北朝鮮に引け目を感じる韓国 ― 2026/07/06
2000年代に入って、韓国人は北朝鮮に対する批判というか嫌悪感がかなり薄れるようになりました。 それまでの朴正煕・全斗煥大統領軍事独裁政権時に「反共」「滅共」を叫び、北朝鮮への警戒心があれほど激しかった韓国人がわずか十数年経って金大中・盧武鉉大統領の進歩政権の発足以降、北に融和的になるなんておよそ想像もつかなかったです。
とすると、〝韓国人には北に対する親和的感情が元々あり、それがずっと隠れてきていたのではないか、そして進歩政権とともにそれが表面に現れたということではないのか”という仮説を立てることができます。
そのあたりを説明しているものはないかと探していたら、小倉紀蔵さんの次のような文章を見つけました。
北朝鮮に引け目を感じる韓国人 北朝鮮に心理的に対抗する力がない韓国
韓国人も引き付ける「主体思想」 北朝鮮に魅力があるとすれば、主体(チュチェ)思想こそがその魅力の源泉、根源であると思う。 北朝鮮の「魅力」といえるのは、はっきりいえばそれしかない。 ‥‥ この思想は人間中心的な哲学の土台を磨いて、革命道徳で武装した人間こそがすべてを決定する主体(チュチェ)であるという姿勢を堅持する。 悪の帝国主義に抵抗すること自体が、もっとも高い道徳なのである。
北朝鮮の経済は破綻しているし、政治のやり方も他国のお手本にできない。 けれども主体思想というのは、特に韓国人にとっては、従北勢力や主体思想派でないひとでも、道徳志向的なひとにとっては魅力的に感じるのである。 左派の文在寅政権が誕生してからずっと、韓国人のメンタリティーが北に引っ張られたのは、根源的にいうとそこにある。 韓国の歴代保守政権の一番弱いところが自主性だったと認識された。 やはり日本問題なのである。 韓国の保守は日本に妥協した。 それに対して北朝鮮は妥協しなかった、ということである。 そこは韓国人のメンタリティーからいえば、北朝鮮の方に国家の正統性があるのではないかということにつながってしまいかねない。
もちろん韓国人であるから、国家の正統性は大韓民国にあるという思いは、はっきりと持っているが、こころの奥底の方では「日本にあれだけ突っ張った態度を取れる北朝鮮は偉い」という気持ちを持っている。 (以上、 小倉紀蔵『韓国の行動原理』PHP新書 2021年7月 121~122頁)
小倉さんによれば、韓国人の考えは〝我が国は日本に対して強硬に対応せねばならなかったのに歴代の保守政権は日本に妥協してしまった、しかし北朝鮮は日本に妥協せず突っ張っていることは羨ましい、北朝鮮には頑張ってほしい”、ということになるようです。 この考え方は、進歩はもちろんですが保守もこれに傾くようになったということです。
また北朝鮮・韓国を論じる古田博司さんは、韓国の歴史を顧みて次のように言っています。
近代史上、韓国は日本と戦ったことがない。 対日戦争を独立戦争として戦ったのは北朝鮮の故金日成主席と仲間たちだけだ。 青山里の戦闘(1920年)で勝ったというウソを定着させようと韓国は骨を折ってきたが、しょせんムリだった。 韓国が英雄として誇るのは、あとは爆弾魔のテロリストだけだ。 有能な人材は全て日本の近代化に参画したから、放浪者しか残らない。 その放浪者の爆弾テロリストを英雄にしたてなければならないのは、今の韓国の悲哀である。 (古田博司『醜いが、目をそらすな、隣国・韓国!』WAC 2014年3月 111頁)
韓国人は自国の歴史を読んでみても〝日帝強占期(植民地時代)に日本と戦ったのは金日成だけで、韓国の先人たちは正面切って戦っていなかった”と知るしかなく、〝それが「韓国の悲哀」だ”と古田さんは喝破しました。 今の韓国では植民地時代に青山里戦闘(韓国では「青山里大捷 청산리대첩」と呼ぶ)があったと教えられていますが、それは独立戦争というには程遠いものでした。 これに対して、金日成は満州で「抗日パルチザン」を闘っていました。 そしてこのことが、韓国が北に対して「引け目」を感じる要因だということです。
北朝鮮はこんな韓国の「引け目」を利用して韓国に反日をあおり、同時に日本には嫌韓をけしかけます。 これについては以前のブログで論じたことがありますので、お読みくだされば幸い。
北朝鮮の「갓끈 전술(帽子の紐 戦術)」 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2019/01/08/9022748
韓国の反日に北朝鮮の影があるように、日本の嫌韓にも北朝鮮の影があるように見えてなりません。 〝嫌韓を叫ぶ在特会やネットウヨは北朝鮮の手のひらの上で踊っている”というのが私の分析です。
【関連拙稿】
韓国と北朝鮮の歴史観が一致する!! http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2011/02/10/5675477
韓国の北朝鮮研究 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2011/02/22/5698027
光州事件は民主化運動として普遍化できるのか? https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2018/05/25/8859204
朝鮮戦争時の性事情―崔吉城氏が語る思い出 ― 2026/07/12
朝鮮半島を南北に分断する三八度線のすぐ南側に位置する村(韓国領)は、1950年に朝鮮戦争が起きると最初は北朝鮮人民軍、次に国連軍(韓国軍を含む)、そして中国人民解放軍、さらに国連軍と入れ代わり立ち代わりで占領されました。 そういう村に子供時代を過ごした崔吉城氏(社会人類学研究者、広島大学名誉教授、故人)は、その時に村で起きた性事情について思い出を語っておられます。 ちょっと興味深いと感じましたので、引用紹介します。 出典は崔吉城『韓国民俗への招待』(風響社 1996年9月)です。
戦争と性暴行
私の故郷は三八度線(休戦ライン)付近の小さな村である。 戦後の韓国社会は急速に変わりつつあったが、村にはその影響はまだあまりなかった。 両班同族村ではないが韓国の普通の農村であり、儒教の通過儀礼や祖先崇拝を大切に守っていた。 したがって性に関しても儒教的な倫理が強く、女性の貞操や淑女としてのモラルを守ることには厳しかった。
1950年代の初め頃、村で小さな事件が起こった。 村の青年の中にソウルのある大学の学生(当時それは面単位として珍しいことであった)がおり、その青年が村の女性と恋愛したのである。 親は本人同士の恋愛関係を黙認しており、結婚に進むことを期待したようであった。 しかし村では男性たちが集まり、二人の恋愛を村の掟を守らぬ淫らな行為であると決議した。 そして女性の従兄が大門を締める木片を外し、女性の家に走り込んで頭を殴る、という事件になった。 本人はもちろん家族も怒ったが、その事件は女性の「淫乱」について親戚が怒ったということで静かに治まったのである。
