英国チャールズ3世のトンデモ行状―『週刊朝鮮』2022/09/29

 今回はこれまでのような韓国・朝鮮とは関係のない話です。

 『週刊朝鮮2725号』(2022年9月19日)に、「〝コーヒー浣腸″にのめり込んだチャールズ3世即位 イギリス医療界緊張」と題するコラムがありました。 英国の新国王チャールズ3世が皇太子時代にエセ医学療法を信じて、健康保険適用までさせていた事件があったという内容です。

 これは日本ではほとんど報道されていませんが、韓国の『週刊朝鮮』という有力誌に載りましたから真っ赤なウソではないでしょう。 イギリスのマスコミではどう報道されているのでしょうか、それがあれば記事の信ぴょう性がどれほどなのかを確かめられるのですが。

 『週刊朝鮮』の記事を翻訳してみました。 執筆者はパク・ハンスルという人です。

――――――――――――――――――――――――――――――――――――

〝コーヒー浣腸″にのめり込んだチャールズ3世即位 イギリス医療界緊張

 去る9月8日(現地時間)イギリス女王エリザベス2世が逝去した。 70年の間に15人の総理が入れ替わった国王の死である。 彼女の逝去のニュースに世界各国から哀悼の意を表す行列が続いているが、葬儀よりもゴシップに関心が多い人たちはもう彼女の後を継ぐ人に注目している。 イギリスの歴史上、最も長く皇太子を務めた悲運の男、チャールズ3世がその主人公だ。

 チャールズ3世は、悲劇的な死を迎えた故ダイアナ皇太子妃のために元々大衆からの評判が悪かった。 ダイアナの死にまつわる多くのミステリーはもちろんのこと、彼女の死亡前から自分と不倫関係であったカミラと再婚までしたのだから、ただでさえ怒っていた世論に更に火に油を注いだのだ。 もう25年経ってはいるが、今でもあの事件が大きな話題となっているくらいだから、事件の余波がどれほど大きかったかを知ることができる。 ところでチャールズ3世が大きな非難を受けねばならないことが、もう一つある。 それは彼が王室の権威を不適切なやり方をして、イギリスの医療界に大きな害悪を及ぼしたからだ。

 国内ではそれほど知られていないが、西欧圏ではそれなりに知られているエセ医療法がある。 「同種療法(ホメオパシー homeopathy)」という名前の治療法(?)であるが、簡単に説明すればこうである。 プールで醤油を一滴落としたとしよう。 醤油の一滴を落としたから、そのプールの水は醤油だと言うことができるか。

「コーヒー浣腸」で抗ガン治療をしようと言ったチャールズ3世

 同種療法を信じる人たちは「そうだ」と言う。 更にはそのプールの水を汲んで他のプールに一滴落とせば、そのプールもまた醤油だと主張する。 こんなやり方で数百~数千倍に希釈した実質「真水」を薬草成分のある水だと主張して売るのが、彼らのエセ医療人の事業モデルだ。 自分たち同士でそのように信じているならば、それはどうすることもできない。    問題はチャールズ皇太子が以前からこの同種療法に心酔していたという事実である。 平凡な個人ならば変なことを信じているとして大きな問題にならないだろうが、彼はイギリス王室の次期王権継承者である皇太子だった。 彼がその関連行事にずっと参加し続けて支持を表明すると、エセ療法を胡散臭く思っていた人さえもそれに関心を寄せ始めた。

 有名インフルエンサーが正体不明の健康食品を宣伝すればその追従者たちが関連製品を購入するのと同じように、イギリス王室に対する信頼と厚意がとんでもない方向に動くことになった。 一歩退いて考えれば、ここまでは大きな問題ではないと言うことができるだろう。 しかし2004年に大事故が起きる。 チャールズ皇太子が全イギリスの抗がん治療専門医を集めておいて、「コーヒー浣腸」を宣伝したのだ。

 彼が主張したコーヒー浣腸というのは、こういうものだ。 がんは体に毒素が溜まってできる病気であるが、コーヒーを肛門から注入して腸をきれいに掃除すれば、そんな毒素が抜け出て抗がん治療になるという論理だ。 これを「ゲルソン療法(Gerson Therapy)」と呼ぶが、当然ながら医学的検証を経ていないエセ医学であり、かえって健康を害することもある危険な方法である。

 公式の医学学会の場で皇太子の口を通してそんな荒唐無稽な主張が出るや、それまでイギリス王室と皇太子の権威を尊重して彼のとんでもない主張に沈黙で対応してきたイギリスの医師たちが声を上げた。 当代最高の医学権威者のうちの一人であるマイケル・バウム ロンドン大学名誉教授は、イギリス医学ジャーナル(BMJ)で公式に皇太子の言動に反駁する声明を出した。 「尊敬する皇太子様、あなたが間違っておられます」と。

 「皇太子様が自分の権威を利用して、難治病患者たちに検証されていない治療の使用を勧めるのは、ご本人の権威が医学的知識ではなく、血統から来るものだということを認めて、注意してお使いください。」 問題は、彼は厳しく批判されも同種療法に対する信用を全く止めなかったということだ。

エセ療法を保険適用するように圧力行使

 チャールズ皇太子は公開の場で反発され恥をさらしたのだが、自分の影響力を使って自分が信じているエセ療法をイギリス健康保険が公式に支援するように圧力をかけた。 その試みとしてチャールズ皇太子は2007年イギリス保険部長官に書信を送ったのだが、情報公開請求でこのような圧力をかけた事実が暴露された。

 医療界と科学界からの攻撃にも拘わらず、彼は書信で自分の信じるエセ医学こそが不治の病の患者たちを治療するのだと主張し、「イギリス健康保険(NHS)からこの療法に支援を送らねばならない」と主張した。 この時期に色んな閣僚や有力議員たちに同じやり方で自分の意思を込めた書信とメモを送った。 そして驚くことに、彼の圧力行使は受け入れられたのだ。

 結果だけを見れば、2010年にイギリス健康保険から同種療法を最終的に外す時まで、イギリス国民は「真水」に年間4600万ポンド(約737億ウォン)の税金を浪費した。 イギリス健康保険は別途に健康保険料を集めるのではなく、国民の税金を財源に充てたのである。    このように皇太子の身分でもって、自分が信じている間違った信念を実現するために不当な圧力を行使した皇太子が国王の席に上がるとしたら、どうなるのか。 実際に彼は最近の2019年でも同種療法協会の公式後援者をしており、彼のエセ療法に対する信用は冷めていないことを証明しているのである。 その間に見せた彼の行状から推し量ると、即位後には皇太子の頃よりももっと積極的にエセ療養の宣伝を繰り広げる可能性がある。

 イギリス王室が国民の支持と尊敬を受ける理由は王室の人たちが政治に関与せず、象徴的な国家元首として国民統合の機能を遂行してきたからである。 しかし、母のエリザベス2世とは違ってチャールズ3世が積極的に自分の意思を披歴するならば、自国の医療界と「コーヒー浣腸」をめぐって反目したような呆れた場面が再演されるかも知れない。

ヘイトにさらされた帰化者―新井将敬2022/09/22

 前回のブログで、「帰化者への差別は日本人からよりも、同じ在日からの差別の方がはるかに厳しかった」と論じました。 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/09/15/9526042 こう書くと、日本人は帰化者に対して優しかったと思われるかも知れません。 しかし実は1980~90年代に、激しいヘイト(民族差別)にさらされた帰化者がいました。 それは新井将敬です。 経歴を簡単に紹介しますと、

