毎日新聞の創氏改名記事の間違い2026/02/03

 2月1日付けの毎日新聞の「サンデーコラム」に、ソウル支局長の福岡静哉さんが創氏改名の記事を出しています。 https://mainichi.jp/articles/20260201/ddm/007/030/033000c 内容にはかなりの間違いが見られるもので、これはちょっと困ったものと思いました。 そこでここに批判していきたいと思います。 なお有料記事ですので、関心ある方は図書館にでも行ってみてください。 またここで論じるのは、記事の前半部分だけです。

「創氏改名」を拒否して死んだ男

日本は韓国を植民地統治した時代、日本式の名前に変えるよう朝鮮人に強いる「創氏改名」を1940年2月から行った。 先祖伝来の姓を重視する朝鮮半島の人々はどんな思いだったのか、以前から気になっていた。 知人から「創氏改名を拒否し命を絶った人がいた」との話を聞き、一族が住む集落を訪ねた。

韓国南西部・光州からバスで約1時間。 田園が広がる淳昌(スンチャン)郡は「薛(ソル)」姓の人が多い。 この地域の名士として知られた薛鎮永(ジンヨン)は40年5月、創氏改名を拒否し、石を抱えて井戸に身を投げ、70年の生涯を終えた。

「ここが井戸があった場所です」。 一族の取りまとめ役である薛明煥(ミョンファン)さん(81)が案内してくれた。 今は水田の一部で、井戸は残っていない。 

鎮永は若いころ、反日闘争に参加。 晩年は私塾で若者らに漢文を教えた。 井戸の跡地近くには私塾の建物が残る。

鎮永を題材に作家の梶山季之は小説を書いた。 これを原作に韓国で映画が作られ、日本でもジェームス三木が舞台作品をてがけた。

明煥さんは次に自宅を案内してくれて、書庫から古びた書物を取り出した。 「これは1848年に作られた薛氏の『族譜』です」

 「薛鎮永」という人物について付け加えますと、この名前は一族の家系図である『族譜』にある名で、戸籍では「薛鎮昌」です。 号は「南坡」で、上記に出てくる「私塾」は「南坡書室」といいます。

姓、家系図 命懸け

族譜とは、始祖から現在に至る一族の家系図だ。 韓国では多くの一族が所有する。 同じ姓でも、一族の発祥地「本貫」が異なると別の一族になる。 例えば金(キム)氏でも、南東部・慶州をルーツとする「慶州金氏」や、釜山近郊・金海(キメ)が本貫の「金海金氏」などがある。 金海金氏は韓国最大の一族で400万人以上いるとされる。

鎮永の一族は、慶州と淳昌にゆかりがある「慶州・淳昌薛氏」。慶州に首都を置いた新羅(紀元前57~935年)の建国に功のあった豪族を始祖とする、伝統のある家系だという。 一族でつくる「慶州・淳昌薛氏中央大宗会」の名誉会長も務める明煥が力説する。 「韓国人にとって先祖から伝わる姓やそれを証明する族譜は、死ぬほど大切なもの。 鎮永先生はそうした伝統を守るため、命懸けで創氏改名を拒否したのです」

 薛氏の門中(一族のこと)は1940年5月10日に長老たちが集まり、「玉川」と創氏することを決議しました。 しかし鎮永は先祖から受け継ぐ姓や族譜を否定するものだと反対して拒否を貫き、同月19日に井戸に身を投じて自殺しました。 だから記事のタイトルが「『創氏改名』を拒否して死んだ男」となっています。 しかしそもそも創氏改名は姓を否定するものではなく氏を新たに定めることで、姓には変更はありません。 また族譜は私的文書ですから、これも変えることはありません。 ですから姓も族譜も守られるものでした。 鎮永はそれを誤解して自死に至ったのでした。

