「日本人としてふさわしい氏名」とは何か?(1) ― 2025/02/14
ちょっと古い話になりますが、外国人が帰化を申請するにあたって、帰化後の名前について、1985年までは「帰化後の氏名は、日本人としてふさわしいもの」にするように決められていました。 それは当時の「帰化許可申請書」の欄外注意書きである「帰化許可申請書作成上の注意」の4番目に明記されていました。 念のため、その注意書きをスキャンして提示しておきます↑。
4 帰化後の本籍および帰化後の氏名は、自由に定めることができますが、氏名は日本人としてふさわしいものにしてください。 氏名の文字は、原則として、当用漢字および人名用漢字表に掲げてある漢字、片仮名又は平仮名以外は使用できません。
それでは1985年までの当時、「日本人としてふさわしい氏名」とは何だったのか、ちょっと調べてみました。 法務省が発行している『民事月報』という雑誌があります。 主に戸籍等を担当する公務員らのための専門雑誌ですが、一般人でも入手は可能で、また中央図書館などにもバックナンバーが収蔵されています。 そこに「日本人としてふさわしい氏名」について、次のような解説がありました。
日本人としてふさわしい氏名とはどのような氏名をいうのかということである。 昭和47年度の戸籍・国籍事務担当者打合会においてもこのような問題が提出されていたのであるが、一般的かつ具体的な基準をもうけることは困難と思われる。 同氏の日本人が存在するという一事をもって日本人としてふさわしい氏と即断することも問題があると考えられるのであり、結局は常識すなわち一般にその氏名でもって日本人として通用するかどうかといった観点から判断せざるを得ないと考える。 (藤田秀次郎「帰化事件処理上の問題点」 『民事月報』1974年6月号所収)
日本人の名前は非常に多様で、日本人風の名前なんて「一般的かつ具体的な基準をもうけることは困難」であることを正直に言っています。 ところが「同氏の日本人が存在するという一事をもって日本人としてふさわしい氏と即断することも問題がある」と続けています。 これはどういうことかというと、日本人でも何百年も前からの由緒ある苗字が、例えば「金」「張」「田」「洪」といった方が実際におられるのですが、これらは「日本人にふさわしい名前」ではないと言っているのです。
「金」さんは1970年代のロッキード裁判の裁判長、「張」さんは1999~2005年にトヨタ自動車の社長、「田」さんは大正時代の台湾総督で、そのお孫さんが1970~2000年代の国会議員です。 「洪」さんは400年前のご先祖様が洪浩然という有名な書家で、ご子孫が九州で「洪」家を継いでおられるということです。 「金」「張」「田」「洪」さんから、〝だったら先祖代々その名前を受け継いだこの俺は日本人じゃないということか!”と反発されそうですが、そんなことを言った人はいなかったようです。 田英夫さんは国会議員だったのですから、〝私は日本人なのか?”と国会質問していたら面白かったと思うのですが、そういう記録はないですね。 また上記のような朝鮮人・中国人等と共通する名前でなくても、「団」「菅」「宗」「壇」「今」「長」など、漢字一文字で音読みする由緒深い苗字を有する日本人は多いものです。 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2021/09/19/9424856
ところで上記の引用文の中で「昭和47年度の戸籍・国籍事務担当者打合会においてもこのような問題が提出されていた」とありますが、これは1972年の日中国交正常化の時に、日本は台湾(中華民国)と断交したことに関係があるものです。 中華民国籍だった人の多くがこの時に帰化申請をしました。 ところが在日中国人は通名を持たない場合が多く、中国の漢字名をそのまま使って日本での社会生活を送ってきました。 ですから慣れ親しんできた中国名をそのまま帰化後も使いたいとしていたのですが、さてそれをどうするのかを法務省の役人さんたちが議論していたということです。 結果は、やはり「日本人としてふさわしい氏名ではない」という話でした。
『民事月報』には、次のように日本人風の名前を「指導すべき」というような発言もあります。
帰化者自身はもとより、おそらくその子孫までが将来とも本邦に居住し、日本人として社会生活を送っていくであろうことを考えるならば、やはり日本人の氏名として疑義のある場合には、原則的には日本人としてふさわしい氏名に変更するよう指導すべきであろう (門田稔水「帰化事件の再調査に関する一考察」 『民事月報』1976年4月号所収)
こうなると「指導」というより、「強制」ですねえ。 (続く)
【帰化に関する拙稿】
帰化にまつわるデマ http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2006/05/31/387157
在日の帰化 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2006/08/18/489465
帰化と戸籍 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2006/08/26/499625
国籍選択と強制退去 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2006/06/15/405667
52年前の帰化青年の自殺―山村政明(1) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/08/17/9518301
52年前の帰化青年の自殺―山村政明(2)https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/08/23/9519952
52年前の帰化青年の自殺―山村政明(3) https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/08/29/9521733
青木理・金時鐘の対談―帰化(1) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/09/08/9524343
青木理・金時鐘の対談―帰化(2) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/09/15/9526042
在日の「国籍剥奪論」はあり得ない https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/11/19/9732903
在日韓国・朝鮮人自然消滅論(1) https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/11/26/9734747
在日韓国・朝鮮人自然消滅論(2) https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/12/01/9736094
在日朝鮮人に関する論考集 http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/minzokusabetsu
1960年代の入管問題―金東希と任錫均(2) ― 2025/02/07
https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/02/02/9751631 の続きです。
その北朝鮮に彼(金東希)がとつぜん送り出されたのは、68年1月26日の朝だった。 もちろん、朴正煕による独裁政権下にあった韓国に送還されなかったのは喜ぶべきことだが、この妥協的な措置に私は釈然としなかった。 その後の彼の情報は分からない。 小田実は76年10月に当時の金日主席に会った時に、金東希のことを訊ねたが、そんな人は知らないと言われ、また後に、調査したがそのような人はいない、という返事をもらったという。 ここにもまた、戦後日本の酷薄な対応のために、空しく希望を摘み取られて消えていった人の運命がある。
これが1960年代、とくに67年から8年にかけての日本を覆っている空気だった。 すなわち過去の反省はなおざりにされ、戦争への協力は露骨になってゆくが、なおかつそれに抵抗しようとする少数の人々が懸命な努力を惜しまなかった時代である。 (以上 鈴木道彦『越境の時 1960年代と在日』 集英社新書 2007年4月 147~148頁)
この時期の日本はいわゆる全共闘時代で、革新(左翼リベラル)の考え方というか雰囲気が社会に蔓延していました。 革新系の人たちは、“日本は過去を反省せず、アメリカの戦争に協力している”として、そんな日本に対する反対運動を盛んに行なっていたのです。 この一文はこのことを言っています。
ところで結局は金東希は北朝鮮に亡命し、現地で大歓迎を受けました。 その後に作家の小田実が訪朝した際に北朝鮮当局に問い合わせたところ、当局はそんな者を関知していないと回答しました。 ところが一方では、日本の朝鮮総連内で次のような噂話が飛んでいました。 出典は、張明秀『裏切られた楽土』です。
当時(1975年)、私は総連中央社会局で実質的責任者として帰国事業に携わっており、この話(在日朝鮮人商工会会長の息子が65年頃に帰国し、その後行方不明になった)を社会局長(故河昌玉氏)に報告した。 すると局長から、「韓国国軍を脱走し、共和国に亡命した金東希青年もスパイとして処刑されているくらいだから」との返事が返ってきた。
