朴正煕の経済政策(1)―西ドイツからの助言2025/03/07

 韓国の先進国化=経済発展の原点は朴正煕大統領の時代にあるとされています。 朴大統領はいわゆる開発独裁、あるいは輸出主導型とかいろいろ言われているような経済政策を実施しました。 それまで途上国では、輸入代替型経済(輸入を制限し、その代わりに自国生産を優先するもの。「自力更生」とか言われていた)が主流でした。 中国やインド、北朝鮮、インドネシアなどが唱えていましたねえ。 韓国の朴大統領はそんな流れとは反対に、米国や日本など先進国から資本と技術を導入して工業化し、製品を安く輸出することによって経済発展を企図したのでした。 

 当時の北朝鮮や日本の左翼・革新系の人たちは朴大統領の政策について、韓国を日米の従属国にするものだと批判していました。 だから韓国は日米の植民地へと転落し、一部の資本家が儲かるだけで大多数の国民はどんどん貧しくなると言っていましたね。 ところが当時韓国に旅行に行った日本人から話を聞くと、韓国は活気あふれる社会で、経済が発展していることを実感したという話ばかりでした。 また実際に経済統計を見ても、韓国は大きな発展を遂げていたのでした。 つまり朴正煕大統領の経済政策は大成功を収めていたのです。 1960~70年代の朴大統領の時代はこんな感じでした。 従ってこの時代に、それまでの最貧国だった状態から今の先進国への基礎を築いたと言ってもいいでしょう。

 朴大統領は元々が軍人ですから自分でこの経済政策を最初から考え出したはずがなく、日本をモデルとして日本から徹底して学んだとされています。 朴大統領はそれ以外に西ドイツから助言をもらっていたという話がありました。 これは私の知らなかったことで、興味深く感じましたので紹介します。

  『週刊朝鮮』2837号(2024年12月9日~)の「朴正煕 西ドイツ演説60周年 ドイツ留学派の博士 キム・ジョンイン・キム・テクファン 対談」という記事です。 翻訳してみました、

キム・ジョンイン(金鐘仁)前「国民の力」非常対策委員長は、朴正煕がドイツを訪問した1964年、その年に西ドイツのミュンスター大学に留学に行き、その後帰国して西江大学の教授に在職し、財形貯蓄・医療保険の導入を主導した。 西ドイツのボン大学で言論学の修・博士学位を得たキム・テクファン未来転換政策研究院長は、慶尚北道の相談役として朴大統領の西ドイツ演説を記念する扁額をドイツの現地に持って行くという構想を慶尚北道側に提案し、これを実現した。

―今年は朴正煕の西ドイツ訪問60周年だ。朴大統領の訪独の一番大きな成果は?

キム・ジョンイン: 「一番大きな成果は、ルートヴィヒ・エアハルト総理から、経済発展のための色んな助言を得たことだ。 エアハルトは14年間、経済長官をした人で、1958年に経済長官として韓国に行った。 韓国についての概念をある程度持っていた。 朴正煕と西ドイツで会った時、経済発展についての自分の知識をたくさん伝えてくれた。 浦項製鉄所や京釜高速道路がそのようにして始まった。 当初、経済開発5ヵ年計画にこのようなものはなく、朴大統領の頭の中から出て、するようになった。 西ドイツ訪問が自分の頭を整理するきっかけとなったのだ。 そんな側面で、朴大統領は運が良かった。」

キム・テクファン: 「エアハルト総理と会って、西ドイツの経済開発の現場を直接見ることになったのだ。 朴正煕はその時から大韓民国を大改造せねばならないと考えた。 リュプケ西ドイツ大統領と一緒にボンからケルンまで、アウトバーンで移動しながら、京釜高速道路を構想したのが代表的だ。」

―エアハルト総理はどんな人物なのか?

キム・ジョンイン: 「エアハルトは徹底した市場主義者だ。第二次大戦直後、勝戦国らはドイツが復興できないように、配給制・価格統制など完全な計画経済を実施しようとした。 エアハルトはヒットラーの時から、ナチスドイツは直ぐに滅びると見て、経済再建のための方案を肉筆で書いておいた。 エアハルトは当時、米・英合同占領地域の経済責任者だったが、1948年に西ドイツの貨幣改革を断行する時、配給制と価格統制をなくす自分の構想を一度に発表した。 当時の発表で、エアハルトは軍政当局に捕われて訊問を受けたが、「あなたたちが私を処罰する権限はあっても、私の頭の中を変えることはできない」という有名な言葉を残した。 エアハルトは「今東方に共産主義の経済体制が樹立されたが、自由市場経済をしなければ西ドイツも共産化されることになる」と警告した。 結局、軍政当局が6ヶ月間これを受け入れることにして配給制と価格統制を撤回すると、すぐに商品が市場に出てきて、工場の煙突から煙が出始めた。」

