朝鮮人は来日すると日本名を名乗った(3) ― 2025/12/10
https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/12/03/9821132 の続きです。
↑は、東京にある「在日韓人歴史資料館」に展示されていた在日朝鮮人子弟の小学校卒業証書です。 名前は「山本文一」ですが、キャプションは次のようになっています。
1927年福岡県鞍手郡生まれの在日2世・文相洙氏の小学校卒業証書(1939年)。 炭鉱で働いていたが、解放後日本人が朝鮮人を襲撃しているとの噂が回り炭鉱を脱出、博多港から釜山に帰国しました。
ここで注目すべきは、この卒業証書の発行日が「昭和14年3月22日」になっていることです。 1939年3月ですから、創氏改名令の公布(1939年11月)や施行(1940年2月)より前です。 つまり「山本文一」という日本名は創氏改名ではなく、それより以前に自ら名乗っていた通名ということになります。 しかも小学校という公的機関がその通名を認めて、卒業証書に記したのでした。
当時の小学校では、朝鮮人は本名(民族名)でも通名(日本名)でもどちらを使ってもよかったという話は金達寿の自叙伝『わがアリランの歌』に出てきます。
(1932年)源氏前小学校の職員室で会った赤ら顔の先生は、まだ夜学の一年生だった私がもう学期末となっている三年生に編入学して、実質的に四年生となることはだまって承知してくれたけれども、「金山忠太郎」という名については異議をとなえた。
「いや、名前は金達寿という本名そのままのほうがいいです」と先生は、横に立っていた私にもわかるように、はっきりとそう言った。 この赤ら顔の人が以後私を担任してくれた山内喬木先生で、私はこの先生のおかげで小学校は「金山忠太郎」などというものにならなくてすんだのだった。 (金達寿『わがアリランの歌』中公新書 昭和52年6月 66頁)
つまり当時の小学校では本名か通名かどちらを使ってもいいとされていたのでした。 従って↑に掲げた「山本文一」という通名が記されていた小学校卒業証書は、これを裏付ける確かな歴史的資料となります。 金達寿は本名を使い、文相洙は通名を使ったのですが、それはどちらも認められていたのでした。
在日の日本名は創氏改名という法的強制より以前に在日自身が任意に名乗っており、本名(民族名)を使うか通名(日本名)使うかは自由であったということです。 朝鮮史家の水野直樹さんは、「在日コリアンの多くが日本人風の名字を使うようになったのは、創氏が実施された時期からであったことは間違いない」 https://www.io-web.net/2025/08/sousikaimei-mizunonaoki/#google_vignette と論じておられますが、実際はそれより以前に日本名を使い始めているので、これは疑問と言わざるを得ないところです。 日本名を名乗るのは「創氏が実施された時期から」とあるのは、日本(内地)の大学に留学していた学生たちなど一部に限られるのではないかと思われます。
在日の通名(日本名)の歴史をたどっていけば、彼らは創氏改名以前から、来日すれば一部を除いて任意に日本名を名乗っていたという事実に行きつくのです。
なお現在において学校に通学する時に使う名前ですが、小中高校では通名を使っても構わないとされていますね。 ここは今も昔も同じようです。 ところが大学は国公立では通名は使わず本名だけでしたが、今はどうなのでしょうか。 一部の私立では通名でも構わないとしているところがありましたが、R大学では本名でしかもハングル読みとしていたと聞きます。 私立は各大学によって扱いが違っているようです。 (終わり)
朝鮮人は来日すると日本名を名乗った(1) https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/11/26/9819692
朝鮮人は来日すると日本名を名乗った(2) https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/12/03/9821132
朝鮮人は来日すると日本名を名乗った(2) ― 2025/12/03
https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/11/26/9819692 の続きです。
今は亡き作家の金達寿は、著書『わがアリランの歌』で、次のように語っています。
1932年(金達寿は小学三年)‥‥従兄(本家にあたる)は私を源氏前小学校へつれていく途次、なにを考えたのか急に立ちどまると、「おまえは学校では、金山忠太郎という名にしよう」と言って、自分の掌に指でその字を書いて見せてくれた。‥‥ 在日朝鮮人はいまもまだそういうことがあるが、たいていみな本名のほかに日本名をつくって、それを日本人社会では通名として使っていた。 それで私の兄も当時「金山清吉」といっていたから‥‥従兄は私も「金山忠太郎」にしろというわけだった。
‥‥しかし先生は‥「金山忠太郎」という名については異議をとなえた。 「いや、名前は金達寿という本名そのままのほうがいいです」と先生は‥はっきりとそう言った。 ‥私を担任してくれた山内喬木先生で、私はこの先生のおかげで小学校では「金山忠太郎」などというものにならなくてすんだのだった。 (金達寿『わがアリランの歌』中公新書 昭和52年6月 65~66頁)
金達寿は本家筋の従兄から便宜的に「金山忠太郎」にするように言われたのですが、小学校の担任から金達寿(きん・たつじゅ)のままがいいとされて、本名で通うことになりました。 しかし金はその後学校を出て仕事するときに、この「金山忠太郎」を使います。
神奈川県の横須賀で、そこにあった電気館という映画館の映写技師見習となったとき‥‥私を採用してくれた映画館の支配人が、「日本名はないのかね」と言ったので、私はとっさに「金山忠太郎です」と答えたものだった。 どういうかたちであれ、一度そういうふうに名づけられてみると、それはなかなか忘れられない‥ (同上 66~67頁)
ところが、金達寿は創氏改名で「金光」となります。
1939年12月からいわゆる「創氏改名」というのが強制されることになり(これは「創氏改名令」の施行予定日決定の公布であり、実際の施行は翌1940年2月からである)、在日朝鮮人が便宜的に使用していた通名どころではなく、朝鮮人全体が日本式の姓名を名乗らなくてはならないことになっていた。 それで私たちも本家にあたる従兄の金鶴寿一家とともに「金光」ということになった (同上 211頁)
金達寿は神奈川日日新聞に就職する時、この「金光」という創氏改名による名前を使いました。 (同上 211~212頁)
金達寿の思い出話は、創氏改名より以前に、朝鮮人は来日すると当然のように日本名を名乗っていたことが分かります。
戦前の朝鮮人は日本に出稼ぎに来ると、早い段階に日本名を名乗る例をもう一つ挙げます。 金一勉は、著書『朝鮮人はなぜ「日本名」を名のるか』で次のように記しています。
1930年代になると、一部の留学生は別として日本在住者(朝鮮人)の大多数は「日本名」をひっさげていた。 その大半を占める労働者といえば、職工、店員、清掃人、土木日雇者、新聞配達、廃品回収(屑屋)、行商人といった日本社会の底辺に密着した者であり、例外なく日本名を持っていた。 その事情をあげると、①日本社会では朝鮮名が馴染みにくい。 ②朝鮮名を名乗っていると異分子として目につき、むきだしの差別を受ける。 ③先住朝鮮人のしきたりに従って日本通名をひっさげる、などであった。‥‥
‥‥ 日本の都会地に住み込む朝鮮人が、日常的に日本名を名乗っていたことは頷けるとしても、山奥の工事場の朝鮮人のみの飯場労働者のほとんどが「日本名」を使っていたことは、当時の「タコ部屋」の存在を考え合わせると注目すべき点である。 長野県南安曇郡梓川村から六里も入った奥地のトンネル工事の飯場では、総勢50人の人夫すべてが朝鮮人であったが、ほとんどが日本名を呼び合っていた。 (以上、金一勉『朝鮮人はなぜ「日本名」を名のるか』三一書房 1978年5月 43頁)
在日朝鮮人は日本各地の工事現場の飯場で共同生活をしながら働いていたのですが、その飯場には日本人はおらず朝鮮人ばかりですから民族差別なんてあるわけがないのに、お互いを民族名ではなく日本名で呼び合っていたのでした。 同じような話が、金達寿『わがアリランの歌』にも出てきます。
私は‥日大芸術科の学生となっていたが、‥‥栃木県那須野の整地工事場に働きに行ったことがある。 いまでいうアルバイトだったわけであるが、その工事場の朝鮮人飯場には、北海道のいわゆる「タコ部屋」へ「募集人夫」として連れてこられた何人かの者が逃げ込んで来ていた。‥‥
飯場頭がやって来て二・三人の者とちょっとしゃべっていたが、ふと気がついたように、「ああ、そうだ」と、そこにいるタコ部屋から逃げ込んで来ていた男に向かって言った。 「おまえには日本名がなかったな。うん、そうだ、今日から木下一郎ということにしろ」‥‥ まだ日本語を全然知らなかったタコ部屋からの男は、「キノタチロウ」とそれを口の中でそっとつぶやいてみた。 「キノタではない、キノシタイチロウだ」と横から誰かが言った。
