ホーチミンと丁若鏞―韓国で広がったトンデモ話(1)2024/09/16

ハンギョレ新聞1988年11月3日

 先の拙ブログ http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/09/09/9715413 の最後で、下記のように記しました。

丁若鏞は日本ではほとんど知られていませんが、李朝時代後期に実学思想を集大成したとして、韓国では有名な歴史上の人物です。  〝ベトナムの革命家ホーチミンがその丁若鏞の本を愛読していた!?″ 〝しかもチェサ(法事)までしていた!!??″ 高銀さんがこんなことを本当に言っているのかと思って検索してみると、どうやら本当です。 

 ベトナム初代主席で独立革命家であったホーチミンが、“李朝時代の実学者として有名な丁若鏞の著書『牧民心書』を愛読していた”なんて話が韓国にあるなんて、本当? 信じられない!と思いつつ、「호치민 정약용」(ホーチミン 丁若鏞)で検索してみました。 すると本当にあるのです。 多数ヒットしており、韓国ではかなり広がっていて、多くの韓国人が信じていることを確認できました。

 しかしこの話は日本語で検索してもほとんど全くと言っていいほどに出てこず、また肝心のベトナムでさえも知られていないので、全世界では韓国だけで信じられているものと思われます。 つまり韓国だけに長年にわたって信じ込まれてきた、歴史のでっち上げ話なのです。 韓国の歴史捏造過程を考える上でちょっと参考になるかなと思い、取り上げてみます。

 誰がこんなことを言い出したのかを調べてみたら、やはりあの有名な詩人の高銀さんでした。 高さんは36年前の1988年11月3日付け『ハンギョレ新聞』にその話を書いたのですが、それが今のところ確認できる最初の資料のようです。 その新聞コラムを提示します↑。 コラム名は「ハンギョレ論壇 高銀 コラム」で、タイトルは「孫文とホーチミンと金九」です。 このコラムの右側の上から3行目から9行目までのところに、ホーチミンと丁若鏞『牧民心書』のことが次のように書かれています。

그의 젊은 날, 청말의 실학, 조선의 실학과 함께 베트남의 유학에도 실학이 일어났다. 그래서 호지명 총각은 조선의 정약용이 남긴 <목민심서>를 읽고 받은 감동으로 정양용의 기일을 알아내 제사를 지내기도 했다. 그런 그는 프랑스 제국주의, 일본 제국주의, 미제국주의와의 싸움으로 생애를 불살랐다. 싸움꾼이건만 인물이 컸다.

 訳しますと

彼(ホーチミン)の若かりし頃、清末の実学、朝鮮の実学とともにベトナムの儒学にも実学が興った。 だからホーチミン青年は朝鮮の丁若鏞が残した<牧民心書>を読んで感動し、丁若鏞の命日を知ってチェサ(法事)を執り行なうこともした。 そんな彼はフランス帝国主義、日本帝国主義、アメリカ帝国主義との闘いに生涯を燃やした。 闘士であるが、人物は大きかった。

 “ホーチミンが丁若鏞の『牧民心書』を愛読していた、チェサ(法事)までしていた”という話は韓国だけに広がり、長年信じられてきたのですが、最初の言い出しっぺはこの高銀さんのコラムのようです。 今のところ、これより古いものは見つかっていないです。 そして高さんは6年後の1994年7月の『京郷新聞』でも、ホーチミンと丁若鏞の『牧民心書』について同じようなことを書いたのでした。

 想像ですが、高銀さんの夢の中にホーチミンと丁若鏞が現れた、あるいは高さんが酒席の与太話を聞きつけて新聞に書いた、そう考えたくなるようなレベルの話です。 つまりトンデモ(=デタラメ)話なのです。 上述したように高さんはそのトンデモ話を1988年と1994年の二回にわたって全国紙に書きました。 外国の建国英雄が自国の歴史的有名人を尊敬してその著書を愛読していたという話は韓国人の心に響いたのでしょうか、韓国全体に広がって信じられるようになったと考えられます。 (続く)

 

【追記】

 高銀さんは古くからの有名な詩人で、ノーベル文学賞の候補に何度も挙げられたとされ、韓国文壇の重鎮とも言える人でした。 朴正煕・全斗煥大統領の軍事政権時代に果敢な民主化闘争を担い、逮捕されたこともありました。 そんな華麗な経歴を有する方でしたから、社会的影響力も大きかったです。 そんな方が大手の新聞に二回も書いた話ですから、韓国では信じられて広がったのでしょう。

 なお高銀さんは2017年に、悪質なセクハラを長年にわたって常習としてきたと暴露されて世の指弾を浴びました。 今は引きこもっておられるようです。 拙ブログでは高さんのセクハラについては、下記で触れています。

Me Too:韓国を揺るがす著名文化人のセクハラ暴露 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2018/02/28/8795521

韓国Me too運動の記事    http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2020/04/05/9231706

 

【追記】

 「チェサ」は漢字で「祭祀」と書くもので、日本語では「法事」「法要」が一番意味の近い言葉です。 しかしそれは仏教用語なので、果たして適当かどうか疑問になります。 一方、在日韓国・朝鮮人たちは多くが仏教徒でないですが、「法事」と言いますね。 このブログでは「チェサ(法事)」あるいは単に「チェサ」としておきます。 

 高銀さんは、ホーチミンは血縁でも何でもない丁若鏞の命日にチェサ(法事)をしていたと書いたのでした。 チェサというのは必ず血縁家族が行なうものであり、いくら親しくなった人でも他人の집안(家・身内)のチェサをするなんて、あり得ないことです。 ですからホーチミンが丁若鏞のチェサをしたという話は、ベトナムの国父であるホーチミンは韓国の歴史上の人物である丁若鏞を血の繋がった身内とするぐらいに尊敬していたとなって韓国人の自尊心をくすぐり、韓国社会に広がったと考えられます。

韓国愛唱歌「セノヤ」の語源は日本である(3)2024/09/09

https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/09/04/9714238 の続きです。 https://www.youtube.com/watch?v=V1biWA3h4I4&t=20s の翻訳です。

高銀は「せのや」が日本語ではないと主張して何日か後に、今度は南海岸に直接取材したチェ・ソンイルPDが登場します。 「高銀氏の反駁文を見て、あきれた。 反駁文ではないと言いながら詭弁に近い反駁文を書いたためだ。 だから私は高銀氏の文に反駁する文を書いて『ハンギョレ新聞』に送った。 しかし、どういう理由なのか掲載されなかった。 それでここに文を載せた。」 自分のブログに載せました。

「『せのや』は日本のイワシ漁の船で網を引く時、船乗りたちが歌った民謡のリフレーンの一部である。 これに関する証拠はMBCが南海岸一帯で取材した《韓国民謡大全》資料も十分な上に、私が慶尚南道固城で取材したある語り部の証言でも確実に証明できる。 固城のその語り部のお年寄りは農民でしたが、賃労働するために、当時海岸に進出していた日本のイワシ漁の船に乗って操業しながら、日本の漁夫たちが歌について一緒に歌った、イワシ漁は多くの人が団結してやらねばならない仕事であるので、動きを合わせるために歌が必要だった。」

