金時鐘氏への疑問(14)―吹田事件2025/06/18

https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/06/13/9782053 の続きです。

㉑ 吹田事件 ―デモ隊は十三大橋を渡ったのか

 「吹田事件」というのは1952年に共産党が起こした三大騒擾事件の一つで、金時鐘さんはこれに参加しました。 朝鮮戦争に向かう米軍の軍事物資を載せた列車は吹田操車場を通るので、これを阻止するために、豊中にある大阪大学キャンパスに1000人(一説では3000人)ほどが集まり、深夜にデモを開始します。 デモ隊は二手に分かれました。 一つはそこから操車場までデモ行進し右翼や反動人士宅を襲撃しながら進む「山越え部隊」と、もう一つは阪急石橋駅から電車に乗って行く「人民電車部隊」です。 金さんは山越え部隊に入りました。

待兼山で徹夜して、山越え組についていきまして、石橋駅で人民列車を走らせて、吹田操車場でデモを起こして、列車を遅延させます。 待兼山を出て山越えする間、まず吹田操車場にくるとき、もうすでに、機動隊の大部隊が、私の一番しんがりの、ものの30メートルくらいの距離を、ビシッとついてくるんですね。 ‥‥ 吹田事件のあんだけ勇ましい活動をよくやった友人たちがいるなかで、私はずっと、吹田操車場にきて、迫ってくる警官を、(大便を)たらしもって見て走って、たらしもって見て走った。 (「吹田事件・わが青春のとき」 『わが生と詩』岩波書店 2004年10月 所収 127・130頁)

 金さんは途中で激しい下痢に襲われたため、操車場で列車を阻止する活動は十分にはできなかったようです。 それからデモ隊は操車場から大阪(梅田)へ移動するのですが、金さんは次のように記します。

私は十三大橋をデモで渡って、梅田に行ったときはもう、機動隊は梅田界隈で厳戒態勢に入ってましたね。 梅田では大掛かりな検束が始まるのですが、それを振り切って、今の環状線、当時は城東線といいましたが、それに乗るために、つまり満員電車に入り込むことが検束から逃れられるというふうに、私らは踏んどったものですから、大方は最寄りの東口、城東線めがけて土石流のように駆け上がった。 後から追っかけてきた警官と、あの顔は、いまだに忘れられない。 

私は非常にずるい。 まあ経験もあったものですから、梅田を東口、中央口からは、上がりませんでした。 私は「マルセ(共産党民戦の実力組織である祖国防衛隊の機関紙名)」の写真をやっている青年と、あの当時、北側に貨物駅があったんですが、貨物駅に沿って、中央郵便局の方に回りまして、そこからホームに上がったんです。 上がったら、もう修羅場でした。 水平にピストルを撃つのを見ました。 吹田操車場から十三大橋に向かう途中、私たちの隊列に沿って走り抜けようとした機動隊の無蓋トラックに隊列の中から火炎瓶を投げつけられて、その家族の人には申し訳ないけど、それこそ芋ころが転がり落ちるように5、6人の警官が火だるまになってこぼれ落ちていましたね。 (以上、同上131~132頁)

夫徳秀さんは当時、組織されたばかりの略称ミネチョン、民主愛国青年同盟の大阪府委員長で、あの梅田到着まで十三大橋を渡ってデモをした先頭におりました。 ‥‥ 私はデモ隊の一番後ろの部隊にいました (同上 122頁)

 ここに「十三大橋をデモで渡って」「吹田操車場から十三大橋に向かう途中」と出てきます。 あれー?! 吹田操車場から十三大橋までは一本道はなく、遠回りして行かねばならないはずです。 吹田から梅田(大阪駅)までは地図上の直線距離でも8キロですから、十三大橋回りの道を歩くならば十数キロになります。 前日の深夜に出発して夜通しデモ行進し続け、早朝に操車場に着いて乱入するなどの列車妨害活動した後、さらに梅田まで十数キロを集団でデモするなんて、いくら血気にはやる若者たちといっても無理ではないかと思いました。 ましてや金さんは、激しい下痢で体調を崩していたのです。

 このデモ隊の先頭だったという夫徳秀さんは事件の首魁として逮捕・起訴された方ですが、次のように語っています。

それから吹田操車場の北側に出て、今度は大阪の目抜き通りの御堂筋で朝鮮戦争反対デモをやろうと、国鉄吹田駅から列車で向かうことになった。 ‥‥ 吹田駅での混乱をくぐり抜けて、わたしらは列車で大阪駅に移動したんやけど、その大阪駅でも警官がピストルで威嚇しながら、デモ参加者を逮捕しようとしたんや。 (『在日一世の記憶』集英社新書 2008年10月 560頁)

 やはりデモ隊は近くの吹田駅で列車に乗り込んで梅田(大阪)まで行ったのであり、十三大橋を渡らなかったのです。 ここは金時鐘さんの間違いでしょう。

 些細なことであっても事実関係の間違いが一つでもあれば、他にも間違いがあるだろうと考えられて、全体の信用を失いかねません。          (続く)

 

【金時鐘氏に関する拙稿】

金時鐘さんの創氏改名は「金谷光原」―神戸新聞 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/06/03/9779836

金時鐘氏はどういう言葉を使ってきたのか?(1)  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/07/30/9705285

金時鐘氏はどういう言葉を使ってきたのか?(2) https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/08/04/9706635

金時鐘氏はどういう言葉を使ってきたのか?(3)  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/08/09/9707790

玄善允ブログ(1)―金時鐘さんの日本名     https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/03/31/9671877

核問題は北朝鮮に理がある―金時鐘氏      http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/01/23/9653071

金時鐘氏が正規教員?―教員免許はないはずだが‥ http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/01/16/9651219

金時鐘氏は不法滞在者なのでは‥(1)     https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/10/07/9623500

金時鐘氏は不法滞在者なのでは‥(2)     http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/10/12/9624809

金時鐘氏は不法滞在者(3)―なぜ自首しなかったのか http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/10/17/9626078 

金時鐘『朝鮮と日本に生きる』への疑問      http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/07/28/7718112

金時鐘さんの法的身分(続)          http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/08/13/7732281

金時鐘さんの法的身分(続々)         http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/08/26/7750143

金時鐘さんの法的身分(4)          http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/08/31/7762951

毎日の余録に出た金時鐘さん          http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2018/08/27/8950717

本名は「金時鐘」か「林大造」か        http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2018/08/23/8948031

金時鐘さんは本名をなぜ語らないのか?     http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2019/07/02/9110448  

金時鐘さんは結局語らず            http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2019/08/13/9140433

金時鐘さんが本名を明かしたが‥‥       http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2019/10/26/9169120

金時鐘『「在日」を生きる』への疑問      http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2018/03/01/8796038

金時鐘さんの出生地              http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/07/05/7700647

青木理・金時鐘の対談―帰化(1)       http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/09/08/9524343 

青木理・金時鐘の対談―帰化(2)       https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/09/15/9526042

武田砂鉄の被差別正義論―毎日新聞       http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2018/03/24/8810463

社会的低位者の差別発言            http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2020/05/09/9244588

金時鐘氏への疑問(13)―石鹸工場・民戦2025/06/13

https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/05/24/9777663 の続きです。

⑲	石鹸工場での写真の謎

 金時鐘さんは1949年6月に密入国して大阪の猪飼野にやって来た際、幸いに「金井」さんという同郷の人に出会ってローソクを作る小さな工場を紹介されて働きました。 しかしそのローソク工場は年末いっぱいで廃業します(『朝鮮と日本に生きる』岩波新書 241・242・246頁)。 その後は石鹸工場で働き始めます。

