朝鮮人陶工の歴史(1)―こうして歴史は作られる2024/07/15

https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/07/10/9699962 の続きとしてお読みください。

 豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役―韓国では〝壬辰倭乱・丁酉再乱″)の際に、鍋島や島津などの日本軍は朝鮮人陶工を連行し、自領で陶磁器を焼かせたという歴史が語られており、最近映画まで制作されています。

 ところで鹿児島の沈壽官について、韓国の『ハンギョレ新聞』が通説・俗説を批判する記事を出しました。 2023年12月12日付けで日本語版が出ています。 https://japan.hani.co.kr/arti/culture/48627.html  記事のタイトルは次のようです。

日本に拉致された「ある朝鮮人陶工の神話」…真実は本貫も族譜もわからない

ノ・ヒョンソクの時事文化財_拉致された陶工の神話を探る(1)

 この記事の中で注目すべきことは、『ハンギョレ新聞』は第15代沈壽官さんを取材し、その際に次のような質問と応答があったことです。

―沈壽官先生の先祖は朝鮮で陶器を作っていた職人だったのでしょうか。 それとも白磁を作っていた職人だったのでしょうか。

「日本に来た私の先祖の1代目の職人(沈当吉)は陶磁器を焼いた人ではないと考えています。 陶磁器も土器もどちらも作っていなかったようです」

 沈さんの初代先祖は陶工ではなかった、ということです。 それまで薩摩焼の起源は、〝島津軍が朝鮮人陶工を連行してきて陶磁器を焼かせた″ことから始まるという話だったのですが、それとは明らかに違っています。 ですから記者と同行した教授らは驚きました。

全く予想できなかった返事が返ってきた。7月29日、九州の鹿児島県みやま市にある陶芸家の沈壽官さんの窯の作業場の会議室で開かれた沈さんとの対談の場は、パン・ビョンソン教授の調査団のメンバーを当惑させ疑問を持たせた。

 『ハンギョレ新聞』は沈さんの発言に対して「全く予想できなかった返事」「当惑」「疑問」と驚いています。 ところが沈壽官窯の公式HPにある「沈家のあゆみ」には次のように書かれています。 http://www.chin-jukan.co.jp/history.html

「慶長三年(1598年)、豊臣秀吉の二度目の朝鮮出征(慶長の役)の帰国の際に連行された多くの朝鮮人技術者の中に、初代 沈 当吉はいた。 ‥‥見知らぬ薩摩(現在の鹿児島)の地で、祖国を偲びながら、その技術を活きる糧として生きていかねばならなかった。 陶工達は、陶器の原料を薩摩の山野に求め、やがて薩摩の国名を冠した美しい焼物「薩摩焼」を造り出したのである。」

 これを読めば、沈壽官家の初代(一世)である沈当吉は朝鮮で陶磁器を焼く陶工技術者で、その技術を持ったまま日本に連行された、と思うでしょう。 しかし当の子孫がそれを否定したのでした。 沈当吉は最初から陶工ではなかったというのです。 さらに沈さんは話を続けます。

「土器や陶磁器を作った人たちは姓もない賎民でした。 先祖の沈当吉には姓があり、幼い頃には讃(チャン)という名前もあったそうです。 400年前の朝鮮では姓を持つ人は一部だったと思います。 当時鹿児島を支配していた島津一族の軍が釜山(プサン)で捕らえて連れてきた捕虜をキンカイ、つまり『金海』と呼んでいました。 人の名前の代わりに釜山近郊の金海(キムヘ)の地名で呼んでいましたが、後にこれが彼らの姓になりました。 私たちの先祖は初代は陶工ではなかったと私は考えています。 焼き物(陶磁器)はここに来てからするようになったようです。 陶工が幼名を持っているなんてありえませんから」

 沈さんは、〝土器・陶磁器を作る人は「賤民」であって姓がなかった、しかし自分たちの初代である沈当吉には姓があり幼名もあった、 だから初代は賤民ではなく、もっと身分が高かった、そんな身分の高い人間が陶磁器を焼くはずがない″と話したのです。 彼は「私たちの先祖の初代は陶工ではなかったと私は考えています」と言い、陶磁器を焼くようになったのはそれ以降の世代だと語ったのでした。

 この沈さんの話が本当だとしたら、朝鮮の陶磁器は日本の薩摩焼の歴史につながりません。 薩摩焼は沈壽官家の二代目以降に新たに窯を開き、陶磁器を焼いたことになりますから断絶しています。 薩摩焼は「朝鮮をルーツに持ち‥‥」という説が広まっていますが、当の子孫がそれを否定したのでした。

 なお『ハンギョレ新聞』の記事では、「彼の発言は、日本国内の朝鮮人拉致陶工の本貫と現地への到着の経緯、作業活動の性格について、両国の学界とメディアでもう少し綿密かつ深層的な事実の探査が必要だということを示唆している」と、冷静にまとめています。

 沈さんがこのように発言するようになったのは、彼の先祖ルーツ探し活動と関係があるようです。 記事にはこうあります。

何よりも最近の沈さんの活動で目を引くのは、先祖のルーツを訪ねたことだ。昨年5月、尹錫悦(ユン・ソクヨル)大統領の就任式に招待された際、青松の沈氏の宗親たちに会い、金浦に先祖の沈当吉の父親の沈友仁(シム・ウイン)と祖父の墓地があるという話を伝え聞き、その年の7月に礼服を着て墓前に行き、法事を行い子孫であることを告げたのだ。

昨年と今年にかけて、本貫だと明らかにした慶尚北道青松(チョンソン)と、先祖の沈当吉が拉致されたという全羅北道南原、先祖の墓があるという京畿道金浦(キンポ)などの地を訪問し‥‥

 青松沈氏といえば、李朝時代に領議政(日本の太政大臣に当たる)を10人も出すのほどの権勢家で、両班(ヤンバン)中の両班です。 沈壽官さんはこの名門両班に列せられたのです。 両班は貴族階級なので、汗水流すような肉体労働を絶対にしてはならないものです。 しかし陶工はそれこそ汗を流しながら窯を焼くのですから、両班がする仕事ではありません。 それは賤民がするものでした。 

 ところが沈壽官家は両班に列せられたのですから、初代の沈当吉は両班でなければならず、賤民の陶工であっては困るわけです。 ここで上記の沈さんの発言が理解できます。 〝陶工は賤民であるから、両班である我が沈壽官家の先祖が陶工であったはずはない″という主張なのです。

 それでは、沈壽官家はいつ両班なったとされたのか。 それは次の記事で判明します。

青松の沈氏一族は数年間隔で族譜を再刊行しているが、2000年に発行された「庚辰譜」の族譜では言及されていなかった沈当吉が、2017年の族譜「丁酉譜」には、義禁府の都事などを担った沈友仁(1549~1611)の息子である讃の最初の名前として突然登場する。

 「族譜」とは「家系図」のことで、朝鮮では両班の族譜に登載されるとその宗族の一員となって両班になります。 つまり沈壽官家はほんの7年前の2017年に両班である青松沈氏の族譜に登載されて、両班階級の仲間入りをしたのでした。 

 それでは沈壽官家が青山沈氏であったというのは、どんな根拠に基づいているのか、です。 記事はこう書いています。

先祖が南原など朝鮮で活動した経歴について言及していた内容は、一族の口伝と陶工の沈当吉が拉致された朝鮮の本来の居住地を南原とした著名な作家の司馬遼太郎の小説『故郷忘じがたく候』以外には明確な根拠は見いだせない。 ‥‥本貫が青松で、南原で先祖が活動し、金浦に先祖の墓があることを示す朝鮮時代や日本の江戸時代の客観的かつ明確な記録と物証は存在しない。

 つまり根拠は、明確なものとしては司馬遼太郎が1968年に発表した小説『故郷忘じがたく候』だけなのです。 小説ですから、いくら歴史とはいえフィクションです。 56年前のこの小説が根拠となって、沈壽官家は7年前の2017年に両班階級に上り詰めたのでした。 

 そして『ハンギョレ新聞』は、取材に同行したパン教授の指摘を記します。

パン教授は「戦闘中に捕虜になった貴族階級の武官が日本に連行され、身分の低い陶工にすぐに転業した後、新たな技術を習得して原料を見つけて難易度の高い白磁を作りあげたという話は、常識的には不可能なことであり、日本のどの記録にもみられない」としたうえで、「いかなる歴史的物証も見当たらないにも関わらず、沈壽官一族の1~15代目を青松沈氏の族譜に唐突に編入させたことも納得できないこと」だと指摘した。

 確かにこの疑問というか批判は当然です。 『ハンギョレ新聞』は記事の最後で、次のようにさらに厳しく批判します。

検証された根拠もなしに族譜に先祖の系譜を入れるなど、事実を加工しているという疑惑を呼んでまで神話を作りだすことは、後世に耐えがたい歴史的混乱を招くことになりうる。