高校時代(卒業後という説もある)に朝鮮籍から帰化。 東大法学部卒業後1973年に大蔵省に入省して実績を積み、そこで大蔵大臣の渡辺美智雄に抜擢される。 1983年に衆議院選挙に立候補。 最初は落選するも、1986年から四回連続当選。 議員時代の新井はかなり注目され、テレビにもしょっちゅう出演し、将来の総理大臣候補とまで言われた。 しかし、いわゆる証券スキャンダル事件の追及を受け、1998年2月自殺。 享年50歳。

 このように新井は成年になる前に帰化し、将来を嘱望された政治家でした。 しかし1983年の衆議院選挙の初立候補時よりヘイト(民族差別)にさらされました。

 まず最初に差別を仕掛けたのは石原慎太郎の公設秘書で、新井の政治広報ポスター3000枚に「北朝鮮より帰化」という黒いシールを貼りつけたのでした。 これがきっかけになったのか、新井の事務所や家族に脅迫状が届き、「朝鮮のスパイ」という噂が飛び交いました。 当時はインターネットがない時代でしたから、葉書や手紙でかなりエゲツないヘイトが多数届いたそうです。 これらは直ぐに処分されたようで、実態は不明です。 しかし内容は想像できますね。

 さらに新井の戸籍(帰化が記録されている)コピーが印刷されて、新井の選挙区内で配布されました。 一部のマスコミも新井が元朝鮮人であることを書き立てました。 これらのヘイトのせいか、新井は最初の選挙に4万票で落選しました。

 新井は今度は自らの出自を公言して、選挙区内をこまめに回る〝どぶ板選挙″を実践し、次の86年総選挙では10万票以上の高得票で当選しました。 「韓国系代議士」として注目され、マスコミから取材が殺到しました。 しかし石原慎太郎は帰化者の代議士誕生に異議を唱えました。

日韓関係で激しい摩擦が生じた時、いったいどちらの国益を優先させるか、ということです。‥‥もとの祖国と、今の祖国の友好につくすというのは結構なことだけれど、必ずしもそうできない‥‥もとの祖国に対する愛情があるのはごく普通ですから、二つの祖国の板挟みになって、本人もつらいことになる (『週刊新潮』1986年7月24日)

 さらに『週刊新潮』は同じ号で次のように主張しました。

もし法務大臣とか外務大臣、防衛庁長官とかいったポストについた時、国益にかかわる問題が起きたら、必要以上に肩に力が入り政治家として、選択と決定を誤る恐れがないだろうか‥‥事は、国家への忠誠心と民族のへの愛情=帰属意識の問題である。 国政にたずさわるものが、その問題で国民に不安と心配を与えることは、既にして政治家の資格を失っている

つまり帰化者は政治家になる資格がない、と主張したのでした。

 しかし先祖代々の日本国籍政治家でも、え!この人、本当に日本人なの?どこかの国の代弁人じゃないの?と疑問に感じる方がいるのですが、これは問題にはならないようです。 帰化者であること、これが問題であるという考え方ですね。

 以上のように新井将敬は右寄りの日本人たちからのヘイト(民族差別)にさらされ、戸籍をばら撒かれるという人権侵害まで受けたのですが、当時の人権団体はほとんど関心がなかったですねえ。 またこの時代は民族差別と闘う運動団体は指紋押捺問題に集中しており、帰化した自民党政治家の人権侵害なんて視野の外でした。 今から思うと民族団体は、帰化は民族の裏切りであり、帰化者の人権侵害に対しては〝ざまあ見ろ″という感覚で見ていたように記憶しています。

 結局、帰化者はかつての同胞から冷たい目で見られながら、有名になって目立ってくると日本人から憎悪と中傷の対象となった、ということです。 そういえば、今でもユーチューブなどでは「あの人は、実は帰化者だった」という暴露記事のようなチャンネルが多数ありますね。 元外国籍であることがその人の弱点ととらえて、何かの機会にヘイトしようと虎視眈々と狙っているようです。 醜悪な日本人は、昔も今も変わらずに存在しています。

 今回は朴一『<在日>という生き方』(講談社選書メチエ 1999年11月)を参考にして、当時を思い出しながら書いてみました。

【拙稿参照】

国籍を考える―新井将敬    http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2017/07/27/8628332

52年前の帰化青年の自殺―山村政明(1) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/08/17/9518301

52年前の帰化青年の自殺―山村政明(2)https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/08/23/9519952

52年前の帰化青年の自殺―山村政明(3) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/08/29/9521733

青木理・金時鐘の対談―帰化(1)   http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/09/08/9524343

青木理・金時鐘の対談―帰化(2)   http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/09/15/9526042

青木理・金時鐘の対談―帰化(2)2022/09/15

http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/09/08/9524343 の続きです。

金: そういう生活、そういう扱いを一貫して受けていると、日本国籍を取った者は、日本人以上に日本人ぶるんです。 同胞が多い集落から離れ、建売住宅みたいなものを手に入れ、日本人以上に日本人ぶって生活するようになる。 しかし、国籍選択の自由というのは人間の基本的な権利ですからね。 隠すことではさらさらないのに、植民地統治という歴史のしがらみがあって、日本人への帰化がうしろめたくなる。

 帰化者は在日社会から同胞として扱われずに軽蔑され、白眼視され、排除されたのでした。 ですから帰化者は在日社会から決別して出て行くか、帰化したことを同胞たちに黙って隠すしかなかったのでした。 金さん自身が言っておられるように、在日社会は帰化者を軽蔑・差別してきたのです。 

 帰化者は「隠すことはさらさらないのに」「日本人への帰化がうしろめたくなる」と金さんは言いますが、在日社会における帰化者への冷酷な扱いと差別を思い起こせば、そういうこともあり得るでしょう。 別の言葉で言えば、帰化者への差別は日本人からよりも、同じ在日からの差別の方がはるかに厳しかったのです。

 金さんは帰化者を「日本人よりも日本人ぶる」と侮蔑しますが、日本で生まれ育った在日は帰化しようがするまいが、日本人のように振る舞うのは自然なことなのですがねえ。 それの何が悪いのでしょうか。

 「帰化者は‥‥同胞が多い集落から離れ、建売住宅みたいなものを手に入れ」とありますが、帰化をしなくても在日コリアン集落から離れようとする在日は多いのですがねえ。 金さん自身も在日集落から離れて高級住宅地に住んでおられると聞いているのですがねえ。

――ええ。そのあたりの人権感覚も、同じ敗戦国のドイツと日本は雲泥の差です。 ドイツの場合、併合していたオーストリアの人びとに国籍選択権を付与しました。 ところが日本は戦後、法務府(現在の法務省)の局長通達1本で、台湾や朝鮮の人びとから日本国籍を一方的に剥奪してしまいました。 しかも、日本国籍取得には異様なハードルを課してきた。 そうした史実や実態も知らず、バカな連中は「日本が嫌なら朝鮮半島に帰れ」とか「日本にいたいなら帰化すればいい」などと言い放つ。 最近も僕の友人の在日コリアンが悩み抜いた末に日本国籍を申請したのですが、あっさりとはねつけられてしまったそうです。 どうやら父親が朝鮮総聯の元幹部で、北朝鮮に何度か渡航していることなどが理由のようですが……。

金: だから隠すんです。 朝鮮人として生きることが苦しく、辛いから帰化して日本人になろうとするわけですが、それはそのまま、朝鮮人として生きることを苦しく、辛くさせている側へひょいと鞍替えすることでもあるのです。 それが在日朝鮮人の帰化だった。 新日本人として市民生活のなかで息を潜め、周囲の日本人が朝鮮人を悪し様に語るときも黙って相槌を打たなくちゃならんような立場の人間になってしまう。

