金時鐘氏への疑問(7)―4・3事件(その3)2025/04/28

https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/04/23/9770375 の続きです。

⑫	4・3事件の一面しか語らない

 4・3事件がどういうものだったのか、金時鐘さんは『朝鮮と日本を生きる』(岩波新書 2015年2月)に詳しく書いておられます。 ただし彼は共産主義者(南労党員)でしたから、書かれている内容は武装蜂起を肯定する立場からの記述です。 また彼の講演でもこの立場で語っておられます。 そのためでしょうか、事件は〝島民らが祖国の分断に反対するためにやむにやまれず立ち上がった”というようなイメージになっています。 それは〝善”は蜂起した「南労党」「島民」であり、〝悪”はこれを過酷に弾圧した「米軍政」「軍警察」と単純に二分化するものです。 しかしそれでは事件の真相が見えてこないと考えます。

 金時鐘さんは著書『朝鮮と日本を生きる』で、4・3事件が自分の身内に及ぼした殺人亊件を語っています。 まずは身内の南労党員が軍・警によって殺害された事件です。

狂乱の虐殺はついに、私の身近な従姉の夫にまで及んできました。 惨殺された屍体をまじまじと見たのは、この時が初めてです。 ‥‥日本から引き揚げてきてまだ3年も経たない、高南杓という実直な40がらみの男でした。 (220頁)

 次に金時鐘さんが4・3事件に関与して警察から逃げ回り、叔父の家で匿われていた時、その叔父が南労党によって殺害されました。

かくまってくれた叔父貴(母方の)があろうことか、武装隊(遊撃隊)の手によって殺されてしまうのです。‥‥ 区長の家ですので‥警察の上役あたりがしょっちゅう出入りします。 そのつどちょっとした酒食をもてなしてもいたようです。  それが武装隊には討伐隊(軍・警)に肩入れしているように見えたのでしょう。‥‥ 明け方に襲ってきた武装隊に腹部を二ヶ所も竹槍で刺された叔父貴は、腸をはみださせたまま裏の石垣をよじのぼって裏の小道に落ちました。 それでもすぐには死ななくて、七転八倒の苦しみが3日も続きました。 (228~229頁)

 以上のように、金さんの身内のうち従姉の夫が南労党、叔父が警察関係者として、この二人が犠牲になったわけです。 

 ところで大部分の身内の方は、南労党とか警察とかの関係者を抱えながら、普段はそんなことと関係なく過ごしてきていたでしょう。 特に女性たちはなぜ彼らが殺し合うほどに対立せねばならないのか、理解できなかったはずです。 しかし身内の中にそういう人たちがいて、どちらも惨殺されるのをただ見るしかなかったのです。 その時、金時鐘さんもまた南労党員として逃げ回っていて、周囲の身内は彼を匿わざるを得ませんでした。 そして自分たちもいつ巻き込まれて殺されるかも知れなかったのです。

 朝鮮民族はよく知られている通り家族・宗族の絆が強く、祖父母・父母・伯父・伯母等々の本家分家一族が数十人単位、遠い親戚を含めると「八寸=八親等」ですから数百人となるかも知れない、そんな血縁共同体を形成しているのが一般的でした。 4・3事件の当時、この大家族共同体=身内のなかで、ある青年は南労党に入り、別のある青年は警官になり、地元の有力者である家長は選挙管理人になり‥‥。 こういった身内がテロの対象になって、自分たちもそのテロに巻き込まれていくのでした。

 ここまできて、金時鐘さんが語る「4・3事件」は共産主義者(南労党員)の立場から語っているもので、そんなものとは関係ない〝身内から見た事件”というものが語られていないことに気付きました。 それは、殺し合いをしている南労党と軍・警の両方が身内にいるという中で、ただひたすら右往左往するしかなかった身内のことです。 南労党による「赤色テロ」も軍・警による「白色テロ」も、どちらも家族をも対象にしていたのです。

 金時鐘さんが語る4・3事件は、事件の一面にしか過ぎないものです。 事件から76年も経ったのですから、今は冷静になって、周囲や相手の立場も踏まえた上で事件の説明をしてほしいと思うのですが‥‥。         (続く)

金時鐘氏への疑問(1)―在留資格       https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/03/26/9763626

金時鐘氏への疑問(2)―韓国戸籍・墓参り   https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/03/31/9764818 

金時鐘氏への疑問(3)―教員免許・公務員就職 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/04/05/9766006

金時鐘氏への疑問(4)―日本語・創氏改名   https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/04/11/9767588

金時鐘氏への疑問(5)―政党加入・4・3事件  https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/04/18/9769221

金時鐘氏への疑問(6)―4・3事件(その2)  https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/04/23/9770375

 

【4・3事件に関する拙稿】

世に出ている4・3事件の説明は権力側による白色テロばかりがクローズアップされているのに疑問を感じて、下記のように反権力の南労党側による赤色テロを取り上げました。 赤色テロの残酷さに言及する人があまりにも少ないと思えたからです。

残虐非道な殺害は権力側の白色テロだけでなく、反権力側の赤色テロにもありました。 何万人もの島民が犠牲となった責任は権力側だけでなく、反権力側にもあります。 下記拙ブログをお読みいただければ幸い。

済州島4・3事件の赤色テロ(1) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2018/06/10/8890890

済州島4・3事件の赤色テロ(2) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2018/06/18/8896622

済州島4・3事件の赤色テロ(3) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2018/06/23/8900976

済州島4・3事件の赤色テロ(4)-警官家族へのテロ http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2018/06/30/8906338

済州島4・3事件の赤色テロ(5)―右翼家族へのテロ http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2018/07/05/8909472

済州島4・3事件の赤色テロ(6)―評価は公平に http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2018/07/10/8912907

4・3事件-南労党を隠ぺいする読売解説 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2018/11/19/9000560

4・3事件 南労党を隠ぺいする毎日新聞 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2020/02/29/9218957

南労党を隠ぺいする韓国マスコミ http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2019/04/04/9055271

4・3事件―ハンギョレ新聞も南労党を隠ぺい https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/11/03/9537878

韓国映画『チスル』      http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2014/06/01/7332806

金時鐘氏への疑問(6)―4・3事件(その2)2025/04/23

https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/04/18/9769221 の続きです。

⑩	4・3事件で蜂起した南労党の軍事力

 4・3事件はどのように始まったのでしょうか。 金時鐘さんは次のように言います。

遊撃隊のみすぼらしいいでたちも目に焼きついて離れません。 捕えられて処刑された遊撃隊員は、誰彼なしにだぶだぶのパジを膝下までくくった屍体でした。 せめて戦闘服くらい着せてやりたい素朴な勇士たちでした。 竹やり、鎌、鉈で闘った、一揆の範囲をでない〝暴徒”たちです。 これを共産暴動と強弁して殲滅を図ったのですね。 米軍政の横暴と単独選挙に反対して、止むにやまれず立ち上がった農村の青年たちです。 (『金時鐘コレクション11』藤原書店 317~318頁)

 これにはビックリ。 世間では「島民の蜂起」なんていう言葉が広まっているからでしょうか、〝一般島民が怒りのあまり身近にあった武器で立ち上がった”というようなイメージがあるようです。 金時鐘さんも「止むにやまれず立ち上がった農村の青年たち」のように、そのイメージで語っておられます。 事件の当事者だから事実であるかのように思えますが、実は全く違うものです。

 南朝鮮労働党(南労党)は1948年3月15日に武装蜂起を決定し、準備した上で、4月3日を期して警察や右翼人士宅等への奇襲攻撃を始めました。 つまり4・3事件は先ずは南労党が仕掛けたものでした。 島民が「止むにやまれず立ち上がった」のではなく、武装蜂起し暴力闘争を展開した南労党に多くの島民が同調・協力したのです。 それでは武装闘争を始めた南労党の軍事組織である遊撃隊は、どれほどの武力を持っていたのでしょうか。

