古代から続く伝統的葬法「草墳」(4) ― 2026/03/05
https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2026/02/27/9838734 の続きです。
民俗学者の村山智順は朝鮮総督府の嘱託職員となって朝鮮の民俗を調査し、報告書を執筆します。 総督府から発行された『朝鮮の風水』がそれで、そのなかに「草墳」を報告しています。 ↑はその報告書に掲載された草墳のスケッチ図です(368頁)。 なお村山は報告書本文では草墳とは書かず、「トク葬」「風葬」としています。
トク葬(덕창)
朝鮮語の허덕が草屋、仮小屋の意味であるから、このトク葬は小屋葬とでも云うべきものであろう。 これは多くの場合、下賤の人とかまたは遠く故郷から離れておる者が、死者を埋葬する土地もなく、またこれあるも吉地のない場合、或いはやがてその骨になる時を待って、その骨だけを納めて故郷に持参せむとする者が行なう葬法であって、山野の一部に木、竹、萩などを組み立て、または編み合せて小屋をつくり、草をもってその上を葺き、その中に死体を入れた棺を安置し、その骨だけになる時を待って土中に埋めるとか、あるいは故郷に持ち運ぶとか適当の処置をするのである。 (村山智順『朝鮮の風水』朝鮮総督府 昭和6年2月刊 1972年5月復刻 国書刊行会 366頁)
小屋掛けの草墳は、『朝鮮の風水』の↑の図の最下段に描かれていますね。 またその写真も367頁に「トク葬の一種」というキャプションを付けて掲載されています。 その写真が近年の韓国の論文の中に再掲されていましたので、URLを張り付けておきます。 https://m.blog.naver.com/PostView.naver?isHttpsRedirect=true&blogId=telience92&logNo=221370961497 なお、ここでは草墳の別名である「草殯(초빈)」としています。
なお「トク葬(덕창)」という言葉は今の韓国語辞典に採録されておらず、また「葬」は「장」です。 この「トク葬」は現在の全羅南道島嶼部に残っている「草墳」に繋がるものと考えられます。 近年まで残っていた「草墳」はYAHOOで「초분」の画像を検索すれば多く見ることができます。
村山智順の説明を続けます。
風葬
これは死体を菰包として樹上に置き、樹に縛りつけ、吊るしまたは木架を組みてその上に載せ、木架に横木を渡して水平に吊り、或いはそのまま地上に起きて、その上に草をかけ、人通りなき山野の中に放置するのであるが、これは永久にこうして置くのではなく、その脱肉解骨(骨だけになる)を待って、その骨を他の土中に埋葬するのである。
この風葬をなすものには二つの種類がある。 一つは下賤の身分の者で、死体をそのまま埋葬すべき山を持たない場合、骨になるのを待ってその骨だけを北邱山(死捨山とも見なすべき、誰の墓地とも決まっていない墓地で、貧賤にして私有墓地を定め得ない者または幼少の死人を埋めるところである)に移して埋めるが為であり、
一つは痘瘡とはチフスとかの悪疫で死亡した者の場合である。 この場合には、死体はこれを直ちに埋葬すると疫神の怒りに触れて一層その悪疫が猖獗を極めるので、この死体を供物として疫神に供し、もってその容恕を乞い、他に患者の出でざる為に犠牲に供する意味からのものと、疫病で死亡した者は疫神の祟りで死亡したのだから、疫神の許しを得て、その祟りが解ければ再び甦ることもあるのであろうから、しばらく風葬となし(直ちに埋めないで)一方疫神の祟りを解く祝祷をするものとの二つの動機から致されるのである。 (同上 366~370頁)
↑図の上段と中段に、木架に載せたものと樹木に縛り付けたもの、および木に吊るしたものの「風葬」が描かれています。 このうち吊るしたものは前回ブログで紹介した本間九介の『朝鮮雑記』にも出てきますが、本間は子供が亡くなった場合にする葬法としています。 しかし今ここで紹介する村山は、身分の低い者の場合と痘瘡(天然痘)などで病死した場合にこの葬法(樹上に置いたり縛り付けたり吊るしたり)をするとしています。 いずれにしても、今の韓国民俗学では「草墳」の一種とされています。 https://www.hiks.or.kr/HonamHeritage/8/read/1778
風葬は植民地時代に総督府が禁止したとされていますが、1931年発行の『朝鮮の風水』で報告されているところを見ると、まだ残っていたようです。 1945年の解放後の韓国では途絶したようで、全く聞きませんね。 (続く)