 その後この薛家の創氏改名はどうなったかですが、亡くなった鎮永の後を継いで戸主となった息子の泰洙が三ヶ月後の8月8日に「玉川」と創氏を届け出て、受理されました。 父の鎮永は文字どおり「命懸け」で創氏改名を拒否したのですが、結局は鎮永の家族は門中の決議に基づいて日本名を届け出たのでした。 創氏改名の届け出は戸主のみの権限で、鎮永は亡くなって代わりに息子が戸主となっていましたから、法的に問題がありません。 息子の「薛泰洙」さんは「玉川泰洙」さんとなり、「薛」という姓は本貫欄に移すという形で戸籍に残ったのでした。 ですから先祖から伝わる「薛」という姓は、戸籍でもって証明することができたのです。

「天皇中心を徹底」

日本が創氏改名を行った背景にあったのが、こうした大規模な氏族集団の強固な結びつきだ。 朝鮮総督の南次郎は当時、創氏改名の目的をこう語っている。 「(朝鮮人を)血族中心主義から脱却させ、国家中心の観念を培養し、天皇を中心とする国体の本義に徹せしめる」

 南次郎朝鮮総督がこのような話を本当にしたのか、調べてみましたが見つかりませんでした。 朝鮮総督府は1940年2月に創氏改名を解説する『氏制度の解説―氏とは何か 氏は如何にして定めるか』という冊子を発行するのですが、そのなかに南次郎総督の談話が出てきます。

(注)「国家中心の観念」「天皇を中心とする国体」は、南総督の言葉にあるとの指摘がありました。 出典はコメント欄をご参照ください。 この部分を削除します。 2026年2月5日 記

氏族集団を解体し、天皇に属する「皇国臣民」を作る意図がうかがえる。 法施行日の2月11日は「日本書記」などで神武天皇が即位したとされる「紀元節」だった。

 ここに「氏族集団を解体し」とあります。 私は30年前に発表し25年前に拙HPに掲載した「創氏改名とは何か」 http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daijuunidai で、「創氏改名は男系の血のつながり重視する朝鮮の家族制度を否定し、血のつながりよりも『家』の存続を重視する日本の家族制度を導入しようというものであった。これが分かってくると、血のつながりを示す不変の『姓』ではなく、自分の所属する家を示す『氏』を創れとする創氏改名も、同じ意図からの政策であることが容易に理解できるだろう」と論じました。 私のこの考え方が今度の記事では受け継がれているようです。 しかし創氏改名は上記の薛氏がそうであったように氏族集団である門中で決めることが大半であり、総督府もそれを認めていました。 ですから「氏族集団の解体」の意図があったのかどうか、今は疑問に思います。

 そしてまた記事では「天皇に属する『皇国臣民』を作る意図がうかがえる」ありますが、そこまで言えるのか疑問です。 そもそも1910年の日韓併合により全ての朝鮮人は、法的には「皇国臣民」になったのですがねえ。 また「皇国臣民」という言葉自体に「天皇に属する」という意味が含まれているので、二重表現となっています。

だが日本式の名字に変えた人は3月末までで1.5%にとどまった。 京都大の水野直樹名誉教授の調査によると、公務員や教師、経営者らの割合が高かった。 日本当局との関係から「率先垂範」を求められたとみられる。

そこで総督府が主導し、各地方の役所などを通じて創氏改名を迫る運動を展開する。 制度を強く批判する人を治安維持法違反で逮捕するなど、強制的なものとなっていく。 薛氏の族譜などによると、創氏改名に抵抗した鎮永は「伝統が私の代で絶たれれば、天下の罪人だ」との遺書を残し、命を絶った。

 記事を書いた福岡さんは、創氏改名には「設定創氏」と「法定創氏」の二種類があることを知らないのではないかと思われます。 「設定創氏」は日本名を届け出て氏を新たに設定するもので、もう一方の「法定創氏」はそんな届け出をせずに先祖から受け継いできた姓をそのまま氏とするものです。 前者は日本名となりますが、後者は民族名が残ります。 どっちの創氏を選ぶかは自由でした。 しかし「設定創氏」だけを取り出して、創氏改名は朝鮮人に日本名を強制するものとする俗説が広まっています。 福岡さんもこの俗説を信じておられるようです。

 総督府は当時〝創氏改名は内地人式の名前(日本名)を強制するものではない”と宣伝していましたが、末端の行政機関では設定創氏の届け出率の低さを問題と思ったのでしょうか、住民らに創氏の届け出をかなり強引に勧めたようです。 これが日本名を強制されたように受け取られて、創氏改名の誤解につながったと考えられます。