キム・テクファン: 「エアハルトが朴大統領に提案したのが「韓日国交正常化」だ。 伝統的に仇敵であったドイツとフランスは1963年に、あの有名な「エリーゼ条約」を締結して敵対関係を清算し、協力を確認する。 10年後には、西ドイツの山林技術者たちが韓国にやってきて、「治山緑化」も始める。 朴大統領は西ドイツでエアハルト総理だけでなく、後日総理になるヴィリー・ブラントなど歴史に残る世界的リーダーたちと西ドイツで出会ったのだ。」

―西ドイツ政府が朴正煕を歓待したわけは?

キム・ジョンイン: 「朴大統領は西ドイツから公共借款で1億5900万マルク(約4000万ドル)を得た。 アメリカが借款を拒否した時だ。 西ドイツは1957年度に既に第二次世界大戦以前の経済水準を回復した。 1950年代末から1960年代初めまでは、国際収支黒字が返って西ドイツ経済を脅かし始めた。 インフレーションを作り、西ドイツ内で人出不足で賃金が上がる現象が現れたのだ。 特に鉱山の方では人手がなく、1960年代初めまでユーゴスラビア、スペイン、甚だしくは日本からも鉱夫たちがやって来た。 韓国の鉱夫たちが行ったのも、実際には特異だったことではない。 病院の看護婦も絶対的に不足していたが、西ベルリンのような所は韓国の看護婦がいなければ病院を運営できなかったくらいだった。」

キム・テクファン: 「西ドイツが韓国を特別に考えた三つの理由がある。 第二次世界大戦が終わり、「冷戦」が当初ベルリンで火を吹くと思われた。 しかし地球の反対側の韓国で冷戦が火を吹き(朝鮮戦争)、西ドイツは三つの利益を得た。 先ず朝鮮戦争の軍需品を西ドイツで作るようになって、経済復興の基盤を準備するようになった。 続いて敗戦国ドイツがNATO(北大西洋条約機構)に加入(1950)して再武装をするようになり、20万のアメリカ軍が西ドイツに駐屯した。 結局西ドイツは韓国のおかげで敗戦国の頸木がなくなり、以降韓国をいいパートナーと考えるようになった。」

―ドイツ派遣の鉱夫と看護婦の賃金が借款の担保となったと言われるが。

キム・ジョンイン: 「一つ正さねばならないところがある。 当時鉱夫や看護婦たちの賃金を担保に借款を借りたと紹介されたことが多いが、これはデタラメだ。 西ドイツは法律上賃金に対して差し押さえはできない。 当時の状況について、ペク・ヨンフン博士(韓国産業開発研究院長)がこう言った。 ドイツは第二次世界大戦の時にヒットラーが罪をたくさん犯した。 だから外国と善隣関係を結ぼうと多くの努力をした。 自分たちも第二次世界大戦以降の「マーシャルプラン」によって経済を復興させた。 エアハルトはこれを誰よりもよく知っていた。 韓国に4000万ドルくらいを貸すのを難しいと考えなかった。」

キム・テクファン: 「韓国から西ドイツに行った鉱夫と看護婦の数は、だいたい2万人程度だ。 このうち三分の一はアメリカ・カナダに行き、三分の一が帰国し、ヨーロッパ各地に散らばった。 アメリカ・カナダに行った人の中には成功した人が多く、ドイツに残った人も多くが中産層になった。 当時の韓国は大家族制度だった。 ドイツ派遣鉱夫と看護婦たちは、韓国にいる家族たちのために韓国に送金した金は、西ドイツが提供した商業借款よりはるかに多い1億ドルを越えて、経済発展の原資となった。 だから産業戦士という言葉を使う。

―「ライン川の奇跡」が「漢江の奇跡」につながったという評価も出ている。

キム・ジョンイン: 「実はエアハルトは「ライン川の奇跡」という言葉を聞くのを一番嫌っていた。 ドイツの国民たちの勤勉性と能力をもって成し遂げたものであって、どんな奴の「奇跡」なのかということだった。 我々も「ライン川の奇跡」に倣って「漢江の奇跡」と言うが、わが国民も一生懸命に働いて成し遂げたのだ。 経済に奇跡はない。 単に政治的な用語として使っているのだ。 ‥‥ 西ドイツ留学を終えて帰国して、朴大統領が社会安定のためのプログラムを作れと言ったので会った。 その過程で医療保険ができた。   (続く)

【拙稿参照】

韓国のドイツ風住宅     https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/10/27/9726921

朴正煕の経済政策(2)―医療保険2025/03/12

https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/03/07/9759302 の続きです。

 韓国は経済の発展を元手に、ドイツに学んで医療保険を導入します。 その時に、民主主義よりも社会の安定と産業の発展を優先するという考え方を打ち出します。

―医療保険の導入と関連して、どんな助言をしたのか?