(1949年)年末ぎりぎりに、通称鶏舎長屋と呼ばれている南生野町の板間ひと間のバラック建ちの中年夫婦の部屋に移りました。 ‥‥ 仕事は下宿先の〝兄さん”が見つけてくれた、布施市(現在の東大阪市)の高井田にある石鹸工場に雑用係として働くようになりましたが、かなり離れている百済のバス停から今里経由で高井田まで行かねばならない、交通費の半分は自分持ちの遠距離通勤でした。 (『朝鮮と日本に生きる』 246・247頁

私が日本で迎えた初めての新年は、朝鮮戦争が勃発する1950年に立ち入っていました。 なんとか在日朝鮮人の運動団体につながらねば、と思っているところへ、日本共産党への集団入党が地区単位で出来るとの誘いが、生野区の朝連(在日本朝鮮人連盟)活動家からもたらされました。 ‥‥ 1月末、自己を奮い立たせるように日本共産党の党員のひとりになりました。 2月いっぱいで石鹸工場もやめて、中川本通り(生野区)近くにあった民族学校跡の、民戦大阪本部臨時事務所に非常勤で詰めるようになりました。 (同上 247・248頁)

 金時鐘さんは石鹸工場を1950年2月いっぱいで辞めたのですから、2ヶ月間だけ働いたことになります。 そして今度は共産党に入党して傘下の「民戦」で働き始めたそうです。 ところが金さんの近著『金時鐘コレクション7』(藤原書店 2018年12月)の最初の口絵には、「1950年4月(来日の翌年) 大阪・高井田の石けん工場にて」と題する金さんの写真が飾られているのです。 http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/kimSijong.jpg (該当キャプションに赤線を引きました)

 つまり金さんは「民戦」で働いている最中に、何ヶ月か前に辞めていた石鹸工場にわざわざ行って写真を撮ったことになります。 当時は写真を撮ること自体にお金がかかる時代であり、その工場に行くのにも交通費が要ります。 果たしてそんなことがあり得るのだろうか? この写真は本物なのだろうか? あるいは2月に石鹸工場を辞めたというのは本当か? などの疑問が湧きます。

 

⑳	まだ結成されていない「民戦」に加入したとは?

 「民戦」は「在日朝鮮統一民主戦線」の略称ですが、金時鐘さんの『朝鮮と日本に生きる』259頁によれば「在日朝鮮民主主義統一戦線」と名称が違っています。 また彼はこの「民戦」について、

(解散させられた朝鮮人連盟の)後継組織として1951年1月に正式に発足する民戦 (同上 248頁)

と説明しています。 そしてこの「民戦」で働くようになった経過は、次のように説明します。

1949年の9月‥‥すでにGHQと日本政府によって強制解散させられた‥‥ この強制解散にも4・3事件の裏打ちのような反共の暴圧を感じ取っていた私は、1月末、自己を奮い立たせるように日本共産党の党員のひとりになりました。 2月いっぱいで石鹸工場も辞めて、中川本通り(生野区)近くにあった民族学校跡の、民戦大阪府本部臨時事務所に非常任で詰めるようになりました。 (同上 248頁)

 つまり金時鐘さんは、「民戦」は1951年1月に発足したとしながらも、その「民戦」で前年の1950年3月から働くようになったと記しておられるのです。 記憶の勘違いなのでしょうかねえ。

 些細なことでも事実関係に問題があれば、全体の信用性に影響が出てくるものです。     (続く)

金時鐘氏への疑問(1)―在留資格       https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/03/26/9763626

金時鐘氏への疑問(2)―韓国戸籍・墓参り   https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/03/31/9764818 

金時鐘氏への疑問(3)―教員免許・公務員就職 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/04/05/9766006

金時鐘氏への疑問(4)―日本語・創氏改名   https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/04/11/9767588

金時鐘氏への疑問(5)―政党加入・4・3事件  https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/04/18/9769221

金時鐘氏への疑問(6)―4・3事件(その2)  https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/04/23/9770375

金時鐘氏への疑問(7)―4・3事件(その3)  https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/04/28/9771478

金時鐘氏への疑問(8)―西北青年団      https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/05/02/9772477

金時鐘氏への疑問(9)―韓国否定と北朝鮮容認 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/05/09/9774295

金時鐘氏への疑問(10)―北朝鮮批判と擁護代弁 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/05/14/9775437

金時鐘氏への疑問(11)―スキー客・新井鐘司  https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/05/19/9776467

金時鐘氏への疑問(12)―崔賢先生       https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/05/24/9777663

韓国の進歩派の解説―木村幹2025/06/08

 韓国では、6月3日の大統領選挙で進歩派の李在明さんが勝利し、翌日から新政権が出帆しました。 3年ぶりに進歩派が政権を取ったことで、日本でも様々な論評が繰り広げられています。

 ところで韓国の進歩派について、私は1980年年代までは韓国の民主化運動に賛成していましたので、それなりに理解できていました。 しかし1987年に今の憲法が制定されて民主化が成し遂げられて以降、進歩派が理解できなくなっていきました。 それでも韓国では有力な運動の流れですから、それなりに関心を持ってきました。

 昨日の2025年6月7日付けニューズウィークで、木村幹さんの「『韓国のトランプ』李在明、ポピュリズムで掴んだ勝利の代償とは?」と題する論稿があり、その中で韓国の民主化運動について簡潔に解説してくれていて、参考になりましたので引用・紹介します。  https://news.yahoo.co.jp/articles/fcd310d9609cbd77416c6c49839899f394649efb 

 木村さんによると、新大統領は進歩派の主流ではなく、傍流だそうです。

彼の経歴を見ると、明らかな特徴がいくつかある。 1つ目は李が進歩派陣営の中でも傍流を歩み続けたアウトサイダーだということである。 2つ目の特徴は盧や文と異なり、李が民主化運動に参加した経歴を持たないことである。

 傍流の李在明政権がどのような政治・外交を行なっていくのかは、これから見ていくしかありません。 傍流として独自な考えで実行するのか、あるいは主流に合流してその一員となって継承するのか‥‥。 それはともかく、それまでの進歩派の主流はどういう考え方をして、どのような政策を打ち出したのか、先ずはそれから見る必要があります。 

 進歩派の主流は次のような考え方を有していたと、木村さんは解説します。

盧(武鉉)から文(在寅)へとつながるかつての進歩派の主流の人々は、1987年の民主化運動において一定以上の役割を果たした人々であり、それ故に明確な世界観を共有していた。

彼らに言わせれば、権威主義体制期に韓国を支配した今日の保守派につながる人々は、かつての植民地支配期における日本への協力者、韓国で言うところの「親日派」の末裔であり、こうしたかつての「親日派」につながる少数の人々の支配が、政治の世界においてのみならず、韓国の経済や社会、さらには学術の世界にまで広く及んでいると認識した。

だからこそ彼らは、この保守派による支配の打破が民主化であり、「国民」の手に権力を取り戻すことだと考えた。

言い換えるなら、盧や文にとって民主化とは、単なる政治における民主的要素の導入にとどまらない意味を持っていた。彼らはその延長線上で国際社会についてもこう考えた。

保守派の支配を支えてきたのはアメリカとそれを支配する多国籍企業である。その背後には北朝鮮からの脅威にさらされる韓国が、アメリカとの同盟関係なしに、自らの国家を維持できない状況がある。

