在日の出産に産婆さんがつくようになった ― 2025/11/02
昔の在日韓国・朝鮮人の日常生活に関心があり、ちょうど『ポッタリひとつで海を越えて』(合同出版)という本を見つけて購入し、興味深く読んでいます。 今回は出産で、いわゆる産婆さんのことです。
朝鮮人は出産の際の介助はどういう状況だったのでしょうか。 植民地時代の朝鮮の出産について、総督府はやはり調査していますね。 蔚山のある農村での出産状況について、産婆さんなどの介助者の有無について、次のように報告しています。
1936年7月に行なわれた朝鮮の農村衛生に関する調査(朝鮮農村社会衛生調査会編『朝鮮の農村衛生』1940年刊)によれば、蔚山邑達里という農村の婦人143人のうち、プロの産婆を頼んだケースはわずかに2人、それも裕福な内地人(日本人)だけである。 素人介助が56%、人手を借りずに一人で産んだケースが42.7%となっている。‥‥ 当時の朝鮮農村に医学知識をもったプロフェショナルな産婆がいなかったことを示唆している。 こうした状況下では、介助といっても姑や経験のある婦人などに頼むしかなく、貧しい家であればあるほど、誰の介助も受けることができずに一人で産んでいることがうかがえる。 (小泉和子編著『ポッタリひとつで海を越えて』合同出版 2024年9月 179頁)
日本では江戸時代から産婆という出産の介助を職業とする女性が活躍していたのですが、朝鮮ではそういった産婆さんが存在していませんでした。 「素人介助」つまり姑などの出産経験者に介助してもらって出産した例が56%、そういう介助者がいなくて一人で出産した例が42.7%。 これには驚きました。 これでは母体や出生児の死亡率がかなり高かったでしょう。 かつての朝鮮女性がどれほど過酷な人生を歩んでいたのか、ここからも分かります。
当時の朝鮮農村では通常、プロの産婆がおらず、姑や経験豊かな婦人に頼んだり、たった一人でお産するケースが多かったにもかかわらず、なぜ日本では産婆を頼む人が多かったのだろう。 一つには、日本では産婆によるお産がかなり普及していたことが挙げられるだろう。1899年に「産婆規則」が制定されて以降、日本では産婆が専門職として制度化された‥‥ 都市部を中心にこうした近代的なお産が広まりつつあった。 このような事情を反映し、在日の婦人たちも産婆を頼んだ‥‥ (同上 185頁)
在日女性は出産に際して、朝鮮での風習をそのまま持ち込むのではなく、周囲の日本人社会で普及していた近代的な方法を取り入れていったようです。 そしてもう少し後の太平洋戦争中になりますが、産婆さんによる出産が一般化します。
そのほかの要因として、「妊産婦手帳」制度の実施も挙げられる。 1942年7月13日、妊産婦手帳規定が公布された。 この制度は母子保健の向上や流産・死産の防止を目的とした妊産婦の保護指導策で、市区町村に妊娠の届け出を行ない、役場から妊産婦手帳を公布してもらうと、さまざまな優遇措置が受けられるというものである。 その内容は、(出産前に医師や産婆の診察を受けることを規定し、生活困難者には無料、脱脂綿やガーゼなどの出産用品の配給、栄養食料品の優先配給がある)などである。 手帳を交付してもらうには、医師か産婆にかかる必要があった。 (同上 186~187頁)
在日女性も妊娠すれば、「妊産婦手帳」が交付されて、様々な優遇措置を受けることができたのでした。 ただし手帳をもらうには、医師か産婆の診察を受けねばなりません。 在日女性の出産には、産婆さんがつくようになります。
李賛蓮さん(1922年生)‥‥日本で出産したときには、妊産婦手帳をもらうために産婆を頼んだ‥‥姑は「産婆さんのお金がもったいない」といったが、手帳があれば五ヶ月になると妊婦用の晒(さらし)やネルの配給があるので、産婆の介助を受け、一週間沐浴をしてもらったという。 (同上 187頁)
金福順さん(1924年生)は‥‥1943年の出産時はすでに制度ができており、配給もあったので産婆を頼み、その産婆が役所に行って手帳を交付してもらったという。 戦中の物資不足の折、配給の優遇を受けられる制度は積極的に利用された (同上 188頁)
この手帳制度のおかげで、在日女性の出産は日本人のそれと変わらなくなりました。 「民族受難」を強調する従来の在日朝鮮人史の言い方ならば、〝日本式の出産を強制された”となるのかも知れません。 しかし日本式の出産のやり方は戦後も続き、日本人と同様に産婆さんから医師による出産へと変化していきました。
