―有本匠吾(1)  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/04/25/9484690

ウトロと韓国民団を放火した人物―有本匠吾(2) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/04/28/9485573

韓国の「道徳」は日本と違う―小倉紀蔵(1) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/06/21/9501927

韓国の「道徳」は日本と違う―小倉紀蔵(1)2022/06/21

 韓国のニュースを読んでいると、いつも違和感を持つ単語があります。 それは「道徳」です。 例えば、日本関連のニュースでは「道徳的優位性」という言葉がよく使われます。 言葉のニュアンスと前後の文脈から、わが韓国は日本よりの道徳的に優位に立つ、という意味であることが分かるのですが、はて「道徳」?

 普通の日本人なら何を言っているのか分からず、どうやら韓国は自分たちの道徳性が高いと自慢しているようだ、そんな人に「その〝道徳″って何ですか?」と聞き返すことはケンカになるかも知れないので当座は黙っておこう、となるでしょうから、会話がそこで途切れることになります。

 韓国の「道徳」について、詳しく説明しているものはないかと探していたら、小倉紀蔵『韓国の行動原理』(PHP新書 2021年7月)に次のようにあるのを見つけました。

この『韓国は一個の哲学である』という本で、私が主張したことをひとことで言えば、「韓国人は道徳を叫ぶが、それは韓国人が道徳的だからではない」ということだった。 これは私が八年間、韓国社会をつぶさに見聞きした結果得た認識である。 私の核心的な疑問は、「韓国人はなぜ、自分がさして道徳的な生を営んでいるわけでもないのに、四六時中、道徳ばかりを叫んでいるのか」ということだった。 これを私は「道徳的志向性」という言葉で表現した。 (24頁)

 なるほど、韓国で使われる「道徳」という言葉は、わが日本で使われる「道徳」とは意味が違っているようです。 それでは韓国の「道徳」とは何か? 小倉さんは「朱子学」だと説きます。

(道徳志向性の)傾向性の淵源は、朝鮮王朝を500年間支配した朱子学にあると見た。‥‥(朱子学の)特徴は、宇宙や人倫社会のすべてを理と気で説明することにある。 気とは霊的な物質であり、理とは根源的な道徳である。

理は、宇宙の秩序の原理であると同時に人間関係の根本を規定する道徳でもある。 朱子学的な社会においては、この理を体現している人間でなければ主体性を持つことができない。 理を体現できなければ、他者に支配されてしまうのである。 だから、人間関係すべて「自分と相手とどちらがよりたくさん理を体現しているか」という競争的なものになる。‥‥韓国で道徳というのは、敵を叩き潰すときに使われる武器なのだ。(以上、24~25頁)

 朱子学は難しいですね。 要は、「理」とは「根源的な道徳」であり、この「理=道徳」を有する者こそが社会を支配することができる、ということです。 この「理=道徳」を体現する者が儒教でいうところの「君子」であり、李朝(朝鮮)時代では「両班」と呼ばれる上流身分であり支配階級となります。

 逆に「理=道徳」のない者は、両班から支配されて当然ということになります。 この理や道徳のない人間が、儒教でいうところの「小人」であり「夷狄」です。 「小人」は下層身分で常民とか言われる人たちで、そして「夷狄」が我が日本のことになります。

 両班が小人や夷狄に対して「道徳」を説くということは、お前たちはこちらの支配を受けるのだから言うことを聞け!と言うのと同じなのです。 だから韓国における「道徳」というのは、小倉さんの言葉を使えば「敵を叩き潰すときに使われる武器」なのです。

 韓国では日韓の外交交渉時などで、「日本に対してそんなことを言っていたら、道徳的優位性を示せない」という意見が何の違和感もなく受け入れられるのは、李朝時代からの伝統である朱子学から説明できると思われます。 逆に日本では、「道徳的優位性」という言葉に大きな違和感を持つでしょう。 外交は対等な国家間での交渉なのに、なぜ「道徳」というようなことを言うのか?という疑問です。

 ここで小倉さんが「韓国で道徳というのは、敵を叩き潰すときに使われる武器」と喝破しました。 韓国は、“日本はいつまでも「夷狄」なのだ、そのために我が韓国は常に道徳的優位に立って、対等なんて考える日本を叩き潰さねばならない”という風に「道徳」を「武器」として使っているということです。 こういう説明は分かりやすく、説得力がありますね。

【拙稿参照】

「両班」理念が復活した韓国―『朝鮮日報』(1)http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/05/17/9491298