キム・ジョンイン: 「朴大統領の維新体制を見て、どうせ民主主義ができないのだから、ドイツのビスマルク式の社会安定というものでも持って来なければならないと言った。 今のようにやれば絶対安定的な執権は難しいので、新しく登場する産業勢力を包容する政策を展開せねばならないと主張した。 1960年代の「経済開発5ヵ年計画」の時に45万~50万人くらいだった「被雇用者」は、1975年にはもう400万人近くになった。 社会で一番強力な勢力として登場したのだ。 当時の社会を見れば、労使紛争が続けざまに起きていて、学生たちのデモで授業すらできない状況だった。 しかし当時の政府は「絶対貧困を解消してやったので感謝と思わねばならないのに、なぜこのように不満が多いのか」という態度だった。 絶対貧困が解消すれば新しい欲求が出てくる。 その欲求に答えなければ、国民はついてこない。 ビスマルクが社会立法をする時、一番初めに始めたのも医療保険だ。

―どのようにして医療保険導入を朴正熙大統領に説得したのか?

キム・ジョンイン: 「私が1968年にヨーロッパの激しい学生運動を直接見た人間だ。 シャルル・ドゴールは1958年に晴れ晴れしく登場し、近代フランスの土台を作ったが、10年して不名誉に追い払われた。 当時の学生4000~5000人がデモをしたのだが、パリの小商工人や労働者たちが加勢して、パリが一朝にして完全に麻痺した。 結局ドゴールは放送演説を通して「国民が願わないなら、下野しよう」と宣言した。 世の中が変わったのに、変わったことが分からずに1958年と同じことをしていたのだ。 ドゴールの事例をキム・ジョンニョム大統領府秘書室長に話したが、その話がすぐに朴正熙大統領に受け入れられたようだ。」

キム・テクファン: 「ドイツはすでに鉄血宰相のビスマルク総理が1883年、世界最初に労働者たちを対象に医療保険、以降に災害保険および年金を導入し、社会の安定を選んだ。 戦後のコンラート・アデナウアー時代に経済再建と復興に成功したとするなら、1960年代後半のヴィリー・ブラント時代からは成長の果実を等しく分ける社会的市場経済である社会福祉五大保障制度、即ち医療・災害・年金・雇用・介護保険まで最初に導入した。 また大学生の生活費、子ども支援金など福祉天国を作っていった。」

―医療保険導入に反対はなかったのか?

キム・ジョンイン: 「朴大統領の命令で1975年5月から作業を始めた。 毎週金曜日ごとに会議する「金曜会」を作った。 私をはじめ、イ・ギョンシク青瓦台経済首席・シン・ビョンヒョン経済特別補佐官、チョ・スンソウル大学教授、ソ・サンチョル高麗大学教授、チョン・ジョンジン延世大学教授などがメンバーだった。 勤労者社会医療保険を導入しようというと、初めはみんな反対し、私とケンカも本当にたくさんした。 当時一人当たり国民所得が1000ドルにまだ達していないのに、こんなことをするのかということだった。 当時の保健社会部長官は「医療保険をするなら、年金から導入しよう」と主張した。 年金はお金が入ってきて、直ぐに出ていくことがない。」

―朴大統領は反対をどのように乗り越えたのか?

