戦前の夜間小学校―朝鮮人子弟の教育(2) ― 2025/11/15
https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/11/09/9815943 の続きです。
この夜間小学校には、作家の金達寿も通ったと言います。 彼の自叙伝『わがアリランの歌』に、次のような思い出話が出てきます。 そこには当時の夜間小学校はどういうものであったかが記されていますので、長くなりますが引用・紹介します。
1931年4月となったところで、「おまえも学校に行くんだ」と言って、兄は私を夜学へつれていった。 そうして私はここではじめて、「ハナ、ハト、マメ、マス」という、日本語のそれを習うことになった。
私がこの小学校の夜学にかよったことを最近ある講演のなかでしゃべったところ、どこかの学校の教員だという人から、「中学ならわかりますが、そんな小学校の夜学があったんでしょうか」と言われて、ちょっと困ったことがある。‥‥『品川区史』「通史編」にそのことがこう書かれている。
「大正期に入って、義務教育制度が確立し、小学校への就学率も非常に高くはなったが、なお依然として就学をなしえない貧窮家庭の児童も存在した。 そのために、尋常小学校に夜学を置くことになり、まず品川管内の品川・城南の両校に大正7年(1918年)から設置されたのが尋常夜学校の始まりである。 この学校に修学するのは12歳以上の者で、三ヵ年の修業期間で義務教育を終わらせるもので、城南夜学校では大正7年約50名、東海夜学校も40名が入学した。 その後品川夜学校は大正11年城南校に併合された。 次いで大井町も大正14年山中小学校に大井尋常夜学校として開設され、昭和3年には鈴ヶ森小学校にも設けられ、また。大崎町では大正8年、第二日野校内に設立、荏原町では大正15年に設けられる。 これら夜学校は昭和に入っても継続されるが、生徒には朝鮮人子弟も多く、なかには年齢が20歳以上の者もみられたが、向学心に燃える者も少なくなかった。 毎晩3時間の授業が行なわれ、授業料は徴収せず、教科書や学用品は事情によって給与または貸与するのが普通だった。」
私はこの『品川区史』によってはじめて、わが母校が山中小学校の夜学といったものではなく、そこに開設されていた「大井尋常夜学校」というというものであったことを知ったが、ここで教えられる科目は、「読み方」「書き方」「算術」の三科目であった。‥‥「三ヵ年の修業期間で義務教育を終わらせるもの」であったから、この学校は1年が終わると2年生になるのではなく、3年生になることになっていた。
生徒のほうはどうだったかというと、「生徒には朝鮮人生徒も多く」といったものではなく、20人ほどの生徒はほとんどみな朝鮮人ばかりであった。 なかには20歳にもなる1年生がいたり、13・4歳の3年生がいたりというふうで、それがみな一教室のなかで教えられていた。 そして私はここで、金甲鍋、裴鐘介といった同じ年ごろのものたちと友だちにもなった。‥‥ もし大井尋常夜学校というものがなかったとしたら、私は文盲のままとなっていたかも知れなかったからであるが、私はそこの夜学校に、昼間は屑拾いをしたり、戸越のほうにあった朝鮮人経営の電球色染め工場で働いたりしながら、ちょうど1年近く通った。 (以上、金達寿『わがアリランの歌』中公新書 昭和52年6月 61頁~64頁)
夜間小学校は、もともとは貧窮家庭ゆえに昼間は働くとか子守りなどをして学校に通えない子弟のために開かれたのですが、実際には主として朝鮮人子弟が通っていたのでした。 当時の在日朝鮮人家庭の経済状態がどれほどであったか想像できます。 そして在日朝鮮人は夜間であれ、子どもを学校に行かせることができるようになったと言えます。 それでも学校に通うことのできた朝鮮の子どもは、全員ではありませんでした。
日本で小学校に通っていた朝鮮人児童は1936年に5万1233人、1941年に9万8832人で、この数は就学期にある朝鮮人児童の6割ほどに過ぎないという(「在日朝鮮人教育の実情」『近代民衆の記録10』)。 学校に通えなかった最も大きな理由は貧困で、次いでいじめによる不登校などであった。 (小泉和子編『ポッタリひとつで海を越えて』合同出版 2024年9月 268頁)
一つは夜間小学校就学が特別な意味を持っていたことである。 それが廃止されるまでは特に都市圏での朝鮮人在籍率はきわめて高いものがある。 例えば1941年当時、大阪では朝鮮人児童の割合は実に80%を超えている。 さながら朝鮮人収容学校の観を呈したのである。 (『新版 在日朝鮮人 歴史と現状』明石書店 161頁)