李朝の「両班」理念が復活した韓国(2)  https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/05/24/9493453

李朝の「両班」理念が復活した韓国(3) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/05/31/9495653

古田博司 『醜いが、目をそらすな、隣国・韓国!』(3) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2014/03/21/7250136

古田博司 『醜いが、目をそらすな、隣国・韓国!』(4) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2014/03/26/7254093

古田博司 『醜いが、目をそらすな、隣国・韓国!』(5) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2014/03/29/7261186

「例外」が終わり「通常」に戻る―田中明(2)2022/06/14

http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/06/07/9497623 の続きです。

 1987年の民主化宣言により、韓国は「民主化」されたと言われました。 しかしその民主化勢力であった野党は分裂を繰り返して政権を奪えず、軍人であった盧泰愚が政権を担ってしまいました。 しかし、やがて野党民主化勢力が主導権を握ります。

1990年には与党が金泳三氏(野党民主化勢力の代表的人物)を迎え入れることによって、政界は旧野党勢力によって牛耳られることになった。 「例外」の時代は完全に終わったのである。 ここでまた錯覚が生じた。 軍人政権が退場し「例外」から「通常」へ推移する過程を、民主抵抗の勝利、つまり民主化の進展と見る錯覚である。 これは日本人にも当事者である南北朝鮮側にもよくある願望をこめた錯覚である。(11頁)

野党勢力が民主化を旗印にして、権力に抗議し抵抗してきたのは事実である。 しかし民主化を唱える人がすなわち民主主義者というものではない。 われわれは(1980年代)に、どういう光景が現出したかを知っている。 日本のテレビでもよく映されたが、権力の暴力を糾弾し民主化を絶叫していたはずの両金氏(金大中と金泳三)の支持者たちが、角材を振り回して争ったり、石や火炎瓶で反対候補の演説を妨害したりする暴力シーンがひんぱんに起こっていた。 それが政界の一部の現象にとどまらず、社会全体に「民主勢力が強圧的に振舞う」という言語矛盾的な現象を生み、民主主義の核心ともいうべき言論の自由が脅かされる、という事態まで生じた。(11~12頁)

野党勢力が韓国政治の全面を塗りつぶすようになるとしても、それをただちに民主化の成果というのは、きれいごとに過ぎよう。‥‥ 朴正煕大統領の死後、韓国政治のたどった道は‥‥民主化の進展というものではない。それは「通常」に復したのである。(12頁)

 今回のブログで引用している田中氏の著作は1992年の発行ですから、「例外」から「通常」に戻ったところで終わっています。

 この続きを言えば、「権力の暴力を糾弾し民主化を絶叫し」ながら「角材を振り回して争ったり、石や火炎瓶で反対候補の演説を妨害したり」した人たちが後に「586運動圏」「進歩」と呼ばれるようになります。 そして彼らは政治家となって盧武鉉・文在寅政権に参入し韓国の政治を押し進めた、という流れになります。

 田中氏によれば、この盧・文政権時代が韓国の「通常」の姿ということになります。 しかしだからと言って李明博・朴槿恵政権時代が「例外」なのかと問われれば、単に進歩に対する反発でしかないように思われますので、私には「???」と疑問符がたくさんつきますね。 田中氏がもしまだご存命なら、今度の尹錫悦政権も含めて「例外」ですかと聞いてみたいです。(終わり)

「通常‐両班社会」と「例外‐軍亊政権」―田中明  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/06/07/9497623

「通常‐両班社会」と「例外‐軍亊政権」―田中明2022/06/07

 これまで韓国の進歩勢力(586運動圏等)は李朝時代の両班の再来であり、韓国は両班社会の道を歩んでいるとするキム・ウンヒ博士の所論を紹介しました。

「両班」理念が復活した韓国―『朝鮮日報』(1)http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/05/17/9491298

李朝の「両班」理念が復活した韓国(2)  https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/05/24/9493453

李朝の「両班」理念が復活した韓国(3) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/05/31/9495653

 これによく似た主張をしたのが、かなり古くなりますが、田中明さんです。 田中氏は1970年~2000年代初に韓国に関する論考や本を多数書いていました。 そのうちの一つが『韓国政治を透視する』(亜紀書房 1992年11月)で、1961年の軍亊クーデター以前の韓国社会を「通常」、クーデター以後を「例外」として論じ、前者の「通常」が両班社会だとしています。