 この批判は正論だと考えます。 こうして朝鮮人陶工の歴史は作られるのでした。 (続く)

壬辰倭乱後、祖国に残った朝鮮陶工たち(1)https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/06/28/9696684

壬辰倭乱後、祖国に残った朝鮮陶工たち(2) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/07/05/9698602 

壬辰倭乱後、祖国に残った朝鮮陶工たち(3) https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/07/10/9699962

壬辰倭乱後、祖国に残った朝鮮陶工たち(3)2024/07/10

http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/07/05/9698602 の続きです。

https://www.youtube.com/watch?v=XlKtYk_nQR0&t=18s 

技術放置の惨酷な結果 (11:42)

 原文は「放置」ですが、「放ったらかし」あるいは「無視」「軽視」という意味ですね。

先端磁器製造技術の保有国がその技術者と生産品を軽視した結果は惨酷でした。 1597年の丁酉再乱(豊臣秀吉の慶長の役)の時、日本の将軍たち、鍋島直茂そして島津義弘は行く先々で朝鮮の沙器匠を大挙して連行していきます。 朝鮮の記録では連行したとなっていますが、日本の記録では自発的に応じて行ったとなっています。 この日本軍が荒らし回った慶尚道と全羅道、忠清道、咸鏡道、江原道です。 官窯がある京畿道広州は含まれていませんでした。 ですから各地域で民窯を運営していた沙器匠が大挙して拉致された、という意味です。 

 ここは私が知らなかったところで、慶長の役の際、鍋島や島津などの日本軍の進軍経路には確かに京畿道広州はないですねえ。 ですから官窯の陶工たちはこの時に日本に連行されなかったということです。 日本軍が朝鮮人陶工を連行したというのは、民窯の陶工(沙器匠)だったということは間違いないでしょう。 従って官窯の陶磁器生産技術は奪われることなく残ったのでした。

 ところで先述したように官窯では定員が1140人から380人に減らされたのですから、排除された陶工たちは各地の民窯に行ったものと考えられます。 そこには官窯の白磁生産技術を持った陶工も含まれていたでしょう。 ですから日本軍が民窯の陶工を連行した中に白磁を焼くことを知る者がいたと推定できます。 さらに彼らが日本で有田焼や薩摩焼の白薩摩など、磁器生産を始めて発展させたと思うのですが、どうでしょう。

 なお日本の進軍経路に「咸鏡道」が入っているのは、その前の文禄の役のことと混乱したと思われます。 文禄の役では加藤清正が咸鏡道まで進軍しましたが、慶長の役では日本軍は朝鮮半島南部に限られます。

その連行された陶工たちが本国朝鮮に帰還したという記録は、どこにもありません。 しかし本人たちが本国送還を拒否したというのは、日本の記録はもちろん朝鮮通信使の記録にもたくさん出てきます。 理由は十分に考えられるでしょう。 朝鮮では名前を残せなかった朝鮮沙器匠の後孫たちが、日本では「李参平」「沈壽官」、このような名前になって、今もその後孫たちが活動しているのですから。 朝鮮では無名でしかなかったあの賤しい身分の人たち、ひょっとしたら飢え死ぬ運命に置かれたかも知れないあの人たちが日本に行くと、とてつもなく素晴らしい製品を作っているのです。

소지등록という書類があります。 旧韓末(19世紀末~20世紀初)に外交担当部署である統理衙門の書類を集めた文書です。 1891年2月16日付けに、李ポンハクという人が建議した内容が記されています。 内容は次です。 「我が国の職人は100種の製造技術が極めて遅れていて、特に沙器匠・陶工が深刻なので、外国製品に押されて廃業するのが多数である。 だから日本の職人二人を雇用して学ばせたいのでご許可を願いたい」。 はっきり言って、ゲームは終わったのです。 あのように白磁と青磁を生産していた彼の国は影も形もなくなり、日本から学ばねばならないから許可をくれ、というのです。

 「소지등록」というのが、どこを探しても見当たりません。 仕方なくハングルのままにしました。

 結局、朝鮮はかつて白磁・青磁を生産するほどの技術があったにもかかわらず、その技術は消滅し、今や日本からそれを学ばねばならなくなったのでした。

このような状況を1900年のロシア政府の調査団が次のように要約します。 「韓国人たちは製造技術の分野ではかつて隣国の日本人たちの師匠だった。 日本は陶器や漆器などを韓国から学んでいった。 しかしそれから、韓国人たち自身はこの製造技術を完成させることができなかっただけでなく、過去の水準を維持する能力さえ持たなくなった。 最近ではさらに退歩して、ほとんど例外なく悲しい状態に置かれている。 現在の粗雑な磁器製品を見れば、かつて日本人たちが韓国人たちからその技術を伝授されたということは想像できない」ということです。

1881年です。 調査視察団、紳士遊覧団といいます。 その調査視察団の団員として日本に行って来た若い官僚、魚允中が高宗に次のように報告します。 「日本に何か隠し事があるのかどうかは我々の問題であって、彼らの問題ではない。 我々が富強の道を歩むようになれば、彼らはわざわざ隠し事をすることはない。 隣国の強さは我々には福ではない」と言うのです。

 最後の「隣国の強さは我々には福ではない」という魚允中の言葉は、おそらくは、日本が強国であれどうであれ、まずは自国が強国とならねばならない、だから日本に頼ろうとしてはならない、強国の日本は我々には幸福をもたらすものではない、という意味と思われます。

あきれたことに、後日高宗は、皇帝になった高宗は、強国となった隣国の陶器会社であるノリタケに大韓帝国の李花模様の入った湯器を注文して使ったのでした。 先端窯業技術国家の完全な没落です。

いま私たちは「朝鮮」でもなく「大韓帝国」でもありません。 我々はこの技術を持って世界で活動している「大韓民国」で暮らしているのです。 「地の歴史」 パク・ジョンインでした。 

壬辰倭乱後、祖国に残った朝鮮陶工たち(1)https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/06/28/9696684

壬辰倭乱後、祖国に残った朝鮮陶工たち(2) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/07/05/9698602 

【追記】

 日本に連行された朝鮮人陶工は、「李参平」「沈壽官」という名前で有田焼や薩摩焼を興しました。 このうち沈寿官については、司馬遼太郎が『故郷忘じがたく候』という小説にしており、これに基づいて最近「ちゃわんやのはなし」という映画まで制作されました。

 司馬遼太郎の小説『故郷忘じがたく候』の題名は、江戸時代に京都の町医者が薩摩焼の村を訪ねた際に、村の庄屋さんである「伸侔屯」が「故郷忘じがたしとよく言われるが‥‥」と語ったのを聞いたところから取ったものです。(下記参照) 「故郷忘じがたし」は中世~江戸時代の日本の慣用句であり、庄屋さんはそれを口にしたのでした。 ですから自分の故郷を具体的に思い出したのではなく、世に〝故郷忘じがたし″という諺がありますが私も一度訪ねてみたいものです、という程度のものでした。

 先祖が日本に連行されてから200年、今風に言うと〝在日六世″あるいはそれ以上で、朝鮮に残っているはずの親戚らとは縁が切れています。 そして日本ではそれなりの地位を得て経済的にも安定した生活を送っていました。 果たして賤民身分として暮らした朝鮮の故郷を「忘れられない」という感情・感覚を有していたのかどうか、疑問です。

 しかし、司馬はこれを〝薩摩焼の朝鮮人陶工たちは日本軍に強制連行されてきたが、故郷をいつまでも忘れられずに民族を維持してきた″という風にアレンジして小説を書き、世に広めたと考えられます。 (終わり)

『故郷忘じがたく候』の元となった逸話(1)https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/01/02/9647749

『故郷忘じがたく候』の元となった逸話(2)https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/01/09/9649336

【追記】

昨年12月11日と18日付けの『ハンギョレ新聞』に薩摩焼沈壽官のことが出ていましたので、ご参考ください。 日本語版は下記です。 朝鮮人陶工に関しての俗説・憶説を批判していますね。

https://japan.hani.co.kr/arti/culture/48627.html

https://japan.hani.co.kr/arti/culture/48692.html

壬辰倭乱後、祖国に残った朝鮮陶工たち(2)2024/07/05

https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/06/28/9696684 の続きです。

https://www.youtube.com/watch?v=XlKtYk_nQR0&t=18s

職業選択権がなかった陶工たち (4:18)