朝鮮人児童で公立小学校(夜間も含めて)に通っていたのは1941年で60%、経済が発展していた大阪でも80%でした。
一方では朝鮮人自身が経営する教育機関もありましたが、これらは弾圧されたようです。 当局は朝鮮人子弟を日本の公立学校に通うように誘導しました。
これら朝鮮人の自主的教育機関は、同郷者団体あるいは「融和団体」、宗教団体、相愛会など多様な組織が運営するものであった。 中には警察当局から「共産主義系」とみなされる労働組合が関与する夜学もあったが、当局にとっては朝鮮人の教育機関が朝鮮語を教えていることが何よりも不適切・不穏なものであった。‥‥ 1934年の閣議決定後には、各府県の警察が朝鮮人教育機関に閉鎖を命じ、朝鮮人の子どもを日本の学校に通わせる措置をとった。 とりわけ朝鮮語の授業は厳しく禁止するというのが当局の方針であった。‥‥ その後も秘かに朝鮮語を教える夜学を開く活動も行なわれたが、それ自体が「独立運動」とみなされ弾圧を受けることになった。 1930年代半ば以降、在日朝鮮人子弟は朝鮮語を学ぶ場を奪われてしまったのである。 (以上、『在日朝鮮人―歴史と現在』岩波新書 35~36頁)
すべての朝鮮人を管理する目的でつくられた協和会の活動が活発になると、公立学校に入学させる方向で皇国臣民化教育が徹底されるようになり、朝鮮語はまったく教えられなくなり、皇国少年がつくり上げられていく。 1936年の協和会体制強化以降に育った子供たちは、この強い日本人化=皇民化教育の影響を受けることになったのである。 (樋口雄一『日本の朝鮮・韓国人』同成社 2022年6月 83頁)
当局は朝鮮人の子どもたちを早く日本社会に馴染ませる=同化させようと努力していたということです。 そのために同化に必要のない朝鮮語を、教育から排除したのでした。 これは民族主義的な立場からすれば、次のような評価になります。
この教育がもとより民族教育ではなく「日本化教育」であったことは改めて述べるまでもない。‥‥ これらの政策(夜間小学校)は在日朝鮮人の民族性を奪い、日本への同化を図ると共に、定住化した朝鮮人の日本社会への融和促進を狙ったものである。 (『在日コリアン百年史』三五館 105~106頁)
歴史家の姜在彦さん言い方を借りれば、「日本における“皇民化”教育の基本方針は、日本の植民地支配に従順な奴隷教育」(『近代における日本と朝鮮』すくらむ社 1981年 96~97頁)です。 日本で生きていこうと思えば日本社会への早急な同化が求められますが、それは逆に民族性を否定することに繋がり、民族主義者からは「奴隷教育」とまで言われるほどになります。
ですからこれは、朝鮮人の子どもたちのアイデンティティに微妙な影響(プラスもマイナスも含めて)を与えたと考えられます。 これは現在で言えば、在日外国人子弟のアイデンティティの揺らぎ問題とつながりますね。 日本で生まれ育った外国人が、“自分は一体何人なのか”と悩むなどで、同じ境遇の外国人とコラボして語り合うようなユーチューブが結構あります。 ですから在日外国人のアイデンティティの揺らぎは、昔も今も変わらない問題と言えます。 (終わり)
【拙稿参照】
外国人労働者の子弟教育 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/12/17/9548403
韓国の多文化家族の子供たち http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2013/10/12/7006283
大阪の民族学級―本名とは何か http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2021/07/31/9403271
水野・文『在日朝鮮人』(10)―子弟の教育 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2016/06/22/8116734
韓国人でも日本人でもない―しかし同化する在日韓国人 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/02/14/9562752
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