だからこそ、保守派の支配を打破して、「国民」の手に国家を取り戻すためには、国内における民主化運動の展開のみならず、北朝鮮との間での平和的関係の構築が必要である。こうして朝鮮半島とその周辺に平和がもたらされれば、アメリカに依存しない体制が可能になる。

結果、アメリカに支援される保守派の支配は終わり、「国民」が支配する「真の韓国」が実現できる──と。

 なるほど簡潔で分かりやすいですね。 特に文在寅政権は内政にしろ外交にしろ、何故あんなことを言って実行していくのか、見ていてちょっと理解できなかったのですが、これを読んで、なるほどそういう考えだったのか!と妙に納得した次第です。 だから木村さんのこの分析は正鵠を得ていると考えます。 新大統領はこのような本流ではなく傍流ですが、それでもある程度の方向性は見えてくると思われます。

 ところで日本では昔から韓国の民主化運動=進歩派に肩入れする人が多く、反対に保守派に肩入れする人はごく少数でした。 またそういう韓国内の対立から離れて、客観的に分析する人はほとんどいなかったように思います。

 そういう中で30年以上前とちょっと古いですが、田中明さんが〝民主化運動の担い手は李朝時代の両班の後裔”とする論稿を書かれていて、〝なるほど、そうだ!”と感心したことがあります。 また3年前の韓国の有力紙『朝鮮日報』で、両班の理念が現代の進歩派に復活していると論じる論稿がありました。 韓国の進歩派はこういう視点で分析することが有効だと考えます。 合わせてお読みいただければ幸甚。

「通常‐両班社会」と「例外‐軍亊政権」―田中明  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/06/07/9497623

「例外」が終わり「通常」に戻る―田中明(2)  https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/06/14/9499717

「両班」理念が復活した韓国―『朝鮮日報』(1)http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/05/17/9491298

李朝の「両班」理念が復活した韓国(2)  https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/05/24/9493453

李朝の「両班」理念が復活した韓国(3) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/05/31/9495653

金時鐘さんの創氏改名は「金谷光原」―神戸新聞2025/06/03

神戸新聞2018年5月27日 朝刊 第7面

 4月11日の拙ブログで、金時鐘さんの創氏改名は「光原」なのか「金山」なのか、疑問を呈しました。 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/04/11/9767588  その際に、神戸新聞の記事に「金谷光原」だとするインターネット情報を紹介しました。 ただしこの情報源は5chですから、信用性がいま一つです。 そこでこの神戸新聞の記事を探してみたところ、見つけましたので報告します。

 神戸新聞2018年5月27日 朝刊 第7面 http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/koubeshinnbunn.pdf 。

 ↑は、その記事のうち、金時鐘さんが創氏改名について述べられた段落部分をスキャンしたものです。 赤の傍線を付けました。 「創氏改名で名前も金谷光原(かなやみつはら)に」と明確に言っておられますね。 ですから金さんの創氏改名は、姓が「金谷」、名が「光原」だったということです。

 金時鐘さんの日本名について、これまで公表されてきたものをまとめますと、次のようになります。

① 彼(級友の金容燮)は私の手を握って「光原(これが私の日本名でした)! それが詩なんだ! おまえの詩はそれなんだ」と諭してくれました。  (金時鐘『朝鮮と日本に生きる』岩波新書 2015年2月 43頁)

② 「創氏改名で名前も金谷光原(かなやみつはら)に」   (神戸新聞2018年5月27日 朝刊 第7面 編集委員インタビュー 「平和への道 歴史直視から」 詩人 金時鐘さん(89)に聞く)

③ 「『済州北初等学校同窓会誌』所収の卒業生名簿 ‥‥ 『同窓会誌』に付された歴代の卒業生名簿の内、33期(1943年3月25日卒業)の欄では、総116名の卒業生の名前と、番地はないが町名までの住所は記載されており、その中で金時鐘らしい人物として目に付いたのが、姓名は「金山時鐘」、住所は「済州二徒」の卒業生である。」  (玄善允・在日・済州・人々・自転車・暮らしと物語  「連作エッセイ『金時鐘とは何者か』2(第一部 金時鐘の年譜)2022年9月14日) https://blog.goo.ne.jp/sunyoonhyun5867kamakiri/e/14b31cbf81eda5ac72f05dac66804bb5 

 以上のように金時鐘さんは、①2015年の著書では小学校時代に級友が自分を呼んだ時の日本名が「光原」、②2018年の新聞インタビューでは創氏改名が「金谷光原」、③玄善允という方が金さんの母校に残っていた卒業生名簿に「金山時鐘」を発見し2022年に公表。 このように資料上では三つの日本名がありました。

 それ以外に両親から名付けられた④「金時鐘」と、今の法律上(日本の外国人登録と韓国の戸籍)の氏名である⑤「林大造」の二つがありますから、全部で五つの名前(日本名は三つ、民族名は二つ)となります。 今、分かる範囲で解説します。

① 「光原」は級友が呼んだ名前です。 ただし次の②にあるように名字ではなく、下の名が「光原」であり、友人間ではこれを呼び合っていた可能性があります。

② 金さん自身は「金谷光原」と創氏改名したと言っておられます。 これが事実ならば、北朝鮮の元山にいる戸主の祖父が1940年に戸籍管轄の地元役場に行って「金谷」と創氏を届け出て受理された後、次に父親が法院(裁判所)に息子の下の名を「光原」にしたいと訴えて判決を受け、その判決謄本を役場に提出して受理される、これでやっと「金谷光原」になります。 ちょっと複雑な手続きですが、姓も名も変える創氏改名というのはこういうことでした。 金さんは子供でしたから創氏改名の手続きをすることはなく、祖父や父親がその手続きをしてくれて、自分は「金谷光原」という日本名になったことだけを覚えておられたようです。

③ 「金山時鐘」は金さんが卒業した小学校の卒業名簿にあった名前ですから、もし事実なら一番信頼性のあるものです。 ただし金さん自身は体験談に「金山」という名前を全く出しておられません。 また彼は下記の朝日新聞記事にありますように1998年にこの小学校を訪ねておられるのですが、ご自分の名前について語っておられません。 従って、「金山時鐘」が本人なのかどうか断定できないところです。  (2019年7月23日付『朝日新聞』 文化文芸欄 「金時鐘④ 語る―人生の贈り物―朝鮮が私の中でよみがえった」 http://shiminhafiles2.cocolog-nifty.com/blog/files/342e98791e69982e99098e38080e8aa9ee3828b.pdf )

④ 一番知られている「金時鐘」は父母に付けられた名前であり、金さんが20歳になるまで韓国で名乗っていたものです。 おそらく当時の朝鮮戸籍に登載されていたと思われます。 ただし金さんの父親は北朝鮮の元山出身ですから本籍は元山にあり、韓国には本籍がなかったでしょう。 従って、元山にある戸籍原本に「金時鐘」が登載されていたと考えられます。

⑤ 「林大造」は、金さんが1949年に日本に密航した際に不正に入手した外国人登録証にあった名前です。 金さんはこの名前を法律上の本名として、これまでの76年間使い続けました。 2023年に韓国戸籍に就籍した時も、この不正入手した「林大造」の名前で登載しました。 これにより「金時鐘」なる人物は、日本でも韓国でも正式に存在しないことになりました。

 名前はその人のアイデンティティの非常に重要な要素ですから、ほんの些細な間違いも許されないものです。 金時鐘さんには、ご自身が語った自分の名前の説明をしてほしいですね。 

