在日韓国・朝鮮人自然消滅論(2)2024/12/01

https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/11/26/9734747 の続きです。

 なお坂中英徳さんよりも2年ほど前に、在日消滅論を公然と唱えた者がいました。 それは他ならぬ私でして、『現代コリア』第361号(1996年5月号)に「消える『在日韓国・朝鮮人』」と題して投稿しました。 この論稿は2000年10月付けの拙ホームページに再録しております。 http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daijuukyuudai  ここでは次のように論じました。

坂中さんによると、在日の帰化者は年間約八千人である。一〇年ほど前までは五千人だったはずであり、これもまた急増している。

在日はその婚姻状況から圧倒的多数が日本人と親族関係となっていき、そしてこれから日本国籍を加速度的に取得していくのである。 冠婚葬祭という民族にとって重要な場面においても大多数の日本国籍とほんのわずかの韓国・朝鮮籍の人々の集まりとなるのは、もはや時間の問題である。 ‥‥ そしてこの間違いなく起こる将来の事態の確認は「新鮮」ではなく「衝撃的」である。

韓国・朝鮮籍という外国籍をもつ存在としての在日は、まもなく消滅しようとしている。

 当時(1996年)、「在日消滅」は心では思っていても公の場で言える雰囲気のなかった時代でした。 「在日の消滅」は個人的に陰でこそこそ言われることは多々あったのですが、公然と論じられたのはおそらく『現代コリア』の拙稿が最初だったと思います。 ただしこれは在日問題に関心を持った無名の日本人の論稿でしたから無視されたようで、大して話題にはならなかったし、その後の在日問題を扱う本や論文なんかでも全く取り上げられていません。  

 そして30年近く経った今、在日の現状はどうなっているのか、本当に消滅するのでしょうか‥‥。 法務省の在留外国人統計 https://www.moj.go.jp/isa/policies/statistics/toukei_ichiran_touroku.html と民団が公表している在日韓国・朝鮮人統計 https://www.mindan.org/syakai.php を紹介します。

 これによると韓国・朝鮮籍の特別永住者数は、1992年から10年毎の数字を拾いますと

   1992年 585,170人

   2002年 485,180人

   2012年 377,351人

   2022年 285,459人

10年毎に約10万人、つまり毎年1万人ずつ減少していることが分かります。

 また民団の「性別及び世代別の現状 2021年12月末現在」の統計数字も紹介します。 在日韓国・朝鮮人は、六歳ごとの数字を拾いますと、

   0歳            702人

   6歳(小学校入学時)  1,354人

   12歳(中学入学時)  1,571人

   18歳(大学入学時)  1,882人

   24歳          3,256人

   30歳          5,330人

 ただしこの数字は近年のニューカマーも含まれています。 特に18歳を越えると韓国からの留学生らがいますので際立って多くなります。 在日の本来の意味である「特別永住者」はそういったニューカマーを除外せねばなりませんので、この表の数字よりもっと少なくなります。

 特別永住者に限った年齢別数字は見つかりませんでしたが、いずれにしても年齢が下がるとともに在日の数がどんどん減っていっていることは明確です。 つまり在日社会もまた少子高齢化しているのです。 いま朝鮮学校は入学者減少のために統廃合が進んでいますが、在日の総連系離れだけでなく、少子高齢化による現象とも言えます。

 以上により、在日は「帰化」「日本人との婚姻」「少子高齢化」の三つの要因により人口減少の道を歩んでいることは明らかでしょう。 そしてそれは止めることの出来ない道なのです。 従って坂中英徳さんの「在日韓国・朝鮮人自然消滅論」は今のところその見通しの通りに進んでおり、将来の「21世紀前半中の消滅」という予想はおそらく当たることになると思われます。

 在日社会は21世紀半ばまでに、植民地支配に起因する「特別永住者」は0とは言えませんがほとんどが消え去り、日本国籍取得者やニューカマーなどに置き換わっていくことになるでしょう。  従って「在日問題」は近い将来に、数ある「外国人問題」のうちの一つでしかなくなり、その後は過去の問題として歴史の中に埋没していくものと考えられます。   (終わり)