 まずはこの「通常」から、紹介します。 これは解放(1945年)以後、軍事クーデター(1961年)までのことです。

韓国の「通常」とはどういうものだろう。‥‥ ある社会において「通常」とは、その社会がムリなくおのずと醸し出した、それゆえにその社会の土壌にぴったりと合った、人間の存在様式と言っていいだろう。 韓国政治における「通常」とは、保守有産層の人々が離合集散しつつ繰り広げてきた権力争奪戦だった。(5頁)

解放直後から延々と命脈をたもってきた韓国の政党は、共産勢力の進出に危機感を抱いた地主・事業家・官僚らによって作られた韓国民主党の流れで、金泳三氏や金大中氏(民主化勢力である)もそのなかで政治家になる腕を磨いてきた。‥‥ この人たちは、おおむね王朝時代の支配層・両班の家門に属する人びとであり、おのずから伝統的性格を色濃く有していた。(5頁)

この両班というのは‥‥自分が民を教化し支配する有資格者であると信じて疑わない人びとだった。彼らは‥大義名分(イデオロギー)を論じることには長じていたが、概して実用の学には弱く、肉体を使う武事や労働を卑しんだ。‥‥富国強兵という課題を担わざるを得なかった近代国家の経営者の資質としては、望ましいものではなかった。 ‥‥解放韓国の政治を担った人たちは、伝統社会から両班の作風とその政治感覚を濃厚に受け継いでいた。(5~6頁)

 1945~61年の間、両班の遺風を受け継いで韓国政治を担っていた「保守有産層」が、この「通常」の時代の主人公でした。

 その次は「例外」です。 1961年軍事クーデター以降の時代となります。

1961年、朴正熙将軍らによって起こされた軍事クーデターと、それによって生まれた軍人政権は、朝鮮半島の政治・文化史上、まことに稀有なものであった。 あの国の歴史のなかに軍人政権の前例を求めようとすれば、700年前の高麗時代後期まで遡らなければならない。 以来、李朝500年を間において、文民優位・武人蔑視の風潮で貫かれてきたのが韓国社会だった。 従って、あのクーデターでは軍人という‶人種″が執権するなど考えられないところだった。(3~4頁)

クーデターの実行者たちは、そうした(両班の遺風を残す)旧い政治家、旧い政治風土への異質な挑戦者だった。 開発途上国の多くがそうであったように、当時の韓国でも、軍人は最先端のテクノラート集団だった。 大規模な組織管理や、政策の企画策定にかんする訓練を体系的に積んだ集団は他になかった。 そして何よりも彼らは、体を使うことを厭わぬ実践家だった。(7頁)

朴政権はそうした従来の「国」(両班社会)を、農民たちも我がものと思えるような「近代国民国家」に組み替えようとした。 朴氏は軍人だが、軍事についてはほとんど語らず、ひたすら経済建設に心血を注いだ。 国を富ませ、国民に安定した社会を与えること。 そうすれば、そこで得られた安定感が、こんどは国を守ろうとする国民相互間の紐帯を育て上げ、国際社会を生き抜くことを可能にする――と彼は考えたのである。 そのために彼は危険な道を行くことを厭わなかった。(8~9頁)

朴将軍らのやったこと(軍人が政権を担うこと)は「例外」中の例外事だった‥‥ そうしたことに日本人は長く気付かなかった。 一つには戦後の日本が付き合い始めたのが朴政権の韓国だったからであろう。 韓国事情にうとく、歴史的には武人政権には慣れている日本人には、それが例外であることに気付かず「通常」の韓国だと錯覚したのである。 それが「漢江の奇跡」といわれるような目覚ましい経済建設を成し遂げたことによって、日本人の錯覚を一層強めた。それほどの成果を上げた政権なのだから、それは韓国の体質に合ったものであり、例外的な存在だとは思えなかったのである。(4頁)

 「例外」の時代は、軍人政権が韓国を近代化し、国を経済的に豊かにした時代だと論じています。

 一方両班の後裔であり「通常」社会時代の主人公であった保守有産層は、この軍人政権下では野党となって政権を「非民主的独裁政治」と糾弾しました。 ですからこの時代の韓国政治は、「強権支配」の軍事政権与党と「民主抵抗」の野党勢力の対立という構図になります。 

 これが世界に喧伝されて、野党は軍事独裁政権から弾圧されている民主主義者として世界中から同情を集めます。 そして日本でもこの当時、韓国の民主化闘争に連帯する活動が盛んでしたね。