それでは、この陶工たちはどのようになったでしょうか? 磁器製作は技術を学ぶのに時間が多くかかります。 また安定的な磁器供給のためには、官窯に適正人員が常に必要だったでしょう。 だから官窯で陶器を作る陶工たち、沙器匠は世襲職になります。 1542年に編纂された法令集があります。 『大典後続録』という法令集ですが、これを見ると沙器匠はその業を代々に世襲すると規定されています。 また先ほど申し上げた『経国大典』には、王室磁器管理機関である司甕院、「司甕院」といいます、この司甕院所属の沙器匠の人員を380人に規定しました。 定員が380人で、これを維持しろという意味ですね。 最初は全国の沙器匠1140人を3年単位で選び出して交代させました。 

ところでこれは粛宗の時に、最初から官窯の周辺に村を作って暮らす専属職人たちで官窯を運営しました。 どういうことかと言いますと、職業選択の自由、居住地移転の自由が剥奪された世襲職人だったという意味です。 この人たちは窯を焼く木を探して 京畿道広州のなかを移動し続けて窯を築き、陶器を作りました。 320基を越えました。 今発掘調査されたものだけです。 この広州内の窯周辺には、沙器匠たちとその家族で大きな村を成しました。

 文禄・慶長の役以前の15世紀の朝鮮では、陶磁器の公的生産機関として官窯が整えられました。 なお後述しますが、慶長の役の際、日本軍はこの官窯がある広州には至っていません。 ということは広州官窯の陶工は、日本に連行されなかったのでした。

飢え死にした陶工たち (5:47)

ところが1697年のある春の日、その広州で陶工39人が一度に飢え死んだのです。 どうしてそうなったのでしょうか? 陶工はその職業が賤しい工人です。 身分は賤民であったり、平民であっても賤民扱いを受ける「身良役賤」の人たちが大部分でした。 彼らは陶器を焼くという業務以外には、何の仕事もしてはならないのでした。 1697年、広州の官窯から中央政府に送った報告書には、このように書かれています。 「彼らは農業や商業で生計を立てる道がなく、昨年は私的に陶器を焼くこともできず、みんな飢えるようになりました。」 一人二人でもなく、40人にもなる専門職業人が一度に飢え死んだのです。 飢え死にした者は39人であり、力尽きて動けない者が63人です。 家族がちりぢりになった家が24戸出ました。 残った人たちも、陶器を作れない境遇だったといいます。

 李朝時代、朝鮮では陶工は身分が「賤民」であったことは覚えておかねばならないことです。 「조선팔천(朝鮮八賤)」に「공장(工匠)」があって、これに当たるのではないかと思います。 汗水流して働く肉体労働者は、奴婢なんかと同じ賤民階級だったのです。

官窯から逃亡した者はむち打ち百回、そして懲役3年の刑に処罰されるという、そんな規定もあります。 それくらいに辛かったために逃亡した人がいて、そのために逃亡した人を処罰する規定まであったくらいに辛かったという話です。 朝鮮政府は守ることのできない法で、耐えることのできない義務を、国家の需要のために強制していたのです。

この報告書に、こんな話が出てきます。 「사번」私的に陶器を焼くことができなかったという件が出てきます。 個人用途で陶器を焼いてはならない。 つまり官窯にある器物と装備を使って、私的に陶器を焼いて売って自分の生計維持をしてはならない、ということです。 国家の財産と施設で個人の利得を手に入れた犯罪行為、犯罪だとして処罰する、としていたのです。 しかしながら、こんな状況で「사번」個人用途で器を焼くことは公公然に行なわれ、黙認された慣行となっていました。 なぜなら農業もできないようにして、農作業も商売もできないようにするのですから、そこにある装備、遊休装備を利用して私的利得、営利行為をすることを黙認してきたのです。 ところがこれを公式的にちゃんと禁止し始めたのでした。 

 「사번」が何なのか分かりません。 普通は「四番」となるのですが、それでは意味が通らないようです。 煩わしいという意味の「事煩」もありますが、これも意味が通りません。 分からないので、そのままハングルで表しました。

禁止された営利行為、技術の失踪 (8:26)

集団餓死が起きて57年が過ぎます。 1754年7月17日、当時の国王英祖がまたこのように宣言します。 竜が描かれた王室用の陶磁器の他に青花白磁生産を禁じると命じます。 この価格の高い回回青顔料が奢侈の風潮を助長するという、そんな理由でした。 よくご存じのように、英祖は潔癖症と言われるくらいに質素でした。 本人だけ質素でしたらよかったのですが、社会全体にこの質素を強要したのです。

英祖はまた次のように話します。 「技巧と奢侈の弊害を防ぎ、職人たちの仕事を減らす、装飾のついた扇の製作を禁止する」と。 社会内でお金が回り、生産活動を維持しようとするなら、高級製品も作られねばなりません。 ところが英祖は最初からすべてのものを禁止する方向に、国家経済を主導していったのです。

 これは日本では質素倹約を旨として贅沢禁止を命じた〝寛政の改革″と同じようなものなんでしょうねえ。 高級品を作らなくなったら、生産技術は低下するということです。なお英祖がこのような贅沢禁止令を出したというのは、ちょっと調べてみましたが、分からなかったです。

英祖に続く正祖も、政策は似たものでした。 在位15年目の1791年9月24日、正祖はこのように命じます。 「怪異な陶器を秘密裏に作った者は処罰せよ」。 そして4年後に正祖はまた次のような命を下します。 耐熱製品、「匣鉢」と言います、「匣鉢を蓋にして塵や破損を防ぐ高級磁器の製作を禁じる」。このように蓋をかぶせて使う陶器を作る行為を「匣燔」と言います、こう言えば、もう少し高級な製品が連想されるのでしょう。 そしてこれを禁止したのです。

 「匣鉢」「匣燔」なんて全く知らなかった単語です。 本文で説明してくれているので、意味は分かります。 韓国でも一般人は知らない専門用語なのでしょうねえ。 次からは「匣鉢」を「蓋付き高級磁器」、「匣燔」を「高級磁器製作」と訳します。

そして正祖がこの官窯に人を送りました。 この官窯に御史(地方行政を監視する官吏)を派遣して状況がどうなのか調べて来いと言ったのです。 そうしたら御史は戻って来て高級磁器製作を許容すべきだ、高級製品を作ることができるからと報告します。 そうしたら、この御史を「とんでもない」として義禁府(大罪人の取り調べを行なう官庁)に引き渡して取り調べをさせます。 高級磁器製作を禁じ、御史監察を指示した理由はこうです。 「陶器の浪費は奢侈風潮の一面である、高級磁器製作を禁止すれば沙器匠たちは利得できないとは、これより怪しいことがあるだろうか?」

すでに7ヵ月も前に高級磁器製作禁止問題が案件に上っていました。 御前会議で、です。 朝廷ではこのような合意がなされていました。 どういう合意かといえば、「以前にもそれなりに生計を立てていたはずなのに、困っているとは敢えて言えないのではないか。」 だからどのように生計を立てていようがいまいが知らないし、ともかく高級磁器製作することを禁止するというのです。

 「御史」とは暗行御史のことで、地方行政を監視するために秘密に派遣した国王直属の官吏です。 韓国ドラマの時代劇に時おり出てきますね。 

 高級磁器を生産しなくなったということは、そんな技術がなくてもできるキムチ甕などの日常雑器ばかりを生産したということです。 ただし官窯ですから、納入先は朝廷に限られます。

もっと本質的な理由がありました。 技術者だけに差別的に適用されるという、偽善的な倫理と法です。 「사번を許容すれば貴賤の区別がなくなり、法秩序が確立しない。」 사번を許容すれば、その者たちは金儲けをするようになる、そうなれば貴賤の身分区別がなくなり法が確立しない、というのです。 これが正に国王の正祖も言だったのです。 賤しい沙器匠が利益を得れば規律が守れない‥‥そんな社会のなかで、先端窯業技術者が飢え死にしていったのです。 技術者が死ねば、技術も一緒に死にます。 (続く)

壬辰倭乱後、祖国に残った朝鮮陶工たち(1)https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/06/28/9696684

こんな学生さんがいるのですねえ2024/07/02

 今日のハフポスト日本版に「日本の植民地支配は『現代人には関係ない』のか。エンタメ・美容・食だけじゃない、韓国の街と市民運動に学ぶこと」という長ったらしい標題の記事が出ました。 https://news.yahoo.co.jp/articles/477f9a81112b7f753b27b4af60674ff2eb0c663f 

 今どきこんな学生さんがいるのだな、珍しいなあなどと考えながら読んでいると、2年半ほど前に書いた拙ブログを思い出しました。 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2021/11/06/9437960 

 この時に週刊朝鮮の編集後記に出てきた日本人学生さんの言っていることと、今回のハフポストに出てくる学生さんの発言がほとんど全く同じです。 ということは、同一の日本人学生グループのようです。

 彼らは一橋大学のゼミ生と思われますが、資料を悉皆調査して研究するのではなく、社会に主張することの方に重点が置かれていると思われます。 しかも「現代人には、差別と排除の構造を解体していく責任がある」などと、上からの目線で大人たちに要求するような意見ばかりが前面に出てきています。