キム・ジョンイン: 「朴大統領は崔圭夏総理を呼び、委員会をまとめて反対する長官たちを抑えて、私の手を挙げてくれた。 結局、保険料をそのつど源泉徴収できる勤労者社会医療保険として始まり、それがうまく回っていったから、みんなが医療保険に入りたがった。 以降、韓国は1989年に全国民医療保険を世界で一番最初に導入した国となった。 社会平和を成し遂げることのできる「福祉」の概念を1976年に初めて導入したのも朴正熙大統領の最大功績だ。」

 日本はすでに1961年に国民健康保険制度を作って全国民の健康保険加入を実現していたのですが、韓国はおそらく日本をモデルにしてドイツからの助言で医療保険制度を整備したのではないかと思われます。

 一方、医療無料を呼号していた北朝鮮は周知のように医療水準が極めて低いままで、病院に行っても賄賂が必要で、それが改善される兆しが全くありませんでした。 韓国が北朝鮮に差をつけて発展した原点は、朴正煕大統領時代にあるのです。

 確か朴大統領の言だったと思いますが、「先建設、後民主」というのがありました。 〝先ず国家の目標は経済を成長させて国を豊かにして国民を健康にすることだ、民主主義なんてその後で考えればいい”という考えですが、今思うと韓国はその通りの歴史を歩んできました。 韓国経済は高度経済成長を続けてオリンピック開催までやり遂げるほどになり、1987年に現在の憲法を制定し民主主義への道を開いたのです。 そうして韓国は今の先進国の地位につきました。 ですから朴正煕は先見の明があったと言わざるを得ませんねえ。      (終わり)

朴正煕の経済政策(1)―西ドイツからの助言 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/03/07/9759302

「通常‐両班社会」と「例外‐軍亊政権」―田中明  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/06/07/9497623

1950~60年代の大阪紡績王―徐甲虎(阪本栄一)2025/03/19

 ちょっと前になりますが、韓国の有力紙『朝鮮日報』2024年7月22日付けに、「〝도쿄의 巨商”서갑호(「東京の豪商」徐甲虎)」と題するコラムがありました。 https://www.chosun.com/opinion/correspondent_column/2024/07/20/2VBILSSERVA4JD7Z3NCK2GUC24/  日本語版は7月27日付けにあります。 https://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2024/07/23/2024072380141.html

 ここに出てくる「徐甲虎」、この名前より日本名の「阪本栄一」の方が懐かしいですね。 思わず読み込んでしまいました。 記事では、彼について次のように書かれています。 

公邸は「東明斎」と命名された。邦林紡績の創業者である故・徐甲虎(ソ・ガプホ)氏(日本名・阪本栄一)の雅号だ。日本による植民地支配下の1915年、慶尚南道蔚州郡に生まれ、14歳で日本に来た当時は飴を売り古紙を集めて資金を貯めた。1948年に設立した紡織会社が急成長し、1950年代に「最も収入を上げる在日韓国人」になった。徐氏が1951年に銀行の資金を借りて敷地を買い入れ、5年間に元利を返済した後、1962年に韓国政府に寄付した。

残念なことに、徐氏が日本に設立した阪本紡績は1974年のオイルショックで経営が揺らいだ。日本の金融機関が融資を回収すると、不渡りを出した。急な資金が必要で韓国政府に支援を求めたが、そっぽを向かれた。徐氏は2年後、ソウルで61歳で死去した。 ‥‥ 徐氏を覚えている韓国人はほとんどいないはずだ。

生前の徐氏は「祖国が恥ずかしい思いをしてはならない」と話していたという。国をようやく取り戻した時代、悲しみを共に耐え抜こうと在日韓国人を励ます一言だったのだろう。「豪商」徐甲虎を記憶する作業に韓国政府はもっと積極的でなければならない。

 徐甲虎は在日韓国・朝鮮人社会だけでなく、祖国の韓国にも大きな功績を残した人でした。 しかし彼が創立した阪本紡績グループは1974年に当時戦後最大といわれる倒産となって、それ以降ほとんど顧みられることがなくなりました。 今は在日でも日本人でも「徐甲虎」「阪本栄一」という名前を聞いて、お年寄りを除いてほとんど知らないでしょう。 

 在日の歴史は〝日本社会で差別と貧困にあえいでいる”とか〝民族受難とそれに対する闘い”に重点が置かれるので、徐甲虎のように日本で成功してお金持ちなったという話はなかなか出てきません。 出てくるとしてもわずかに触れるだけです。 私は特筆すべき人物だと思うのですが‥‥。

 徐甲虎について、何かまとまった解説はないかと探してみたら、朴一さんの著書『<在日>という生き方』に次のようなものがありました。 主なところを一部引用します。

戦後紡績王として名を馳せた徐甲虎は、そうした状況のなかで果敢に本国投資チャレンジした在日コリアンの先駆者である。

1928年、14歳の時、日本にわたった徐甲虎は大阪の商家に丁稚として入り、機織り技術を習得。 その後、アメ売り、廃品回収、タオル工場の油さしなど職業を転々とした後、戦後、軍需物資の売買で一儲けした資金で廃棄同然の紡績機を買い集めて、1948年阪本紡績を設立する。