朝鮮戦争が起きると、その青年は北朝鮮の運動員となり彼女はそれに協力した。 しかし青年は結局越北してしまい、彼女は村に残されてしまった。 そして韓国軍が入った時、彼女は共産主義者として軍人たちによって集団暴行されたのである。 その後、中国人民解放軍が侵攻して村に入った時、村人は極端に恐れたが、彼らは意外におとなしかった。 女性には振り向きもせず、性暴行は一切なかった。 老人には煙草や薬を与えたりしたので、村人は武力は弱くても良い軍隊だと思った。 やがて休戦になると女性の一家はソウルに引っ越していった。
それまで伝統を重んじるごく普通の農村で、ちょっとした恋愛劇があっても何とか平穏にやり過ごしてきた平和な村でした。 それが1950年に起きた朝鮮戦争で激変します。
戦争に参加した中国人民解放軍は、韓国では評判がいいですねえ。 私の聞いた話でも、中国軍は占領駐屯すると自分らの炊飯等のために薪を取りに山に入るのですがその時に村人のための薪も取ってきて分けてくれた、ということでした。 性犯罪についても、ほとんど全く話を聞きません。 村人は当然喜びました。 その直前に中国で起きていた国共内戦時に、中国人たちは国民党の国府軍よりも共産党の人民解放軍を圧倒的に支持した理由が分かりますね。
1953年に休戦協定となって戦争は一段落することになるのですが、 この村ではその休戦前に国連軍が中国軍を追い払って駐屯したところ、性犯罪が激増しました。
休戦直前から村のまわりに米軍が駐屯するようになった。 村では韓国軍や国連軍が入ることを最初歓迎したが、村の象徴ともなっていた大きい松を切り倒したり、墓石を射撃の的にしたり、他の村では藁葺きの人家を燃やして体を休めたという噂も聞かれ、さらに国連軍という軍隊に性暴行者が多いのには驚かされた。
畑仕事をしていた若い女性が、米軍のジープで連れ去られ集団性暴行された事件があり、隣村では性暴行した黒人を殺してしまうという事件も起こった。 そうしたニュースはすぐ村々に広まり、若い女性は老人のように仮装したり子供をおんぶしたりして隠れたが、彼らは犬を連れてきて探したりした。 性暴行には若い女性だけでなく少年も対象になった。 私の友人などは、畑で仕事を手伝っている時に米兵が現れ、性器をなめさせられたり口に入れられたりした。
私の隣家にも若い娘がいた。 ある夕方それを知った二人のイギリス兵がその家を急襲し、一人は彼女を捕まえて部屋の中で暴行しようとし、一人は銃をもって見張りをしていた。 それを見かねた彼女の祖母が、危険を覚悟で鉄製の熊手鍬を持って板の間を叩いたのである。 驚いた彼らが逃げ出す光景を私は鮮明に覚えている。 まさに、儒教的性道徳が西洋に奪われる恐ろしい時期であった。
当時の国連軍は、末端では軍紀が乱れていたようです。 ここは日本占領下のGHQや沖縄占領下の米軍などが連想されますね。
売春婦の登場
その最中に若い売春婦たちが大勢村に現れた。 村人は美女たちを歓迎した。 まるで彼女たちは村の救い主のようであった。 性暴行を免れるために村人は売春を歓迎した。 売春婦たちに部屋を貸して収入も得られるし、村は性的安全が守られる。 まさに一石二鳥であった。 そして村は一気に売春村になった。 村人は売春婦たちを軽蔑しなかった。
米兵たちはパパサン(父さん)、ママサン(母さん)、タクサン(沢山)、スコシ(少し)などの日本語混じりで話をした。 村人も英語を一所懸命に覚えようとした。 ハバハバ(早く)、ワシュワシュ(洗濯)、ストップ(中止)、オーケイ、イエス、ノ、シューシャインボーイ(靴磨き少年)、ツリコーター(自動車)、カモン(来い)、カッテムソナビチ(悪口)、ケーアウ(離れ)、スリップ(寝る、性行為)、ショットタイム、ロングタイム、オルナイトなどはよく通じた言葉であった。 そしてチャプチャプ(食物)・ストップ(中止)が、消化不良のために薬を求める意味となったように、ある程度ピジン語(現地語化した英語)的な表現も表れた。
米兵は飲んで歌い、ダンスもした。 歌は当時のアメリカの流行歌であった。 たまには「シナの夜」などの日本の歌も歌った。 朝鮮戦争に参戦した米兵たちは「帰休制度」などによって日本でつかの間の休憩をとり、「パンパン景気」をもたらしたのである。 米軍MPや警察当局は売春を一応取り締まったというが、私の村では一度もなかった。
村はすっかり売春村となって西洋文化と接するようになった。 売春婦と仲良くする人も多く、ある村の男は売春婦と寝たりして夫婦喧嘩になったりもした。 村の女性は売春婦の衣装から相当影響されたし、男性は米軍の軍服などを作業服にした。 一時的ではあるが村は経済的に豊かになり、私たちは缶詰の食品やコーヒーも味わった。 商品として価値あるものは洋タバコ(赤玉と言われた)であった。 ライターは神秘的にさえ思われた。 特にタバコを吸う老人はライターを貰って喜んだ。
その後、村の米軍部隊は4キロ離れた東豆川市に移動し、長期的に駐屯するようになった。 大部分の売春婦はそちらについていった。 そこには洋セクシーや洋カルボと呼ばれる女性(西洋人相手の売春婦)が兵士の2・3倍はいるといわれていた。
米軍部隊のあるところは、軍と売春婦が景気を握っているといい、もし米軍が外出禁止になるとすぐ不景気になるという。 こうした駐屯地の門前町として全国的に有名なのは、ソウルの梨泰院、京畿道の波州と烏山、大邱などである。 そこは町並みもアメリカの風景のようであり、治外法権地域として知られている。 売春婦たちは韓国軍の周辺にもおり、主に軍人たちが利用する駅の周辺を中心に「倫落街」が形成された。 つい最近までソウル駅や清涼里駅の周辺には売春婦が密集していたが、このような事情は都会であれば全国的な現象であった。
米兵による暴行や殺人事件、婚約を守らない米兵を恨んで自殺した事件などもたびたび報道された。 売春婦たちが死体をかついでデモをしたり、社会問題になったこともあったが、米軍は共産主義から守ってくれたのだし、平和を守ってくれる恩人ということで、大きく拡大されたことはない。 売春婦たち自身の反社会的で恥ずかしい存在であるという自己認識と、大きな武力には何もできないという無力感もあったのだろう。
米軍部隊が移動していった後、村は全く前の伝統的な農村に戻った。 二人の売春婦が村に残り、定着した。 一人は白人の子を産み、育てながら住み続け、もう一人はソウルの人だが結婚して村に住んでいる。 悲惨な過去を持っている人が、それをよく知っている村人と一緒に住んでいるのである。 最近村人が大勢集まって彼女の還暦祝いをしてあげたと聞いた。 これは両者ともに悲惨な過去を経験し、罪人なので誰をも差別することはできないということであろう。 言い換えると、戦争はある場合には寛容を生み、許す心にさせるのである。 村は差別のない社会になった。 こうして戦争は儒教社会の性的倫理もすっかり変えたのである。
儒教を厳しく守る伝統社会の農村が、駐屯した米軍の性事情により大きく変わったのでした。
売春の変容
売春婦たちは大体は民家を借り、家庭の雰囲気を出すような飾りつけをして米兵を得意客にした。 ホームシックの米兵にとっては家庭の雰囲気を味わい、慰められるのであろう。 まさに「慰安婦」の機能をよく果たしていたといえる。
O女は貸し部屋にベッドも置いてあったし、いくつかの英語も話せるので、同僚の彼女たちから姉チャンとかオヤブン(日本語)と呼ばれた。 O女はソウルに個人住宅を持っていて村から女中を連れていった。