在日韓国・朝鮮人自然消滅論(1) https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/11/26/9734747

 

【追記】

 拙稿 「第19題 消える『在日韓国・朝鮮人』」 http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daijuukyuudai にある “在日の結婚割合”について、下記のように説明を追加していますので、ご笑読下されば幸い。 ただし25年前のものです。

第42題 在日朝鮮人同胞どうしの婚姻の割合  http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daiyonjuunidai

 

【追記】

 水野直樹・文京洙『在日朝鮮人 歴史と現在』(岩波新書 2015年1月)では、次のように論じられています。

先細るオールドカマー ‥‥ オールドカマーの減少の第一の原因は、日本国籍の取得、いわゆる「帰化」の増大である。 ‥‥ こうした帰化の増大にくわえて、日本人との<国際結婚>の増加も特別永住者急減の原因となっている。‥これに帰化者を加えると在日朝鮮人は、国籍上50~60万人に及ぶ人口の損失を経験したことになる。 (213・214頁)

 「先細る」の先は「消滅」になると思うのですが、そこまでは論じていませんね。 それどころか、下記のように明るい展望を論じているので、大きな違和感があります。

90年代以降、留学などで韓国で学ぶ在日朝鮮人の若者も急増し、日韓双方にまたがる職業や、学術・文化・スポーツ活動を営む在日朝鮮人も少なくない。‥‥ “国民”についての画一的な見方を前提に常に日本か本国かの選択を迫られてきた在日朝鮮人のあり方にも新しい可能性を開くものだ  (232頁)

 在日の定義を「特別永住」だけでなく、日本国籍者まで広げようとしているようですが、果たしてこれで「新しい可能性を開く」ものなのでしょうか。 「在日問題」をいつまでも続けていきたいという“願い”のように思われます。

『在日コリアンが韓国に留学したら』を読む(1)2024/12/06

 韓国ではビックリ事態。 戒厳令が敷かれたかと思うと、6時間後に解除。 混乱が続いているようです。 今ここではそんなことに関係なく、拙ブログを続けます。

 韓光勲『在日コリアンが韓国に留学したら』(ワニブックス 2024年10月)を購読。 まず著者の韓光勲さんの経歴は、この本の最後のページによると

1992年大阪市生まれ。 在日コリアン3世。 2016年、大阪大学法学部卒業。 2019年、大阪大学大学院国際公共政策研究科博士前期課程修了。 2019年4月から2022年7月まで、毎日新聞で記者として働く。 2023年3月から約1年間、韓国で留学生活を送った。

 それではどんな家庭だったのでしょうか。 家族構成は本文では次のように書かれています。

父は韓国生まれで、23歳のとき日本に働きにやってきた。 母は大阪市生まれの在日コリアン二世。 (4頁)

父は韓国・済州道で生まれ、23歳まで済州道にいました。‥‥ 母親は大阪市西成区で生まれ育った在日コリアン二世。 (94頁)

僕の兄2人と姉  (16頁)

 以上から判明することは、まず父親の姓が「韓」であり、韓光勲さんは父親の姓を受け継いでいることです。 韓国の当時の戸籍法(今は家族関係登録簿)では、子供は生まれると父親の戸籍に入って、父親の姓を受け継ぐからです。 なお両親が事実婚で韓さんが婚外子の場合、母親の戸籍に入って母親の姓を受け継ぎますが、当時としては極めて特殊事例なので考える必要はないでしょう。

 韓さんは4人兄弟の末っ子として1992年に生まれました。 とすると、韓国で生まれ育ったニューカマー(来日)の父親と日本で生まれ育ったオールドカマー(在日)2世の母親は、1980年代に結婚したと推定できます。

 次に、家庭内ではどんな言葉が話されていたのかです。

家族の会話はもっぱら日本語だ。 (4頁)

家庭ではずっと日本語を使っているからだ。 (15頁)