 青木さんの発言には、事実認識に間違いがあります。 「朝鮮の人びとから日本国籍を一方的に剥奪してしまいました」とありますが、1945年の敗戦時に朝鮮人たちは「解放」「独立」を叫んで「万歳」を繰り返し、もうこれで日本人でなくなったと喜んだという歴史事実が忘れられています。 朝鮮人が日本国籍を喪失したのは、祖国の韓国・北朝鮮だけでなく、在日自身の意思でした。 これが何故「日本国籍を一方的に剥奪」となるのでしょうかねえ。

 「日本国籍取得には異様なハードルを課してきた」とありますが、「異様なハードル」って何でしょうか? 日本の帰化制度は、世界各国、特に韓国のそれに比べて「異様なハードル」があるのでしょうか。 ちなみに韓国の国籍法第5条には、帰化の要件の一つとして日本のそれにはない下記が明記されています。

【国語能力と大韓民国の風習に対する理解など、大韓民国の国民としての基本素養を備えていること】

 韓国の帰化要件は、日本の帰化条件よりも厳しいですね。 韓国語と韓国の風習・素養を持っていなければなりません。 対して日本では帰化希望者に課す条件として、帰化の意思と日本の法律を守るという約束を示すことのできる日本語能力くらいです。 日本の風習への理解とか国民としての素養なんて、なくても構いません。 一番重要なのは、日本の法律を守ることです。 青木さんはこれを知って「日本の帰化には異様なハードルがある」と発言したのでしょうか。

 なお在日の帰化のハードルについて、前述したように、在日社会が帰化者に対して激しい差別感情を有していたために、これがハードルとなって在日は帰化を躊躇することが多かった、と言うことができます。 つまりハードルは日本の帰化制度にあるのではなく、在日社会における帰化者への差別だということです。

 「友人の在日コリアンが悩み抜いた末に日本国籍を申請したのですが、あっさりとはねつけられてしまった」。 その理由が「父親が朝鮮総聯の元幹部で、北朝鮮に何度か渡航していることなど」というのは、どうでしょうか。 同居している父親が非合法活動をしているのなら可能性はありますが、そうでなく法律に則って堂々と生きて来られたのであれば問題はありません。 ここは青木さんの伝聞情報のようですが、何故こんないい加減な情報を公開したのでしょうかねえ。

 「あっさりとはねつけられた」とありますが、おそらくはその友人が帰化の要件(6項目)に当てはまらなかったからでしょう。 こうなると確かに「あっさりとはねつけ」られます。 帰化担当窓口の職員が父親のことを知っているなんてまずあり得ませんから。  帰化を申請するにあたって、帰化の要件に自分が当てはまるか否か、事前に調べなかったのでしょうかねえ。 帰化を専門に扱う行政書士などに相談すればよかったのに、と思います。

 一方金さんは、在日社会において帰化者が差別されて生きにくいことを挙げて、だからこそ帰化をしてはいけないんだという方向に話を持って行きます。 帰化というのは、差別される朝鮮人から差別する日本人への「鞍替え」だと言うのです。 つまり帰化は被差別の正義の立場から、差別の不正義の立場に行くものだという主張です。

 そこには、在日自身が帰化者を差別してきたという事実が抜け落ちています。 金さんは帰化者に対して冷酷に差別的扱いをする在日側に立ってきたし、今も立っていると考えられます。 帰化者への差別は、金さん自ら実践しているということですね。

 以上のように青木さんは帰化について金時鐘さんとの対談をサイトに公表したのですが、その前に帰化の専門家にチェックしてもらわなかったのだろうかという疑問が湧きます。 また金時鐘さんは周囲の在日で帰化した人たちも多いと思われますが、そういう人たちから話を聞かなかったのだろうかという疑問も湧きます。 お二人とも、帰化について生半可な知識のまま対談された、という印象ですねえ。

 金時鐘さんに関しては拙ブログで下記の通りに論じたことがありますので、ご笑読いただければ幸甚。 (終り)

【拙稿参照】

金時鐘さんが本名を明かしたが‥‥ http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2019/10/26/9169120

金時鐘さんは結局語らず      http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2019/08/13/9140433

金時鐘さんは本名をなぜ語らないのか? http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2019/07/02/9110448  

毎日の余録に出た金時鐘さん http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2018/08/27/8950717

本名は「金時鐘」か「林大造」か http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2018/08/23/8948031

金時鐘『朝鮮と日本に生きる』への疑問 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/07/28/7718112

金時鐘さんの法的身分(続)     http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/08/13/7732281

金時鐘さんの法的身分(続々)   http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/08/26/7750143

金時鐘さんの法的身分(4)    http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/08/31/7762951

金時鐘さんの出生地        http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/07/05/7700647

金時鐘『「在日」を生きる』への疑問 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2018/03/01/8796038

青木理・金時鐘の対談―帰化(1)2022/09/08

 「在日・帰化」について検索しみたら、ジャーナリストの青木理さんのサイトの中に、彼と金時鐘さんとの対談で在日の帰化について触れられているのを見つけました。

【青木理 特別連載】官製ヘイトを撃つ 第四回  「帰化した者は周囲の日本人が朝鮮人を悪し様に語るとき、 黙って相槌(あいづち)を打たなくちゃならんような立場」 在日一世の詩人・金時鐘氏に訊く①  (2019年7月17日付け) 

https://shinsho-plus.shueisha.co.jp/column/hate/6472/3

 対談は金さんが帰化について解説し、青木さんが短く感想と質問を呈するものです。  まずは、在日社会では帰化をどう考えてきたのか、金さんは次のように説明します。

金時鐘: それにあの当時(1970~80年代)、在日朝鮮人同士のなかでも、いわゆる帰化という問題が、引きつづき日本で暮らしてゆくという定住の問題と絡んで表立ってきました。 それまでは帰化する……つまり日本人になってゆく人たちを同族の間で軽蔑していたんです。 いまはもうおおっぴらになっていますけどね。 在日朝鮮人はもう往年の半数にも充たない30数万といったところです。 それほど帰化した人が多くなってしまっています。

 「帰化する……つまり日本人になってゆく人たちを同族の間で軽蔑していた」は、事実ですね。 そして以下の対談を読むにあたって、金さん自身が帰化者への軽蔑を肯定する側に立っていることを念頭に入れてください。

 なお拙ブログでは下記のように帰化青年が民族に悩んだ末に自殺した事件を取り上げました。 自らの意思でなくても帰化していたという事実だけで在日同胞から軽蔑を受け、排撃されたのでした。 だから帰化青年は民族の裏切り者として自分を否定し、帰化を決めた父母を憎み、ついに自死を遂げたのでした。 在日同胞の帰化者への軽蔑が、犠牲者を生んだと言えるものです。

52年前の帰化青年の自殺―山村政明(1) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/08/17/9518301

52年前の帰化青年の自殺―山村政明(2)https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/08/23/9519952

52年前の帰化青年の自殺―山村政明(3) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/08/29/9521733

――(帰化は)特に最近は増えているようですね。

金: その日本国籍を取るにあたっても、差別の根の深さは如実ですよ。 帰化というのはまるで恩典のような扱いになっていて、日本国籍を申請するにも条件が非常に厳しいんです。 肉親に犯罪者がいてはならないとか、長期の疾病者であってはならないとか、納税をしているかどうかはもう基本条件で、かつては「窓口指導」というものまであったんですから。

 ここから金さんのウソが始まります。 

 金さんは帰化の「基本条件」として「肉親に犯罪者がいてはならない」「長期の疾病者であってはならない」「納税をしている」の三つを挙げています。 帰化の要件については検索すれば直ぐに6項目が出てきますので、金さんの言う「基本条件」と比べると彼のウソが分かります。 

 「肉親に犯罪者がいると帰化できない」なんてことはありません。 こんなウソを言っていたら、あの在日が帰化しないのはきっと肉親の誰かが犯罪者だからだなんていう噂が飛ぶかも知れませんねえ。 たとえ肉親に犯罪者がいても、世帯分離していれば帰化できます。 ただし同居家族に犯罪者がいれば、帰化は難しくなります。 分かりやすく言えば、在日の兄弟がいて兄が犯罪者の場合、弟は兄と同居していたら帰化ができず、弟が家を出て独立して生計を営んでいれば帰化することができます。

 また「長期の疾病者」もありません。 どんな疾病者であっても生計を営むだけの収入があって毎年確定申告しておれば、帰化は可能です。 こんなウソを書いていたら、障害者はどんなことがあっても帰化できないなんて噂が飛ぶかも知れませんね。 

「納税している」というのは不正確です。 夫が稼いで妻が専業主婦の場合、妻は被扶養家族として夫と一緒に帰化することができます。 この場合、妻は税金なんて納めていないで帰化します。 つまり「納税」は帰化の「基本条件」ではありません。

――窓口指導?