多くの売春婦たちは、運が良かったらアメリカに行けるかも知れないという国際結婚の夢をもっている。 C女は売春婦になって白人の子供を生んで育てていたが、他の米兵と付き合うようになり結婚するつもりで生活費も送ってもらった。 しかし連絡が切れてしまい国際結婚は諦め、貯めた金で喫茶店を経営していたが、最近交通事故で死亡した。 このように、売春婦たちは得意客を作って国際結婚を狙うが、金を稼いで商売の元手を作るのが主な名目である。 私は大邱のキャンプ・ヘンリーやキャンプ・ワーカーの駐屯地の前で、国際結婚を扱っている店の看板を見たことがある。
売春婦が米兵と国際結婚した例は実際多いようである。 売春は結婚という「正道」から逸脱した行為であるが、逆に売春婦からはその道が結婚への道のように考えられているし、実際その機能も一部では果たしている。 倫理道徳を叫ぶ人からすると、実にアイロニカルな現象であるといえる。 (以上、崔吉城『韓国民俗への招待』風響社 1996年9月 114~119頁)
朝鮮戦争後の米軍にまつわる売春事情でした。 村も大きく変わりました。
以上で終わりですが、非常に冷静でまた客観的な記述をしようとしているところに感心します。
【関連拙稿】
在韓米軍の慰安婦の話(1) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2014/10/25/7473061
在韓米軍の慰安婦の話(2) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2014/10/30/7477690
在韓米軍の慰安婦の話(3) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2014/11/03/7482041
在韓米軍の慰安婦の話(4) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2014/11/07/7485014
毎日に薩摩焼沈寿官窯の記事 ― 2026/07/14
2026年7月12日付け毎日新聞に「薩摩焼・朝鮮陶工15代 沈寿官さん」「末裔は日韓つなぐ『語り部』 差別の苦しみを越え」「両国が許し合う日 願う」「420年の歴史が訴求力に」と題する長文の記事が載りました。
https://mainichi.jp/articles/20260712/ddm/001/200/158000c https://mainichi.jp/articles/20260712/ddm/003/200/111000c
https://mainichi.jp/articles/20260711/k00/00m/040/130000c https://mainichi.jp/articles/20260711/k00/00m/040/131000c
ただし有料記事ですので、関心ある方は図書館にでも行ってみてください。
薩摩焼を始めとする朝鮮人陶工については、私も下記のように拙ブログで論じたように、大いに関心のあるところです。 何か新しい事実が出ているのかなと思って読んでみたところ、気になる点がありました。 記事の筋書きが〝日本で差別を受けて逆境にありながらも技術を磨いて努力し、今や名声を博するほどになった”としているところです。 こういう筋書きは差別に反対する新聞の基調に合致し、また人の印象にも残るものなので、おそらく多くの人に好まれるでしょう。
ただ実際はそんなに単純なことではないはずで、歴史事実関係でも違和感が残るものでしたので、私には疑問符がつきます。 沈寿官さんには韓国のハンギョレ新聞から厳しい批判を受けていますね。 その内容は下記の拙稿をお読みいただくようお願いします。 私はこの新聞の批判が正しいと思っています。
朝鮮人陶工の歴史(1)―こうして歴史は作られる https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/07/15/9701351
朝鮮人陶工の歴史(2)―ハンギョレ新聞を読む https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/07/20/9702696
【関連拙稿】
壬辰倭乱後、祖国に残った朝鮮陶工たち(1) https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/06/28/9696684
壬辰倭乱後、祖国に残った朝鮮陶工たち(2) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/07/05/9698602
壬辰倭乱後、祖国に残った朝鮮陶工たち(3) https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/07/10/9699962
『故郷忘じがたく候』の元となった逸話(1) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/01/02/9647749
『故郷忘じがたく候』の元となった逸話(2) https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/01/09/9649336
東郷茂徳が名前を変えた理由 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2007/04/21/1453694
在日韓国・朝鮮人の精神医療(1) ― 2026/07/20
20年ほど前に購入し、パラッとだけ見てそのまま〝積ン読”していた本を今やっと読む。 在日韓国・朝鮮人の精神病に関するものです。 黒川洋治『在日朝鮮・韓国人と日本の精神医療』(批評社 2006年12月刊)。 著者は精神科医で、著書には専門用語が出てくるので、医学の知識が乏しい私にはちょっと難しいものでした。
また彼の在日問題に関してはというと、参考文献が1990年代までのものばかりです。 その当時は在日に関して根拠の怪しい俗説が広まっていて、著書はそれを受け継いでいるようでした。 ですから在日問題に触れる部分には、首を傾げるところがありました。 しかし20年前に精神医学の面から在日問題を考えようという、当時としてはおそらく初めての試みだったでしょうから、それなりに画期的な本だったと思えます。 一部を抜粋しながら紹介します。
「在日朝鮮・韓国人と精神障害」の問題に取り組んだ論文はほとんど存在しない。‥‥ 筆者の思いつくところでは以下のような理由が考えられる。 ①「脱亜入欧」の明治イデオロギーが作り出した東洋蔑視の根深い差別観が存在すること。 ②在日朝鮮・韓国人が「外国人」として意識されないこと(在日朝鮮・韓国人は差別の対象とされるときのみ、日本人に意識される) ③「差別・偏見」などの問題をあまりに政治的に考えるため、これをタブー視し、ある意味での「聖域」が出来上がっていること。 ④伝統的精神医学に基づく疾病感が支配的で、精神障害における社会要因の軽視が存在すること。 ⑤日本の精神医療が個々のサービスにおいて、このような問題に対処できる水準に達していないこと、換言すれば、精神障害者の置かれているトータルな状況がある種の悲惨さを有しているということ、などである。 (25頁)