その後、彼は朝鮮戦争の特需景気にのって企業規模を拡大し、阪本紡績に加えて大阪紡績と常陸紡績を相次いで設立し、徐甲虎は年商300億円を稼ぎ出す西日本最大規模の紡績王として君臨する。 やがて彼は自らの事業を不動産やホテル部門へと拡大。 阪本グループは戦後日本経済の復興を支えた繊維産業における十大紡績の一つに数えられるまでに成長する。

短期間で急成長を遂げた徐の手腕はたちまち財界の評判となった。 1950年度納税額1億3000万円、35歳の若さで大阪府内長者番付トップにのぼりつめ、52年には納税額3億6000万で、全国長者番付第五位を記録するなど、彼の在日コリアンとしての日本でのめざましい活躍は本国でも話題となった。

徐は資金援助を通じて(1961年軍事クーデターによって誕生した)朴政権に接近し、財閥の一つである泰昌紡績を買収して1963年ソウルに邦林紡績(資本金115億円)を設立する。 ついで171億円を投じて、大邱に潤成紡績を新設。 彼の工場で働く韓国の社員は一時4000名に達し、阪本(邦林)グル―プは三星やラッキーとならぶ、六大財閥の一つに数えられるまでになる。 こうして徐は韓国でも文字どおり最大規模の紡績会社のオーナーとなる。 (朴一『<在日>という生き方』講談社選書メチエ 1999年11月 152~153頁)

 このように徐甲虎は、戦後の日本社会の中で大成功を収めたのでした。 何しろ高額納税者トップだったのですから、真っ当に仕事をして儲けたようです。

 ところで戦後の日本では〝在日は差別と貧困にあえいでいる”というイメージが強く、確かに多くの在日はそんな逆境にありました。 しかし一方では、今回取り上げた徐甲虎のような富豪もいたのです。 彼だけでなく、ロッテの辛格浩(重光武雄)も戦後に大成功を収めて富豪になりました。 また後になりますが、ソフトバンクの孫正義も富豪ですね。 こういう事例は在日も能力と努力でもってチャンスをつかめば成功できたということだし、今もそうだということです。 

 ところがそんな大富豪の徐甲虎は1970年代に入って、突如暗転します。

しかしそれも束の間、操業直前の潤成紡績工場を火事で焼失。 資金繰りに失敗し、操業再開の目途が立たず、祖国に280億円も投資しながら徐甲虎は韓国からの撤退を余儀なくされる。

この事件をきっかけに阪本紡績の日本での経営状況も悪化、おりからのオイル・ショックも影響して、1974年、関連会社を含めて640億円の負債を出して阪本グループは倒産する。 この事件は戦後初の大型倒産と騒がれ、日本の紡績会社まで手放さざるを得なくなった徐甲虎は、二度と返り咲くことなく、悲劇の主人のまま他界する。 (同上 153~154頁)

 ちょっと過ぎた言葉を使うことが許されるなら、〝徐甲虎は日本で富豪となって祖国の韓国に貢献しようと大変な努力をしたのだが、逆にむしり取られてしゃぶり尽くされて、最後は捨てられた”ということになりましょうか。 またそこがロッテとの違いということになりますね。 またソフトバンクは、祖国や民団などとは関係なしに独自に成長してきた点で民族企業とは言えないところに特徴があるようです。

 ところで阪本紡績・ロッテ・ソフトバンクの三者の共通点は先に述べたことを繰り返しますが、在日も才能と努力をもってチャンスをつかめば成功するということです。 日本は昔も今も在日が成功することのできる社会だったのです。

【追記】

 産経新聞の黒田勝弘さんは、「韓国は在日韓国人をいじめながら『金づる』として利用」と題する記事のなかで徐甲虎に触れています。 https://www.news-postseven.com/archives/20161028_455942.html?DETAIL 

 この記事の中で昔はそういう話をよく聞いたなあと思い出されたのは、当時の韓国・北朝鮮は国家レベルでも個人レベルでも在日からたくさんのお金を出させていた(たかっていた)というところです。 在日は日本から差別されて苦しい生活を送っていたというイメージがありますが、一方では多くの在日は苦しみながらも祖国に多額のお金を差し出していたという事実があったのです。

 在日が韓国の親戚らにたかられたという話は拙ブログでも取り上げたことがありますので、お読みくだされば幸甚。

玄善允ブログ(2)―在日の錦衣還鄕がトラブルに https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/04/04/9673005