次はチェ・ソンイルPDがインタビューした慶尚南道固城の語り部のチョン・イセンさんの聞き取り記録です。

舟歌は「せのや、せのや」と言いながら、網を引く時は「せのや、せのや、せのや‥‥」、網を引く時。 「せのや」は、網を手で引っ張りながら言うと。ウィンチで巻き上げて、全部引っ張ってから入って「せのや」と言うんだ。「せのや」、それは朝鮮の言葉ではないんだ。 それは日本の奴の言葉だ。 船に乗った人は知っているよ。 本人が直接言っていたのだからね。 (MBCラジオ〈チェ・ソンイルの民俗紀行〉2007.10.21.放送) (11:35)

ハンギョレ新聞が掲載を拒否したチェ・ソンイルPDの文が続きます。 

「せのや」はイワシが取れた網を船の上に引き上げる過程で歌う歌の一部である。 日本に近い釜山の沖合から西側の南海、麗川、莞島に至るまで、日本のイワシ漁の船が残した痕跡は海辺の人たちが記憶する日本式の舟歌の形態として残っている。 日帝強占期に特定した状況で、日本の民謡が我々の民謡に割り込んだということを見せてくれる。 我々の民謡に日本語が挿入される現象は、ある意味では自然なことだ。 しかし我々は民謡だけでなく、我々が使う言葉に外来語がどれほど混じって入っているか、はっきりと知っていなければならない。 早くから大衆に馴染んでいる「せのや」という言葉が日本語だということを遅まきながら知ったなら、我々みんなの無知を反省して、またこんなことがないように教訓として残すのが正しい。」

そしてチェ・ソンイルPDが付け加えます。 「そんな面から、高銀詩人が『せのや』について出した弁明は、すぐに納得できない。 彼は『せのや』がひょっとして古代韓国から日本に渡って行った言葉なのかも知れないとか、韓日両国で共通して使った古代海上言語または国際語かも知れないので、『せのや』が日本語だと断定するのが難しいとする。 検証が困難な古代言語を持ち出しながら、目の前の真実は認めていないのである。 『せのや』が古代韓国から渡って行った言葉であるなら、なぜ日本にだけその言葉が残っていて、本土である韓国に残っていないのか、どんなハングル辞典を探してみても『せのや』という言葉を見つけることができず、その似た言葉さえも出てこない。」 

チェ・ソンイルPDの文は続きます。 「高銀詩人は、自分の反駁文でも『せのや』が日本の九州地方の『漁夫の歌』と明らかにした。 自分が南海で聞いていた『せのや』という言葉が実は日本語だったということを、すでにだいぶ前から分かっていたのである。 それでもなぜ今まで、それについて一言もなかったのか気になるところだ。 自分が間違って書いた詩一編が有名な大衆歌謡になり、映画やドラマのタイトルになり、酒場や美容室の商号になり、他の詩人の詩集の表題にも使われ、ある新聞社で発行した『民族の歌』にも選ばれもしたのである。 間違ったことは正直に認めて反省するところから新しい知識と文化の歴史が始まる。」

 以上のようにチェ・ソンイルPDは高銀さんへの長文の批判をしました。 この批判は正しいと思われます。 高さんは有名な詩人で社会的影響力も大きいから、批判も長文になったのでしょうねえ。

ベトナムの国父であるホー・チ・ミンが丁若鏞の書いた『牧民心書』を愛読し、丁若鏞の命日にはチェサ(祭祀―法事のこと)をしたという「怪談」を流布した人が、この詩人の高銀です。 事実と信じていたことが事実ではないと明らかになったなら、その信念を撤回し、事実を受け入れことこそが社会的責任を果たすことのできる大人なのです。 今もこの地のどこかで誰かが「せのや」を歌って深い思いにふけているでしょう。 私もこの歌が大好きです。

 丁若鏞は日本ではほとんど知られていませんが、200年前の李朝時代後期に実学思想を集大成したとして、韓国では有名な歴史上人物です。 〝ベトナムの革命家ホーチミンが李朝時代の丁若鏞の本を愛読していた!?″ 〝しかもチェサ(法事)までしていた!!??″ 高銀さんがこんなことを本当に言っているのかと思って検索してみると、どうやら本当です。 ベトナムを含めて世界の誰もが信じていない「怪談」(歴史上のウソ話)を、韓国だけが唯一信じていたのでした。 その「怪談」を新聞に書いて広めたのが、まさに今回話題としている高銀さんだったのです。 

 高銀さんは、「せのや」は元々韓国語であったという「怪談」を語るのですが、それはホーチミンと丁若鏞の「怪談」を語るぐらいにウソの歴史話が多い人だから、ということになりそうです。

 以上、私には面白い話だったのですが、皆さまには〝何が面白いの?″と疑問を持たれたかも知れません。 ここまでお付き合い下さり、ありがとうございました。 

 最後に出てくるホーチミンと丁若鏞の「怪談」について、少し詳しく調べましたので、次回に発表します。 捏造の歴史はこのように作られた、という話になります。 (終わり)

韓国愛唱歌「セノヤ」の語源は日本である(1) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/08/30/9712922

韓国愛唱歌「セノヤ」の語源は日本である(2)https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/09/04/9714238

韓国愛唱歌「セノヤ」の語源は日本である(2)2024/09/04

http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/08/30/9712922 の続きです。 https://www.youtube.com/watch?v=V1biWA3h4I4&t=20s の翻訳です。

「せのや」が日本語? (4:44)

先ずはこの言葉が日本語だと指摘した論稿を見ましょう。 2012年10月26日付けハンギョレ新聞に載ったコラムです。 筆者は当時のカン・ジェヒョン アナウンサーです。  「『せのや』が日本語である事実は、民謡の取材をしながら知るようになった。 『せのや』は日本の漁夫たちが網を引きながら歌っていた舟歌のリフレーンだ。 南海地域で取材した色んな資料を分析すれば、東に行けば行くほど日本語が多くなる。 『せのや』が我が国の言葉ではないことは確実である。」 

この文を書いた、当時のカン・ジェヒョン アナウンサーはこのように付け加えました。 「高銀氏が生まれ育った所は全羅北道の群山市だ。 子供の時に聞いた網を打つ声の根源が日本であることを知らなかったのだろう。 網を引き、音頭を取った楽しい声『せのや』は後日に詩となり、うら悲しさが滴る歌としてよみがえった。」

「セノヤ」は私たちの情緒に色濃く盛り込まれている歌であり、一般大衆は意味を知らなくても歌詞に出てくる「せの」が当然に自分たちの情緒と深い関係の言葉だと思っていたでしょうから、驚いたでしょう。 何しろ高銀は民族主義を代弁する代表的な詩人なのですから。