すると、向こうで長くなっていた男がむっくり起き上った。 そして、手を振って言った。 「おう、それはいけねえ。 聞いたことがあると思ったら、木下一郎というのはおれの名前じゃないか」。 どういうわけか、日本人の姓としてもそうやさしい読みの方ではない「木下」というのが、在日朝鮮人には多かった。 なにか、理由があってのことだったかも知れない。 (金達寿『わがアリランの歌』中公新書 昭和52年6月 67~68頁)
朝鮮人ばかりが集まって生活している工事現場の飯場では、朝鮮人たちは民族名ではなく、日本名を名乗り呼び合っていたのでした。 〝在日朝鮮人は差別からあるから日本名を名乗らざるを得なかった”という歴史は疑問になります。
以上長々と論じてきましたが、要は、多くの朝鮮人は1940年の創氏改名よりも以前に、来日すると直ぐに日本名を便宜的かつ普通に名乗っており、その際に強制されたというような被害者意識がなかったということです。 これは、朝鮮人は名前に関してかなり柔軟な考え方をしており、その時その場の環境によって使いやすい名前を名乗ることを実践していたと推定できます。
ただし例外があります。金一勉が「一部の留学生は別として」と記しているように、日本(当時は内地)の大学に留学した朝鮮人です。 これは大学当局が在学生は本名を使うことを決めていたために、本人も本名を使って生活したからだと思われます。 つまり来日した朝鮮人は、留学生などのインテリは本名(民族名)、出稼ぎ労働者は通名(日本名)を使ったのでした。 ただしこれはそういう傾向が強かったということであって、例外はたくさんあります。 例えば後に国会議員となった朴春琴は当初出稼ぎ労働者として来日しましたが、一貫して「朴春琴」を通しました。
なお1940年の創氏改名は法に基づく名前ですから、それ以降はその名前が本名となります。 ですから1940年以降は創氏改名が設定創氏で日本名であるなら、その日本名が本名(戸籍名)となります。 詩人の尹東柱は設定創氏したので、1942年に立教大学と同志社大学に留学した時の本名は平沼東柱でした。
また創氏改名で法定創氏すれば、先祖から続く民族名が本名(戸籍名)になります。 上述の朴春琴は法定創氏をしたのでした。 (続く)
【創氏改名に関する拙稿】
創氏改名とは何か (00年4月1日) http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daijuunidai
創氏改名の残滓 (01年6月1日) http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daisanjuudai
創氏改名の手続き(04年10月1日) http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/dainanajuudai
創氏改名の誤解―「世界史の窓」 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2017/03/26/8421515
朝鮮名での設定創氏が可能な場合 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2007/02/12/1178596
宮田節子の創氏改名論 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2014/11/10/7487557
石破茂さんのデタラメ創氏改名論 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2019/10/06/9161642
創氏改名の誤解―日本名は強制されていない http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2017/03/28/8423913
創氏改名の誤解―日本名は強制されていない (2) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2017/03/30/8425667
創氏改名の誤解―日本名は強制されていない (3) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2017/04/01/8436928
創氏改名の誤解―日本名は強制されていない (4) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2017/04/03/8441238
創氏改名の誤解―日本名は強制されていない (5) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2017/04/05/8444253
創氏改名の誤解―日本名は強制されていない (6) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2017/04/07/8447420
創氏改名の誤解―日本名は強制されていない (7) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2017/04/09/8451992
創氏改名の誤解―日本名は強制されていない (8) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2017/04/11/8457633
創氏改名の誤解―日本名は強制されていない (9) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2017/04/14/8478676
朝鮮名での設定創氏が可能な場合 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2007/02/12/1178596
民族名で応召した朝鮮人 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2014/11/14/7491817
朝鮮人戦死者の表彰記事―1944年 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2017/10/29/8716160
民族名での人探し三行広告 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/09/24/7807103
金時鐘さんの創氏改名は「金谷光原」―神戸新聞 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/06/03/9779836
「尹東柱」記事の間違い―中央日報 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/02/17/9464967
朝鮮人は来日すると日本名を名乗った(1) ― 2025/11/26
今回は、朝鮮人は創氏改名より以前にすでに日本名を名乗っていた、というお話です。
日本が植民地時代の朝鮮に施行した「創氏改名」は、民族性を否定するために朝鮮人から名前を奪って日本名を強制したということで、評判が非常に悪いですね。 だからでしょうか、今日在日が通名(日本名)を名乗るのはこの「創氏改名」があったからだと言う人が多いです。 つまり、朝鮮人はそれまでは民族名だったのに、創氏改名以降に日本名を名乗らされるようになった、つまり日本が朝鮮人に日本名を強制した、と言われるようになりました。 植民地主義の日本は朝鮮人の民族性を否定するために1940年の創氏改名によって在日に日本名を強制的に名乗らせた、というものです。
そこで通名(日本名)を名乗る在日は悪辣非道な日本の植民地史を引きずっている、だから在日は本名(民族名)を名乗って民族性を取り戻さねばならないと主張が出てきましたし、今もそう考える人が多いようです。 かつては在日が本名を名乗りさえしていれば、それだけで民族の誇りを有する素晴らしい人だなんて称賛する活動家がいましたね。
このようにして在日の歴史を学んだ人は、在日は1940年の創氏改名までは日本名を使わず民族名だけを使っていた、という歴史像を持つようになります。 ところが実は、在日は来日したら強制されるのではなく日本名を自ら進んで名乗る人が多かったという事実があったのでした。 そして1940年になって創氏改名という法的強制によって、新たな日本名を使うようになったというのが歴史事実でした。
創氏改名の届け出は戸主の権限で、普通は故郷にいる祖父か父親です。 つまり故郷にいる戸主が創氏改名の新たな名前を定めて役場(面事務所など)届け出てから、それを日本にいる息子たちに通知します。 そして在日はそれまで名乗っていた日本名ではなく、故郷から通知された新たな創氏改名の名前を使うようになりました。 その例を探してみました。
まずは李秀渕という方を見てみましょう。 李さんの生い立ちは1907年生まれ、1924年来日、1926年以降三重県桑名で鋳物師として働いてこられました。 『ポッタリひとつで海を越えて』という本に、その経緯が書かれてありました。
この時期(1940年以前)はまだ創氏改名以前だったが、「チョーセンジン」と言われ差別もあったので、秀渕は「小西重雄」と名乗り、周りから「小西のおっちゃん」と呼ばれていた。 (小泉和子編著『ポッタリひとつで海を越えて』合同出版 2024年9月 36頁)
1939年の創氏改名により、40年以降は李家では「廣本」という姓を使うようになる。 ‥‥「廣本」という日本名は本貫の「廣州」からとったもの (同上 39・41頁)