補足すると、金東希とは67年、韓国の軍隊を脱走し、日本に密入国したが、捕えられた。 当時、総連ではこの金青年の行為を英雄のごとく称え、社会党、共産党、日朝協会などに働きかけて、支援を得て日本当局に抗議、陳情した結果、金青年は68年ソ連を経由して共和国に亡命した。 共和国ではその英雄視された金青年でさえ処刑されたのだから、普通の帰国者の行方不明くらいはものの数ではない、というわけである。 (以上 張明秀『裏切られた楽土』講談社 1991年8月 48頁)
北朝鮮は公式の話より裏の話に真実があるというお国柄ですから、この噂話が事実のように思われます。 おそらく金東希は処刑されたのでしょう。 ところで金東希は韓国に家族を残していたはずですが、その家族の消息も気になります。 しかし全く分からないですね。
金東希の次に入管問題の話題になったのが任錫均でした。 彼については、拙ブログ https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/03/11/9568486 で、次のように記しました。
ここで思い出すのは「任錫均」です。 1960年代後半に韓国の朴正煕軍事政権から弾圧を受けたとして日本に密入国し、大村入管収容所に収容され、特在だったかで釈放されていたように記憶しています。 その時に彼は韓国の軍事政権と癒着する日本の自民党政権を糾弾する闘士として登場し、日本各地で講演を繰り返し、彼を守る運動が繰り広げられ、彼はまるで英雄みたいな扱い受けていました。
任錫均は大村収容所に収監されていた時に、市民団体や朝鮮総連より支援されていました。 そして在留特別許可を得て出所し、日本各地で開かれた集会で演説をして回っていました。 アジ演説はなかなか上手だったですねえ。 「ここに来ている公安諸君! 私を逮捕してみたまえ!」とか叫んでいました。 また私の記憶では日本人(あるいは在日?)の女性と結婚し小さな女の子がいて、その時期の日本名は「神保(じんぼ)」だったと思います。 しかし1970年代になって、朝鮮総連から一転して「韓国のスパイ」と名指し非難されました。 1973年頃でしたか、私は総連の活動家からスパイ説を聞かされましたね。 さらに
実はこの任錫均が大の女たらしで、支援団体に参加する若い女性をそれこそ次から次へと犯していくのでした。 しかし反体制組織内のことでしたから、警察沙汰になることはなく、つまりは女性側が泣き寝入りするしかなかったのでした。
と記したように、性犯罪常習者としか言いようのない人物でした。 しかし実際の人柄というか裏面を知らない「善良な」市民団体が彼を支援していたのでした。 だからでしょうか、彼はいつの間にか消えてしまいましたねえ。 ごくわずかの支援者(うち一人は後の土肥国会議員秘書らしい)らと一緒に活動をしていたように聞いたことがありますが、誰からも注目されることがありませんでした。 その後の消息は全く不明です。 (終わり)
1960年代の入管問題―金東希と任錫均(1) https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/02/02/9751631
【参考】
任錫均を知っていた人が当時の思い出を書いていますね。
https://tao-and-gnosis.hateblo.jp/entry/2022/08/01/100239 https://blog.goo.ne.jp/sunsetrubdown21_2010/e/6ff662d2a178b81991299370ed425c43
【拙稿参照】
左翼人士の性犯罪に思う https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/03/11/9568486
入管闘争―善人だから闘うのか、善人でなくても闘うのか https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/05/25/9588921
不法滞在・犯罪者の退去・送還-1970年代の思い出 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2021/05/21/9379672
昔も今も変わらない不法滞在者の子弟の処遇 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2020/03/21/9226536
不法残留外国人について https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2021/05/11/9376331
不法残留外国人について(2) https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2021/05/17/9378363
かつての入管法の思い出 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2020/10/17/9306547
在日が入管問題に冷たい理由―『抗路』を読む https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/05/20/9587549
密告するのは同じ在日同胞―『抗路9』座談会 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/03/03/9468948
1960年代の入管問題―金東希と任錫均(1) ― 2025/02/02
戦後の日本では、外国人は「出入国管理令」という法律(ただしポツダム政令)に従って管理されていました。 ところが1960年代後半に、日本に寄港した米軍空母からアメリカ兵が脱走したり、韓国から「金東希」や「任錫均」が密入国してきたりして、それぞれ市民団体が支援する事件が起きました。
これだけではありませんが、当時、外国人を管理する入管体制が問題になってきたのです。 政府は1969年にそれまでの「出入国管理令」から「出入国管理法」に改正しようとしたのですが、上述の脱走兵等の問題などを契機に反対運動が盛んとなりました。 その時に大問題となったのが、4年前の1965年に法務省が出した『外国人の法的地位200の質問』という冊子に「外国人は煮て食おうと焼いて食おうと自由」という文言があったことが国会で取り上げられたことです。 この文言は50年以上経った今でも、入管問題に取り組む活動家たちが言及しますね。
ところで、今回はこのうちの「金東希」と「任錫均」の話をします。 先ずは金東希や脱走アメリカ兵を支援していた市民団体の鈴木道彦さんが、金の亡命の経過を『越境の時 1960年代と在日』という本に記していますので、それを紹介します。
このとき(1968年3月)長崎県の大村収容所に入れられていたもう一人の脱走兵である金東希のことを、少しでも多くの人に知ってもらいたいと考えた (鈴木道彦『越境の時 1960年代と在日』 集英社新書 2007年4月 145頁)
当時の韓国は‥‥ヴェトナムに軍隊を派遣していた。 金東希は、そのヴェトナム行きを嫌って65年7月に軍を脱走し、亡命のために日本に密入国して対馬で逮捕されたのである。 しかも1935年に済州島で生まれた彼は、小学3年まで皇民化教育を受けて日本語を学んでいたし、彼の長兄、次兄、三兄は、いずれも働くために小学卒業ほどの年齢で敗戦前の日本に渡り、その後各地を転々としながら日本で暮らす人たちだった。 要するに、植民地帝国日本が生んだ典型的な崩壊家庭の一つである。 だから彼の行為は、ヴェトナム戦争への批判の表現であると同時に、戦前からの日朝関係の歴史を映し出すものでもあった。 しかも彼の亡命願には、次のように書かれていたのである。
「私が亡命地を日本に選択したのは、もちろん地理的条件もありますが、特に私は日本国憲法前文ならびに(第九条)戦争の放棄を規定し、平和主義を貫こうと努力している日本国に亡命したのであります」。 (同上 145~146頁)
金東希は1935年生まれで、小学3年までは日本の植民地支配下にあったといいますから、日本については大ざっぱな知識だけで、詳細は知らなかったはずです。 その後は朝鮮の解放となりますから、彼は日本語に接するチャンスはほとんどなくなり、戦後の日本の知識は皆無と言っていいでしょう。 ところが、そんな彼が日本の憲法九条の条文を知っていたというのですから、ビックリ。 そしてこれを当局に「亡命願」に理由として書いて出したというのですから、日本で大村収容所に収監されていた時に、支援者から憲法九条の韓国語訳を教えられたと思われます。 在日ならいざ知らず、本国韓国人が他国である日本の憲法の条文を知っていたなんて、あり得ないことでしょう。
なお1965年に韓国軍を脱走(脱営ともいう)した金東希が日本に密入国したのは1967年暮。 脱走から密入国までの2年間は韓国内で生活していました。 あの軍事政権下でそんなことができたのか?という疑問が湧くでしょう。 しかし当時の韓国では可能でした。 1967年までの韓国では、軍隊からの脱走が毎年1万人以上発生していたのです。 脱走兵は韓国内で仕事と住所を見つけて生活することが容易だったのです。 脱走兵が多すぎて、軍による捜索が間に合わなかったともいいます。
ところが1968年1月に北朝鮮特殊部隊が大統領官邸(青瓦台)を襲撃する事件が発生しました。 韓国政府はこれを機に全国民の住民登録管理を強化しました。 この登録番号がなくてはホテル・旅館に泊まれず、仕事も家も探せませんから脱走兵は生活が難しくなり、脱走事例が急減したと言われています。