金: つまり市役所とか区役所とか町役場で、帰化申請の認可にあたって指導を受けるんです。 そこで日本人らしからぬ名前だと日本風に変えさせられたり。 しかも臭いのきついものは食べてはいかんとか、要するにキムチやホルモンなんかは食べてはいかんとか、そんな指導まで受けていた。

 ここはウソのオンパレードですね。 「市役所とか区役所とか町役場で、帰化申請の認可にあたって指導を受ける」は、全くのウソ。 市役所等は帰化申請書類に必要な外国人登録済証明書や納税証明書などを発行しますが、帰化申請の「指導」なんてする訳がありません。 帰化を取り扱う部局は、法務省の法務局です。 金時鐘という有名な在日知識人が、こんな常識を知らないことにビックリです。 

 百歩譲って法務局の「指導」があったとしても、「日本人らしからぬ名前だと日本風に変えさせられた」は、1985年以降はあり得ません。 85年からは、カタカナ姓でも帰化ができるようになったのです。 ですから帰化の際に日本風の名前を強制されたのは1985年までの話、85年以降はウソということです。

 次に「臭いのきついものは食べてはいかん」「キムチやホルモンなんかは食べてはいかん」という「指導」です。 法務局にしろ市役所にしろ、公務員がこんな「指導」をするなんて100%ウソです。 金さんはこんなウソをどこから仕入れてきたのでしょうか、そっちの方が気になります。

――信じがたい話です。まさに「官製ヘイト」じゃないですか。

金: さすがにこれは在日朝鮮人で市民運動をやっていた若者たちが抗議して、現在は窓口指導というのはなくなりましたがね。 それに帰化条件も近年になって、かなり緩和されてきてはいます。 でも、たとえば70年代前半ぐらいまでは、信用組合の取り引きひとつ簡単にはできませんでした。 保証人を2人は立てねばならず、そのうち1人は日本人じゃないといけない。そんな保証人になってくれる日本人はなかなかいませんよね。

 金さんのウソ話に、青木さんが「信じがたい」「官製ヘイト」だと憤慨しました。 私に言わせれば、どっちもどっち、です。

 「現在は窓口指導というのはなくなりました」は、上述したように「窓口指導」というのが元々ウソですから、なくなることもあり得ません。 法務局の窓口での指導というのは、帰化申請に必要な資料を説明し、それらをすべて集めてくださいと指導することくらいです。

 「信用組合の取引‥‥」以下の発言は、意味不明。 帰化すれば日本人となるのに、金融機関からお金を借りるのに何故日本人の保証人が必要だと言うのか、ここは金さんが混乱しておられるようです。 (続く)

ウトロ放火事件の有本匠吾 雑感2022/09/01

 去る8月30日に、ウトロ等の放火事件裁判で有本匠吾被告に対し、求刑通りの懲役4年の実刑判決が下されました。 彼は確信犯であり、事件を反省しておらず、再犯の恐れがありますから、ちょっと厳しい判決になったみたいです。 まあ、妥当なところでしょう。

 この裁判と判決について、各マスコミは大きく取り上げて記事化しています。 内容はほぼ同じで、ウトロ側の弁護士らコメントも大体同じようなものが出ていますね。

 これらを読みながら、私の知りたい情報がなくて、違和感と疑問を抱きました。 知りたい情報というのは、まずは被告有本の生い立ちです。

 どこで生まれ、どのように育てられたのか。 中学・高校はどこに通い、クラブ活動をしていたのか。 卒業後、何をしていたのか。 事件を起こす前まで勤めていた病院に就職と退職した経緯は何か。‥‥ 

 誰でも有名になれば、たとえば中学や高校の同級生だった者が卒業アルバムなどを持ち出してその人の思い出を語ることが多いのですが、有本の場合そんな者が全く見当たりません。 従ってどこの中学・高校にいたのかさえ分からないのです。 マスコミは有本本人から事件について聞いていますが、どれも彼の生い立ちについては記事に書いていません。 それは何か理由があるのでしょうか。

 次に違和感として、被告有本の弁護士が記事に出てこないことです。 有本は実刑判決を受けましたから、有本本人への取材は難しいでしょう。 ですから彼の主張は弁護士が代弁し擁護する、或いは控訴するかどうか被告と相談するとか言うものと思っていたら、どのマスコミにも出てきませんでした。 ということは、被告弁護士は判決が下されても、コメントを一切拒否したものと考えられます。

 それまでの裁判過程では、本人意見陳述で有本が「ウトロは不法占拠」と言ったところ、弁護士が慌てて、それは本人の法律認識だと否定したという話がありますね。 つまり被告と弁護士との間で、打ち合わせができていないことが判明していました。 

 以上から推測すると、被告と弁護士には信頼関係が崩れており、弁護士のモチベーションがかなり下がっていたのではないかと思われます。

 有本は、裁判というのは自分の考えを主張し、社会に宣伝する場だと考えていたようです。 これは昔、新左翼の活動家たちが暴れて逮捕され裁判にかけられた時、「裁判闘争」と称して、これも革命運動の一環だとして裁判に臨んでいたことを思い出しますね。 有本はかつての新左翼活動家の再現のような感じがします。 「裁判闘争」なんて、今どきの弁護士は知らないでしょうから、せっかく罪を軽くしてあげようと努力してやっているのに、全部ぶち壊しやがって‥‥と思ったのではないでしょうか。

 有本は懲役4年の実刑判決で、事件の反省がないですから仮釈放はなく、満期まで務めることでしょう。 4年からこれまでの約250日の拘留期間が除外されますから、3年4ヶ月後の2025年12月ごろに出所すると思われます。 その時、日本はどんな社会になっているでしょうか。 おそらく有本は、ネットウヨからも忘れられた存在になっているような気がします。

 マスコミ報道を読みながら、疑問というか感想を書いてみました。

【拙稿参照】

ウトロと韓国民団を放火した人物―有本匠吾(1)  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/04/25/9484690

ウトロと韓国民団を放火した人物―有本匠吾(2) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/04/28/9485573

共同通信記事もまた「在日コリアンへ無理解」 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/05/01/9486385

在日の生活保護について     http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/05/06/9487961

52年前の帰化青年の自殺―山村政明(3)2022/08/29

https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/08/23/9519952 の続きです。

 芥川賞作家の李恢成はこの本の序文で、次のように書いています。

民族的差別や偏見があるかぎり、帰化によって自由を得ることは至難であり、かえって帰化者なるが故の苦悩がつきまとう‥‥梁青年(山村のこと)は死の間際まで、祖国喪失者の暗い意識から自由になることができなかった。 日本人にもなり切れず、さりとて朝鮮人としても「裏切り」意識にさいなまれたのは、彼が純粋に自分が何者なのかを追いつめようとした‥‥

