『華僑のいない国』―「週刊朝鮮」の書評2023/10/31

 韓国の有力誌『週刊朝鮮2770号』(2023年8月7日)に、イ・ジョンヒ『華僑のいない国』という本の書評・紹介がありました。 評者は人文学コラムニストのパク・ジョンソンという方です。 韓国の華僑については私も関心がありますので、訳してみました。

8・15を前にして見る「少女像」は、いろんな考えを呼び起こす。 しかし核心は簡単である。それは邪悪な加害民族を糾弾し、善良な被害民族を奮起させる。 このような二分法的な善悪の議論が、排他的民族主義の強力なエネルギー源として作用する。今日、全世界的に数多くの国々が先を争って「私たちが被害者」と叫んでいる。

そうであるならば被害民族は一人の例外なく、みんな善良であるか。 加害民族は例外なく無条件に邪悪なのか。 実際には邪悪な朝鮮人もおり、善良な日本人もいる。 ホロコーストされたイスラエル民族は、今日のパレスチナ人民族を逼迫している。 我々も例外ではない。 全世界で、わが国くらいに華僑を抑圧した国は珍しいのである。

こんな問題意識を持って、我が国の華僑の歴史を一目瞭然に見せてくれる印象的な研究書がある。 それは華僑研究家のイ・ジョンヒの『華僑がいない国』(2018)である。 我々は、慰安婦問題はもちろんのこと、在日同胞に対する日本の不当な待遇に憤怒する。 しかし実際には我々は、わが国に暮らしている華僑たちをどのように待遇したのかについて全く無関心である。 事実、我々は過去100年間、華僑たちに対して不当な差別と抑圧で一貫していたというのが著者の指摘である。

1882年の壬午軍乱が勃発すると、閔妃は清国に助けを求めた。 この時、清の軍隊とともに商人たちが入ってきた。 そのうちの一部が残留したことが、わが国の華僑の始まりである。それ以降、華僑の流入は増え続けた。 中国の政情は不安定であり、また日帝の開発事業によって朝鮮での賃金水準が中国より高かった。 彼らは優れた商売の腕と野菜栽培技術も、新しいチャンスとして作用した。

実際に華僑は労働者、農民、商人など多様な職種に進出した。 日本の植民地の時は、最高6万~7万人にまで増えた。 もちろん色んな事情で、大きな浮沈を繰り返した。 光復後の南北分断で、華僑も南北に分かれた。 韓国の華僑は1976年に3万人余りをピークとして次第に減り、現在は2万人を下回っている。 一方1992年の韓中国交正常化で、朝鮮族を中心に中国人が大挙して流入した。 それで以前から暮らしてきた華僑を‶老華僑″、国交正常化以降に入ってきた華僑を‶新華僑″と区分される。

華僑は1960年代まで、中華料理をほとんど独占した。 華僑人口の70%が飲食業に従事するほどだった。 しかし1968年の外国人土地法が改訂で、華僑の営業用店舗土地は50坪を越えることができないと規定された。 事業の拡張や高級料理店の開設が不可能になった。 また中華料理店に対する様々な税金が賦課された。 特に同じ場所で長期間営業する場合、営業年限に比例して税金が加算された。 華僑はこれに怒ってアメリカなどに再移住する場合が多かった。

「絹物商の王さん(1961年の韓国映画の題名)」という言葉があるように、華僑は古くは服地の商売に手腕を発揮した。 当時の絹織物や麻布が中国の特産物であったが、華商の国際貿易網が堅固であり、朝鮮内での販売網も緻密だった。 ほとんど全ての地域で、華僑の反物商が進出していた。 資本は中国の本店が出し、朝鮮では経営責任者を置いた。 その責任者をチャングイ(掌櫃)と言った。 それが「チャンケ」となり、中国人を卑下する俗語となったようだ。 1924年の高関税などの日本の弾圧政策で、華商は衰退した。

洋服店と理髪店も一時華僑が牛耳っていた業種である。 我々より新文物で先駆けていた中国東部地域の出身者たちがいち早く朝鮮に進出し、洋服店や理髪店を開業した。 また華僑たちは朝鮮で需要が爆発し始めた鋳物の釜と靴下も一時独占するようになった。 一方、野菜の産地として有名な山東省の農民たちがインチョンなどに来て、西洋から伝来した野菜を栽培した。

明洞聖堂を始めとして、草創期の有名なカトリック教会の建物が全国的に多くある。 設計はほとんど外国人の神父がやった。 ところで施工を担当したのはほとんど華僑の建築技術者たちだった。 草創期の有名なプロテスタント教会も、華僑技術者たちが建てた。 技術者だけではない。 一般労働者としてもたくさんの華僑が活躍した。 彼らによって賃金が低くなったと思って、朝鮮労働者たちは彼らに反感を持った。 これが後に二回にわたる華僑排斥事件の背景となった。

何よりも華僑社会に衝撃を加えたのは、日本植民地時の二回にわたる華僑排斥事件である。 1927年、全羅北道の益山で、満州の朝鮮人に対する中国官憲の弾圧に抗議する集会が開かれた。 その日の集会参加者たちが華僑の商店に押し寄せて、器物を破壊した。 このような襲撃が全羅南道、ソウル、インチョンなどへ広がっていった。 特に華商の密集地域であるインチョンで、華商たちが多くの被害を受けた。