李秀渕さんは来日して「小西」という名前を便宜的に使っていましたが、1939年の創氏改名令の公布および翌40年同令の施行により故郷から「廣本」という新たな名前を通知され、それ以降「廣本」を使うようになりました。 ここで注意すべきは、最初に名乗っていた「小西」は強制されたものではないということです。 後の「廣本」が創氏改名という法的強制による名前です。 李さんは戦後に鋳物工場を立ち上げ、「廣本鋳造所」として手広く会社を経営しました。 創氏改名は法的強制でしたが、それ以前から日本名を名乗っていた在日には被害意識はなく、強制された名前をそのまま受け入れたのでした。
作家の飯尾憲士(1926年生まれ)は父親が朝鮮人でした。 父親の名前は次のように記録されています。
飯尾憲士の「ソウルの位牌」に出てくる父の位牌には「春厳慈弘信士―俗名飯尾弘」と日本の戒名および通名があるだけで、本名は刻まれていない。 それが、歴史に翻弄された生涯を語るように姜、江崎(創氏改名)、松田(渡日のとき)、飯尾(妻の姓)の四つの姓をもった父親の終の名前であった。 (『ポッタリひとつで海を越えて』 233頁)
本名は「姜」ですが、来日した時は「松田」、1940年の創氏改名時は「江崎」、その後は日本人の妻の名前である「飯尾」を名乗ったわけです。 ここでも、創氏改名より以前から日本名を名乗りはじめており、日本名をいろいろ変えながら使ってきたのでした。
毎日新聞の記事で、曺弘利さんという方の祖父が来日した時の様子を次のように記しています。
曺さんの祖父、曺秉元(ピョンウォン)さん ‥‥ そんな折、日本人の手配師から持ちかけられる。 「日本で1年も働けば、家の1軒ぐらいは建てられる」。 秉元さんは話にのる。 ちょうど100年前、1920年のこと。 行き先は福岡・飯塚の炭鉱だった。創氏改名で「中山八郎」と名乗った。 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2020/08/13/9278142
毎日の記者は朝鮮史の知識がないために、1920年に創氏改名があったというトンデモない間違いを犯しています。 この記事は朝鮮人が来日すると直ぐに「中川八郎」という日本名を名乗り出したという事実を示すもので、その後20年経って1940年に施行された創氏改名とは全く関係ありません。 ここでも、朝鮮人は来日すると早い段階で日本名を名乗り始めたことが確認できます。 (続く)
【関連の拙稿】
在日の通名使用の歴史は古い http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2013/01/12/6688526
上野千鶴子氏の思い出話―バリケード内の性 ― 2025/11/20
2015年11月11日付けの毎日新聞に、「社会学者 上野千鶴子さん 自分を研究対象に 女性学との出合い」と題するコラムがありました。 ネットでは有料記事なので、関心のある方は図書館にでも行ってください。 https://mainichi.jp/articles/20251111/ddm/014/040/011000c https://mainichi.jp/articles/20251117/ddm/014/040/016000c
このなかで、次の一文に目が行きました。
(1960年代末、全共闘は大学を占拠してバリケード封鎖を行なった)(上野さんは)バリケードの中で成人式を迎えた。 (全共闘)運動に身を投じながら、山ほど性差別に遭遇した。 「男は前線に立ってマイクを握り、『女は戦力にならない』とあからさまに言う。 女の役目は後方支援で、私もひたすらおにぎりを握りました。」 バリケードの裏側には性革命もあった。 同志だったはずの男は性的に自由な女を利用し、陰で「公衆便所」と呼んでいた。 その時のショックは今も胸に残る。 ‥‥ 運動で経験した女性蔑視のトラウマは大きく、「理論は女を差別しないだろう」と理論社会学を専攻し、鬱々とした日々を過ごした。
上野さんは私とは考え方がまるっきり違っている方ですが、彼女の思い出話の中のこの部分は事実と思われます。 「公衆便所」、久しぶりに聞きましたねえ。 こういう女性が1970年前後の全共闘活動の中に、少数ながら確かに存在していました。 聞いた話では、K産同○○派のSさんは○大学の自治会選挙(各セクトが学生自治会を掌握しようと争っていた)でこの戦術を使って勝利した、だから彼女は「公衆便所」だと噂されていました。 ただしあくまで噂で、本当にそんなことがあったのかどうか分かりません。
しかし、こういう女性があちこちの大学の学園闘争にいたのは事実です。 その一人と話したことがあります。 その女性は某地方の有力名士の娘で、〝このままでは親の言う通りに見合いをさせられ結婚することなる、その前に都会に出て大学生の間だけは自由になりたい”といって、本当に性的にも自由奔放に振る舞っていましたねえ。 なお彼女らが狙っていたのは学生運動の指導者クラスかテレビに出てくるような優男で、私のような男は全く相手にされませんでした。
上野さんはジェンダー論・女性学の有名な研究者なのですが、このような類の女性を毛嫌いして相手としていないのではないか、そういうところに私の違和感があります。 専業主婦を「社会的に消えゆく存在」発言や、今度の高市氏の首相就任の際に発した「うれしくない」発言などを合わせて考えてみると、彼女は全ての女性ではなく、自分にとって都合のいい(男性優位社会と闘う主張に合う)女性を選好したのではないかという疑問ですね。 またご自分は名誉教授で多くの著作や講演で収入を得てタワマン・高級車の生活という強者でありながら、「弱者は弱者のまま尊重される社会を求める」「平等に貧しくなろう」発言などには、私はいかがなものかと思います。 やはり研究者というより、成功して恵まれた活動家と考えればいいのでしょうねえ。
【拙稿参照】
やはり上野千鶴子さんは闘う活動家 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/02/29/9663429
左翼過激派の性暴力 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/09/26/9805502
左翼人士の性犯罪に思う https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/03/11/9568486
1960年代の入管問題―金東希と任錫均(2) https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/02/07/9752842
人権派ジャーナリストの性暴力事件 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2019/02/01/9031087
相次ぐ有名人の性暴行事件 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2019/12/29/9194983
活動家によるレイプ事件考 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2008/03/07/2708813
それは泣き寝入りではなく自殺だった http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2010/08/19/5296007
解放運動の「強姦神話」 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2007/07/28/1685192
暴力にみる民族的違和感 http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daihachijuunanadai
戦前の夜間小学校―朝鮮人子弟の教育(2) ― 2025/11/15
https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/11/09/9815943 の続きです。
この夜間小学校には、作家の金達寿も通ったと言います。 彼の自叙伝『わがアリランの歌』に、次のような思い出話が出てきます。 そこには当時の夜間小学校はどういうものであったかが記されていますので、長くなりますが引用・紹介します。
1931年4月となったところで、「おまえも学校に行くんだ」と言って、兄は私を夜学へつれていった。 そうして私はここではじめて、「ハナ、ハト、マメ、マス」という、日本語のそれを習うことになった。
私がこの小学校の夜学にかよったことを最近ある講演のなかでしゃべったところ、どこかの学校の教員だという人から、「中学ならわかりますが、そんな小学校の夜学があったんでしょうか」と言われて、ちょっと困ったことがある。‥‥『品川区史』「通史編」にそのことがこう書かれている。