精神医学・医療の問題として「在日朝鮮・韓国人」が問題になるのは以下のような点であろう。 ①在日朝鮮・韓国人に見られる精神障害の精神病理(アイデンティティ形成、発病準備状態、発病状況、心因、病像形成、慢性化などの問題) ②在日朝鮮・韓国人患者の治療・処遇上の問題(事例化、措置入院の問題、患者・治療者関係、援助組織、精神医療に内在する差別構造など) ③その他の心理・社会問題(差別、貧困、文化摩擦など)等である。 (25~26頁)
(朝鮮民族の)対日感情はその時々に顕現化した国民的感情で、仮に民族の心的装置のようなものを想定すれば、その底流には歴史的に形成され、世代を超えて受け継がれた民族的怨念ともいえる「対日コンプレックス」が存在すると考えられる。 F・ファノンは「劣等意識の奴隷となった黒人と優越意識の奴隷となった白人が、どちらも、神経症的な方向指示線に行動している」という。 同様な意味で、日本人と韓国・朝鮮人の関係においては、双方に国家的規模での「民族神経症」とも言うべき心的装置が想定される。 現在の両国間の問題を突き詰めていけば、必ず上記の対日コンプレックスに突き当たるはずである。 (27・29頁)
このような対日観が形成され、維持されている原因となった朝鮮支配とその後の歴史については、西欧列強による植民地支配と多くの共通点を有しながら、強調されるべき差異と特徴があると考えられる。 それらは、①同人種、同程度の文化・文明を持った隣国間で起こったこと。 このことは現在、東南アジアに見られる対日観を考える上でも重要である。 ②皇国臣民化、創始(ママ)改名、朝鮮語使用の禁止、内鮮一体など徹底した文化殲滅政策が取られたこと。 ③敗戦による朝鮮人の解放が日本人には全く意識されず、アメリカの占領政策とあいまって、「第三国人」などという別の差別が作り出されたこと。 ④南北分断国家の誕生。 ⑤世代を超えた長期滞在にもかかわらず、帰化が小規模でしか起こらず、朝鮮(韓国)系日本人が形成されないこと、などである。 (29頁)
在日韓国・朝鮮人の精神状況を探るのに、朝鮮民族の歴史をたどるというのは正当だと思われます。 著者はその際に参考にしたものとして、・梶村秀樹『朝鮮史』講談社 1977年、 ・姜在彦『日本による朝鮮支配の40年』大阪書籍 1983年、 ・金達寿『朝鮮―民族・歴史・文化』岩波書店 1958年、 ・ミッチェル『在日朝鮮人の歴史』金容権訳 彩流社 1981年、 ・山辺健太郎『日韓併合小史』岩波書店 1966年、 ・鳥羽欣一『二つの顔の日本人―東南アジアの中で』中央公論社 1973年、の六つの文献を挙げています(40頁)。 これも含めて当時多くの場で語られる〝在日の歴史”というのは、一言で言えば〝日本から受けた民族受難の歴史”です。 精神医療ですから、民族として差別されてきたことに注目したのは当時としては当然のことだったと思われます。
しかし2000年以後の在日は、祖国の韓国が経済発展して先進国化し、日本では韓流の大ブームが起き、在日の就職状況が格段によくなり、そして在日の同化がどんどん進んで帰化者が多くなり、また日本人との婚姻が85%以上に達するなど、在日をめぐる環境は大きく変化しました。 在日が自分の民族性に劣等感を持つことはなくなっていき、また日本人側も韓国に優越感を持つことがなくなってきたのです。 今は被害者の朝鮮人と加害者の日本人という昔の歴史観でもって目の前の在日を眺めることが、もはやあり得ない時代になっています。 つまり〝民族受難の歴史”では在日を説明できない状況になっているのが今日です。 著者はもし今日であれば、著書を大幅に書き換えただろうと思われます。
マイノリティの精神医学・医療についての論文はアメリカ・イギリスなどで非常に多い。 欧米のマイノリティと在日朝鮮・韓国人を同一に論じられない面もある。 在日朝鮮・韓国人の問題は、人種的な問題、朝鮮人の血を受け継いだ人の問題ではなく、植民地の支配と被支配の関係の中で生まれた民族問題で、その点では欧米のいわゆるマイノリティと称される人たちとは異なる。 しかし、差別、抑圧構造、貧困、文化差異など共通の部分も多いので参考にしたい。 (30・31頁)
英米ではマイノリティの精神医療がかなり研究されているようです。 それに対して、日本ではマイノリティである在日韓国・朝鮮人の精神医療は、ほとんど研究されていないのですね。 著書では英米のマイノリティ研究を多数紹介していますが、その中で在日韓国・朝鮮人に触れているものを選んで紹介します。
Manonni,O.は、植民地温情主義者の肖像と人種差別主義者の肖像を併せ持つ白人が、有色人種を支配しようとする無意識的神経症性傾向を、シェークスピアのテンペスト(嵐)の登場人物になぞらえてプロスペロー・コンプレックスと呼んだ。 従順に日本文化に同化する人間を優遇し、反抗する人間には「不逞鮮人」の烙印を押し徹底的に弾圧した日本人の心性のようなものを意味する。 (31頁)
Sabshin,M.は精神医学・医療に深く根付いた人種差別について、特に、①白人に見られる黒人の性格構造についてのステレオタイプ化、②医療供給上の差別、③本来、社会・経済的な問題である現象についての過剰な心理学的説明(問題のすりかえ)などについて論じている。 ①はサイードのオリエンタリズム的なもので、「黒人の劣等性」を論じたものは枚挙に暇がない。 ある種の問題行動、例えば思春期の逸脱行動や薬物依存などが、白人にあっては治療の対象とされ、黒人にあっては治療不要とされるような現象について述べ、精神医学的問題の社会学化と、その逆の社会問題の精神医学への取り込みとしてとらえ、これらが適切な医療に対する疎外因子になっていることを強調している。 在日朝鮮・韓国人のアルコール・薬物依存などについてはこのような視点が不可欠であろう。 このような医療上の差別構造が、初期治療や継続医療を困難にし、頻回入院、長期入院、慢性化をもたらしたりするという。 (34頁)
Carpenter,L.らはマンチェスターにおける移民の精神医学的疫学調査を行ない、統合失調症の有病率がイギリス人に比べ六倍も高いことについて考察している。 統合失調症といっても幻聴や中核症状の出現に関しては有意の差がなく、被害妄想のみが圧倒的に多く、統合失調症というよりは妄想性障害であろうと論じている。 本稿で扱った(在日韓国・朝鮮人の)症例でも、このような傾向が見られる。 (34・35頁)
Rabkin,J.G.はある地域の全人口の中でマイノリティの占める割合と精神科への入院は逆の関係になることを考察している。 その理由として、マイノリティが散在している場合、ストレスに対する社会的緩衝地帯が消失し、疎外感、不全感が増し、危機に際しての同情と理解に満ちた援助が少なくなること、貧困、失業、単身などの問題が深刻になることなどを考えている。 在日朝鮮・韓国人の団結力、相互扶助の厚さは知られていることではあるが、孤立している人も多く、精神保健上の問題も多い。 (35・36頁)
著者は、日本の精神医学がマイノリティである在日を取り上げないことに疑問を呈します。