【金時鐘氏の名前に関する拙稿】

玄善允ブログ(1)―金時鐘さんの日本名 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/03/31/9671877

本名は「金時鐘」か「林大造」か  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2018/08/23/8948031

金時鐘氏への疑問(1)―在留資格  https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/03/26/9763626

金時鐘氏への疑問(2)―韓国戸籍・墓参り https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/03/31/9764818 

金時鐘氏への疑問(4)―日本語・創氏改名   https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/04/11/9767588

 

【追記】

 金時鐘さんは、創氏改名についてほとんど語ってきていませんねえ。  ご自分の創氏改名については、今回に紹介した神戸新聞インタビューが唯一ではないかと思われます。

 それ以外に検索してみると、金 泰 明さんという方の論文「共生の思想と言語の力―詩人金時鐘と母語の復権」によれば、金時鐘さんは次のように発言されたようです。(2021年8月9日付け『朝日新聞』)

「‥‥教育というものは本当に怖いものでね。 創始(ママ)改名についても、「日本名を持たない朝鮮人の子は廊下に立たされ、親たちはしぶしぶ日本名をつけた」と振り返った。 

https://keiho.repo.nii.ac.jp/records/1064 52頁

 これは、創氏改名の法的メカニズムや運用を知らないで、〝日本名を強制して民族性を奪った”という、後に広まった間違った知識で語ったものですね。 ですから金時鐘さんがその当時に実際に見たものではないと判断できます。   (6月4日記)

体験談にはウソがある2025/05/29

 2025年5月17日付けの毎日新聞連載コラム『土記』に、 専門編集委員である伊東智永さんの「戦後80年の敗戦後論」と題するコラムがあります。 https://mainichi.jp/articles/20250517/ddm/002/070/132000c (ただし有料記事)

 文芸評論家の加藤典洋さんを素材にして、戦争体験談の継承について論じているのですが、そのなかに次の一文に目が行きました。

戦争体験者の証言をどう継承するか。 それを何より正しい実践と信じる平和愛好家がいる。 体験談をとことん聞き取った経験のある人なら、当事者は必ず「うそ」をつくと知っている。

 コラムでは先の戦争の体験談の聞き取りについて、「当事者は必ず『うそ』をつく」とあります。 「必ず」というのはちょっと言い過ぎのような気がしますが、戦争でなくても体験談には「うそ」が混じるものです。 体験談は「オーラルヒストリー(口述歴史)」とも言いますが、これには「うそ」がつきものであり、そのまま信じることが危険であることは、私は拙ブログでも論じたことがあります。 

オーラルヒストリー(口述歴史)の危険性 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2020/11/16/9317033 

 戦争でも災害でも事件でも何でもそうですが、自分が直接体験した範囲での話に限るなら「うそ」は少ないものです。 しかし様々な間接情報が入ってきたり、あるいは年が経つにつれ、「うそ」が多くなります。 正確な記憶の希薄とともに錯覚や誇張が生じたり、思い込みや後付けの知識が加わったり、実際に体験していないことまでも語り出したり、時には何かを隠そうと虚偽を言う場合も多々あります。 ですから上記のコラムにあるように、「体験談をとことん聞き取った経験のある人なら、当事者は必ず『うそ』をつくと知っている」のです。

 拙ブログでは、在日の著名な作家である金時鐘さんが公開しているご自身の体験談を検証してみて、悪意はないと思われますが、「うそ」がかなり混じっていることを見つけました。 金さんは著名人であり、また多くの研究者が彼を研究対象としてきたのですが、彼の体験談はさほど検証されてこなかったのだろうと思われます。 しかし「うそ」はやはり困ったもので、これによって彼自身の価値が下がることにもなりましょう。 私は他人の欠点を見つけるのが得意な性格(嫌われますねえ)と自覚していますので、この作業はこれからもしばらく続けるつもりです。

 体験談は貴重な歴史証言ですが、そこに「うそ」が含んでいる可能性があることを常に念頭に入れて読まねばなりません。 ですから当時の社会状況や関連する法・ルールをよく知った上で読んでいき、疑問や矛盾があれば何故それが生じたのかということまで追究する必要があります。 また違う場所にいた人や違う考え方を有している人など、できるだけ多くの人からの体験談も合わせて読むことによって、その信用性を確認することも重要です。

 皆さまには、誰かの体験談を読むときには出来る限り検証してみることをお勧めします。

金時鐘氏への疑問(12)―崔賢先生2025/05/24

https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/05/19/9776467 の続きです。

⑱	崔賢先生との出会いはいつだったのか

 朝鮮近代史で「崔賢」といえば、1930年代に金日成とともに抗日パルチザン闘争を担い、解放後は朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の人民武力部長(国防大臣)などを歴任した人物が有名です。 先月に北朝鮮で進水式を挙げた新型駆逐艦の艦名が、この歴史的有名人の「崔賢」でした。

 ところで金時鐘さんによれば、解放後に同姓同名の共産主義者「崔賢先生」に出会い、この先生から共産主義に感化されたといいます。 北朝鮮の「崔賢」とは別人ですね。 彼は次のように回想します。

学生仲間の間で「崔先生、崔先生」と慕われていた、多分筆名だったろうと思いますけど、「崔賢」という30絡みの活動家がおられました。 ‥‥ 私が初めてこの崔先生にお目にかかれたのは、無知だった己れにもようやく民族の憤りが芽生え始めたころの春でしたから、終戦の翌年ということになります。 (「私の出会った人々」1980年1月『「在日」のはざまで』平凡社 2001年3月 53頁) 

 ここでは、崔先生と出会ったのは「終戦の翌年」ですから1946年の春です。 出会ってどのような活動をしたかというと、共産主義の「農村工作」です。 金時鐘さんは農民の厳しい生活状況を目の当たりにして、ショックを受けました。

光州にある無等山の麓の小さな集落を、この先生―というよりは指導者というべきですが―に連れられて初めて農村工作に出かけたとき ‥‥ 全羅南道の道庁所在地である光州市内からそうも離れていないところの農村でしたのに、初めて訪れた農家のかさぶたのひっついているような藁屋根をくぐってみて、本当にたまげたのです。 部屋というのがなくて、異臭のたちこめたうす暗い土間には藁だけが敷いてあり、おなかの突き出た子ども達が、蠅にたかられて、何人もおって、半開きの釜が粗末なかまどにはまったままだったのです。 このような状態で小作農の農民たちが生きていたことを、目と鼻の先の同じ光州市内で何年も勉強していながら知らずにいたこと自体、大変な衝撃でありました。 (同上 54~55頁)

 ここまで詳しく書かれていたら、金時鐘さんが1946年に崔賢先生と出会って農村活動したことは事実として間違いないと思うでしょう。 ところが金さんは、後の著書『朝鮮と日本に生きる』では崔先生との出会いを次のように語っておられます。

(1945年)9月末にはひとまず光州の学校に戻りました。‥‥ 私の自覚を深く目覚めさせた崔賢先生とは‥‥解放までの4年近くを思想犯として服役していた30がらみの痩せたお方でしたが、「自分の在所探し(チェコジャンチャッキ)運動」という、農村の啓蒙活動に力を注いでいる指導者でした。 おかげでようやく自分を取り戻せそうな気がしていた‥‥ (『朝鮮と日本に生きる』岩波新書 2015年2月 87~88頁)