 軍・警(権力側)は南労党(反権力側)を鎮圧していく過程で、南労党の文書資料を押収していきます。 これを「鹵獲文書」といいます。 その文書によれば、南労党は自分たちの武力がどれほどか、ちゃんと数えて記録していました。 玄吉彦『島の反乱』という本では、この鹵獲文書から次のように記しています。

> 最初(4月3日)に整備された組織は遊撃隊100名、それを補助する自衛隊200名、特殊な目的を遂行する独警隊20名など、総計320名で構成されていた。 武器は九九式小銃27丁、拳銃3丁、手榴弾(ダイナマイト)25発、煙幕弾7発で、その他は竹槍しかなかった。 (玄吉彦『島の反乱、1948年4月3日 済州4・3事件の真相』同時代社 2016年4月 44頁)

 4月3日、遊撃隊はこの軍事力で警察支署12ヵ所と右翼宅等を襲撃し、警察官4人、右翼人士等の民間人8人(うち2人は女児)を殺害し、これに対して遊撃隊の死者は2人にとどまりました。 そしてその後、遊撃隊は軍事力の増強を図ります。

> 第五次の組織整備は6月18日に着手し、7月15日に完了した。 その時の兵力は、各級指導部35名、通信隊34名、遊撃隊120名、特務隊312名で、総計501名だった。‥‥ MI小銃6丁、カービン小銃19丁、九九式小銃117丁、四四式4丁、30年式2丁、総計147丁の小銃があった。‥‥ 弾丸としては、MI弾丸が1396発、カービン1912発、九九式3711発、四四式721発など総計7740発で、軽機関銃1丁、擲弾筒2門、手榴弾43発、ダイナマイト69発、信号弾2個、軍刀16丁、拳銃は6連発1丁、8連発6丁、10連発1丁で総計8丁だった。  (玄吉彦『島の反乱』同時代社 44頁)

 わずか3ヶ月余りで、これほどに軍事力を増強しました。 兵員は320名→501名、兵器は小銃27丁→147丁、拳銃3丁→8丁、手榴弾・ダイナマイト25発→112発等々です。 大きく増えた要因は、遊撃隊が軍・警を襲撃して武器を奪取してきたことと、軍兵士が南労党側に寝返ったことです。 金時鐘さんは次のように書いています。

連隊長に不満をもった第九連隊所属の兵士41人が、5月18日、大量の武器弾薬と装備をたずさえて脱走し、山の部隊に加担します。 (『朝鮮と日本に生きる』岩波新書 217頁)

 このようにして、南労党遊撃隊は軍隊なみの兵器・兵員を有する武装集団となりました。 それでは、どれほどの戦果を挙げたのか。 鹵獲文書には、7月末までの4ヶ月足らずの間の戦果報告があります。 殺害者数だけを抜き出してみますと、

> 警察官殺害74名、警察官家族殺害7名。 反動殺害223名、反動家族殺害12名。 (『島の反乱』同時代社 56頁)

 これは南労党から鹵獲した記録によるもので、どれほど正確なのか分かりませんが、当時の南労党はこれだけの戦果があったと認識していたという資料にはなるでしょう。

 家族は偶然に巻き込まれたのではなく、遊撃隊の当初からの狙いでした。 「反動」は右翼人士および選挙管理委員会関係者などを指します。 「警官」「警官家族」よりも「反動」「反動家族」の殺害数が非常に多いことに目が行きますね。

 武装暴力闘争を担ったのは、金時鐘さんが言うような「一揆の範囲をでない〝暴徒”たち」「止むにやまれず立ち上がった農村の青年たち」の集まりで決してありません。 4・3事件の主体は、あくまで南労党の軍事組織である遊撃隊でした。

 

⑪	村人たちを強制移動させて選挙拒否するも弾圧を招く

 金時鐘さんによると、南労党は単独選挙を阻止するために、村人たちを投票所に行かせないように南労党の根拠地へ強制的に大挙して移動させたといいます。

「山部隊(遊撃隊)」は、これがのちのち4・3事件の悲劇を惨劇に変える因となった出来事ですが、投票拒否の証として村人たちを大挙入山させたりしたのです。 それは胸痛くも、無理強いの説得と脅しによってなされた行為でした。 (『朝鮮と日本に生きる』 201頁)

 金さんは「胸痛くも」と書いておられますので、「無理強いの説得と脅しによってなされた行為」に関与したと考えられます。

 北済州郡には甲乙の二つの選挙区があって、選挙当日(5月10日)にここの中山間部の大部分の村人が南労党の指示により村から出て、投票を拒否しました。 このためにこの二選挙区では投票率が過半数に至らず、選挙が無効となりました。 これによって権力側の軍・警は選挙から逃亡したこれらの村々を「パルゲンイ(赤)の村」と見なし、大量虐殺へ繋がることになるのでした。 

 済州島という孤立した島で他からの応援・支援がない中で、圧倒的武力を有する軍・警を相手とした武装暴力闘争は選挙無効という成果を勝ち取りましたが、多くの島民の犠牲者を出しながら最後まで闘い抜いて、結局は「無惨な敗北」に終わりました。

 南労党は早い段階で、〝全ての責任は我が党にある、島民には罪はないから島民を殺すな”として投降すべきだったのではないでしょうか。 何万人もの島民が犠牲となった責任は権力側(軍・警・右翼等)だけでなく、反権力側(南労党)にもあると考えます。

 私はこの事件について、権力側も反権力側も悪魔と化して残忍な暴力を応酬し合ったのですから、今となっては両者を区別せずに、犠牲になった多くの島民も含めて、すべての人々を平等に扱って慰霊するべきものと思っています。       (続く)

金時鐘氏への疑問(1)―在留資格       https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/03/26/9763626

金時鐘氏への疑問(2)―韓国戸籍・墓参り   https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/03/31/9764818 

金時鐘氏への疑問(3)―教員免許・公務員就職 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/04/05/9766006

金時鐘氏への疑問(4)―日本語・創氏改名   https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/04/11/9767588

金時鐘氏への疑問(5)―政党加入・4・3事件  https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/04/18/9769221

金時鐘氏への疑問(5)―政党加入・4・3事件2025/04/18

https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/04/11/9767588 の続きです。

⑧	密入国後わずか7ヶ月で日本共産党入党

 金時鐘さんは1949年6月に密航で来日しました。 彼は著作でその時の様相を思い出話として記しています。 それによれば、日本には知り合いが一人もいませんでした。

私が日本に来たての頃は‥‥一人の縁故者もないところへ来たものですから (『わが生と詩』岩波書店 2004年10月 76頁)

 ですから当初は行き当たりばったりだったようです。 彼は自分の故郷である済州島の出身者が多い大阪の猪飼野で暮らし始めます。 

 ところが彼は、それからわずか7ヶ月後の1950年1月に日本共産党に入党しました。 そしてすぐさま共産党傘下の民戦(在日朝鮮民主主義統一戦線の略称)で働き始めます。

(1950年)一月末、自己を奮い立たせるように日本共産党の党員のひとりになりました。 ‥‥中川本通り(生野区)近くにあった民族学校跡の、民戦大阪本部臨時事務所に非常勤で詰めるようになりました。 (『朝鮮と日本に生きる』岩波新書 2015年2月 248頁)