 〝みんながよく歌っている「セノヤ」は実は日本語だった″と指摘した10月26日付けのハンギョレ新聞記事というのは https://www.hani.co.kr/arti/opinion/column/557528.html です。 作詞の高銀さんはこれに驚いたのか、さっそく反論します。

そこで詩人の高銀は、その5日後の2012年11月1日に寄稿して、「セノヤ」という詩を作った経緯を明らかにしたのです。 高銀のこの文は次のように始まります。 「これは反駁文ではない。 1960年末に、私が酔っている時に即興で一気に書き下ろした詩『セノヤ』について事情を明らかにする。」 高銀はこの寄稿文で説明します。

 この高銀さんの「寄稿文」は既述しましたが、  https://www.hani.co.kr/arti/opinion/because/558412.html です。

「日帝強占期の間、私たちの母国語は禁止されただけでなく、それから以降も多くの傷と汚染、そしてあの支配言語の残滓が母国語に介入しているのである。 いや近代語の場合、日本語の造語をそのまま受け入れた事実をあえて隠すこともない。 私たちの言語の一部には、古代には中国の影響を受け、近代には日本の影響を受けていることは事実だ。 後日、私は日本の九州を旅行して、九州の海岸の漁夫の家で、また『せのや』に出会った。」 

高銀は日本の九州でも「せのや」を聞いたというのですが、その次が問題です。 「南海地方一帯の言語は、当時は韓国語とか日本語とかの区別があるのではなく、古代韓国語が日本に渡って行ったという明白な事実が、日本語の起源についての絶対条件であり前提である。 だから南海のこっち側である韓国と向こう側の日本とで、海上言語として長い間共同使用されてきたのだ。 こんな事例でなくても、甚だしくは古代エジプト語(!)が韓国語に土着化した。 満州語の場合も少なくない。 私は「せのや」が日本語だと断定することを躊躇する。 それは公海上の興趣のある古代韓国語であり、今は国際語としての言葉だというものだ。」

 上述の高銀さんの寄稿文には、確かに「古代エジプト語」が出てきますねえ。

 韓国では、古代エジプト語と韓国語との共通点を探して韓国語の起源を探るという研究者がいるようです。 検索してみれば、ごく少数ですがヒットします。 高銀さんは言語というものは世界各地の言語が混じり合うものだと言いたかったのでしょうが、古代エジプト語を持ち出すとはねえ。 スケールが大きいというか、誇大妄想が激しいというか‥‥。

高銀が言っている要旨は、植民地時代に入ってきた日本語が今も残ることはあり得るが、この「せのや」こそが古代韓国語が日本に渡って公海上で国際語になったという話です。 お分かりになるでしょう。 1000年前なのか2000年前なのか分かりませんが、朝鮮半島で使っていた「せのや」という言葉が海を渡って日本に行って、日本の漁夫たちが使うようになり、その「せのや」が植民地時代にまた朝鮮半島の漁夫たちに伝わって一緒に使うようになっているので、日本語ではないということでしょう。

それでは、これは何ですか? 日本で話題となった芸能番組です。(9:34) ここで女性を引っ張りながら、男と女が何と言っているか聞いてみましょう。 「せえの」。 これは「영차」という意味です。 高銀の論理によれば、この「せえの」は朝鮮半島の漁夫たちが日本の漁夫たちに教えてあげた「せのら」という表現がいつの間にか日本人に伝わって、日本の芸能番組にまで登場するようになったということになります。 

 「せえの」は日本語の掛け声であるのは、われわれ日本人にはごく常識ですが、韓国人には説明が必要ですね。 (続く)

韓国愛唱歌「セノヤ」の語源は日本である(1) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/08/30/9712922

韓国愛唱歌「セノヤ」の語源は日本である(1)2024/08/30

 今回は私には興味深い話なのですが、皆さまにはどうでしょうか。 まあ、適当に読み流してください。

 韓国に「セノヤ」という歌があって、かなり流行していたというか、よく歌われたようです。 ごく短い歌で、今も大抵の韓国人が知っている歌だそうです。 https://www.youtube.com/shorts/QZ1pb6tcQq4 この「セノヤ」の作詞者は詩人として有名な高銀さんですが、彼は〝「セノヤ」はもともと韓国語だった″と主張しています。 高銀さんは民主化運動家として主導的立場にあった人であり、その方が言っていることですから、この説が韓国では定着しているようです。 しかし、「地の歴史」のパク・ジョンインさんが 〝そうではなく元々日本語だ″という反論していました。 ユーチューブでの発表ですが、興味深かったので訳してみました。  https://www.youtube.com/watch?v=V1biWA3h4I4&t=20s

詩人の高銀氏、なぜ言い張るのですか? 「セノヤ」は日本語ですよ

大韓民国の人ならば、みんなが愛する歌「セノヤ」は、詩人の高銀が作った詩にソウル大学の作曲科の学生であるキム・グァンヒが曲をつけた歌です。 ところで題名に出てくる「セノヤ」は民族の情緒を込めた単語ではなく、日本語で「영차」を意味する「せえの」です。 高銀はこれを「古代韓国語が日本に渡って、日本人が使うようになった韓国語」だと言います。 果たして、そうでしょうか。 信念が間違いと証明されれば、撤回せねばなりません。 それこそが一般大衆が間違った歴史、間違った情報を知ることになります。 

 ここまでがこのユーチューブ番組の要旨です。 それでは番組が始まります。 まずは「セノヤ」はどのような歌で、どのように誕生したか、です。

みなさん、こんにちは。 「地の歴史」パク・ジョンインです。 今日は歌の歴史、そして「歴史のウソ」です。 「セノヤ」という歌があります。 知らない方より知っている方がもっと多いようで、たくさんの人が愛する歌です。 この歌にまつわる歴史の話で、この歌が持っている意味というのがウソだという話です。 今日のお題は、「詩人の高銀氏はなぜ言い張るのですか? 『セノヤ』は日本語です」になります。 

山と海と私たち。 セノヤはたった四行で私たちの情緒を表現した歌です。 伴奏もギターコードの単純なものです。 ヤン・ヒウンが歌って、広く知られるようになりましたが、実はこの歌を最初に歌ったのはキム・グァンヒという人です。 彼は「セノヤ」の作曲家でもあります。 ソウル大学作曲科の学生であったキム・グァンヒは、1970年のある金曜日に友人の弟であるキム・ミンギから歌を作曲してくれと依頼されました。 週明けの月曜日に放送する歌なのだが、さあ直ぐに作ってほしいと言うのです。 一方放送局では、キム・グァンヒが週末に曲を完成させるなら、作曲家本人である彼が歌えばいいと言います。 そこで彼は一週間だけ、匿名を条件に歌いました。 その時のソウル大学の作曲科では、大衆音楽は低レベルと考えられていたので、匿名で歌ったのです。

この歌は大当たりをしました。 だからキム・グァンヒのバージョンが四ヶ月の間、鳴り響きました。 その後、ジャズシンガーのチェ・ヤンスク、またフォーク歌手のヤン・ヒウンがこの歌を引き続いて歌い、「セノヤ」は国民の歌になります。 単純なメロディーに短く骨太の歌詞が、私たちの情緒にぴったり合ったのです。 