 金時鐘さんは日本の敗戦=朝鮮の解放時(1945年8月)に故郷の済州島に帰っていたのですが、その年の9月末に光州の師範学校に戻り、その際に崔賢先生に出会い、農村活動を始めました。 そして父母と一緒に祖父のいる北朝鮮に行くために一旦その農村を離れて帰省した後、北朝鮮に行けなくなったために10月頃にまた農村に戻ってきます。

すぐに帰ってくるようにとの急な手紙が父から届きました。 うしろ髪を引かれる思いで家に帰ってみますと、本籍地の元山に今すぐ引き揚げるというのです。‥‥あたふたと家を整理して連絡船に乗り、大田で乗りかえて38度線近くの東豆川にたどりつきましたが、真夜中、その川を渡る段になって軍政庁に再雇用されている警務隊に捕まってしまいました。‥‥翌々日、母と私は釈放されて丸裸で済州島に戻りました (同上 88頁)

(10月頃)私はその足で光州に行き、12月末まで崔賢先生が開いている学習所に入りびたって、「チェコジャンチャッキ運動」の手伝いをしながら、知らねばならないことの多くを知らされました。 なんとその間に「登校拒否者」「赤色同調者」として私は学校から除籍されてしまっていました。(同上 88~89頁)

 10月頃に再び光州に戻り、そのまま崔賢先生の学習所に行って入り浸り、その年の12月末までの約三ヶ月の間、一緒に活動したことになります。

崔賢先生の学習所から私が済州島の親許のところに帰ってきたのは、1945年も暮れかかっていた12月の終わりごろでした。 (同上 95頁)

(崔賢先生の)「トゥンプル学習所」との直接的な関わりは三月足らずの短いものでした (同上 104頁)

崔賢先生の生き方、思うことを誠実に実践する行動力に痛く感銘を覚えていた私は、解放の年の12月末、先生の薦めもあって済州の親許に帰ってきます (同上 118頁)

 ただし金さんは、この三ヶ月の間にまた一度済州島の家に帰ったことがあるようです。

その年(1945年)の晩秋、元山の祖父の死の知らせが届きますが、父は牛のうめき声のような声で慟哭しました。 (金時鐘④「語る―人生の贈り物―朝鮮が私の中でよみがえった」 2019年7月23日付『朝日新聞』) 

 http://shiminhafiles2.cocolog-nifty.com/blog/files/342e98791e69982e99098e38080e8aa9ee3828b.pdf

 晩秋ですから11月頃でしょうか。 金さんは祖父の訃報を聞いて慟哭する父を見ていますから、その時は済州島の家にいました。 

 まとめますと、金時鐘さんが崔賢先生と出会って農村活動をしたのは、金さんの著作では「1946年」と「1945年」の二つがあります。 どちらも詳しい状況が書かれていてリアリティがあるように感じられますが、時期が食い違っています。 ということは、どちらかに間違いがあるということになります。

 崔賢先生との出会いと活動は金時鐘さんが共産主義者となる契機となったものですから、その時期は彼の思想を研究する上で重要なものです。 その時期が食い違って混乱しているとなると、一部の小さな間違いに止まらず、全体の信用性に疑問を抱くことになります。

 崔賢先生の活動について、金時鐘さんの回想しか資料がないので、どこまでが真実なのか分かりません。 また「崔賢」という名前は『「在日」のはざまで』平凡社53頁によれば「多分筆名」とありますが、いわゆる細胞ネーム(かつて共産主義者が活動する際に使った通名)なのか、ひょっとして冒頭に書いたような元抗日パルチザン有名人の名前を騙ったのか、などの疑問もあります。

 ただ解放後の全羅南道・慶尚南道の智異山一帯では南労党の活動が活発だったので、共産主義的な農村活動があったのは事実と思われます。 金時鐘さんの記述を検証するために、この時期の南労党の資料が欲しいところです。     (続く)

金時鐘氏への疑問(11)―スキー客・新井鐘司2025/05/19

https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/05/14/9775437 の続きです。

⑯	スキー客の群衆が軍隊に見える

 金時鐘さんの著作を色々読んでいて、彼の感覚というか感性というか、私には理解できず、ついて行けないところが出てきます。 例えば、次のような場面です。

7・8年前(1960年代のこと)、東京での会合の帰りのことでした。 ちょうどそういうシーズンのせいでもあったのでしょうか、新宿駅の改札口をくぐってホームを上がるのに、林立するスキー客のリュックや、人のうずくまりにさえぎられてなかなかホームに上がれませんでした。 このバカンスの山は延々天に至っているのです。 列車の時間にせかされながら、大群落の間をかいくぐりつつホームにたどりつく間、私はそうとうに言い知れぬ恐怖にとりつかれました。 それはもはや人間が群れているというより、昆虫かなにかの蝟集ではないかとさえ思ったほどでした。

なにもバカンスであるとか、スキーに夢中になるとか、私はそんなことを問題にしているのではありません。 一切の無関心を決め込んで、ただ量としてかたまって時間を待っている。 スキーに行くことのみで、何時間も待ち続けている。 新聞などを見ると一昼夜くらい待つのはざらにある。 そのような無関心の「量」の中を私がかいくぐってゆく。 無関心が絶対量となった中を、私は針を縫うように天に至らねばならない。 それでいて、この群衆は私を「朝鮮人」として識別できる触角は万全である。

この時に感じる恐怖というものは理屈ではない。 個としての朝鮮人が日本人の絶対量の中をかいくぐる時の恐怖、それは「私」という「個」が背負い込んだ絶対の恐怖であります。 私の網膜の中へ電車がすべり込む。 車掌が下り立って、お前たちの行くところはあそこだと指さす。 そのリュックはみるみる背嚢になり変わり、林立したスキーは銃剣に早変わりして、彼らは何の変哲もなく移動を開始するのです。 私はこの恐怖を、「日本人」に知らせる手だてを持ち合わせていません。 知らせようがないくらい、「日本人」と「朝鮮人」のコミュニケートは原体験の端緒から食い違っているのです。 (以上、金時鐘『「在日」のはざまで』 平凡社ライブラリー2001年3月 214~215頁)

 スキー客でごった返している駅の光景ですが、日本の大都市では何十年か前によく見られたものでした。 金時鐘さんはこのスキー客の群衆に出会って、彼らはまるで昆虫の大群が集まっているように見えて、さらに彼らが背負っているスキーリュックは軍隊の「背嚢」、持っているスキー板は「銃剣」に見えて「恐怖」を感じたというのです。 さらに彼らは自分を「朝鮮人として識別した」といいます。 

 朝鮮人と識別された金時鐘さんは、〝朝鮮丸出し”の姿格好をしておられたのでしょうか。 あるいは朝鮮訛りの日本語を発しておられたのでしょうか。 また駅でスキー列車を待つ群衆が軍隊に見えるなんて、一体どんな目をしておられたのでしょうか。 ひょっとして〝日本は軍国主義化している”と真剣に信じて、駅のスキー客の群衆を見ても軍隊を連想するくらいになっておられたのでしょうか。

 〝自分たち「朝鮮人」は「日本人」からいつ攻撃されるか分からない”という妄想のような被害者意識があったのだろうと思います。 しかしそうだとしても、スキー客の群れが軍隊に見えるというようなバカバカしい話を著書に記して公開する感覚が理解できないところです。 おそらく彼の周辺には、在日の被害意識を理解し同情してあげる「良心的」日本人が集まっているのだろうなあと想像します。

 

⑰	「新井鐘司」―間違いに気付かなかったのは何故?