「大正期に入って、義務教育制度が確立し、小学校への就学率も非常に高くはなったが、なお依然として就学をなしえない貧窮家庭の児童も存在した。 そのために、尋常小学校に夜学を置くことになり、まず品川管内の品川・城南の両校に大正7年(1918年)から設置されたのが尋常夜学校の始まりである。 この学校に修学するのは12歳以上の者で、三ヵ年の修業期間で義務教育を終わらせるもので、城南夜学校では大正7年約50名、東海夜学校も40名が入学した。 その後品川夜学校は大正11年城南校に併合された。 次いで大井町も大正14年山中小学校に大井尋常夜学校として開設され、昭和3年には鈴ヶ森小学校にも設けられ、また。大崎町では大正8年、第二日野校内に設立、荏原町では大正15年に設けられる。 これら夜学校は昭和に入っても継続されるが、生徒には朝鮮人子弟も多く、なかには年齢が20歳以上の者もみられたが、向学心に燃える者も少なくなかった。 毎晩3時間の授業が行なわれ、授業料は徴収せず、教科書や学用品は事情によって給与または貸与するのが普通だった。」
私はこの『品川区史』によってはじめて、わが母校が山中小学校の夜学といったものではなく、そこに開設されていた「大井尋常夜学校」というというものであったことを知ったが、ここで教えられる科目は、「読み方」「書き方」「算術」の三科目であった。‥‥「三ヵ年の修業期間で義務教育を終わらせるもの」であったから、この学校は1年が終わると2年生になるのではなく、3年生になることになっていた。
生徒のほうはどうだったかというと、「生徒には朝鮮人生徒も多く」といったものではなく、20人ほどの生徒はほとんどみな朝鮮人ばかりであった。 なかには20歳にもなる1年生がいたり、13・4歳の3年生がいたりというふうで、それがみな一教室のなかで教えられていた。 そして私はここで、金甲鍋、裴鐘介といった同じ年ごろのものたちと友だちにもなった。‥‥ もし大井尋常夜学校というものがなかったとしたら、私は文盲のままとなっていたかも知れなかったからであるが、私はそこの夜学校に、昼間は屑拾いをしたり、戸越のほうにあった朝鮮人経営の電球色染め工場で働いたりしながら、ちょうど1年近く通った。 (以上、金達寿『わがアリランの歌』中公新書 昭和52年6月 61頁~64頁)
夜間小学校は、もともとは貧窮家庭ゆえに昼間は働くとか子守りなどをして学校に通えない子弟のために開かれたのですが、実際には主として朝鮮人子弟が通っていたのでした。 当時の在日朝鮮人家庭の経済状態がどれほどであったか想像できます。 そして在日朝鮮人は夜間であれ、子どもを学校に行かせることができるようになったと言えます。 それでも学校に通うことのできた朝鮮の子どもは、全員ではありませんでした。
日本で小学校に通っていた朝鮮人児童は1936年に5万1233人、1941年に9万8832人で、この数は就学期にある朝鮮人児童の6割ほどに過ぎないという(「在日朝鮮人教育の実情」『近代民衆の記録10』)。 学校に通えなかった最も大きな理由は貧困で、次いでいじめによる不登校などであった。 (小泉和子編『ポッタリひとつで海を越えて』合同出版 2024年9月 268頁)
一つは夜間小学校就学が特別な意味を持っていたことである。 それが廃止されるまでは特に都市圏での朝鮮人在籍率はきわめて高いものがある。 例えば1941年当時、大阪では朝鮮人児童の割合は実に80%を超えている。 さながら朝鮮人収容学校の観を呈したのである。 (『新版 在日朝鮮人 歴史と現状』明石書店 161頁)
朝鮮人児童で公立小学校(夜間も含めて)に通っていたのは1941年で60%、経済が発展していた大阪でも80%でした。
一方では朝鮮人自身が経営する教育機関もありましたが、これらは弾圧されたようです。 当局は朝鮮人子弟を日本の公立学校に通うように誘導しました。
これら朝鮮人の自主的教育機関は、同郷者団体あるいは「融和団体」、宗教団体、相愛会など多様な組織が運営するものであった。 中には警察当局から「共産主義系」とみなされる労働組合が関与する夜学もあったが、当局にとっては朝鮮人の教育機関が朝鮮語を教えていることが何よりも不適切・不穏なものであった。‥‥ 1934年の閣議決定後には、各府県の警察が朝鮮人教育機関に閉鎖を命じ、朝鮮人の子どもを日本の学校に通わせる措置をとった。 とりわけ朝鮮語の授業は厳しく禁止するというのが当局の方針であった。‥‥ その後も秘かに朝鮮語を教える夜学を開く活動も行なわれたが、それ自体が「独立運動」とみなされ弾圧を受けることになった。 1930年代半ば以降、在日朝鮮人子弟は朝鮮語を学ぶ場を奪われてしまったのである。 (以上、『在日朝鮮人―歴史と現在』岩波新書 35~36頁)
すべての朝鮮人を管理する目的でつくられた協和会の活動が活発になると、公立学校に入学させる方向で皇国臣民化教育が徹底されるようになり、朝鮮語はまったく教えられなくなり、皇国少年がつくり上げられていく。 1936年の協和会体制強化以降に育った子供たちは、この強い日本人化=皇民化教育の影響を受けることになったのである。 (樋口雄一『日本の朝鮮・韓国人』同成社 2022年6月 83頁)
当局は朝鮮人の子どもたちを早く日本社会に馴染ませる=同化させようと努力していたということです。 そのために同化に必要のない朝鮮語を、教育から排除したのでした。 これは民族主義的な立場からすれば、次のような評価になります。
この教育がもとより民族教育ではなく「日本化教育」であったことは改めて述べるまでもない。‥‥ これらの政策(夜間小学校)は在日朝鮮人の民族性を奪い、日本への同化を図ると共に、定住化した朝鮮人の日本社会への融和促進を狙ったものである。 (『在日コリアン百年史』三五館 105~106頁)
歴史家の姜在彦さん言い方を借りれば、「日本における“皇民化”教育の基本方針は、日本の植民地支配に従順な奴隷教育」(『近代における日本と朝鮮』すくらむ社 1981年 96~97頁)です。 日本で生きていこうと思えば日本社会への早急な同化が求められますが、それは逆に民族性を否定することに繋がり、民族主義者からは「奴隷教育」とまで言われるほどになります。
ですからこれは、朝鮮人の子どもたちのアイデンティティに微妙な影響(プラスもマイナスも含めて)を与えたと考えられます。 これは現在で言えば、在日外国人子弟のアイデンティティの揺らぎ問題とつながりますね。 日本で生まれ育った外国人が、“自分は一体何人なのか”と悩むなどで、同じ境遇の外国人とコラボして語り合うようなユーチューブが結構あります。 ですから在日外国人のアイデンティティの揺らぎは、昔も今も変わらない問題と言えます。 (終わり)
【拙稿参照】
外国人労働者の子弟教育 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/12/17/9548403
韓国の多文化家族の子供たち http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2013/10/12/7006283
大阪の民族学級―本名とは何か http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2021/07/31/9403271
水野・文『在日朝鮮人』(10)―子弟の教育 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2016/06/22/8116734
韓国人でも日本人でもない―しかし同化する在日韓国人 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/02/14/9562752
戦前の夜間小学校―朝鮮人子弟の教育(1) ― 2025/11/09
今の日本には、義務教育を履修できなかった人とか、近年来日して日本の教育を受けられなかった外国人などを対象とした公立の夜間中学があります。 ここに在日韓国・朝鮮人のお年寄りが通っているという話はよく聞くものです。 ところで戦前の日本では中学校ではなく、貧窮家庭の子弟を対象とした夜間小学校がありました。 そこには主に在日朝鮮人子弟の子どもが通っていました。 それほどに当時の在日朝鮮人の貧窮家庭が多かったということにもなります。 今回はこの夜間小学校のお話です。
1910年の日韓併合以降、朝鮮人は日本(当時は内地)に出稼ぎに行く者が多くなっていきます。 当時の日本は資本主義の発展期で、工場・炭鉱・土木工事などで人手不足をきたしていました。 当初は単身者ばかりでしたが、1920年代からは朝鮮から家族を呼び寄せるなどして、家族生活する者が現われ始めます。
そうなると、その子どもたちの教育が問題になります。 当時の朝鮮人は教育の義務がなく、学校に通う子どもが少数の時代でした。 そのいう朝鮮社会のあり方が来日してからも続いていたのです。 しかしその時の日本では、教育の義務のない朝鮮人子弟をどう扱うのかが明確ではありませんでした。 そのために当初は、朝鮮人の子どもたちは教育対策上で放置された存在であり、従って彼らの教育は軽視されていたのです。 在日朝鮮人史の概説書では、次のように説明されています。
朝鮮人の渡日は1910年代の後半から増加を示すが、当初そのほとんどは生活の糧を得るための労働を目的とする若年層の、しかも単身渡航が一般的だった。 1920年代後半に入ると幼児期に渡日したり、日本生まれの幼児が学齢期に成長するが、義務教育対象外の「外地人子弟」として、いわば教育対策上では放置された存在であったといえる。 それは1931年当時、在日朝鮮人児童約4万人のうち就学者数は7400名、就学率わずか18.5%にすぎなかったことをみても明らかである。 このことの背景として朝鮮人家庭の極度の経済的貧困、また女児には教育よりも家事に従事させるという古い因習の根強さをあげることができる。 (山田照美・朴鐘鳴編『新版 在日朝鮮人 歴史と現状』明石書店 1991年4月 160頁)
