朴正煕の経済政策(1)―西ドイツからの助言2025/03/07

 韓国の先進国化=経済発展の原点は朴正煕大統領の時代にあるとされています。 朴大統領はいわゆる開発独裁、あるいは輸出主導型とかいろいろ言われているような経済政策を実施しました。 それまで途上国では、輸入代替型経済(輸入を制限し、その代わりに自国生産を優先するもの。「自力更生」とか言われていた)が主流でした。 中国やインド、北朝鮮、インドネシアなどが唱えていましたねえ。 韓国の朴大統領はそんな流れとは反対に、米国や日本など先進国から資本と技術を導入して工業化し、製品を安く輸出することによって経済発展を企図したのでした。 

 当時の北朝鮮や日本の左翼・革新系の人たちは朴大統領の政策について、韓国を日米の従属国にするものだと批判していました。 だから韓国は日米の植民地へと転落し、一部の資本家が儲かるだけで大多数の国民はどんどん貧しくなると言っていましたね。 ところが当時韓国に旅行に行った日本人から話を聞くと、韓国は活気あふれる社会で、経済が発展していることを実感したという話ばかりでした。 また実際に経済統計を見ても、韓国は大きな発展を遂げていたのでした。 つまり朴正煕大統領の経済政策は大成功を収めていたのです。 1960~70年代の朴大統領の時代はこんな感じでした。 従ってこの時代に、それまでの最貧国だった状態から今の先進国への基礎を築いたと言ってもいいでしょう。

 朴大統領は元々が軍人ですから自分でこの経済政策を最初から考え出したはずがなく、日本をモデルとして日本から徹底して学んだとされています。 朴大統領はそれ以外に西ドイツから助言をもらっていたという話がありました。 これは私の知らなかったことで、興味深く感じましたので紹介します。

  『週刊朝鮮』2837号(2024年12月9日~)の「朴正煕 西ドイツ演説60周年 ドイツ留学派の博士 キム・ジョンイン・キム・テクファン 対談」という記事です。 翻訳してみました、

キム・ジョンイン(金鐘仁)前「国民の力」非常対策委員長は、朴正煕がドイツを訪問した1964年、その年に西ドイツのミュンスター大学に留学に行き、その後帰国して西江大学の教授に在職し、財形貯蓄・医療保険の導入を主導した。 西ドイツのボン大学で言論学の修・博士学位を得たキム・テクファン未来転換政策研究院長は、慶尚北道の相談役として朴大統領の西ドイツ演説を記念する扁額をドイツの現地に持って行くという構想を慶尚北道側に提案し、これを実現した。

―今年は朴正煕の西ドイツ訪問60周年だ。朴大統領の訪独の一番大きな成果は?

キム・ジョンイン: 「一番大きな成果は、ルートヴィヒ・エアハルト総理から、経済発展のための色んな助言を得たことだ。 エアハルトは14年間、経済長官をした人で、1958年に経済長官として韓国に行った。 韓国についての概念をある程度持っていた。 朴正煕と西ドイツで会った時、経済発展についての自分の知識をたくさん伝えてくれた。 浦項製鉄所や京釜高速道路がそのようにして始まった。 当初、経済開発5ヵ年計画にこのようなものはなく、朴大統領の頭の中から出て、するようになった。 西ドイツ訪問が自分の頭を整理するきっかけとなったのだ。 そんな側面で、朴大統領は運が良かった。」

キム・テクファン: 「エアハルト総理と会って、西ドイツの経済開発の現場を直接見ることになったのだ。 朴正煕はその時から大韓民国を大改造せねばならないと考えた。 リュプケ西ドイツ大統領と一緒にボンからケルンまで、アウトバーンで移動しながら、京釜高速道路を構想したのが代表的だ。」

―エアハルト総理はどんな人物なのか?

キム・ジョンイン: 「エアハルトは徹底した市場主義者だ。第二次大戦直後、勝戦国らはドイツが復興できないように、配給制・価格統制など完全な計画経済を実施しようとした。 エアハルトはヒットラーの時から、ナチスドイツは直ぐに滅びると見て、経済再建のための方案を肉筆で書いておいた。 エアハルトは当時、米・英合同占領地域の経済責任者だったが、1948年に西ドイツの貨幣改革を断行する時、配給制と価格統制をなくす自分の構想を一度に発表した。 当時の発表で、エアハルトは軍政当局に捕われて訊問を受けたが、「あなたたちが私を処罰する権限はあっても、私の頭の中を変えることはできない」という有名な言葉を残した。 エアハルトは「今東方に共産主義の経済体制が樹立されたが、自由市場経済をしなければ西ドイツも共産化されることになる」と警告した。 結局、軍政当局が6ヶ月間これを受け入れることにして配給制と価格統制を撤回すると、すぐに商品が市場に出てきて、工場の煙突から煙が出始めた。」