 なお今では信じられないでしょうが、当時の韓国では大学生は富裕家庭の子弟が行くところでした。 その彼らが学生運動として、民主化闘争に参加したのです。 ですから学生たちが軍事独裁政権に抗して反体制運動したというのは、当時の野党勢力が「保守有産層」であったことの延長にあると考えれば、特に違和感のあるものではありません。 

 ちょっと極端に模式化すると、両班から支配を受けてきた下層階級が右派となって近代化を推進する軍人政権を支持し、前近代の両班を受け継ぐ上層階級が左派となって軍人政権に対抗した、ということになります。 そして朝鮮史を概観すると、後者が「通常」の姿であり、前者が「例外」の姿だったというのが田中明さんの考え方です。(続く)

李朝の「両班」理念が復活した韓国(3)2022/05/31

https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/05/24/9493453 の続きです。

 次に「両班」と化した現在の「586運動圏」「進歩」は、盧武鉉や文在寅大統領を担いで政権を掌握しました。 キム博士は続けて論じます。

―1人当たりGNP3万ドルの富国である韓国が新両班社会になるなんて、あり得るのか?

文在寅政府が推進した「利益共同体」、「社会的企業作り」、不動産「投機」を懲らしめる「賃貸借3法」などは、個人が利益を追求し富を蓄積する日常的な行為まで抑圧する反資本主義的政策です。 ここでは富の均等な分配を最優先する儒教的経済観が深く反映しています。

―朴正熙大統領はどうなのか?

彼の執権が「革命」か「クーデター」か、朴正熙のリーダーシップは文化的観点から見る時、「革命的」でした。 朴正熙が掲げた「豊かに暮らそう」「働く政府」のようなスローガンは、富の蓄積を罪悪視して商工人を冷遇した李朝両班のリーダーシップとの決別だった。 朴大統領は「株式会社韓国(Korea Inc.)の創業者でありCEO」だった。彼は、無能で怠け者である両班の理念でもって自由な経済活動を妨害してきた儒教文化を退けました。

―「経済民主化論」は、どうか?

儒教的経済観は、民主化運動をした政権の度に増幅してきました。 初代文民政府である金泳三大統領の時から「(富を)持つことが苦痛になるようにしよう」「お金のある者が権力まで持ってはダメだ」と言って、金持ちを叩きました。 文在寅大統領は2020年6・10民主抗争記念の式辞で「平等な経済は私たちが必ず成就せねばならない実質的民主主義」と言いました。 正義と道徳、等分を核心とした李朝後期の両班社会と何が違いますか?

文在寅政府の5年間、ずっと公務員の待遇がよくなり、公務員試験受験生が急増した反面、企業家精神と経営者の士気は大きく衰退しました。 このような現象は、やはり李朝後期の「士農工商」の観念がどの政権の時よりも強く投影され表出した結果です。

―本では、「韓国の民主主義は‶天命″と‶民心″を掲げた李朝後期の性理学者たちの世論政治をそのまま引き継いでいる」と指摘していたが。

そうです。 韓国の民主主義の特徴は、集団としての国民が法の上に存在するという点です。 これは、ほとんどの民主主義が「法」の支配を受けても「国民」の直接的支配は受けないということと大きく違います。 イギリスの言論人であるマイケル・ブリンが指摘したように、韓国社会では「国民たち」が激怒すれば、公正な法的手続きや客観的な証拠、弁護と人権などは重要ではなくなります。 「国民」は「野獣」に変わり、法を実行する人たちは野獣に服従します。

ブリンの表現のように、韓国は「国民を神として仕える社会」です。 これは「諫官(主君の非を諫めること仕事をする職)」と「ソンビ(学識のある士人―両班とほぼ同じ)」たちを通して形成された世論は、王様も服従せねばならない「天命」であり「民心」であるという李朝後期の両班社会の焼き直しです。

 「韓国の民主主義の特徴は、集団としての国民が法の上に存在するという点です」というところは、いわゆる「国民情緒法(法よりも国民世論が優越する)」です。 詳しくは「国民情緒法」で検索してみてください。

―西欧の民主主義国家はどうか?

西欧の市民社会で、世論は政治行為で参考にする要素であるだけで、絶対的な命令や指針ではありません。 アメリカでは、ニクソン大統領が弾劾訴追されて1972年8月に辞任するまでの約2年の間、事実(fact)関係に対する厳正な捜査が進められた。 しかし朴槿恵大統領はろうそくデモが始まって何週間かして国会で弾劾が決定され、また三ヶ月して憲法裁判所が満場一致で弾劾を認めました。 国民の即興的な判断は、無条件に肯定し信頼できるのでしょうか?

