北朝鮮に引け目を感じる韓国 ― 2026/07/06
2000年代に入って、韓国人は北朝鮮に対する批判というか嫌悪感がかなり薄れるようになりました。 それまでの朴正煕・全斗煥大統領軍事独裁政権時に「反共」「滅共」を叫び、北朝鮮への警戒心があれほど激しかった韓国人がわずか十数年経って金大中・盧武鉉大統領の進歩政権の発足以降、北に融和的になるなんておよそ想像もつかなかったです。
とすると、〝韓国人には北に対する親和的感情が元々あり、それがずっと隠れてきていたのではないか、そして進歩政権とともにそれが表面に現れたということではないのか”という仮説を立てることができます。
そのあたりを説明しているものはないかと探していたら、小倉紀蔵さんの次のような文章を見つけました。
北朝鮮に引け目を感じる韓国人 北朝鮮に心理的に対抗する力がない韓国
韓国人も引き付ける「主体思想」 北朝鮮に魅力があるとすれば、主体(チュチェ)思想こそがその魅力の源泉、根源であると思う。 北朝鮮の「魅力」といえるのは、はっきりいえばそれしかない。 ‥‥ この思想は人間中心的な哲学の土台を磨いて、革命道徳で武装した人間こそがすべてを決定する主体(チュチェ)であるという姿勢を堅持する。 悪の帝国主義に抵抗すること自体が、もっとも高い道徳なのである。
北朝鮮の経済は破綻しているし、政治のやり方も他国のお手本にできない。 けれども主体思想というのは、特に韓国人にとっては、従北勢力や主体思想派でないひとでも、道徳志向的なひとにとっては魅力的に感じるのである。 左派の文在寅政権が誕生してからずっと、韓国人のメンタリティーが北に引っ張られたのは、根源的にいうとそこにある。 韓国の歴代保守政権の一番弱いところが自主性だったと認識された。 やはり日本問題なのである。 韓国の保守は日本に妥協した。 それに対して北朝鮮は妥協しなかった、ということである。 そこは韓国人のメンタリティーからいえば、北朝鮮の方に国家の正統性があるのではないかということにつながってしまいかねない。
もちろん韓国人であるから、国家の正統性は大韓民国にあるという思いは、はっきりと持っているが、こころの奥底の方では「日本にあれだけ突っ張った態度を取れる北朝鮮は偉い」という気持ちを持っている。 (以上、 小倉紀蔵『韓国の行動原理』PHP新書 2021年7月 121~122頁)
小倉さんによれば、韓国人の考えは〝我が国は日本に対して強硬に対応せねばならなかったのに歴代の保守政権は日本に妥協してしまった、しかし北朝鮮は日本に妥協せず突っ張っていることは羨ましい、北朝鮮には頑張ってほしい”、ということになるようです。 この考え方は、進歩はもちろんですが保守もこれに傾くようになったということです。
また北朝鮮・韓国を論じる古田博司さんは、韓国の歴史を顧みて次のように言っています。
近代史上、韓国は日本と戦ったことがない。 対日戦争を独立戦争として戦ったのは北朝鮮の故金日成主席と仲間たちだけだ。 青山里の戦闘(1920年)で勝ったというウソを定着させようと韓国は骨を折ってきたが、しょせんムリだった。 韓国が英雄として誇るのは、あとは爆弾魔のテロリストだけだ。 有能な人材は全て日本の近代化に参画したから、放浪者しか残らない。 その放浪者の爆弾テロリストを英雄にしたてなければならないのは、今の韓国の悲哀である。 (古田博司『醜いが、目をそらすな、隣国・韓国!』WAC 2014年3月 111頁)
韓国人は自国の歴史を読んでみても〝日帝強占期(植民地時代)に日本と戦ったのは金日成だけで、韓国の先人たちは正面切って戦っていなかった”と知るしかなく、〝それが「韓国の悲哀」だ”と古田さんは喝破しました。 今の韓国では植民地時代に青山里戦闘(韓国では「青山里大捷 청산리대첩」と呼ぶ)があったと教えられていますが、それは独立戦争というには程遠いものでした。 これに対して、金日成は満州で「抗日パルチザン」を闘っていました。 そしてこのことが、韓国が北に対して「引け目」を感じる要因だということです。