さらに深刻な事件が1931年に起きた。 ある新聞が吉林省の万宝山近くで朝鮮人農民が中国の官憲たちに殺傷されたという号外を出した。 これに激憤した朝鮮人たちがインチョン、ソウルで華僑を襲撃した。 これが全国に広がっていった。 全国で200人くらいが殺害され、負傷者が続出した。 この時、華商のネットワークがほとんど破壊された。

自分たち同士で一丸となって団結する華僑に対して、朝鮮人の感情は悪かった。 朝鮮人たちは最初からコミュニケ―ションする空間自体がなかった。 当時の経済沈滞で非常に窮乏しており、日帝の支配下で絶望感が深かった。 日帝も巧妙な韓中離間政策を駆使した。 しかしこんな理由で他民族を攻撃・殺傷してもいいとは決してならない。 さらに万宝山の記事の内容は伝聞によるものだけで、実は関係すら分からなかった。 たとえ万宝山でそのようなことがあったとしても、朝鮮に暮らす華僑たちとは何の関係もないものであった。

光復後でも、華僑に対する迫害は続いた。 特に先に指摘したように、外国人土地法によって財産権の制約を受けた。 この制約は1999年になってようやく解除された。 その他にも居住資格や出入国の制約があった。 2002年になってようやく老華僑に永住権が付与されたが、法的地位はそのままだ。 今日の老華僑は、2万人を下回っている。

ソウルの九老区にチャイナタウンがある。 しかし新華僑は主に朝鮮族が中心だ。 もちろんインチョンに有名なチャイナタウンがある。 しかし華僑によって自発的に形成されたものではない。 役所によって観光政策次元で開発(?)されたのである。 一言で言えば、我が国は本当の意味での「チャイナタウンがない国」だと皮肉る。 それくらい華僑を社会的・法的に排除・排斥してきたという意味である。

特に老華僑たちは「韓国で生まれて、韓国で教育を受け、韓国政府に税金を納めている。 それでも蔑視と差別と制約に苦しめられねばならなかった。 韓国人は自分たちが彼らを迫害したという事実すら忘却している。 全国津々浦々に立っている「少女像」を見て、何となく「私たちは善良な被害民族」という満ち足りた(?)思いにとらわれている。 しかしそんな民族的イメージは虚構である。 個人の次元であれ民族の次元であれ、潜在的・実際的に加害者であるという点を考えねばならない。

ところで植民地時代、朝鮮北部の華僑は南部よりはるかに多かった。 北朝鮮地域の労働者需要が多かったためである。 中国が共産化すると、韓国の華僑は故郷(主に山東省)に戻ることができなくなった。 一方、北朝鮮の華僑たちは大挙して帰国した。 残留した華僑たちは、特に野菜生産に頭角を現した。 今日では帰って行った華僑と残留した華僑が互いにネットワークを形成し、朝・中貿易の軸をなしている。

【拙稿参照】

韓国における外国人差別   http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daigojuugodainoichi

合理的な外国人差別は正当である http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daiyonjuukyuudai

在日韓国人と華僑―成美子    http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2018/09/25/8964788

 拙ブログでは以前に韓国の華僑について、昔読んだものを確認せず、うろ覚えのまま書いたことがあります。 やはり間違いが多く、汗顔の至りです。

コメント

_ 海苔訓六 ― 2023/11/07 17:41

韓国観光した時に日本と朝鮮は微妙に違うなと感じたことは沢山ありましたが「全然違うな」と感じたことはそんなに無かったです。
その数少ない「全然違うな」と感じたことのひとつが中華料理でした。
配達でジャージャー麺や酢豚やチャンポンを頼んだのですが、日本のジャージャー麺や酢豚やチャンポンと全然違いました。
韓国での華僑弾圧差別が影響していたのかな?と思いました。いや、日本が日本国内の華僑を差別しなかったのか?といえばそんなこと無かったとは思いますけど。
ブログ主さまの「帰化すれば解決できる格差は正当な外国人差別」という考え方は確かにそうかもと思いました。

_ 海苔訓六 ― 2023/11/11 11:36

民団新聞10/25に韓国のデリバリー経済の歴史が概略載ってました。
1960年代は華僑が中華料理の配達をしていたのが、1970年代後半から華僑弾圧政策の影響で華僑が台湾に移住してしまい、中華料理店で働いていた朝鮮人従業員がそれ以降韓国国内で中華料理店を営むようになった経緯が書かれていました。
韓国の中華料理は日本で普及している中華料理と違うと思いましたが、このあたりの事情が関係しているかもしれません。
ちなみに民譚新聞では華僑が台湾に逃れたのは1970年代に大学入試で華僑が不利益を被る政策がなされたと書いてましたが、それよりも今回の記事で言及されている1968年の外国人土地法改訂で、華僑の営業用店舗土地は50坪を越えることができないと規定された差別の方が原因として大きかったのでは?と感じました。
民団新聞では1968年の外国人土地法改訂に関しては言及してませんでしたが。

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