そちら(生野区の南生野町にあった鶏小屋)に辿り着いて早ばやと日本共産党に、自分の心の責めもあって集団入党の一員として入党しました。 入党するとなると、ビラ貼りから『アカハタ』配りを経ないと正党員にはならしてもらえないんですが、私は国での何がしかの党活動、南労党、南朝鮮労働党の組織活動に加わっておったという実績を買われて、すぐさま、一種のオルグ格の仕事を受け持ちました.(『金時鐘コレクション11』藤原書店 2023年8月 264頁)

 当時の共産党が国際共産主義を掲げていたとしても、また党員資格に国籍条項がなかったとしても、海外での党活動実績を自称する外国人、しかも日本に縁故のいない人間の入党を許し専従職員にしたということです。 わずか7カ月前に来日したばかりの人が海外でどんな実績を残しているのか、またそれをどうやって確認したのか? 拙ブログでは、彼は日本語も朝鮮語もきれいな標準語を使っていたためにマルクス主義に詳しい知識人として通用し、信頼を勝ち得たからではないかと、想像を交えながら論じてみました。 ご参考くだされば幸い。

金時鐘氏はどういう言葉を使ってきたのか?(3) https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/08/09/9707790

  

⑨	4・3事件で韓国を否定しながら「晴れて」韓国の国民に

 1948年の済州島4・3事件は、南労党(南朝鮮労働党)済州道委員会が人民を盾にして起こした暴力闘争で、パルチザン方式とかいわれるものでした。 〝南北分断反対”を呼号し、具体的には5月10日に南朝鮮だけで実施される単独選挙を阻止して「大韓民国」の建国を許さないことが目的でした。 暴力闘争を担った南労党の組織は、「人民遊撃隊」「武装隊」「山部隊」「パルチザン」などと呼ばれていました。 ここでは主に「遊撃隊」を使います。

 つまり「大韓民国」建国を否定するために南労党遊撃隊は武装蜂起して暴力闘争を敢行し、これに多数の島民たちが同調し協力したのに対し、南朝鮮(同年8月から「大韓民国」)の軍・警が過酷で大規模な弾圧を加えて南労党のみならず多くの島民も犠牲になったのが4・3事件です。 近頃は「島民の蜂起」などのように、南労党を隠蔽するような言い方が多いですね。 中には「南労党」という言葉を全く使わないで4・3事件を解説するものがあって、驚かされます。

 金時鐘さんは南労党の党員として、大韓民国建国に反対する4・3事件に参加しました。 金さん自身が「〝共産暴徒”のはしくれの私」(『朝鮮と日本に生きる』岩波新書 290頁)と言っておられます。 事件は〝大韓民国は存在してはならない”と否定するもので、金さんはその考えを日本へ密航した後も変えず、日本の外国人登録は〝統一された祖国”を意味する「朝鮮」籍を続け、「韓国」籍は分断を意味するものとして否定してきました。

 ところがそんな彼が55年後の2003年に韓国の戸籍(今は家族関係登録簿)を取得し、韓国国籍になられたのです。 つまり彼は「朝鮮」籍を捨てて「韓国」籍に切り替えて、「晴れて」大韓民国の国民の一員になられたわけです。 「晴れて」と強調したのは、彼の著書『朝鮮と日本を生きる』の287頁に「新たな戸籍と大韓民国国籍を晴れて取得しました」とあったからです。 ですから彼は〝韓国の否定”から〝韓国の肯定”へと、「晴れて」立場を変えられたのです。 

 とすれば、韓国を建国してはならないと否定した4・3事件は一体何だったのでしょうか? 今は晴れて大韓民国の国民となられたからには、〝あの時に韓国が樹立されて良かった”というように評価を肯定的に変えねばならないと思うのですが‥‥。 しかし彼は韓国を否定するために蜂起した暴力闘争の事件について、次のように闘争の正当性を訴え続けておられるのです。

4・3事件は無惨な敗北だった。 しかし民族の解放後歴史をたぐるとき、「無惨さ」として記録されるのではなく、誇りとして記録されると思う。 韓国だけで単独選挙をするということは、永遠に国が分割されるということだ。 選挙を成り立たさないための武力闘争だった。 酸鼻を極めた無惨な敗退を喫したけれど、「目の前で歴然と民族が分断される」ことに力を傾けて反対を唱えた人たちがいたことを誇りとして記録されるべきだ。 (『在日一世の記憶』集英社新書 2008年10月 568頁)

 金時鐘さんは晴れて韓国の国民になられたのに、その韓国を否定する4・3事件を今なお「誇りとして記録されるべきだ」と言っておられます。 しかし結局は「無惨な敗北」に終わりました。 これを「誇り」とするところに大きな違和感があります。       (続く)

金時鐘氏への疑問(1)―在留資格       https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/03/26/9763626

金時鐘氏への疑問(2)―韓国戸籍・墓参り   https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/03/31/9764818 

金時鐘氏への疑問(3)―教員免許・公務員就職 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/04/05/9766006

金時鐘氏への疑問(4)―日本語・創氏改名   https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/04/11/9767588

夫婦別姓―毎日新聞の読者投稿2025/04/13

 4月12日付の毎日新聞の「みんなの広場」欄に、「選択的夫婦別姓に異議なし」と題する投稿がありました。 https://mainichi.jp/articles/20250412/ddm/005/070/064000c 

選択的夫婦別姓制度の導入に異議ありません。反対する根拠に説得力を感じません。 結婚で姓を変えることで不利益を被る人がいるのであれば救済すべきでしょう。 子供の姓は二人で相談して決めればよいこと。子供の名前を決めるのと同じではないでしょうか。 別姓が嫌な夫婦は同姓にすればよいだけです。

中国でも韓国でも夫婦別姓が普通ですが、家族のきずなが弱いとは思えません。 私は韓国に駐在していた経験がありますが、韓国の家族や親族のきずなは大変強いものがありました。 お母さんは、何々ちゃんのお母さんで通っていました。 日本でもそもそも家庭内で姓を呼び合うことは、まずないでしょう。 ‥‥

 韓国の夫婦別姓について触れていますので、ちょっと一言します。 「韓国の家族や親族のきずなは大変強い」というのは事実ですが、この場合の「家族」「親族」は父系を中心とするものであることに注意が必要です。 韓国の伝統的家族観では、女性は結婚(嫁入り)しても夫側の家族の一員になるわけでなく、男子を生んで初めてその子の母として夫家族で存在を認められるというもので、徹底した父系重視です。 だから女性は結婚しても姓を変えないのです。 韓国の夫婦別姓は、元々は女性差別の結果だということを踏まえてほしいものです。

 韓国の夫婦別姓については、拙ブログでは5年ほど前に少し詳しく論じたことがありますので、ご参照ください。  https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2020/02/17/9214762

 なお韓国では2007年に戸籍制度が廃止されて、父系家族制度ではなくなりました。 ですから今は法的には男女対等の夫婦別姓制度ですが、父系重視の伝統的家族観は強固に残っています。 ですから生まれる子供の名は、父から受け継ぐのがほとんどです。

 ところが近年の韓国の若者たちは、結婚・出産そのものを忌避する傾向が強くなってきています。 つまり「家族」を否定する考え方ですね。 今までは父系重視の「韓国の家族や親族のきずなは大変強い」のですが、将来はそんな伝統的家族観はもちろん、男女平等の近代的家族観すらも離れて、「家族」そのものの存在が薄れていく社会になっていくのではないかと思われます。

金時鐘氏への疑問(4)―日本語・創氏改名2025/04/11

https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/04/05/9766006 の続きです。

 ⑥	「流麗な日本語がしゃべれる」のに「いびつな日本語」

 金時鐘さんが講演等でしゃべっておられる日本語は、私の知る在日一世の朝鮮訛りの日本語と違っているし、1970~80年代に韓国旅行中に出会った韓国人のお年寄りたちが話すきれいな日本語とも違っていて、私には違和感がありました。