 チェ・ヤンスクの「セノヤ」は https://www.youtube.com/watch?v=eqaDX_3b90I で、ヤン・ヒウンの「セノヤ」はこのブログ冒頭部にリンクを貼っているものです。 この歌が1970年代以降の韓国人の心に響いたのですねえ。

それでは、今からこの曲の歌詞の話です。 元々「セノヤ」は歌の歌詞ではなく、詩です。 そしてこの詩を書いた人は高銀です。 はい、まさにあの元老格の詩人である高銀です。 今いろんな問題で活動ができないでいますね。 長い間、高銀という人は旺盛な創作活動と情熱的な民主化運動で尊敬を受けてきた人です。 その人が書いた詩にメロディーがついて、今は私たちみんなに愛される歌になりました。 さあ、「怪談」が始まります。

 「今いろんな問題で活動ができないでいます」というのは、高銀さんが長い間悪質なセクハラしてきたことが暴露されたためです。 拙ブログでは、http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2018/02/28/8795521 で高さんのセクハラに触れました。 それでは「セノヤ」の作詞者である高さんは、この歌についてどのような主張をしているのでしょうか。

高銀が語る〝始まり″の経緯。 (2:31)

高銀は、この「セノヤ」という詩を1960年に、南海の海の上で思い付いたと言います。 2012年11月1日付けのハンギョレ新聞に高銀は寄稿し、次のように言います。 

「1968年かその翌年か、私は未堂(徐廷柱の雅号)と一緒に、慶尚南道の鎮海の陸軍大学での文芸講演に行った。 陸軍高級将校たちが生徒だったが、全斗煥・盧泰愚らも生徒だったという事実を後に知った」 講演の後、陸軍大学総長のキム・イククォン将軍の好意で「陸軍大学専用の小型戦艦に二人が乗って、統営から麗水までの多島海を経由することとなった。 途中でパク・ジェサムの故郷である三千浦にも寄港して、焼酎を飲む余裕を楽しんだ。 すぐにその南海の沖合まで出て、私の思うままにイワシ取り漁船に注意して接近してくれた。 イワシの網を流して引っ張る船上労働は、歌なしでは不可能だ。 その漁夫がリフレーンで『せのや、せのや』という聞き慣れない言葉が私の脳裏に刻まれた。 この『せのや』は、私の故郷の群山の沖でのそれではなく、南海一帯の労働歌の心情を表わす。」 

 このハンギョレ新聞の記事というのは https://www.hani.co.kr/arti/opinion/because/558412.html です。

 徐廷柱(雅号は未堂)は古くからの著名な詩人でしたが、今世紀になって親日反民族行為者に認定されました。 60年近く前の1968年頃ですが、韓国ではかつての民主化闘士と親日反民族者とが一緒に行動していたというのですから、興味深いですね。 徐廷柱については拙ブログ http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2017/07/11/8618283 に彼の詩を引用したことがあります。 

つまり高銀は、南海の海でイワシ漁師たちが網を引き揚げながら「せのや」と大声で叫んでいたのが偶然に聞こえたといいます。 彼はそこで大きなインスピレーションを得て詩を書き、これが今の「セノヤ」という歌になったというわけです。

結論から言いましょう。 「セノヤ」の「せの」は、韓国語の「영차」に該当する日本語です。 ですから意味をそのまま解釈すれば、この歌は「영차 영차 산과 바다에 우리가 간다(せーの、せーの、山や海に私たちが行く)」になります。 問題は高銀がこの「せの」が日本語だという指摘に、〝とんでもない″と否定したことです。 

                         (続く)

【追記】

 韓国の詩人として有名な高銀さんは、民主化闘争の闘士でも著名でした。 しかし2017年に彼のセクハラが暴露されて、その地位と評判が底まで落ちました。 どんなセクハラかといえば、調べればお分かりになると思いますがかなりエゲツないもので、それが長年続いてきたのです。 周囲の人たちはそれ知り、時には目の前で見ながら、文壇の長老格で韓国社会に影響力の非常に大きな方に逆らえないとして、黙って見過ごしてきたものです。

8月、在日の活躍2024/08/26

 この8月は在日韓国人関係、で二つの大きなスポーツニュースがありました。 一つはパリオリンピックの女子柔道57㎏級に許海実(ホ・ミミ)が銀メダルを獲得したことであり、もう一つは夏の甲子園高校野球大会で京都国際高校が優勝したことです。

 許海実(ホ・ミミ)は本名の韓国名で、日本名は池田海実(いけだ・みみ)です。 「海実」はハングルでは「해실(ヘシル)」となるのですが、韓国では漢字名をそのまま使わず、日本名の「みみ」という読み方をそのままハングルで書き表して「미미(ミミ)」としていました。 

 許海実はもともと日韓の二重国籍だったのですが、韓国籍を選択して韓国の単一国籍としたようです。 韓国の戸籍(今は家族関係登録簿)には、漢字名の「許海実」はなく「허미미」と記載されていると思われます。

 私が関心を持ったのは、これまでの在日韓国人は日本で使ってきた漢字名をハングル読みして、それを韓国名(=本名)とする場合がほとんどで、それと違っていたからです。 これまでは「海実」という名の在日がいれば、「本名はヘシルさんですね」と言うのが通例でした。 それが「ミミ」と、漢字を無視したハングルを本名としたのです。

 私はこれまで、在日韓国人の本名は漢字をハングル読みするものと頑固に思ってきたので、このような名前の呼び方は新鮮です。 これからは、このような名前の呼び方になっていくのでしょうかねえ。

 

 京都国際高校の高校野球優勝はビックリしましたねえ。 小さな学校なのですが、いつ間にか野球強豪高校となっていました。 私の知っている範囲では、京都左京区に「韓国学園」とかいう小さな学校があったのを覚えています。 それが手狭になって今の東山区に移転しようとした際、その地元から建設反対の運動が起きました。 その反対理由が当初あまりに民族差別的過ぎて批判を浴び、いや、山を削って開発することが自然を破壊するものだから反対しているのだという理由になったと記憶しています。

 その後はどのような経過となったか知りませんが、あの「韓国学園」が甲子園で優勝するぐらいになったか、と感慨にふけりました。

 学校の校歌がハングルだということで誹謗まがいの意見が舞い上がっているようですが、私は日本の文化(広い意味で)がそこまで取り入れるほどに広がったのかという感想を持ちます。 SNSなどで中傷誹謗する嫌韓コメントはあまりにも見苦しいし、日本の文化・民度を下げることも意味するので、止めてほしいですね。

関東大震災「倉賀野事件」―『現代史資料6』2024/08/20

『現代史資料6』 437頁

 また関東大震災の日が近付いてきました。 昨年は100周年ということもあって、記念行事が多く、またマスコミでも関連記事がたくさん出ていました。 朝鮮人虐殺事件関係の記事も多かったですね。 私も自分なりに資料を集め、下記のように拙ブログで公表しました。 