朝鮮人からは日本人とみなされ、日本人からは朝鮮人として扱われる場合、どのような生き方が可能であったか。‥‥彼を死へ追いやった根源的原因が民族問題から発生していることをぼくらは生者として確認しよう。(以上、2~5頁)

 李は、帰化は民族的苦悩を深め死に追いやるものだと主張します。

 当時はこういう考え方が主流であって、だから帰化をしてはいけないんだという主張が声高になされていました。 若い在日が〝朝鮮語は全く分からないし祖国に帰る気なんて全くないのだから帰化したいと思う″と言えば、周囲の在日活動家がこの『いのち燃えつきるとも』を突き付けて、〝帰化しても何の解決にもならない、帰化は裏切りだ、屈辱だ″とか言って脅したものでした。 

 そして日本人に対しては、同じくこの本を突き付けながら〝日本における民族差別はかくのごとく深刻なのだ″とアピールするのでした。 

 山村政明の『いのち燃えつきるとも』は、当時こんな使われ方をしたなあと思い出されます。

 一方、在日の研究者である金英達さんは、次のように言います。

民族問題の重要性を(日本人に)訴えるにあたって、山村政明の死を提示することは、ちょうど朝鮮人が日本人に向かって「俺の気持ちがお前に分かるか」と言って、みずからの相互理解の扉を閉ざしてしまうのと一緒で、日本人を沈黙させてしまうだけ‥‥(金英達『在日朝鮮人の帰化』(明石書店1990年6月 244頁)

 山村政明の『いのち燃えつきるとも』は、帰化した在日青年が民族問題に悩んだ末に自殺した事件として大きな話題になりました。 それから50年経って読み返してみて、民族についてどんなことに悩んでいたのか、その悩みは在日に共通するものだったのか、当時のことをちょっと思い出させてくれました。

 ところで同じく小学時代に一家で帰化した有名人として、芥川賞作家の李良枝を挙げることができます。 山村よりも10年後の生まれですが、彼女も民族に悩みました。 彼女と山村とを対比しながら、在日の帰化について考えることは非常に有益だと思います。 李良枝については、拙ブログでは下記で論じました。

李良枝の心の軌跡―日本否定から日本肯定へ http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2018/09/19/8962125

芥川賞受賞者 李良枝 ―韓国人を美化する日本人はおかしい http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2018/04/08/8821395

芥川賞受賞作家 李良枝(2)―日本語は宝物である http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2018/04/13/8824561

【追記】

 「山村政明」を検索すると、デタラメ解説が多いですねえ。

日本共産党が主催していた時代の日本朝鮮研究所(現:現代コリア研究所)への入会を希望したが「日本に帰化した裏切り者」として拒絶された。その後、日本民主青年同盟に参加するも

 これにはビックリ。 日本朝鮮研究所は日本共産党の主催団体であったことは一度もありません。

 またこの研究所は日本人の立場から朝鮮を研究する団体でしたから、来る者に「日本に帰化した裏切り者」として拒絶することはあり得ません。

 山村を拒絶したのは、大学内の在日朝鮮人サークル(朝鮮文化研究会?)です。

 山村は日本民主青年同盟に参加していません。 144頁に次のように書かれており、民青に参加しなかったのは明白です。

民青の学友たち。はじめは警戒したんだが、みんないい連中ばかり。 もっと早く、君たちと出会っていたら、ぼくの人生も変わっていたろう。 でも、もう遅い‥‥。

 次に、山村の姉が受けた就職差別です。

帰化しているにも拘らず、彼の姉が就職差別を受けるという事があり

 しかし14~15頁に、姉の就職差別のことが次のように書かれています。

中学三年だった姉が、ある時目を泣きはらして帰宅したことがあった。 就職か進学かの相談で職員室に担任教師を訪ねたところ、冷たく言い放たれたそうだ。 「おまえは、他の家のことは違うんだからナ‥‥」。 手をとりあって泣く母と姉‥‥ 父母は屈辱のすべてを忘れようとした。 帰国のメドがつかないままに、国籍帰化を決意したのだった。

 つまり姉の就職差別がきっかけとなって、父母は帰化を決意したとあります。 〝姉が帰化しても就職差別を受けた″は順番が逆で、事実ではありません。 (終り)

  【拙稿参照】

52年前の帰化青年の自殺―山村政明(1) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/08/17/9518301

52年前の帰化青年の自殺―山村政明(2)https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/08/23/9519952

帰化にまつわるデマ           http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2006/05/31/387157

在日の帰化               http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2006/08/18/489465

帰化と戸籍について           http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2006/08/26/499625

52年前の帰化青年の自殺―山村政明(2)2022/08/23

http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/08/17/9518301 の続きです。

 次に、父母はこのような厳しい差別に対し、どう対処しようしたか。

父母は屈辱のすべてを忘れようとした。 帰国のメドのつかないままに、国籍帰化を決意したのだ。 乏しい家計の中から贈物を整えて町の有力者たちの前に平身低頭していく父母の姿‥‥ (15頁)

父母は苦心の末、この国の市民権を取得した。 ぼくたちは法的には日本人になったのである。‥‥父母はぼくたち子供の将来、進学、就職等の不利を免れるためにというが‥‥ 祖国におけるみじめな生活を引き合いに出して、父母はぼくの抗議をあしらうのだった。(122頁)

 山村の父母が家族で帰化したのは1955年6月。 山村が9歳(おそらく小学4年)の時でした。

 その時の在日をめぐる社会状況を簡単に書くと、1952年サンフランシスコ講和条約により日本が独立し、それに伴い在日は正式に外国人となりました。 翌1953年に朝鮮戦争が休戦となります。 その2年後に山村家が一家で帰化しました。 帰化には準備がかなり大変ですから、父母はかなり早い時期から帰化を決意したと思われます。 「祖国におけるみじめな生活を引き合いに出して」とあるところから、それは53年の朝鮮戦争休戦直後ではないかと思われます。

 帰化について、父母は詳しく話さなかったようですが、このわずかな文章からも、父母が子供たちのためにどれほど愛し、考え、行動したかを想像できます。

 しかし山村は、自分も含めて一家を帰化させた父母を責めます。

祖国と同胞を忘れ、なんとか日本人の列に加わろうとする両親を、私は尊敬することができなかった。(15頁)

父母は‥‥それ(子供の将来、進学、就職等の不利を免れるため)のみで、自らの祖国を棄てることが出来たのか?(122頁)

どんなみじめでもいい。 どんなに貧しくてもいい。 真の同胞の間に少年期を送ることができたなら、ぼくはこんな人間にならずにすんだろうに。 ぼくは父母を尊敬することができなかった。 たしかに、戦前からの父母の言うに言われぬ労苦を思うと涙が出る。 けれどもぼくたち親子には超え難いキレツ、冷たいカベが生じていた。(122~123頁)

父母、兄妹は日本人になりきろうとのみ努力する。 その悲しい努力‥‥(160頁)

父よ、母よ、あなたたちの労苦を思うと黙って頭を下げるのみです。 けれども、あなたたちは重大なあやまちを犯したのではありませんか? 生活の難易によって左右し得るほど、民族、国籍の問題は軽いものでしょうか? 少なくともぼくは、自らの運命の、わずかな選択の自由は残しておいてほしかった。 当時、九歳の僕であったとしても‥‥。(162頁)

 山村は9歳(おそらく小学4年)という幼い時に家族とともに帰化し、日本人となりました。 それは当然のことながら、自らの意志ではありませんでした。 山村は自分が日本人になっていることに悩み、嫌悪します。

私は長い間、日本人を憎んできた。 なぜなら、私の体内には、日本人に虐げられてきた韓民族の血が、流れているからだ‥‥(12頁)