日本においては、前述のごとく「在日朝鮮・韓国人と精神医療」についての論文はほとんど見られない。 これは問題が深刻でないとか、対象人口が少ないとかの理由によるものではなく、問題の所在が日本人精神科医の関心の外にあるということであろう。 日本で精神分析や社会精神医学が正当に評価され根付く素地がなかったのは、どうしてなのだろうか。(39頁)
(続く)
在日韓国・朝鮮人の精神医療(2) ― 2026/07/26
https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2026/07/20/9866477 の続きです。
著者は西欧のマイノリティ精神症状を取り上げ、在日の精神症例を論じます。
西欧社会では皮膚の色が黒いほど差別されるという。 差別体験は被害妄想準備状態を生み、精神症状への発展を容易にするという。 皮膚の色は関係しないが、「差別体験と妄想」の関連は後述の(在日韓国・朝鮮人の)症例でも一つのテーマとなっている。 (38頁)
この本では在日の症例を多数挙げていますが、ここではそのうちの二つを紹介します。 なお全文ではなく、抜粋です。
【症例B, 妄想型統合失調症 F20.2】 男、1925年生、国籍:朝鮮、在日一世
同胞4人の長子、1940年、中学生の時「朝鮮人の一人として民族心に目覚め」、当時の反日学生運動に共鳴するようになった。 学生運動グループのシンパとなり、三・一独立運動の本を読んでいるところを学校当局に発覚し放校処分となった。 当時の教育は全て日本語で行なわれ、皇民化政策のため「皇国臣民の誓詞」を毎日唱えさせられた。 Bは現在でも「誓詞」を全部暗記している。 (51頁)
退学後一年間、思想改造のため感化院送りとなった。 1942年(17歳)、親の援助で勉学を目的に従兄と二人で来日した。 東京に居住し、私立中学を卒業した。 戦後は、鉄工場、金融関係、遊技場などの仕事を転々とした。 朝鮮戦争後、朝鮮国籍を選び、日本名を捨てて本名を名乗るようになった。 (52頁)
Bの発病の時期は正確には分からない。 家族は朝鮮戦争後、共和国に住んでいることは確からしいが、全くの音信不通。 現在は面会に来る在日同胞もいない。 本人も過去のことは詳しくは語りたがらない。 カルテによると、1960年(35歳)、心気妄想、幻聴などがあり、国電の陸橋から飛び込み自殺を図ったとされ、約1年間T病院に措置入院となった。 (52頁)
その後、どのような生活をしていたかはっきりしないが、1964年「浮浪者のような姿で徘徊。長髭。貯垢、悪臭、破衣。 車の中のトランクを窃盗した」とされ、10日間の勾留後、S病院に措置入院となった。 この件に関してBは「失業して汚い格好でぶらぶらしていたら、いきなり職務質問を受け、多少拒絶したら連行された。 窃盗は警察の捏造だ」と述べている。 本人の異常体験はこのころから始まったと考えられる。 (53頁)
S病院入院後、肺結核が見つかり、しばらく結核病棟で治療を受けている。 この間の精神症状については不明。 1973年(入院9年目、47歳)、S病院が医科大学となり、生活保護患者の治療を打ち切ったため、T病院へ市長同意で転院となった。‥‥ 幻聴に左右されたと思われる行動の記載(カルテ)が少しある以外はおおむね落ち着いていて、作業などにもよく出席する目立たぬ患者であったらしい。 (53頁)
しかし1977年(52歳)頃から、「警察に監視されている」という異常体験の記載が散見される。 1980年(S病院入院後16年目、54歳)、病室内で工作中に、ハサミで他の患者の頸部、腕などを突いて、全治2週間の傷を負わせるという事件が起きた。 この行動は以前からあった異常体験に基づくものである。 この体験は現在に至るまで一貫して変わらない。 (53頁)
「もう20年も前からポリスマンに監視されている。 二人ずつ二組に分かれて、自分の一挙手一投足を監視している。 お互いに無線で連絡を取り合っているのが聞こえる。 ポリスマンが自分がしていないことを捏造したのが始まりです。 『三歳の女の子に性的な悪戯をした』とやっていないことをでっちあげた。 それ以来、一秒たりとも休むことなく監禁・監視が続いている。 政治犯を犯罪人に仕立て上げる常套手段で、精神病院にぶち込んだ。 いろいろな手段を使って私を拷問にかけて自白させようとしている。 医師や職員も、警察の言いなりになっている。 幻覚剤を入れて頭を朦朧とさせたり、点滴に変な物を入れて苦しませて自白させようとしたりする。 患者を使って悪口を言わせるのもしょっちゅうです。 あの時も、ポリスマンが患者を使って自分を白痴呼ばわりをさせた。‥結局あれこれやって、最後に私を自白させ、北朝鮮のスパイにするつもりです」というような内容である。 (53・54頁)
この事件以来、ずっと保護室に隔離されることになる。 その上、このような危険な患者は民間病院では見られない旨の申し入れが東京都衛生局になされ、都立M病院に転院になった(1980年、S病院以来16年、55歳)。 M病院では保護棟(重症患者対応病棟)に隔離され‥‥この時点で、著者が主治医となった。 初対面では、Bは礼節をわきまえたおとなしい人で、融通性もよく、表情も自然で、外見からは特段の印象を受けることはなかった。 しかし前記の異常体験は確固として持続していた。 Bは非常に知的な人で、病棟では静かに思想関係の本などに読み耽っている。 (54・55頁)
Bの行動として注目を引くことは、自分にとって不利な状況は全てポリスマンに関係付けて解釈されることである。 ものが紛失したりすると「ポリスマンが職員や患者を使って盗ませた」という。‥‥ 総じて妄想の話さえしなければ、精神病者には見えない「手のかからない患者」であった。 「社会主義の共和国に帰りたい。 しかしポリスマンが邪魔するから帰れない」とよく口にする。 そこには強い日本人への不信感があり、「先生もいつかは買収されますよ」などという。 (55頁)
その後、結核病棟で躁病患者が露骨な民族差別的な侮辱をしたため、病状が悪化してきた。 「昨夜、中曽根総理と厚生大臣と院長と警察が自分の肛門の写真を撮る話をしていた。 肛門の写真を撮っておいて、肛門から毒物を入れて自白させようと計画している」「私を試験台にして、先生が学位をとった。 今度は○○先生がロボトミーで脳の機能を調べる。 『お前の脳は特別だから切る』といっている。 自分には面会人もなく、身内もなく、その上朝鮮人だから何でもいいようにされてしまう」などという、今までよりも切迫した妄想が出現してきた。 ‥‥ 1年余り、外出も自由で比較的落ち着いた生活をしていた。‥‥しかし、1983年春、看護者の些細なやり取りの後、病棟を抜け出し、駅のホームから侵入する電車に身を投げ自殺した。 (55・56頁)
【症例についての説明と考察】