 その後は新たな資料を見つけていませんが、ネットで検索するかぎり、姜徳相・琴秉洞編『現代史資料6 関東大震災と朝鮮人』(みすず書房 1963年10月)という重要資料集に言及する人がほとんどいないことに気付きました。 

 例えば「倉賀野事件」は「朝鮮人」殺害事件として広まっており、議会で追及したり、追悼行事を行なったりまでしているようです。 ところがこの事件の被害者は、『現代史資料6』によれば朝鮮人ではなく「内地人(日本人)」になっています。 そのページ部分をスキャンして↑のように提示しました。 図をクリックすると、拡大して読みやすくなります。 左端の赤線で囲んだものが「倉賀野事件」です。

 しかし「倉賀野事件」に関するネット記事を読む限り、ほとんどが被害者は「朝鮮人」と断定しています。 なお一つだけ例外的に「青森県人らしい」とする記事があります。 そしてこれも含めて全てがこの『資料集6』に言及していません。 おそらく『資料集6』を知らないか、知っていても読んでいないのではないかと思われます。

 この資料集は60年前に刊行されたもので、関東大震災朝鮮人虐殺研究に重要とされてきました。 またこの本は大学や主要図書館に所蔵されているはずのものです。 被害者を「朝鮮人」とするにしろ「日本人」とするにしろ、まずはその前にこの本の検討をせねばならないと思うのですが、そのような形跡が全く見えず、いかがなものかと疑問を抱くところです。 

関東大震災「倉賀野事件」-被害者は日本人では‥ https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/04/10/9674631

  【関東大震災に関する拙稿参照】

関東大震災―自警団は警察も襲撃した https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/09/10/9616540

関東大震災―自警団を擁護した政治家の発言 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/09/15/9617769

朝鮮人虐殺事件―自警団の言い分  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/09/05/9615245

関東大震災朝鮮人虐殺事件の犠牲者数の検証(2) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/08/31/9613843

関東大震災朝鮮人虐殺事件の犠牲者数の検証(1) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/08/26/9612591

関東大震災―朝鮮人虐殺 寄居事件 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/08/21/9611387

関東大震災の日本人虐殺     http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2016/09/15/8189607

水野・文『在日朝鮮人』(19)―関東大震災・吉野作造 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2016/09/04/8169265

水野・文『在日朝鮮人』(13)―関東大震災への疑問 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2016/07/19/8134282

関東大震災時の「在日朝鮮人虐殺者」の数 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2006/06/09/398058

関東大震災の朝鮮人虐殺  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2016/08/26/8163009

関東大震災「朝鮮人虐殺事件」 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2017/09/01/8663629

「十五円五十銭」の練習―こんな在日がいるとは!? http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2021/02/15/9347314

  【追記】

 今回、『現代史資料6 関東大震災と朝鮮人』の437頁をスキャンして提示しました↑。 自警団らが朝鮮人と誤認して日本人を殺傷した事件の一覧表の一部です。 このページの左端の赤線で囲んだ部分が「倉賀野事件」ですが、右端から二つ目に「福田村事件」が記載されています。 この事件も日本人が誤認されて多数殺されたもので、昨年この事件が映画化されて話題になりました。

 ↑スキャン図が読みにくければ、クリックして拡大してください。

HP開設25周年 感謝2024/08/13

 私が「『歴史と国家』雑考」というHPを立ち上げたのが1999年8月でしたから、今ちょうど25周年となりました。 四半世紀です。 なおHPは途中でブログに切り替えました。 ブログは2006年6月からでしたから、こちらは18周年ですね。 よくもまあ続いたものです。 これも皆さまのおかげだと感謝しております。

 世に韓国・朝鮮・在日等に関心ある人が多く、インターネット上には記事がいっぱい出てきます。 しかしこういったところで得られる情報は「玉石」混交です。 後者の「石」に踊らされる人が多いですね。 また例え前者の「玉」の情報でも、その背景に隠れている事実まで追及しようとしない人が多いですね。 〝あれー!?こんなことも知らないのか!?″とビックリします。 なぜさらに一歩進んで真実を追究しようとしないのか? あるいは別の面から見ると違った真実が見えてくるのに何故見ようとしないのか? 疑問ばかり出てきます。

 一方、拙ブログを読んで 〝あーなるほど、そういうことだったのか!”と反応される方が多いです。 つまり拙ブログが提供した情報が新鮮で役に立ったということで、これはうれしいですね。

 こういったことが長く続けてくることができた要因なのかなあと思っています。 いつまで続くか分かりませんが、よろしくお願いします。

【拙稿参照】

HP開設20周年、ブログ開設13周年 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2019/08/02/9136362

HP開設17周年・ブログ開設10周年 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2016/08/10/8149051

HP開設16周年         http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/09/06/7779581

HP開設15周年         http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2014/08/08/7408861

金時鐘氏はどういう言葉を使ってきたのか?(3)2024/08/09

https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/08/04/9706635 の続きです。

 ところで金時鐘さんは韓国では南朝鮮労働党に加入し活動していましたから、共産主義者です。 日本に密入国しても、やはり共産主義活動を始めます。

なんとか在日朝鮮人の運動体につながらねば、と思っていたところへ、日本共産党への集団入党が地区単位でできるとの誘いが、生野区の朝連(在日本朝鮮人連盟)活動家からもたらされました。‥‥ (1950年)1月末、自己を奮い立たせるように日本共産党の党員の一人になりました。 (247~248頁)

 密入国したのが1949年6月ですから、日本共産党入党までわずか7ヶ月しか経っていません。 日本の地を一度も踏んだこともない外国人が、しかも紹介状なども持たないで入国してたった7ヶ月で日本の政党に加入したというのですから驚きです。 紹介状がないというのはどこの馬の骨か分からぬ人物に他ならないのですが、共産党は加入を認めたのでした。 それだけ共産主義インターナショナルが進んでいたということになるのかも知れません。

 そして金さんはこの共産党の力で、「林大造」名義の外国人登録証と米穀通帳を入手しました。 それでは彼はどのようにして周囲からの信頼を得たのか。 彼はこれについて記していませんので、ここは推測するしかありません。

 金さんが密入国して生活を始めた猪飼野という土地で話される言葉は、朝鮮人同士なら朝鮮語の済州弁を使い、朝鮮人同士でも日本で生まれ育った若者や子供なら日本語でも大阪弁を使っていたはずです。 そして猪飼野の日本人も当然ながら大阪弁です。 しかもその大阪弁は、庶民が使うちょっと下品な大阪弁のはずです。 少なくとも船場言葉のような上品な大阪弁を使う人が猪飼野に住んでいたとは、とても考えられません。 つまり日本語といえば庶民的な大阪弁が、日本人はもちろん在日の間でも飛び交う町が猪飼野でした。