ぼくは半日本人ともいうべき非条理な自己の存在を納得することができない。‥‥ぼくは中途半端な半日本人として生きるより朝鮮人として生きることを強く願った。‥‥ぼくは祖国を棄てた裏切り者なのだ。 日本人でもない。 もはや朝鮮人でもない祖国喪失者‥‥。(123~124頁)

ぼくは何故、この時代の、この国に生きねばならないのか? この国の人々によって虐げられた異民族の一員、しかも、その貧しい民族をも、極言すれば裏切った家族の一員。 そのどす黒い宿命の血が、ぼくの体内を逆流している。(159頁)

あまりに日本人化してしまっているぼく。祖国と同胞は寛容をもって受け入れてくれるだろうか? 民族の血を偽り、日本名のもとに、日本人面して生きてきた歳月。 その自責と苦悩が、ぼくの表情を沈鬱にさせる。(161頁)

私は在日朝鮮人二世としてこの国に生を受けた。 在日朝鮮人の存在そのものが歴史の非条理だ。 その上、自らの意志によらずとはいえ、自民族と祖国を裏切り、日本籍に帰化したことは苦悩を倍加すること以外のなにものでもない。(242頁)

 山村は「私の体内には日本人に虐げられてきた韓民族の血が流れている」と、本来は日本から被害を受けた朝鮮人の体であったと主張します。 しかしその体には「どす黒い宿命の血が、ぼくの体内を逆流している」とも主張します。

 朝鮮人である自分の体に民族を裏切った「どす黒い宿命の血」が「逆流」しているというのです。 山村は帰化して日本人になったことを、これほどまでに自己否定しました。 そして日本人の友人に対して、次のような呼びかけをします。

日本の友へ。‥‥あなたがたに切望するのは次のことである。 日本には約60万人の在日朝鮮人が居住している。 どうか彼らに理解と友情の心を向けてほしい。

彼らは何も好きこのんで異郷の地で、みじめな生活をすることを選んだのではない。 多くの日本人は簡単に言う。 馬鹿にされるのがいやなら自分の国に帰ればいいじゃないかと。 けれども彼らは日本にのみ生活の基盤を持ち、純粋な民族性を剥奪されてしまっているのだ。 さらに日帝の植民地支配の後、祖国は東西の対立のために分断と同民族相撃つ戦乱の憂き目をみた。 祖国の政情は未だ不穏であり、生活の条件は厳しい。

私は敢えて言おう。 あなたたち日本人の多くは、戦争をただ過去のものとし、経済的繁栄を謳歌しているが、アジアの多くの国では、あなたたちの残虐な侵略による傷痕の故に、今もなお多くの人が苦しんでいることを思い起こして欲しい。‥‥賢明なる日本の人たちが、アジアの人々の前にも真の友人として手を差し伸べることを切望する。

在日朝鮮人問題は私にとっては決定的に大きいが、あなたたちにとっても決して無意味な問題ではないと思うのだ。 それは300万といわれる未解放部落民、アイヌ民族、混血児問題に直接通ずる。 さらに、階級と貧富のそれを含めた人間相互のすべての差別と憎しみの問題につながると思うのだ。(以上、29~30頁)

 このように日本人に呼びかける自分が、実は元朝鮮人で今は日本人になっているという矛盾。 別に言えば、元は清く正しい被害者の朝鮮人の体なのに、民族を裏切って加害者である日本人になったという「黒い宿命の血が逆流している」という矛盾。 山村はこれに耐えられなくなって自死を選んだのではないかと思います。(続く)

52年前の帰化青年の自殺―山村政明(1) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/08/17/9518301

52年前の帰化青年の自殺―山村政明(1)2022/08/17

 52年前の1970年10月に、25歳の帰化青年が民族に悩んで自殺しました。 その遺稿集が『いのち燃えつきるとも』で、当時として大きな話題になりました。 ベストセラーではありませんでしたが、かなり売れたものでした。 本名は「山村政明」、帰化前の民族名が「梁政明」。 水野直樹・文京洙『在日朝鮮人―歴史と現在』(岩波新書 2015年1月)では、次のように紹介されています。

70年10月には、山村政明(梁政明)が焼身自殺を遂げる。 山口県に生まれた山村は、9歳の時、家族ぐるみで日本国籍を取得し、67年苦学して早稲田大学第一文学部に入学したが、経済的な理由で退学を余儀なくされ、翌68年夜間の第二文学部に再入学した。

大学入学後、学園紛争に関与し、学内自治会を支配していた新左翼系党派(革マルのことー引用者)と対立して登校妨害を受けた。 そういうなかで日朝関係史や民族問題に関心を深め朝鮮人として生きることを決意するが、在日同胞学生サークルからは帰化を理由に拒絶される。 「抗議嘆願書」と記された遺書には党派への批判とともに、自己の国籍と民族にまつわる苦悩が切々と記されている。(以上166頁)

 1970年代の在日の活動団体では、「帰化しても何も解決しない、だから帰化をしてはダメだ」という主張を強く掲げ、その根拠として山村の遺稿集『いのち燃えつきるとも』が取り上げていたものでした。 帰化を考える在日がいたら、この本を突き付けて帰化を諦めさせる活動をしていましたねえ。 

 最近になって、50年以上前の帰化朝鮮人が民族についてどのように苦悩したのかに関心があって、この本を読みなおしてみようと思ったのですが、もう古い本で周囲では誰も持っていません。 そこで図書館でこの本を取り寄せて借りてきました。 『新編 いのち燃えつきるともーある青春の遺稿集』大和出版 昭和50年8月)。 新編が出たくらいですから、当時世間の関心はかなり大きかったようです。

 これは誰か第三者に読んでもらうつもりで書かれた本ではありません。 彼の手記とメモ・ノート、恋人や家族への書簡、大学の学友らに訴える短文で全てです。 この中で、彼が民族に苦悩したという部分を紹介します。 先ずは生い立ちと幼少時の被差別体験です。

生い立ちの頃からふり返ってみよう。‥‥両親は日本帝国主義の暴虐な支配の下に搾取され尽くした祖国を離れて、昭和の初頭の日本に移り住んできた。 両親も過去のことについては語りたがらない。 朝鮮人蔑視の風潮が現在とは比較できないほど強かった戦前社会において、父母の味わった苦しみは私などには想像もできない。 祖国解放の年の6月、私は山口県の片田舎で生を受けたのだった。 その頃父母は小作農として貧しいながら一応の生活の保障を得ていた。 私は7人兄妹の三男として生まれた。 終戦直後の私の幼児期はみじめだったらしい。

ものごころついて近所の子供達と遊ぶようになった私は、まもなく、自分は他の家の子供たちとは差別されねばならないことを知った。 私たち兄妹だけに浴びせられるあざけりのことば「チョーセン、チョーセン」、幼かった私は何のことか分からず、ただ悲しみと悔し涙にくれるばかりだった。

貧しい父母は日夜労働にいそしまねばならなかった。 私たち子供も小さい時から忙しく手伝いをさせられた。 貧しく育たねばならなかった人には理解できるだろう。 他の家の子供達が喜々として遊びたわむれている時、野良仕事やたきぎ取りに小さ身体を従事させねばならない悲しみを。

私は学校が好きだった‥‥私たち兄妹はみんな学科がよくできた。 私などもクラスにいる間は民族的コンプレックスを忘れることができた。 むしろ優越感さえ持ち得た。 小学ではずっと学級委員、中学では生徒会長を勤めたので、みんなから一目置かれていたと言っていい。 少なくともクラスの中には私が朝鮮人であることを面と向かって笑う者はいなくなった。