(川崎市ふれあい館での調査によれば)1940~1960年までは、ほとんどの女性が出産の際に産婆(1947年以降は助産婦と改称)を頼んでいる。 1961年からは、助産婦によるお産はなくなり、介助者はすべて医師になっている。 ‥‥ 1955年までの日本では、お産の介助はほとんど産婆(助産婦)によるものであった。 しかし1965年には出産全体の三割を切り、1975年には一割にも満たなくなっている。 かわって、医師の手による施設での出産が一般的になっていく。 在日の女性たちの出産も、こうした事情に沿っているわけである。 (同上 185頁)
戦後の在日の出産状況は、日本人のそれと全く変わらないですね。
なお朝鮮の慣習を知っている母親がいれば、産婦のためにわかめスープを用意します。 これは出産においてかろうじて残った民族の痕跡と言える風習です。 また近年に来日したニューカマー女性も出産時に今なお祖国の韓国に残る風習の通りにわかめスープを食べるようです。 それ以外にお産の神様である「三神(サムシンハルモニ)」を祭るという風習がありましたが、在日ではお年寄りでも今はもう知る人はいないでしょう。
戦前の夜間小学校―朝鮮人子弟の教育(1) ― 2025/11/09
今の日本には、義務教育を履修できなかった人とか、近年来日して日本の教育を受けられなかった外国人などを対象とした公立の夜間中学があります。 ここに在日韓国・朝鮮人のお年寄りが通っているという話はよく聞くものです。 ところで戦前の日本では中学校ではなく、貧窮家庭の子弟を対象とした夜間小学校がありました。 そこには主に在日朝鮮人子弟の子どもが通っていました。 それほどに当時の在日朝鮮人の貧窮家庭が多かったということにもなります。 今回はこの夜間小学校のお話です。
1910年の日韓併合以降、朝鮮人は日本(当時は内地)に出稼ぎに行く者が多くなっていきます。 当時の日本は資本主義の発展期で、工場・炭鉱・土木工事などで人手不足をきたしていました。 当初は単身者ばかりでしたが、1920年代からは朝鮮から家族を呼び寄せるなどして、家族生活する者が現われ始めます。
そうなると、その子どもたちの教育が問題になります。 当時の朝鮮人は教育の義務がなく、学校に通う子どもが少数の時代でした。 そのいう朝鮮社会のあり方が来日してからも続いていたのです。 しかしその時の日本では、教育の義務のない朝鮮人子弟をどう扱うのかが明確ではありませんでした。 そのために当初は、朝鮮人の子どもたちは教育対策上で放置された存在であり、従って彼らの教育は軽視されていたのです。 在日朝鮮人史の概説書では、次のように説明されています。
朝鮮人の渡日は1910年代の後半から増加を示すが、当初そのほとんどは生活の糧を得るための労働を目的とする若年層の、しかも単身渡航が一般的だった。 1920年代後半に入ると幼児期に渡日したり、日本生まれの幼児が学齢期に成長するが、義務教育対象外の「外地人子弟」として、いわば教育対策上では放置された存在であったといえる。 それは1931年当時、在日朝鮮人児童約4万人のうち就学者数は7400名、就学率わずか18.5%にすぎなかったことをみても明らかである。 このことの背景として朝鮮人家庭の極度の経済的貧困、また女児には教育よりも家事に従事させるという古い因習の根強さをあげることができる。 (山田照美・朴鐘鳴編『新版 在日朝鮮人 歴史と現状』明石書店 1991年4月 160頁)
(1920年代以降)家族形態での居住が増えると問題となるのは、子どもたちの教育である。 そもそも植民地支配下の朝鮮では義務教育は実施されていなかったため、日本に住む朝鮮人の子どもも義務教育の対象になるかどうかがはっきりしておらず、日本の学校は朝鮮人の子どもを受け入れるのを嫌がった。 大阪市などでは、朝鮮人だけを集めた夜間学級を設ける学校もあったが、全体的には朝鮮人の子どもに対する教育は軽視されていた。 (水野直樹・文京洙『在日朝鮮人―歴史と現在』岩波新書 2015年1月 34頁)
時が流れるにつれ来日する朝鮮人が多くなり、同時に在日朝鮮人の子どもの数も増えていきました。 植民地時代の朝鮮人には教育の義務は課せられていなかったので、当初はそういった朝鮮人の子どもたちの教育をどうするのか方針が定まっていませんでした。 しかしだからといって放置するわけにはいきません。 朝鮮人が多住していた東京や大阪、神戸では早くから貧窮家庭を対象に夜間小学校による教育が実践されており、朝鮮人の子どもたちはその夜間小学校に通うようになります。