 彼は植民地時代、小学校(当初は普通学校、後に国民学校)で朝鮮語が禁止されるなかで日本語を徹底して教え込まれ、「皇国少年」としての日々を過ごし、さらに光州師範学校で日本語普及の教師になるための教育を受けました。(『朝鮮と日本に生きる』岩波新書 67頁) ですから読み書きはもちろんのこと、会話でも完璧な日本標準語を駆使できたはずです。  

ところがそれから数十年経って、彼がしゃべる日本語を実際に聞いてみると、 そんな日本語ではありませんでした。 これについて以前に拙ブログで論じたものがあって、これを改変・追加して改めて論じます。

 2019年6月8日付けの『ハンギョレ新聞』に、「在日70年は〝4・3への痛恨” 胸に秘めて生きてきた抵抗の歳月だった」と題する金時鐘氏取材記事があります。 https://japan.hani.co.kr/arti/politics/33623.html  この記事の冒頭で、金さんは次のように発言しておられます。

「私の日本での〝在日”暮らしは、流麗で巧みな日本語に背を向けることから始まりました。情感過多な日本語から抜け出ることを、自分を育て上げた日本語への私の報復に据えたのです」

 ここに「流麗で巧みな日本語に背を向ける」とあるように、きれいな日本語が使えるのに使わない、それが「日本語への私の報復」なのだそうです。

 次に、2024年7月27日付の『毎日新聞』に、「詩人 金時鐘さん/下 祖国、民族、在日 日本語で書く」と題する連載記事があります。  https://mainichi.jp/articles/20240728/ddm/014/040/005000c (ただし有料記事です)    このなかで金時鐘さんは、自分のしゃべる日本語について次のようにおっしゃっています。

「植え付けられた抒情は日帝(大日本帝国)の後遺症だ。 小野さんの作品と出合い『流されない言葉』への執着が生まれ、自分は何者か、民族、祖国とは何か、問い直しました」。 詩こそ人間の生き方そのものと気づき、「問い直し」は自分の内に巣くう抒情的な日本語を洗い流すことでかなうと考えた。 「流ちょうでない私のいびつな日本語は、日本語への報復です」

 ちょっと以前のものでは、次のような発言もあります。

あくせく身につけたせちがらい日本語の我執をどうすれば削ぎ落とせるか。 訥々しい日本語にあくまで徹し、練達な日本語に狎れ合わない自分であること。 それが私の抱える私の日本語への、私の報復です。 (『わが生と詩』岩波書店 2004年10月 29・30頁)

 以上の三つの記事から言えることは、彼は元々「流麗で巧みな日本語」「練達な日本語」がしゃべれるのに「流ちょうでない私のいびつな日本語」「訥々しい日本語」をあえて使っており、それは「日本語への報復」だということです。 彼の口から出る日本語にかなりの違和感があるのは、彼が意図的に「いびつな日本語」「訥弁の日本語」を使っているからなのですねえ。 しかもそれが「日本語への報復」だというのは、どういうことなのでしょうか。

 また彼は、「日本の支配から解放するために、日本語に報復する」とも言っておられます。 https://book.asahi.com/article/11576563  

日本に渡ったことで日本語を使って生きざるをえなくなった私は、個人としての私を日本の支配から解放するために自らの日本語に報復する必要がありました。

 「日本に渡って日本語を使って生きる」ことは即ち〝日本の支配を受け入れて日本語を使う”ことに他ならず、またそれを自ら選択したことになります。 そうであるのに何故「日本の支配から解放のために日本語に報復」となるのか? これも疑問となるところです。

 日本という土地で、日本語ばかりの環境の中で、日本人(在日を含む)を相手に繰り広げる日本語作品の数々、そしてその作品を売って得る収入と生活。 それらの作品が毎日出版文化賞や大仏次郎賞などの日本の文学賞をいくつも受賞し、彼は今の名声と地位を築いたのでした。 ですから書き言葉の日本語は完璧です。 そうであるなら先ずは日本語への愛情と感謝から始まるべきだと思うのですが、そうではなく「日本語への報復」だとして、しゃべる言葉は「いびつな日本語」「訥弁の日本語」を敢えて使う‥‥。 なぜそうなるのか? 疑問ばかり出てきます。

 近年、金時鐘さんを研究する論文がいくつか出ており、この「日本語への報復」が彼の思想の核心のように論じられています。 彼らは理解できるようなのですが、私には「日本語への報復」が〝ウケを狙った決まり文句“ように感じられて、違和感ばかりが残ります。

【拙稿参照】

金時鐘氏はどういう言葉を使ってきたのか?(1)  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/07/30/9705285

金時鐘氏はどういう言葉を使ってきたのか?(2) https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/08/04/9706635

金時鐘氏はどういう言葉を使ってきたのか?(3)  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/08/09/9707790

 

⑦	創氏改名の日本名は「光原」なのか「金山」なのか

 金時鐘さんは、著作で記される思い出話では植民地時代の自分の日本名は「光原」だったとしています。 しかし玄善允さんという方が金さんの母校と思われる済州島の小学校を訪ねた時、1943年卒業者名簿に「金山時鐘」という名前を発見しました。 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/03/31/9671877 とすれば彼は「金山」と創氏改名したことになります。 彼の思い出話に出てくる「光原」とは違います。

 これが指摘されて数年ほどが経ちます。 しかし金時鐘さんはこれにコメントすることはなく、また彼に関する記事を多く書いてきた各種マスコミもこれには言及していないようです。 果たして彼の創氏改名は「金山」なのでしょうか、「光原」なのでしょうか。

 この文を書いている途中、金時鐘さんの創氏改名について、2018年5月28日付の5chで神戸新聞記事が取り上げられているのを見つけました。 卑猥な広告があって不快になるでしょうから、開く時はご注意ください。 https://itest.5ch.net/lavender/test/read.cgi/news4plus/1527492394/

 私の近在の図書館にはローカル新聞のバックナンバーや縮刷版を置いておらず、確かめていないところです。 しかしここで出てきている金時鐘さんの発言は当時の彼の発言内容と一致しており、おそらく神戸新聞に掲載された記事は間違いないだろうと思います。

 この中で彼はご自分の創氏改名について、次のように言っておられます。

創氏改名で名前も金谷光原(かなやみつはら)に。

 「金谷(かなや)」は「金山(かなやま)」の言い間違い(あるいは聞き間違い)と考えることが可能です。 一方の「光原」は姓ではなく名であり、しかも訓読みで「みつはら」となっています。 姓で「みつはら」ならまだ分かりますが、名が「みつはら」となると違和感が残ります。 これが創氏改名した日本名だというのなら、本当かな?という疑問を抱きます。        (続く)

金時鐘氏への疑問(1)―在留資格  https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/03/26/9763626

金時鐘氏への疑問(2)―韓国戸籍・墓参り https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/03/31/9764818 

金時鐘氏への疑問(3)―教員免許・公務員就職 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/04/05/9766006

 

【創氏改名に関する拙稿】

第12題 創氏改名とは何か  http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daijuunidai

第30題 創氏改名の残滓   http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daisanjuudai

第70題 創氏改名の手続き  http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/dainanajuudai

朝鮮名での設定創氏が可能な場合  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2007/02/12/1178596

宮田節子の創氏改名論       http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2014/11/10/7487557

民族名で応召した朝鮮人      http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2014/11/14/7491817

民族名での人探し三行広告     http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/09/24/7807103

辺見庸さんの創氏改名論      http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2007/10/06/1838919

朝日の創氏改名論         http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2008/03/15/2753298