 金時鐘さんの『「在日」のはざまで』を読んでいたら、次のような個所が出てきて驚きました。

いたましくも金嬉老は、「新井鐘司」に始まる七つの名前を持ってしても〝日本人”に成り切れなかった、在日二世の弧絶した〝朝鮮人“だったのである。  (「揺らぐ燐光」 『「在日」のはざまで』平凡社ライブラリー2001年3月 所収 88頁)

 「新井鐘司」といえば在日問題に詳しい方なら直ぐにピンと来るのは、1970年代のいわゆる「日立就職差別裁判闘争」でしょう。 日立から就職差別を受けたとして裁判を起こしたのは在日の朴鍾碩氏、日本名が「新井鐘司」さんでした。

 一方の「金嬉老」は1968年に殺人事件を起こし、民族差別を訴えて世間を騒がせた在日です。 その彼の日本名が日立闘争の朴鍾碩氏の「新井鐘司」と同じだなんて、本当なのか?と思いました。 何かの間違いだろうと思って、この『「在日」のはざまで』平凡社版の原本である立風書房の同名の本(1986年5月発行 第40回毎日出版文化賞受賞)を探しました。 すると、その80頁に全く同じ一文があったのです。

 つまり1986年の本と2001年の本は、ともに金嬉老の日本名は「新井鐘司」だとしているのでした。 さらに「揺らぐ燐光」は近著『金時鐘コレクション8』(藤原書店 2018年4月)にも再録されていますが、ここでも314頁に同一文がありました。 つまり1986年から2018年まで別々の出版社で発行された三冊の本に、「金嬉老の日本名は新井鐘司」と出ているのです。

 「『新井鐘司』に始まる七つの名前」とありますので、「新井鐘司」が主たる名前ということになります。 そこで金嬉老が有していたという七つの名前を探してみました。 すると「金嬉老」「権嬉老」「近藤安弘」「金岡安弘」「清水安弘」「ゴンキロ」「キムヒロ」が出てきましたが、「新井鐘司」はどこを探しても見当たりませんでした。

 それよりも、そもそも在日の日本名が「新井」ならば、ほぼ間違いなく本名は「朴」になります。 「金」の日本名が「新井」ということはあり得ないと言っていいです。 ただし例外があって、「金」という名の女性が夫の日本名「新井」を名乗る場合です。 しかし金嬉老は男ですから、これも考えられません。 「新井鐘司」が金嬉老の日本名でないことは確実と思われます。

 以上により、金時鐘さんの「揺らぐ燐光」にある「金嬉老は『新井鐘司』に始まる七つの名前を持って」の記述は、明白な間違いであると考えられます。 金嬉老事件は1968年に起き、その2年後の1970年に日立就職差別裁判が始まって、その時に朴鍾碩氏の日本名が「新井鐘司」であることが世に知られました。 おそらく金時鐘さんは、金嬉老・朴鍾碩の二人の日本名を混同したのだろうと思われます。

 人間ですから間違いはよくあることですが、32年経っても間違いに気付かずに、しかも出版社を変えて記載してきたなんてことがあり得るのだろうか? また近年の金時鐘研究論文では参考文献としてこの『「在日」のはざまで』が必ず挙げられていますが、そういう研究者たちも気付かなかったなんてことがあり得るのだろうか?という疑問が湧いてきます。 毎日出版文化賞を受賞したこの本の間違いを、しかも在日の名前についてあれほど敏感な人たちが誰も気付かずに本の再刊までして、さらに近年の本にもそのまま再録していたことに驚くほかありません。

 『「在日」のはざまで』を詳細に見てみると、例えば金さんの小学校の担任教師は朝鮮人で、1986年の立風書房版の42頁では「金田」先生となっていますが、2001年の平凡社版の43頁では「豊田」先生に訂正されています。 つまり、間違いがあれば再刊する際に訂正されているのです。 とすれば「新井鐘司」を訂正しなかったことは単純ミスではなく、訂正できなかった何かの理由があるのかも知れません。

 金嬉老について、拙ブログでは https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/11/13/9731138 で取り上げています。 お読みいただければ幸甚。         (続く)

【追記】

 金嬉老は、朝鮮語で「김희로(キム・ヒロ)」と読みます。 嬉老の母親は日本語が不自由で、嬉老を「ヒロ」と呼んでいたといいます。 嬉老の日本名の中に「弘(ひろ)」があるのは、このためかと思われます。

金時鐘氏への疑問(1)―在留資格       https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/03/26/9763626

金時鐘氏への疑問(2)―韓国戸籍・墓参り   https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/03/31/9764818 

金時鐘氏への疑問(3)―教員免許・公務員就職 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/04/05/9766006

金時鐘氏への疑問(4)―日本語・創氏改名   https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/04/11/9767588

金時鐘氏への疑問(5)―政党加入・4・3事件  https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/04/18/9769221

金時鐘氏への疑問(6)―4・3事件(その2)  https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/04/23/9770375

金時鐘氏への疑問(7)―4・3事件(その3)  https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/04/28/9771478

金時鐘氏への疑問(8)―西北青年団      https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/05/02/9772477

金時鐘氏への疑問(9)―韓国否定と北朝鮮容認 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/05/09/9774295

金時鐘氏への疑問(10)―北朝鮮批判と擁護代弁 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/05/14/9775437

金時鐘氏への疑問(10)―北朝鮮批判と擁護代弁2025/05/14

https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/05/09/9774295 の続きです。

⑮	北朝鮮を批判しながらも擁護し代弁

 金時鐘さんは早い時期から北朝鮮に対し批判的だったといいます。

その頃(1955年)から、僕の北朝鮮への敬慕にも、北朝鮮への憧れにも、黒い雲がかかっていきました。 ‥‥ 僕も1960年代初頭までは金日成将軍の神格化に見るような国家体制には疑問をもちつつ (金時鐘・佐高信『「在日」を生きる―ある詩人の闘争史』集英社新書 2018年1月 94頁)

金日成の『パルチザン回想記』というのを朝から晩まで勉強させられ‥‥ 幼児以外信じないようなストーリーを作り上げて、こういう虚偽を押し立てて組織活動すること‥‥ そういう形で作られた共和国に対して、その虚偽というのは早くから覚った。 虚像ではなくて、これはもう虚偽だということを。 (金時鐘『わが生と詩』岩波書店 2004年10月 166頁)

たくさんの挫折をへて生きとおすのが人生だが、ぼくの大きな挫折は北と金日成の実相を知ることだった。 総連組織の官僚主義もわかったし。 ‥‥ 当時のぼくは北の共和国は正義の最たるもので、それを信じ切って4・3事件から生き延びたのに、北の実態を知るにおよび‥‥ (『在日一世の記憶』集英社新書 2008年10月 574頁)

 金時鐘さんはこのように北朝鮮に対して「疑問をもちつつ」「もう虚偽だ」「実態を知るにおよび」と大きな違和感を抱き始め、1950年代の後半に朝鮮総連の権威主義・官僚主義を批判したために、北朝鮮・総連から「民族虚無主義」「民族反逆者」「思想悪のサンプル」などと糾弾されました。 

 彼はそれ以降も北朝鮮に対して厳しく批判しています。

私はあの北の特異すぎる政治体制を、生理悪寒と言っていいほど好きではありません。 (『わが生と詩』 15頁)

北共和国のあの、世界に類をみない絶対君主制の体制 (同上 170頁)

「将軍さま」を称えてきた北共和国の尊崇者たちの志の低さ、人としての卑しさ (同上174頁)