ところが日本政府は頑なに彼の亡命を拒否し、韓国への退去強制命令を出して、大村収容所に収監した。 しかし脱走兵が独裁政権下に送り返されれば、極刑も覚悟しなければならない。 藤島宇内はいち早く『現代の眼』でこの問題を取り上げて世論に訴えたし、金東希を救わねばならないという動きは、福岡、大阪、長野などに広がり、東京でも「べ平連」などいくつかのグループがその声を上げた。 これら東京の支援者たちを結ぶ「金東希・東京連絡会議」も作られて、署名や請願を通して彼の亡命実現につとめていたが、そこには二・三の大学の学生グループに混じって、一橋大学の私のゼミ生たちも参加していた。 67年12月12日には、その鈴木ゼミの主催で、学内で「イントレピッドから金東希へ」というテーマのシンポジウムも開かれている。 これには「べ平連」から武藤一羊、「金東希を救う会」から玉城素、学内から中国思想史の西順蔵が参加し、他大学や地区の運動家も加わって、約4時間にわたり熱心な討議が行われた。 (同上 146~147頁)
「イントレピッド」とは、当時横須賀港に寄港中の米軍空母「イントレピッド号」から4人のアメリカ兵が脱走し、日本の「べ平連」(ベトナムに平和を!市民連合の略)がそれに協力してスウェーデンに亡命させた事件を指します。 この後しばらくして、韓国軍を脱走した金東希が日本密入国し、亡命を求めたのでした。 「イントレピッドから金東希へ」というのはこの意味です。
今も私の手許には、大村収容所の金東希本人から68年1月8日付で送られてきた手紙がある。 当時彼の北朝鮮への「帰国先希望書」なるものの写しが出回っていたので、それを不審に思った私が手紙で質問したのに答えたものだ。 そこには、「私はまがいなく日本に亡命をねがっているものであります。 それいがい、なにものもありません」と明記されている。 おそらく、日本政府から亡命を拒否された彼は、韓国に送還されることだけは避けようと、やむなく北朝鮮への「帰国」を「希望」させられたのだろう。 (同上 147頁)
金東希には朝鮮総連も熱心に支援し、北朝鮮への亡命を勧めました。 ですから総連の勧めに応じたと考えるのが自然で、「やむなく北朝鮮への『帰国』を『希望』させられた」ということではなく、自ら望んだと思われます。 「希望させられた」とまるで本人の意思に反するようにあるのは、鈴木道彦さんの憶測でしょうね。 (続く)
【参考】
金東希については、べ平連関係者が当時のことを書いておられます。 https://jrcl.info/web/frame12.01.01g.html
【追記】
「外国人は煮て食おうと焼いて食おうと自由」は、本来は〝主権国家である以上、外国人をどう処遇するかはそれぞれの国家の自由裁量”ということを分かりやすく説明しようとして、当時に一般社会で普通に使われていた諺を用いたものでした。 例えば、“あなたの家のことに口をはさみません、煮て食おうと焼いて食おうと自由ですから”というように使われていたと記憶しています。 この諺が外国人の人権を侵害するものとして物議を醸したのでした。 50年も昔の話です。 そのおかげでしょうか、この諺は一般には使うことがなくなりましたね。 しかし今も、外国人問題を取り上げる論者が50年以上前のこの事件に言及して〝入管が外国人の人権を無視する姿勢は今も変わっていない”と主張しています。
かつて「韓国に学べ」が叫ばれた時代があった ― 2025/01/26
二十年前の2000年代初め、日本では「韓国に学べ」が流行のように叫ばれたことがありました。 韓流ブームの契機となった「冬のソナタ」より前のことです。 これを覚えておられる人は少ないでしょうねえ。 例えば当時の雑誌などには「韓国をうらやむ日本人―エステから経済改革まで」とか「韓国人気で分かる日本の失ったもの」のような見出しをつけた記事があふれていたのです。
韓国では1997年にアジア通貨危機が襲来し、時の金泳三政権はIMF(国際通貨基金)に救済を要請して国家破産をかろうじて回避しましたが、経済は大不況となり、失業者があふれかえり、自殺者が急増する事態となりました。 金泳三政権を引き継いだ金大中大統領は規制の大幅な緩和などの各種政策を断行し、この危機を乗り越えて2年後の2000年頃には経済を回復させ、韓国は元気を取り戻しました。
その時の日本はバブルが崩壊して10年ほど低迷が続いていた時期で、「失われた10年(今は失われた30年)」と言われるくらいでした。 そういう日本で、「韓国に学べ」がまるで合唱するかのように叫ばれたのでした。
まず経済面ではIT革命です。 韓国はブロードバンド普及率が世界一で、「日本はITの分野で韓国に完全に追い抜かれた」などと言われたのです。 また韓国では政府が主導してクレジットカードを普及させ、それによって消費が増大し、好景気につなげました。 一方、現金での買い物が普通である日本は「遅れている」と決めつけられたものです。
政治面では、金大中大統領は2000年に北朝鮮の金正日総書記と首脳会談を持つなど、大胆に外交路線を変えました。 それに対して日本では、「韓国に比べてわが日本は‥‥」とか「日本とは余りにも志操が違い過ぎる」とか「韓国では希望に満ちた大変革が起きているのに、わが日本では何の変化の可能性も見えない」とか言われたものです。
また韓国では2000年に総選挙が行われましたが、その時に「落選運動」というのがありました。 これは市民団体が、選んではいけない立候補者を定めて落選させようと運動するもので、20人中19人を落選させるという大きな成果を収めました。 これを見た日本のマスコミや市民団体は「韓国は世界で最も先進的な民主社会になる」と絶賛し、「韓国の落選運動に学べ」と呼びかけました。
そして2001年に仁川国際空港が開港しました。 滑走路数など規模が日本の成田や関空よりも大きいハブ空港とされ、世界の航空業界は日本よりも韓国の方を重視するようになったと言われたものです。 韓国はアジアと世界を視野に入れた戦略思考を持っている、それに比べて日本はそんな思考が欠けていると評されていましたね。
そしてまた韓国では金大中大統領以降、死刑執行を行なっていません。 金大中自身が政治活動ゆえに死刑宣告を受けたことがあったことが関係したようで、死刑への拒否感があったものと考えられています。 このために死刑廃止論者たちは、日本は韓国に立ち遅れていると批判しました。 ちょっと前までは独裁国家とされていた韓国でしたが、今は死刑執行しておらず人権国家の仲間入りをした、日本は韓国に学ばねばならない、となったのです。
以上のように2000年代初め頃の日本では、ちょっと思い出しただけでこのような「韓国に学べ」という声が叫ばれたのでした。 そして2002年の日韓ワールドカップと2003年の「冬のソナタ」を契機とする韓流大ブームへとつながっていったのでした。
今の日本では信じられないでしょう。 つい数年前の文在寅政権時代、日本の雑誌には「韓国社会の『深刻過ぎる問題点』」とか「韓国の『最大危機』、いよいよ『アメリカから見捨てられる日』がやって来る」とか「平昌五輪と韓国危機」とか「サムスン共和国の崩壊が始まった」とかの見出しを付けていて、それが売れていたのですから。
「韓国に学べ」と仰ぎ見たかと思えば、20年経ったら見下す‥‥。 日本のマスコミさんは腰が据わっていないと言うべきでしょうが、それよりもそんなことに躍らされる日本人が情けないですね。
木村幹『全斗煥』(3)―反共主義で時代に取り残される ― 2025/01/19
https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/01/11/9746259 の続きです。
木村幹『全斗煥』(ミネルヴァ書房 2024年9月)を読んで、それまで知らなかった韓国現代史の知識を多く得ることができました。 そのうち私が思い込んでいたものを訂正したことを、前回と前々回の拙ブログで紹介しました。 今回は全斗煥が有していた「反共主義」という思想について、この本で論じられていることに成程と思われたので紹介してみたいと思います。
先ずは子供時代の「共産主義」経験です。
全斗煥が(少年時に)暮らした大邱において重要だったのは、この街が「朝鮮のモスクワ」との異名を取った、左派勢力の極めて強い地域だったことである。 ‥‥ 全斗煥が中学校に入った頃の大邱では、左翼勢力の活動が依然続いていた。 多くの学校もその枠外ではなく、生徒たちをも巻き込んだ混乱が続いていた。 とりわけ全斗煥が入学した大邱工業中学校は将来の工場労働者を育成する機関であり、左翼勢力の影響力が相対的に強かった。 全斗煥は次のように回想している。 (22・25頁)
一中学校に過ぎない我が学校でも左翼分子たちによる扇動と暴力が頻発した。 理念や政治体制に敏感ではない学生たちはその様な学校の雰囲気に失望と憤怒を憶えざるを得なかった。 それは私自身も同じだった。 一部教師と上級生の中から飛び出す、授業ボイコットや反動教師の追放といった過激な言葉に、学生たちは混乱した。
ある日、左翼系列の責任者が化学の授業に乱入し、授業ボイコットを呼びかけた。 教室の外には左翼系列の上級生幹部10余名がゲバ棒を持って立っており、険悪な雰囲気が流れていた。 一部の学生はいち早く教室の外に逃げ出し、残る学生も恐怖心で息を殺していた。 私はこの状況に怒り、机を叩いて立ち上がり、左翼系列の上級生幹部に顔を向けて声を挙げた。 「俺たちの両親は苦労して学費を準備し、勉強をさせてくれている。 そうやって俺たちを学校に行かせてくれているのに、勉強しないなんて言うことがあっていいものか。 俺が責任を取るから、お前たちは安心して勉強しろ!」 (以上25頁)