金時鐘氏への疑問(1)―在留資格2025/03/26

 金時鐘さんは在日の著名な詩人であり、日本の各地で講演し、マスコミにもたびたび登場するなど影響力の大きな方です。 しかし私は金さんに対して疑問を抱き、拙ブログで数年間にわたってたびたび呈してきました。 今回はこの疑問をまとめてみました。

①	不法滞在―「在日を生きる」と言いながら強制送還の恐れ

 金時鐘さんは1949年に不法入国したので当初は在留資格を有していなかったのですが、その後に「林大造」名義の米穀通帳と外国人登録証を不正入手して不法に在留資格を取得し、そのまま日本に滞在し続けて現在に至っています。 ですから不法滞在者であり、いつ強制送還されるかも知れない身分です。 金さんの近著『金時鐘コレクション』には、次のように記されています。

出入国管理法は時効がない法律だそうで、私はいつなんとき強制退去させられるかも知れません。‥‥ 強制送還ともなれば、私の人生は予測して余るものでしたので、ひたすら口を噤んでまいりました。 齢ももう取るだけとりましたし、もう覚悟のほどはできております。 (『金時鐘コレクション11』(藤原書店 2023年8月 256・257頁)

 また7年前の2018年(不法入国後70年目)には、次のように語っておられます。                    

2つ目は卑屈であり、いかにも姑息なことでありますが、日本で住むことに執着したあまり、名乗り出ることがはばかられました。 名乗りでるということは、わたしが日本に正当な手続きへずに、いわば不法入国したこと打ち明けることにもなります。 出入国管理令は時効というのがありません。50年たとうと、80年たとうと、日本国の国益に損なうものと認定されれば、いつでも強制送還されます。  

https://magazine.changbi.com/MCMUI/item/641?lang=jp

 このように金時鐘さんは自分が不法入国=不法滞在者であり、「80年たとうと‥‥いつでも強制送還される」ことを認めておられます。 しかしその経過がどうであれ、彼は1973年に公立高校の「教員」に就職した時に、あるいは2003年に韓国の戸籍を作った際にこの不法状態を解消し、合法滞在資格を取得すべきだったのではないでしょうか。 ところが彼はそうせずに不法滞在を続けて、いつ強制送還されてもおかしくない状態のまま今日まで過ごしてこられたのです。

 彼は警察から調査を受けましたが、外国人登録証の「林大造」が本当の名前であり、「金時鐘」はペンネームに過ぎないと言い張ります。

大阪府警外事課の警官がすぐさま問い合わせに来ました。 私の家までです。 登録証の名前(林大造)と「金時鐘」との違いをあれこれ聴いていましたが、「金時鐘」はペンネームだと言い張りました。 (金石範・金時鐘『なぜ書きつづけてきたか なぜ沈黙してきたか』平凡社ライブラリー828 2015年4月 202頁)

 つまり金時鐘さんが警察に供述した自分の経歴は、彼が著作・講演で語っている経歴と全く違っていたのでした。 おそらくその場では、〝自分は戦前からずっと日本に居住し続けている「林大造」という人間であって密入国者ではない、この日本では「金時鐘」というペンネームを使って詩を書いているだけ”と主張したのでしょう。 その時警察は彼の供述が虚偽であるとする証拠を有していなかったので、彼の言い分を認めざるを得なかったと思われます。

 しかし同じような不法滞在の在日の中には、当局に自首して正規の合法滞在許可を得ている人がいます。

> 70代で在学中に入国管理局に出頭、50年以上使った別人の名を返上し、本名を取り戻した ‥‥ 戦後帰国したが再び日本を目指して密航船に乗り、生きるため、別人の女性の外国人登録証を買った。 ‥‥ 自身のルーツを学ぶうち「死ぬ時は本名で」との思いが募った。 「他人の名前で生きていることが、いつも心に引っかかっていた」と文さん。 強制送還も覚悟で自首し、3ヶ月の取調べを経て本名を手にした。 (『毎日新聞』2019年3月7日付「関西夜間中学運動50年史」)  https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2019/03/23/9050390

> 1950年代以降の各時期に密航に成功した韓国人たちが日本で結婚して子をもうけ一家を構えるようになると、〈密航者〉という無権利状態から抜け出すために合法的な在留許可を求めて法務省に当局に出頭した。 許可が得られず家族全員が強制送還となるケースもあったが、日本での定住の事実が確認されれば、晴れて正規の在留許可を得る者もいた。 (水野直樹・文京洙『在日朝鮮人 歴史と現在』岩波新書 2015年1月 216頁)