北朝鮮はこんな韓国の「引け目」を利用して韓国に反日をあおり、同時に日本には嫌韓をけしかけます。 これについては以前のブログで論じたことがありますので、お読みくだされば幸い。
北朝鮮の「갓끈 전술(帽子の紐 戦術)」 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2019/01/08/9022748
韓国の反日に北朝鮮の影があるように、日本の嫌韓にも北朝鮮の影があるように見えてなりません。 〝嫌韓を叫ぶ在特会やネットウヨは北朝鮮の手のひらの上で踊っている”というのが私の分析です。
【関連拙稿】
韓国と北朝鮮の歴史観が一致する!! http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2011/02/10/5675477
韓国の北朝鮮研究 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2011/02/22/5698027
光州事件は民主化運動として普遍化できるのか? https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2018/05/25/8859204
朝鮮戦争時の性事情―崔吉城氏が語る思い出 ― 2026/07/12
朝鮮半島を南北に分断する三八度線のすぐ南側に位置する村(韓国領)は、1950年に朝鮮戦争が起きると最初は北朝鮮人民軍、次に国連軍(韓国軍を含む)、そして中国人民解放軍、さらに国連軍と入れ代わり立ち代わりで占領されました。 そういう村に子供時代を過ごした崔吉城氏(社会人類学研究者、広島大学名誉教授、故人)は、その時に村で起きた性事情について思い出を語っておられます。 ちょっと興味深いと感じましたので、引用紹介します。 出典は崔吉城『韓国民俗への招待』(風響社 1996年9月)です。
戦争と性暴行
私の故郷は三八度線(休戦ライン)付近の小さな村である。 戦後の韓国社会は急速に変わりつつあったが、村にはその影響はまだあまりなかった。 両班同族村ではないが韓国の普通の農村であり、儒教の通過儀礼や祖先崇拝を大切に守っていた。 したがって性に関しても儒教的な倫理が強く、女性の貞操や淑女としてのモラルを守ることには厳しかった。
1950年代の初め頃、村で小さな事件が起こった。 村の青年の中にソウルのある大学の学生(当時それは面単位として珍しいことであった)がおり、その青年が村の女性と恋愛したのである。 親は本人同士の恋愛関係を黙認しており、結婚に進むことを期待したようであった。 しかし村では男性たちが集まり、二人の恋愛を村の掟を守らぬ淫らな行為であると決議した。 そして女性の従兄が大門を締める木片を外し、女性の家に走り込んで頭を殴る、という事件になった。 本人はもちろん家族も怒ったが、その事件は女性の「淫乱」について親戚が怒ったということで静かに治まったのである。
朝鮮戦争が起きると、その青年は北朝鮮の運動員となり彼女はそれに協力した。 しかし青年は結局越北してしまい、彼女は村に残されてしまった。 そして韓国軍が入った時、彼女は共産主義者として軍人たちによって集団暴行されたのである。 その後、中国人民解放軍が侵攻して村に入った時、村人は極端に恐れたが、彼らは意外におとなしかった。 女性には振り向きもせず、性暴行は一切なかった。 老人には煙草や薬を与えたりしたので、村人は武力は弱くても良い軍隊だと思った。 やがて休戦になると女性の一家はソウルに引っ越していった。
それまで伝統を重んじるごく普通の農村で、ちょっとした恋愛劇があっても何とか平穏にやり過ごしてきた平和な村でした。 それが1950年に起きた朝鮮戦争で激変します。
戦争に参加した中国人民解放軍は、韓国では評判がいいですねえ。 私の聞いた話でも、中国軍は占領駐屯すると自分らの炊飯等のために薪を取りに山に入るのですがその時に村人のための薪も取ってきて分けてくれた、ということでした。 性犯罪についても、ほとんど全く話を聞きません。 村人は当然喜びました。 その直前に中国で起きていた国共内戦時に、中国人たちは国民党の国府軍よりも共産党の人民解放軍を圧倒的に支持した理由が分かりますね。