金時鐘氏への疑問(3)―教員免許・公務員就職2025/04/05

https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/03/31/9764818 の続きです。

④	教員免許がないのに「正規教員」

 金時鐘さんは日本植民地時代に光州師範学校に通っておられましたが、在学中に日本の敗戦=朝鮮の解放を迎えてそのまま退学(あるいは除籍)してしまいました。 ですから教員免許はありません。 日本への密航後も学校に通ったことはなく、従って教員免許を取得しませんでした。 

 ところが彼は1973年に兵庫県立湊川高校の「正規教員」として就職し、定年まで「教師」として勤めたとしておられます。 教員免許のない人がこのような経歴を持つことができたのは何故か? 疑問が湧きます。

 実際は「実習助手」という形だったようですが、「教師」の仕事をしてこられました。 教師ならば生徒に〝ウソをつくな! 本当のこと言え!”と指導すると思うのですが、教員免許がないのに「教師」だとしていることをどう説明しておられるのでしょうか。 また本当の本名である「金時鐘」ではなく、「林大造」という不正入手した名前を使っていることをどう説明しておられるのでしょうか。 あるいはまた教師ならば、悪事を犯した生徒がおれば警察に出頭して正直に話すように指導するものと思うのですが、不法滞在状態であるご自分についてどのように説明しておられるのでしょうか?      (続く)

金時鐘氏が正規教員?―教員免許はないはずだが‥ http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/01/16/9651219  

 

⑤	自分が公務員でありながら、朝鮮人は公務員になるな

 金時鐘さんは1973年に日本の公立高校の教育公務員(実習助手)に就職されました。 ところがしばらくして、この県の教育界では在日朝鮮人生徒の就職先として公務員を選ぶことへの疑問の声が上がり、議論となりました。 彼はこの議論のなかで、朝鮮人が日本の公務員になってはいけないと主張されたのです。

在日朝鮮人が日本の公務員になることは、日帝時代の夢を彷彿させる。 1945年8月15日まで、朝鮮人の青少年たちの夢は、町村の吏員になることがすべてだった。 いま、日本人化する風潮がつよく、帰化運動を推し進める動きが阪神間で起こっていることを合わせて考えるなら、官吏になることは同化の道行きだ。 言うまでもなく、在日朝鮮人の鉄則は、日本の内政に干渉しないことである。

公務員というなら、朝鮮語を教えることで公務員になっている私の場合のような、知識労働者としての面が開発されるべきだ。 公務員への就職を食えるからとか、金になるからというだけの、市民的権利の拡大だけに短絡させてはいけない。 そのような職場開拓は問題がある。 (以上、兵庫県高校進路指導研究会「在日朝鮮人諸団体の評価」にある金時鐘さんの一文 ―金宣吉「歴史をふまえた『異者』との共生」52~53頁より再引)

https://miccskyoto.jp/miccskyoto_cms/wp-content/uploads/2023/07/intersection_01_04_interview.pdf 

 “自分は「知識労働者」だから日本の公務員になっていいが、朝鮮人は公務員になってはいけない”という主張です。 さらに地方公務員に就職していた在日朝鮮人の子たちに対して、次のようにおっしゃいます。

(朝鮮人が)下っ端というか、木っ端役人ですが、ともあれ行政権力から給料をもらえるということが一番の夢だったのです。 少年の夢として、青少年の描く夢として何と、わびしい限りではありませんか。 そのようなことが、在日朝鮮人の労働権の開発という正当な運動の闘い取る遺産の中で、在日世代のさもしい夢として育てられるのでしたら、これは何ともやりきれない話です。 (「民族教育への私見」 『金時鐘コレクション10』藤原書店 2020年6月 204頁)

 金時鐘さんは自分が公務員となっているのに、在日の子供たちが公務員を目指すのは「わびしい限り」「さもしい夢」で、「何ともやりきれない」気持ちになったそうです。 しかし、ご自身はそんな公務員を定年まで16年間も勤め上げられました。 彼の論理を理解できる人は果たしてどれほどいるのでしょうかねえ。 私には疑問ばかりが出てきてきます。       (続く)

金時鐘氏への疑問(1)―在留資格  https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/03/26/9763626

金時鐘氏への疑問(2)―韓国戸籍・墓参り https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/03/31/9764818

金時鐘氏への疑問(2)―韓国戸籍・墓参り2025/03/31

https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/03/26/9763626 の続きです。

②	本名で韓国戸籍を作らず―法治国家ではあり得ないが‥‥

 金時鐘さんはもともと本籍地が北朝鮮の元山だったので、韓国には戸籍(今は家族関係登録簿)がありませんでした。 そこで2003年(2004年とする記述もある)に、韓国に就籍(無戸籍者が新たに戸籍を編製すること)しました。 それは本当の本名である「金時鐘」でなく、日本で不法入手した外国人登録証名の「林大造」の戸籍です。 それでは、なぜ本名でない名前で戸籍を作ることができたのでしょうか。 彼は次のように書いておられます。

2004年に韓国籍を取った。 韓国籍も本名で作れなかった。 領事館に尽力いただいて、一代きりの本籍を取得した。‥‥ 済州島に本籍をおいた。 (集英社新書『在日一世の記憶』2008年10月 570~571頁)

当時の在大阪副総領事、情報部の責任者である外交官ですが、親の墓参りを続けたいという僕の思いを殊のほか親身に受け入れてくれて、国籍取得の方法まで講じてくれました。 外国人登録証名での新たな戸籍の取得を大法院に申請して、裁可を受けてくれたのです。 「金時鐘」では、手続きが複雑すぎて駄目だとのことでした。 それでも特別な計らいであったようには思っています。 (金石範・金時鐘『なぜ書きつづけてきたか なぜ沈黙してきたか』平凡社ライブラリー828 2015年4月 201頁)

駐大阪韓国総領事館の配慮もいただいて別掲の「ごあいさつ」文どおり、新たな戸籍と大韓民国国籍を晴れて取得しました。 (『朝鮮と日本に生きる』岩波新書 2015年2月 287頁)

ごあいさつ  謹啓  小生この度、外国人登録書名の「林」でもって韓国の済州島に本籍を取籍しました。‥‥ 敬白   ’03年12月10日 (同上 288頁)

 法治国家ならば、どんなに手間や時間がかかろうが法の筋を通さねばならないものです。 ところが金時鐘さんはそうしないで、「林大造」という赤の他人(あるいは幽霊?)の名前で韓国の戸籍を作られました。 しかもそれが在日韓国領事館から「尽力いただいて」「特別な計らいで」「配慮もいただいて」があったからこそ出来たと言っておられるのです。

 国家の非常事態でもないのに、国の公館が法の筋を通さないなんてことがあり得るのだろうか?という疑問が湧きます。 金時鐘さんだけの特別措置が本当ならば、韓国は果たして法治国家かどうか疑問になります。 その時の韓国は盧武鉉政権でした。 この政権に対する疑問にもつながります。

 

③	 親の墓参りをするのは「金時鐘」ではなく「林大造」

 金時鐘さんは「金鑚国」を父、「金蓮春」を母として朝鮮で生まれ、親から「金時鐘」と名付けてもらいました。 そして1949年の20歳までは、韓国でこの名前を使って生活してこられました。 

 1949年になって日本に密航し、その際に不正入手した外国人登録証にある「林大造」の名前を使ってこれを本名とし、「金時鐘」は通名として生活することになります。 そして1973年に日本の公立高校教員になられました。 さらに2003年に、今度はこの「林大造」の名前で韓国の戸籍を作られました。 その戸籍の父欄には「金鑚国」という本当の父親の名前ではなく、どこの馬の骨か分からず、ひょっとして幽霊かも知れない「林某」という名前が記されているはずです。