 ゼミならば教官は、賛成意見も反対意見もすべて収集して検討することを学生たちに指導すべきだと思うのですが、どうなんでしょうか。 テキスト自体が偏ったものを使っているのではないか、あるいはゼミ自体が運動団体化しているのではないか、という疑問を抱きます。

 4年前の毎日新聞に、「在日コリアン『差別生んだのは、私たちの社会』 京都女子大ゼミ生学ぶ 座学や学校訪問、一から理解深め」と題する記事が載り、拙ブログでも取り上げました。 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2019/08/15/9141168 

 よく似た大学ゼミが日本の東西にある、ということなのでしょうかねえ。

壬辰倭乱後、祖国に残った朝鮮陶工たち(1)2024/06/28

 いま日本では「ちゃわんやのはなしー400年の旅人」という映画が上映されていて、ちょっとした話題になっているようです。 内容は豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)の際に日本に連れてこられた陶工の話です。 司馬遼太郎の小説『故郷忘じがたく候』に準じて、薩摩焼の沈壽官さんが主役となっています。

 ところで朝鮮では秀吉の朝鮮侵略(韓国では壬辰倭乱・丁酉再乱といいます)の後、朝鮮半島に残った陶工たちはどのような生活を送ったのか、また朝鮮での陶磁器生産はどうなったのか。 これについてはあまり知られていないようです。 韓国のユーチューブにそれについて解説するものがありましたので、それを紹介したいと思います。 映像の解説を聞き取り、字幕を参考にしながら訳してみました。 なかにはどう調べても意味の分からない単語が出てきましたが、それはそのままハングルにしております。

https://www.youtube.com/watch?v=XlKtYk_nQR0&t=18s

陶工39人集団餓死事件と先端窯業国家朝鮮の没落

1697年の春、広州で陶工39人が一度に飢えて死んだ。 一人や二人ではなく、40人近くの専門職業人が一度に餓死するとは! 飢え死んだ者は39人であり、力を失い動けなくなった者は63人、家族が散り散りになった家は24戸だった。 残った者たちも陶器を作ることができない状況だ。(1697年閏3月2日付け『承政院日記』)

 これがこのユーチューブのタイトルと前置きです。 李朝の朝廷の事務機関が作成する業務日誌の「承政院日記」から、当該部分をそのまま書き写しています(ただし現代韓国語訳)。 今の広州市の沿革には「15世紀―この頃から官窯(広州官窯)がおかれ、白磁の製作が盛んとなる」とありますので、ここが今回の話の舞台です。

みなさん、こんにちは。 「地の歴史」のパク・ジョンインです。 今日は「地の歴史」135回目の時間です。 今日のテーマは「陶工39人集団餓死事件と先端窯業国家朝鮮の没落」です。 

みなさんご存知のように、朝鮮の白磁そして高麗の青磁はともに大韓民国が世界万邦に誇る文化遺産です。 奇麗で美しく優雅で風格があります。 先ずはこの白磁に関する三つの資料を見てみましょう。

最初はソウルの国立古宮博物館にある大韓帝国皇室の白磁花柄壷です。(0:48) これは英国製です。壷の下にサイモンフィルディングという会社のマークがついています。 これはどうですか。(0:59) 大韓帝国皇室のシンボルマークが金色で入っている白磁李花模様の湯器です。 製造会社が日本のノリタケです。 製造年度は1907年です。 

 今の英国の陶磁器会社に「サイモンフィルディング」というのは見当たらないですねえ。 「ノリタケ」は今も有名な日本の陶磁器メーカーです。 「오얏꽃」を「李花模様」と訳しましたが、これは大韓帝国時代の李王家の紋章として使われていたものです。

ちょうどその頃、20世紀の初め、19世紀の後半、その頃ロシア帝国が朝鮮を狙っていたのですが、彼らが作った何と1256頁にもなる報告書があります。 『韓国誌』という標題が付いています。 その中にこのような内容が出てきます。 「日本が昔に韓国人から磁器の技術を伝授されたとは、想像できない」。

 ロシア帝国が作成したという『韓国誌』というのは、知りませんでしたねえ。

最後に1697年の肅宗の時の記録を見てみましょう。 「王立陶磁器工場である京畿道分院で飢えて死んだ陶工が39人にもなる。」 明、ベトナム、そして朝鮮。 これらは先端白磁源泉技術の保有国ですが、その一つの朝鮮で製造技術者たちが集団餓死して技術は衰退し、その結果、大韓帝国皇室では陶磁器は全て輸入して使っていたという矛盾した話です。

 「先端白磁源泉技術」は原文をそのまま直訳したのですが、意味は分かります。 

朝鮮白磁を見ることもできなかった朝鮮の百姓たち (2:13)

ちょっと遡って、1428年の世宗の時代です。 明の皇帝である宣徳帝が朝鮮国王の世宗に青花白磁を贈りました。 その時、朝鮮は青磁に白い釉薬を塗った粉靑沙器を作っていました。 ところで朝鮮はどんな国ですか。 高麗時代から象嵌青磁の製造技術が卓越していた国ですよ。 だから朝鮮は青磁より高い熱が必要な、もっと高い技術が必要な白磁生産に成功したのです。 乳白色の磁器に明から輸入した青の顔料である「回回青(コバルト顔料)」をかけるもので、明の皇帝からの下賜品である青花白磁の製造技術も直ぐに習得しました。 朝鮮王室は全国の陶工職人から官庁用青花白磁を税金として取り立て、官庁の需要に当てました。 全国各地にいる職人たちが税金の代わりに、このように磁器を作って献上したのです。 

そうして1467年、京畿道広州に王立磁器工場である官窯を設立します。 政府が直接に磁器を生産することが始まったのですよ。 ところで、この青花白磁を作る回回青という顔料は100%明からの輸入品でした。 そして明がすぐにこの回回青の輸出を禁止してしまいます。 朝鮮は技術があっても製品を作れないという稀有なことが起こりました。 

 「回回青」はいわゆるコバルトブルーです。 コバルトブルー顔料は日本でも生産できなかったので、江戸時代の日常に使うような茶碗などの陶磁器は鮮やかな青色ではなく、かなりくすんだ青色でした。 もしコバルトブルーの陶磁器が出てきたら、中世・江戸時代なら明からの輸入品の青花白磁、もしくはコバルト顔料が輸入されるようになった明治時代以降の製品なんて言われていました。 朝鮮も同じくコバルト顔料がなかったので、明から輸入していたのです。

朝鮮は次の方法を選択しました。 1485年、開国93年にして成文法法典を総合して完成した『経国大典』が誕生します。 そこにこのような条項が入っています。 「金や銀、または青花白磁で作られた器を使う庶民は鞭打ち80回に処す」。 庶民は青花白磁を使うことができなくなったという意味です。 逆に庶民より上の身分の人たちは、この高価な青花白磁を使用する独占的権利を持つようになったという意味です。 朝鮮白磁を朝鮮の庶民は見ることもできない、そんな時代が続きます。

 青花白磁は当時としては超高級品でした。 日本も同じで、中近世の遺跡発掘調査で青花白磁が出土したら、たとえ小さな破片でもビックリしますね。 (続く)

閔妃の写真―決着はついたはずだが‥(5)―反論2024/06/21

 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/06/16/9693342 の続きです。 https://www.youtube.com/watch?v=4rlfLoxFHPE を見ながらお読みいただくようお願いします。 (11:36)から始めます。

さらにマゴジャを着た男の写真は、日本の業者が写真葉書として作って販売していたものです。 葉書の表題は大院君ではなく、「朝鮮人の風俗(CUSTOMS OF KOREAN)」朝鮮の服装です。 英単語のスペルが間違っているのは、当時よくあることでした。 写真の中の人物自体が興宣大院君であるなら、葉書の業者たちが「大院君」の代わりに「朝鮮人」を表題に付ける訳がありません。 このように全ての脈絡が否定的であるにもかかわらず、ジョイがマゴジャ着た大院君を撮影した可能性はあるのでしょうか? 私はないと思います。

 「マゴジャを着た男の写真」は、(写真⑧)http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daihyaku40dai.jpg です。 これは絵葉書写真として販売されていたのですねえ。 しかも「朝鮮人の風俗」と正しくキャプションが付けられていたのでした。  

大院君が中国から帰国してから、高宗と閔妃は大院君に対して極度の警戒心と憎悪感を見せており、一切の対外接触を遮断しました。  甚だしくは、その時まで監獄にいた壬午軍乱の関係者たちを処刑し、大院君が家に帰る道に捨て置くことまでしました。 そんな状況で、外国人たちに接触することを許すでしょうか? とんでもないことです。 