古代から続く伝統的葬法「草墳」(1) https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2026/02/15/9836684
古代から続く伝統的葬法「草墳」(2) https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2026/02/21/9837659
古代から続く伝統的葬法「草墳」(3) https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2026/02/27/9838734
古代から続く伝統的葬法「草墳」(5) ― 2026/03/11
https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2026/03/05/9840035 の続きです。
古田博司さんの『朝鮮民族を読み解く』という本の中で、「草墳」が触れられているのを見つけました。 李朝時代の「草墳」がどういう状況であったかが書かれています。 参考までに紹介・引用します。 ↑はその93頁にあった挿図で、「草墳に仮庵を設け喪に服す孝子『東国新続三綱行実図』1618年」というキャプションが付けられています。
死ぬと遺体を薦にくるんで、野辺にはこび、あるいは虎や狼の餌食になるのを避けて樹上に放置した。 これを草墳という。
なぜかといえば、そのまま土に埋めると骨が黒く腐ってしまい、霊力が落ちて、子孫に繁栄をもたらさないと信じられていたからである。 乾いてあめ色になった骨が取りたくて放置乾燥したのであった。 この葬法は今日でも、韓国は全羅道の西南海岸部や島嶼などの限られた地域に残っているが、李朝時代は全国的な風習であった。‥‥
さて、人死して、遺体を厳重に薦でくるみ野辺に安置すると、子孫たちは死者を悼んで数日の宴会をした。 これは飲酒肉食の饗宴であった模様である。
約3年後、肉や皮が落ちて遺体が骨だけになると、これを棺桶に入れて初めて埋葬する。 これは今日の韓国では洗骨葬と言っている。 現在の全羅南道西南島嶼部では、入棺のとき、実際に骨を洗い、これをきれいに並べて包むからである。 李朝初期には、このときシャーマンを呼んできて紙銭(これは中国のものと形が異なり、日本神道の御幣のようなものであった)を使って、招魂する。 そして埋葬後、子孫たちはまた大宴会をした。 (以上、古田博司『朝鮮民族を読み解く』ちくま新書 1995年1月 94~95頁)
「そのまま土に埋めると骨が黒く腐ってしまい、霊力が落ちて、子孫に繁栄をもたらさないと信じられていたからである。 乾いてあめ色になった骨が取りたくて放置乾燥したのであった」というのは、どういう資料に基づいているのか分かりません。 ムーダン(巫堂 무당 朝鮮のシャーマンのこと)からそんな話を聞いたのでしょうか。 或いはひょっとして古田さん独自の考え方かも。
飢饉のひどかった1671年、ソウルの藁葬(薦でくくって野辺に曝した遺体。つまり草墳)は6,969体と報告された。 王朝はこれを役夫と僧軍を派遣して全部埋めさせた。 怨磋の声が巷に満ち、民衆は役夫の袖にすがって哭いたと『実録』にある。 翌年にはソウルにあった藁葬を10里の外に出して、埋め込んだ。 その数3,060体。 このたびは役夫に賄賂をやり、埋葬を遅らせるものも出て来たとある。
民衆はついに、年月をかけてよい埋葬地を選べないと悟ると、王陵に隠れて埋め込むようになった。 権勢のある王様の墓は縁起のよい吉地に決まっているからである。 これを偸葬という。 (以上、同上 99~100頁)
『李朝実録』という出典が明記されているので、年代や遺体数といった数字は確かでしょう。 李朝時代半ばですが、草墳がどのような実態だったのか、想像するとちょっと怖いですね。
最後に出てくる「偸葬(투장)」の「偸」は、「盗」と同じ意味です。 王陵だけでなく、領議政(日本の太政大臣に相当)などの権勢家のお墓でも勝手にこっそり埋葬します。 〝李朝時代の庶民のたくましさ”と言えるかも知れませんね。 これは〝父母は「吉地」に葬ってあげてこそ子孫は繁栄する”という儒教の親孝行思想に基づくそうで、それに加えて土地の排他的私権が確立していなかった時代のために〝墓地は自由に定めることができたから”と考えられます。 〝先祖のお墓は子孫が常時管理しておくべきもので、それを怠れば他人に偸(盗)まれる”ということでしょうが、王様や時の権勢家のお墓に自分の親の墓をつくるとは、ちょっと想像を絶する世界ですね。 (終わり)