 一方、金時鐘さんは前述したように、警察からの問い合わせに対しては「林大造」が本名であり、「金時鐘」はペンネームに過ぎないことで押し通したと言っておられます。 つまり警察には、〝自分は戦前から引き続いて日本に在住してきた「林大造」という人間であって密入国者ではない、4・3事件なんて見たこともない、「金鑚国」「金蓮春」は自分の両親ではない”という説明をしたことになります。 そのあたりの事情は、彼自身が次のように語っておられます。

かく言う私にも二つの名前が併存している。 日本国政府の政令によって保障されている名前(林大造)と、「筆名」という本名(金時鐘)とである。 理由は簡単だ。 出入国管理令が制定された当時の、いわば戦前から持ち越された「米穀通帳」の名がそのまま登記されたことによって、私の本名は副次的な筆名になり変わったのである。 (「日本語のおびえ」 『「在日」のはざまで』平凡社ライブラリー 2001年3月 所収 70頁)

 親から「金時鐘」と名付けてもらい「時鐘(시종-シジョン)」と呼ばれつつ20歳まで育った人物は、日本で戦前から居住し続けてきた「林大造」に変身し、「金時鐘」は筆名=通名になったのです。 「金時鐘」という人間は日本でも韓国でも公式には存在せず、「林大造」だけが存在することになりました。 ですから彼は金時鐘ではなく「林大造」名の韓国パスポートで韓国に入国し、故郷の済州島を訪問して金時鐘の両親の墓参りをすることになります。 別に言えば両親にとっては、他人の名前の戸籍でしかもその父母欄には自分の名前がない人物が息子として自分の墓参りに来ていることになりました。    https://www.asahi.com/articles/ASS2N6JJ9S2HPTIL01V.html 

 このような経過であったと推測できます。 ご両親に深い思いを抱いておられる金時鐘さんはご両親から名付けてくれた「金時鐘」ではなく、ご両親がおそらくご存じない「林大造」名の戸籍とパスポートを持ってご両親の墓参りをすることになったわけです。 その時、心の中に葛藤はなかったのでしょうか? 彼の著作にはそういうことを記したものが見当たらず、また彼の墓参に同行した記者や研究者たちも記事・論文には言及しておらず、疑問を抱くところです。            (続く)

金時鐘氏への疑問(1)―在留資格  https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/03/26/9763626

 

【拙稿参照】

金時鐘『朝鮮と日本に生きる』への疑問 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/07/28/7718112

金時鐘さんの法的身分(続)     http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/08/13/7732281

金時鐘さんの法的身分(続々)   http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/08/26/7750143

金時鐘さんの法的身分(4)    http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/08/31/7762951

本名は「金時鐘」か「林大造」か  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2018/08/23/8948031

金時鐘さんは本名をなぜ語らないのか? http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2019/07/02/9110448  

金時鐘さんは結局語らず      http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2019/08/13/9140433

金時鐘さんが本名を明かしたが‥‥ http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2019/10/26/9169120

金時鐘氏への疑問(1)―在留資格2025/03/26

 金時鐘さんは在日の著名な詩人であり、日本の各地で講演し、マスコミにもたびたび登場するなど影響力の大きな方です。 しかし私は金さんに対して疑問を抱き、拙ブログで数年間にわたってたびたび呈してきました。 今回はこの疑問をまとめてみました。

①	不法滞在―「在日を生きる」と言いながら強制送還の恐れ

 金時鐘さんは1949年に不法入国したので当初は在留資格を有していなかったのですが、その後に「林大造」名義の米穀通帳と外国人登録証を不正入手して不法に在留資格を取得し、そのまま日本に滞在し続けて現在に至っています。 ですから不法滞在者であり、いつ強制送還されるかも知れない身分です。 金さんの近著『金時鐘コレクション』には、次のように記されています。

出入国管理法は時効がない法律だそうで、私はいつなんとき強制退去させられるかも知れません。‥‥ 強制送還ともなれば、私の人生は予測して余るものでしたので、ひたすら口を噤んでまいりました。 齢ももう取るだけとりましたし、もう覚悟のほどはできております。 (『金時鐘コレクション11』(藤原書店 2023年8月 256・257頁)

 また7年前の2018年(不法入国後70年目)には、次のように語っておられます。                    

2つ目は卑屈であり、いかにも姑息なことでありますが、日本で住むことに執着したあまり、名乗り出ることがはばかられました。 名乗りでるということは、わたしが日本に正当な手続きへずに、いわば不法入国したこと打ち明けることにもなります。 出入国管理令は時効というのがありません。50年たとうと、80年たとうと、日本国の国益に損なうものと認定されれば、いつでも強制送還されます。  

https://magazine.changbi.com/MCMUI/item/641?lang=jp

 このように金時鐘さんは自分が不法入国=不法滞在者であり、「80年たとうと‥‥いつでも強制送還される」ことを認めておられます。 しかしその経過がどうであれ、彼は1973年に公立高校の「教員」に就職した時に、あるいは2003年に韓国の戸籍を作った際にこの不法状態を解消し、合法滞在資格を取得すべきだったのではないでしょうか。 ところが彼はそうせずに不法滞在を続けて、いつ強制送還されてもおかしくない状態のまま今日まで過ごしてこられたのです。

 彼は警察から調査を受けましたが、外国人登録証の「林大造」が本当の名前であり、「金時鐘」はペンネームに過ぎないと言い張ります。

大阪府警外事課の警官がすぐさま問い合わせに来ました。 私の家までです。 登録証の名前(林大造)と「金時鐘」との違いをあれこれ聴いていましたが、「金時鐘」はペンネームだと言い張りました。 (金石範・金時鐘『なぜ書きつづけてきたか なぜ沈黙してきたか』平凡社ライブラリー828 2015年4月 202頁)

 つまり金時鐘さんが警察に供述した自分の経歴は、彼が著作・講演で語っている経歴と全く違っていたのでした。 おそらくその場では、〝自分は戦前からずっと日本に居住し続けている「林大造」という人間であって密入国者ではない、この日本では「金時鐘」というペンネームを使って詩を書いているだけ”と主張したのでしょう。 その時警察は彼の供述が虚偽であるとする証拠を有していなかったので、彼の言い分を認めざるを得なかったと思われます。

 しかし同じような不法滞在の在日の中には、当局に自首して正規の合法滞在許可を得ている人がいます。

> 70代で在学中に入国管理局に出頭、50年以上使った別人の名を返上し、本名を取り戻した ‥‥ 戦後帰国したが再び日本を目指して密航船に乗り、生きるため、別人の女性の外国人登録証を買った。 ‥‥ 自身のルーツを学ぶうち「死ぬ時は本名で」との思いが募った。 「他人の名前で生きていることが、いつも心に引っかかっていた」と文さん。 強制送還も覚悟で自首し、3ヶ月の取調べを経て本名を手にした。 (『毎日新聞』2019年3月7日付「関西夜間中学運動50年史」)  https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2019/03/23/9050390

> 1950年代以降の各時期に密航に成功した韓国人たちが日本で結婚して子をもうけ一家を構えるようになると、〈密航者〉という無権利状態から抜け出すために合法的な在留許可を求めて法務省に当局に出頭した。 許可が得られず家族全員が強制送還となるケースもあったが、日本での定住の事実が確認されれば、晴れて正規の在留許可を得る者もいた。 (水野直樹・文京洙『在日朝鮮人 歴史と現在』岩波新書 2015年1月 216頁)