 キム博士は、このまま行けばどうなるかを考察します。 なおこのインタビューは保守派が勝利した3月9日大統領選挙より以前のものですから、これを念頭に入れてください。

―韓国が「新両班社会」にずっと突っ走っていくなら、どんな結果が生まれるのか?

法治の崩壊を経て、思想・言論の自由の消滅、権力の中央集権化が深化することになります。 正義と道徳を独占する少数の特権層が全体を統治する北朝鮮・中国・ロシアのような独裁的全体主義が韓国でも広がるでしょう。 そうなれば経済的成功は段々と消えさり、国民はまた貧しくなっていきます。

―そんな流れを止めようとするなら、何が必要なのか?

高度の分業化がなされた産業社会である大韓民国で、農村共同体意識に基づく新両班社会は旧時代の遺物であり、幻想です。 韓国社会が市民社会に発展しようとするなら、世論に振り回されずに、自分なりに考える批判的思考(critical thinking)能力を持った個人が多くなければなりません。 そうでないなら、選挙で一人が一票の投票権を持つ民主主義は何の意味がないのです。

 両班社会はこのまま行けば、「正義と道徳を独占する少数の特権層が全体を統治する北朝鮮・中国・ロシアのような独裁的全体主義が韓国でも広がるでしょう」と展望しています。 こうなると北朝鮮・中国・ロシアは両班社会のなれの果てであり、韓国はそれを追いかけているということになりましょうか。

 ところで今度の尹錫悦政権は、民主化勢力によって両班社会化した韓国をどうしようとするのか。 じっくり観察せねばならないところです。 (終わり)

【拙稿参照】

「両班」理念が復活した韓国―『朝鮮日報』(1)http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/05/17/9491298

李朝の「両班」理念が復活した韓国(2)  https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/05/24/9493453

朝鮮に封建時代はなかった   http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/11/23/7919936

法治国家かどうか疑問の韓国       http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2014/11/19/7496467

法治主義と儒教             http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2014/11/23/7500552

法に対する思想が根本的に違う日本と韓国 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2012/09/11/6570566

法より情を優先する韓国社会       http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2012/09/16/6575093

朴槿恵の謝罪―親の罪は子の罪か?    http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2012/09/25/6584335

法を軽視する韓国の民族性        http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2013/09/01/696793

英雄を救うために法を変えよ―韓国    http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/03/25/7597162

古田博司 『醜いが、目をそらすな、隣国・韓国!』(3) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2014/03/21/7250136

古田博司 『醜いが、目をそらすな、隣国・韓国!』(4) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2014/03/26/7254093

古田博司 『醜いが、目をそらすな、隣国・韓国!』(5) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2014/03/29/7261186

古田博司 『醜いが、目をそらすな、隣国・韓国!』(8) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2014/04/09/7270572

古田博司 『醜いが、目をそらすな、隣国・韓国!』(9) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2014/04/14/7274402

李朝の「両班」理念が復活した韓国(2)2022/05/24

http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/05/17/9491298 の続きです。

―親日清算と関連して、文在寅政府は「独立運動精神」学習を、そして北朝鮮政権は「満州抗日パルチザン運動」を強調しているが、互いに似ているように見える。

その通りです。 韓国の運動圏政府と北朝鮮の金正恩政権は、統治の正当性を「抗日闘争」と「精神」から探しているという点で、驚くほどに似ています。 「ろうそくデモは独立運動精神の継承」と文大統領は言いました。 この宣言は、世襲の正当化のために満州抗日パルチザン運動を神聖視する北朝鮮政権と瓜二つです。 金日成の家系を頂点にしたパルチザンの子孫たちは、北朝鮮社会の「最高特権層」であり、金正恩の一番熱烈な支持集団です。

親日清算を巡り、韓国社会が今なめている葛藤の中心には「誰が道徳的に優位か」という問いがあります。 この問いは「現代韓国社会の両班は誰なのか」の問題でもあります。今、南・北の政権は共通して「武装独立運動は絶対善であり、親日は絶対悪と確信しています。

 インタビュー記事が「『親日清算』を叫ぶ南政府と『抗日パルチザン』を称賛する北政権は驚くほどに瓜二つ」という副題を付けた所以は、この部分ですね。

―このような歴史観は、近代的で妥当なのか?