このエピソードは、後に「テロの脅威の前に、あるいは命取りになるかも知れない恐怖の瞬間に、斗煥が見せた反共意識と胆力、そして筋の通った説得力はその後も長い間、校内の話題となった」と伝えられるほどのものでした。 従って全斗煥の「反共主義」の原点は、幼い時からの大邱での地域社会および学校生活での体験にあると言えます。
全斗煥は大人になって「反共主義」をさらに強化していきます。
彼の生涯において一貫しているのは、共産主義に対する敵意であり、‥‥ 陸軍士官学校に入学し、その「反共主義」を更に強化する。‥‥ そして士官学校卒業後、陸軍士官に任官した全斗煥は、この「反共主義」を自ら実践する機会を獲得した。 いち早くアメリカ式の特殊戦訓練を受けた彼は、その経験を生かして、北朝鮮からのゲリラを撃退し、ベトナム戦争で功績を挙げ、更には北朝鮮が掘った韓国内への進入用トンネルを発見して、朴正煕の寵愛を得ることに成功する。 事実、冷戦期においても、全斗煥ほどにこの時期の「共産主義」に関わる事件に、数多くの現場で遭遇した人物は稀である。その意味で、全斗煥は反共主義に影響され、反共主義の下で多くの機会を与えられ、そしてその結果、台頭してきた人物だということができる。 (334~335頁)
このように全斗煥は「反共主義」を強固にし、またそれによって世に認められた人物となったのです。 ところでこの「反共主義」の中身ですが、この本では次のように「現実的なものではなく、イデオロギー的なもの」と論じます。
全斗煥にとっての「共産主義の脅威」とは、現実のものというより、イデオロギー的なもの、そして休戦ラインを越えた「向こう側」にある、非日常的なものに過ぎなかった。 (336頁)
全斗煥にとってベトナム戦争への参戦は、憎き共産主義を最前線で葬るためのものというよりも、自らがアメリカで学んだ最新の戦術を実行し、現実の戦争を経験し、自らの軍人としての能力を向上させる為の場として理解されている。 (336頁)
同様のことは、これまた全斗煥が遭遇した1・21事件(1968年)、つまり北朝鮮ゲリラの大統領官邸襲撃未遂事件についても言うことができる。 この事件における彼の回想において顕著なのは、北朝鮮ゲリラの身体的能力に対する驚嘆であり、畏敬にも近い感情である。 そこには彼らを共産主義者として憎むのではなく、同じ軍人として優れた彼らと競い合い勝利したい、という思いに溢れている。 それはあたかも彼らを戦場での相手としてよりむしろ、スポーツ競技の相手として見るのに近い視点になっている。 (336頁)
彼(全斗煥)は二度のアメリカ留学を経験した。 このような全斗煥の経験は、朴正煕に代表されるような先立つ世代の将校の多くが、日本軍やその統制下にあった満州国軍の出身であったのとは明瞭な対照をなしている。 全斗煥が受けた陸軍士官学校第十一期生以降の教育も徹頭徹尾ウェストポイント(アメリカ陸軍士官学校)式に行なわれたものであり、彼らはそのことに強い誇りを持っていた。 (337頁)
当時は東西冷戦の真っ最中で、アメリカとソ連は激しく対立していました。 その対立は自由資本主義か社会主義(最終目標が共産主義)かのイデオロギー的なものであり、イデオロギー=観念であるからこそ、その対立は厳しく鋭いものでした。 全斗煥は共産主義の現実(経済的な行き詰まりなど)を見てではなく、当時のアメリカに学んでイデオロギーの「反共主義」を強めたのでした。 そしてそのアメリカは世界で、時には黒幕として反共謀略工作を行ない、時にはベトナム戦争のように公然と反共行動をしました。 前者の反共謀略工作として、この本では次を挙げています。
1953年のイランのモサデク政権崩壊や、1972年のチリのクーデター等、冷戦下の世界では自らの政敵に「共産主義者」のレッテルを貼りつけるシナリオの下、アメリカの支援を受けて行なわれた政変が数多く存在した。 (339頁)
1980年に全斗煥は、「反共主義」のためなら謀略も辞さないという、それまでのアメリカのやり方をまねて5・18光州事件を起こし、韓国を掌握したのではないか、と考えられます。 さらに全が大統領になって国内の民主化運動を弾圧したのも、この強固な「反共主義」の信念から来るものでしょう。
しかし1970・80年代になってデタント(東西緊張の緩和)が進み、アメリカは共産主義であってもその存在を容認する方向に変わっていきました。 すなわち、頭から相手を否定するようなイデオロギーではなく、現実をそのまま見て受け入れるようになり始めていたのです。 ところが全斗煥は反共イデオロギーに凝り固まっていたのか、そういう世界の変化についていけませんでした。
重要なのはそのような彼らが触れた「アメリカ」が、冷戦期における超大国の多様な社会における限られた部分でしかなかったことである。 だからこそ、1970年代に入り東西両陣営の融和が進み、アメリカ自身が「反共主義」的な外交政策を放棄する時代になると、全斗煥らの考え方や方針はアメリカと大きな齟齬を見せるようになってくる。 (337頁)
時代は既に1980年代に入り、「冷戦後」の時代へ向かっていたことである。 つまり世界は既に、かつてのような「反共主義」の名のもとに行なわれる露骨で剥き出しの政治工作を許容しない時代に突入していた。 (339頁)
全斗煥は政権が獲得した最大の成果であり勲章でもあった1988年ソウル五輪を守らねばならないために、「『反共主義』の名のもとに行なわれる露骨で剥き出しの政治工作を許容しない時代」のもと、国際社会の歓心を買うために、国内の民主化を認めねばならないというジレンマに陥ります。
全斗煥が憧れ学んだアメリカは、最後には彼の敵対勢力(金泳三や金大中などの民主化運動人士)を支える最大の脅威の一つとなったのである。 (338頁)
東西冷戦のなか、「反共」のためなら謀略も辞さないという昔のアメリカに学んだ全斗煥は、そのアメリカを含めて世界が変わっていっているのに、「反共主義」に固執したと言えるでしょう。 この本の最後では、次のように結論付けています。
冷戦体制が生み出した「反共主義の子」全斗煥は、時代が「冷戦後」に向かう状況の中、政権を獲得し、時代から取り残されていくことになる。 世界が冷戦に本格的に覆われたのは、長く見ても1945年から1990年までのわずか45年間。 その期間は、90年に及ぶ全斗煥の人生の半分に過ぎなかった。 「反共主義の子」がその人生を全うするには、冷戦は余りに短かった、のかも知れない。 (339~340頁)
全斗煥の前の大統領だった朴正煕は、日米欧から資本と技術を導入して産業を興す経済政策が大成功を収めて高度経済成長を実現し、それが今度は中国等の発展途上国の経済発展モデルになったという点で〝時代を先取り”しました。 しかしその次に大統領となった全斗煥は反共主義に固執して、「時代から取り残された」のでした。 全斗煥大統領の執政は大きな成果があったにもかかわらず、それをぶち壊すような過ちを犯した原因はここにありそうです。 (終わり)
木村幹『全斗煥』を読む(1)―捏造の北朝鮮軍事情報 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/01/06/9745027
木村幹『全斗煥』(2)―歴史問題は中曽根訪韓から https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/01/11/9746259
【全斗煥に関する拙稿】
全斗煥 元大統領 死去 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2021/11/23/9442532
全斗煥政権がオリンピックを誘致し成功に導いた http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2018/02/08/8784411
全斗煥の功績 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2018/02/13/8787078
オリンピック誘致で全斗煥政権を応援した日本の市民団体 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2018/01/30/8778939
芥川賞「砧を打つ女」の李恢成が死去 ― 2025/01/14
1971年に「砧を打つ女」で芥川賞を受賞した李恢成さんがお亡くなりになりました。 合掌。
「砧」は在日社会では1960年代まで打たれていたのですが、廃れてしまいました。 在日女性が砧を打つ姿を記憶している人は、今は年齢では70歳以上でしょう。
私は1990年代に在日一世の方から、もう使わなくなった砧の道具をもらい、砧について調べ、論文を書いたことがあります。 これに関し、20年ほど前に某新聞のコラムで紹介されたことがありましたので、スキャンして掲載しておきます↑。 なお個人情報部分は空白にしましたので、悪しからず。 読みにくければスキャン画像をクリックして、ズームを調整してください。
拙ブログでも「砧」について新たな資料等を紹介しましたので、お読みいただければ幸甚。
【砧に関する拙稿】
砧(きぬた)―日本の砧・朝鮮の砧― http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daihyaku18dai.pdf
日本人に伝わった朝鮮の「叩き洗い」洗濯文化 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/11/07/9631945
砧を頂いた在日女性の思い出(1) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2020/09/21/9297618