 金時鐘さんも日本で結婚し定住してきたし、公務員に就職したこともあるのですから、こういった在日のように当局に出頭して法的に清算しておけばよかったのに‥‥と思うのですが、彼はそうせずに今日まで不法滞在のまま、強制送還に怯えながら過ごされてきました。 「怯えながら」と書いたのは、彼自身が次のように述べておられるからです。

もう一つは、ぼく自身の在留資格の問題。 韓国に強制送還されると、生きていけないから。 (金時鐘「朝鮮現代史を生きる詩人」 集英社新書『在日一世の記憶』 2008年10月 所収 566頁)

 これを読めば、金時鐘さんは強制送還に「怯えている」としか言いようがないでしょう。 「在日を生きる」を唱える彼の思想と生活は、「在日」の根拠となる法的地位(在留資格)が極めて不安定な上に営まれており、彼自身それを自覚しながら生きておられるのです。 

 私は彼には〝自分には法律なんて関係ない”とするような信念を期待していました。 なぜなら彼は1971年12月の金嬉老裁判で、証人として次のように語っておられたからです。

個人の心情としては日本の法に対しては不審がいっぱいあります。 ‥‥日本の法が朝鮮人に平等かつ公平であるなどという期待が私にはありません。 正直に言って、私は日本の法律からいきますと前科三犯ないし四犯ほど持っております。 ‥‥ 実感としては、朝鮮人が公平にそういう法の恩恵を受けられるという気持はありません。 (『金時鐘コレクション7』2018年12月 311・312頁)

 金時鐘さんはかつて日本の法廷でこのように法律に挑戦する気持ちを表わしたことがありながら、「強制送還されると生きていけない」と弱音を吐くような言い方をされたので、残念な気持ちです。

 彼はこのように強制送還に怯えながら「在日を生きる」を唱えて生きてこられたのですが、そんな生き方にはやはり疑問を抱かざるを得ません。 そして周囲の金時鐘研究者たちも彼の「在日を生きる」を論じながら、在留資格や不法滞在、強制送還にほとんど言及していないことにも疑問を持ちます。        (続く)

【拙稿参照】

金時鐘氏は不法滞在者なのでは‥(1) https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/10/07/9623500

金時鐘氏は不法滞在者なのでは‥(2)  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/10/12/9624809

金時鐘氏は不法滞在者(3)―なぜ自首しなかったのか http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/10/17/9626078

1950~60年代の大阪紡績王―徐甲虎(阪本栄一)2025/03/19

 ちょっと前になりますが、韓国の有力紙『朝鮮日報』2024年7月22日付けに、「〝도쿄의 巨商”서갑호(「東京の豪商」徐甲虎)」と題するコラムがありました。 https://www.chosun.com/opinion/correspondent_column/2024/07/20/2VBILSSERVA4JD7Z3NCK2GUC24/  日本語版は7月27日付けにあります。 https://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2024/07/23/2024072380141.html

 ここに出てくる「徐甲虎」、この名前より日本名の「阪本栄一」の方が懐かしいですね。 思わず読み込んでしまいました。 記事では、彼について次のように書かれています。 

公邸は「東明斎」と命名された。邦林紡績の創業者である故・徐甲虎(ソ・ガプホ)氏(日本名・阪本栄一)の雅号だ。日本による植民地支配下の1915年、慶尚南道蔚州郡に生まれ、14歳で日本に来た当時は飴を売り古紙を集めて資金を貯めた。1948年に設立した紡織会社が急成長し、1950年代に「最も収入を上げる在日韓国人」になった。徐氏が1951年に銀行の資金を借りて敷地を買い入れ、5年間に元利を返済した後、1962年に韓国政府に寄付した。

残念なことに、徐氏が日本に設立した阪本紡績は1974年のオイルショックで経営が揺らいだ。日本の金融機関が融資を回収すると、不渡りを出した。急な資金が必要で韓国政府に支援を求めたが、そっぽを向かれた。徐氏は2年後、ソウルで61歳で死去した。 ‥‥ 徐氏を覚えている韓国人はほとんどいないはずだ。

生前の徐氏は「祖国が恥ずかしい思いをしてはならない」と話していたという。国をようやく取り戻した時代、悲しみを共に耐え抜こうと在日韓国人を励ます一言だったのだろう。「豪商」徐甲虎を記憶する作業に韓国政府はもっと積極的でなければならない。

 徐甲虎は在日韓国・朝鮮人社会だけでなく、祖国の韓国にも大きな功績を残した人でした。 しかし彼が創立した阪本紡績グループは1974年に当時戦後最大といわれる倒産となって、それ以降ほとんど顧みられることがなくなりました。 今は在日でも日本人でも「徐甲虎」「阪本栄一」という名前を聞いて、お年寄りを除いてほとんど知らないでしょう。 

 在日の歴史は〝日本社会で差別と貧困にあえいでいる”とか〝民族受難とそれに対する闘い”に重点が置かれるので、徐甲虎のように日本で成功してお金持ちなったという話はなかなか出てきません。 出てくるとしてもわずかに触れるだけです。 私は特筆すべき人物だと思うのですが‥‥。

 徐甲虎について、何かまとまった解説はないかと探してみたら、朴一さんの著書『<在日>という生き方』に次のようなものがありました。 主なところを一部引用します。

戦後紡績王として名を馳せた徐甲虎は、そうした状況のなかで果敢に本国投資チャレンジした在日コリアンの先駆者である。

1928年、14歳の時、日本にわたった徐甲虎は大阪の商家に丁稚として入り、機織り技術を習得。 その後、アメ売り、廃品回収、タオル工場の油さしなど職業を転々とした後、戦後、軍需物資の売買で一儲けした資金で廃棄同然の紡績機を買い集めて、1948年阪本紡績を設立する。

その後、彼は朝鮮戦争の特需景気にのって企業規模を拡大し、阪本紡績に加えて大阪紡績と常陸紡績を相次いで設立し、徐甲虎は年商300億円を稼ぎ出す西日本最大規模の紡績王として君臨する。 やがて彼は自らの事業を不動産やホテル部門へと拡大。 阪本グループは戦後日本経済の復興を支えた繊維産業における十大紡績の一つに数えられるまでに成長する。

短期間で急成長を遂げた徐の手腕はたちまち財界の評判となった。 1950年度納税額1億3000万円、35歳の若さで大阪府内長者番付トップにのぼりつめ、52年には納税額3億6000万で、全国長者番付第五位を記録するなど、彼の在日コリアンとしての日本でのめざましい活躍は本国でも話題となった。

徐は資金援助を通じて(1961年軍事クーデターによって誕生した)朴政権に接近し、財閥の一つである泰昌紡績を買収して1963年ソウルに邦林紡績(資本金115億円)を設立する。 ついで171億円を投じて、大邱に潤成紡績を新設。 彼の工場で働く韓国の社員は一時4000名に達し、阪本(邦林)グル―プは三星やラッキーとならぶ、六大財閥の一つに数えられるまでになる。 こうして徐は韓国でも文字どおり最大規模の紡績会社のオーナーとなる。 (朴一『<在日>という生き方』講談社選書メチエ 1999年11月 152~153頁)

 このように徐甲虎は、戦後の日本社会の中で大成功を収めたのでした。 何しろ高額納税者トップだったのですから、真っ当に仕事をして儲けたようです。

 ところで戦後の日本では〝在日は差別と貧困にあえいでいる”というイメージが強く、確かに多くの在日はそんな逆境にありました。 しかし一方では、今回取り上げた徐甲虎のような富豪もいたのです。 彼だけでなく、ロッテの辛格浩(重光武雄)も戦後に大成功を収めて富豪になりました。 また後になりますが、ソフトバンクの孫正義も富豪ですね。 こういう事例は在日も能力と努力でもってチャンスをつかめば成功できたということだし、今もそうだということです。 