(1920年代以降)家族形態での居住が増えると問題となるのは、子どもたちの教育である。 そもそも植民地支配下の朝鮮では義務教育は実施されていなかったため、日本に住む朝鮮人の子どもも義務教育の対象になるかどうかがはっきりしておらず、日本の学校は朝鮮人の子どもを受け入れるのを嫌がった。 大阪市などでは、朝鮮人だけを集めた夜間学級を設ける学校もあったが、全体的には朝鮮人の子どもに対する教育は軽視されていた。 (水野直樹・文京洙『在日朝鮮人―歴史と現在』岩波新書 2015年1月 34頁)
時が流れるにつれ来日する朝鮮人が多くなり、同時に在日朝鮮人の子どもの数も増えていきました。 植民地時代の朝鮮人には教育の義務は課せられていなかったので、当初はそういった朝鮮人の子どもたちの教育をどうするのか方針が定まっていませんでした。 しかしだからといって放置するわけにはいきません。 朝鮮人が多住していた東京や大阪、神戸では早くから貧窮家庭を対象に夜間小学校による教育が実践されており、朝鮮人の子どもたちはその夜間小学校に通うようになります。
大阪の場合は1922年頃から朝鮮人夜学教育の実践が行なわれ、翌年には大阪市済美郡第四尋常小学校で146人を収容する夜間部が開設され、同様に難波桜川尋常小学校でも夜間部が開設された。 神戸市でも同様な学校が二校開設され、142人が学んでいた。 以後も夜間学校は拡充されていく。 (樋口雄一『日本の朝鮮・韓国人』同成社 2022年6月 83頁)
日本政府の文部行政において朝鮮人児童の義務教育就学が公的に問題とされたのは、ようやく1930年になってからであった。 同年10月、文部省普通学務局は、拓務省朝鮮部あて回答のなかで「内地在住朝鮮人は、小学校令第32条により、学齢児童を就学せしむる義務を負うものとす」と初めて見解を示している。 (『新版 在日朝鮮人 歴史と現状』明石書店 161頁)
1930年代に入って、日本政府はようやく朝鮮人子弟の教育を重視し始めました。 その対策の一つが東京・大阪等で実践されていたような夜間小学校の設置でした。 1930年代になって、夜間小学校は全国的に広がっていったようです。
当時(1935~36年)、朝鮮人多住地域では当局が夜間学校を設置して、在日子弟の教育に力を入れていたことが判明する。‥‥ このような夜間学校が政策的に設置されるようになったのは、1934年10月の閣議決定「朝鮮人移住対策の件」以降である。 この閣議決定は、朝鮮人の日本への渡航を厳しく制限するとともに、「内地における朝鮮人の指導向上および内地融和の図ること」(内務省警保局「協和会事業関係書類」)と決定している。 その決定を受けて、各地の内鮮融和団体などは朝鮮人子弟の義務教育への取り組みを強化している。 (金賛汀『在日コリアン百年史』三五館 1997年11月105~ 106頁)
(続く)
【拙稿参照】
水野・文『在日朝鮮人』(10)―子弟の教育 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2016/06/22/8116734
在日の低学力について(1) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2021/04/28/9371638
在日の低学力について(2) https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2021/05/05/9374169
日本統治下朝鮮における教育論の矛盾 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2007/02/01/1156247
学校で朝鮮語を禁止した理由 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2017/01/20/8327730
第92題「同化教育」考 http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daikyuujuunidai
在日の出産に産婆さんがつくようになった ― 2025/11/02
昔の在日韓国・朝鮮人の日常生活に関心があり、ちょうど『ポッタリひとつで海を越えて』(合同出版)という本を見つけて購入し、興味深く読んでいます。 今回は出産で、いわゆる産婆さんのことです。
朝鮮人は出産の際の介助はどういう状況だったのでしょうか。 植民地時代の朝鮮の出産について、総督府はやはり調査していますね。 蔚山のある農村での出産状況について、産婆さんなどの介助者の有無について、次のように報告しています。
1936年7月に行なわれた朝鮮の農村衛生に関する調査(朝鮮農村社会衛生調査会編『朝鮮の農村衛生』1940年刊)によれば、蔚山邑達里という農村の婦人143人のうち、プロの産婆を頼んだケースはわずかに2人、それも裕福な内地人(日本人)だけである。 素人介助が56%、人手を借りずに一人で産んだケースが42.7%となっている。‥‥ 当時の朝鮮農村に医学知識をもったプロフェショナルな産婆がいなかったことを示唆している。 こうした状況下では、介助といっても姑や経験のある婦人などに頼むしかなく、貧しい家であればあるほど、誰の介助も受けることができずに一人で産んでいることがうかがえる。 (小泉和子編著『ポッタリひとつで海を越えて』合同出版 2024年9月 179頁)
日本では江戸時代から産婆という出産の介助を職業とする女性が活躍していたのですが、朝鮮ではそういった産婆さんが存在していませんでした。 「素人介助」つまり姑などの出産経験者に介助してもらって出産した例が56%、そういう介助者がいなくて一人で出産した例が42.7%。 これには驚きました。 これでは母体や出生児の死亡率がかなり高かったでしょう。 かつての朝鮮女性がどれほど過酷な人生を歩んでいたのか、ここからも分かります。
当時の朝鮮農村では通常、プロの産婆がおらず、姑や経験豊かな婦人に頼んだり、たった一人でお産するケースが多かったにもかかわらず、なぜ日本では産婆を頼む人が多かったのだろう。 一つには、日本では産婆によるお産がかなり普及していたことが挙げられるだろう。1899年に「産婆規則」が制定されて以降、日本では産婆が専門職として制度化された‥‥ 都市部を中心にこうした近代的なお産が広まりつつあった。 このような事情を反映し、在日の婦人たちも産婆を頼んだ‥‥ (同上 185頁)
在日女性は出産に際して、朝鮮での風習をそのまま持ち込むのではなく、周囲の日本人社会で普及していた近代的な方法を取り入れていったようです。 そしてもう少し後の太平洋戦争中になりますが、産婆さんによる出産が一般化します。
そのほかの要因として、「妊産婦手帳」制度の実施も挙げられる。 1942年7月13日、妊産婦手帳規定が公布された。 この制度は母子保健の向上や流産・死産の防止を目的とした妊産婦の保護指導策で、市区町村に妊娠の届け出を行ない、役場から妊産婦手帳を公布してもらうと、さまざまな優遇措置が受けられるというものである。 その内容は、(出産前に医師や産婆の診察を受けることを規定し、生活困難者には無料、脱脂綿やガーゼなどの出産用品の配給、栄養食料品の優先配給がある)などである。 手帳を交付してもらうには、医師か産婆にかかる必要があった。 (同上 186~187頁)
在日女性も妊娠すれば、「妊産婦手帳」が交付されて、様々な優遇措置を受けることができたのでした。 ただし手帳をもらうには、医師か産婆の診察を受けねばなりません。 在日女性の出産には、産婆さんがつくようになります。
李賛蓮さん(1922年生)‥‥日本で出産したときには、妊産婦手帳をもらうために産婆を頼んだ‥‥姑は「産婆さんのお金がもったいない」といったが、手帳があれば五ヶ月になると妊婦用の晒(さらし)やネルの配給があるので、産婆の介助を受け、一週間沐浴をしてもらったという。 (同上 187頁)
金福順さん(1924年生)は‥‥1943年の出産時はすでに制度ができており、配給もあったので産婆を頼み、その産婆が役所に行って手帳を交付してもらったという。 戦中の物資不足の折、配給の優遇を受けられる制度は積極的に利用された (同上 188頁)
この手帳制度のおかげで、在日女性の出産は日本人のそれと変わらなくなりました。 「民族受難」を強調する従来の在日朝鮮人史の言い方ならば、〝日本式の出産を強制された”となるのかも知れません。 しかし日本式の出産のやり方は戦後も続き、日本人と同様に産婆さんから医師による出産へと変化していきました。
(川崎市ふれあい館での調査によれば)1940~1960年までは、ほとんどの女性が出産の際に産婆(1947年以降は助産婦と改称)を頼んでいる。 1961年からは、助産婦によるお産はなくなり、介助者はすべて医師になっている。 ‥‥ 1955年までの日本では、お産の介助はほとんど産婆(助産婦)によるものであった。 しかし1965年には出産全体の三割を切り、1975年には一割にも満たなくなっている。 かわって、医師の手による施設での出産が一般的になっていく。 在日の女性たちの出産も、こうした事情に沿っているわけである。 (同上 185頁)