父親の母語は韓国語です。‥‥ 母親の母語は日本語で、韓国語は話せません。 自然と、家での共通言語は日本語になりました。 父は日本語が堪能です。 (94頁)

 ニューカマーとオールドカマーとが結婚して日本で暮らす場合は、家庭内の言葉は日本語になりますね。

 ただ一般的にニューカマーは母国(韓国)の父母や祖父母、兄弟らとの関係が切れておらず、コミュニケーションを取っているものです。 だから韓さんの場合、父親はしょっちゅう母国に帰っていただろうし、そして家族・親戚らも来日していただろうと思われます。 また韓さん自身も幼い時から母国のハラボジ・ハルモニ宅に帰省することがあっただろうと推測します。 ですから家庭内の日常語は日本語でも、本場の韓国語に接し喋る機会は多かっただろうと思うのですが、この本ではそんな話が出てきませんね。

 韓さんの本では、民族性について強い影響力を持っているはずの父親の存在感が薄いです。 読んでいて、父親は家から離れていると思ったくらいでしたが、次の記述でそうではないと判明しました。

韓国出身の父は当初、(2018年文在寅政権時の)南北対話に大きな期待感を持っていた。 父は南北対話を伝えるニュースを見ながら涙を見せていた。 (119頁)

 次に韓さんのアイデンティティです。 彼は次のように述べます。

僕は日本では「韓国人」として扱われることもあるが、「日本人」として扱われる場合も多い。 国籍は大韓民国であり、韓国のパスポートを持っているから「韓国人」なのかといえば、必ずしもそうではない。 初対面の人に「国籍は日本ですよね」と言われる場合が多くある。 これは仕方ないと思う。 僕の生活様式は完全に日本だ。 だが、行政の場に出ると、全く違う。 完全に「韓国人」として扱われる。 厳密にいえば「特別永住者」という立場だ。 (148頁)

僕の場合、「名前」は韓光勲で、「国籍」は韓国、「出身地」は大阪、「第一言語」は日本語、「民族」は韓国人、「アイデンティティ」は在日コリアンだ。 日本か韓国のどちらかに統一されていない。 それには歴史的な経緯がある。 このことを初めて会った人に理解してもらうのは骨が折れる。  (166頁)

 ここにある「統一されていない」は、鄭大均さんが言うところの「今日の在日韓国人に見てとれるのは、韓国籍を有しながらも韓国への帰属意識に欠け、外国籍を有しながらも外国人意識に欠けるというアイデンティティと帰属(国籍)の間のずれであり、このずれは在日韓国人を不透明で説明しにくい存在に仕立て上げている」(『在日韓国人の終焉』文春新書 2001年4月 4頁)にあることと同じですね。 自分を客観的に証明する法的地位(韓国国籍や特別永住)と自分を主観的に意識するアイデンティティ(言語や生活様式など)とが統一されておらず、“ずれ”があるのです。 韓さんは、その“ずれ”を周囲の日本や本国の人には理解してもらうのに「骨が折れる」とおっしゃっています。

 ただ、このような“ずれ”は在日だけが有するものではなく、他の外国人にも当てはまります。 日本で生まれたとか幼少の時に来日したという外国人の中には、幼稚園からずっと日本の学校に通ってきたという人が多くなりました。 外見も名前も国籍も外国人なのに、言葉や身のこなしは完璧な日本人という“ずれ”を有することになります。 近頃は、外国人のこの“ずれ”をテーマにしたユーチューブがよく出てきていますね。

 韓さんは外見までもが完璧な日本人で、外国人だと分かるのは名前や国籍を自ら名乗る時だけになっているようです。 ですから何も喋らなければ全くの日本人として見せることになり、周囲も本人が言わなければ同じ日本人と思うでしょう。 とすると外国人だと発覚した時の“ずれ”の感覚は、当然に大きいでしょう。 従って別に言えば、これは在日特有の問題ではなく、外国人問題の一つの類型としてとらえるべきではないかということです。 そしてその解決は、当人がその“ずれ”をなくすのか、それともそのままにしておくのかになるでしょうが、自分で判断して選択する以外になく、周囲はそれを理解し尊重することが求められるでしょう。   (続く)