1953年に休戦協定となって戦争は一段落することになるのですが、 この村ではその休戦前に国連軍が中国軍を追い払って駐屯したところ、性犯罪が激増しました。
休戦直前から村のまわりに米軍が駐屯するようになった。 村では韓国軍や国連軍が入ることを最初歓迎したが、村の象徴ともなっていた大きい松を切り倒したり、墓石を射撃の的にしたり、他の村では藁葺きの人家を燃やして体を休めたという噂も聞かれ、さらに国連軍という軍隊に性暴行者が多いのには驚かされた。
畑仕事をしていた若い女性が、米軍のジープで連れ去られ集団性暴行された事件があり、隣村では性暴行した黒人を殺してしまうという事件も起こった。 そうしたニュースはすぐ村々に広まり、若い女性は老人のように仮装したり子供をおんぶしたりして隠れたが、彼らは犬を連れてきて探したりした。 性暴行には若い女性だけでなく少年も対象になった。 私の友人などは、畑で仕事を手伝っている時に米兵が現れ、性器をなめさせられたり口に入れられたりした。
私の隣家にも若い娘がいた。 ある夕方それを知った二人のイギリス兵がその家を急襲し、一人は彼女を捕まえて部屋の中で暴行しようとし、一人は銃をもって見張りをしていた。 それを見かねた彼女の祖母が、危険を覚悟で鉄製の熊手鍬を持って板の間を叩いたのである。 驚いた彼らが逃げ出す光景を私は鮮明に覚えている。 まさに、儒教的性道徳が西洋に奪われる恐ろしい時期であった。
当時の国連軍は、末端では軍紀が乱れていたようです。 ここは日本占領下のGHQや沖縄占領下の米軍などが連想されますね。
売春婦の登場
その最中に若い売春婦たちが大勢村に現れた。 村人は美女たちを歓迎した。 まるで彼女たちは村の救い主のようであった。 性暴行を免れるために村人は売春を歓迎した。 売春婦たちに部屋を貸して収入も得られるし、村は性的安全が守られる。 まさに一石二鳥であった。 そして村は一気に売春村になった。 村人は売春婦たちを軽蔑しなかった。
米兵たちはパパサン(父さん)、ママサン(母さん)、タクサン(沢山)、スコシ(少し)などの日本語混じりで話をした。 村人も英語を一所懸命に覚えようとした。 ハバハバ(早く)、ワシュワシュ(洗濯)、ストップ(中止)、オーケイ、イエス、ノ、シューシャインボーイ(靴磨き少年)、ツリコーター(自動車)、カモン(来い)、カッテムソナビチ(悪口)、ケーアウ(離れ)、スリップ(寝る、性行為)、ショットタイム、ロングタイム、オルナイトなどはよく通じた言葉であった。 そしてチャプチャプ(食物)・ストップ(中止)が、消化不良のために薬を求める意味となったように、ある程度ピジン語(現地語化した英語)的な表現も表れた。
米兵は飲んで歌い、ダンスもした。 歌は当時のアメリカの流行歌であった。 たまには「シナの夜」などの日本の歌も歌った。 朝鮮戦争に参戦した米兵たちは「帰休制度」などによって日本でつかの間の休憩をとり、「パンパン景気」をもたらしたのである。 米軍MPや警察当局は売春を一応取り締まったというが、私の村では一度もなかった。
村はすっかり売春村となって西洋文化と接するようになった。 売春婦と仲良くする人も多く、ある村の男は売春婦と寝たりして夫婦喧嘩になったりもした。 村の女性は売春婦の衣装から相当影響されたし、男性は米軍の軍服などを作業服にした。 一時的ではあるが村は経済的に豊かになり、私たちは缶詰の食品やコーヒーも味わった。 商品として価値あるものは洋タバコ(赤玉と言われた)であった。 ライターは神秘的にさえ思われた。 特にタバコを吸う老人はライターを貰って喜んだ。
その後、村の米軍部隊は4キロ離れた東豆川市に移動し、長期的に駐屯するようになった。 大部分の売春婦はそちらについていった。 そこには洋セクシーや洋カルボと呼ばれる女性(西洋人相手の売春婦)が兵士の2・3倍はいるといわれていた。