けれども一歩学校を離れると私は心に武装をしなければならなかった。 たしか小学4年の頃だったと思う。 ある日学校から帰る途中、私は上級の悪童連につかまった。「チョーセン」「チョーセン」。 怒った私は激しく手向かって言ったが多勢に無勢でかなわず、スキをみて逃げ出した。 田んぼあぜ道を三人の上級生に追いまわされ、ついに打ち倒されてやわらかい泥にまみれながら激しく泣いたことを覚えている。 何人かの大人たちがこの光景を見ていても、私の素姓の故にうす笑いを浮かべるだけで、悪童連を制止してはくれなかった。

‥‥中学三年だった姉が、ある時目を泣きはらして帰宅したことがあった。 就職か進学かの相談で職員室に担任教師を訪ねたところ、冷たく言い放たれたそうだ。 「おまえは、他の家のことは違うんだからナ‥‥」。 手をとりあって泣く母と姉を見ながら、私は怒りで身をふるわせたのだった。 (以上、12~15頁)

 こういった被差別体験は、1950~70年代前半に多感な少年期を過ごした在日がほぼ共通して有していると言っていいです。 在日同士が「お前もそうか、俺もそうだった」と互いに共感できるのが少年期の被差別体験だった、そんな体験談を聞かされたのが1970年代だったなあと思い出されます。

 ところで山村が生まれ育った所は山口県です。 その時期の山口県と言えば、思い出されるのは李承晩ラインです。 李承晩ラインが敷かれたのが1952年で、それ以降日韓条約締結の1965年まで続きます。 その間に韓国政府はラインを侵犯したとして日本人漁船員約4000人を拿捕(うち5人銃撃死)し、数年にわたり抑留しました。

 この事件は連日のように報道され、日本人の対韓感情を非常に悪くしました。 山口県の漁民も多くの被害を出しましたから、同県に住んでいた山村一家に対し、周囲からの厳しい目を想像することができます。 ところがこの本では、李承晩ラインには何も言及されていませんねえ。 李承晩ラインによる日本人の対韓感情悪化は、山村に「チョーセン」というあざけり言葉を投げつけることだったのかも知れません。(続く)

神戸の「朝鮮部落」―毎日新聞2022/08/11

 拙ブログ7月12日・19日の二回にわたって、昔に私が見た「朝鮮部落」について思い出を書いてみました。  

「朝鮮部落」の思い出(1)   http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/07/12/9508262

「朝鮮部落」の思い出(2)   http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/07/19/9510331

 それから10日ほどして、毎日新聞に「源平町かいわい(神戸市長田区) 知られざる共生の歴史」と題する、朝鮮部落(記事では「在日コリアン集落」)の記事が出ました。(2022年7月29日付け)   https://mainichi.jp/articles/20220729/ddf/012/040/001000c  有料記事なので、関心ある方は図書館にでも行って頂ければ幸い。

 記事はこの朝鮮部落の成り立ちと、そこには日本人との「共生の歴史」があったことを報告するものです。 このうちの日本人との「共生」に目が行きました。 その部分を抜き書きします。

在日2世の女性(79)から話を聞いた。 「集落は隔絶されていたわけではなく、日本人コミュニティーとも活発な往来があり、助け合って暮らしていましたよ。 子どもたちが『朝鮮村や』と興味本位で言っていたのも覚えていますが、偏見はごく一部で、仲良うやってましたよ」。 45年3月17日の神戸大空襲後、沿岸部で焼け出された被災者が多く避難してきた所でもあったという。

「喫茶・赤倉」‥店長の小竹雅子さん(84)は、かつての在日コリアンのコミュニティーや丸山地区のにぎわいを知る一人だった。‥‥「通学時に、リヤカーに乗せていた豚たちが逃げ出して、こちらに走ってきてね。今となってはいい思い出やね」と懐かしそうに語った。

以前に集落で暮らしていた女性は繰り返した。「未来を担う韓国と日本の若者たちにお願いがありますよ。源平町のように仲良く暮らしてほしい」。時代の中で消えていった在日コリアン集落は、共生社会を体現してきた集落であった

 この記事中でまず驚いたのは、子供たちが言っていたという「朝鮮村」です。 私の経験では「朝鮮部落」であって、「朝鮮村」なんて聞いたことがありません。 「朝鮮部落」は周囲の日本人だけでなく、そこに住んでいる朝鮮人も自分たちの住所を「朝鮮部落」と呼んでいました。 また関西から遠く離れた地域でも「朝鮮部落」という言い方が普通でした。

 としたら「朝鮮村」は、神戸の独特な呼称なのでしょうか。 神戸では湊川等々で不法占拠の朝鮮部落が点々と存在していましたが、やはり「朝鮮部落」であって「朝鮮村」ではなかったと記憶しているのですが。

 日本語では「村」と「部落」とでは昔から意味が違っているのであって、互いに言い換えることのできない言葉です。 ですから「朝鮮村」という言葉には、私には違和感が非常に大きいのです。

私の考えでは、1970年代以降の解放運動の活発化とともに「部落」が差別語とされてきたために、記事では「朝鮮部落」と書くことに躊躇いが生じて「朝鮮村」に言い換えたのではないかと思います。 とすれば歴史用語の捏造だと考えるのですが、どうなのでしょうか。

 次に「集落は隔絶されていたわけではなく、日本人コミュニティーとも活発な往来があり、助け合って暮らしていました」とあります。 つまりここの「在日コリアン集落」には「日本人コミュニティー」が存在しており、朝鮮人と日本人は「助け合って暮らしていた」というのです。

 実際にどのような「助け合い」だったのかに関心があるのですが、記事では書かれていません。 私の経験では、朝鮮部落に日本人が混在する例は、河川敷の部落でした。 戦後の混乱の中、住居に困り果てた日本人も多く、さまよった末に河川敷に住むようになり、朝鮮人と混住状態になったというものです。

 そこではどんな「助け合い」があったのかと言いますと、私自身の知識の範囲内で答えます。 そこには行政の末端としての住民自治会というものがありませんでした。 多くの場合朝鮮人は朝鮮総連の分会に集まり、そこが朝鮮人同士の助け合い組織として機能します。 当然ながら日本人は全く関わりがありません。

 つまり朝鮮人と日本人とは隣人同士でありながら、その地域の問題を両者で話し合う場所がなく、ですから共同して行政に何かを要求することもありませんでした。 つまり朝鮮人と日本人が「助け合う」ということは難しかったと言わざるを得ません。

 また火事が起きた場合、市役所からは毛布等々の支援物資が自治会を通して被災者に支給されるのですが、自治会に加入していない朝鮮人には総連分会を通して支給されるということでした。 日本人にはどうなるのかについては、朝鮮部落に住む日本人が火事に遭ったという例が私の経験では寡聞にして知りません。 しかし、それぞれが市役所に行って支援物資を受け取るという話を聞いたことがあります。

 ところで河川敷の朝鮮部落に住んだことがあるという日本人から話を聞いたことがあります。 朝鮮人の家では夫婦ケンカが激しく、時に刃物を振り回すような大立ち回りもあった、そんな時にケンカの仲裁によく行ったものだったという思い出話でした。 その方は中学時代に柔道をやっていて、身体も大柄だったので、そんな激しいケンカでも仲裁できたと言います。 しかし朝鮮人との付き合いというのはそれだけで、あとはせいぜい道端で出会えば会釈するくらいで、仲良く過ごしたなんてことは全くなかったそうです。 しばらくして公営住宅に当選したのでそっちに引っ越しし、その後その朝鮮人たちがどう暮らしているかなんて全く関心がない、ただあの激しい夫婦ケンカだけはよく覚えている、ということでした。

 なお当時の公営住宅の入居資格には国籍条項があり、朝鮮人には応募資格がありませんでした。 日本人は応募して当選すれば、さっさと引っ越したといいます。 ですから朝鮮部落の日本人は生活していた年月は短く、逆に朝鮮人たちはますます取り残されていったと言えるかも知れません。