 金時鐘さんも日本で結婚し定住してきたし、公務員に就職したこともあるのですから、こういった在日のように当局に出頭して法的に清算しておけばよかったのに‥‥と思うのですが、彼はそうせずに今日まで不法滞在のまま、強制送還に怯えながら過ごされてきました。 「怯えながら」と書いたのは、彼自身が次のように述べておられるからです。

もう一つは、ぼく自身の在留資格の問題。 韓国に強制送還されると、生きていけないから。 (金時鐘「朝鮮現代史を生きる詩人」 集英社新書『在日一世の記憶』 2008年10月 所収 566頁)

 これを読めば、金時鐘さんは強制送還に「怯えている」としか言いようがないでしょう。 「在日を生きる」を唱える彼の思想と生活は、「在日」の根拠となる法的地位(在留資格)が極めて不安定な上に営まれており、彼自身それを自覚しながら生きておられるのです。 

 私は彼には〝自分には法律なんて関係ない”とするような信念を期待していました。 なぜなら彼は1971年12月の金嬉老裁判で、証人として次のように語っておられたからです。

個人の心情としては日本の法に対しては不審がいっぱいあります。 ‥‥日本の法が朝鮮人に平等かつ公平であるなどという期待が私にはありません。 正直に言って、私は日本の法律からいきますと前科三犯ないし四犯ほど持っております。 ‥‥ 実感としては、朝鮮人が公平にそういう法の恩恵を受けられるという気持はありません。 (『金時鐘コレクション7』2018年12月 311・312頁)

 金時鐘さんはかつて日本の法廷でこのように法律に挑戦する気持ちを表わしたことがありながら、「強制送還されると生きていけない」と弱音を吐くような言い方をされたので、残念な気持ちです。

 彼はこのように強制送還に怯えながら「在日を生きる」を唱えて生きてこられたのですが、そんな生き方にはやはり疑問を抱かざるを得ません。 そして周囲の金時鐘研究者たちも彼の「在日を生きる」を論じながら、在留資格や不法滞在、強制送還にほとんど言及していないことにも疑問を持ちます。        (続く)

【拙稿参照】

金時鐘氏は不法滞在者なのでは‥(1) https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/10/07/9623500

金時鐘氏は不法滞在者なのでは‥(2)  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/10/12/9624809

金時鐘氏は不法滞在者(3)―なぜ自首しなかったのか http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/10/17/9626078

金時鐘氏への疑問(2)―韓国戸籍・墓参り2025/03/31

https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/03/26/9763626 の続きです。

②	本名で韓国戸籍を作らず―法治国家ではあり得ないが‥‥

 金時鐘さんはもともと本籍地が北朝鮮の元山だったので、韓国には戸籍(今は家族関係登録簿)がありませんでした。 そこで2003年(2004年とする記述もある)に、韓国に就籍(無戸籍者が新たに戸籍を編製すること)しました。 それは本当の本名である「金時鐘」でなく、日本で不法入手した外国人登録証名の「林大造」の戸籍です。 それでは、なぜ本名でない名前で戸籍を作ることができたのでしょうか。 彼は次のように書いておられます。

2004年に韓国籍を取った。 韓国籍も本名で作れなかった。 領事館に尽力いただいて、一代きりの本籍を取得した。‥‥ 済州島に本籍をおいた。 (集英社新書『在日一世の記憶』2008年10月 570~571頁)

当時の在大阪副総領事、情報部の責任者である外交官ですが、親の墓参りを続けたいという僕の思いを殊のほか親身に受け入れてくれて、国籍取得の方法まで講じてくれました。 外国人登録証名での新たな戸籍の取得を大法院に申請して、裁可を受けてくれたのです。 「金時鐘」では、手続きが複雑すぎて駄目だとのことでした。 それでも特別な計らいであったようには思っています。 (金石範・金時鐘『なぜ書きつづけてきたか なぜ沈黙してきたか』平凡社ライブラリー828 2015年4月 201頁)

駐大阪韓国総領事館の配慮もいただいて別掲の「ごあいさつ」文どおり、新たな戸籍と大韓民国国籍を晴れて取得しました。 (『朝鮮と日本に生きる』岩波新書 2015年2月 287頁)

ごあいさつ  謹啓  小生この度、外国人登録書名の「林」でもって韓国の済州島に本籍を取籍しました。‥‥ 敬白   ’03年12月10日 (同上 288頁)