砧を頂いた在日女性の思い出(2) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2020/10/07/9303008
砧を頂いた在日女性の思い出(3)―先行研究 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2020/10/12/9304894
砧を頂いた在日女性の思い出(4)―宮城道雄 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2020/10/22/9308333
砧を頂いた在日女性の思い出(5)―宮城道雄(2) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2020/11/02/9312276
朝鮮で活躍した宮城道雄 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2012/05/05/6435151
「演歌の源流は韓国」論の復活 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2012/01/10/6285379
第66題 砧(きぬた) http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/dairokujuurokudai
第90題 朝鮮の砧 http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daikyuujuudai
第106題 砧 講演 http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daihyakurokudai
第107題 砧 講(続) http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daihyakunanadai
第108題 「砧」に触れた論文批評 http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daihyakuhachidai
第109題 ネットに見る「砧」の間違い http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daihyakukyuudai
第114題 韓国における砧の解説 http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/hyaku14dai
第115題 다듬이 http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daihyaku15dai.htm
第118題 砧―日本の砧・朝鮮の砧 http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daihyaku18dai.pdf
北朝鮮の砧 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2007/12/22/2523671
砧という道具 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2008/01/05/2545952
韓国ロッテワールドの砧 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2010/05/11/5080220
韓国ロッテワールドの砧のキャプション http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2010/05/12/5082741
砧―日本の砧・朝鮮の砧 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2013/07/05/6888511
角川『平安時代史事典』にある盗用事例 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2007/04/07/1377485
「砧」と渡来人とは無関係 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2007/04/14/1403192
「砧」の新資料(1) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2012/12/09/6655266
「砧」の新資料(2) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2012/12/10/6656721
「砧」の新資料(3) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2012/12/11/6657527
「砧」の新資料(4) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2012/12/13/6659222
「砧」の新資料(5) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2012/12/14/6659970
「砧」の新資料(6) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2012/12/16/6661166
佐藤春夫の「砧」 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2016/02/05/8008944
韓国の足踏み洗い http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2007/08/18/1733824
韓国ドラマにおける洗濯場面 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2007/11/23/2453257
木村幹『全斗煥』(2)―歴史問題は中曽根訪韓から ― 2025/01/11
https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/01/06/9745027 の続きです。
日本と韓国は歴史問題でこれまでずっと摩擦を続けてきたし、これからもなかなか収まりそうもありません。 ところで日本側の認識では1965年の日韓条約で歴史問題は「最終的かつ完全に解決」としてきたのですが、韓国側ではくすぶり続けてきました。 歴史問題が日韓の外交問題に浮かび上がったのは、全斗煥大統領の時からです。
全斗煥大統領は1984年に日本を国賓訪問した時、天皇から植民地支配を謝罪する言葉が欲しいと要求し、すったもんだの末、宮中晩さん会の際の天皇陛下が挨拶に「両国の間に不幸な過去が存したことは誠に遺憾」と述べたことで一旦は決着しました。
しかしその次の盧泰愚大統領が国賓訪問した際、韓国側は前の全大統領の時よりも〝さらに一歩踏み込んだ謝罪“の言葉が欲しいと要求し、これもすったもんだの末、天皇陛下は「我が国によってもたらされたこの不幸な時期に、貴国の人々が味わわれた苦しみを思い,私は痛惜の念を禁じえません」という言葉を述べました。 これで歴史問題は決着してもう問題化しないと思いきや、その後の慰安婦問題等々で、日韓関係は泥沼状態からなかなか抜け出せずに今に至っていることは周知だと思います。
以上の経過から、日韓の歴史問題の原点というか出発点は1984年9月の全斗煥大統領国賓訪問の時であると、私は思ってきました。 しかし木村幹『全斗煥』(ミネルヴァ書房 2024年9月)によれば、出発点はそれより以前にあるということを知りました。
日本の現職首相の韓国訪問は‥‥1983年1月の中曽根康弘による訪問が初めてであった。 ‥‥ここで今日の日韓関係にまで繋がる大きな出来事がひとつあった。 それは韓国側が首脳会談において、中曽根からの「過去の反省」の言葉を求めたことである。 結果、中曽根は晩さん会の場で次のように述べている。
他方、日韓両国の間には、遺憾ながら過去において不幸な歴史があったことは事実であり、我々はこれを厳粛に受け止めなければなりません。 過去の反省の上にたって、わが国の先達はその英知と努力によって一つ一つ新しい日韓関係のいしずえを築いてこられました。
会談終了後、全斗煥は韓国国会にてこの首脳会談を次のように評価している。
日本首相のわが国への初の公式訪問を通じて両国政府は、昨日を反省し、明日を設計するについて志を同じくした。‥‥
今日において重要なのは、ここにおいて韓国側がこの首脳会談を本来の目的であった「経済協力」問題や朝鮮半島の平和と安定について議論することに加えて、「過去の不幸な歴史」を巡る問題を解決するものとして明確に位置づけ、また日本側の「反省」を求めたことである。 李承晩や朴正熙が訪日した際に行われた首脳会談では、韓国側は同様の「反省」を求めてはいないから、ここに大きな変化が存在することが分かる。 (以上 『全斗煥』 255~256頁)
1983年1月に訪韓した日本の中曽根首相は、韓国側が「過去の反省」を求めてきたのに応じて、「過去において不幸な歴史があったことは事実であり‥‥過去の反省の上にたって‥‥」と挨拶したのでした。 このような日韓間のやり取りが起きた背景には、前年8月にいわゆる教科書問題(「侵略」を「進出」に書き換えた)で日本が中国や韓国から批判を浴びた事件がありました。 これがあったからこそ、日韓首脳会談で歴史問題について韓国側が要求しそれに日本側が応じたという経過になったのです。 歴史問題が日韓首脳外交に取り上げられたのは、この時が初めてでした。