 薛鎮永がもし自殺せずに生き残りさらに役場に創氏の届け出もせずに放置していたら、戸籍の事項欄に「氏の届出を為さざるに因り、昭和十五年八月十一日、薛を氏とする」という旨が記載され、戸主の「薛鎮昌」と息子の「薛泰洙」という民族名は変更されずにそのまま残ったはずなのですがねえ。 なお上述したように「薛鎮永」は族譜上の名前で、戸籍上の名前は「薛鎮昌」でした。

 

【創氏改名に関する拙稿】

創氏改名の誤解―日本名は強制されていない   http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2017/03/28/8423913

創氏改名の誤解―日本名は強制されていない (2)  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2017/03/30/8425667

創氏改名の誤解―日本名は強制されていない (3) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2017/04/01/8436928

創氏改名の誤解―日本名は強制されていない (4)  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2017/04/03/8441238

創氏改名の誤解―日本名は強制されていない (5)  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2017/04/05/8444253

創氏改名の誤解―日本名は強制されていない (6) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2017/04/07/8447420

創氏改名の誤解―日本名は強制されていない (7) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2017/04/09/8451992

創氏改名の誤解―日本名は強制されていない (8) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2017/04/11/8457633

創氏改名の誤解―日本名は強制されていない (9)  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2017/04/14/8478676

朝鮮人戦死者の表彰記事―1944年  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2017/10/29/8716160

創氏改名の誤解―日本名は強制されていない (11)  https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2021/02/11/9346012

創氏改名とは何か (00年4月1日) http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daijuunidai

創氏改名の残滓 (01年6月1日) http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daisanjuudai

創氏改名の手続き(04年10月1日) http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/dainanajuudai

創氏改名の誤解―「世界史の窓」  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2017/03/26/8421515

朝鮮名での設定創氏が可能な場合 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2007/02/12/1178596

宮田節子の創氏改名論      http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2014/11/10/7487557

石破茂さんのデタラメ創氏改名論  https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2019/10/06/9161642

朝鮮名での設定創氏が可能な場合  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2007/02/12/1178596

金時鐘さんの創氏改名は「金谷光原」―神戸新聞 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/06/03/9779836

尹東柱の創氏改名―ウィキペディアの間違い http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2018/08/11/8939110

尹東柱の創氏改名記事への疑問   http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2018/07/16/8917954

「尹東柱」記事の間違い―中央日報 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/02/17/9464967

岩波『世界』の論稿に抜け落ちた資料2026/02/08

 岩波書店の『世界』2026年3月号に、「外国籍職員の採用を廃止?―三重県知事発言を問う」と題する柏尾安希子さんの論稿があります。 このなかで次のような一文がありました。

1972年には大阪市が中国人職員の採用に踏み切り、翌1973年には尼崎市、西宮市など兵庫県の六市一町で国籍条項が撤廃された。 その後、全国でも国籍条項の撤廃を目指す地域がでてきた。 (『世界』1003号 2026年3月 119~120頁)

 これに付け加えますと、実際に翌1974年、在日朝鮮人卒業生が教師たちの推挙で尼崎や川西市などに地方公務員として採用されました。 ところがその翌75年度末、その教師たちが一転して「在日朝鮮人生徒の公務員就職を凍結する」と言い出したのでした。

兵庫県進路指導研究会ニュース1976年3月『新しい出立のために』第18号に、「朝鮮人生徒の進路保障 在日朝鮮人生徒の公務員への就職―当面凍結する意味を進指研で討議―」が発表された。 そこには次のように記されている。

「在日朝鮮人生徒の公務員への就職については、私たちは今後これを凍結する。 在日朝鮮人生徒を公務員として送り込んだ阪神間の高校では、いま、彼らをすみやかに引き取り、積極的に転職をすすめていく方向で、当該生徒たちとの話し合いが続けられている。 在日外国人の門戸を開放し、地方公務員として受け入れてきた側の自治体の、民族問題に対する理解がまったくないことがその後明らかになってきており、このままでは在日朝鮮人法的地位に抵触する危険も生じる恐れがある。 また、このことで、私たち日本人が同化に手をかすことがあるとすれば、なおのこと見過ごすわけにはいかない」