大阪の場合は1922年頃から朝鮮人夜学教育の実践が行なわれ、翌年には大阪市済美郡第四尋常小学校で146人を収容する夜間部が開設され、同様に難波桜川尋常小学校でも夜間部が開設された。 神戸市でも同様な学校が二校開設され、142人が学んでいた。 以後も夜間学校は拡充されていく。 (樋口雄一『日本の朝鮮・韓国人』同成社 2022年6月 83頁)
日本政府の文部行政において朝鮮人児童の義務教育就学が公的に問題とされたのは、ようやく1930年になってからであった。 同年10月、文部省普通学務局は、拓務省朝鮮部あて回答のなかで「内地在住朝鮮人は、小学校令第32条により、学齢児童を就学せしむる義務を負うものとす」と初めて見解を示している。 (『新版 在日朝鮮人 歴史と現状』明石書店 161頁)
1930年代に入って、日本政府はようやく朝鮮人子弟の教育を重視し始めました。 その対策の一つが東京・大阪等で実践されていたような夜間小学校の設置でした。 1930年代になって、夜間小学校は全国的に広がっていったようです。
当時(1935~36年)、朝鮮人多住地域では当局が夜間学校を設置して、在日子弟の教育に力を入れていたことが判明する。‥‥ このような夜間学校が政策的に設置されるようになったのは、1934年10月の閣議決定「朝鮮人移住対策の件」以降である。 この閣議決定は、朝鮮人の日本への渡航を厳しく制限するとともに、「内地における朝鮮人の指導向上および内地融和の図ること」(内務省警保局「協和会事業関係書類」)と決定している。 その決定を受けて、各地の内鮮融和団体などは朝鮮人子弟の義務教育への取り組みを強化している。 (金賛汀『在日コリアン百年史』三五館 1997年11月105~ 106頁)
(続く)
【拙稿参照】
水野・文『在日朝鮮人』(10)―子弟の教育 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2016/06/22/8116734
在日の低学力について(1) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2021/04/28/9371638
在日の低学力について(2) https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2021/05/05/9374169
日本統治下朝鮮における教育論の矛盾 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2007/02/01/1156247
学校で朝鮮語を禁止した理由 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2017/01/20/8327730
第92題「同化教育」考 http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daikyuujuunidai
戦前の夜間小学校―朝鮮人子弟の教育(2) ― 2025/11/15
https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/11/09/9815943 の続きです。
この夜間小学校には、作家の金達寿も通ったと言います。 彼の自叙伝『わがアリランの歌』に、次のような思い出話が出てきます。 そこには当時の夜間小学校はどういうものであったかが記されていますので、長くなりますが引用・紹介します。
1931年4月となったところで、「おまえも学校に行くんだ」と言って、兄は私を夜学へつれていった。 そうして私はここではじめて、「ハナ、ハト、マメ、マス」という、日本語のそれを習うことになった。
私がこの小学校の夜学にかよったことを最近ある講演のなかでしゃべったところ、どこかの学校の教員だという人から、「中学ならわかりますが、そんな小学校の夜学があったんでしょうか」と言われて、ちょっと困ったことがある。‥‥『品川区史』「通史編」にそのことがこう書かれている。