 法治国家ならば、どんなに手間や時間がかかろうが法の筋を通さねばならないものです。 ところが金時鐘さんはそうしないで、「林大造」という赤の他人(あるいは幽霊?)の名前で韓国の戸籍を作られました。 しかもそれが在日韓国領事館から「尽力いただいて」「特別な計らいで」「配慮もいただいて」があったからこそ出来たと言っておられるのです。

 国家の非常事態でもないのに、国の公館が法の筋を通さないなんてことがあり得るのだろうか?という疑問が湧きます。 金時鐘さんだけの特別措置が本当ならば、韓国は果たして法治国家かどうか疑問になります。 その時の韓国は盧武鉉政権でした。 この政権に対する疑問にもつながります。

 

③	 親の墓参りをするのは「金時鐘」ではなく「林大造」

 金時鐘さんは「金鑚国」を父、「金蓮春」を母として朝鮮で生まれ、親から「金時鐘」と名付けてもらいました。 そして1949年の20歳までは、韓国でこの名前を使って生活してこられました。 

 1949年になって日本に密航し、その際に不正入手した外国人登録証にある「林大造」の名前を使ってこれを本名とし、「金時鐘」は通名として生活することになります。 そして1973年に日本の公立高校教員になられました。 さらに2003年に、今度はこの「林大造」の名前で韓国の戸籍を作られました。 その戸籍の父欄には「金鑚国」という本当の父親の名前ではなく、どこの馬の骨か分からず、ひょっとして幽霊かも知れない「林某」という名前が記されているはずです。

 一方、金時鐘さんは前述したように、警察からの問い合わせに対しては「林大造」が本名であり、「金時鐘」はペンネームに過ぎないことで押し通したと言っておられます。 つまり警察には、〝自分は戦前から引き続いて日本に在住してきた「林大造」という人間であって密入国者ではない、4・3事件なんて見たこともない、「金鑚国」「金蓮春」は自分の両親ではない”という説明をしたことになります。 そのあたりの事情は、彼自身が次のように語っておられます。

かく言う私にも二つの名前が併存している。 日本国政府の政令によって保障されている名前(林大造)と、「筆名」という本名(金時鐘)とである。 理由は簡単だ。 出入国管理令が制定された当時の、いわば戦前から持ち越された「米穀通帳」の名がそのまま登記されたことによって、私の本名は副次的な筆名になり変わったのである。 (「日本語のおびえ」 『「在日」のはざまで』平凡社ライブラリー 2001年3月 所収 70頁)

 親から「金時鐘」と名付けてもらい「時鐘(시종-シジョン)」と呼ばれつつ20歳まで育った人物は、日本で戦前から居住し続けてきた「林大造」に変身し、「金時鐘」は筆名=通名になったのです。 「金時鐘」という人間は日本でも韓国でも公式には存在せず、「林大造」だけが存在することになりました。 ですから彼は金時鐘ではなく「林大造」名の韓国パスポートで韓国に入国し、故郷の済州島を訪問して金時鐘の両親の墓参りをすることになります。 別に言えば両親にとっては、他人の名前の戸籍でしかもその父母欄には自分の名前がない人物が息子として自分の墓参りに来ていることになりました。    https://www.asahi.com/articles/ASS2N6JJ9S2HPTIL01V.html 

 このような経過であったと推測できます。 ご両親に深い思いを抱いておられる金時鐘さんはご両親から名付けてくれた「金時鐘」ではなく、ご両親がおそらくご存じない「林大造」名の戸籍とパスポートを持ってご両親の墓参りをすることになったわけです。 その時、心の中に葛藤はなかったのでしょうか? 彼の著作にはそういうことを記したものが見当たらず、また彼の墓参に同行した記者や研究者たちも記事・論文には言及しておらず、疑問を抱くところです。            (続く)

金時鐘氏への疑問(1)―在留資格  https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/03/26/9763626

 

【拙稿参照】

金時鐘『朝鮮と日本に生きる』への疑問 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/07/28/7718112

金時鐘さんの法的身分(続)     http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/08/13/7732281

金時鐘さんの法的身分(続々)   http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/08/26/7750143

金時鐘さんの法的身分(4)    http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/08/31/7762951

本名は「金時鐘」か「林大造」か  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2018/08/23/8948031

金時鐘さんは本名をなぜ語らないのか? http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2019/07/02/9110448  

金時鐘さんは結局語らず      http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2019/08/13/9140433

金時鐘さんが本名を明かしたが‥‥ http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2019/10/26/9169120