米軍部隊のあるところは、軍と売春婦が景気を握っているといい、もし米軍が外出禁止になるとすぐ不景気になるという。 こうした駐屯地の門前町として全国的に有名なのは、ソウルの梨泰院、京畿道の波州と烏山、大邱などである。 そこは町並みもアメリカの風景のようであり、治外法権地域として知られている。 売春婦たちは韓国軍の周辺にもおり、主に軍人たちが利用する駅の周辺を中心に「倫落街」が形成された。 つい最近までソウル駅や清涼里駅の周辺には売春婦が密集していたが、このような事情は都会であれば全国的な現象であった。
米兵による暴行や殺人事件、婚約を守らない米兵を恨んで自殺した事件などもたびたび報道された。 売春婦たちが死体をかついでデモをしたり、社会問題になったこともあったが、米軍は共産主義から守ってくれたのだし、平和を守ってくれる恩人ということで、大きく拡大されたことはない。 売春婦たち自身の反社会的で恥ずかしい存在であるという自己認識と、大きな武力には何もできないという無力感もあったのだろう。
米軍部隊が移動していった後、村は全く前の伝統的な農村に戻った。 二人の売春婦が村に残り、定着した。 一人は白人の子を産み、育てながら住み続け、もう一人はソウルの人だが結婚して村に住んでいる。 悲惨な過去を持っている人が、それをよく知っている村人と一緒に住んでいるのである。 最近村人が大勢集まって彼女の還暦祝いをしてあげたと聞いた。 これは両者ともに悲惨な過去を経験し、罪人なので誰をも差別することはできないということであろう。 言い換えると、戦争はある場合には寛容を生み、許す心にさせるのである。 村は差別のない社会になった。 こうして戦争は儒教社会の性的倫理もすっかり変えたのである。
儒教を厳しく守る伝統社会の農村が、駐屯した米軍の性事情により大きく変わったのでした。
売春の変容
売春婦たちは大体は民家を借り、家庭の雰囲気を出すような飾りつけをして米兵を得意客にした。 ホームシックの米兵にとっては家庭の雰囲気を味わい、慰められるのであろう。 まさに「慰安婦」の機能をよく果たしていたといえる。
O女は貸し部屋にベッドも置いてあったし、いくつかの英語も話せるので、同僚の彼女たちから姉チャンとかオヤブン(日本語)と呼ばれた。 O女はソウルに個人住宅を持っていて村から女中を連れていった。
多くの売春婦たちは、運が良かったらアメリカに行けるかも知れないという国際結婚の夢をもっている。 C女は売春婦になって白人の子供を生んで育てていたが、他の米兵と付き合うようになり結婚するつもりで生活費も送ってもらった。 しかし連絡が切れてしまい国際結婚は諦め、貯めた金で喫茶店を経営していたが、最近交通事故で死亡した。 このように、売春婦たちは得意客を作って国際結婚を狙うが、金を稼いで商売の元手を作るのが主な名目である。 私は大邱のキャンプ・ヘンリーやキャンプ・ワーカーの駐屯地の前で、国際結婚を扱っている店の看板を見たことがある。
売春婦が米兵と国際結婚した例は実際多いようである。 売春は結婚という「正道」から逸脱した行為であるが、逆に売春婦からはその道が結婚への道のように考えられているし、実際その機能も一部では果たしている。 倫理道徳を叫ぶ人からすると、実にアイロニカルな現象であるといえる。 (以上、崔吉城『韓国民俗への招待』風響社 1996年9月 114~119頁)
朝鮮戦争後の米軍にまつわる売春事情でした。 村も大きく変わりました。
以上で終わりですが、非常に冷静でまた客観的な記述をしようとしているところに感心します。
【関連拙稿】
在韓米軍の慰安婦の話(1) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2014/10/25/7473061
在韓米軍の慰安婦の話(2) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2014/10/30/7477690
在韓米軍の慰安婦の話(3) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2014/11/03/7482041
在韓米軍の慰安婦の話(4) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2014/11/07/7485014