 

【在日に関する拙論(最近のものです)】

在日韓国・朝鮮人自然消滅論(1) https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/11/26/9734747

在日韓国・朝鮮人自然消滅論(2) https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/12/01/9736094

在日の「国籍剥奪論」はあり得ない https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/11/19/9732903

在日の定義は歴史意識にある―『抗路11』 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/03/24/9670017

在日韓国人と本国韓国人間の障壁  https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/12/12/9641974

在日のアイデンティティは被差別なのか―尹健次 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2021/06/12/9387023

『抗路』への違和感(2)―趙博「外国人身分に貶められた」 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2021/06/02/9383666

『在日コリアンが韓国に留学したら』を読む(2)2024/12/11

https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/12/06/9737449 の続きです。

 次にアイデンティティと大いに関係のある言葉です。 韓光勲さんが韓国に留学した目的は、韓国語の習得です。

僕は母語が日本語で、韓国語を勉強するために韓国に留学しに来ている。 (151頁)

僕は、韓国語を「取り戻したい」と思って韓国にやってきた。 (157頁)

(韓国語は)僕の母方の家族が一度失ってしまった言語。 父方の家族が話す言語だ。 それは母語でもなければ、単なる「外国語」でもない。 (158頁)

 韓さんは自分の民族的アイデンティティを確認するために韓国語を勉強しておられるようです。 これは私のように外国語を趣味や教養でやる者とは違って、勉強の意気込みがすごいですね。 しかし彼が民族を取り戻すべくここまで思い入れて学んでいる韓国語は、本国の韓国人から評価されません。

(韓国での)飲み会の席で初めて会った30代くらいの韓国人女性に、英語でこう言われたのだ。 「Can you speak English? Because your Korean is not fluent. (あなた、英語を話せる? あなたの韓国語は流暢じゃないから)」  驚いてすぐに反応できなかったが、やがて怒りでワナワナ震えた。 こんな侮辱はない。 「あなたの韓国語は流暢じゃない」なんて一番言われたくない言葉だ。 おまけに「韓国語じゃなくて英語を話せ」と言われているのだ。(150~151頁)

韓国語のレベルは中級~上級くらいだと思う。 当時、語学堂では、上から2番目のクラスに所属していた。 韓国語能力試験の6級(最高級)合格したこともある。 その韓国人女性の言葉は、僕をバカにしているだけでなく、韓国語を学びにわざわざソウルにやってきた僕の人格を否定する言葉だと感じた。 在日コリアン三世として育った僕が、どんな思いで韓国語を勉強してきて、語学堂にいま通っているのか。 少しでも想像力を働かせてほしい。 とにかく悲しかった。 (151頁)

こうやって僕が学んできた韓国語を、韓国人から侮辱されるのはたまったものではない。 (158頁)

 誰でもそうですが、成人になって外国語をいくら学んでも、なかなか流暢に話せるものではないです。 「韓国語能力試験の最高級」を合格したとしても「レベルは中級~上級くらい」「上から二番目のクラス」であるなら、本国の韓国人と対話したら「かなり違う」「流暢でない」と感じられてしまうのは当たり前でしょう。 しかし韓さんはそれを言われて、「僕をバカにしている」「人格を否定している」「侮辱されている」と反発を感じたと言います。

 私のように日本人なら「ハングンマル チャラシネヨ(韓国語、お上手ですね)」と言ってくれますが、在日は同じ韓国人ですから「ハングギニンデ ジェデロ モタヌンガ(韓国人なのに、ろくに喋れないのか)」と言われることになります。 本国の韓国人は「民族を取り戻すために韓国を勉強しています」と聞かされても、「韓国人のくせに」となってしまうようです。 韓さんが「少しでも想像力を働かせてほしい」と願っても、相手の本国韓国人は温かい目で見るのではなく大きな違和感を持つのですから、先ずは韓さんの方が「想像力を働かせる」べきではないでしょうか。