 当時、大院君は外部との接触を厳しく禁止されていました。 ですから大院君は写真を撮ることができなかったのでした。

それにもかかわらず、この写真はすでに当時から今まで、たったの一回も疑うことなく大院君の写真として引用されてきました。 これは国内の新聞は信じず、外信を信じることと似ています。 西洋の新聞や雑誌に大院君と書かれているから、解放後も学会やマスコミ系ではそのまま大院君と認めてしまったのですね。 私もまた、そうでした。 怠慢です。

 「大院君の写真」なるものが西洋の雑誌や新聞に掲載されたので、後世の韓国人はそれを信じてしまったということですね。

そうして、大院君の写真⑧と背景が同じこの写真②を〝閔妃の写真″と主張する呆れた論争まで起きるようになったのです。 この写真②やこの写真⑦、すべて王妃閔氏と関係がなく、西洋人もしくは日本人が撮影して商業的に使った写真なのです。

 「商業的に使った写真」というのは、(写真②)http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daihyaku33dai.jpg と(写真⑦)http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daihyaku38dai.jpg のことです。

 (13:24)から、いよいよ中央日報に掲載された李泰鎮さんの説  https://www.joongang.co.kr/article/25240631 への反駁が始まります。 

それにもかかわらず、この写真をめぐって前国史編纂委員長の李泰鎮先生は、「明成皇后の写真なのに、日本人が華麗な背景を消して尚宮のように見せるように捏造した」と主張しました。 この方はもう何年も、この二枚の写真がすべて明成皇后に間違いないと言い張っています。

 「この二枚の写真」は、(写真②)http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daihyaku33dai.jpg と(写真⑦)http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daihyaku38dai.jpg です。

すでに結論が出ていても、もう否定された写真でも、この方は先月の4月にも中央日報に「抗日闘争の触発を憂慮して、王妃の写真を宮女に化けさせた」と言って、最初の王妃の姿の公開だとか文明がもたらした変革だとか、宮女の写真を作ろうとすれば風格にあふれるあの背景を消せなければならなかったとか、荒唐無稽は主張をしました。 だからこの写真を日本人の代表的な歪曲事例に選びます。 無理やりです。 ご覧の通り、背景をなくすのではなく、背景のない写真に背景を合成して新しい写真を作ったのですからね。

 「合成して新しい写真を作った」は、(写真④)http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daihyaku35dai.jpg のことです。

またエンカース・ハミルトンというイギリスの言論人が1902年に出版した「コリア」という本に、鏡を見る女性の写真が載っています。 この鏡の後ろに柵架が、李泰鎮先生が言うところの「風格あふれる背景」と同じものです。

 「鏡を見る女性の写真」は探してみましたが、ネット上では見つかりませんでした。 『歴史通』2012年1月号の10頁にこの写真が掲載されていて、これをスキャンしました。 (写真10)http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daihyaku39dai.jpg これには本文で論じるために鳥と鉢植えに○マークが付けられています。 余分なものがありますが、奥にある冊架はお分かりいただけるでしょう。 なおこの写真はユーチューブでは(14:34)にあります。 

一体このように無限ループに陥っている主張を、なぜ今でも固執しているのか、理由が分かりません。 日本と関連したことならば何であれ日本の責任にする、この無責任な反日主義は一般大衆を客観的近代史から遠ざける最大の敵です。  歴史は客観です。 事実で構成されます。 見たいものだけで埋められた歴史は、歴史ではなく小説です。

写真の話でした。  「地の歴史」、パク・ジョンインです。

 最後の結論ですが、全くその通りと言うほかありませんねえ。 (終わり)

閔妃の写真―決着はついたはずだが‥(1)―中央日報 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/06/01/9689180

閔妃の写真―決着はついたはずだが‥(2)―中央日報 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/06/06/9690640

閔妃の写真―決着はついたはずだが‥(3)―反論 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/06/11/9691981

閔妃の写真―決着はついたはずだが‥(4)―反論 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/06/16/9693342

  【挿図写真・絵画の一覧】

写真①: http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daihyaku32dai.jpg

写真②: http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daihyaku33dai.jpg

写真③: http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daihyaku34dai.jpg

写真④: http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daihyaku35dai.jpg 

写真⑤: http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daihyaku36dai.jpg 

写真⑥: http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daihyaku37dai.jpg

写真⑦: http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daihyaku38dai.jpg

写真⑧: http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daihyaku40dai.jpg

写真⑨: http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daihyaku41dai.jpg

写真⑩: http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daihyaku39dai.jpg

絵画①: http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daihyaku31dai.jpg

絵画②: http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daihyaku43dai.jpg

【拙稿参照】

閔妃の写真はなかった  http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/dairokujuuhachidai

(続)閔妃の写真はなかった http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/dainanajuusandai

閔妃の写真―決着はついたはずだが‥(4)―反論2024/06/16

http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/06/11/9691981 の続きです。

 https://www.youtube.com/watch?v=4rlfLoxFHPE を見ながらお読みいただくようお願いします。 (5:30)から始めます。

今度は、この写真が若い時の明成皇后の写真だという主張が出ています。 この「マゴジャを着た興宣大院君の写真」と背景が同一ですから、大院君と王妃閔氏を同じ日に同じ場所で撮影したという主張です。

 「若い時の明成皇后」の写真というのは(写真②)http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daihyaku33dai.jpg で、また「興宣大院君の写真」というのは(写真⑧)http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daihyaku40dai.jpg です。 (5:37)に、この二つの写真が並んで掲載されています。

 見れば分かりますように、背景の垂れ幕が皺も含めて同じで、敷物も模様が同じです。 ですから同じスタジオで、カメラも同じ位置に置いたまま、人物だけを入れ替えて撮った写真と言えます。 だから大院君と閔妃は「同じ日に同じ場所で撮影したという主張」が出てきたのです。

調べてみましょうか。 1882年、軍乱を起こした軍人たちは「王妃を殺し、大院君と太平を定める」と主張します。 軍乱以降の大院君は宮殿に入り、王妃閔氏が死んだと公式発表をして権力を握りました。 そうして二ヶ月にまだなっていない時に、忠清道長湖院に隠れていた王妃が宮殿に帰り、大院君は清の軍隊によって清国に拉致されます。 それ以降、大院君と王妃閔氏は、事あるごとに対立します。 ですからこの二人が同一の空間で同時に記念写真を撮ったという主張はあり得ないことです。

 当時の大院君と閔妃の状況です。 両者は舅と嫁の間柄ですが、文字通り生死をかける激烈な対立をしていました。 これは朝鮮近代史の必須の知識です。 ですから「二人が同一の空間で同時に記念写真を撮った」というのは考えられません。

さらにこの女性の写真は、チマがシースルーです。 仔細にご覧になると、チマの中の속바지(ズボン下)が見えます。 当時の王室の写真は、外交手段として使用されたりしました。 100%盛装して撮影したのですよ。 格式のない服装は許されませんでした。 だから王妃閔氏の写真だとして流通している写真は、すべて一般人をモデルとして撮影した写真です。 現存する王妃の写真は「ない」が正解です。

 (写真②)http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daihyaku33dai.jpg の女性は、チマの中にある속바지(ズボン下)が透けて見えます。 (6:25)に写真が拡大されており、透けて見える様子が確認できます。 つまり、このチマはシースルーなのです。 王妃たる者がこんな服を着た姿を公開するなんて、あり得るのだろうかという疑問は当然です。 

さあ、今からもっと本格的な探求に入っていきましょう。  「マゴジャを着た大院君」と、そして「スルーを着た女性」の撮影者は、ピエール・ルイ・ジョイというアメリカ人です。 壬午軍乱の1年後である1883年5月、初代駐韓アメリカ公使のフットと一緒に朝鮮にやって来ました。 ジョイはアメリカのスミソニアン博物館所属の鳥類学者です。 人類学的研究と標本収集のために入国した人ですね。

1891年のスミソニアン年例報告書にジョイの研究成果が載っています。 429頁から488頁までのところに、彼が撮影し収集した写真、収集した器物写真とともに説明が挿入されています。 そして434頁と435頁の間に、人物写真が載っています。 ここにあのシースルーの女性写真が載っているのです。

 最後の「シースルーの女性写真」というのは、(写真②)http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daihyaku33dai.jpg のことです。

写真の説明はこうです。 「朝鮮の宮女(Korean Serving Woman in The Palace)の夏の服装」 「頭は宮中の女性特有の装飾がある」 「上衣はいつも白色で、チマは青色だ」  「ただ王族だけが赤い服を着ることができる」 そして写真の出所は「ピエール・ルイ・ジョイ撮影」とあります。 この報告書に載った写真8枚に「ジョイ撮影」という説明が付いています。