「自治体当局ばかりではなく、労働組合もまた(在日に関する知識や認識)に乏しい‥‥公務員のストが禁じられているいま、(外国人公務員が)労働運動をすれば、生命に危険があることすら分かっておらず、在日朝鮮人を日本人の責任で守り切れる保障がない限り、彼らを労働組合に加入させるべきではない」

「(在日朝鮮人生徒の公務員就職は)凍結するが、<国籍条項>撤廃の要請は続ける。 そのわけは私企業が在日朝鮮人、中国人生徒を採用しない口実として、<公務員>も外国籍生徒を採用しないといったようにして就職差別を正当化しようとする風潮が現に存在するからである」  (以上、玄善允『金時鐘は「在日」をどう語ったか』同時代社2021年4月 157~158頁より再引)

 もう少し詳しく言うと、進路指導研究会(進指研)とは公立高校の教師たちの集まりで、生徒らの就職について情報を交換し、時には企業等に働きかける組織でした。 外国人の公務員採用について昔から〝公権力の行使”の点から採用しないことが〝当然の法理”とされてきたのに対し、それは民族差別を正当化するものとして批判し、1973年に阪神間の地方公務員就職について採用条件にある「国籍条項」を撤廃させて、実際に在日朝鮮人子弟を公務員として採用させるという成果を挙げたのでした。 ところがそれが間違いだったとして、在日の公務員就職活動を凍結させるだけでなく、前年度に公務員採用された在日の子を「すみやかに引き取り、積極的に転職をすすめていく方向で、当該生徒たちとの話し合い」をしているのだというのです。 まさに〝手のひら返し”です。

 この〝手のひら返し”をさせた人物が金時鐘さんのようです。 彼が兵庫県進指研を動かしたと思われます。 彼は1973年に兵庫県立湊川高校に教師(ただし教員免許がないので、実際は実習助手)として就職しており、当時の日本社会において民族差別問題ですでに大きな影響力を有する人物でした。 その彼の発言を拾いますと、

在日朝鮮人が日本の公務員になることは、日帝時代の夢を彷彿させる。 1945年8月15日まで、朝鮮人の青少年たちの夢は、町村の吏員になることがすべてだった。 いま、日本人化する風潮がつよく、帰化運動を推し進める動きが阪神間で起こっていることを合わせて考えるなら、官吏になることは同化の道行きだ。 言うまでもなく、在日朝鮮人の鉄則は、日本の内政に干渉しないことである。

公務員というなら、朝鮮語を教えることで公務員になっている私の場合のような、知識労働者としての面が開発されるべきだ。 公務員への就職を食えるからとか、金になるからというだけの、市民的権利の拡大だけに短絡させてはいけない。 そのような職場開拓は問題がある。 (以上、兵庫県高校進路指導研究会「在日朝鮮人諸団体の評価」にある金時鐘さんの一文。 金宣吉「歴史をふまえた『異者』との共生」52~53頁より再引)

(植民地時代に朝鮮人が)下っ端というか、木っ端役人ですが、ともあれ行政権力から給料をもらえるということが一番の夢だったのです。 少年の夢として、青少年の描く夢として何と、わびしい限りではありませんか。 (現在の日本で)そのようなことが、在日朝鮮人の労働権の開発という正当な運動の闘い取る遺産の中で、在日世代のさもしい夢として育てられるのでしたら、これは何ともやりきれない話です。 (「民族教育への私見」 『金時鐘コレクション10』藤原書店 2020年6月 204頁)

‥‥そのこと(在日朝鮮人の公務員就職)を凍結するといったことの裏には、初めて兵庫で地方公務員に入ったのは県立尼崎工業高校の卒業生たちでありましたが、その生徒たちの一部に、勤めていっても続かなかった子供がいたという実情があったのです。 ‥‥又は姫路の西播磨地区でも女生徒が一人、やはり地方行政に入っていますが、聞くところによりますと、その生徒は、入ったとたんに日本人らしく振舞っているといいます。 親まで加担したそうだといいます。 朝鮮人の痕跡をなくす側に立っていく。 そういうことがあって、行政側に推挙することを凍結するというふうに兵庫の解放研ではいったのです‥‥ (「民族教育への私見(下)」『朝鮮研究』172号 1977年 -玄善允『金時鐘は「在日」をどう語ったか』同時代社2021年4月 176頁より再引