 また韓さんは日本でも似た体験をしたと言います。

初対面の人に名前を名乗ると、「日本語が上手ですね」とか「日本には長く住んでいるのですか」と言われることがあるのだ。 もちろんイラッとする。 僕は古文が昔から得意だし、日本史はセンター試験ではほぼ満点だったし、今でも明治以降の外交文書や擬古文はすらすら読める。 ライターもしているし、「あなたよりも日本語能力は高いですよ」と思う。 生粋の大阪生まれで、関西弁をこんなにべらべら話しているのに、「日本に長くすんでいるか」なんて愚問でしかない。 (152~153頁)

 初対面の日本人に「韓光勲(ハン・カンフン)」と名乗りますと、その日本人には来日した外国人なのか日本で生まれ育った外国人なのか、区別がつかないものです。 そんな日本人が失礼にならないように思って口から出た言葉が「日本語が上手ですね」「日本に長く住んでいるのですか」なのでしょう。 「愚問」ではないし、悪気もないので「イラッとする」こともないと思うのですが‥‥。 日本で「韓光勲(ハン・カンフン)」と名乗ると相手の日本人はどう受け取るのか、これもまた先ずはご自分の方から「想像力を働かせればいい」のではないでしょうか。 なぜ他人に「想像力を働かせる」ことを要求するのか、ちょっと理解できないところです。

日本で「日本語がうまいですね」と言われるとき。 あるいは韓国で「あなたの韓国語は流暢じゃないから」と英語で話されるとき。 僕の心はやっぱり傷ついてしまう。 同じ社会に住んでいる人として対等に扱われない感覚。 いつまでも「よそ者」として仲間に入れてもらえない感覚。 そうした感覚を抱かせてしまう言葉  (157頁)

 韓さんは、日本では喋りや身のこなし等はすべて日本人と同じなのに外国籍であるから「よそ者」扱いされ、韓国では同じ韓国人なのに言葉が流暢でないから「よそ者」扱いされる、だから「仲間に入れてもらえない」「対等に扱われていない」という感覚になるようです。 これは韓さん個人の感覚なのですが、そうならばどう行動すればいいのか、です。 だからこそ「仲間入り」しようと努力するのか、あるいはどうせ仲間入りできないのなら「よそ者」でも構わないとするのか、それともそんなことは何も考えないとするのか、「よそ者」扱いする日本人が悪いとして闘うのか、‥‥いろんな道が考えられます。 その道は韓さん自身が判断して選択すべきことだと思います。

在日コリアンは「社会の常識」を揺り動かす存在になれるとも思う。 もし「あなたは韓国人の名前なのになぜ日本語が話せるんですか?」と質問されたり、少しでもこういうテーマに関心のある人に出会ったりしたときは、「名前や言葉、国籍、民族、出身地って、本当にいつも一致するものなのでしょうか?」と逆に質問してみたい。 その人の常識を揺り動かしたい。‥‥ 新たに出会う人にそうやって質問していけば、僕の周りにいる人の持つ「常識」をちょっと変えることくらいはできる。 (167頁)

 「名前や言葉、国籍、民族、出身地はいつも一致する」という「社会の常識」を揺り動かそうという韓さんの話は、世の中にはそういう “一致しない”外国人もいることを知ってほしいという点に限れば理解できます。 なお「出身地」は、韓さんの言うものと一般に使われているものとが少し違っているようです。

 ところで「名前や言葉、国籍、民族、出身地って、本当にいつも一致するものなのでしょうか?」という質問に対して、私ならこう答えます。

 「 “一致しない”つまり “韓国人なのに韓国語ができない”あるいは “まるで日本人なのに韓国人”であることで本人が納得しているのなら、『イラッとする』事態に我慢できるだろう。 しかし子や孫の世代までも我慢させることが果たしてどうなのか。 いつまでも “一致しない”状態を続けるわけにはいかず、将来のいつかは “一致する”方向に行くことになると考える。」    (終わり)

 

【在日に関する論考集(20年以上前のものです)】

http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/minzokusabetsu