 朝鮮部落をいくら思い出してみても、「朝鮮人と日本人との共生」というような〝ほのぼのした関係″があったとは私には考えられません。 単に住む場所がたまたま同じであったことに過ぎず、何か生活上で助け合うこともなかったし、ましてや例えばキムチの漬け方とか洗濯の仕方とかを教え学ぶような文化交流は全くなかったのでした。 (キムチ漬けと洗濯は女性の家事労働において、朝鮮人と日本人の違いがはっきりと見えるものでした ―下記【拙稿参照】)

 しかし毎日新聞の記事では、神戸の源平町という朝鮮部落では「朝鮮人と日本人共生社会」を「体現」していたというのですから、私には大きな驚きでした。 本当にそんなことがあったのか?という疑問ですね。 おそらくは、単にケンカやもめ事を起こしていないだけの関係を「共生」と表現したのではないかと思うのですが、どうでしょうか。

【拙稿参照】

「朝鮮漬け」の思い出(1)  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2020/12/17/9327581

「朝鮮漬け」の思い出(2)  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2020/12/22/9329211

砧を頂いた在日女性の思い出(1) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2020/09/21/9297618

砧を頂いた在日女性の思い出(2) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2020/10/07/9303008

砧を頂いた在日女性の思い出(3)―先行研究 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2020/10/12/9304894

砧を頂いた在日女性の思い出(4)―宮城道雄 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2020/10/22/9308333

砧を頂いた在日女性の思い出(5)―宮城道雄(2)  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2020/11/02/9312276

マッコリ(タッペギ)とシッケ http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2020/12/28/9331179

「原子力ムラ」は差別語では‥  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2012/09/22/6580751

『ハンギョレ』中村一成氏への違和感(3)2022/08/06

https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/08/03/9514505 の続きです。

 前回は、記事の中で中村さんの発言(カッコ書きされている)部分から、私の抱いた違和感というか疑問を提示しました。 次に記事の地の文から、彼に対する私の感想を書きます。 まずは彼の生い立ちです。

在日2世の韓国人の母親と、日本人の父親の間に生まれた彼は

 生い立ちは、このようにごく簡単に紹介されています。 彼は1969年生まれですから、両親の結婚は1960年代と推定されます。 この時代に、日本人男性と朝鮮人女性の結婚は大変だったろうと想像できます。 なぜなら、どちらも家族・親族から猛反対を受けたでしょうから。

 当時は朝鮮人への差別はすさまじいものでした。 日本人男性がこの人と結婚しますと家族に紹介したら猛烈に反対され、それでも結婚しますと意思を貫いたら、親戚連中に知らせることなく式も挙げなかった、というような話をよく聞いたものです。

 朝鮮人女性の方も、日本人と結婚しますと言えば、これまた猛烈に反対されました。 当時の朝鮮人たちの考えでは、男子が日本の女と結婚するのはまだ許せるが、女子が日本の男と結婚するのは絶対にダメ、というものでした。 1960年代後半頃でしたか、余りの反対に絶望した朝鮮人女性が自殺するという事件が起きました。 このためにこの地域の在日朝鮮人社会では、娘と日本人男性との結婚は最初は一応反対するが、結局は仕方ないと諦めるようになったという実話を聞きました。

 中村さんのご両親はどうだったのか分かりませんが、おそらくは親族・親戚からの祝福を受けずに結婚されたのかなあと想像します。

在日コリアン3世として波風のない人生を送ることができなかった。‥‥彼は幼い頃から母親に向けた父親の差別的な言葉を聞きながら育った

 父母が日本人男性と朝鮮人二世女性で、その間に激しい葛藤があったのですねえ。 父親の母親に対する差別言動、これが彼のアイデンティティに大きな影響を与えたようです。

一時は「朴一成(パク・イルソン)」という韓国名だけを使ったりもしたが、就職する時期には「中村一成(かずなり)」という日本名を使った。毎日新聞記者として働いていた時、多くの在日朝鮮人に会って考えが変わり、自分のアイデンティティを隠さないために両方の言葉の名前を使っている

 中村さんは、アイデンティティに重要な名前をこれほどに変えてきたということです。 当時の戸籍・国籍法からすると、彼は父親の戸籍に入りますから、国籍は日本の単一国籍で名前は父親の「中村」となります。 この父系主義は韓国でも同様で、彼は韓国の法律からしても韓国籍ではあり得ず、名前も母の「朴」ではあり得ません。 北朝鮮も同様です。

 つまり彼のアイデンティティの裏付けとなる国籍と本名(法律名)は、日本でも本国でも、日本国籍の「中村一成」です。 ということは「朴一成」は通名です。 ですから彼は本名と通名の二つにアイデンティティを置いていることになります。

 自分のアイデンティティをどう考え、本名と通名をどう使うかは、本人の自由な選択に任せるべきことです。 ただ在日の中には、本名や国籍を隠そうとする性向が見られるのは残念ですね。 その点、中村さんはそれを隠さずに「両方の言葉の名前を使っている」とありますので、ここは好感を持ちます。

中村さんは、在日朝鮮人は植民地出身という認識がいまも日本国内に広がっていると話した。強制徴用被害者に賠償せよという韓国最高裁(大法院)の判決を日本企業が無視する状況も、同じ理由だと説明した。

 日本側が有している「在日朝鮮人は植民地出身という認識」は「今広がっている」のではなく、1945年の敗戦以降から続いて現在に至っているものです。 これは前記したように、在日には「特別永住」という、他の外国人から比べると特段に恵まれた在留資格を与えていることから、はっきり指摘できます。 在日は植民地出身だからこそ、外国国籍を維持しながら限りなく日本人に近い恵まれた権利を有しているのです。

 「強制徴用被害者に賠償せよという韓国最高裁(大法院)の判決を日本企業が無視する状況も、同じ理由」というのは、いかがなものですかねえ。 文面をそのまま読めば、中村さんは、日本企業は「在日が植民地出身という認識」をすれば韓国の最高判決を受け入れると思っているようです。 あまりに理解し難い内容です。 彼は韓国の反日民族主義に迎合しようとして、ハンギョレ新聞記者にこのように言ったのでしょうかねえ。

 考えてみれば、在日は今や三・四・五世の時代です。 もはや韓国語ができないので、祖国の人とのコミュニケーションがかなり難しいです。 それでも在日が祖国の人と何か共通する感情を持とうとするならば、日本はわが祖国を植民地化して搾取・収奪した、そして今も在日を差別抑圧している‥‥という被害者意識を掲げて日本を糾弾することくらいでしょう。 そしてそれが在日と祖国の人たちが共感を得る、ほとんど唯一の方法になっているのではないかと思います。

 今回のハンギョレ新聞の記事を読みながら、中村さんの発言をハンギョレが記事にしたのは、こういう被害者意識を共有化しようとする意図だろう、という感想を抱きました。 (終り)

【拙稿参照】

『ハンギョレ』中村一成氏への違和感(1) https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/07/30/9513291

『ハンギョレ』中村一成氏への違和感(2) https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/08/03/9514505

在日は「生ける人権蹂躙」?-『抗路』巻頭辞 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/01/31/9460212

『抗路』への違和感(2)―趙博「外国人身分に貶められた」  https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2021/06/02/9383666

中村一成『ルポ思想としての朝鮮籍』(1) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2017/06/09/8589790

中村一成『ルポ思想としての朝鮮籍』(2) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2017/06/13/8593507

中村一成『ルポ思想としての朝鮮籍』(3) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2017/06/16/8598422

中村一成『ルポ思想としての朝鮮籍』(4) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2017/06/22/8601961

中村一成『ルポ思想としての朝鮮籍』(5) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2017/06/25/8603941