「大正期に入って、義務教育制度が確立し、小学校への就学率も非常に高くはなったが、なお依然として就学をなしえない貧窮家庭の児童も存在した。 そのために、尋常小学校に夜学を置くことになり、まず品川管内の品川・城南の両校に大正7年(1918年)から設置されたのが尋常夜学校の始まりである。 この学校に修学するのは12歳以上の者で、三ヵ年の修業期間で義務教育を終わらせるもので、城南夜学校では大正7年約50名、東海夜学校も40名が入学した。 その後品川夜学校は大正11年城南校に併合された。 次いで大井町も大正14年山中小学校に大井尋常夜学校として開設され、昭和3年には鈴ヶ森小学校にも設けられ、また。大崎町では大正8年、第二日野校内に設立、荏原町では大正15年に設けられる。 これら夜学校は昭和に入っても継続されるが、生徒には朝鮮人子弟も多く、なかには年齢が20歳以上の者もみられたが、向学心に燃える者も少なくなかった。 毎晩3時間の授業が行なわれ、授業料は徴収せず、教科書や学用品は事情によって給与または貸与するのが普通だった。」
私はこの『品川区史』によってはじめて、わが母校が山中小学校の夜学といったものではなく、そこに開設されていた「大井尋常夜学校」というというものであったことを知ったが、ここで教えられる科目は、「読み方」「書き方」「算術」の三科目であった。‥‥「三ヵ年の修業期間で義務教育を終わらせるもの」であったから、この学校は1年が終わると2年生になるのではなく、3年生になることになっていた。
生徒のほうはどうだったかというと、「生徒には朝鮮人生徒も多く」といったものではなく、20人ほどの生徒はほとんどみな朝鮮人ばかりであった。 なかには20歳にもなる1年生がいたり、13・4歳の3年生がいたりというふうで、それがみな一教室のなかで教えられていた。 そして私はここで、金甲鍋、裴鐘介といった同じ年ごろのものたちと友だちにもなった。‥‥ もし大井尋常夜学校というものがなかったとしたら、私は文盲のままとなっていたかも知れなかったからであるが、私はそこの夜学校に、昼間は屑拾いをしたり、戸越のほうにあった朝鮮人経営の電球色染め工場で働いたりしながら、ちょうど1年近く通った。 (以上、金達寿『わがアリランの歌』中公新書 昭和52年6月 61頁~64頁)
夜間小学校は、もともとは貧窮家庭ゆえに昼間は働くとか子守りなどをして学校に通えない子弟のために開かれたのですが、実際には主として朝鮮人子弟が通っていたのでした。 当時の在日朝鮮人家庭の経済状態がどれほどであったか想像できます。 そして在日朝鮮人は夜間であれ、子どもを学校に行かせることができるようになったと言えます。 それでも学校に通うことのできた朝鮮の子どもは、全員ではありませんでした。
日本で小学校に通っていた朝鮮人児童は1936年に5万1233人、1941年に9万8832人で、この数は就学期にある朝鮮人児童の6割ほどに過ぎないという(「在日朝鮮人教育の実情」『近代民衆の記録10』)。 学校に通えなかった最も大きな理由は貧困で、次いでいじめによる不登校などであった。 (小泉和子編『ポッタリひとつで海を越えて』合同出版 2024年9月 268頁)
一つは夜間小学校就学が特別な意味を持っていたことである。 それが廃止されるまでは特に都市圏での朝鮮人在籍率はきわめて高いものがある。 例えば1941年当時、大阪では朝鮮人児童の割合は実に80%を超えている。 さながら朝鮮人収容学校の観を呈したのである。 (『新版 在日朝鮮人 歴史と現状』明石書店 161頁)
朝鮮人児童で公立小学校(夜間も含めて)に通っていたのは1941年で60%、経済が発展していた大阪でも80%でした。
一方では朝鮮人自身が経営する教育機関もありましたが、これらは弾圧されたようです。 当局は朝鮮人子弟を日本の公立学校に通うように誘導しました。
これら朝鮮人の自主的教育機関は、同郷者団体あるいは「融和団体」、宗教団体、相愛会など多様な組織が運営するものであった。 中には警察当局から「共産主義系」とみなされる労働組合が関与する夜学もあったが、当局にとっては朝鮮人の教育機関が朝鮮語を教えていることが何よりも不適切・不穏なものであった。‥‥ 1934年の閣議決定後には、各府県の警察が朝鮮人教育機関に閉鎖を命じ、朝鮮人の子どもを日本の学校に通わせる措置をとった。 とりわけ朝鮮語の授業は厳しく禁止するというのが当局の方針であった。‥‥ その後も秘かに朝鮮語を教える夜学を開く活動も行なわれたが、それ自体が「独立運動」とみなされ弾圧を受けることになった。 1930年代半ば以降、在日朝鮮人子弟は朝鮮語を学ぶ場を奪われてしまったのである。 (以上、『在日朝鮮人―歴史と現在』岩波新書 35~36頁)