 民族差別に反対する側である金時鐘さんが、〝在日朝鮮人の子を公務員に就職させてはならない”という主張をしていたのでした。 植民地時代の朝鮮の若者は総督府の吏員となることに憧れて親日派=日帝の手先となり皇民化を推進したという歴史を振り返るならば、現代に在日朝鮮人が日本で公務員になることも同じことだとする考え方です。 朝鮮人は日本人に同化して権力の走狗になっていいのか、ということのようです。

 このたびの三重県の公務員採用に外国人を除外しようとする動きに対し、岩波の『世界』が反対の意見を載せました。 しかしそこには上記の金時鐘さんや兵庫県進指研の主張が全く取り上げられていないことに疑問を感じ、本ブログでこの時の資料を呈示するものです。

 外国人の公務員就職問題は〝当然の法理”で反対する意見もあれば、民族差別と闘う者からの反対意見もあったことは、記憶に留めてほしいものです。

【拙稿参照】

金時鐘氏への疑問(3)―教員免許・公務員就職 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/04/05/9766006

第100題「国籍条項撤廃運動」考   http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daihyakudai

古代から続く伝統的葬法「草墳」(1)2026/02/15

 以前のブログ https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2026/01/22/9832164 で、「草墳については後日に紹介します」と予告しました。 今回はこの「草墳」について、お話します。

 今の韓国では火葬が増えてきて土葬を上回るほどになっていますが、植民地時代にはほとんどが儒教式の土葬であり、火葬は仏教僧侶ぐらいとされていました。 ところがそれ以外に「草墳(초분)」という古代から続く伝統的な葬法があり、李朝時代ではその伝統が全国的に残っていたことはあまり知られていないようです。 植民地時代に抑制されたために「草墳」は減り、全羅南道の島嶼部に残るだけとなりました。 それでは「草墳」とはどういうものなのか、先ずは10年ほど前に刊行された『新版 韓国・朝鮮を知る事典』にある説明を見ていきしょう。

초분(草墳)― 韓国南西部・全羅南道の多島海地方で広く行われていた葬制。 草殯(초빈)などともよばれ、複葬制・洗骨葬の一種と考えられる。 遺体を納めた棺はすぐに埋葬せずに、山林や海岸、耕地の隅などに移し、地面や石、床几などの上に安置する。 上を藁や樹皮などで覆い、1~3年間置いてから、肉の落ちた遺骨を取り出して浄め、正式の墳墓に埋葬する。 類似の葬法は《三国志》魏書東夷伝や《隋書》高句麗伝などにも散見され、朝鮮時代までは全国的に行なわれていたとされるが、全羅南道の南西海岸・島嶼地域では、この地方独特の巫俗とも結びついて遅くまで残り、2000年代に入ってからも、実例が記録・報告されている。 起源については、南方文化の伝播など、いくつかの説がある。 (平凡社『新版 韓国・朝鮮を知る事典』2014年3月 377頁)

 「草墳」は、遺体に藁や草で覆っておいて2・3年ほどかけて肉を削ぎ落として骨だけにし、その遺骨をきれいにして土葬するというものです。 これは日本で刊行された辞典での説明ですので、韓国ではどのように説明されているのか、『韓国民俗大百科事典』 https://folkency.nfm.go.kr/kr/topic/detail/461 を訳してみました。 なおこれには草墳の写真が掲載されていますので、是非URLを開いてご参考ください。

草墳

【定義】 遺体をすぐに土に埋めるのではなく、石や木の上に棺を置いて、藁で作った小屋のような形態の臨時的な墓。

【歴史】 遺体を埋葬する前に臨時に安置する殯葬の一つの形態として、古代社会の時から行なわれたものと推定される。 一部の文献記録に草墳についての記録が見えるが、具体的な事例と痕跡を見つけることは難しい。 朝鮮時代末期と日帝強占期の初期までは全国的によく作られていた。 しかし日帝強占期以降、衛生法の制定と火葬の奨励、および草墳の禁止で徐々に消えていった。 1970年代、セマウル運動の影響でほとんどが消えた。 しかし2000年代の初めまで、西南海地方の一部の島嶼で草墳が作られ続けた。