戦争能力がとんでもなく不足する状況でも、生命を捨てて最後まで「抗日」、すなわち「義」を実践せよと要求して称賛することは、日本の軍国主義の神風特攻隊を称賛することと同じです。 現代の韓国人たちが20世紀初めの抗日武装闘争精神を継承せねばならないと、私は考えません。 進歩勢力は、人民の生命と財産、人権を軽視した李朝後期の斥和(日本を排斥すること)論や衛正斥邪(国家の正学である朱子学を守り、その他全ての学問を排斥する)派の前近代的な歴史観にとらわれています。

―その論理なら、586運動圏は我が社会の新しい「特権層」になる。

そうです。 これは、全ての市民は家門と経歴、評判に関係なく、法の前で平等だとする近代社会の法治主義を正面から無視するものです。 新しい特権層の登場は、近代市民の基本権である個人の平等と自由を破壊し、全体主義化を引き寄せます。 医師・経営者・エンジニアのような専門家たちも、運動圏政府の監督・監視の対象です。彼らを統制しなければ、利己主義と貧富格差で不正義の社会になるという理由からです。

近代市民社会の特徴は、反日民族主義を社会正義だと考える集団とこれに反対する集団が共存するものです。 二つの集団のうち、どちらの集団が道徳的に優越すると推定する方法はありません。互いに違う考えを認めるのが正常な近代社会です。 しかし徳治を崇める道徳社会は、思想の自由と思惟の共存を許容しません。 そんな点で曹国・尹美香事態は、韓国社会が政治と道徳が分離していない両班社会に戻って行くのか、そうでなければ全ての市民が道徳的に平等な多元的市民社会に前進するのかという選択課題を投じてくれました。

両班体制という制度は李朝の滅亡とともに消え去りましたが、社会の「指導層」が国民を「指導」するくらいに道徳的に優越せねばならないという文化的感情は、韓国社会にそのまま生きています。

 かつての韓国の軍事独裁に抵抗し、その後政権を掌握するまでに至った民主化勢力は、「586運動圏」「進歩」などと言われます。 彼らは自分たちが「道徳的に優位に立って他の国民を指導し統制せねばならない」という使命感を持って、韓国社会に臨みます。 ですから彼らが韓国社会の主導権を握ると、「道徳的に下位」にあると見なす保守派に対して厳しい姿勢をとります。

 それは「法の下では全てが平等」という法治主義ではありません。 「586運動圏」「進歩」は、自分たちの考える「道徳」でもって社会を動かそうとする「徳治主義」となり、そして自分たちがその「道徳」を独占する「特権層」となります。 それは正に李朝時代の「両班」と同じなのです。 このキム博士の説明は、私には納得できるものです。

「両班」理念が復活した韓国―『朝鮮日報』(1)http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/05/17/9491298

「両班」理念が復活した韓国―『朝鮮日報』(1)2022/05/17

 ちょっと古いですが、韓国の主要紙『朝鮮日報』2022年3月5日付けに、「ソン・ウィダルが出会った人」というコラムで「『新両班社会』の著者で人類学者であるキム・ウンヒ博士」と題する記事がありました。 16世紀末~20世紀初の李朝時代後期の「両班」社会理念が、現代韓国の進歩派の間で復活していると論じるものです。   https://www.chosun.com/culture-life/culture_general/2022/03/05/R2KULV4EVZCQRL5GZPWZNUQB3I/    興味深かったので、翻訳してみました。 まずは記事内容のあらましです。

―「親日清算」を叫ぶ南政府と「抗日パルチザン」を称賛する北政権は驚くほどに瓜二つ

―政治・経済・社会・歴史観などで、韓国のエリートたちの考え方が李朝後期へと退行している。 「成長」より「均等・分配」を強調し、「持つ者」を敵対視する抑強扶弱を叫ぶ政治家たちが多くなったのが証拠だ。 これは貧富の格差がなく、全てが等しく暮らす農民社会を志向した李朝時代の儒教経済観の完璧な復活である。

―先月下旬に『新両班社会』という著書を出した人類学者のキム・ウンヒ博士が下した診断である。ソウル大学衣類学科75回生である彼女は、1993年アメリカのシカゴ大学で人類学位を受け、中央大学の兼任教授と韓国学中央研究院の専任研究員等をしている。2016年の夏からSNSで意思疎通を増やしている。