すべての朝鮮人を管理する目的でつくられた協和会の活動が活発になると、公立学校に入学させる方向で皇国臣民化教育が徹底されるようになり、朝鮮語はまったく教えられなくなり、皇国少年がつくり上げられていく。 1936年の協和会体制強化以降に育った子供たちは、この強い日本人化=皇民化教育の影響を受けることになったのである。 (樋口雄一『日本の朝鮮・韓国人』同成社 2022年6月 83頁)
当局は朝鮮人の子どもたちを早く日本社会に馴染ませる=同化させようと努力していたということです。 そのために同化に必要のない朝鮮語を、教育から排除したのでした。 これは民族主義的な立場からすれば、次のような評価になります。
この教育がもとより民族教育ではなく「日本化教育」であったことは改めて述べるまでもない。‥‥ これらの政策(夜間小学校)は在日朝鮮人の民族性を奪い、日本への同化を図ると共に、定住化した朝鮮人の日本社会への融和促進を狙ったものである。 (『在日コリアン百年史』三五館 105~106頁)
歴史家の姜在彦さん言い方を借りれば、「日本における“皇民化”教育の基本方針は、日本の植民地支配に従順な奴隷教育」(『近代における日本と朝鮮』すくらむ社 1981年 96~97頁)です。 日本で生きていこうと思えば日本社会への早急な同化が求められますが、それは逆に民族性を否定することに繋がり、民族主義者からは「奴隷教育」とまで言われるほどになります。
ですからこれは、朝鮮人の子どもたちのアイデンティティに微妙な影響(プラスもマイナスも含めて)を与えたと考えられます。 これは現在で言えば、在日外国人子弟のアイデンティティの揺らぎ問題とつながりますね。 日本で生まれ育った外国人が、“自分は一体何人なのか”と悩むなどで、同じ境遇の外国人とコラボして語り合うようなユーチューブが結構あります。 ですから在日外国人のアイデンティティの揺らぎは、昔も今も変わらない問題と言えます。 (終わり)
【拙稿参照】
外国人労働者の子弟教育 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/12/17/9548403
韓国の多文化家族の子供たち http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2013/10/12/7006283
大阪の民族学級―本名とは何か http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2021/07/31/9403271
水野・文『在日朝鮮人』(10)―子弟の教育 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2016/06/22/8116734
韓国人でも日本人でもない―しかし同化する在日韓国人 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/02/14/9562752
上野千鶴子氏の思い出話―バリケード内の性 ― 2025/11/20
2015年11月11日付けの毎日新聞に、「社会学者 上野千鶴子さん 自分を研究対象に 女性学との出合い」と題するコラムがありました。 ネットでは有料記事なので、関心のある方は図書館にでも行ってください。 https://mainichi.jp/articles/20251111/ddm/014/040/011000c https://mainichi.jp/articles/20251117/ddm/014/040/016000c
このなかで、次の一文に目が行きました。
(1960年代末、全共闘は大学を占拠してバリケード封鎖を行なった)(上野さんは)バリケードの中で成人式を迎えた。 (全共闘)運動に身を投じながら、山ほど性差別に遭遇した。 「男は前線に立ってマイクを握り、『女は戦力にならない』とあからさまに言う。 女の役目は後方支援で、私もひたすらおにぎりを握りました。」 バリケードの裏側には性革命もあった。 同志だったはずの男は性的に自由な女を利用し、陰で「公衆便所」と呼んでいた。 その時のショックは今も胸に残る。 ‥‥ 運動で経験した女性蔑視のトラウマは大きく、「理論は女を差別しないだろう」と理論社会学を専攻し、鬱々とした日々を過ごした。
上野さんは私とは考え方がまるっきり違っている方ですが、彼女の思い出話の中のこの部分は事実と思われます。 「公衆便所」、久しぶりに聞きましたねえ。 こういう女性が1970年前後の全共闘活動の中に、少数ながら確かに存在していました。 聞いた話では、K産同○○派のSさんは○大学の自治会選挙(各セクトが学生自治会を掌握しようと争っていた)でこの戦術を使って勝利した、だから彼女は「公衆便所」だと噂されていました。 ただしあくまで噂で、本当にそんなことがあったのかどうか分かりません。