北は一族主権体制だけれど‥‥ 北朝鮮の国民は神がかり的な金王朝体制、それを純血継承と言わされていますが、その絶大な権威がなくては国家は成り立たないと、信じ込むまでに至っています。 (『「在日」を生きる』 161頁)

一族王権の閉鎖的な北朝鮮 (同上 176頁)

 

 ところがこのように北朝鮮を厳しく批判してきた金時鐘さんが、今世紀になって北朝鮮を擁護し代弁する発言をします。

核の問題だけは北朝鮮に理がある (『「在日」を生きる』集英社新書 2018年1月 160頁)

まかり間違えば、水爆のきのこ雲が極東の空の一角を覆うかも知れない。 そのただ中に日本も存在している‥‥ 好き嫌いを先立てず‥‥日本には話し合いの糸口をつける有効なカードが手許にある (同上 162頁)

ありていに言って、こと核の問題に関する限り、北朝鮮に道理があります。 金日成主席の生存時から、北朝鮮はアメリカに対して、朝鮮戦争の休戦協定を平和協定に締結し直そうと、ずっと提起してきました。 そうなれば北朝鮮が核を持つ理由がなくなる、とも言い続けています。 金日成から金正日に代わったときも同じことを言ってきたし、今の金正恩も、話し合いをするなら私たちも核の問題を考える、それはお祖父様の遺言だとも言っています。 (同上 162~163頁)

 金時鐘さんは一方では「生理的悪寒と言っていい‥‥世界に類をみない絶対君主制の体制」「一族主権体制‥‥神がかり的な金王朝体制‥‥純血継承」などと批判しておきながら、そんな国の三代世襲支配者の言うことを信じているというのが不思議ですね。 「お祖父様の遺言」云々を最初読んだ時は皮肉と思ったのですが、前後の文脈からそうではなく、本当に信じておられるようです。

北朝鮮からすると、米韓合同の大軍事演習が、あの敏感な軍事境界線ぎりぎりのところで砲煙を噴き上げてきたのです。‥‥挑発はむしろアメリカ側がしている‥‥ 北朝鮮が全身ハリネズミのようになって身構えるのは無理からぬことですよ。 だから核の問題を言うなら、北朝鮮側からの平和協定の提案がアメリカに対してあるということ、そして北朝鮮の提案をアメリカにつなぎ得る最も有効な存在が日本であることを踏まえて、北朝鮮の“脅威”に対処すべきです。 (同上 163~164頁)

もしも日本やアメリカが、北朝鮮の体制を物理的な方法で潰そうとしたら、北朝鮮を壊滅させるのはたやすいことかもしれない。 しかし北朝鮮はひとりでは死にませんよ。 必ず日本を道連れにする。 岩国あたり、日本海寄りの原子力発電所、横須賀の米軍基地は当然狙われる。 北朝鮮が水爆を保持しているのは、冷厳なる事実ですから。 (同上 165頁)

北朝鮮は腹を括(くく)っている。 自分らだけで死ぬはずがない。 絶対に日本を道連れにしますよ。 彼らの思いのなかでは、日本との抗争状態、決着を見ない植民地支配はまだ続いているんです。 (同上 166頁)

 金さんの「核の問題に関する限り北朝鮮に道理がある」という北朝鮮擁護の発言は、1960年代に革新・左翼系の人たちが〝アメリカの核は戦争のための汚い核、ソ連の核は平和のためのきれいな核”と言っていたのと同じ発想で、核廃絶の理念に反するものです。 ですから一般には理解されないでしょう。 「生理悪寒」を感じるような「神がかり的な金王朝体制」が核兵器を開発し所有しているというのは、脅威そのものです。 しかもそれは「絶対に日本を道連れにする」くらいの脅威なのです。

 しかし金さんは北朝鮮にはそんな脅威はないと言います。

「北朝鮮の脅威」を挙げるガセネタ (『在日一世の記憶』集英社新書 577頁)

そして北朝鮮に対抗するのではなく、日本の方から国交を提言せよと主張します。

北朝鮮との間でまず国交正常化の話をしようと、日本から提言すべきです。 (『「在日」を生きる』 165頁)

 これは要するに、〝北朝鮮はこれほど威嚇しているのだから日本は恐れおののいて北朝鮮の言うことを聞き、どうしたらいいでしょうかとお伺いして、国交を結べ”と主張していることになります。 別に言えば〝日本は北朝鮮という悪魔に土下座しつつ擦り寄り屈従したら、北朝鮮は国交を結んでくれる”ということです。 彼は「一族王権の閉鎖的な」北朝鮮の代弁者になったと言うほかありません。

 金時鐘さんは古くから北朝鮮を厳しく論難してきたのですが、結局は擁護・代弁しました。 この心情がなかなか理解できないところです。 金さんにとって北朝鮮は「正義の象徴」「正義の拠りどころ」(『朝鮮と日本に生きる』268頁)だった気持ちが残っていて、今なお「生理的悪寒の神がかり的金王朝体制」に魅せられているのかも知れません。 似た例を探すなら、オウム真理教の元信者が決別したと宣言してもなお麻原に魅かれる姿ですねえ。       (続く)

【参照】

 金さんが北朝鮮を擁護し代弁する発言していることについて、以前にも拙ブログで論じたことがあります。 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/01/23/9653071  ご笑読くだされば幸い。

金時鐘氏への疑問(9)―韓国否定と北朝鮮容認2025/05/09

https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/05/02/9772477 の続きです。

⑭	「韓国」建国選挙を否定しながら、「北朝鮮」建国選挙は容認

 1948年は「大韓民国(韓国)」を建国するための選挙と「朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)」を建国するための選挙、この二つの選挙が実施されました。 言い換えれば、南北を分断する選挙が「南」と「北」で行われたのです。

 まずは「韓国」建国に至る経過を簡単に記しますと、

・1948年2月:   国連は全朝鮮での選挙を企図したが、ソ連の占領下にある北朝鮮への立ち入りを拒否されたので、南朝鮮での単独選挙を決議。

・同年3月1日:   5月10日に選挙実施と公告。

・同年3月15日:  南朝鮮労働党(南労党)済州島委員会は選挙を阻止するために4月3日に武装蜂起すると決定。

・同年4月3日:   武装蜂起(4・3事件)勃発。

・同年5月10日:   選挙実施。 ただし南朝鮮のなかで済州島の北済州郡だけが選挙無効となる。

・同年5月31日:   制憲国会を開く。

・同年7月29日~:  第二次世界大戦後初のロンドン五輪に朝鮮代表として出場。 直後に建国される「韓国」が国際的に承認されたことになる。

・同年8月15日:   「大韓民国」樹立を宣言。 李承晩が初代大統領となる。

 国連は当初は朝鮮全土で選挙を実施するつもりが北朝鮮側から拒否され、南朝鮮だけでの単独選挙となりました。 そして金時鐘さんは南労党の党員としてこの単独選挙に反対する4・3事件に参加し、済州島の北済州郡での選挙を無効とすることに成功しました。 (なお翌年5月に再選挙が実施されたので、結果的に「成功」とは言えません)

 

 ところが金時鐘さんは同時に進められていた朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)建国の選挙について、全くと言っていいほどに言及していません。 「北朝鮮」建国に至る経過を簡単に記しますと、

・1948年5月:     民族統一政府樹立のために朝鮮全土で選挙すると決定。

・同年7月:      南朝鮮のなかの南労党支配地域で、「人民代表者会議」の代表者を選ぶ地下(秘密)選挙を実施。 済州島でも同様に実施され、金達三ら南労党幹部が選出される。