古代から続く伝統的葬法「草墳」(1) https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2026/02/15/9836684
古代から続く伝統的葬法「草墳」(2) https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2026/02/21/9837659
古代から続く伝統的葬法「草墳」(3) https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2026/02/27/9838734
古代から続く伝統的葬法「草墳」(4) https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2026/03/05/9840035
【拙稿参照】
在日の葬送の歴史―火葬の受け入れ(1) https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2026/01/22/9832164
在日の葬送の歴史―火葬の受け入れ(2) https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2026/01/29/9833521
土葬と火葬 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2020/10/27/9310074
京都高麗寺の国際霊園 土葬墓地 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/02/20/9564102
長生炭鉱刻む会代表のインタビュー―『週刊朝鮮』(1) ― 2026/03/16
太平洋戦争中の1942年、山口県宇部市沖の海底下で操業していた長生炭鉱で水没事件が起こり、183人(うち136人が朝鮮人)が犠牲となりました。 この事件の歴史を記録し追悼しようと「長生炭鉱の水非常を歴史に刻む会」(以下「刻む会」)という市民団体が1991年に発足し、2024年より犠牲者の遺骨の発掘作業をしてきました。 これはマスコミに報道されて、広く知られるようになりました。 そして今年の2月7日にこの作業をしていた台湾人潜水夫が事故死するという事件が発生しました。
この痛ましい事件が起きた二日前の2月5日に韓国の『週刊朝鮮』記者が「刻む会」の代表者にインタビューしていて、そのインタビュー記事が『週刊朝鮮2897号』(2026年2月16日)に掲載されましたので訳してみました。 市民団体の活動の理念や意図が何であり、どのような活動をしてきたのかが分かります。 翻訳文の途中で、私の感想を挟みます。
「刻む会」井上洋子 代表理事 「遺骨から探さねば謝罪も補償も要求できない」 イ・ヨンギュ記者
長生炭鉱の遺骨発掘を主導する人物は、井上洋子「刻む会」代表理事だ。 今年76歳の井上代表は子どもの時から朝鮮人強制労働に関心を有してきた人物として、日本で差別を受けていた在日同胞を助ける市民団体にも関係した。 彼女は自分が暮らす所で起きた惨劇に目を背けることが到底できなかったと打ち明けた。 40年余りの活動の末、遺骸の発掘と奉還を目の前にした井上代表は、韓日間の過去の歴史問題について「すぐにでも謝罪と賠償を受けたいとする人がいるのは分かるが、一歩ずつ進んでいきたいという気持ちを理解してほしい」と語った。 彼女とは去る2月5日、日本の山口県宇部市の現地で会った。
―故郷が山口県ではないと聞いた。
「そうです。 終戦の5年後である1950年生まれで、長野県下伊那郡天龍村という大変貧しい村で生まれました。 近くの天竜川という大きな川に平岡ダムがありましたが、朝鮮人2300人、中国人400人、戦争捕虜400人など、3000人余りの強制労働者で作られたダムでした。 子どもの時、クラスに日本名を使った朝鮮人の子どもたちが何人かいましたが、私は彼らが朝鮮の人であることを知らずに卒業しました。」
井上さんは1950年生まれですから、小学校時代は1950年代後半~60年代前半です。 とすると、その時その村にいた朝鮮人の生業は何だったのかが気になるところです。 戦争中にダム建設工事に従事していた朝鮮人がそのまま村に残ったのでしょうか。 ダム建設は戦後の1951年まで続いたとされるので、その可能性はあります。 しかし工事が終われば仕事を求めて都会へ流れるものなのに、朝鮮人はその後10年もその村に残っていたことになります。 また元々の村の主たる産業は農業と思われるのですが、工事に従事していたよそ者が農業することは普通は考えられません。 農業以外の仕事に従事していたのでしょうか、それとも何か特別な事情があったのでしょうか。