しかし、こういう女性があちこちの大学の学園闘争にいたのは事実です。 その一人と話したことがあります。 その女性は某地方の有力名士の娘で、〝このままでは親の言う通りに見合いをさせられ結婚することなる、その前に都会に出て大学生の間だけは自由になりたい”といって、本当に性的にも自由奔放に振る舞っていましたねえ。 なお彼女らが狙っていたのは学生運動の指導者クラスかテレビに出てくるような優男で、私のような男は全く相手にされませんでした。
上野さんはジェンダー論・女性学の有名な研究者なのですが、このような類の女性を毛嫌いして相手としていないのではないか、そういうところに私の違和感があります。 専業主婦を「社会的に消えゆく存在」発言や、今度の高市氏の首相就任の際に発した「うれしくない」発言などを合わせて考えてみると、彼女は全ての女性ではなく、自分にとって都合のいい(男性優位社会と闘う主張に合う)女性を選好したのではないかという疑問ですね。 またご自分は名誉教授で多くの著作や講演で収入を得てタワマン・高級車の生活という強者でありながら、「弱者は弱者のまま尊重される社会を求める」「平等に貧しくなろう」発言などには、私はいかがなものかと思います。 やはり研究者というより、成功して恵まれた活動家と考えればいいのでしょうねえ。
【拙稿参照】
やはり上野千鶴子さんは闘う活動家 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/02/29/9663429
左翼過激派の性暴力 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/09/26/9805502
左翼人士の性犯罪に思う https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/03/11/9568486
1960年代の入管問題―金東希と任錫均(2) https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/02/07/9752842
人権派ジャーナリストの性暴力事件 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2019/02/01/9031087
相次ぐ有名人の性暴行事件 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2019/12/29/9194983
活動家によるレイプ事件考 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2008/03/07/2708813
それは泣き寝入りではなく自殺だった http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2010/08/19/5296007
解放運動の「強姦神話」 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2007/07/28/1685192
暴力にみる民族的違和感 http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daihachijuunanadai
朝鮮人は来日すると日本名を名乗った(1) ― 2025/11/26
今回は、朝鮮人は創氏改名より以前にすでに日本名を名乗っていた、というお話です。
日本が植民地時代の朝鮮に施行した「創氏改名」は、民族性を否定するために朝鮮人から名前を奪って日本名を強制したということで、評判が非常に悪いですね。 だからでしょうか、今日在日が通名(日本名)を名乗るのはこの「創氏改名」があったからだと言う人が多いです。 つまり、朝鮮人はそれまでは民族名だったのに、創氏改名以降に日本名を名乗らされるようになった、つまり日本が朝鮮人に日本名を強制した、と言われるようになりました。 植民地主義の日本は朝鮮人の民族性を否定するために1940年の創氏改名によって在日に日本名を強制的に名乗らせた、というものです。