 金さんは当初は周辺に飛び交う大阪弁が理解できなかったはずで、日本語といえば訛りのないきれいな標準語だけが使えるという生活で始まったのでした。 そして彼は韓国の南朝鮮労働党員でしたから、共産主義の知識は十分にあったでしょう。 としたら日本で生活する時に使った言葉は訛りのないきれいな日本標準語で、周囲で飛び交う庶民的で粗野な大阪弁とは違いを見せていたことになります。

 普通こういう場合、大阪の下町では「何や! アホか! そんな言葉、使いよって! お前はなんぼのもんや!」とか言われて孤立するものです。 しかし金さんはそうならず、わずか7ヶ月で地元の日本共産党に入って活動したというのですから、きれいな日本標準語は障害にならず、むしろ活動の助けになったと考えられます。

 つまり金さんは共産主義活動できれいな日本標準語を使うことによって孤立するのではなく、むしろ共産主義をよく知っている知識人として尊敬を集めたのではないでしょうか。 だから7ヶ月という短い期間で共産党に入党できたのではないでしょうか。 そして金さんは日本共産党入党直後に、その傘下の在日朝鮮人組織で働くようになります。

(1950年)2月いっぱいで石鹸工場も辞めて‥‥民戦大阪府本部臨時事務所に非常勤で詰めるようになりました。(248頁)

 「民戦」とは在日朝鮮統一民主戦線のことで、当時の日本共産党傘下の朝鮮人組織です。 金さんはそこの非常勤専従職員となります。 彼は日本に入国してわずか7ヶ月で共産党に入党し、その朝鮮人組織の専従となるくらいに信頼を勝ち得たことになるのですが、それは日本標準語だけでなく、朝鮮標準語も流暢に話せたからではないかと考えます。 なぜなら、おそらく周辺の朝鮮人は朝鮮語を話すとしたら済州島の方言丸出しだっただろうし、また日本で生まれ育った若い朝鮮人たちは朝鮮語を十分に話せなかったからです。 つまり彼はそういう在日社会にあって、きれいな朝鮮標準語を流暢にしゃべれる知識人であったことが朝鮮人組織の活動家としての信用を得て生活することを可能にしたのではないか、と推測します。

 流暢な日本と朝鮮の標準語、この両方の言葉を上手に使えたことが日本での共産主義と民族主義活動家として生きていくことを可能にさせた‥‥。 このように推測したのですが、どうでしょうか。 

 さらに推測を重ねて想像してみます。 その後において、きれいな日本の標準語ばかりでは自らの民族的アイデンティティの危機と考え、朝鮮訛りのような日本語、しかも金さんだけのちょっと独特な日本語を使うようになったのではないか、それが講演なんかでしゃべっておられる言葉なのではないか‥‥。 他の在日一世が使うような朝鮮訛りと違う日本語は、このようにして作られたのではないか‥‥。

 想像を膨らませるとキリがないことは分かっているのですが、金さんが講演などでしゃべっておられるちょっと異様に感じる日本語が気になって、どういう経緯であのようなしゃべり方になったのかを想像を交えながら探ってみたのが今回のブログです。

 金さんの経歴から考えて、その時はこういう言葉を使っていたはずだという推測はかなり言い当てていると思っているのですが、どうでなんしょうかねえ。 (終わり)

金時鐘氏はどういう言葉を使ってきたのか?(1)  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/07/30/9705285

金時鐘氏はどういう言葉を使ってきたのか?(2) https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/08/04/9706635

【追記】    2019年6月8日付けの『ハンギョレ新聞』に、「在日70年は“4・3への痛恨”胸に秘めて生きてきた抵抗の歳月だった」と題する金時鐘氏取材記事があります。 https://japan.hani.co.kr/arti/politics/33623.html

 この記事の冒頭で、金さんは次のように発言しておられます。

「私の日本での“在日”暮らしは、流麗で巧みな日本語に背を向けることから始まりました。情感過多な日本語から抜け出ることを、自分を育て上げた日本語への私の報復に据えたのです」

 次に、2024年7月27日付の『毎日新聞』に、「詩人 金時鐘さん/下 祖国、民族、在日 日本語で書く」と題する連載記事があります。  https://mainichi.jp/articles/20240728/ddm/014/040/005000c (ただし有料記事です)    このなかで金時鐘さんは、自分のしゃべる日本語について次のようにおっしゃっています。

「植え付けられた抒情は日帝(大日本帝国)の後遺症だ。 小野さんの作品と出合い『流されない言葉』への執着が生まれ、自分は何者か、民族、祖国とは何か、問い直しました」。 詩こそ人間の生き方そのものと気づき、「問い直し」は自分の内に巣くう抒情的な日本語を洗い流すことでかなうと考えた。 「流ちょうでない私のいびつな日本語は、日本語への報復です」

 以上の二つの記事から言えることは、金さんは元々「流麗で巧みな日本語」がしゃべれるのに「流ちょうでない私のいびつな日本語」をあえて使っており、それは「日本語への報復」だということです。 彼の口から出る日本語は一般的に在日一世がしゃべる朝鮮訛りの日本語と違っていたというのは、意図的に「いびつな日本語」を使っていたからなのですねえ。 しかもそれが「日本語への報復」だというのは、どういうことなのでしょうか。

 日本という土地で、日本語ばかりの環境の中で、日本人(在日を含む)を相手に繰り広げる日本語作品の数々、そしてその作品を売って得る収入と生活。 それらの作品が毎日出版文化賞や大仏次郎賞などの日本の文学賞をいくつも受賞し、金さんは今の名声と地位を築いたのでした。

 そうであるなら先ずは日本語への感謝から始まるべきだと思うのですが、そうではなく「日本語への報復」だとして「いびつな日本語」を敢えて使う‥‥。 私には理解できないところです。

【金時鐘氏に対する疑問】

金時鐘氏が正規教員?―教員免許はないはずだが‥ http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/01/16/9651219

金時鐘氏は不法滞在者なのでは‥(1) https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/10/07/9623500

金時鐘氏は不法滞在者なのでは‥(2)  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/10/12/9624809

金時鐘氏は不法滞在者(3)―なぜ自首しなかったのか http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/10/17/9626078 

金時鐘『朝鮮と日本に生きる』への疑問 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/07/28/7718112

金時鐘さんの法的身分(続)     http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/08/13/7732281

金時鐘さんの法的身分(続々)   http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/08/26/7750143

金時鐘さんの法的身分(4)    http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/08/31/7762951

本名は「金時鐘」か「林大造」か  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2018/08/23/8948031

金時鐘さんは本名をなぜ語らないのか? http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2019/07/02/9110448  

金時鐘さんは結局語らず      http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2019/08/13/9140433

金時鐘さんが本名を明かしたが‥‥ http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2019/10/26/9169120

金時鐘『「在日」を生きる』への疑問 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2018/03/01/8796038

金時鐘氏はどういう言葉を使ってきたのか?(2)2024/08/04

http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/07/30/9705285 の続きです。

解放直後の言語状況は?