―当時は自分の故郷が強制動員の現場であったという事実を知らなかった。
「東京での大学時代、友達が『朝鮮人強制連行の記録』という本を貸してくれました。 自分の故郷の名前がそこに出てきました。 私が自慢のように思っていた天龍村が数多くの人々を強制労働させた村だったことを初めて知るようになりました。 山に遺骨がずっと捨てられたままであるという文が書かれていました。 あまりにも大きな衝撃でした。 高校の先生に「なぜ教えてくれなかったのか」という手紙を送ったくらいでした。 後に山口県に引っ越してきて、海に捨てられた遺骨があるって。 私の心の中に抱いていた〝山に捨てられた遺骨”と〝海に捨てられた遺骨”が私の中で一つに繋がったのでした。」
井上さんは1950年生まれですから、大学時代は1960年代末~1970年代と思われます。 ちょうど全共闘運動が盛んな時期でしたから、多くの学生が左翼へ流れていっていました。 朝鮮問題にも関心が高まっていて、〝朝鮮人は強制連行・強制労働の犠牲者である”というような本がよく読まれていたものです。 彼女もその一人だったようです。
―若い頃に、在日僑胞の「指紋押捺拒否運動」も応援した。
「犯罪者のような扱いをするのだから、若者たちが集まって指紋を拒否する抵抗運動を始めたのです。 私たち日本人もこれを通じて、言ってみれば〝目を覚ませ、日本人”のような勉強をするようになったのです。 この闘争が政治的に解決した頃、長生炭鉱の悲劇を知るようになりました。 (事実上在日僑胞を狙った政策だった外国人指紋押捺義務制度は1993年に廃止された) 在日朝鮮人の歴史を勉強した際に、近場でこんな悲劇があったことを知るようになり、これを歴史に刻もうという気持ちで始めたのです。」
―日本の代表的な労働組合連盟である「連合(日本労働運動組合総連合会)」の常勤者として長年勤めてきたことが運動のきっかけだったのか。
「30年以上、書記として勤めました。 ところで日本の労働運動は政治・社会の議論には目を向けません。 在日朝鮮人に視線を向ける組合ももちろんありませんでした。 私はそんな組合の風土に疑問を抱いていました。 職場の中ではこんな活動をしていることは一切言わなかったし、言ってもムダな組織でした。 だから60歳で定年を迎えた時、さらに5年働くチャンスもあったのですが、解放されたかったのです。 直ぐにこの運動に専念しました。 そして10年の間、広島から山口を行き来しながら運動しました。」
井上さんは労働組合の専従書記をしながら、在日朝鮮人問題に関わって指紋押捺問題などに取り組んだというのですから、左翼活動家の典型ですね。 ただ労働組合は社会党系の総評でも1980年代以降に体制内化し左翼運動ではなくなっていったので、彼女のような活動家には「組合の風土に疑問を抱く」ことになったと考えられます。 だからこそ、組合活動と関係ない在日問題に首を突っ込んだということでしょうか。
彼女は労働組合の専従をしながら長生炭鉱の問題に関わってこられたのですが、退職してからはこの長生炭鉱問題に専念することになりました。 私もかつて左翼がかっていたので、彼女の経歴は理解できます。 しかし55年以上経った76歳になっても左翼を続けておられるところに、驚きとともに執念を感じますね。 私なんかは1989年の東欧、続けて1991年のソ連の共産主義崩壊で、左翼を離れました。 だからこそ、彼女の経歴に驚嘆するのです。 (続く)
【追記】
2026年3月15日付けの毎日新聞に、「なるほドリ・ワイド 山口・長生炭鉱遺骨収容」というタイトルの記事が出ています。 ただし有料記事です。https://mainichi.jp/articles/20260315/ddm/005/070/092000c
【関連論稿】
第47題 指紋押捺拒否運動への疑問 http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daiyonjuunanadai
長生炭鉱刻む会代表のインタビュー―『週刊朝鮮』(2) ― 2026/03/21
https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2026/03/16/9842328 の続きです。