・同年8月初~中旬:  選ばれた代表者が南朝鮮を抜け出し、北朝鮮へ行く。 済州島からも金達三ら6人が向かった。

・同年8月21~26日: 北朝鮮の黄海道海州で「南朝鮮人民代表者会議」が開かれる。 金達三は済州島における4・3事件の戦果を報告。 この代表者会議で「最高人民会議」代議員を選ぶ。

・同年9月2日~:   平壌で「最高人民会議」を開き、新政府の樹立と政府要員を決定。

・同年9月8日:    朝鮮民主主義人民共和国憲法を制定・

・同年9月9日:    「朝鮮民主主義人民共和国」建国を宣言。 金日成が首相に就任。

 このように当初は朝鮮全土での選挙を目指したのですが、南朝鮮では米軍政下にあって全面的に実施できず、南労党支配下のごく狭い地域に限っての地下(秘密)選挙となりました。 朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)建国のための選挙は以上のような経過であり、金時鐘さんがおられた済州島でも地下選挙を実施するなど、北朝鮮の建国過程に沿っていたことが分かります。 

 なお金時鐘さんの岩波新書『朝鮮と日本に生きる』によれば、彼は1948年5月末に起きた中央郵便局火炎瓶襲撃事件に関わって警察に追跡され、知り合いの協力で逃亡し、米軍基地内の兵舎に9月末まで潜伏していたといいます。(225~227頁) このためか7月の地下選挙に関わらなかったようですが、

月に2度くらいは、厳戒の街のなかを連絡を取りに、指定場所の〝定点”と道立病院にK君のジープで出向くこともできました (227頁)

とあるように、南労党との連絡は保っていました。 そもそも南労党員なのですから、地下選挙については知らされていたはずです。

 ところで金時鐘さんの著作では、南の単独選挙阻止のための4・3事件について詳しく書いておられますが、「朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)」建国のための地下選挙については全くと言っていいほどに触れておられません。 つまりあの時、祖国の分断をもたらす選挙が「南」だけでなく「北」でも行なわれ、南では「北」の選挙に合わせて地下選挙まで実施されたのに、彼は「南」の単独選挙だけを取り上げて、身近で行なわれていた「北」の地下選挙には黙っておられるのです。 少なくとも南労党員として党と連絡を取っていたのですから、地下選挙の情報はあったはずなのですが‥‥。 書かれて当然のものが書かれていないとなると、何故なのか?と疑問となります。

 どちらの選挙も当初は朝鮮全土で実施するつもりだったのものが、それぞれの事情により不完全な選挙となり、祖国が分断されたまま二つの国家が成立したのでした。 金さんは「南」による分断選挙に否定する考えを今でも維持しておられますが、もう一方の「北」による選挙について何も語らないところをみると、その裏に何かがあるのではないか?という疑問を抱きます。        (続く)

 「北朝鮮」建国と南朝鮮地下選挙に関しては、下記の拙ブログをご参考ください。

朝鮮民主主義人民共和国の正統性は何か? https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/11/21/9636056 

朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の建国日は本当か? https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/10/10/9723031 

 

【追記】

 南労党指導者の朴憲泳は、南朝鮮の現地南労党員からの〝南朝鮮の全域で地下選挙が実施された”という報告を受けて、これを金日成とスチコフ(北朝鮮駐屯ソ連軍司令官)に伝えました。 この最終報告書には実施率77.52%と信じられないような数字が出ています。 南労党員たちは成果があったように捏造の報告をしたものと思われます。 済州島ではさらに高い85 %の投票率だったといいますが、これも信じていいものかどうか‥‥。 ただ権力側は鎮圧する際に地下選挙の投票用紙等を押収しており、それによればほとんどが白紙の委任投票で、民主的な選挙とは言い難かったようです。

 南北分断の元となったのは、「南」の単独選挙と「北」の選挙の二つの選挙でした。 金時鐘さんは「南」の単独選挙だけが分断の元凶のように語っておられますが、「北」の選挙もまた分断の元凶だったのです。

金時鐘氏への疑問(1)―在留資格       https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/03/26/9763626

金時鐘氏への疑問(2)―韓国戸籍・墓参り   https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/03/31/9764818 

金時鐘氏への疑問(3)―教員免許・公務員就職 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/04/05/9766006

金時鐘氏への疑問(4)―日本語・創氏改名   https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/04/11/9767588

金時鐘氏への疑問(5)―政党加入・4・3事件  https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/04/18/9769221

金時鐘氏への疑問(6)―4・3事件(その2)  https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/04/23/9770375

金時鐘氏への疑問(7)―4・3事件(その3)  https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/04/28/9771478

金時鐘氏への疑問(8)―西北青年団      https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/05/02/9772477

「朝鮮部落」を探訪したユーチューブ動画2025/05/04

 「ふじわらのみい」という若い女性の方が発信するユーチューブに、「まだ人が住んでる在日コリアン集落に行ってみたら衝撃な光景が」と題する動画がありました。 https://www.youtube.com/watch?v=MlluQUdGgY8&t=1099s 

 岡山のある「朝鮮部落」を探訪したものですが、在日に知り合いもいない日本人がこういった場所を単に興味本位で見て回るのはどうかと思います。 そこの住民や周囲の人たちは、おそらくはその存在自体を恥と考えて公開されたくないと考えているでしょうから。 在日の歴史と生活について勉強して、できればその部落の出身者と知り合いになって一緒に歴史記録を残すという考え方というかスタンスを持ってほしかったですね。 

 しかしそれはともかく、かつて日本の各地にはこういった「朝鮮部落」が散在し、今もその痕跡が残っているという記録は貴重なものです。 ユーチューブでは他にも各地の「朝鮮部落」を探訪する映像が時々出てきますね。 またちょっと古くなりますが、1960年前後の北朝鮮帰国運動のニュース映像に「朝鮮部落」が出てきます。 内容は、朝鮮人たちは日本でこれほど劣悪な生活をせざるを得ず、だからこそ祖国の北朝鮮に帰って幸せに暮らそうと考えている、というものでした。

 近代日本の経済発展の陰で貧民層が醸成され、都市や近郊、時には農村地帯にもスラムが形成されました。 「朝鮮部落」はその一つです。 何十年か前まではそこに朝鮮総連の分会があって、それを中心に住民の朝鮮人たちが助け合って生活する場合が多かったです。 今はおそらく総連分会はなくなり、若者は部落から出ていったきり帰って来ず、長年住み慣れた家を維持できなくなりつつあるようです。 不法占拠して建てた不法住宅の集合ですから仕方ないのですが、その歴史の記録だけでも残してくれればいいと思っています。 在日の歴史の本はいくつかありますが、それは〝民族受難とそれに対する闘い”に終始する歴史で、「朝鮮部落」のような日常生活に関心が向かないのは残念ですね。

 「朝鮮部落」について拙ブログでは下記のように取り上げたことがありますので、ユーチューブを見る際に参考にしていただければ幸甚。

「朝鮮部落」の思い出(1)   http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/07/12/9508262

「朝鮮部落」の思い出(2)   http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/07/19/9510331

神戸の「朝鮮部落」―毎日新聞  https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/08/11/9516772

小松川事件(3)―李珍宇が育った環境 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/04/12/9576502

【追記】

 ユーチューブで、「コリアン集落」などで検索すると、「朝鮮部落」を撮影した動画が出てきます。