 1945年8月15日、日本は敗戦し、朝鮮は「植民地統治の頸木から解き放たれます」(78頁)。 金時鐘さんは民族性を取り戻すべく、行動します。

何はさておいてもまずは「国語」(朝鮮語)を身につけねばと、腕章姿もりりしい白順赫君を訪ねていきました。 ‥‥(済州)城内には早くも国語学習所が四ヵ所ほど昼夜別々に開設されていて、習熟度に合わせた講習会が進んでいました。 学校(光州師範学校)に戻るまでには基礎文字の「가갸表」くらいは覚えようと、年齢もまちまちの男女でにぎわっている初級班の学習に、恥ずかしさを押してかけもちで通いつめました。 ‥‥発奮して集会に行き、学習所に通い、ひと月近く息もつかせぬほどの忙しさのなかで国語の勉強に明け暮れました。 (84~86頁)

やはり国語(ハングル)の履修には骨が折れました。 ハングルの綴字法と文法、発音は金イジュという「朝鮮語学会事件」に連座させられていた先生といわれる、40代半ばのもの静かな国文学者でしたが、平素の穏やかさとはうらはらに授業となるとねちっこく問い詰めてくる、こわい女の先生でした。 私が済州弁という独特な発音の世界で育ったせいか、とりわけ「ㅚ」という単母音の発音が不得手で、唇がとんがってしまうぐらい特訓させられました。 (105頁)

 解放後はさすがに日本語を使うことはなくなり、金さんは朝鮮語の勉強にまい進します。 といっても彼が日常に話してきた朝鮮語は済州島の方言で、朝鮮語の読み書きができませんでした。 ですから標準語としての朝鮮語の勉強には苦労したようです。 「가갸表」という、日本語の五十音表にあたるハングルから覚えねばなりませんでした。

 それから彼は朝鮮労働党に入って共産主義を学んだといいます。 おそらく朝鮮語は、家族や友人などの親しい人との会話では訛りの強い済州弁、見知らぬ人との会話とか何か改まった場面では標準語と使い分けていたのではないでしょうか。 だから共産主義を学び活動する時は朝鮮語でも標準語を使っただろうと思われます。 これは、日本でもかつて左翼知識人たちは日常会話は方言でも、マルクス・レーニン主義などを論じる時には日本の標準語を使っていたことから推測したのですが、おおむね間違いないと考えます。

日本密航後の言語状況は?

 金時鐘さんは1949年6月に日本へ密航します。 その時以来の彼の言語状況について、著作では特に語っていません。 ですからある程度推測を交えて話すことにします。

 金さんは1945年の解放(=日本敗戦)までは皇国少年としてきれいな日本の標準語を駆使していました。 それから解放後4年経って日本に密入国しました。 この時までの4年間は日本語を使わなかったでしょうが、子供の頃からあれほど完璧に日本の標準語が使えていましたから、たった4年間で忘れてしまうということは考えられません。 日本入国時やその後の日本での生活には、その上手な日本語が大いに役に立ったと考えられます。

 密航はまずは神戸須磨海岸に上陸し、すぐに列車で大阪の鶴橋に行きます。 当時、鉄道の切符は窓口で購入するものでしたから、窓口で駅員に声をかけねばなりません。

改札口の近くにいた一人がひとりごちるように大阪までの料金を呟いてくれたので、キップは怪しまれることなく買うことができました (238頁)

 金さんは人の独り言を聞き取れるくらいに、日本語ができたのでした。 また駅では警察が密航者の取り締まりを行なっています。

(プラットホームに)列車がきしりながら到着し、一見刑事とわかる4、5人の私服警官が、群れを追い込むようにどっと駆けこんできました。 不審者の上陸を住宅地の誰かがいち早く通報していたようでした。 「ワタシ、チガウ、チガウ」と誰もが懸命に朝鮮語訛り丸出しで言い訳をしていましたが、私服警官らは至って民主的に、いいから降りぃ、降りぃと車内から連れ出していました。 (238~239頁)

 金さんがこの摘発を免れたのは、彼の風体(詰襟の学生服)だけでなく、警官の言っていることが理解できたので怪しまれなかったからではないかと思われます。 日本語が理解できない外国人は、今でもそうですが、日本語ばかり飛び交う日本社会ではかなり目立つ存在です。 ひょっとして警官から話しかけられても、訛りのないきれいな日本語が口から出たのかも知れません。 そうであるなら、その時は田舎から出てきた真面目な日本人学生と見られたでしょう。 それはともかく、この訛りのないきれいな日本語がその後の日本での生活に役に立ち、密航者と怪しまれない道具になったのではないかと想像します。

 金さんは大阪の猪飼野という済州島出身者が多く集まる地区に居を定め、石鹸工場に勤めるなどして生活を始めます。 その時、住む場所や働き口をどうやって探したかというと、これは容易に想像できます。 猪飼野では済州弁が通じたのでした。 そこでは同じ済州人として互いに助け合うという風潮があったのでした。 従って金さんは日ごろ朝鮮人同士では済州弁を使っていたものと思われます。 猪飼野は済州島からの密航者に住みやすい土地なのでした。 (続く)

【拙稿参照―終戦直後の在日朝鮮人の状況】

戦後朝鮮人の振る舞い―「事実」の経過 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2020/09/28/9299898

戦後朝鮮人の振る舞い―NHK記事に民団が人権救済申し立て http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2020/09/25/9299094

戦後の朝鮮人の振る舞い―事実を語るべきか http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2020/08/23/9281241

水野・文『在日朝鮮人』(14)―終戦直後の状況 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2016/07/22/8135824

張赫宙「在日朝鮮人批判」(1)   http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2013/10/27/7024714

張赫宙「在日朝鮮人批判」(2)   http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2013/11/01/7030446

権逸の『回顧録』          http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2013/11/07/7045587

終戦後の在日朝鮮人の‘振る舞い’  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2013/11/14/7054495

在日朝鮮人の「無職者」数      http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2016/01/05/7971706

闇市における「第三国人」神話    http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daijuusandai

金時鐘氏はどういう言葉を使ってきたのか?(1)2024/07/30

 金時鐘さんについて調べていくなかで、金さんはどういう言葉を使っていたのかが気になりました。 というのは金さんの講演などを聞くと、彼は独特の訛りのある日本語を使っておられます。 それはおそらく朝鮮訛りということで、自己アイデンティティをアピールしていると思われます。

 しかし私はこれまで在日一世のお年寄りたちから少なからず話を聞かせてもらってきたのですが、金さんの日本語は彼らの日本語と全くと言っていいほどに違うのです。 つまり彼のしゃべる日本語は、私の知っている他の在日一世たちの朝鮮訛りの日本語とはかなり違っているのでした。

 それでは金時鐘さんはこれまでどういう言葉を使ってきたのか、その経緯に関心を持ち、彼の自伝的著作『朝鮮と日本に生きる―済州島から猪飼野へ』(岩波新書 2015年2月)を読み返してみました。