―キム教授はこの本で、586世代の運動圏を始めとする韓国の進歩志向の考え方と世界観を文化人類学的観点からメスを入れた。 「586世代、彼らが言う正義というのは何なのか」という副題を付けた。 記者は今月の初め、キム博士と電話と書面でインタビューした。

 「586世代」というのは、韓国において2010年代以降に年齢が50代で、1980年代に民主化・学生運動に関わった1960年代生まれの人々を指します。 「50代」「1980年代に民主化・学生運動」「1960年代生まれ」の数字から「586世代」という言葉が生まれました。 十数年ほどの年代差がありますが、日本の全共闘世代に相当すると言えます。

 「両班」とは、李朝時代において‶士農工商″身分制度の最高位の「士」(士大夫)に当たるものです。 その詳細はこのインタビューである程度理解できるとは思いますが、やはりご自分でお調べになるのがいいでしょう。 その実態を初心者向けに解説したものとして、尹学準『オンドル夜話』(中公新書)、『歴史まみれの韓国』『韓国両班騒動記』(亜紀書房)をお勧めします。 朝鮮史の専門家のものとしては宮嶋博史『両班―李朝社会の特権階層』(中公新書)があります。

―今大韓民国が「新しい両班社会」に向かっていると見るのか?

そうです。壬辰倭乱(秀吉の朝鮮出兵)から朝鮮滅亡までの300余年間の李朝後期両班社会の統治理念は「徳治」でした。 義と礼を追求する君子が、自分だけの利益を追いかける小人を教化し支配するのが徳治です。 1990年代の初め、文民政府出発でひそかに蘇った「徳治」の亡霊が、21世紀の韓国進歩陣営を徘徊しています。

―具体的にどんな事例があるのか?

2・3年前に発生した「曹国(チョ・グク)事態」と「尹美香(ユン・ミヒャン)事態」からそうです。両班たちが君子と小人を区分したように、曹国と尹美香の支持者たちは韓国社会の構成員を、社会正義のために生きて来た運動圏である「両班」と自分の利益に忠実な既得権・積弊勢力である「小人」とに分けました。 大義に献身してきた活動家に法律的な物差しを当ててはいけないと、彼らは強弁します。 道徳的優越性が法治よりはるかに価値があり重要だという理由です。

子女が名門大学に入学するための入試不正と市民団体の会計不正は、市民社会の根幹である信頼を壊す深刻な犯罪行為です。 しかしこの二人の支持者たちは、「正義である」ことで生きて来た曹国・尹美香の犯罪行為を認めませんでした。彼らにとって「正義である」社会は道徳的に優越する人たちが統治する両班社会であって、法治を基盤とする近代市民社会ではありません。

―他の事例があるとしたら?

文在寅政府が5年間ずっと繰り広げてきた「親日清算」です。 両班社会の統治理念である「性理学の義理」論から見ると、道徳的価値は命よりも重要で、植民地の時代から「親日協力」は許されない背信としています。 586運動圏は同一の論理で、自分の利益すなわち出世のために生きた親日反逆者たちを処断し、正義の独立運動家たちを韓国社会の中心に復権しようとしています。

―彼女は「文在寅政府が独立運動家の子孫に対する礼遇を大幅に強化したのは、道徳的に優れた「君子」の子孫は代を継いで礼遇してあげねばならないという両班意識の発露」だとして、次のように言った。

故 朴元淳ソウル市長は、独立運動有功者の4~5代子孫まで、大学の学費を支援する「独立有功者奨学金」計画を出しました。 2021年、ソウル市の「独立有功者奨学金」は6代子孫まで学費を支援しています。 国家有功者法は、就職試験の当落に決定的に影響する5%の加算点を有功者の家族に今も付与しています。

―これは民主社会の平等原則を破るものではないか?

アメリカは戦争参加軍人を含め、国家有功者に対する支援を、本人とその配偶者、未成年の子女など、当代の核家族に制限しています。 6・25(朝鮮戦争)に参戦した軍警の遺族に、ソウル市が支給する毎月10万ウォンの生活支援金は、独立有功者の半分に過ぎません。 我が国の独立有功者は、すべて戦死者たちを平等に追悼する現代の国民国家の原則からも外れています。

 「両班」を理解しようとしたら、「朱子学」「性理学」「君子と小人」「党争」「門中是非」などを知らねばならないのですが、これが難しいです。 『朝鮮儒教の二千年』(朝日新聞社) 『韓国は一個の哲学である』(講談社現代新書)等の本がありますが、読んでもチンプンカンプンでしょう。 何か簡単に分かりやすく説明してくれるものはないかと探してみましたが、見当たりません。