そして韓国側は中曽根首相の「反省」の挨拶を外交的勝利ととらえたようで、翌年の1984年大統領国賓訪問時にも要求して天皇陛下の「遺憾」発言を引き出したと考えられます。 『全斗煥』では次のように記しています。
このような全斗煥政権の姿勢がさらに明確になるのが、この中曽根訪韓の塀例を意味をも込めた訪日においてであった。‥‥ 全斗煥が重要視し、また韓国の世論も注目したのが、戦前に大日本帝国の元首として朝鮮をも君臨した、昭和天皇自身からの謝罪の表明であった。 全斗煥の訪日は、韓国の国家元首として初の公式な国賓訪問であり、当然それを迎える歓迎晩さん会は、国際慣例上は元首格として扱われる天皇の主催によって行われる‥‥ そこでは天皇による歓迎スピーチが予定されており、韓国側はここに植民地支配に関わる文言が入ることを強く期待した。
日本側は抵抗した。‥‥天皇が過去の問題について自らの意見を述べるのは「天皇の政治利用の禁止」を定める憲法の規定に反する、と主張したからである。 しかし韓国側は天皇による植民地支配に関わる発言を執拗に要求し、結果、1884年9月6日に行われた晩さん会で昭和天皇は、「今世紀の一時期において両国の間に不幸な過去が存在したことは誠に遺憾であり、再び繰り返されてはならないと思います」と述べることになった。 (以上 256~257頁)
結局、日本側は韓国側の「天皇の謝罪」要求を受け入れました。 そして韓国政府はこれを了承したのですが、韓国のマスコミは〝これでは謝罪になっていない”と厳しく批判し、世論を誘導していきます。
韓国メディアの多くは昭和天皇が用いた「遺憾」という言葉は謝罪を意味しておらず、韓国側が要求した条件を満たしていない、と批判した (257頁)
韓国では歴史問題で日本に対する厳しい世論が盛り上がります。 この世論を背景に、日韓の外交では韓国側が要求し日本側が謝罪するという「パターン」が生まれました。
重要なのは、こうして日韓両国が二回の公式首脳会談を通じて、外交関係における歴史認識の重要性を再発見し、会談ごとに日本側が謝罪の意思を示す、という一つのパターンが出来上がったことである。 (259頁)
この「パターン」は全斗煥大統領時代に生まれ、継続・拡大していきました。 次の盧泰愚大統領では1990年の国賓訪日時に更に強く要求し、「痛惜の念」という天皇陛下の言葉を引き出したのです。 つまり韓国がより強い「おわび」の要求を日本にしたら、日本はそれに応じてより強い反省で答えたのでした。 このようにして韓国側は歴史問題で日本に要求し、日本側はその要求に応じるという外交「パターン」が定着しました。 韓国の大統領が替わるたびにこの「パターン」が繰り返されたのでした。
そしてついに、2012年には時の李明博大統領が「痛惜の念とかいう言葉で誤魔化すな」と天皇発言を否定し、「天皇は韓国に来たければ独立運動家に謝罪しろ」と言うくらいに激化しました。 さらにその次の朴槿恵大統領は2013年に、「(日本と韓国の)加害者と被害者という歴史的立場は、1000年の歴史が流れても変わることはない」と、1000年経っても解決しないとまで発言したのでした。
以上を振り返ってみると、〝日韓外交の失敗”は1984年の全斗煥大統領の訪日ではなく、それより前の1983年の中曽根康弘首相訪韓の時から始まったと言えます。
『全斗煥』を読んで、韓国現代史の知識を改めねばならないところです。 (続く)
木村幹『全斗煥』を読む(1)―捏造の北朝鮮軍事情報 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/01/06/9745027
【日韓歴史問題に関する拙稿】
韓国で歴史問題が国内政治化したのは2003年から https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/03/21/9474297
韓国が対日請求権解釈を変えたのは1992年から http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/03/15/9472590
韓国では日本の存在感はない http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2018/02/17/8789342
韓国の反日外交の定番 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/01/22/7546410
世界で唯一日本を見下す韓国人 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2016/10/06/8216253
中韓は子供と思って我慢-藤井裕久 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2013/12/27/7157809
実は韓・中を見下している「毎日新聞」社説 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2014/02/19/7226754
毎日新聞 「“強い国”こそが寛容に」 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2014/06/15/7344974
韓国を理解できるか https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/02/14/7572016
木村幹『全斗煥』を読む(1)―捏造の北朝鮮軍事情報 ― 2025/01/06
昨年(2024)の朝鮮半島は大きく揺れましたね。 ①1月、北朝鮮が「韓国は敵だ」として統一を放棄。 ②11月、北朝鮮軍がウクライナ―ロシア戦争に参加。 ③12月3日、韓国の尹大統領が非常戒厳令を宣布したことに端を発して、韓国の政局が大混乱。 この余波はまだまだ続くようです。 ④12月29日、韓国の務安空港で飛行機事故により179人死亡。 朝鮮半島は激動の時代を迎えているようです。 目が離せませんね。
そんなことはともかく、拙ブログを続けます。 木村幹『全斗煥』(ミネルヴァ書房 2024年9月)を購読。
全斗煥は韓国では非常に評判が悪いですが、大統領時代にソウルオリンピックを誘致し、北朝鮮からの露骨な妨害に耐え抜いてオリンピックを成功へ導き(ただし開催前に退任)、韓国経済の高度成長を持続させ、そして韓国の世界的地位を高めて次の盧泰愚時代にソ連・中国等との国交樹立に繋げるなどの業績は評価せねばならないと考えています。
全斗煥 元大統領 死去 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2021/11/23/9442532
全斗煥政権がオリンピックを誘致し成功に導いた http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2018/02/08/8784411
全斗煥の功績 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2018/02/13/8787078
オリンピック誘致で全斗煥政権を応援した日本の市民団体 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2018/01/30/8778939
ところで木村幹著『全斗煥』を読んで、全斗煥について私の知らなかった事実を多く知ることができました。 今はこれらのうち、私が全斗煥について思い込んでいたことがこの本によれば実は違っていた、ということを書きたいと思います。
1979年12月の粛軍クーデターで韓国全軍を掌握した全斗煥は、翌年5月17日に非常戒厳令の拡大や金大中ら有力政治家の逮捕など、軍がすべてを支配するというクーデター(5・17クーデター)を起こしました。 これに対し光州では学生らが反発して軍部隊と衝突したのが1980年5月18日の光州事件(「5・18光州民主化運動」と呼ばれる)です。
この5・17クーデターについて全斗煥は、“北朝鮮が戦争を仕掛ける”という情報があったということを理由としました。 私は、“それはあり得るだろう、北朝鮮と長年に渡って対峙してきた韓国軍なのだから北朝鮮情報は確かだろう”と思っていました。 ところがこの本では次のように記されています。
(1980年)5月10日午前、日本の内閣情報調査室から極秘の情報が来た、と全斗煥の『回顧録』は記す。 彼によればその内容は以下のようだった、という。
「北朝鮮は、韓国政府が1980年4月中旬、金載圭を処刑すると予想していた。 そして金載圭処刑時に激しい抗議デモが発生し、決定的な機会が訪れると判断し、南侵の時期を4月中旬頃に予定した。 しかし、金載圭の処刑が遅れたことにより、この計画を延期し、5月に入って学生と労働者の騒乱が激化すると、北朝鮮は韓国国内の騒乱事態が最高潮に達すると予想される1980年5月15日から5月20日の間に、南侵を敢行することを改めて決定した。」
全斗煥はここから「情報を分析した結果」北朝鮮が仕掛けてくるのは、正規戦ではなく非正規戦だと判断した、と『回顧録』に記述する。 即ち、北朝鮮の正規軍が休戦ラインを肥えて侵攻するのではなく、学生運動や労働争議に紛れる形で韓国国内に浸透し、韓国政府を転覆させようとするのだ、というのである。 (以上 木村幹『全斗煥』ミネルヴァ書房 2024年9月 167~168頁)