 まずは物心のついた小学校(当時は「普通学校」)時代です。 金さんは済州島の小学校に通い、「皇国少年」になろうと真剣に努力しました。

私は生まれながらにして昭和の〝御代″の恩恵に浴した一人でしたので、当然のことのように日本人になるための勉強ばかりをしてきました。 朝鮮で生まれて朝鮮の親許で育っていながら、自分の国についてはからっきし何も知りませんでした。‥‥言葉も土着語の済州弁しか話せず、文字もアイウエオひとつ、ハングルでは書き取れない私だったのです。 (4頁)

 金さんは、朝鮮語は訛りのきつい済州方言をしゃべり、ハングルは書けなかったというのですから朝鮮全土で通じるような標準朝鮮語をしゃべることができなかったと思われます。

(学校の朝鮮語授業で)それでも覚えられなかった「ハングル」でした。 どだい身が入らないのです。 私だけでなく、生徒の皆が朝鮮語の授業などどうでもいいと思っていました。 はやく立派な日本人になって、天皇陛下の良い赤子になることが何よりも大事なことだと毎日諭されていましたから、朝鮮語の授業は全くもって余計な勉強だったのでした。‥‥朝鮮語の授業は「支那事変」が始まった年の二学年いっぱいで無くなりました (8頁)

 学校で朝鮮語の授業が必須から随意科目になったのは1938年の第三次教育令によるもので、「随意」なので朝鮮語授業を続けるかどうかは各学校に任せられました。 廃止した学校もあれば継続した学校もありました。 金さんの学校では、廃止されたようです。 それまで朝鮮語の授業があってハングルを教えられていたのですが、金さんも級友たちも覚えなかったといいます。  【参考】 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2018/10/12/8971509

 そして学校では生徒に早く日本語を覚えさせるために、うっかりでも朝鮮語が口から出てこないように、生徒同士で監視させ合うようにします。

学校内での国語常用(日本語)は罰則付きの規則にまでなっていきました。 ですが私には、〝真なること″を学び取る手順のようなものでしかありませんでした。 週はじめに「罰券」と呼ばれていたカードが生徒各自に10枚ずつ配られ、級友同士が目を光らせて〝国語(日本語)″を使わない生徒を摘発し合うようになりました。 獲物をせしめるすばしこさで、うかつに口を衝いて出る「朝鮮語」に飛びつく、一等早い者がお目当ての「カード」を一枚取り上げるのです。 そのカードは「国語」の成績はもちろんのこと、「修身」「操行」から期末の席次にまで影響が及ぶ特権の「罰券」でした。 私はこのスリリングなゲームでも、目立って堅実なプレーを発揮しました。 失点は必ずと言っていいほど、その週のうちにカバーしていましたので、先生の思し召しはことのほか上々でした。 (13頁)

 植民地時代の学校では、朝鮮の子供たちに日本語を早く習得させるために、朝鮮語を使わないように生徒同士に相互監視させるという教育方法をとっていたということですね。 そして金さんはこの教育方針にうまく順応したようです。 

 このようにして金さんは学校で日本語を徹底して教えられました。 さらに父親がかなりの知識人で、家では日本の新聞を購読し、文学書などの日本語刊行物がたくさんありました。  金さんはそれらを読み漁り、本の虫になります。 それは14歳時に中学校(光州師範学校)に入学してからも変わりませんでした。

父は相当の物知りで、朝日、毎日等の日刊新聞をわざわざ取り寄せて読んでいましたし、日本語の本も家にはいっぱいあって、私が「トルストイ」という名前を知ったのも小学校低学年のころからでした。 父の部屋に並べられてあった大判の革張りの本、背文字まで金箔文字がうってあった『トルストイ全集』から覚えたのです。 おかげで乱読の癖は早くからつきました。 (19頁)

文学に対する体系的な読書ができたのも、このあわただしい学生時代でした。 西洋物はすべからく遠ざけられていた学校でしたのに、なぜだか図書室には新潮社の『世界文学全集』が備えられてあって、持ち出してまで全38巻を三年がかりで読みました。 (70頁)

 「学生時代」というのは旧制の中学のことで、具体的には光州師範学校です。 今の日本では高校生にあたりますが、その時期に『世界文学全集』全38巻を読んだというのですから、相当な読書家です。 金さんの日本語能力は読み書きはもちろんのこと、話すことも完璧だったでしょう。 一方、光州での学生時代の日常生活では朝鮮語を使っていたのかどうか記されていませんが、故郷の済州島から離れていたことから朝鮮語を話す機会はなかっただろうし、また太平洋戦争中だったことからしておそらく日常でもすべて日本語会話だったのではないかと思われます。

 金さんは小学校(当時は普通学校)でも中学校でも日本語を厳しく指導されて、しかも彼自身は普段から日本の文学書や新聞等を読んできていました。 しかし一方では日本語を直接耳で聞くのは学校あるいはラジオだけで、それは当然標準語ですから、彼が大阪弁や九州弁などの日本の方言に接する機会はほとんどなかったはずです。 ですから彼がしゃべる日本語は、訛りのないきれいな標準語だったと考えられます。

 以上、1945年の終戦に至るまでの金時鐘さんの言語使用状況をまとめますと、完璧な日本の標準語を駆使して読み書きも会話もできていたが、他方で故郷の家族・友人等とは朝鮮語でも方言のきつい済州弁で日常会話をやり取りしていた、しかし朝鮮語文の読み書きは不十分だったようで、従って朝鮮全土で通じる朝鮮標準語でしゃべることは難しかったと思われます。 (続く)

【金時鐘氏に関する拙稿】

玄善允ブログ(1)―金時鐘さんの日本名 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/03/31/9671877

核問題は北朝鮮に理がある―金時鐘氏 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/01/23/9653071

金時鐘氏が正規教員?―教員免許はないはずだが‥ http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/01/16/9651219

金時鐘氏は不法滞在者なのでは‥(1) https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/10/07/9623500

金時鐘氏は不法滞在者なのでは‥(2)  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/10/12/9624809

金時鐘氏は不法滞在者(3)―なぜ自首しなかったのか http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/10/17/9626078 

金時鐘『朝鮮と日本に生きる』への疑問 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/07/28/7718112

金時鐘さんの法的身分(続)     http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/08/13/7732281

金時鐘さんの法的身分(続々)   http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/08/26/7750143

金時鐘さんの法的身分(4)    http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/08/31/7762951

毎日の余録に出た金時鐘さん    http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2018/08/27/8950717

本名は「金時鐘」か「林大造」か  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2018/08/23/8948031

金時鐘さんは本名をなぜ語らないのか? http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2019/07/02/9110448  

金時鐘さんは結局語らず      http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2019/08/13/9140433

金時鐘さんが本名を明かしたが‥‥ http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2019/10/26/9169120

金時鐘『「在日」を生きる』への疑問 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2018/03/01/8796038

金時鐘さんの出生地        http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/07/05/7700647

青木理・金時鐘の対談―帰化(1) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/09/08/9524343 

青木理・金時鐘の対談―帰化(2) https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/09/15/9526042

武田砂鉄の被差別正義論―毎日新聞 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2018/03/24/8810463

社会的低位者の差別発言      http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2020/05/09/9244588