 やはり今のところ、上述した尹学準『オンドル夜話』等あたりが分かりやすくていいと思われます。 この本に出てくる「党争」「門中是非」を今の韓国の進歩・保守派の対立になぞらえると、興味深いものです。 李朝時代の両班社会が現代韓国に形を変えて復活したとするキム・ウンヒ博士の主張が、かなり理解できると思います。 

【拙稿参照】

朝鮮に封建時代はなかった   http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/11/23/7919936

古田博司 『醜いが、目をそらすな、隣国・韓国!』(3) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2014/03/21/7250136

古田博司 『醜いが、目をそらすな、隣国・韓国!』(4) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2014/03/26/7254093

古田博司 『醜いが、目をそらすな、隣国・韓国!』(5) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2014/03/29/7261186

古田博司 『醜いが、目をそらすな、隣国・韓国!』(8) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2014/04/09/7270572

古田博司 『醜いが、目をそらすな、隣国・韓国!』(9) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2014/04/14/7274402

【追記】

 昨日は、京都のウトロと愛知の民団建物を放火した事件の初公判でした。 放火犯の有本を応援するレイシストたちがどれくらい集まるかに注目していましたが、これについての報道はどこもありませんでしたねえ。

ウトロと韓国民団を放火した人物―有本匠吾(1)  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/04/25/9484690

ウトロと韓国民団を放火した人物―有本匠吾(2) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/04/28/9485573

金芝河(キム・ジハ)の死去2022/05/10

 韓国の詩人の金芝河が去る5月8日に亡くなったというニュースが流れました。

 今は金芝河(キム・ジハ)なんて知らない人がほとんどでしょう。 1970~80年代、韓国に関心を持った日本人なら誰でも知っている超有名人でした。 しかし数十年経った今、彼の死のニュースは日本では軽い扱いですね。 https://news.yahoo.co.jp/articles/7284875eeb0ceef87345a47f8b35accf06280b0e  

 彼に関心のある方は、検索して調べてください。

 また彼については、拙コラムで論じたことがありますので、ご笑読いただければ幸い。  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2018/03/06/8798456  https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2018/05/19/8853751

 ところで彼がその後どう変わっていったのか、そして今の韓国でどう評価されているかについて、日本ではあまり知られていないようですですね。 かつての超有名人が、もはや関心外になってしまったということでしょう。

 韓国では、進歩派の『ハンギョレ新聞』では「変節」「思想転向」などと厳しく批判されています。   https://japan.hani.co.kr/arti/culture/43402.html  

 また保守派の『朝鮮日報』では「中庸」などと書かれています。   https://www.chosun.com/culture-life/culture_general/2022/05/08/BNTNFFIPIZA6ZBD5K72ZPG3RQU/

 いずれにしても、韓国では金芝河に対する関心は、まだ高いようです。

【拙稿参照】

金芝河の告白 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2018/03/06/8798456

神のように祭り上げられた金芝河 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2018/05/19/8853751

在日の生活保護について2022/05/06

 京都のウトロと愛知の民団を放火した有本匠吾は、在日の生活保護受給に対して

「最低保障であるはずの生活保護すら役所に断られる方が大勢いる中で、日本国籍を持たない在日外国人を変わらず援助し続ける様態に、どれほどの方が不快感を抱いていたことか、当時のネットの声の数々を見た限りでも想像を絶した」と持論を展開していた。

    http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/04/25/9484690

 この記事から、有本は在日の生活保護についてその経緯や法的根拠などがほとんど無知であり、また生活保護を受けている在日と知り合ったこともないと分かります。

 拙コラムでは、在日の生活保護について下記のように論じています。 10年前とちょっと古いものですが、基本的に私の考えは変わっていません。

 ご笑読いただければ幸甚。

【拙稿参照】

ある在日の生活保護        http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2012/05/19/6449827

もう一人の在日の生活保護     http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2012/05/26/6457698

在日の生活保護          http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2013/06/16/6867746

在日の生活保護の法的根拠     http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2006/07/22/455680

第76題 在日の犯罪と生活保護  http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/dainanajuurokudai

生活保護―最低限の文化生活    http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2012/10/07/6595661

外国人の生活保護         http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2008/04/11/3066189

生活保護―最低限の文化生活       http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2012/10/07/6595661