―「刻む会」を設立した当時、目標は何だったのか。
「最初に、海の墓地と呼ばれるあの『ピヤ(排気孔 Pier)』を保存すること。 二番目は日本人としての反省の意と犠牲者全員の名前が書かれた追悼碑を建てること。 三番目は歴史を十分に発掘し、証言資料を収集して本を出版することでした。 ところで犠牲者たちの名前を刻もうとすると、創氏改名された名前しか把握できませんでした。 大変無礼なことでした。 結局、韓国で使われていた住所に手紙を送りました。 17通の返事が来て、その手紙を通して初めて日本で父が亡くなったという事実を知ったという方もおられましたよ。 1992年から遺族会ができて、追悼集会を毎年開くことができました。」
―事故現場の近所に追悼碑と追悼広場をつくるのに22年かかった。
「土地を確保するのに大変な困難がありました。 やっと探したのが2009年でした。 二階建て住宅が売りに出されました。 これを壊して2013年、今のような形につくったのです。 私たち関係者が100万円ずつ出したりして、1600万円を集めました。」
―遺骨の発掘が元々の目標ではなかったと知った。
「韓国の遺族たちが1993年から日本でチェサ(法事のこと)をするようになりました。 この時、遺族たちが県庁に、政府に対する要求書を提出しました。 一番重要な項目が〝水没したまま放置された遺骨を故郷の地に奉還しろ”ということでした。 私たちも討論しました。 遺骨を収容(発掘)しようと言ったのは私だけでした。 27人だけの小さな市民団体がこれをやるのは無理だし、目標に掲げたら遺族たちを失望させることになるという意見が強かったです。」
―追悼碑を建てた後、活動が終わるところだったと聞いた。
「私たちとしては、もうすべてやったという気持ちでした。 ところがその後、集会(追悼式)の時に、遺族の方々から〝日本人はこれで運動を止めようというのか、我々は遺骨を収容して故郷に持って帰る時まで闘う”と言っていることを聞きました。 非常に大きな衝撃でした。 追悼式を建てて感謝の言葉を聞くと思っていたからです。 10年以上かけた仕事が大変でなかったというのか‥‥。 その時、山口先生がこのようにおっしゃいました。 『みなさん、これが自分の両親ならばどうしますか? 時間もかかり、お金もかかりますが、この事業を完遂してこそ、この仕事が終わるのではないですか』」
顔を見たこともない赤の他人でしかも民族も違う朝鮮人犠牲者を「自分の両親」のように思うべきだという考え方は、一般の人にはちょっと理解が難しいでしょう。 しかし差別問題に取り組む活動をしている人には、こういう考え方が受け入れられます。 自分は差別者であると規定して、被差別者に寄り添う人間であろうとすればするほどこの傾向が強くなりますね。
日韓の歴史問題でも〝私たちは韓国に加害責任を負わねばならない”〝踏んだ側は忘れるが、踏まれた側は忘れない”〝われわれ日本人はただ日本人というだけで韓国に対して原罪を有している”といって韓国側に寄り添おうとする日本人が存在し、韓国から〝良心的”と高い評価を受けています。 そして“自分は他の日本人と違って韓国人の痛みが分かる良心を持っているのだ”という意識になっていきます。
こういう日本人が〝朝鮮人犠牲者を自分の両親のごとく考えよ!”と言われると、それを受け入れるようになります。 「刻む会」もそういう人たちの集まりのように思われます。 ただ〝両親のごとく考える”というのは〝無限の責任を負う”という意味になりますから、「この事業を完遂してこそ、この仕事が終わる」というのは最後の最後まで責任を持つということでしょう。 私なんかは感心すると同時に、そこまで言って大丈夫なのかな?と思います。
―遺骨を発掘するようになって、大いに注目された。
「長生炭鉱の事故について、日本人たちは何も知らなかったです。 私たちが運動を始めたのも事故から50年後だったのです。 しかし、この運動がここまで来た原動力というか、日本人たちの支えも大きかったです。 遺骸発掘のために四回のクラウドファンディングを実施して7000万円(約6億5000万ウォン)近くのお金を日本の市民たちが出してくれました。 年金生活をしているお年寄りがお金を送ってくれるなど、〝日本人もまだまだ捨てたものではない”という気持ちになりました。 そんな力が一つになったと、すごく感じています。」