【内容】 草墳は村の近くの山の麓や畑で作られる。 人が死ねば、遺体を正式に土に埋めるのではなく、入棺した後に石や木の台の上に棺を置いておいて、藁などで覆って作る。 藁などで棺を覆った上に、ヨンマルム(藁束を組んで作った覆い)を覆って草ぶき家の屋根をあげるように縄で組んで縛り、四方の端に石を結んで風で飛ばないようにして仕上げる。 そして松の枝を組んだ囲いを周囲に回して、獣が接近しないようにした。

草墳は毎年藁を交換して補修した。 草墳を作ってから2~3年あるいはそれより長い歳月の後、肉が腐ってなくなっていたら、骨だけ取り上げてきれいに洗ってから、また棺に入れて土に埋める。 すなわち草墳は遺骨を処理する前に身の肉を処理する方法で、洗骨葬の一種である。 また本格的な葬礼を執り行なう前にする殯葬の一種であり、複葬制の遺習である。

草墳を作る理由は、祖先崇拝と関連が深い。 草墳は祖先に対する礼儀を果たすことで、生きている親のように誠意をもって面倒見なければならないと信じ、名節や忌日などの特別な日には草墳に来て祭事を行なう。 このような風習は朝鮮時代末期まで全国的に行なわれた。 しかし1970年代のセマウル運動の一環として草墳が行政的に禁止されると、主に西南海の島嶼地方で維持された。 特に全羅南道の莞島、青山島、麗水の金鰲島・安島・蓋島、高興の羅老島、新安の曾島・都草島・飛禽島、霊光の松耳島、群山の巫女島、扶安の界火島などの全羅道の南海岸と西海岸の島嶼地方に草墳が残っていた。

草墳は、本葬を執り行なう前に長い期間管理せねばならないので厄介であり、経済的に余裕がない人は作るのが難しかった。 草墳の様子は風葬に似ていて混同される場合があるが、違うものだ。 風葬は、それ自体で遺体を処理する完結した儀礼であるが、草墳は本葬を行なう前にやる一次葬の性格を持っていて、根本的に違う。

【特徴および意義】 遺体を土に埋める前に、身の肉を腐らせて骨をきれいにするために、藁などを編んでつくる草ぶきの家の形態の一時的な墓だ。 本葬を執り行なう前に行なう殯葬であり、複葬制の一次葬である。

       (続く)

古代から続く伝統的葬法「草墳」(2)2026/02/21

https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2026/02/15/9836684 の続きです。

 20年ほど前にヒットした韓国ドラマ『春のワルツ』をご存知でしょうか。 その第二話の最初の方に、主人公の男の子が父親と一緒にお祖父さんの墓参りをする場面があります。 そのお墓が「草墳」でした。 舞台は全羅南道の青山島です。 熱心な韓流ファンが『春のワルツ』のロケ地を訪ねたそうですから、ご存知の方はおられるでしょうね。

 この青山島で最近まで残っていた「草墳」の築造過程を記録したユーチューブ映像があります。 https://www.youtube.com/watch?v=SwluibolgFQ この映像のハングルを訳しましたので、「草墳」とはどういうものか、ご理解できるものと思います。 

青山島の草墳 試演(0:00)

草墳はお墓の一種で、青山島を含めた島地域で行なわれてきた葬礼の風習である。 遺体を土に埋めないで、藁などで編んだ藁束で覆って、2~3年後に墓を立てる。 このような葬法は一般的な儒教儀式である葬礼がたった一度の単葬制であるのに対し、二度の埋葬をする複葬制である。(0:04)

・正月や2月に土を触って墓を立てれば、村に憂患(悪い事)が起きる。 ・村に伝染病が流行ったとき、草墳をする。 ・肉がまだ無くなっていない遺体を先祖の墓地に埋めれば、腐った臭いが祖先に漂い、憂患がやって来る。 ・墓は先祖に対する孝を象徴するもので、父母が亡くなって直ぐに埋葬すること不孝だと考えられていた。 ・草墳は真心を込めてつくるので、親の生前にしてくれたことを親孝行としてお返しする道でもあった。(0:11)