 ところがそんな大富豪の徐甲虎は1970年代に入って、突如暗転します。

しかしそれも束の間、操業直前の潤成紡績工場を火事で焼失。 資金繰りに失敗し、操業再開の目途が立たず、祖国に280億円も投資しながら徐甲虎は韓国からの撤退を余儀なくされる。

この事件をきっかけに阪本紡績の日本での経営状況も悪化、おりからのオイル・ショックも影響して、1974年、関連会社を含めて640億円の負債を出して阪本グループは倒産する。 この事件は戦後初の大型倒産と騒がれ、日本の紡績会社まで手放さざるを得なくなった徐甲虎は、二度と返り咲くことなく、悲劇の主人のまま他界する。 (同上 153~154頁)

 ちょっと過ぎた言葉を使うことが許されるなら、〝徐甲虎は日本で富豪となって祖国の韓国に貢献しようと大変な努力をしたのだが、逆にむしり取られてしゃぶり尽くされて、最後は捨てられた”ということになりましょうか。 またそこがロッテとの違いということになりますね。 またソフトバンクは、祖国や民団などとは関係なしに独自に成長してきた点で民族企業とは言えないところに特徴があるようです。

 ところで阪本紡績・ロッテ・ソフトバンクの三者の共通点は先に述べたことを繰り返しますが、在日も才能と努力をもってチャンスをつかめば成功するということです。 日本は昔も今も在日が成功することのできる社会だったのです。

【追記】

 産経新聞の黒田勝弘さんは、「韓国は在日韓国人をいじめながら『金づる』として利用」と題する記事のなかで徐甲虎に触れています。 https://www.news-postseven.com/archives/20161028_455942.html?DETAIL 

 この記事の中で昔はそういう話をよく聞いたなあと思い出されたのは、当時の韓国・北朝鮮は国家レベルでも個人レベルでも在日からたくさんのお金を出させていた(たかっていた)というところです。 在日は日本から差別されて苦しい生活を送っていたというイメージがありますが、一方では多くの在日は苦しみながらも祖国に多額のお金を差し出していたという事実があったのです。

 在日が韓国の親戚らにたかられたという話は拙ブログでも取り上げたことがありますので、お読みくだされば幸甚。

玄善允ブログ(2)―在日の錦衣還鄕がトラブルに https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/04/04/9673005

朴正煕の経済政策(2)―医療保険2025/03/12

https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/03/07/9759302 の続きです。

 韓国は経済の発展を元手に、ドイツに学んで医療保険を導入します。 その時に、民主主義よりも社会の安定と産業の発展を優先するという考え方を打ち出します。

―医療保険の導入と関連して、どんな助言をしたのか?

キム・ジョンイン: 「朴大統領の維新体制を見て、どうせ民主主義ができないのだから、ドイツのビスマルク式の社会安定というものでも持って来なければならないと言った。 今のようにやれば絶対安定的な執権は難しいので、新しく登場する産業勢力を包容する政策を展開せねばならないと主張した。 1960年代の「経済開発5ヵ年計画」の時に45万~50万人くらいだった「被雇用者」は、1975年にはもう400万人近くになった。 社会で一番強力な勢力として登場したのだ。 当時の社会を見れば、労使紛争が続けざまに起きていて、学生たちのデモで授業すらできない状況だった。 しかし当時の政府は「絶対貧困を解消してやったので感謝と思わねばならないのに、なぜこのように不満が多いのか」という態度だった。 絶対貧困が解消すれば新しい欲求が出てくる。 その欲求に答えなければ、国民はついてこない。 ビスマルクが社会立法をする時、一番初めに始めたのも医療保険だ。

―どのようにして医療保険導入を朴正熙大統領に説得したのか?

キム・ジョンイン: 「私が1968年にヨーロッパの激しい学生運動を直接見た人間だ。 シャルル・ドゴールは1958年に晴れ晴れしく登場し、近代フランスの土台を作ったが、10年して不名誉に追い払われた。 当時の学生4000~5000人がデモをしたのだが、パリの小商工人や労働者たちが加勢して、パリが一朝にして完全に麻痺した。 結局ドゴールは放送演説を通して「国民が願わないなら、下野しよう」と宣言した。 世の中が変わったのに、変わったことが分からずに1958年と同じことをしていたのだ。 ドゴールの事例をキム・ジョンニョム大統領府秘書室長に話したが、その話がすぐに朴正熙大統領に受け入れられたようだ。」

キム・テクファン: 「ドイツはすでに鉄血宰相のビスマルク総理が1883年、世界最初に労働者たちを対象に医療保険、以降に災害保険および年金を導入し、社会の安定を選んだ。 戦後のコンラート・アデナウアー時代に経済再建と復興に成功したとするなら、1960年代後半のヴィリー・ブラント時代からは成長の果実を等しく分ける社会的市場経済である社会福祉五大保障制度、即ち医療・災害・年金・雇用・介護保険まで最初に導入した。 また大学生の生活費、子ども支援金など福祉天国を作っていった。」

―医療保険導入に反対はなかったのか?

キム・ジョンイン: 「朴大統領の命令で1975年5月から作業を始めた。 毎週金曜日ごとに会議する「金曜会」を作った。 私をはじめ、イ・ギョンシク青瓦台経済首席・シン・ビョンヒョン経済特別補佐官、チョ・スンソウル大学教授、ソ・サンチョル高麗大学教授、チョン・ジョンジン延世大学教授などがメンバーだった。 勤労者社会医療保険を導入しようというと、初めはみんな反対し、私とケンカも本当にたくさんした。 当時一人当たり国民所得が1000ドルにまだ達していないのに、こんなことをするのかということだった。 当時の保健社会部長官は「医療保険をするなら、年金から導入しよう」と主張した。 年金はお金が入ってきて、直ぐに出ていくことがない。」

―朴大統領は反対をどのように乗り越えたのか?

キム・ジョンイン: 「朴大統領は崔圭夏総理を呼び、委員会をまとめて反対する長官たちを抑えて、私の手を挙げてくれた。 結局、保険料をそのつど源泉徴収できる勤労者社会医療保険として始まり、それがうまく回っていったから、みんなが医療保険に入りたがった。 以降、韓国は1989年に全国民医療保険を世界で一番最初に導入した国となった。 社会平和を成し遂げることのできる「福祉」の概念を1976年に初めて導入したのも朴正熙大統領の最大功績だ。」

 日本はすでに1961年に国民健康保険制度を作って全国民の健康保険加入を実現していたのですが、韓国はおそらく日本をモデルにしてドイツからの助言で医療保険制度を整備したのではないかと思われます。

 一方、医療無料を呼号していた北朝鮮は周知のように医療水準が極めて低いままで、病院に行っても賄賂が必要で、それが改善される兆しが全くありませんでした。 韓国が北朝鮮に差をつけて発展した原点は、朴正煕大統領時代にあるのです。

 確か朴大統領の言だったと思いますが、「先建設、後民主」というのがありました。 〝先ず国家の目標は経済を成長させて国を豊かにして国民を健康にすることだ、民主主義なんてその後で考えればいい”という考えですが、今思うと韓国はその通りの歴史を歩んできました。 韓国経済は高度経済成長を続けてオリンピック開催までやり遂げるほどになり、1987年に現在の憲法を制定し民主主義への道を開いたのです。 そうして韓国は今の先進国の地位につきました。 ですから朴正煕は先見の明があったと言わざるを得ませんねえ。      (終わり)

朴正煕の経済政策(1)―西ドイツからの助言 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/03/07/9759302

「通常‐両班社会」と「例外‐軍亊政権」―田中明  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/06/07/9497623