朴正煕の経済政策(2)―医療保険2025/03/12

https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/03/07/9759302 の続きです。

 韓国は経済の発展を元手に、ドイツに学んで医療保険を導入します。 その時に、民主主義よりも社会の安定と産業の発展を優先するという考え方を打ち出します。

―医療保険の導入と関連して、どんな助言をしたのか?

キム・ジョンイン: 「朴大統領の維新体制を見て、どうせ民主主義ができないのだから、ドイツのビスマルク式の社会安定というものでも持って来なければならないと言った。 今のようにやれば絶対安定的な執権は難しいので、新しく登場する産業勢力を包容する政策を展開せねばならないと主張した。 1960年代の「経済開発5ヵ年計画」の時に45万~50万人くらいだった「被雇用者」は、1975年にはもう400万人近くになった。 社会で一番強力な勢力として登場したのだ。 当時の社会を見れば、労使紛争が続けざまに起きていて、学生たちのデモで授業すらできない状況だった。 しかし当時の政府は「絶対貧困を解消してやったので感謝と思わねばならないのに、なぜこのように不満が多いのか」という態度だった。 絶対貧困が解消すれば新しい欲求が出てくる。 その欲求に答えなければ、国民はついてこない。 ビスマルクが社会立法をする時、一番初めに始めたのも医療保険だ。

―どのようにして医療保険導入を朴正熙大統領に説得したのか?

キム・ジョンイン: 「私が1968年にヨーロッパの激しい学生運動を直接見た人間だ。 シャルル・ドゴールは1958年に晴れ晴れしく登場し、近代フランスの土台を作ったが、10年して不名誉に追い払われた。 当時の学生4000~5000人がデモをしたのだが、パリの小商工人や労働者たちが加勢して、パリが一朝にして完全に麻痺した。 結局ドゴールは放送演説を通して「国民が願わないなら、下野しよう」と宣言した。 世の中が変わったのに、変わったことが分からずに1958年と同じことをしていたのだ。 ドゴールの事例をキム・ジョンニョム大統領府秘書室長に話したが、その話がすぐに朴正熙大統領に受け入れられたようだ。」

キム・テクファン: 「ドイツはすでに鉄血宰相のビスマルク総理が1883年、世界最初に労働者たちを対象に医療保険、以降に災害保険および年金を導入し、社会の安定を選んだ。 戦後のコンラート・アデナウアー時代に経済再建と復興に成功したとするなら、1960年代後半のヴィリー・ブラント時代からは成長の果実を等しく分ける社会的市場経済である社会福祉五大保障制度、即ち医療・災害・年金・雇用・介護保険まで最初に導入した。 また大学生の生活費、子ども支援金など福祉天国を作っていった。」

―医療保険導入に反対はなかったのか?

キム・ジョンイン: 「朴大統領の命令で1975年5月から作業を始めた。 毎週金曜日ごとに会議する「金曜会」を作った。 私をはじめ、イ・ギョンシク青瓦台経済首席・シン・ビョンヒョン経済特別補佐官、チョ・スンソウル大学教授、ソ・サンチョル高麗大学教授、チョン・ジョンジン延世大学教授などがメンバーだった。 勤労者社会医療保険を導入しようというと、初めはみんな反対し、私とケンカも本当にたくさんした。 当時一人当たり国民所得が1000ドルにまだ達していないのに、こんなことをするのかということだった。 当時の保健社会部長官は「医療保険をするなら、年金から導入しよう」と主張した。 年金はお金が入ってきて、直ぐに出ていくことがない。」

―朴大統領は反対をどのように乗り越えたのか?

キム・ジョンイン: 「朴大統領は崔圭夏総理を呼び、委員会をまとめて反対する長官たちを抑えて、私の手を挙げてくれた。 結局、保険料をそのつど源泉徴収できる勤労者社会医療保険として始まり、それがうまく回っていったから、みんなが医療保険に入りたがった。 以降、韓国は1989年に全国民医療保険を世界で一番最初に導入した国となった。 社会平和を成し遂げることのできる「福祉」の概念を1976年に初めて導入したのも朴正熙大統領の最大功績だ。」

 日本はすでに1961年に国民健康保険制度を作って全国民の健康保険加入を実現していたのですが、韓国はおそらく日本をモデルにしてドイツからの助言で医療保険制度を整備したのではないかと思われます。

 一方、医療無料を呼号していた北朝鮮は周知のように医療水準が極めて低いままで、病院に行っても賄賂が必要で、それが改善される兆しが全くありませんでした。 韓国が北朝鮮に差をつけて発展した原点は、朴正煕大統領時代にあるのです。

 確か朴大統領の言だったと思いますが、「先建設、後民主」というのがありました。 〝先ず国家の目標は経済を成長させて国を豊かにして国民を健康にすることだ、民主主義なんてその後で考えればいい”という考えですが、今思うと韓国はその通りの歴史を歩んできました。 韓国経済は高度経済成長を続けてオリンピック開催までやり遂げるほどになり、1987年に現在の憲法を制定し民主主義への道を開いたのです。 そうして韓国は今の先進国の地位につきました。 ですから朴正煕は先見の明があったと言わざるを得ませんねえ。      (終わり)

朴正煕の経済政策(1)―西ドイツからの助言 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/03/07/9759302

「通常‐両班社会」と「例外‐軍亊政権」―田中明  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/06/07/9497623