 なぜ草墳をつくるのかについて、「肉がまだ無くなっていない遺体を先祖の墓地に埋めれば、腐った臭いが祖先に漂い、憂患がやって来る」 「墓は先祖に対する孝を象徴するもので、父母が亡くなって直ぐに埋葬すること不孝だと考えられていた」ということです。 前者は複葬制=洗骨の説明であり、後者は儒教の影響を受けた説明ですね。

草墳をつくるために、幅50㎝、長さ200㎝ほどの石の土台をつくる。 周辺の土地をよく均してから、石を水平になるように地面に並べる。(0:21)

石の台の上に松の枝をぎっしり敷いて、その上に縄を横に五本、X字に二本を置く。(0:28)

棺を固定するための蓆(むしろ)を敷く。(0:41)

敷いた蓆の上に棺を置く。 この時、棺は足が海の方に、頭が山の方に向かうようにするのが原則だ。(0:45)

蓆を棺の角が斜線になるように切ってやり、左右から畳んで上下に畳む。 下に置いておいた縄を結んで固定させる。(0:53)

雨や風から棺を保護するために、藁束を奇数にして、藁の根の部分が地面に付くように右側に回して編む。(1:09)

藁束の上にヨンマルム(藁束を組んで作った覆い)を置いて、編んでおいた藁束の重心を取って、草墳を固定させるようにする。(1:17)

縄の端を石で結んで、風で飛ばないようにして、ヨンマルムの両側に縄を回して縛り付けて、格子模様に固定させる。(1:25)

家族が別れの挨拶をする。(1:43)

松の枝を地面に向けて編んだ縄の間に挿す。 これは病虫害の予防の役割をし、また家族が墓を参ったことを表示するものである。(1:51)

 このように、「草墳」は棺を藁で覆って小屋掛け状にして遺体を保管するものです。 そして遺体の肉を2~3年かけて削ぎ落として(肉は自然と腐乱してなくなる)骨だけにし、その後にその遺骨をきれいにまとめて棺に入れて埋葬します。

 日本では古代の『古事記』『日本書紀』や中国歴史書の倭国伝などに、人が死ねば「殯(もがり)」をしてから墓に埋葬することが記録されています。 詳しくは「殯(もがり)」を検索してお調べください。 「殯」は死の直後から埋葬までの間に遺体を保管しておくことですから、肉は腐敗して消滅し骨だけが残ることになります。 ですから「殯」が草墳に相当する可能性があります。 また沖縄では「洗骨」した骨を墓に収める慣習があり、この洗骨が草墳に相当するとも考えられます。 とすると「草墳」は遺体から肉を削ぎ落として白骨化させてから埋葬する「複葬」の一種で、「殯」や「洗骨」と同様のものと言えるでしょう。

 以上から考察するに、「草墳」は東アジアに非常に古くから存在した葬法である「複葬」に由来するのではないか、そして日本古代では「殯」だったのではないかという推測が成り立ちます。 それがその後の儒教や仏教の普及によりそれぞれの民族によって葬法が変化していくのですが、韓国や日本の一部の地方に「草墳」「洗骨葬」として残存したことになるでしょう。 ただし、これはあくまで仮説であり、そう考えることもできるということにご留意ください。        (続く)

古代から続く伝統的葬法「草墳」(3)2026/02/27

本間九介『朝鮮雑記』

https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2026/02/21/9837659 の続きです。    本間九介なる日本人が明治時代中期の1890年代前半に朝鮮半島を旅行して、その旅行記を1894年に『朝鮮雑記』として出版しました。 その本の中に、朝鮮人の葬礼が報告されており、それに添付されている挿図が↑です。  なおその現代語訳が10年前の2016年に祥伝社より出ており、容易に入手できます。 その「葬礼」の部分を紹介します。