民族性の問題が病者に与える影響は一般に見えにくいものである。 ‥‥ Bの妄想世界が開示する民族性の問題は著者にとって重大かつ深刻に映り、むしろこの病の根幹を成すほどに思われる。 Bは死に至るまで、朝鮮人としてのアイデンティティに揺らぎを感じたことはない。 Bに思想的影響を与えた三・一運動は歴史的に見て朝鮮人の日本人観を決定的にした事件であった。‥‥日本帝国主義に対する怨念は、Bの妄想形成の下地になっている。 体験の中に取り込まれた「ポリスマン」は言うまでもなく国家権力の体現者であり、民族心を失うまいと努力する彼の前に、日本の朝鮮統治を凝縮したような象徴的な幻覚妄想が出現したのである。 この場合、その異常体験が強固で持続的なことは強調されていい。 (56・57頁)
次に、日本の精神医療がBにとってどのような意味を有していたのかについて考えてみよう。 Bの言葉にある「面会者がいない。身内がいない。朝鮮人だから」という理由に加えて、「妄想が取れない」「生活保護受給者」などという理由が、治療者に社会復帰の努力を放棄させ、入院を長期化させたことは確かである。 この長期収容=拘禁がBの妄想をより強固に、より体系化されることに寄与した。 このような医療で肥大化した精神病院が医科大学へと発展し、生活保護受給者を切り捨て、やがて患者は病院のたらい回しにされることになる。 (57頁)
Bの転院のきっかけとなった「ハサミで他の患者を刺した」という表現は強烈であるが、全治2週間ということからそれほど深刻なものではなかったと思われる。 しかし、この「事件」が危険性の予測を増大させ、「問題患者」として公立病院に転院になった。 在院8年目にして一度あった「暴力行為」を取り上げて治療を放棄し、「厄介な患者は税金で運営されている公立病院へ」という民間病院の姿勢が、公立病院を精神科の「高度専門医療機関」としてではなく、治安を優先させた「特殊病院」へ追いやり、やがて「心神喪失者医療観察法」を生み出したことは記憶に新しい。 ‥‥多少とも真剣に関わった者であれば、Bが危険な患者ではなく治療的信頼関係を築くことこそ優先されるべきであると気づくはずである。 Bの罹患したB型肝炎、肺結核なども彼の生活史を含め、この精神疾患と表裏一体をなすものと考えられる。 (61・62頁)
【症例J, 妄想型統合失調症F20.2】 男、在日一世、韓国、1925年生
1939年(14歳)、勉学を目的に兄と来日した。 O市内の中学に編入し、成績もよかったため、私立大学の法学部を卒業した。 卒後は、日本の会社に就職できず、同胞の経営する金融会社に就職した。 名前は仕事の関係で日本名、本名を使い分けていた。 仕事は比較的順調に行なっていた。 1955年(30歳)、所用で東京に行った際に不自然な行動が見られ、警察を経由して精神科に強制入院となった。 その時の体験は以下のようなものである。 (100頁)
「O市で汽車に乗った頃から、近くの座席で不自然な動きをする複数の男性の動きが少し気になっていた。 どこかで顔を見たような気もして、O市で以前に接したことのある暴力団関係の人のように感じた。 東京についてからも自分の後をついてくるように感じた。そのうち『自分を尾行しているような感じがした。 朝鮮人はずるい、警察に突き出さずにばらしてやる』と聞こえてきた。 そういえば、車中で読んだA新聞にも、公金横領のことが出ていたし、NHKでも放送していた。 何かつながっているように感じた。 恐怖に駆られて交番に飛び込んだが、名前を言うと、『在日登録証を出せ』といわれ、はじめから犯罪人扱いされた。 警察に一泊させられ、翌日入院させられた」 (100頁)
その後退院して職場に復帰した。 数年は順調であったが、1963年(38歳)、東京に出た時、また不安がつよくなった。 NHK、A新聞、警察ぐるみで自分の行動を監視しているように思え、急いで帰りの汽車に乗ったが、途中下車して警察に飛び込んだところ、以前と同様の対応をされ、翌日S病院に措置入院となった。 家族は皆帰国し、O市の知人も今回は引き取りを拒否したため帰るところが無くなり、措置入院解除後も生活保護となり、長期入院となった。 筆者がJの主治医になったのは1990年代のことであり、入院も20数年に及び、病状も安定していた。 (101頁)
表情、会話などからは全く病気という印象は受けない。 インテリで哲学、宗教、朝鮮文化などの本をよく読み、他の患者からも尊敬されている。‥‥ しかし半年に一回くらい、激しい表情で訴えてくることがある。 新聞記事などへの自己関係付けから、幻聴、被害関係妄想(「朝鮮人」「犯罪者」という内容の幻聴。 NHK、A新聞が自分のことを流しているという妄想)が一時的に強くなることがある。 (101頁)
【症例の種類と考察】
戦前、留学を目的に来日し大学まで卒業したが、学歴を生かしきれず、同胞の営む会社に就職した男性に、ある日突然、幻覚妄想が出現した症例である。 統合失調症の中核的症状や人格の崩れを全く伴わない定型的な妄想型統合失調症である。 妄想の内容は、既にいくつかの症例で見られたような、日本国家による迫害というテーマである。 生活歴を聞くと、仕事の上でも日常的に民族差別・蔑視にさらされていたことが分かる。 (101・102頁)
以上、多数の症例のうち二例だけを選び、内容の一部を抜粋して引用・紹介しました。 私は1970~80年代のことですが、何人もの在日活動家から〝朝鮮侵略、強制連行、民族差別”など、何かにつけて〝日本が全て悪い”と訴えるのを聞いてきました。 時には〝われわれ在日はいつ殺されるか分からない中を生きている”とまで言う人がいましたねえ。 私が〝在日一世たちから話を聞いても強制連行の歴史はあり得ない”〝通名(日本名)を押し付けられているというが在日自らがごく自然に通名を名乗っているではないか”なんて言うと、凄まじい批判を浴びたものでした。 素人判断で申し訳ありませんが、彼ら活動家は被害者意識に凝り固まって、〝精神医療の対象にならない程度の軽い「妄想型統合失調症」を患っていたではないか”と今になって思い出されます。
それとは反対に、20年ほど前から「朝鮮人は死ね、殺せ、ゴキブリ」などと叫んでいた在特会や嫌韓を主張するネトウヨなどの一部日本人らも同じように、〝精神医療の対象にならない程度の軽い「妄想型統合失調症」を患っていた”ように思われてなりません。 (終わり)
金時鐘氏は在日の公務員就職に反対していた ― 2026/07/30
三重県が外国人の公務員採用取り止めを検討すると表明して以来、これに関する議論が活発なようです。 https://news.yahoo.co.jp/articles/997b8a9481c75e8f8c194ad087c5d78d88d2e42b
外国人の公務員就職について、2026年6月10日付けの『朝日新聞』に国士舘大学文学部の鈴木江理子教授さんのインタビュー記事が「外国籍公務員の採用 門戸開く自治体増えても、若者たち阻む『制限』」と題して掲載されました。 その中で、彼女は次のように述べておられます。
主に旧植民地出身者の権利獲得を目指す動きのなかで、73年、阪神地域の市町が地方公務員(一般事務職)の国籍要件を撤廃したことを皮切りに、同様の対応を行う自治体が徐々に増えていきました。
https://www.asahi.com/articles/ASV690DYFV69OIPE018M.html
鈴木さんはおそらく知っていて語らなかったと思われますが、阪神地区での在日韓国・朝鮮人の公務員就職には意外なところからの反対があったのでした。 このことについて、公務員の労働組合である自治労兵庫県本部が次のように報告しています。