キム・テクファン: 「エアハルトが朴大統領に提案したのが「韓日国交正常化」だ。 伝統的に仇敵であったドイツとフランスは1963年に、あの有名な「エリーゼ条約」を締結して敵対関係を清算し、協力を確認する。 10年後には、西ドイツの山林技術者たちが韓国にやってきて、「治山緑化」も始める。 朴大統領は西ドイツでエアハルト総理だけでなく、後日総理になるヴィリー・ブラントなど歴史に残る世界的リーダーたちと西ドイツで出会ったのだ。」

―西ドイツ政府が朴正煕を歓待したわけは?

キム・ジョンイン: 「朴大統領は西ドイツから公共借款で1億5900万マルク(約4000万ドル)を得た。 アメリカが借款を拒否した時だ。 西ドイツは1957年度に既に第二次世界大戦以前の経済水準を回復した。 1950年代末から1960年代初めまでは、国際収支黒字が返って西ドイツ経済を脅かし始めた。 インフレーションを作り、西ドイツ内で人出不足で賃金が上がる現象が現れたのだ。 特に鉱山の方では人手がなく、1960年代初めまでユーゴスラビア、スペイン、甚だしくは日本からも鉱夫たちがやって来た。 韓国の鉱夫たちが行ったのも、実際には特異だったことではない。 病院の看護婦も絶対的に不足していたが、西ベルリンのような所は韓国の看護婦がいなければ病院を運営できなかったくらいだった。」

キム・テクファン: 「西ドイツが韓国を特別に考えた三つの理由がある。 第二次世界大戦が終わり、「冷戦」が当初ベルリンで火を吹くと思われた。 しかし地球の反対側の韓国で冷戦が火を吹き(朝鮮戦争)、西ドイツは三つの利益を得た。 先ず朝鮮戦争の軍需品を西ドイツで作るようになって、経済復興の基盤を準備するようになった。 続いて敗戦国ドイツがNATO(北大西洋条約機構)に加入(1950)して再武装をするようになり、20万のアメリカ軍が西ドイツに駐屯した。 結局西ドイツは韓国のおかげで敗戦国の頸木がなくなり、以降韓国をいいパートナーと考えるようになった。」

―ドイツ派遣の鉱夫と看護婦の賃金が借款の担保となったと言われるが。

キム・ジョンイン: 「一つ正さねばならないところがある。 当時鉱夫や看護婦たちの賃金を担保に借款を借りたと紹介されたことが多いが、これはデタラメだ。 西ドイツは法律上賃金に対して差し押さえはできない。 当時の状況について、ペク・ヨンフン博士(韓国産業開発研究院長)がこう言った。 ドイツは第二次世界大戦の時にヒットラーが罪をたくさん犯した。 だから外国と善隣関係を結ぼうと多くの努力をした。 自分たちも第二次世界大戦以降の「マーシャルプラン」によって経済を復興させた。 エアハルトはこれを誰よりもよく知っていた。 韓国に4000万ドルくらいを貸すのを難しいと考えなかった。」

キム・テクファン: 「韓国から西ドイツに行った鉱夫と看護婦の数は、だいたい2万人程度だ。 このうち三分の一はアメリカ・カナダに行き、三分の一が帰国し、ヨーロッパ各地に散らばった。 アメリカ・カナダに行った人の中には成功した人が多く、ドイツに残った人も多くが中産層になった。 当時の韓国は大家族制度だった。 ドイツ派遣鉱夫と看護婦たちは、韓国にいる家族たちのために韓国に送金した金は、西ドイツが提供した商業借款よりはるかに多い1億ドルを越えて、経済発展の原資となった。 だから産業戦士という言葉を使う。

―「ライン川の奇跡」が「漢江の奇跡」につながったという評価も出ている。

キム・ジョンイン: 「実はエアハルトは「ライン川の奇跡」という言葉を聞くのを一番嫌っていた。 ドイツの国民たちの勤勉性と能力をもって成し遂げたものであって、どんな奴の「奇跡」なのかということだった。 我々も「ライン川の奇跡」に倣って「漢江の奇跡」と言うが、わが国民も一生懸命に働いて成し遂げたのだ。 経済に奇跡はない。 単に政治的な用語として使っているのだ。 ‥‥ 西ドイツ留学を終えて帰国して、朴大統領が社会安定のためのプログラムを作れと言ったので会った。 その過程で医療保険ができた。   (続く)

【拙稿参照】

韓国のドイツ風住宅     https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/10/27/9726921

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