ところでこの写真と、清国式のマゴジャを着た大院君の写真は、背景と照明が同一です。 ですからこの大院君の写真もまた、撮影者がジョイという意味になります。 ただしこの大院君が清国式の服飾をしているために、朝鮮の民族学報告書であるスミソニアン報告書からは抜けており、今はアメリカのハーバード大学博物館に所蔵されています。

 「清国式のマゴジャを着た大院君の写真」というのは (写真⑧)http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daihyaku40dai.jpg です。 確かにこの人物が着ているマゴジャ(外套)は朝鮮風ではなく、中国風のものです。 だから朝鮮の民族学報告書に出てこないのですねえ。

 (8:36)に、(写真②)と(写真⑧)とを並べて、人物は違っても背景と照明が同じなので撮影者は同一であり、それはジョイだと論じていますが、おそらくその通りでしょう。 

大院君は壬午軍乱直後の1882年8月27日、清国軍によって天津に拉致されます。 3年後の1885年10月5日に帰国した大院君は直ぐさま高宗によって雲峴宮に幽閉され、外部と接触が禁止されました。

ジョイが朝鮮に入国した日は1883年5月です。 その年の11月に釜山に行って税関で働きながら慶尚道地域の植物と鳥類を研究します。  1886年の夏に元山に行って標本採集踏査をしたことを除外して、ジョイは慶尚道を離れたことはありません。 その年の11月にジョイは日本の横浜に渡って後、アメリカに帰国して戻って来ませんでした。

それでは、大院君の中国在留の時期とジョイの活動時期を比較してみますか? ジョイが朝鮮に来た時は大院君は中国にいて、大院君が帰ってき時はジョイは釜山にいました。 そして二人の滞在期間が重なる何ヶ月かの間、大院君は雲峴宮に幽閉されていました。 ジョイと大院君が出会う機会はなかったということです。 だから大院君の撮影は不可能なのです。

1882年9月、清国の天津で撮影した大院君の写真と比較してみると、もっと明確になります。 この写真は大院君幽閉が決定された直後、清国政府が記録として撮影した公式の写真です。 日付と場所まで確定された「本物の大院君の写真」です。

 「本物の大院君の写真」とは、(写真⑨) http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daihyaku41dai.jpg です。 この写真の右中央下のところに「高麗国大院君‥‥」と書かれています。 (11:03)にその部分が拡大されていて、読むことができます。 「本物」であるのは間違いないでしょう。

この分厚い下唇を除外すれば、目元や鼻、耳の位置、耳の様相がすべて違います。 特に耳の形は指紋と同じように、それぞれの人によって違っているので顔面認識システムに使われています。 それくらいに違います。  他人だということです。

 (写真⑧)http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daihyaku40dai.jpg と(写真⑨) http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daihyaku41dai.jpg は赤の他人ということです。 (11:07)に、両者の顔を並べて比較しています。

1880年の61歳記念の肖像画と中国で撮った写真は、これらの要素が類似しています。 反面、マゴジャを着た男と肖像画の中の大院君は、同一人物と見るのが難しいです。

「61歳記念の肖像画」というのは(絵画②)http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daihyaku43dai.jpg です。 (写真⑨) http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daihyaku41dai.jpg の顔と並べて比較したものが(11:25)にあります。 似ていると言われれば、似ていますねえ。

「マゴジャを着た男と肖像画の中の大院君」は(写真⑧)http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daihyaku40dai.jpg と(絵画②)http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daihyaku43dai.jpg で、両者の顔を並べて比較したものが(11:30)にあります。 違っていると言われれば、違っていますねえ。 (続く)

閔妃の写真―決着はついたはずだが‥(1)―中央日報 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/06/01/9689180

閔妃の写真―決着はついたはずだが‥(2)―中央日報 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/06/06/9690640

閔妃の写真―決着はついたはずだが‥(3)―反論 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/06/11/9691981

閔妃の写真―決着はついたはずだが‥(3)―反論2024/06/11

http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/06/06/9690640 の続きです。

 先に拙コラムで、韓国の『中央日報』に、〝閔妃の写真は存在し、日本がそれを宮女の写真であるかのように変造した″というコラム記事が載ったことを紹介しました。 これを厳しく批判する「땅의 역사(地の歴史)」というユーチューブがありましたので、紹介します。  https://www.youtube.com/watch?v=4rlfLoxFHPE 

怪談ばかり(5) [パク・ジョンインの地の歴史]188 シースルーの女が閔妃で、マゴジャの男が大院君だと?

 原文は「괴담 종족(5) [박종인의 땅의 역사] 188 시스루 여자가 민비고 마고자 남자가 대원군이라고?」となります。 「종족」は漢字語で「種族」ですが、それでは日本語として意味が通りませんので「ばかり」としました。 「マゴジャ」はチョゴリの上に着る外套のことで、「マゴジャ」とそのまま書き表しました。

 このユーチューブには日本語版がありませんので、聞き取りしながら翻訳しました。 全訳ではなく、主要部分の翻訳です。 全体の8割くらいですかねえ。 また映像では写真がかなり出てくるのですが、その映像から写真自体を選び出してコピーすることはできませんでした。 そこで同じ写真を探し出してきて、リンクを適宜に貼り付けました。 

 映像ではちょっと前置きがあって、(0:55)から始まります。

みなさん、こんにちは。 地の歴史、パク・ジョンインです。 今日のお題は、「シースルーの女が閔妃であり、マゴジャの男は大院君だと?」です。

高宗の妃である閔妃氏は、問題のある人物です。 彼女を明成皇后と呼べば民族的だといい、閔妃と呼べば親日的だと言ったりします。 今日は中間の立場を取って、「王妃閔氏」と呼びましょう。 名前が「閔玆暎」だという言う人がいますが、「閔玆暎」という人物は小説家がつけた名前です。 

 「閔妃」のウィキペディアでは本名として「閔玆暎」が出てきます。 しかし李朝時代の朝鮮の女性は賤民でなければ名前がありません。 従って「閔玆暎」はあり得ないと思っていたところ、小説家がつけた名前だそうで、これで納得。 近年にフィクションとして付けられた名前ということです。 しかし韓国ではこれが歴史事実として定着しつつあるようです。

さあ、これから写真の話をします。 何年か前までは、写真が王妃閔氏の写真だとして、国史教科書に載っていました。 かんざしを挿した形式と服飾が王室の女性に当たるという考証が出てきて、この写真は一時王妃閔氏の写真として確定されました。 しかし王妃の可能性がないという主張が力を得て、この写真は教科書から削除されましたね。 ところがまだ市中には、この写真が明成皇后の写真だということで通っています。

 ここでいう「写真」とは、(写真⑦)http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daihyaku38dai.jpg のことです。 映像では(2:52)のところで出てきます。

 「明成皇后」は閔妃の追号です。 「明成皇后」「閔妃」「王妃閔氏」は同一人物になります。

このように一度事実だと固まってしまえば、それを否定することは容易くありません。 またかつてはこの写真の女性が王妃閔氏だという主張が提起されました。 ところがこの主張は激烈な学界の論争の末に王妃ではないということで結論が出て、姿を消していました。 しかし一般大衆の相当数は相変わらず、これらの写真を「明成皇后」として受け入れているのですね。

 (写真②)http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daihyaku33dai.jpg と上記の(写真⑦)の二枚が「閔妃の写真」とされているのです。 映像では(3:39)に出てきます。

イタリア外交官のカルロ・ロジェシティーという人が書いた『コレア コレアニ』(1904)という本があります。 翻訳本も出ています。 この翻訳本の272頁に、この写真があります。 写真の説明は「宮中の身なりをした宮殿の女性」です。

 これは(写真④)http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daihyaku35dai.jpg です。 (3:57)に出てきます。 (写真④)と(写真⑦)は背景が全然違います。 しかし人物の女性だけを見ると頭の先から足の先まで、服の皺も色も影も含めて全く同一です。 ということは人物の部分だけを切り取って、別々の背景にはめ込んだのでないかという推測が成り立ちます。

ところで277頁には「キーセンの衣服 一組」という説明とともに、この写真が載っています。

(写真⑥)http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daihyaku37dai.jpg (4:07)です。

この写真⑦とこの写真⑥を合成すれば、王妃閔氏の写真とされるこの写真④が出てきます。 この写真④の中の敷物の前の方にある足が、不自然に浮いているのが見えます。 また右側のカーテン、左側の色とりどりの長衣、後ろ側の冊架の配置は、人物のいないこの写真⑥と同一です。

 (写真④)を見れば、確かに左足(向かって右側の足)は浮いているように見えます。 (4:19)にその部分写真があります。 そして(写真④)の背景と(写真⑥)とは、カーテン、敷物、衣服、置物などの位置・模様・皺・影に至るまで全く一致しています。 (4:31)

 ということは、(写真⑦)の女性の全身をきれいに切り取って(写真⑥)にはめ込み、(写真④)の合成写真を作った、だから(写真④)の女性の左足が浮き上がっているように見える、ということで間違いないと思われます。