マスコミにも報道されたからでしょうか、寄付を7000万円も集めることができました。 これはすごいと感心します。 ただし3月15日付の毎日新聞記事「長生炭鉱遺骨収容」では「4回のCFで集まった約3700万円を資金として調査を続けてきました」とあり、金額に違いを見せています。https://mainichi.jp/articles/20260315/ddm/005/070/092000c (有料記事です)
いずれにしても、すごいお金ですね。 拙ブログでは1年半ほど前に、〝歴史問題における日韓市民運動の将来は暗い”と論じたことがあります。 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/10/04/9721593 しかし長生炭鉱を見れば、〝まだまだ元気なんだなあ”と感じました。 ここは私の見通しに誤りがあったと言わざるを得ませんね。
―運動を引っ張ってきて、一番しんどかった点は?
「刻む会内部で意見を集約することでした。 ちゃんとした法律をつくろうという人がいたり、私のように運動で変えていこうという人もいたりして、その差の調整が大変でした。」
―日本の当局者が去る1月30日、初めて現場を訪ねた。 日本政府が遺骸の収拾に協力することに期待しているのか。
「今は考えられません。 今やっとDNA共同鑑定を始めようとする段階まで来ました。 私たちが遺骨を収容して鑑定していけば、韓国にお返しすることができます。 そうなれば、日本政府が関与しないわけにはいかないのです。 遺骨が一体、また一体と返していけば、日本社会に訴える場が広がるでしょう。 今から遺骨がたくさん出てくるのですから、その過程で〝本当に市民だけに任せてもいいのか”〝日本政府は何もしないのか”という世論をつくって、政府を追いつめていきたいのです。」
〝遺骨を発掘することによって世論を喚起し、政府が関与せざるを得なくなるくらいにまで追い込むのだ”ということですね。 意地悪な言い方で申し訳ないですが、遺骨発掘を反政府闘争の材料にしようとしているのではないかと思ってしまいます。
何故こんなことを言うのかというと、1970・80年代の私的な思い出ですが、民族差別と闘う運動や部落解放運動などでは自分たちの運動を反政府・反権力闘争に繋げねばならないとして対政府・対行政要求するのを見てきたからです。 彼らの考え方と今度の「刻む会」の主張とが重なって見えます。 これを思い出してしまうのです。 (続く)
長生炭鉱刻む会代表のインタビュー―『週刊朝鮮』(3) ― 2026/03/27
https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2026/03/21/9843303 の続きです。
―韓国では、過去の歴史問題は大変敏感だ。
「もちろん1965年の日韓条約で日本は〝最終的に解決した”という立場を取ってきました。 しかしあの時は、長生炭鉱はもちろん徴用工問題も出てくるより以前です。 それ以降に明らかになった日本の間違いの一つ一つが未解決として残っているというのが、私の認識です。 慰安婦や徴用工など、生きて韓国に戻った人たちが自らの尊厳を守る闘いを続けてきました。 彼らが謝罪を求め補償を求めるのは、当然なことです。」
―日本政府の謝罪と賠償を要求する声が大きいのだが。
「今までの日本の政治情勢を見れば、補償を前面に掲げて闘うことは非常に困難な状況です。 私は〝遺骨”に焦点を合わせました。 遺骨さえ元に返さない日本は変ではないか、遺骨を誠意もってお返ししようと言っているのです。 取りあえずはこれを中心に闘いを進めねばなりません。 そうでなければ、今の日本政府に補償のことを言えば、話をしてくれません。 そこで終わってしまうのです。 遺骨という人道的問題を掲げて〝何もしないとは言えない状況”をつくりたい。 その次に日本の加害責任とか謝罪があるのであって、まずは日本が遺骨を返還する道理がなければ、謝罪のようなものを受け入れることはできません。 ですから日韓両国に遺骨返還を優先してくれと呼びかけているのです。」
彼女の主張をまとめると、〝日本に加害責任があるのだから日本政府が補償や謝罪するのが当然なことだが今すぐは無理だ、我々が遺骨の発掘と返還を進めることによって政府が補償や謝罪へと動かざるを得ない状況を作るのだ”ということですね。 「人道的問題を掲げて」「加害責任」「謝罪」「補償」という言葉が、この運動の方向性を示しているようです。
―人道的次元のことからやろうという意味なのか。