葬礼

葬礼は、すべて儒教の方式にそって行なわれるため、僧侶が厳めしく死者に引導を渡すようなこともないし、葬式に参列することもない。

棺槨(ひつぎ)の制度は、儒礼に基づいている。 親戚や知人がこれをかつぎ、棺のうしろを、麁服(質素な衣服)に身を包んだ喪主が随って、棺の前後を、三・四の灯籠で囲み、「アイゴー、アイゴー」とむせび泣く声をあげ、はかない野辺送りをする。 (以上、本間九介『朝鮮雑記―日本人が見た1894年の李氏朝鮮』祥伝社 平成28年2月 56頁)

 「はかない野辺送り」は土葬ですね。 儒教式ですから、葬式の後で出棺して埋葬地に向かいます。 韓国の葬式は、地方では近年まで基本的にこの儒教式を踏襲していました。 一方現在、ソウル等の都会では韓国ドラマに出てくるように火葬が普及して、遺骨はロッカー式の納骨堂に収められるなど、葬礼はかなり変わってきています。

 「麁服」というのは麻で作られた素朴な喪服と帽子で、薄い黄色をしています。 儒教の教えにより、息子は親の死を悲しむあまり粗末な喪服を着なければならないと言われています。 近年までの韓国の葬式でも、喪主がこの喪服を着ていたようです。 ただし最近韓国から来日した方によると、〝田舎の葬式ならあるだろうが自分は見たことがない”と言っておられました。

幼い子どもが疱瘡で死んだ場合は、その屍を埋めることもなく、俵に盛って、縄で縦横に縛り、これを野外の木の枝にかける。

そのため、三伏(盛夏)の炎天ともなれば、屍は腐乱して、その臭液が地上にしたたり、日中は烏(からす)や鵲(かささぎ)がさわぎ、夕暮れには鴟(とび)や梟(ふくろう)が叫ぶのである。 死者の霊は、寂として知るよしもないであろうが、はなはだ無情といわねばならない。

私はかつて、慶尚道の密陽の市外の栗林で、三個の屍を吊るしてあるのを見たことがある。  (『朝鮮雑記』 57頁)

 遺体を蓆や俵に入れて吊るすという、今ではちょっと信じられないような葬法です。 ↑の図では上段に、カラスがたかっているところまで描かれています。 植民地時代の民俗研究者である村山智順はこの葬法を「風葬」としています。(後述)

 なお今の韓国の民俗学者はこのような遺体を吊るす場合を報告せず、樹木に縛り付ける場合を報告しており、これを「樹葬」と名付けて「草墳」の一種としています。 https://www.hiks.or.kr/HonamHeritage/8/read/1778 

黄海・平安の両道では、屍をすぐに埋葬するという。 しかし、三南(忠清道、全羅道、慶尚道)や京畿道においては、屍を山麓や野外に担いでいき、あえてすぐに埋葬せず、丸木で造った十字架を二・三個並べ、その上に棺を横たえる。 そして藁でこれを覆い、周囲を葦で包み、雨露にさらし、その肉が腐食し、白骨となるのを待ってから、方位を選んで改葬するのである。

そういえば、内地(朝鮮半島内陸部)の村はずれ、山麓や野外で、数個の屍が並んで雨露にさらされているのを見なかったことはなかった。 これこそ、奇俗というものだろう。 (『朝鮮雑記』 57頁)

 「あえてすぐに埋葬せず、丸木で造った十字架を二・三個並べ、その上に棺を横たえる。 そして藁でこれを覆い、周囲を葦で包み」とは、上述の韓国の民俗学論文の中では「木乗葬」「平台葬」と名付けているもので、草墳の一種としています。 『朝鮮雑記』では、藁や葦は腐敗・消滅して、中の遺体が露出していたようです。

 なおこの本では、↑図の下段にあるような小屋掛けの草墳を図示していますが、本文では記していませんね。 上述の韓国の民俗学論文では「築台葬」「樹附葬」としています。 植民地時代の民俗学者村山智順は「トク葬」として報告しています(後述)。  この「築台葬」「樹附葬」が前回紹介した青山島の草墳ですね。       (続く)

古代から続く伝統的葬法「草墳」(1) https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2026/02/15/9836684

古代から続く伝統的葬法「草墳」(2) https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2026/02/21/9837659