(写真④)http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daihyaku35dai.jpg

(写真⑥)http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daihyaku37dai.jpg 

(写真⑦)http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daihyaku38dai.jpg 

 なお「冊架」とは本棚のことで、これを描いた絵が「冊架図」です。 李朝時代には屏風にこのような絵を描いて飾ったようです。 この絵が撮影スタジオにセットされていたと思われます。 

1900年、朝鮮政府が代表団を派遣したパリ万国博覧会に、駐韓フランス公使館が「ソウルの記念品」という小冊子を出品します。 ここに、背景のないこの写真が載っています。表題は「宮殿の女性」です。 モデルが王妃なら、高宗が「宮殿の女性」という説明を許すはずがないでしょう。 この背景のない写真が「朝鮮の王妃」あるいは「宮女」という食い違った説明をつけて西欧のマスコミに載ります。

   「この写真」「背景のないこの写真」とは、(写真⑦)のことです。 (4:45) 

朝鮮に対する関心が大きく増えていた時点です。 西欧の記者たちは朝鮮に関する記事を書きながら、「商業的に流通していた写真」を記事の脈略に合わせて挿入したものなのです。 これらの写真の女性は、王妃とは全く関係がありません。 それこそ対価をもらってモデルとなった一般の人であるに過ぎないのです。

 当時、朝鮮旅行の土産物として写真帳や絵葉書が売られていたのですが、西欧の記者は朝鮮を紹介する記事の挿図にこの写真を使ったのです。 だから「商業的に流通していた写真」という言葉が出てくるのです。 写真のモデルは「対価をもらってモデルとなった一般の人」とありますが、当時の朝鮮社会からすると、おそらく妓生(キーセン)ではないかと思われます。 (続く)

閔妃の写真―決着はついたはずだが‥(1)―中央日報 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/06/01/9689180

閔妃の写真―決着はついたはずだが‥(2)―中央日報 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/06/06/9690640

【追記】

 「閔妃」はウィキペディアでは本名として「閔玆暎」となっていますが、これはどうやら鄭飛石という小説家が作った名前のようです。 朝鮮の歴史上の有名女性に「本名」があったなんて最近になって出てきたことで、これが小説だという説明には、成程そうだろうと思います。

 同じく李朝時代の有名女性詩人である「許蘭雪軒」は雅号ですが、ウィキペディアによれば「許楚姫」という本名があったとされています。 しかし李朝時代の歴史では、どの歴史を読んでも当時の朝鮮の女性は名前がなかったとなっています。 もしあったとすれば幼名か通称名などと考えられます。 「許楚姫」なる名前は根拠となる歴史資料が見当たらず、やはり小説とかドラマとかで創られたものではないかと思うのですが、どうなんでしょうね。 

【追記】

 許蘭雪軒の名が「楚姫」だとする資料は、弟の許筠の『惺所覆瓿藁』という詩文集にあるようです。 もしそうなら、家族間だけで使われていた幼名の可能性があります。 (6月15日記)

【参考―李朝時代の女性に名前がない】

かつて朝鮮人女性には名前がなかった http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2018/12/13/9011386

李朝時代に女性は名前がなかったのか   http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2016/02/29/8033782

李朝時代に女性は名前がなかったのか(2)http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2016/03/23/8055612

李朝時代に女性は名前がなかったのか(3)http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2016/04/01/8061795

李朝時代の婢には名前がある       http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2016/03/19/8053165

許蘭雪軒・申師任堂の「本名」とは?   http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2016/03/31/8060665

李朝時代に女性は名前がなかったのか(4)http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2016/05/04/8083000

名前を忌避する韓国の女性        http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2016/03/10/8043916

閔妃の写真―決着はついたはずだが‥(2)―中央日報2024/06/06

http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/06/01/9689180 の続きです。

服飾専門家のC氏は(写真②)の顔の化粧と頭部装飾の떨잠(かんざし)に注目した。 顔の様子で、遠い山を描くように眉を吊り上げて描く化粧技法は遠山黛として貴い身分の女性だけがすることのできるもの、そして頭のかんざしは尚宮くらいの身分ではすることができないものだと言った。(朝鮮日報 シン・ヒョンジュン記者のブログ)(写真②)と(写真⑤)の下半身の姿勢が似ていることも見逃してはならない。 王妃の写真論争で、ある人は王妃がどうして脚を広げることができるのかと言い張った。 反対に見なければならない問題だ。 (写真①)の王や大院君の色んな写真で見るように、王室の人は一様に脚を揃えていない姿勢である。

写真①: http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daihyaku32dai.jpg

写真②: http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daihyaku33dai.jpg

写真⑤: http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daihyaku36dai.jpg

 떨잠は豪華な装飾が付くかんざしです。 身分の高い人だけでなく、高級妓生もつけていたように思うのですが‥‥。 また王妃が脚を広げるかどうかについて、これは何とも分かりません。 ただ朝鮮の女性は、裾が大きく広がるチマを穿いている関係で、脚を広げる或いは胡坐をかくことに違和感はないようです。 その点は、日本では女性が脚を広げることをはしたないと感じるのと感性が違います。 しかし朝鮮の王妃が脚を広げることについては、資料が見つかりませんでした。  

(写真④)は、10年後の1904年にイタリア外交官カルロ・ロゼッティの『韓国と韓国人』 に載ったもので「礼服姿の宮中貴婦人」という説明が付いた。 時系列上、撮影者は日清戦争開戦前後に王室を訪問したフランクGカーペンターだけである。 1894年頃に撮影されたものだという話だ。 問題の(写真⑤)は、この写真の背景を消して変造したものである。 この写真の背景は「宮女」または「尚宮」がいる空間では決してない。 「宮女」の写真として作ろうとするなら、品格があふれるその背景を消せねばならなかった。

写真④: http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daihyaku35dai.jpg 

写真⑤: http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daihyaku36dai.jpg 

 最後の「『宮女』の写真として作ろうとするなら、品格があふれるその背景を消せねばならなかった」というところは、パク・ジョンインさんという歴史家が厳しく批判しています。 この批判は、次回に掲載します。

フランク・カーペンターの記事は、日本側の影響が漂っている。 戦争の広報雑誌の代表格である『風俗画報』(東陽堂)10月28日付けの第1回「日清戦争図絵 臨時増刊号」に載った幾つかの文章は、清国の陰で虐政を行なう王妃閔氏の勢力除去の必要性を何度も強調している。 王妃閔氏が金玉均殺害の主体であり、東学農民軍蜂起の原因だと言っている。 カーペンターの記事はこの日本の論調をそのまま引き写したような感じである。 何か間違って聞いたのか、閔氏の権勢が朝鮮王朝開創時から始まったと書いてもいる。 東京で外国記者が日本側の取り締まりを受けたとする以外に考えられない内容だ。 2年前のド・ゲルヴェルの文章とは全く違う。

 ここで論者の考え方が分かりますね。 外国人の記事でも自分にとって都合の悪いことを書いておれば〝日本から圧力を受けて歪曲した″、都合のいいことがあれば〝真実を書いている″、という論理展開です。

1894年7月23日0時からの日本軍の景福宮侵入は、王妃が東アジア混乱の元凶として殺害しようとした作戦ではなかったのか? この殺害陰謀に深く関わった「国民新聞」は、作戦失敗のために関連記事が不発となってしまい、それまで準備しておいた「宮女」挿画を知らず知らずに出してしまったという「編集事故」を起こしたのではないか?