「兵庫県下の国籍条項撤廃について」 市町レベルの国籍条項撤廃は、1974年に、全国で初めて尼崎市、川西市など阪神地域の6市1町が撤廃しました。 ‥‥ そして、実際に6名が採用されましたが、その2年後に在日朝鮮人の民族団体からの「地方公務員への採用は同化政策に荷担している」との批判を受け、運動が一時後退をする時期もありました。
https://www.jichiro.gr.jp/jichiken_kako/report/rep_yamagata28/jichiken_hokoku/buraku05/buraku5.htm
自治労は、反対したのは「在日朝鮮人の民族団体」としましたが、それは間違いです。 実は反対して「運動を一時後退」させたのは、在日生徒を公務員に送り込んだ当の高校教師たちだったのです。 ウッソ―!と思われるかも知れません。
当時の高校では教師たちは、就職を希望する生徒たちのために情報を交換し時には企業等に働きかける「進路指導研究会」という会を作って、活動していました。 そしてそこが1973年に阪神間の公務員採用要綱にあった国籍条項を撤廃させて、翌年に実際に在日の教え子たちを就職させたのでした。 ところがその翌年度になってその研究会が在日の公務員就職を一転して反対し、「凍結」すると言い出しました。 玄善允さんという方が著書で、その時の「進路指導研究会」の機関誌からその主張を引用・紹介しています。 ここではそれを再引用します。
兵庫県進路指導研究会ニュース1976年3月『新しい出立のために』第18号に、「朝鮮人生徒の進路保障 在日朝鮮人生徒の公務員への就職―当面凍結する意味を進指研で討議―」が発表された。 そこには次のように記されている。
「在日朝鮮人生徒の公務員への就職については、私たちは今後これを凍結する。 在日朝鮮人生徒を公務員として送り込んだ阪神間の高校では、いま、彼らをすみやかに引き取り、積極的に転職をすすめていく方向で、当該生徒たちとの話し合いが続けられている。 在日外国人の門戸を開放し、地方公務員として受け入れてきた側の自治体の、民族問題に対する理解がまったくないことがその後明らかになってきており、このままでは在日朝鮮人法的地位に抵触する危険も生じる恐れがある。 また、このことで、私たち日本人が同化に手をかすことがあるとすれば、なおのこと見過ごすわけにはいかない」
「自治体当局ばかりではなく、労働組合もまた(在日に関する知識や認識に)乏しい‥‥公務員のストが禁じられているいま、(外国人公務員が)労働運動をすれば、生命に危険があることすら分かっておらず、在日朝鮮人を日本人の責任で守り切れる保障がない限り、彼らを労働組合に加入させるべきではない」
「(在日朝鮮人生徒の公務員就職は)凍結するが、<国籍条項>撤廃の要請は続ける。 そのわけは私企業が在日朝鮮人、中国人生徒を採用しない口実として、<公務員>も外国籍生徒を採用しないといったようにして就職差別を正当化しようとする風潮が現に存在するからである」 (以上、玄善允『金時鐘は「在日」をどう語ったか』同時代社2021年4月 157~158頁より再引)
「在日朝鮮人生徒を公務員として送り込んだ阪神間の高校では、いま、彼らをすみやかに引き取り、積極的に転職をすすめていく」とは、公務員に就職したばっかりの在日の教え子たちを辞めさせるということに他なりません。
この「進路指導研究会」の機関誌には、金時鐘さんが在日の公務員就職に反対する意見を投稿しています。 金宣吉さんという方の論文から再引用します。
「在日朝鮮人が日本の公務員になることは、日帝時代の夢を彷彿させる。 1945年8月15日まで、朝鮮人の青少年たちの夢は、町村の吏員になることがすべてだった。 いま、日本人化する風潮がつよく、帰化運動を推し進める動きが阪神間で起こっていることを合わせて考えるなら、官吏になることは同化の道行きだ。 言うまでもなく、在日朝鮮人の鉄則は、日本の内政に干渉しないことである。」
「公務員というなら、朝鮮語を教えることで公務員になっている私の場合のような、知識労働者としての面が開発されるべきだ。 公務員への就職を食えるからとか、金になるからというだけの、市民的権利の拡大だけに短絡させてはいけない。 そのような職場開拓は 問題がある。」 (以上、兵庫県高校進路指導研究会「在日朝鮮人諸団体の評価」にある金時鐘さんの投稿。 金宣吉「歴史をふまえた『異者』との共生」52~53頁より再引)
https://miccskyoto.jp/miccskyoto_cms/wp-content/uploads/2023/07/intersection_01_04_interview.pdf
また金時鐘さんは同じ頃に、在日の公務員就職に反対する理由を「民族教育の一私見」という論文でも明らかにしていました。 これは近年に出版された『金時鐘コレクション』にも再録されていますので、考えは変わっていないと思われます。 誤解されないために、ちょっと長くなりますが引用・紹介します。
兵庫県で推し進められている解放教育運動の中でも、在日朝鮮人子弟の進路保障の問題は大きな比重を占めている問題です。 それだけに、日本の教師達はほんとうに骨身を惜しまずこの進路保障、いい就職先を探して歩き回りますし、行政側とも関わって、在日朝鮮人でありながら地方行政の吏員、地方公務員になっているケースもままあるのです。 それが一昨年、公務員推挙、公務員になることを凍結するということが、兵庫解放研の集会で確認されまして、それが方々へ伝わっていくうちに、いろんな形の変わった受けとめ方ともなってしまっているようです。
在日朝鮮人が無権利状態を強いられていて、一切の就職口から閉め出されていることは、川崎におられる皆さん、特に日立の就職問題と深く関わった友人達が多いと聞いております川崎の皆さんには、在日朝鮮人の労働権の問題などよく知っておられることだと思います。 このような無権利状態の在日朝鮮人に、いい会社の門戸が押し開かれ、とりわけ、公務員、地方公務員としての役所勤めが出来るというというのは、破格な、破格と言っては語弊がありますが、絶対開けようのない戸口がこじ開けられた、もしくは、穴があいたということで、大きい意味を持つことはもちろんです。 社会的には大変なことだと思います。
それにも関わらずそのことを凍結するといったことの裏には、初めて兵庫県で地方公務員に採用されたのは県立尼崎工業高校の卒業生達でありましたが、その生徒たちの一部に、勤めに行っても続かなかった生徒がいたという実情があったからです。 または姫路の西播地区でも女生徒が一人、やはり地方行政に入っていますが、聞くところによると、その生徒は、入ったとたん日本人らしく振る舞っていると言います。 親までが加担してそうだといいます。 朝鮮人の痕跡をなくする側に立っていく、そういうことがあって、行政側に推挙することを凍結するというふうに兵庫の解放研では言ったのです。