つまり北朝鮮が南侵するという情報は韓国軍が探知したものではなく、日本から、しかも内閣情報調査室から提供されたものだというのです。 北朝鮮軍事情報を韓国軍が知らないで日本が先に知っていたなんて、常識的に言ってあり得ないです。 しかも自衛隊ではない内閣情報調査室が韓国軍に直接通報したとなると、これは更にあり得ないです。
この北朝鮮情報を知らされた韓国の野党政治家は、アメリカに本当かどうか問い合わせます。
しかし、政治家たち、とりわけ野党の政治家たちは‥‥この「情報」と「分析」を信じなかった。 野党党首の金泳三は即日、アメリカ大使館を訪問し、ここから韓国政府の伝える北朝鮮の韓国侵略説は妄説だとする情報を得た、と発表した。 慌てた全斗煥は、翌5月13日、米韓合同司令部を訪問し、この点を確認しようと試みるも、アメリカ側の反応は、「米韓合同司令部は北朝鮮による侵略がひっ迫しているという情報は持っていない」という突き放したものだった。 (同上 168頁)
アメリカは“北朝鮮が侵略する”という情報を否定したのでした。 とすると日本の内閣情報調査室から提供されたとする情報は本当なのかという疑問が出てきたはずと思うのですが、全斗煥は突っ走りました。
(5・18光州事件前日の)5・17クーデターについて、全斗煥は次のように述懐する。(『回顧録』)
「韓国への侵略という内容の極秘の情報を受け取った私は、学生たちの抗議行動が流血事件を引き起こし、野党勢力が最終通牒を政権に突き付ける状況に至り、この極端な社会不安が北朝鮮の誤った判断を引き起こす可能性があると考えた。 また、中央情報部長署理と保安司令官を務める立場から、国家の危機を収拾するため、自ら積極的な役割を果たさなければならないという責任感を再確認せざるを得なかった。 日本を通じて入手した極秘の情報は、韓国への侵略を決定した北朝鮮が、とりわけ大学での紛争を「導火線」として利用するという内容のものであり、北朝鮮による挑発と大学での紛争はもはや切り離せない関係になっていた。」 (以上 186頁)
「日本を通じて入手した極秘の情報は、韓国への侵略を決定した北朝鮮が、とりわけ大学での紛争を『導火線』として利用するという内容」というのは、軍事同盟国でもない日本からの情報ですから本来は確認を取らねばならないところだったでしょう。 しかし全斗煥はそんなことをせずに5・17クーデターを起こしました。 そしてこれが翌日の光州事件(5・18光州民主化運動)へ繋がっていったのでした。 ですから全のクーデターの口実に、日本が利用されたということです。 とすると、「日本を通じて入手した極秘の情報」というのは誤情報というものではなく、最初から捏造だったのではないかという疑問が生まれます。
光州事件について私は、“北朝鮮の侵略に韓国内の学生らが呼応しようとしていたから、全斗煥が危機意識を持って韓国軍を動員して対処しようとしたところ、市民が反発して事件が起きた”と思っていたのですが、それは間違いだったようです。 全斗煥はクーデターを起こして権力を掌握する際の口実に、“日本から北朝鮮侵略情報が通報された”という話を捏造したのだろうと思われます。 私の韓国現代史の知識を改めねばならないところです。 (続く)
【光州事件に関する拙稿】
光州事件は民主化運動として普遍化できるのか? https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2018/05/25/8859204
光州事件の方がましだった―朝日ジャーナル(2) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2018/01/20/8772995
光州事件のほうがましだった―朝日ジャーナル http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2018/01/15/8769881
「5・18光州事件」小考 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2017/10/25/8712337
1970~80年代の韓国民主化連帯闘争 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2011/01/16/5639024
韓国在住華僑の現在(2) ― 2024/12/30
https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/12/25/9741920 の続きです。
―いっそ帰化を選べばいいのではないですか。
「帰化の敷居は余りにも高い。 うちの次男と嫁も帰化の試験に二回も落ちた。 例えば、帰化試験に1947年にボストンマラソンで優勝した韓国人(徐潤福)が誰かという問題。 我々は孫基禎選手(1936年ベルリンオリンピック マラソン優勝者)を知っていても、正直言って他の選手はよく知らないのではないか。 ほとんどの韓国人も答えられないのだ。 韓国に暮らす在韓華僑たちは、韓国に最も愛情を感じている親韓派だ。 在韓外国人の中で、犯罪率も一番低いと知られている。 私も母が韓国人で、在韓華僑たちは、妻や嫁が韓国人である場合も多い。 活動する時も韓国語をたくさん使う。 こんな人たちには帰化に加算点とは言わなくても、試験なんかもちょっと易しくしてくれればいい。」
ここは日本の帰化試験とは違いますね。 日本では社会で意思疎通ができるかどうかの日本語テストで、小学3年程度の日本語能力を試験します。 日本の高校や大学を卒業していれば、免除されることがあります。
一方、韓国では韓国人としての常識があるかどうかのテストになりますが、ここにあるように韓国人でも普通知らないような事柄が試験に出ます。 韓国の新聞にはこんな帰化試験問題を紹介して、「これが韓国人の資格なのか?」と揶揄する記事がありましたね。 https://www.kmib.co.kr/article/view.asp?arcid=0016487244
―現在、漢城華僑協会の会員数はどれくらいですか。
「全国的には1万9千人、ソウルには約9千人前後だった。 だんだん減っていく趨勢であるが、最近は6千人まで落ちた。 過去に朴正熙政府の時に推進した政策が原因で、多くの在韓華僑たちが海外に移住したのが、第一次人口流失だった。 華僑三~四世代たちになって、台湾国籍を敢えて不便でも持っていなければならない理由がなくなってきている。 実は我々の世代ぐらいでは「私は中国人」という概念を持っているのだが、華僑三~四世代たちはそんな概念が弱くなっている。 年取った方たちも、海外旅行に行くのに不便だという理由で多くが帰化を選んでいる。 うちの妻の親戚たちは八親等もみんな帰化した。 過去には韓国に国籍を変えれば、後ろ指をさされる雰囲気もあったが、このごろはむしろ羨ましがる雰囲気だ。」
在韓華僑が大きく減る原因となった「朴正熙政府の時に推進した政策」は、是非知ってほしいものです。 朴正煕大統領は1961~1979年の18年間、韓国を統治しました。 その時に華僑を抑圧する政策を施行したのです。 具体的にいうと、土地所有・営業店舗・株式保有の制限、農地所有・貿易商・定期刊行物発行・金融機関設立の禁止などです。 すなわち会社経営や不動産取得を厳しく制限して、例えば中華料理店は個人経営の小店舗だけに限るようにしたのです。 また華僑たちが集まって組織化されることも阻止しました。 このために華僑たちの多くが国外に脱出し、日本や台湾、アメリカなどに移住しました。 仁川にあった中華街はこの時に廃れたそうです。 在韓華僑は1970年に3万2千人、1980年に2万7千人、1990年に1万9千人と減りました。
この時期の日本では在日韓国・朝鮮人への民族差別に反対する運動が盛んでしたが、“本国の華僑差別は問題にしないのか“という批判がありましたねえ。 当時の運動団体の主張では“自分たちは日本の政府や社会を相手とするものだ”ということで、本国での華僑差別には全くの無関心でした。 彼らの人権感覚は日本国内の自分たちの問題に限られていて、本国には考えが及ばなかったのです。
「過去には韓国に国籍を変えれば、後ろ指をさされる雰囲気もあった」というのは、初めて知りました。 在韓華僑社会では帰化を否定していたのですねえ。 これは在日韓国人が帰化を民族の裏切りと指弾して否定していたことを想起させるものです。 どちらも過去の話でしょうが、共通点があることに驚きました。
―ソウル延禧洞にある漢城華僑中学・高校の全面的な再整備に着手しましたが、子女の教育問題はどうですか。
「在韓華僑たちも、韓国と同じ学齢人口の減少問題を同じように抱えている。 外国人学校という特性と韓国の教育関連法令の制限、台湾政府の支援を全く受けられない自立型教育団体であるところから、色んな難しさがある 。 今度、日本の「甲子園」で優勝した韓国系の京都国際高校のように、韓国の教育制度に編入されて、多文化教育に特化したポジショニングを通して、韓国社会の融合にプラスになるように、制度改善も推進する考えだ。」
ここで日本の京都国際高校が出てきたのにはビックリ。
―台湾国籍の「旧華僑」と、中国国籍の「新華僑」の関係をどのように定めるお考えですか。
「同文同種という言葉がある。 在韓華僑たちの国籍は、台湾(中華民国)であるが、本籍は中国の山東省だ。 また我々を養育し、生活を営む所は大韓民国だ。 徐々に融和をしていかねばならないのではないか。 実際に、個人的に親しい関係はいいのだが、政府的な次元で入っていくと問題となる。 分かりやすく言えば、在日韓国人のうち民団(韓国系)と朝鮮総連(北朝鮮系)関係を思い浮かべればいい。 ある程度時間が必要ではないか。」