戦後の在日の出産状況は、日本人のそれと全く変わらないですね。
なお朝鮮の慣習を知っている母親がいれば、産婦のためにわかめスープを用意します。 これは出産においてかろうじて残った民族の痕跡と言える風習です。 また近年に来日したニューカマー女性も出産時に今なお祖国の韓国に残る風習の通りにわかめスープを食べるようです。 それ以外にお産の神様である「三神(サムシンハルモニ)」を祭るという風習がありましたが、在日ではお年寄りでも今はもう知る人はいないでしょう。
「朝鮮部落」―金賛汀さんの体験(2) ― 2025/10/27
https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/10/21/9811055 の続きです。
朝鮮人たちは高度経済成長の恩恵を受けて経済的に余裕ができ、家を購入したりして部落外に出て行こうとする動きが現れてきます。 金賛汀さんは次のようなデータを出しています。
日本人が「朝鮮部落」を敬遠し、近辺地域の地価が他に比較して安価であったことから、高度経済成長で収入を確保できた在日の人々が土地を購入して、持ち家を建設する事例も多くなった。 1960年代、70年代の在日の住宅事情についての調査資料が存在しないので、当時の状況は不明であるが、1983年、神奈川県が在日朝鮮・韓国人についての調査を実施した結果によると、表8のようになる。
表8 神奈川県在住韓国・朝鮮人の住宅所有統計
外国人 県下一般
総数 100 100
持ち家 57.1 55.7
借家 41.6 43.8
うち公営、公団・公社 4.1 7.1
うち民営(含アパート) 34.7 30.5
うち給与住宅 2.8 6.1
その他・不明 1.3 0.5
(%)
この統計から判明することは在日の人々の持ち家比率が日本人よりわずかであるが高く、反対に公営・公団などの住居率が低いことである。 それはかつて「国籍条項」を盾に在日の入居が拒まれていた影響であろう。 戦前、1934年ごろの東京都での在日の家屋所有について報告書は「目下在京朝鮮人はその数4万(実数3万9552人)を数へるも、自分の家作(バラックを除く)に住むものは十指に足りぬ状態で‥‥」と記述しているのと比較すると調査時の1985年には持ち家比率が57.1%になっており、隔世の感がある。 (以上、175~176頁)
金さんは神奈川県のデータを出して、在日の持ち家の割合が日本人よりも高くなった事実を明らかにしています。 これはおそらく全国的に見られた傾向と考えられます。
ぐっと年代を下げたバブル経済およびそれ以降のことですが、家を借りようとすると「外国人お断り」で苦労した外国人が〝だったら購入しよう”となる場合が多いという話を聞いたことがあります。 不動産賃貸の外国人差別は今も続いているようです。 かつての在日の苦労が再現されているようですね。
多くの「朝鮮部落」の消滅は在日社会にさまざまな影響をもたらした。 まず、朝鮮民族意識のありかたの変化である。 在日が集団で生活する場があった時代、その地域の人々は朝鮮民衆の生活、文化的風習を色濃く保って生活していたが、日本社会に分散して生活するにつれ、民族文化、生活感覚を温存できる条件が急速に失われていき、そして同化の速度を速めた。 また、時を同じくして在日社会もかつてのように皆一様に貧しかった時代から、富めるものと貧しいものに階級分化が急速に進んだ。 経済成長の波に乗り、1960年ごろから事業を起こして成功する人々も増えた。 戦後、在日の人々の主要な職業は「パチンコ屋」「土方」「ホルモン焼き屋」「屑屋」であったが、「パチンコ屋」は電子科学分野の目覚ましい発展を背景に機械化と店舗の大規模化を成し遂げ、「土方」の親方は公共土木事業の増大で土木建築会社に成長し、「ホルモン焼き屋」は大型の焼肉料理店に生まれ変わり、「屑屋」は産業廃棄物処理業者へと変貌した。 (同上 176頁)
1983年3月の神奈川県の調査では在日の人々で事業を営む人は調査対象の29%に達し、その事業の年間売上額が5億円以上の事業所が6%にもなった。 住む住宅が確保され、就労の機会もあり、事業で成功する人が増える状況のもと、彼らの日本定住の意思は確固たるものになり、同化の進行による民族意識の希薄化がそれに拍車をかけた。 (同上 176頁)
金さんの見るところでは、〝在日韓国・朝鮮人は「朝鮮部落」という強固なコミュニティが解体し、自分たちが従事してきて得意分野となっていた「パチンコ屋」「土方」「ホルモン焼き屋」「屑屋」が発展して定着し、日本社会に貢献する存在となった”ということですね。
在日は日本への同化がさらに進んでいって、今はその最終段階に差し掛かっているのです。 在日の歴史の終着点は、〝日本社会に同化吸収されて、その一員となる”となりましょう。 これを日本側から見れば、〝わが日本文化は在日朝鮮人の文化を取り入れて、文化の幅が広く深くなった”ということです。 歴史を振り返ってみると、古代にあっては朝鮮半島からの渡来人が日本で活躍し、中世にあっては同じく朝鮮半島から陶磁器の技術と文化が伝わりました。 そして彼らが有していた文化は日本文化の一部となることによって、日本の文化がより深みと広さを持つようになっていったのです。
戦後80年の歴史(戦前を含めると100年以上の歴史)を歩んできた在日たちも、近い将来に〝日本の一部となる”という最終地点に行くものと考えます。 逆に言えば、在日は100年かかって日本に吸収されて同化し、同時に今度は日本文化が在日文化をも柔軟に取り込んで変化していくということです。 それによって日本民族は新たな民族へと変わっていくのです。
そして現代の外国人問題に引きつけて言うならば、彼らもまたこれまでの100年単位の在日の歴史と同じ軌跡をたどって日本人の一部になるだろうし、またそうなっていくことを願っています。 (終わり)
戦前の朝鮮部落の状況 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/10/01/9806622
かつて日本人は在日朝鮮人をどう見ていたか(1) https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/10/08/9808117
かつて日本人は在日朝鮮人をどう見ていたか(2) https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/10/15/9809571
「朝鮮部落」―金賛汀さんの体験(1) https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/10/21/9811055
【同化に関する拙稿】
水野・文『在日朝鮮人』(21)―同化 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2016/09/23/8197450
「同化」は悪だとされた時代 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2016/02/15/8018723
同化されない外国人 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2016/10/01/8206320
李青若(2)―「あなたは同化しているね」 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/12/06/9546013
「差別・同化政策」考 http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daigojuuyondai
在日朝鮮人は外国人である http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daiyonjuudai
(続)在日朝鮮人は外国人である http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daiyonjuuichidai
「同化教育」考 http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daikyuujuunidai
『ハンギョレ』中村一成氏への違和感(1) https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/07/30/9513291
『ハンギョレ』中村一成氏への違和感(2) https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/08/03/9514505
『ハンギョレ』中村一成氏への違和感(3) https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/08/06/9515348
在日韓国・朝鮮人自然消滅論(1) https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/11/26/9734747
在日韓国・朝鮮人自然消滅論(2) https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/12/01/9736094