そこで通名(日本名)を名乗る在日は悪辣非道な日本の植民地史を引きずっている、だから在日は本名(民族名)を名乗って民族性を取り戻さねばならないと主張が出てきましたし、今もそう考える人が多いようです。 かつては在日が本名を名乗りさえしていれば、それだけで民族の誇りを有する素晴らしい人だなんて称賛する活動家がいましたね。
このようにして在日の歴史を学んだ人は、在日は1940年の創氏改名までは日本名を使わず民族名だけを使っていた、という歴史像を持つようになります。 ところが実は、在日は来日したら強制されるのではなく日本名を自ら進んで名乗る人が多かったという事実があったのでした。 そして1940年になって創氏改名という法的強制によって、新たな日本名を使うようになったというのが歴史事実でした。
創氏改名の届け出は戸主の権限で、普通は故郷にいる祖父か父親です。 つまり故郷にいる戸主が創氏改名の新たな名前を定めて役場(面事務所など)届け出てから、それを日本にいる息子たちに通知します。 そして在日はそれまで名乗っていた日本名ではなく、故郷から通知された新たな創氏改名の名前を使うようになりました。 その例を探してみました。
まずは李秀渕という方を見てみましょう。 李さんの生い立ちは1907年生まれ、1924年来日、1926年以降三重県桑名で鋳物師として働いてこられました。 『ポッタリひとつで海を越えて』という本に、その経緯が書かれてありました。
この時期(1940年以前)はまだ創氏改名以前だったが、「チョーセンジン」と言われ差別もあったので、秀渕は「小西重雄」と名乗り、周りから「小西のおっちゃん」と呼ばれていた。 (小泉和子編著『ポッタリひとつで海を越えて』合同出版 2024年9月 36頁)
1939年の創氏改名により、40年以降は李家では「廣本」という姓を使うようになる。 ‥‥「廣本」という日本名は本貫の「廣州」からとったもの (同上 39・41頁)
李秀渕さんは来日して「小西」という名前を便宜的に使っていましたが、1939年の創氏改名令の公布および翌40年同令の施行により故郷から「廣本」という新たな名前を通知され、それ以降「廣本」を使うようになりました。 ここで注意すべきは、最初に名乗っていた「小西」は強制されたものではないということです。 後の「廣本」が創氏改名という法的強制による名前です。 李さんは戦後に鋳物工場を立ち上げ、「廣本鋳造所」として手広く会社を経営しました。 創氏改名は法的強制でしたが、それ以前から日本名を名乗っていた在日には被害意識はなく、強制された名前をそのまま受け入れたのでした。
作家の飯尾憲士(1926年生まれ)は父親が朝鮮人でした。 父親の名前は次のように記録されています。
飯尾憲士の「ソウルの位牌」に出てくる父の位牌には「春厳慈弘信士―俗名飯尾弘」と日本の戒名および通名があるだけで、本名は刻まれていない。 それが、歴史に翻弄された生涯を語るように姜、江崎(創氏改名)、松田(渡日のとき)、飯尾(妻の姓)の四つの姓をもった父親の終の名前であった。 (『ポッタリひとつで海を越えて』 233頁)
本名は「姜」ですが、来日した時は「松田」、1940年の創氏改名時は「江崎」、その後は日本人の妻の名前である「飯尾」を名乗ったわけです。 ここでも、創氏改名より以前から日本名を名乗りはじめており、日本名をいろいろ変えながら使ってきたのでした。
毎日新聞の記事で、曺弘利さんという方の祖父が来日した時の様子を次のように記しています。
曺さんの祖父、曺秉元(ピョンウォン)さん ‥‥ そんな折、日本人の手配師から持ちかけられる。 「日本で1年も働けば、家の1軒ぐらいは建てられる」。 秉元さんは話にのる。 ちょうど100年前、1920年のこと。 行き先は福岡・飯塚の炭鉱だった。創氏改名で「中山八郎」と名乗った。 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2020/08/13/9278142
毎日の記者は朝鮮史の知識がないために、1920年に創氏改名があったというトンデモない間違いを犯しています。 この記事は朝鮮人が来日すると直ぐに「中川八郎」という日本名を名乗り出したという事実を示すもので、その後20年経って1940年に施行された創氏改名とは全く関係ありません。 ここでも、朝鮮人は来日すると早い段階で日本名を名乗り始めたことが確認できます。 (続く)
【関連の拙稿】
在日の通名使用の歴史は古い http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2013/01/12/6688526