日本の強大なシステムの中へ、大きい歯車の中に弧絶してひとりが入るというとき、それはよほどの意志力が働かない限り、よしんば少々強固であってもその大きな歯車にはどうしても噛みこまれていく。 周辺との調和を保つためにも、どうしても周辺の体質に合わせる自己になっていく。 そうならざるをえない要素の強い所に入るわけですから、どうしてもそうなるケースが多い。 だから地方行政などに入れるんだったら、入れるまでの学業保障と、そういう朝鮮人の自我確立みたいなものをもっと徹底して進めてからということが、凍結をするといったことの本質だったのです。
同じ地方公務員になるにしても、現業関係つまり土木関連の業務を担ったり、公園管理や環境衛生等の動く仕事をするような業務につくことは、私個人としても、そう不賛成ではありません。 ところが窓口業務にでも坐るとなると、どうしても私には寒ざむとします。
私の少年のころ、かつての日本に統治されていた植民地下の少年達の夢というのは、面事務所の書記、日本の行政からしますと町村役場の吏員になるということが夢の最大のものでありました。 下っ端というか、木っ端役人ですが、ともあれ行政権力から給料をもらえるということが一番の夢だったのです。 少年の夢として、青少年の描く夢として何と、わびしい限りではありませんか。
そのようなことが、在日朝鮮人の労働権の開発という正当な運動の闘い取る遺産の中で、在日世代のさもしい夢として育てられるのでしたら、これは何ともやりきれない話です。
一つの想定として、運動が進めた成果の一つに、ある生徒が地方行政の窓口に坐ったとします。 その窓口が外国人登録で係であったとしたら、同じ民族同士で取り仕切る側と取り仕切られる関係が現出する。 こういうことを作り上げてはならない。 兵庫解放研ではそのことを言っているのです。
私達が進路保障を言うとき、無権利状態に放置されている在日朝鮮人の子弟達に労働市場が解放されるということは、幾重にも大事なことであることは言をまちません。 ですが運動を進める人たちに、敢えてこういうことを朝鮮人として言いたいのです。
いい職場、大きい企業の門戸を開けるということは確かにすごい成果には違いないが、いい職場必ずしも朝鮮人の主体的な生き方とはなりえない。 観念的な言い方とはなりますが、いかにいい勤め口であってもノンといえるだけの選択をしうる子弟達があって、いい職場が開発されるべきだ。 大きいところへ勤められればいいとばかりに飛びつく子弟達ばかりでは“いい職場”は上昇志向ばかりをあおる毒花、仇花となるものである。
このような市民サイドの運動がない時でも朝鮮人は生きてきました。 朝鮮人の親は野放図にアッケラカンと生きてきたのです。 いい勤め口だけが進路保障のいい目標であるとき、これは厳しくも親の生きている生活実態を忌避する生理感覚を助長しないとも限らない。 いい職場が在日朝鮮人の夢ならば、いい職場などでなく、一家あげて手仕事をし、人のいやがる職種だけが仕事であった。 例えばドブロクを売り、残飯をかき集めて臭い豚を飼い、クズ鉄を集めて売ってきた親達は何と汚い存在であろうか。 そういう親達から切れたい若い子弟達が、いい会社いい職場に憧れてはいないか。 兵庫の解放教育で論議されなかったことが、今漸く論議されてくるとすれば、進路保障の問題におけるこの問題であります。
在日朝鮮人の展望の中では、親の生き来し、親の生きざまが誇りとして受け継がれる世代が創り出されることこそ、在日朝鮮人の教育であるべきものです。‥‥ よしんば(就職の)門戸が閉ざされたままであっても、朝鮮人の若い世代達は生きねばならない。 泥まみれになりながら、屈託なく笑っている親達にまともに目が向き、この親に誇りを持てる子どもにしてこそ本当の教育だと思うのです。 (「民族教育への一私見」関東民闘連主催・民族教育セミナー、川崎市、1977年3月6日 『金時鐘コレクション10』藤原書店 2020年6月に所収 202~206頁)
これに対する意見には賛否両論があるでしょう。 私は一部賛成、一部疑問ですね。 しかし在日の有力言論人であり影響力を有しておられる金時鐘さんが、かつて在日の公務員就職に反対していたという事実だけは皆さまに知っておいてほしいと思います。 金さんは1973年に兵庫県の県立湊川高校に教師として赴任しました。 進路指導研究会が在日の公務員就職を凍結する方針を打ち出した時期と重なるところから、金さんがこの凍結方針を主導したのではないかと思われます。 つまり凍結方針は、金さんの考えが反映したものではないか、ということです。
今三重県では外国人の公務員採用について議論があり、マスコミでも取り上げられていますが、かの有名な金時鐘さんが反対していた事実に誰も触れないのは果たしていかがなものかと考えます。
【関連拙稿】
岩波『世界』の論稿に抜け落ちた資料 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2026/02/08/9835414
金時鐘氏への疑問(3)―教員免許・公務員就職 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/04/05/9766006
第100題「国籍条項撤廃運動」考 http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daihyakudai
【追記】
三重県の外国人職員採用再検討問題について、マスコミではちょっとした話題になっているようです。 https://news.yahoo.co.jp/articles/485e3928cb8c274c58fe8fd32d587f7974c7153e
拙ブログにあるように、1973年に阪神間の公務員採用要綱にあった国籍条項がなくなり、翌年に6名が採用されました。 毎日新聞は、このうち尼崎市役所と川西市役所に採用され定年まで勤めあげた在日職員を取材して記事にしています。 https://mainichi.jp/articles/20260506/ddl/k24/040/070000c https://mainichi.jp/articles/20260206/k00/00m/040/295000c
彼らは学校から推されて公務員になったのですが、その直後にその学校から「彼らをすみやかに引き取り、積極的に転職をすすめていく方向で、当該生徒たちとの話し合いが続けられている」とされたことになってしまいました。 しかし学校が実際に「転職をすすめた」こともなく、「話し合い」をした事実もありません。 つまり学校の「進路指導研究会」が言っていることは、ウソだったのです。
その経緯について詳しくは分かりませんが、「進路指導研究会」という教師の公的な研究会が在日公務員就職凍結を打ち出し、すでに就職していた在日を辞めさせようとしたという事実は変わりません。 その研究会を動かしたのは金時鐘さんだろうというのは私の推測ですが、おそらく間違いないと思われます。
なお拙ブログでは、尼崎市役所の黄光男さんについて取り上げたことがあります。
黄光男さんの思い出 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2020/06/11/9256337
黄光男さんの思い出(2) https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2020/06/25/9261345