「在日朝鮮人たちは80年経っても堂々と生きることができずに差別されています。 その原因は何でしょうか。 日本人が加害の歴史を十分に勉強しなかったためです。 長生炭鉱の事故を通して、日本がどれほど悪いことをしてきたのか分かります。 これを知った人は「朝鮮に帰れ」のような言葉を絶対に言わない市民、国民として育ちます。 日本社会の不合理性を遺骨の力を借りて変えようというのが私の考えです。」
〝日本人は自分たちが犯した加害の歴史を勉強していないために在日朝鮮人差別がある、遺骨の発掘を通してこの差別という不合理性を打破しよう”ということですね。 1970年代ごろから民族差別問題を訴える韓国・朝鮮人活動家は、〝日本人は歴史の勉強をしていない、日本がどれほど悪辣非道であったかを勉強しろ”とよく主張していました。 私もよく聞かされたものです。 長生炭鉱では日本人の井上さんからこの言葉が出てきました。 〝昔の私もそのように考えていたなあ”と感慨にふけりました。
―日本人として韓国人のために尽力しているわけだ。 韓国人に伝えたいことは。
「韓国人たちの要求(謝罪と賠償)は当然なことだと私も考えます。 日本がきちんと加害責任に直面し、その方向で行ってもらいたいです。 しかし日本の右傾化した政権では正面でぶつかってもビクともしません。 自己満足で終えることはできません。 確実に一歩前に出たいのです。 そのために遺骨の力を信じてくれと言いたいのです。 遺骨が出てくるたびに、その遺骨が誰なのか、なぜここで亡くなったのか、どんな遺族がいるのか、どんな歴史的背景があったのか、明らかにするのです。 それを積み上げていって日本の世論を盛り上げ、政府を圧迫するのが今の私ができる最善のことです。」
日本人が韓国人のために働くということですね。 遺骨の発掘によって世論を喚起し「日本政府を圧迫する」と主張しておられます。 政府に謝罪や補償などをストレートに要求するのではなく、遺骨発掘という地道な作業から先ずは始めようとするところに「刻む会」の特徴があるようです。
―これからの目標は?
「とりあえず遺族一人にでも、もっと遺骨を返してあげることが一番大きな目標です。 韓国におられる方たちも、この目的を理解して協力していただけたら、と思います。 遺骨の返還のためにみんなが力を合わせることが重要です。 日本政府が何も関与しないというなら、アジアから信頼を得ることのできない政府になるでしょう。 私たちは本当に一生懸命にやりますので、あきらめずに見守ってほしいです。 日韓の市民の力で日本政府を変える状況をつくりたいです。 支援をお願いします。」 (以上、『週刊朝鮮』2897号2026年2月16日 30~32頁)
このままでは自国政府が「アジアから信頼を得ることのできない政府になる」という言い方は、1970年代に〝アジア人民と連帯して侵略を目論む自民党政府を倒そう、そうしてこそ日本はアジアから信頼される”と叫んだ左翼運動と共通するものでしょう。 また「日韓の市民の力で日本政府を変える」は、左翼・リベラルが〝韓国の民主化勢力と連帯して韓国軍事独裁政権を支える日本軍国主義を打倒しよう”と唱えた1970~80年代を想起しますね。 長生炭鉱の「刻む会」市民運動は炭鉱事故犠牲者の遺族を探し出して遺骨発掘事業を行なってきたのですが、そんな純粋な人道問題の裏に〝反政府・反権力の左翼運動があるんだなあ”という感想を持ちました。 それはかつて左翼側に立っていた私には郷愁を感じさせるものです。
遺骨の発掘は2月7日に捜索に参加していた台湾出身のボランティア潜水夫が事故死するというアクシデントが発生したために、中断しました。 遺骨発掘はやはり大きな危険が伴うようです。 歴史を振り返ってみれば1942年の水没事故の際、危険だからという理由で遺体収容をあきらめたといいます。 それから80年以上が経ちました。 複雑な坑道は崩壊し水没したままですから、今はその時以上に危険であることは明らかでしょう。 「刻む会」はこれからどのように安全を確保しながら遺骨発掘事業を続けるのか、注目しています。
それから気になるのは、これまで発掘してきた遺骨、そして将来も発掘発見されるであろう遺骨を最終的にどうするのかという点です。 どこかの専門機関にDNA鑑定を依頼して身元を調査し、それが判明した遺骨は遺族に引き取ってもらって終わりますが、それは少数であろうと考えられます。 遺骨は事故で亡くなった183人のうちの誰かであることはほぼ確実と思われますが、80年以上も経っていて遺族のほとんどは孫や曾孫世代でしょうから判明率が落ちます。 またこれまで集めた遺族のDNAは80人分といいますから、半分以上がまだ収集できていないことになります。 ですから発掘された遺骨の多くは、遺族の確定が困難と思われます。 また朝鮮人か日本人かの区別もできませんから、韓国側に引き取ってもらう訳にもいかないでしょう。