「旧華僑」とありますが、昔は「老華僑」と呼んでいました。 この記事にある「華僑協会」の会員とほぼ重なりますね。 そして1992年の韓中国交正常化に伴い、多くの中国人が韓国に渡ってきました。 これが「新華僑」です。 大半が中国吉林省等出身の朝鮮族です。
「旧華僑」と「新華僑」は、前者が「台湾」国籍の漢民族、後者が「中国」国籍の朝鮮民族と違っています。 「徐々に融和をしていかねばならない」とあるように、今のところ両者は仲があまり良くないようです。 記事ではこの関係を在日の「民団」と「朝鮮総連」になぞらえて説明するところにもビックリというか新鮮ですね。
ちなみに韓国の新華僑=中国朝鮮族はコロナ禍前の2019年に54万人だそうで、旧華僑を圧倒しています。 韓国のニュースでは、韓国人の新華僑に対する差別が時おり報じられますね。 (終わり)
【拙稿参照】
韓国在住華僑の現在(1) https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/12/25/9741920
『華僑のいない国』―「週刊朝鮮」の書評 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/10/31/9629925
在日韓国人と華僑―成美子 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2018/09/25/8964788
韓国における外国人差別 http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daigojuugodainoichi
合理的な外国人差別は正当である http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daiyonjuukyuudai
韓国在住華僑の現在(1) ― 2024/12/25
韓国の週刊誌『週刊朝鮮2832号』(2024年11月4日~)に、韓国に在住している華僑のインタビュー記事(イ・ドンフン記者)が出ていました。 在韓華僑と在日韓国人とを比較してみると興味深いです。 主要部分を訳してみました。 ところどころで私のコメントを挟みます。
華僑協会選挙に挑戦した「黒白調理師」呂敬来 親韓派在韓華僑たちは韓国でも大きな財産
国内の中華料理業界の第一人者に選ばれる呂敬来シェフが、漢城華僑協会選挙に挑戦する。 最近、世界的に人気を引いているネットフリックス番組の「黒白調理師」を通してよく知られている50年の料理経歴を持つ呂敬来シェフは、台湾国籍の父親と韓国国籍の母親の間に生まれた台湾国籍の在韓華僑である。 ‥‥
「漢城」とはソウルのこと。 日本ではかつて「京城」と呼んでいましたが、中国では昔から「漢城」でした。 これは今も続いています。 昔日本では、「京城」は差別語だから使うなと騒ぐ市民団体がありました。 その時、中国は「漢城」とまるで“中国の城”のように言うのに、これは構わないのかと反論する人がいましたねえ。
漢城華僑協会は台湾政府の指導監督を受けて、在韓華僑の出生・死亡・戸籍など各種行政事務を代行する、一種の半官半民団体である。 漢城華僑協会は、旧韓末に起きた壬午軍乱(1882)の時に、清軍とともに朝鮮半島にやって来た在韓華僑たちが、その間蓄積した不動産などの固有財産を実質的に管理してきた主体として、現在ソウルだけで1万人近い会員を擁しているものと知られている。
1992年、韓中国交と同時に韓国が台湾と断交してから、中国政府も在韓華僑たちを包摂するために、「統一前線」次元で漢城華僑協会との接点を増やしてきた。 これに漢城華僑協会の次期指導部がどんな人物で構成されるのかは、駐韓中国大使館と駐韓台北代表部(台湾大使館格)など、両岸の焦眉の関心事でもある。 ‥‥
呂敬来シェフが現在副理事長である漢城華僑中学・高校は、在韓華僑子女たちが通う学校である。 学校の裏山には、壬午軍乱の時に清軍を率いて朝鮮半島に渡ってきて在韓華僑たちの始祖とされる呉長慶提督の祠堂である「呉武荘公祠」もある。 後日に朝鮮総督として君臨し、中華民国初代大総統までなった袁世凱も、呉長慶の麾下の幕僚の一人だった。 ‥‥
韓国の華僑の歴史が140年以上前の1882年の「壬午軍乱」から始まることは、覚えておいておかねばならないものです。 そしてその数年後の1880年代末に、仁川で中華街(チャイナタウン)が形成されたといいます。 さらに「袁世凱」という、日本近代史に登場する人物が出てきました。 袁世凱は朝鮮近代史でも重要人物です。
華僑は中華民国国籍でした。 1937年から始まる日中戦争の時は敵国民になりそうですが、実は日本は中国に宣戦布告しておらず、また中華民国でも汪兆銘政権(傀儡と言われています)を承認していましたから、敵国民扱いをしなかったようです。
次からは、彼との一問一答。‥‥
―原籍はどこで、祖先たちはいつ朝鮮半島にやって来たのですか。
「原籍は中国の山東省日照で、私が生まれた所は京畿道水原だ。 父の時に韓国に渡ってきた華僑二世だ。 ただし父は私が6歳の時だったか、早く亡くなって、詳しい話は聞けなかった。 光復(1945年)以前に韓国に渡ってきたが、朝鮮戦争が勃発したために帰れなかったと聞いた。 このようにして韓国に定着するようになった。」
朝鮮植民地時代の華僑は1930年頃には6万7千人程でしたが、1931年の「万宝山事件」によって激減し3万7千人になりました。 その後また増加して、1945年の解放時は約8万人だったとされています。 華僑は主に朝鮮半島の対岸である山東省から来ており、呂敬来さんも親が山東省出身だと明かしています。 「万宝山事件」は韓国人があまり触れたがらない有名な事件です。 だからでしょうか、この記事には「万宝山事件」が出てきません。 関心のある方はお調べください。
解放後、朝鮮が南北に分断されたために華僑も分断されました。 また中国本土では国共内戦が勃発し、韓国は国民党(蒋介石)側であったため、韓国に亡命する中国人が相次ぎました。 そして1950年から始まる朝鮮戦争で、さらに混乱していきました。
―弟さんの呂敬玉シェフは韓国に帰化したと聞いたが、台湾国籍では不便はないですか。
「弟の呂敬玉シェフ(前ロッテホテル中国料理「トリム(道林)」の総括シェフ)は、早くに韓国に帰化した。 弟は妻の親戚である侯徳武シェフ(前新羅ホテル中国料理「パルソン(八仙)」の総括シェフ)が帰化したので、本人も帰化したものと思う。 私は、実は帰化の必要性を感じないのだが、年月が経って子供たちが大きくなってきたから、不便を感じる。 子供たちが会社に就職しても国籍問題でビザの発給に困難が伴う。 海外出張などに、色んな難しさがある。」
―具体的に、海外出張がなぜ難しいのですか。
「台湾に戸籍がある旅券は台湾のノービザ協定が適用されるが、在韓華僑たちの台湾旅券はノービザ協定が適用されない。 たとえ会社から明日ヨーロッパに出張に行けと命令されれば、ビザが必要だ。 韓国人たちはほとんどの国家にビザが必要ないが、我々の場合は当該国家のビザ発給部署が韓国ではなく東南アジアにある。 そんな場合、我々はビザをもらうために追加で何日か必要になる。 自然と競争力が落ちて、現実的な不便のために帰化をする人も多い。 私も以前にヨーロッパやアメリカに行く時、ビザの問題で相当に難しかった。」
―台湾政府の方に不便だと訴えてみましたか。
「台湾政府側にずっと要求しているが、簡単でない。 実は韓国だけでなく、ベトナムなどの東南アジアでも台湾に戸籍はないが台湾国籍を持った華僑たちが多い。 公平の原則によって、韓国にだけ便宜をはかれば「誰かはしてあげて、誰かはしてあげない」と混乱が発生することもあり、容易くしてやれない政策的困難があるのだと分かった。」
在韓華僑はもともと中華民国(台湾)国籍なのですが、だんだん韓国に帰化する人が多くなっているようです。 台湾は世界的に承認している国家が少ないので、在韓華僑たちが海外に出る時にビザの取得でかなり苦労しているようです。 (続く)
【京城に関する拙稿】
第79題 全外教の歴史誤解と怠慢―「京城」について― http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/dainanajuukyuudai
第62題「京城」は差別語ではない http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/dairokujuunidai
第24題 「差別語」考 http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/dainijuuyondai
京城と名前 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2007/10/13/1851214
朝日の歴史無知 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2007/10/20/1861618
韓国で今も使われる「京城」―朝日の間違い http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2012/10/03/6591244
趙甲済、48年前の投稿―「京城」は誤り https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2018/03/17/8805084