 ここは論者の根拠ない憶測が続くところで、記事では「?」マークを付けています。 酒席の与太話ではなく、有名な歴史家が広く公開されることを前提に書いていますから、ビックリですね。

王妃の写真は、1895年10月8日朝、8人の将校が率いる46人の壮士が乾清宮で王妃を弑逆した時に、実際に確認用として使用された。 「国民新聞」が誤報として出した「宮女」フレームは日露戦争後に真実として固定した。 彼らは弑逆後、王妃写真が抗日闘争の核心材料となることを憂慮した。 明白な反人倫の二次加害行為だ。 王妃の写真の真偽論争は、そのフレームに凝り固まった消耗的行為に感じられて悲しい。

 閔妃暗殺事件の際に、殺害者の日本人たちが閔妃の写真を持って行ったという話はもう否定されたと思っていたのですが、ここでまた復活しています。 そして論者によると、日本はその写真が抗日闘争の材料になるのを恐れて改竄したと主張しています。 それは「明白な反人倫の二次加害行為」だそうです。 そして王妃写真の真偽を論争することは「消耗的行為」だそうです。 歴史を論じるのに根拠のないことを並べ立てて、このような抽象表現をすることはプロパガンダでしかありません。 歴史研究者のすべきことではないでしょう。

李泰鎮 ソウル大学教授。 学術院会員。 診断学会会長、歴史学会会長、学術団体連合会会長、国史編纂委員長等を歴任した。 著書として『高宗時代の再照明』『東京大生に聞かせる韓国史』など多数ある。

 論者の李さんは韓国の歴史学界の重鎮なのですが、今回発表された論考を読むと、研究者としてかなりの疑問を抱かざるを得ない方ですねえ。 

 この『中央日報』の記事に対する反論が、韓国のユーチューブに出ました。 次回はこの反論を紹介したいと思います。 (続く)

【挿図写真・絵画の一覧】

写真①: http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daihyaku32dai.jpg

写真②: http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daihyaku33dai.jpg

写真③: http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daihyaku34dai.jpg

写真④: http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daihyaku35dai.jpg

写真⑤: http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daihyaku36dai.jpg

絵画①: http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daihyaku31dai.jpg

【拙稿参照】

閔妃の写真はなかった  http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/dairokujuuhachidai

(続)閔妃の写真はなかった http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/dainanajuusandai

閔妃の写真―決着はついたはずだが‥(1)―中央日報2024/06/01

 閔妃の写真の真偽や存否について、韓国ではかつて論争がありました。 私も関心があって、20年ほど前に拙HPで書いたことがあります。 http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/dairokujuuhachidai      http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/dainanajuusandai

 結局、閔妃の写真は存在しないで決着したものと思っていました。 ところが韓国紙の『中央日報』2024年4月6日付けで、〝閔妃の写真は存在したのに日本がその写真を変造して、閔妃を「宮女」にしてしまった″という記事が出ました。 https://www.joongang.co.kr/article/25240631

 論争をまた蒸し返すつもりなのでしょうが、どのような主張なのか気になります。 日本語訳が出ていないの、ここで訳してみました。 

抗日闘争触発を憂慮、王妃の写真を宮女に変身させた 王妃弑逆事件の真実

王妃閔氏(明成皇后)を弑逆した日本人たちは、殺害現場で確認用に使用した写真に「宮女」という名前をつけて流布した。 「宮女」のフレームは今日に至るまで、王妃の写真の真偽論争を巻き起こし、百家争鳴の中、王妃の写真不在論まで登場させた。 なぜそうなったのか、調べてみよう。

1892年11月、フランス系アメリカ人記者であるA.B.ド・ゲルヴェルが朝鮮に入国した。 1893年にシカゴで開かれた万国博覧会の広報大使の資格であった。 記者はアメリカの公使館を通して乾清宮(景福宮内)で王と皇太子に謁見し、王妃が参席するなかで広報映像を回した。 帰国後、フランスの有名な写真雑誌『フィガロ・イリュストレ』1983年9月号に、謁見と放映のいろんな事を「朝鮮の李王家(Yi, Roi de Coree)」欄に文章を載せた。

ド・ゲルヴェルは「マジック・ランタン(幻灯機)」で、200枚にもなる場面をスクリーンに映した。 ワシントンのホワイトハウス、シカゴのビル、ナイアガラの滝、鉄道施設、そして博覧会場の大きな建物が次々に出た。 王妃は慣例により御簾の後ろに座っていた。 最初の写真が映ると、そっちの方でざわめく気配がして、二番目の映像が映ると王妃は我慢できずに前に出て来て、写真について「数千の」質問を浴びせた。 近代文明の「魔術の灯火」が朝鮮の王妃の心をとらえた。 乾清宮では、アメリカのエジソン照明会社と契約して1887年に電灯が点くようになったが、幻灯機に移るアメリカの風景は初めてであった。

ド・ゲルヴェルは王室の人たちに好評であった。王は白い顔に聡明さと優しさを漂わせ、すべての政事を直接処理するのに優れ、勤勉な王様として定評が出ているとした。 この部分で、王の夜行性の業務スタイルが出てくる。 王は暗殺を恐れて、大臣たちと一番熱心に働く時間は夕方6時から朝6時までで、昼は休息を取るという。 最近、ある総選挙出馬者が歴史上の人物たちを性的な陰口の材料にし、高宗の「夜の宴会」を主張したことがあるが、とんでもない主張であることはこのアメリカ人記者の証言でも知ることができる。

 最後の部分は、民主党のキム・ジュンヒョク候補がかつてユーチューブで、〝高宗は女に目がなく毎晩パーティをして、これが国を滅ぼした″と発言していたことについて、〝王室の冒瀆″〝歴史の歪曲″と批判されたことを指すようです。

ド・ゲルヴェルは、また王妃は背が低く、きれいな顔立ちだったと言う。彼女は非常に聡明に見えて、王の国政を助けているという記憶を思い出していると書いた。 ド・ゲルヴェルの文章に、王と皇太子が一緒になった(写真①)と、王妃の(写真②)が載った。それぞれ「李氏、王と皇太子」「閔氏、王妃」というキャプションが付いている。 王はこれ以前に写真機の前に立ったことがあるが、王妃は初めてだった。 朝鮮王朝は歴代の王の姿を御真(御真影を描いた絵の額)に入れたが、王妃にはこの伝統が適用されなかった。 最初の王妃の姿の公開であった。 文明の衝撃がもたらした変革であった。 

写真①:http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daihyaku32dai.jpg

写真②:http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daihyaku33dai.jpg

1894年7月31日付けで、日本の東京で発行された「国民新聞」に「宮女」というキャプションが付いた挿図が載った。(絵画①) 新聞の創刊者である徳富蘇峰はもともと自由民権運動家だった。 1890年、明治天皇の「教育勅語」頒布で天皇制国家主義が大勢を占めるや、これに合わせて新聞を創刊し、国粋主義の拡大に一翼を担った。 外務省の財政支援を受け、ソウルに支社として「漢城新報」を創設することあった。 この新聞社の記者たちが王妃弑逆に加担したことは、よく知られている事実だ。 日清戦争が起きてから6日目になる日に載った挿画「宮女」と関連する記事は、紙面のどこにも探すことができない。 編集事故なのか? 見て描いた原画写真を追跡してみる。

絵画①: http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daihyaku31dai.jpg

ニューヨーク発行『ディモリスト ファミリー マガジン』1894年11月号の表紙に「王妃の尚宮」の写真が載った。(写真⑤) 国民新聞の「宮女」挿画より3ヶ月後だ。 アメリカ人ジャーナリストのフランクGカーペンターが、この年の夏に日本を経て、戦場となったソウルに来て、王と皇太子にインタビューした記事に関連する写真である。 写真の主人公の姿は、挿画「宮女」と服装が似ていて、原画である素地がある。 身分を宮女のうちの最上位である「尚宮」に替えたことが何か変である。 一般的な宮女の実際の姿は(写真③)のようだ。 先の「宮女」や「尚宮」とは雰囲気がまったく違う。 宮中で侍る宮女が椅子に座っているのは、とんでもないことだ。

写真③: http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daihyaku34dai.jpg

写真⑤: http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daihyaku36dai.jpg

 最後のところで「宮中で侍る宮女が椅子に座っているのは、とんでもないことだ」とありますが、写真撮影場所はおそらく宮中ではなく、写真屋さん(当時は〝写真館″とか言われていました)にあるスタジオだと思うのですがねえ。

(写真⑤)で注目すべきことは、頭の装飾のトグジ(かつら)が(写真③)の宮女のものよりはるかに大きく、品位があるように見える点である。 トグジの下で横に挿している二つのかんざしも注目すべきものだ。 二つのかんざしは、朝鮮の地で王妃以外には誰も使用できない装飾である。 1894年12月22日、井上馨公使が王に謁見した場面の絵にも、同席した王妃はトクジを被り、かんざし二つを挿していた。(2024.2.3. 「近現代史特講」) 「尚宮」ではなく王妃の写真であることが確実である。

同じ王妃の写真で、(写真②)と(写真⑤)の関係はどうか? (写真②)は편복(普段着)の姿、(写真⑤)は礼服の姿で区分される。 顔の様子がどこか違って見えるのは、化粧のためだという解釈が出ている。 2007年7月24日の聯合ニュースは、アメリカLAで英国人収集者のテリー・ベネット氏所蔵の朝鮮王室人物写真4点が公開されたと報道した。 ド・ゲルヴェル記者の文に載った(写真①)と(写真②)に大院君の写真2点が加わった4点である。 (写真②)には、ドイツ語で「殺害された王妃」という説明が筆記体で書かれている。

写真①: http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daihyaku32dai.jpg

写真②: http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daihyaku33dai.jpg

写真⑤: http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daihyaku36dai.jpg      

 記事は、写真②を王妃の「편복」姿としています。 これは漢字で「便服」と書くもので、日常の普段着というような意味です。 王妃たる者が普段着姿を公開するものなのでしょうかねえ。 世界各国の人が見るものなのですがねえ。(続く)