今のところ遺骨は警察が預かっているようですが、事件性がない限り警察にいつまでも保管する義務はありません。 最終的な保管責任は遺骨発掘作業の主体者であり遺骨発見者でもある「刻む会」にあると考えられます。 ですからDNA鑑定しても身元不明となった遺骨、あるいは遺族が引き取りを拒否したような遺骨は「刻む会」に戻されることになるでしょう。 そして「刻む会」は日本政府の関与を要求しています。 しかし身元不明などの遺骨について政府がどのように関与できるのか、ちょっと疑問に感じます。
80年以上前に起きた長生炭鉱事故の犠牲者の遺体は、その時にそのまま埋没させることで終わったとされています。 もともと海底の炭鉱現場にあった遺骨を取り出してきて結局は所有者・帰属先不明となったのだから元の現場に戻せばいいと考えることは可能ですが、今さらそういう訳にはいかないでしょう。 また遺跡からの出土文化財と同様の取り扱いをすればいいのではないかとも考えられますが、わずか80年ほどの昔の話ですからそういう訳にもいきません。 政府が関わることができるとすれば地元自治体に引き渡し、最終的には無縁仏として処理してすべてが終わることになるでしょう。 しかし日本政府への圧力を企図する「刻む会」は、歴史を反省しない政府を追及するために身元不明等の遺骨をいつまでも保管し続けていくのかも知れません。 (終わり)
長生炭鉱刻む会代表のインタビュー―『週刊朝鮮』(1) https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2026/03/16/9842328
長生炭鉱刻む会代表のインタビュー―『週刊朝鮮』(2) https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2026/03/21/9843303
【日韓の歴史に関する拙稿】
第16題 「歴史」を学ぶことの疑問 http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daijuurokudai
第48題 「強制連行」考 http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daiyonjuuhachidai
第91題 実証なき歴史研究 http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daikyuujuuichidai
第94題 『在日コリアンの歴史』の間違い http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daikyuujuuyondai
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第80題 在日の歴史認識 http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daihachijuudai
日韓市民運動の悲観的記事-ハンギョレ新聞 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/10/04/9721593
李青若『在日韓国人三世の胸のうち』(1)―強制連行 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/11/30/9544668
日韓歴史共同研究委員会の回想―北岡伸一 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/05/11/9683297
韓国・朝鮮の歴史批判に向かわない日本歴史研究者 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2018/05/13/8850175
学術集会に荒唐な現代政治を持ち込む https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2018/04/18/8828880
朝鮮植民地史の誤解 ―毎日の読者投稿 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2021/08/03/9404045