「朝鮮部落」―金賛汀さんの体験(1) ― 2025/10/21
https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/10/15/9809571 の続きです。
拙ブログでは下記【拙稿参照】にあるように、朝鮮人集住地区(いわゆる「朝鮮部落」)について私の思い出や記憶のあるままに記してきました。 これまでの日本では在日韓国・朝鮮人の歴史の本が多く出版されてきましたが、それは「民族受難とそれに対する闘い」に重点を置いた歴史がほとんどです。
一方、彼らが普段どのような生活を送ってきたのか、その実態について彼ら自身は「民族受難」を語るものとして紹介するくらいでした。 「朝鮮部落」という特徴的な環境で生活してきたことを客観的に見る視点は多くなかったですねえ。 そういう中で、金賛汀さんの『在日、激動の百年』(朝日新聞社 2004年4月)には戦後の「朝鮮部落」が取り上げられており、在日の歴史を語る上に重要な記録を残していると思いました。 今回はその部分を引用・紹介したいと思います。
「朝鮮部落」の消滅
戦後、1960年代末ごろまで日本の各地に多くの「朝鮮部落」が点在していた。 私の学生時代(1961年ごろ)、朝鮮大学校では夏休みを利用して各地の朝鮮人多住地域に入り、「朝鮮部落」の子供たちを集め朝鮮語や朝鮮史の学習会を開いていた。 「朝鮮部落」の人たちは私たちを温かく迎え入れ、彼らの家屋を宿泊所として提供し、食事の世話までしてくれた。 私たちが寝泊まりした家屋はバラックに少し手を加えた程度の粗末なもので、河川敷のような場所にひとかたまりになって20,30軒びっしりと立ち並んでいた。 所によっては不法建設ということで、電力会社や市の水道局から電力の配線工事を拒絶され、水道管の敷設もできず、近くの日本人の民家から自分たちで配線工事をして、水道管を繋ぎ特別料金をはらっている「朝鮮部落」も少なくなかった。 その周辺の日本人から、そこは異郷のような特殊な目で見られており、道路一本隔てた日本人社会とはほとんど交流がなかった。 多感な若者の感性は「特殊部落」を見る日本人の言動に蔑視と嫌悪の感情を感じ取ったり、やり場のない怒りを覚えたものである。 (金賛汀『在日、激動の百年』朝日新聞社 2004年4月 173頁)
金賛汀さんは「朝鮮部落」の様相をよく観察しておられますねえ。 「(朝鮮部落)周辺の日本人から、そこは異郷のような特殊な目で見られており、道路一本隔てた日本人社会とはほとんど交流がなかった」なんていうのは、正にその通りでした。
ところで3年前の毎日新聞に、朝鮮部落でも在日と日本人との間に「共生」の歴史があったというような記事が書かれていて、驚いたことがあります。 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/08/11/9516772 この毎日の記事のような「共生社会を体現してきた集落」は、もしあったとしたら極めて特殊事例でしょう。 金賛汀さんが記しているように、朝鮮人たちは「朝鮮部落を見る日本人の言動に蔑視と嫌悪の感情を感じ取ったり、やり場のない怒りを覚えていた」のが実際だったと思い出されます。 とてもではありませんが、「共生」というものから程遠かったです。
「朝鮮部落」はその成立の過程を大きく分けて二つに分類される。 一つは日本人地主が借家や長屋を建てたが、環境が劣悪なため日本人が住み着かず、朝鮮人が借り、そこに同胞が集まって住み着き、合法的に朝鮮人が多住した場所。 代表例は大阪の猪飼野地域である。 もう一つは戦前、住宅が借りられず、河川敷などの国有地にバラックを建てて住み着いた人々が集まってきて「朝鮮部落」が形成された「不法占拠」的な集落である。 いずれの「朝鮮部落」にせよ、そこには貧しく喧騒に明け暮れる劣悪な住宅、生活環境であったが、異郷に住む朝鮮人の拠り所でもあり、在日が民族的な感情・雰囲気を異郷で維持した温床(おんどこ)でもあった。 (同上 174頁)
朝鮮部落は、ここでは二つに分類されています。 一つはおそらく同和地区を念頭に入れていると思われます。 「環境が劣悪なため日本人が住み着かず、朝鮮人が借り、そこに同胞が集まって住み着き」というのは都市部の同和地区でよく聞く話でした。
一方で、もともとは同和地区でないのに劣悪な住宅が並んでスラム化した地域が同和地区扱いされる場合もありました。 例えば大阪で生まれ育った人が「猪飼野」を同和地区と思い込んでいるのを知って、驚いたことがあります。 住環境が劣悪で周囲からの評判が悪く不動産価格が安くなるので在日韓国・朝鮮人住民が多くなってスラム化して「朝鮮部落」となったところです。 本来の意味の「同和地区」ではないのですが、混同する人が多いようですね。
借地・借家を中心として形成された「朝鮮部落」は、戦後の借地借家法などが居住者保護の立場を重視したことから、家賃や地代をきちんと払っている限り、そこから強制的に追い立てられることがなくなり、定着がより強固なものになった。 (174~175頁)
「朝鮮部落」は劣悪な環境ですから、周囲と比べれば家賃・地代は安いです。 しかし、きちんと支払っていれば追い出されることはなく、定着していきます。
もう一つは河川敷などの不法占拠。 この場合は、家賃も地代もありません。 終戦直後の混乱のなかで、住む家に困った在日たちが不法占拠してバラックを建てて「朝鮮部落」を形成するパターンですね。 これは今でも日本各地に残っていて、ユーチューブなどで時々探索するような映像が出ています。
どちらの「朝鮮部落」も、金さんは「貧しく喧騒に明け暮れる劣悪な住宅、生活環境であったが、異郷に住む朝鮮人の拠り所でもあり、在日が民族的な感情・雰囲気を異郷で維持した温床(おんどこ)」と、的確かつ簡潔に表現していますね。 「朝鮮部落」を体験していたからこそ書けたのでしょうねえ。
後者の河川敷等の不法占拠の「朝鮮部落」について、もう少し詳しく説明されています。
その「朝鮮部落」のうち「不法占拠」的な「朝鮮部落」が1960年代ごろから少しずつ消滅していった。 日本経済は1955年ごろから高度経済成長期を迎えたが、池田勇人内閣が成立した1960年ごろから政策的な後押しを受け経済成長はさらに進展した。 日本経済の発展につれ、戦後の長い期間、失業状態が続いていた在日の人々にも就労の機会が増え、生活状態の改善がもたらされた。 それに伴い生活環境の劣悪な「朝鮮部落」から抜け出す人々が増えていった。 また1959年末から始まった北朝鮮帰還事業には「朝鮮部落」に住む人々が多く帰り、「部落」消滅に拍車をかけた。 さらに高度経済成長を支えた大規模な公共投資により、河川敷の改修工事が進展して、河川敷を不法占拠していた「部落」の人々はいくばくかの保障と、提供された公共住宅に分散して入居することで、多くの「朝鮮部落」が消滅していった。 (同上 174頁)
これは大体その通りだったと同意するところです。 不法占拠ですからいつかは出て行かねばなりませんが、1950~60年代の高度経済成長とともに経済的に余裕ができたために「朝鮮部落」から抜け出た人は少なからずいました。 しかし、出て行こうともせずに居残った人も多かったのです。 1960年代までは「維持」、それ以降に「縮小」、というのが私の印象です。
なぜ出て行かなかったかというと、やはり民族を同じくする同胞がいて居心地が良かったことが挙げられると思います。 「朝鮮部落」では朝鮮人たちが協力し合う関係が強固に形成されていて、その核となったのが朝鮮総連の分会でした。 部落の子供たちは生まれた時から顔馴染みで、一緒に朝鮮学校に通っていました。(ただし多産家庭などでは、授業料無料の公立学校に通わせる場合も多かった) 彼らは周囲の日本人から冷たい目で見られているからこそ、部落内の団結は強かったと言えます。 このような民族コミュニティの居心地の良さゆえに、特に年取った人はそこから出て行き難かったのでしょう。
さらに付け加えて、在日たちは劣悪な住宅と環境での生活に我慢していたについてですが、それは彼らが“自分らはいつかは祖国に帰る、この日本は仮の住まいだ”という意識を有していました。 だから自分たちが住む地域にさほど愛着がなく、だからお金をかけて自分たちの生活環境を改善していく動きにはなかなか行かなかったことです。
それが1970年代に入って、そんな祖国志向が薄れ、日本に定着志向へと変化したのでした。 それは日本では高度経済成長期と重なり、在日も経済的に余裕が生じた時期なのでした。 (続く)
【拙稿参照】 「朝鮮部落」を探訪したユーチューブ動画 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/05/04/9773065
「朝鮮部落」の思い出(1) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/07/12/9508262
「朝鮮部落」の思い出(2) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/07/19/9510331
神戸の「朝鮮部落」―毎日新聞 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/08/11/9516772
小松川事件(3)―李珍宇が育った環境 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/04/12/9576502
かつて日本人は朝鮮部落をどう見ていたか(2) ― 2025/10/15
https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/10/08/9808117 の続きです。
大阪区裁判所検事 三木今二「内地に於ける朝鮮人とその犯罪について」司法省調査課『司法研究』第17集 報告書集第二 (1933年)
朝鮮人が群衆的騒擾性、付和雷同性を多分にもち、かの万歳騒擾(1919年の三・一独立運動)、元山罷業の騒擾(1929年の植民地期最大のゼネスト)または光州学生騒擾(1929~30年の抗日学生運動)等は彼等のこの性癖に帰するものがあると謂われて居る。
その群衆騒擾性付和雷同性は彼等の闘争心の強きこと、一般に信仰なく常に焦慮不安を抱いて居ること、教育なきために分別理性に欠くるところがあり、何等かの衝動を受けくると之を抑えることが出来ないで各々他人を中心として妄動するに基づくものであろうが、内地に於ける朝鮮人には生活の脅威に対する焦慮不安が自暴自棄の観念を起こさせると自然に醸成されつつある民族意識に支配されることによって、些細なことに端を発し凶暴なる騒擾を惹起するおそれがある。 (以上、杉原達『越境する民 近代大阪の朝鮮人史』岩波現代文庫 2023年3月 200頁より再引)
当時の在日朝鮮人の犯罪を直接担当した治安当局者の発言ですが、「群衆的騒動性」「付和雷同性」「焦慮不安」「自暴自棄」などの言葉の連発は、今なら差別発言だと問題になることでしょう。 現代の欧米の異民族スラム街での犯罪や暴動が時おりニュースになっており、担当の治安担当者も同じような感想を持っているだろうなあ、と想像します。 今の日本でも一部民族コミュニティに対してそのような傾向が指摘されているので、気になるところです。
近年に発刊された岩波新書『在日朝鮮人』に、戦前に形成された朝鮮人集住地区(朝鮮部落)について、次のように記述されています・
(1920年代以降の)このような朝鮮人集住地区は、日本人の眼には「猥雑」「不潔」としか映らず、理解不能な異文化が日本社会の中に移植されたかのように見えた。 (水野直樹・文京洙『在日朝鮮人―歴史と現在』(岩波新書 2015年1月 33頁)
100年前の戦前において日本人から朝鮮人を見た時の正直な感想は、「猥雑」「不潔」「理解不能な異文化」というものだったのでした。 そして100年経った今、各地に一部外国人民族コミュニティができていてその様子がユーチューブなどで公開されていますが、そこで出てくる感想と大きく違わないことに注目されます。
次に戦後に発表された資料ですが、法務省の方が在日朝鮮人の歴史を簡潔にまとめています。
森田芳夫「数字からみた在日朝鮮人」 『外務省調査月報』第1巻 第9号 1960年12月
(戦前の)朝鮮人は故郷にあっては純朴な農民であったが、教育が不十分、日本語が未熟なまま貧困の身で生存競争の激しい異郷に流入したために、治安や労務面で日本内の社会問題とされ、それに日本内が経済不況で、失業者が多い年もあったため、日本政府は行政措置により就職や生活の見通しのたたないものの渡航阻止を行なった。
(戦後の)在日朝鮮人には、女が少なく、老人が少ないこと、教育程度が低い者が多いこと、また職業の上で、農業従事者が少なく、定職のない者が多いことなどが犯罪率を高くする要因となっている。 今後、年齢構成の変化と教育程度の高まりと、生活の安定と共に、犯罪率は低下することであろう。 (以上、『数字が語る在日韓国・朝鮮人の歴史』明石書店 1996年6月 65~66、32頁に所収)
在日朝鮮人史に関心のある人なら、森田芳夫は必ず知っておかねばならない人物です。 戦後法務省官僚として、客観的統計資料に基づいて在日朝鮮人の実情を分析・研究した方です。 彼は戦前の在日朝鮮人について「純朴な農民であった」「教育が不十分」「日本語が未熟なまま貧困の身」と簡潔に評しましたが、その通りだった言うしかありません。
さらに戦後の在日朝鮮人について、「年齢構成の変化と教育程度の高まりと、生活の安定と共に、犯罪率は低下するだろう」と見通しました。 これは65年前(1960年)の分析ですが、それ以降の在日の歴史を見渡せばその通りの経過となっていますね。
「教育程度の高まり」と「生活の安定」は在日自身が努力してきたものです。 つまり在日が自ら望んで日本社会に馴染んだというか統合されたというか、端的に言って同化されてきたということです。 その結果が「犯罪率の低下」に繋がったのでした。
ここは今の外国人問題の解決に向けて何を努力すべきか、ヒントを得ることができると考えます。
大阪では1969年に矢田教育事件が起きた影響と思われますが、翌年の大阪中学校長会内部文書が暴露されました。 中学校に通う在日朝鮮人子弟がどんな様相であり、教育関係者が彼らをどう見ていたのかが記されています。 当時の底辺校に勤務したことのある教師なら、心の中で〝さもありなん”と思うでしょう。
大阪市立中学校長会「昭和45年度研究部のあゆみ」
朝鮮人子弟は、一般的に利己的・打算的・刹那的・衝動的な言動が多く、それが情緒不安定、わがまま勝手、ふしだらな傾向、実行の伴わないみせかけの言動となってあらわれる。 罪悪感に欠け、性的早熟、自己防衛的でその場限りのウソも平然とし、同じあやまちや不注意も繰り返す。 半面、外国人ということを卑下して、日本人のように振る舞おうとし、無気力になったり、荒々しくなったりする。 (永井萌二『見知らぬ人 見知らぬ町』1971年7月 五味洋治『高容姫』文春新書 2025年6月 65・65頁より再引)
「利己的」「打算的」「刹那的」「衝動的」「情緒不安定」「わがまま勝手」「ふしだらな傾向」「実行の伴わないみせかけの言動」「罪悪感に欠け」「性的早熟」「その場限りのウソも平然」「同じあやまちや不注意を繰り返す」‥‥。 教師たちが在日朝鮮人子弟たちによほど困っていて、それを正直に書いてしまったのでしょう。 今ではこんな発言は許されません。 しかし上述してきたような在日朝鮮人社会のなかで、このような子弟が生まれてきたと言えば理解してもらえるでしょうか。
これを今の外国人問題に引きつけるなら、彼らの子弟のなかに学校の授業についていけず、上記のような在日朝鮮人子弟と同じ振る舞い、時には悪の道に走る例が見られることです。 かつての在日子弟と同じような歩みを今の外国人子弟が歩んでいるのではないか、ということです。 とすれば、これまで日本人教師たちが取り組んできた在日朝鮮人子弟教育の経験は今の外国人子弟教育に生かしているのだろうか、同じような悩みを繰り返しているのではないか、という疑問を抱きます。
なお私の経験からすると、1980・90年代の在日朝鮮人子弟教育は学力向上よりも「本名を呼び名乗る」ことに重点をおいていて、教育というものからちょっとずれていたように記憶しています。 なにしろ教育研究集会では〝うちの学校で何人の在日生徒に本名宣言させたか”を発表していましたし、テレビで「二つの名前で生きる子ら」というドキュメンタリー放送をしたりしていましたから。 在日の子は通名(日本名)を名乗って朝鮮人であることがバレないかと怯えながら暮らしているから不良の道に行くのだ、本名を名乗れば不良にならない、なんて言うヘンテコな活動家がいましたねえ。 この「本名を呼び名乗る」取り組みは今の在日外国人子弟の教育問題に果たして繋がっているのだろうか、私は疑問に感じています。 (続く)
かつて日本人は在日朝鮮人をどう見ていたか(1) https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/10/08/9808117
戦前の朝鮮部落の状況 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/10/01/9806622
水野・文『在日朝鮮人』(10)―子弟の教育 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2016/06/22/8116734
在日の低学力について(1) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2021/04/28/9371638
在日の低学力について(2) https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2021/05/05/9374169
【在日の本名についての拙稿】
第21題「本名を呼び名乗る運動」 http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/dainijuuichidai
第85題(続)「本名を呼び名乗る運動」考 http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daihachijuugodai
第84題 「通名と本名」考 http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daihachijuuyondai
「部落民宣言」と「本名を呼び名乗る」運動 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2021/10/28/9435562
